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『錦嚢万家節用宝』考 −−合冊という形式的特徴を中心に−− 佐 藤 貴 裕
一 はじめに さきごろ、少々特徴的な節用集を入手した。寛政元(一七八九)年、大坂の書肆・吉文字屋市兵衛開版の美濃判縦本である。表紙の表皮のごとき薄紙の大半は題簽とともに失われ、見返しにある『錦嚢万家節用宝』が、唯一示しうる統一的な書名である。こう書けば奇異に見えるが、本書は、独立した四書−−表紙見返しにしたがえば『人家日々取扱要用之事』『伊呂波分字引節用集』『訓蒙図彙 一名万物絵本大全』『年中行事綱目』−−の合本なのである。 これとは別に特徴的なのは、合冊された四書すべてが、版面を縦三段に分かって印刷されることである。これは、四書が、本来は、美濃判三切本として製本されるべきものを、裁断せずに製本したためのことである。したがって、上中下各段のあいだに、三切本のための余白と裁ち代分の空白がきており、それが美濃判の書籍の版面としては異様にみえる。普通、こうしたことはありえない。三切本であれば三段に裁断・製本するはずであるし、その必要がなければ余分な空白が生じないよう紙面全体を活用するはずだからである。奇妙というほかない。 こうした本書も、一言でいえば、付録付きのイロハ引き節用集であって、当時通行の節用集と変わらないとすることもできよう。しかし、当時の典型的なスタイル−−真草二書体で漢字を表示する辞書本文を、日用教養記事による付録が、前後(巻頭・巻末)・上部(頭書)から包み込み、一体化したように見えるもの−−からは、大きく逸脱するものである。逸脱は、次代に花開く萌芽である場合と、単なる奇形にすぎない場合とがあるが、『錦嚢万家節用宝』がそのいずれであるのか、そうした逸脱がどのような必要からなされたのかを見極めたく思う。もちろん、その検討は、本書を、近世節用集中に位置づけることにもつながるものである。 一方で、本書が、近世節用集研究に寄与するところがあるものと思う。一八世紀の縦型本節用集には、右にしめしたような典型があった。この体裁は、典型だけに多くの節用集が採用し、さらに、頭書を配するのが不利であろう横本にも追随するものがあるほど、影響力の強いものであった。それだけに、研究者も無意識のうちに絶対視し、相対的な検討や評価を下すことがなかったように思う。というより、典型を評価するという発想自体、思いつかなかったというべきかもしれない。そのようななかで『錦嚢万家節用宝』が出現したことは、少々大げさながら、衝撃とも言えそうである。徹底した逸脱が、よりいえば、徹底した逸脱をあっけなく具現化したという事実が、典型に捕らわれた目を覚まし、典型を相対視するきっかけになるのではないかと思うからである。『錦嚢万家節用宝』とは、単なる逸脱として奇矯の名のもとに節用集史の片隅に追われるものではなく、むしろ、中心にすえて、そこから当時の節用集をかえりみるような、いわば逆向きの検討を迫る存在なのではないか、ということである。 このような基本的な見通しがあるわけだが、本稿では、主として『錦嚢万家節用宝』の紹介と、節用集における合本という事態について考え、本書の検討のとりかかりとしたい。 二 『錦嚢万家節用宝』概観 あらためて『錦嚢万家節用宝』を紹介する。 表表紙見返しに合冊各書の内容紹介があり、ついで四書の合冊となる。最後の裏表紙見返しには、吉文字屋の開版書七書の広告と刊記(寛政元巳酉年/心斎橋南四丁目/浪花書舗 吉文字屋市兵衛版)がある。 表表紙見返しの内容紹介を手がかりとして、『錦嚢万家節用宝』の概要を示そう。振り仮名は適宜省略し、句読点を私に補った。引用については以下同様である。 第壹 人家日々取扱要用之事 数々あつむ。則、左の目録をみれバあきらかなり 第貮 伊呂波分字引節用集 黄紙の跖を開き見るべし。字の引様くわしくしるす 第三 訓蒙図彙 一名万物絵本大全 天地のあらゆる事悉く絵にあらわす。第三黄紙に目録あり 第四 年中行事綱目 日本国神社・仏閣・祭礼・斎会・見物事・登山、都て日並にかゝわる事 悉く記す。第四の黄紙に目録あり 黄紙とは、丁子・黄檗などで染色した紙のことだが、それに目録が印刷されるという。目立ちやすい料紙であれば、四書間の境界を明示できるので、利用の便をはかる工夫なのであろう。しかし、架蔵書にはそうした色あいはなく、褪色したのか、はじめからそうした料紙は用いなかったのかも判断がつかない。ただ、黄紙にあたる丁の料紙は、本文よりもやや厚手にはなっており、裏面の文字が透けるようなことはなく、見やすい。 本書の特色の第二として特筆すべきは紙面構成であった。四書ともそうだが、各丁を三段に分かって記事が記されるのである。ただ、現代の辞書類などの三段組ではなく、合冊四書がそれぞれに、本文を初・中・末に三等分したものを三段に配するのである。したがって、本文は段を単位として次丁へ続くことになる。そして、本文の初め三分の一が配された段の最終丁は、中の三分の一が配された段の最初丁へ、その最終丁は末の三分の一が配された最初丁へ連続する。各段の最終丁の続きをみるには、最初の丁に舞い戻らねばならないわけである。 このような本書であるが、その内容は、節用集の広告を翻刻した高梨信博(一九九〇)により、知られていた。 錦嚢満家節用宝 全一冊節用集の広告文といえば、語の増補や仮名遣いの訂正、用字の精選、有益な付録の掲載など、その真偽はさておき、イメージ先行の言辞を連ねたものが多い。が、右の広告文は、きわめて具体的な書きぶりである。ことに「口には・次に・終に」といった順次をしめす語句につづけて内容を紹介するのが印象的である。それも、『錦嚢万家節用宝』の現本を目にした今では、合冊体であるがゆえのことと了解されるのである。 このような『錦嚢万家節用宝』も、一言でいえば付録付きの節用集となる。が、それを合冊という手法で達成しているのが特徴的であった。したがって、本書の位置づけを考えるには、まず合冊による利点を考える必要があろう。そのために、合冊された四書それぞれを詳しく検討しておきたい。ことに、四書がそれぞれ独立的であるといったが、その程度を確認することで『錦嚢万家節用宝』における合冊という事態をより的確に把握できるものと思う。 三 合冊四書概観 人家日々取扱要用之事 本書は二二丁で、三切時の丁付けは、最初丁の「目録」になく、次の「大日本国図」よりはじまるため、最終丁は「六十五」となる。三段への配置は、本文の初中末各三分の一が、それぞれ中・上・下段にあてられる。 本文一丁表中段に「目録」と大書し、その裏に記事名だけ列挙する簡便な目録がある。以下、内容紹介の意味ですべて記してみる。なお、この目録は、各行を上下二段に分かっているが、内容上、それぞれの段で一続きとみられるので段ごとに示す。また、この目録に掲げられた記事と実際の収録記事とは、名称をはじめ、内容も一致しないことがある。ことに、最後の「不成就日」以下の七項は存在しない。 日本の図・近江八景・永代大雑書・和漢歴代・年数一覧・和漢百官名・進物の書法・目録認やう・折方の図・万積物の図・絵馬書様・扇の書様・色紙短冊法・書翰礼式・封文認やう・女中文書法・書翰端書・月の異名・五節句同・書札同・諸文づくし・斤目づくし(以上、目録上段)一見、占いの記事が多く、いわゆる大雑書に似るが、図絵、手紙文や日用の作法、百官名等もあって、当時通行の節用集の付録そのもののような印象を受ける。したがって、一書を内から支える何かを欠くようにも思えるし、序・跋・刊記・内題までないので一書としての形式も整わない。もちろん、序・跋・刊記などは、別の板木で補うこともありうるけれども、単独で刊行された可能性はかなり低いように思われる。 なお、記事中の「年数一覧」の末尾に「各宝暦十二午年までの年数をしるす」とあって、およその成立時期が知られるのは幸いである。やはり吉文字屋の刊行した『文宝節用集』(外題。宝暦一二年刊。米谷隆史氏蔵)が、「人家日々取扱要用之事」と『蠡海節用集』(宝暦一二年再版)の合冊本であるらしく(米谷氏談)、『文宝節用集』を構成するにあたって「人家日々取扱要用之事」が編集されたと推測できるからである。この推測は、「人家日々取扱要用之事」の目録の不備が裏付けてくれる。目録末部の「不成就日」以下七項目は相当する記事が存在しないと言ったが、それらはそのまま、『蠡海節用集』(宝暦一二年版)の巻末付録「不成就日・服忌令・年代六十図・潮汐満干・十干十二支・鬼宿大吉日・願成就日」と一致する。すなわち、「人家日々取扱要用之事」の目録は、合冊した『蠡海節用集』(宝暦一二年版)の付録記事名を記していたのであって、両者の緊密な関係を証しているのである。 以上のことから、「人家日々取扱要用之事」の存在意義は、合冊を前提とするものであって、付録の少ない節用集に、通行の節用集なみの付録を準備・提供することにあったものと考えられるのである。 伊呂波分字引節用集(いろは字引節用集) 黄紙にあたる丁は、「いろは字引節用集目録〔丁附合文〕」との題名こそ三段ぶち抜きで一行に記されるが、イロハ各部部名とその丁付けをしめす部分は、三段に分かたれる。各段冒頭には「此段ノカナ、本文モ此段ヲ開キ字ヲサグルベシ」と注意書きする。つづいて、上段にはテ部からス部および付録類の、中段にはイ部からカ部の、下段にはカ部からテ部の所在が記される。 本文部分は、「字のよみはじめ/字の繰出し様」からはじまる七二丁(美濃判)である。合冊四書中、最も紙数が多く、統一的な書名『錦嚢万家節用宝』に「節用」の名が入るのに符合する。三段への配置は、本文の初中末各三分の一が、それぞれ中・下・上段にあてられる。なお、三切時の丁付けをたどると、冒頭に欠落があることが知られる。最初丁中段は、「字のよみはじめ/字の繰出し様」と「字の引様」の前半が一丁で「口ノ三」と丁付けされ、「字の引様」の後半と「門部の註」が一丁で「口ノ四」となっており、「口ノ一」「口ノ二」がない。ならば、本文を三分し、三段に配する本書としては、三切時の丁付けで都合六丁分の欠落がある計算になる。が、本文中に欠けた丁はなく、丁付けもすべて連続するので、「口ノ一」「口ノ二」は別の板木に刻されたと考えられる。 「口ノ三」「口ノ四」ののち、真草二行体の辞書本文となる。中段から下段・上段へと本文が連続し、上段末に付録がある。「石刻印譜・本朝年鑑六十図・服忌令・潮汐満干・五節句異名・願成就日・鬼宿大吉日・不成就日・相性名頭書判・中花開闢・覚書の哥・諸宗しやうじん日」で、計一二種となる。ただし、このあとに「凡例・小引」が来、相場割(仮称)が配されるので、都合、一三種の付録があることになる。 本書は、辞書本文のあとに付録が来ること自体、一書としての結構を相応に備えているわけだが、本文末尾の「凡例・小引」の存在、「小引」末尾の「天明六丙午年再刻」との刊年の明記、最終丁裏の「心斎橋南四丁目/大坂 吉文字屋市兵衛/同 高田 清兵衛/日本橋通三丁目/江戸 吉文字屋次郎兵衛」との開版書肆の明記など、単独刊行を証するものが完備する。 では、単独刊行された「伊呂波分字引節用集」は何であったのか。書名の手がかりは、内題・柱題ともになく、巻末の「凡例」にも記されない。わずかに「小引」に「即座引ノ虚題ナラザルヲ」(読みくだし)とあるだけである。内容からおせば、冒頭の「字の引様」に「字のよみ終、すべてひく、はねる、すむ、にごる、の四つにもれ申さず候間」云々とあること、続く「門部の註」に「ざつ・天地・人のるい・どうぐいふく・草木くだもの・生るい」と六種の意味分野が記されること、「天明六丙午再刻」の年記などを考え合わせれば、山田忠雄(一九八一下)にいう『急用間合即座引』(真草二行本)天明六年再版本と知られる。これは、亀田次郎文庫の「節用集」と仮称される三切横本天明六年刊本と同一であり、匡郭の切れなどから同板と認められるものである。 訓蒙図彙 一名万物絵本大全 黄紙相当丁には、まず、右端に三段ぶちぬいて「万物絵本訓蒙図彙目録」と記される。残る紙面は、上中下三段に分け、それぞれに記事のありかを記す。各段のはじめには「此段目録本文も此段の丁付の所を出し絵を見るべし」と記し、特異な三段組を周知する配慮がなされている。ただし、示される丁付けは複雑である。たとえば、中段に「人物上 廿七丁目」があるが、これに続くはずの「人物下」は来ず、「山海経 九十三丁目」と記されており、「人物下」は上段の最初に「人物下 三十丁目」と記されるのである。同じような跳躍は、上段・下段にも認められる。このような不都合は、「訓蒙図彙 一名万物絵本大全」が本来上下二巻本であって、上・下巻それぞれが一まとまりに刻されることから来るのである。 目録の次丁から本文になる。全六三丁のうち、初め三五丁が上巻に、残り二八丁分が下巻になる。一丁三段への配分も上巻・下巻ごとになるが、本文の初中末各三分の一が、それぞれ中・上・下段にあてられる点は同じである。 さて、一丁目中段、すなわち三切本時の一丁目(丁付けなし)の表は枠のみとし、裏に「序」を配する。次丁(丁付け「二」)は「凡例」である。内容紹介の意味で、ともに翻刻する。 いにしへより画本の書多く、刊行ハれて誠に世の重宝たり。今此書ハ上天象より下万物迄、悉く其図を正し、各々名義の文字をあらため、彩色の調要をあらハし、あまねく撰ひ集め、万物絵本大全調法記と名付て世にひろむる事しかり(序)三丁目(丁付け「三」)一行に「万物絵本大全調法記」と内題があり、残りの紙面と四丁目表裏に、目録を記す。ただし「巻之上目録」につづけて「巻之下目録」を記している。内容紹介の意味で一九項目すべてを掲げる。なお、各項目の頭にくる「一」字と、項目に続く注記は、煩をいとって省略した。 三国名山図・天象図・地理図・居所図・人物図・身体図・衣服図・宝貨図・器用図(以上、巻之上) 五・六丁目(丁付け「五・六」)に「絵具製法」を載せる。七丁目から新たに丁付けがはじまり、絵本本文となる。上巻・下巻の境界は先に記した通りで、中段部の丁付けで言えば「廿九」を含む丁までが上巻になる。 三切本時の下巻最終丁(丁付けなし)の表には単独刊行されたおりの刊記があり、「画工下村氏/房供書之/元禄六癸酉歳/五月吉旦/書林高屋平右衛門/日本橋南一丁目/江戸 村上源兵衛」とある。「高屋平右衛門」のみ、細く、筆圧の差の弱い書きぶりだが、他は、縦画太く横画細く刻んでいる。この刊記から、単独で刊行されたことが知られる。『国書総目録』に「万物絵本大全調法記 二巻一冊(類)絵画」(読み仮名省略)とするものであろう。 本書については長友千代治(二〇〇一)に論があり、成立・編集に関して次のような見解を示されている。 この『万物絵本大全調法記』は『訓蒙図彙』を、懐中本、すなわちコンパクト版にしたものである。(中略)『万物絵本大全調法記』の巻之上「三国名山之図」、巻之下「山海経之図」の各巻頭の項目を除くと、特殊項目等については若干の削除、また二図三図を同一画面に描くなどの調整はしているものの、全体としては『訓蒙図彙』の掲載順、また事物の描画構図、その名称の正名・異名・和名・俗称等をそのまま踏襲している。『訓蒙図彙』からの抜粋については、「おそらく第一の目的は、凡例の五番目に記す、和歌・連俳の季語を描画によって示すことであったと思われる」との見解と合わせ、両書の出入りを検討され、「日常的に熟知された連俳に無関係な瑣末な事項、あるいは、身体語彙、とくに内臓器官の語彙などは捨てられたと思われる」とされている。 年中行事綱目 黄紙相当丁は、まず三段ぶち抜きで、標題「年中行事」と記し、その下に「日本国神社仏閣祭礼仏事見物事登山すべて月日の定りし事、もらさず記す」と注する。目録部分は、上段最初に「四月八日より八月十五日迄此段に記ス」、中段最初に「正月より四月八日迄此段に記す」、下段最初に「八月十五日より十二月迄此段ニ記ス」と記し、それぞれの段に各月と丁付けを示す。 本文部分は、目録の示す三段の配しかたと齟齬がある。中段に正月から四月までの記事がくるのは一致するが、上段には八月から十二月と付録、下段には四月から八月の記事がくることになる。最初丁表中段は枠のみで、裏中段に「開巻一覧」と称する序がくる。三切にした場合には、この丁が表紙見返しにあてられるのであろう。三切時の丁付けは「序」。なお、「開巻一覧」の記事は左のようである。浅井素封堂は、『国書人名辞典』に「生没年未詳。江戸中期の人」「浅井氏。通称、徳右衛門。号、素封堂」と記される書肆・秋田屋徳右衛門であろう。 夫れ国々の大社又者仏場の行事ハゆへあることなれハ、絶たるハおほやけ是を再興し玉ふ。参詣も此時をこゝろがくべきものか。其格古雅にして見るにそのよし深し。興もこゝにあり「開巻一覧」についで本文になる。丁付けは一から六十六。本文冒頭に「諸国年中行事綱目」との題がある。内容については、目録標題下の注文や「開巻一覧」からも大方は知られるので詳述しないが、まま挿絵のあることのみ触れておく。なお、巻末に付録として「潮汐満干」「略服忌令」を載せる。また、刊記にあたるものはないので、おそらく別の板木に刻されたのでもあろう。 「年中行事綱目」の紙面構成で興味深いのは、美濃判時の丁付けがあることである。三切本にしたときの板心に丁付けがあるのは当然だが、裁断されるまえの、一紙面に三段が配される場合の丁付けが、丁裏の綴じ元中央、言い換えれば丁裏中段の左欄外に記されるのである。帳合いをとるおりの心覚えでもあろうか。 本書が単独で刊行されたことは、比較的容易に知られる。内題「諸国年中行事綱目」を『国書総目録』で検すると、同じ書名の項目があり、編者は高萩安兵衛で、宝暦五年の刊行という。これは、江戸本屋仲間の割印帳に「同亥年(=宝暦五年) 年中行事綱目 墨付六十六丁 高萩安兵衛 全一冊 版元大坂亀屋安兵衛 須原屋茂兵衛」とあり、「墨付六十六丁」も「年中行事綱目」とも一致するので、宝暦五年には単独で刊行されたものと思われる。 四 合冊の利点 以上、見てきたように『錦嚢万家節用宝』に合冊された諸書は、「人家日々取扱要用之事」をのぞけば、単独刊行されたことが確認でき、独立的な存在であったことが確認できた。そうした諸本による合冊だけに、『錦嚢万家節用宝』は、近世節用集のなかでも異彩を放つ内容を持つものになろう。 そのような性格を与えた合冊という手法の利点を考えてみようと思う。もちろん、独立性の高い書籍の合冊であれば、全体としての統一が欠けたり、齟齬をきたしたりなどの欠点もあろう。ことに三切にすべきを裁断しなかったのはその最たるものである。が、現に『錦嚢万家節用宝』は開版されたのだから、そうした欠点は承知のうえでのことであろう。そこで、まずは合冊の利点を考えたいのである。また、この過程で『錦嚢万家節用宝』の性格をより深く理解することになるものと思う。 構成の自由度 考察の手順として当時通行の節用集との比較が欠かせないので、それを簡単に振り返っておく。当時通行の節用集の付録は、巻頭・頭書(辞書本文上欄)・巻末にあって、辞書本文を包み込むように配されている。見方をかえれば、すべての丁に付録があることになり、巻頭と巻末の付録を橋渡しするように頭書の付録があることになる。こうした配し方は、合冊にくらべて、一体感をかもしだしやすく、辞書本文と付録を切り離しがたくも感じさせる。すなわち、辞書と付録とが、融合とまでは言わないものの、一つのまとまりとしての印象を受けやすくしている。いま、そうしたありようを仮に「複合体」と呼び、『錦嚢万家節用宝』のようなものを「合冊体」と呼ぶことにする。 複合体の節用集を編集するには、相応の苦心があったことと思う。購買者の嗜好にあうような編集をするには、右のような構成からして、一から作らなければならず、それはそのまま、経費の増大や利益の縮小を意味するからである。が、これも、合冊体であれば、いとも容易なことである。購買者の嗜好にかなう書籍を取りあわせれば済むからである。もちろん、そのためには、それぞれの書籍の板株を持っている必要があり、少なくとも、板株を持つ書肆との共同出版(相合)ができなければならない また、合冊体なら、売れ行きを見ながら増減することも可能である。『錦嚢万家節用宝』のように四書合冊に手を出しにくい客には三書・二書合冊に、四書では半端だと考える向きには五書・六書合冊にすればよい。こうなると、ただ単に増減するだけでなく、合冊する書籍の組み合わせも自由になる。たとえば、『錦嚢万家節用宝』の「伊呂波分字引節用集」(実は『急用間合即座引』)の検索法は、イロハ・清濁引撥・意義分類が三重になるので複雑である。しかし、合冊体なので、より単純な検索法のものに代えることができる。実際、大阪本屋仲間の記録から『錦嚢万家節用宝』の記述を見返すと、自由な増減や差しかえが行われていたようにみえるものである。 たとえば、寛政二年改正株帳の「錦嚢万家節用宝」の項には、右傍に小字で「年中行事 万物画本大全 正字通 文宝節用 合本外題改」と記される。「年中行事・万物画本大全」はそれぞれ「年中行事綱目」「訓蒙図彙 一名万物絵本大全」だろうが、「文宝節用」が『文宝節用集』ならば、「人家日々取扱要用之事」と『蠡海節用集』の合冊なので実質的には五書合冊となる。「正字通」が増え、『急用間合即座引』を『蠡海節用集』に改めた構成になる。 また、大阪図書出版業組合(一九三六)には、寛政四年八月の開版御願書の控えに「万家節用宝」の名が見える。「錦嚢」がないので別書かもしれないが、本屋仲間の記録類では書名が省略されることがあるので、仮に『錦嚢万家節用宝』と見ておく。これには「万宝即座引之入事、万宝絵本大全、早考節用の三書合本一冊とし、外題相改申度候」とある。「万宝絵本大全」は「訓蒙図彙 一名万物絵本大全」であろう。「早考節用」は『早考節用集』(天明五(一七八五)年刊)で、『急用間合即座引』と差し替えたことが考えられる。残る「万宝即座引之入事」とは、「万宝即座引」という書籍の付録部分の意味なのだが、『錦嚢万家節用宝』の中にそれをさがせば、「人家日々取扱要用之事」と「年中行事綱目」のいずれかか、あるいは両方ということになろうか。 そして、『字典年中重宝選』の存在も興味深い。大阪図書出版業組合(一九三六)によれば吉文字屋により天明六年八月に開版願が出されたもので、その内容は次のようであったらしい。 字典年中重宝選 懐中小本 全一冊「口に・終には」の文言から合冊体と思われる。内容は、『錦嚢万家節用宝』から「訓蒙図彙 一名万物絵本大全」を除いたものに等しい。「懐中小本」とあるので三切本にしたのであろう。ただ、そうすると、かなりの厚みになるので、薄手の料紙を用いるか、辞書本文を行草一行で表示する『早考節用集』『蠡海節用集』『急用間合即座引』(行草一行本)のようなものに差し替えていたかもしれない。 右の諸書は、現存が確認されないものなので確実なことはいえないが、合冊体の可能性は十分に知られると思う。和歌を好むものには百人一首を、学齢期のものには往来物を、日常生活の指針を欲するものには大雑書を合冊すればよい。購買層の要求に、版株と相合の許すかぎりの組み合わせで対応することが、理論的には可能なのである。辞書本文も同様で、検索法を、従来のようにイロハ・意義分類にするか、『急用間合即座引』のように高度・複雑なものにするかも自由である。このように、合冊体は、構成の自由度という点で大きな可能性を有するものなのである。 情報量 複合体の付録は、スペースの制約もあって中途半端な内容になりがちであり、はじめから付録として企画されるから添え物の気味もあったものと考えられる。これに比して、合冊体なら、もともとが独立した書籍なのだから、それぞれの属する分野で一本立ちしており、それだけに内容の豊かさが保証されている面があろう。つまり、複合体の付録記事とは一線を画する充実が期待され、それはそのまま、合冊体の大きな利点でもあろう。 もちろん、内容の豊かさと言っても、あくまで相対的なものである。たとえば、「訓蒙図彙 一名万物絵本大全」には、その書名からも知られ、長友(二〇〇一)の指摘があるように、中村●斎『訓蒙図彙』(二○巻。寛文六(一六六六)年刊)が上位のものとしてある。図版も大きく、本としての威容もある。さらに詳細な解説まで欲するなら、寺島良安『和漢三才図会』(一〇五巻。正徳二(一七一二)年序)があり、これはまさに偉容をほこるものである。これらにくらべれば、「訓蒙図彙 一名万物絵本大全」は、片々たる小冊子でもあろう。しかし、いまは、節用集の付録として考えているのであって、やはり、分量にはおのずと上限があることになる。その範囲でいえば、「訓蒙図彙 一名万物絵本大全」は、十分な読みごたえ見ごたえを持ったものと考えられよう。 ただ、より厳密にそれをいうには、複合体節用集の付録と比較する必要があり、また、それこそが求められるべき検討であろう。幸いにも、恰好の比較対象に『万福節用大乗大尽』(正徳二年刊。山口大学棲息堂文庫蔵)がある。『錦嚢万家節用宝』の開版から七〇年以上もさかのぼり、刊行事情もまったく同じとは言い切れない面があって比較することに躊躇を覚えないではない。が、『万福節用大乗大尽』の頭書には、富士之図からはじまる小型の図絵が掲載されており、それらは図柄・構図とも「訓蒙図彙 一名万物絵本大全」とほとんど同一のため、他に求めがたい好条件を備えているのである。参考としてでも、比較しておく価値はあろうかと思う。 まず、『万福節用大乗大尽』の頭書の画題を、はじめからいくつか示してみる。 富士山・霊鷲山・竹生島・音羽滝・高野山・龍宮・那智山・比叡山・鞍馬山・石山寺・稲荷・神泉苑・厳島・城・麒麟・■豸・■虞・獅子・山豬・野豬・巴蛇・犀・象・熊・貘・虎・豹・豺・狼・狒狒・猿・猴・鹿(以下略)これは、「訓蒙図彙 一名万物絵本大全」の三国名山のほぼすべてを一部順不同に掲げ、天象・居所・人物・山海経各部を省略し、畜獣の多くをかかげ、地理の「城」と山海経の「巴蛇」を補ったものに等しい。こうした抜粋のありようを全体的にみれば、「訓蒙図彙 一名万物絵本大全」の一九項のうち、三国名山・畜獣・禽鳥・龍魚・虫介の多くを掲げ、まま他の部の図を補ったものが『万福節用大乗大尽』頭書の図絵となる。単純な計算をしてみよう。頭書の一丁のスペースは、三切横本一丁の版面にほぼ等しいので、丁数の差が記事の量に比例することになる。すると、『万福節用大乗大尽』三五丁半に対し「訓蒙図彙 一名万物絵本大全」一八三丁分であるから、やはり、専書だけに五倍強の図絵があることになる。それを擁した『錦嚢万家節用宝』の優位も揺るがないことになろう。 ただし、『錦嚢万家節用宝』の場合、単に合冊といっても、本来は三切本であったものの合冊だから、三切本の情報密度を勘案しておく必要がある。判型は小さいながらも、細字などを用いて内容を濃くすることが考えられるからであるが、それを加味すれば『錦嚢万家節用宝』の総丁数に対する情報量は、他の節用集に比して、飛躍的に高いとの予想も可能なところである。 五 吉文字屋による合冊体節用集の展開 合冊体には、複合体にない利点をあることは、前節でみたとおりである。では、それを承知していたであろう吉文字屋は、合冊体節用集を単発的に開版したのか、それとも組織的に多産したのであろうか。この二つの差は大きい。合冊体節用集が『錦嚢万家節用宝』『文宝節用集』だけであれば、気まぐれというべきであって、合冊体の利点への信頼をみずから証することもできない。逆に、多く企画・開版していたのであれば、合冊体への志向の強さや、並々ならぬ決意・期待を読みとることもできることになろう。 そこで、一八世紀後半における、吉文字屋の合冊体節用集の企画・開版を総ざらいしてみたい。便宜、年の順に掲げることとし、現存の確認されるものは刊年に、確認されないのものは記録類の年記にしたがうこととする。 万世節用集広益大成(宝暦六年刊。亀田文庫蔵。ただし、刊記には、吉文字屋以外の書肆名もある)このほかに、寛政二年株帳の節用集の項にみえる『万宝即座引』がある。『錦嚢万家節用宝』裏表紙見返しに「万宝即坐引 懐宝小本 此本ハ日用の重法成事を集めのせ候へハ、万事の用を達す事、本を見て知へし」との広告文があって、「人家日々取扱要用之事」と『急用間合即座引』の合本かと推測される。また、同じ株帳にみえる『万物急用間合即座引』は、「訓蒙図彙 一名万物絵本大全」と『急用間合即座引』の合冊本の書名にふさわしいように思える。が、他に合冊体であるとの根拠がないので掲げなかった。 以上のことから、吉文字屋が、精力的に合冊体節用集に取り組んでいたことが十分に知られよう。一八世紀後半の吉文字屋は、節用集以外にも多くの合冊本を企画・開版しており、むしろその方が多く、節用集と合わせ、他の書肆を寄せつけないほどである。こうした吉文字屋の合冊体の多産が、他の書肆に影響を与えなかったとは考えにくい。単に、合冊体節用集が存在するだけでなく、合冊によって節用集を構成することが特別なことではないとの印象や雰囲気を醸成することもあったろう。また、合冊体の利点は、書肆であれば、当然、気づくはずのものであろう。したがって、次代・一九世紀において、合冊体節用集が他の書肆からも開版されることが考えられることになる。 六 一九世紀における合冊 前節を受けて、一九世紀の、吉文字屋以外の書肆による合冊体をみてみよう。ただし、組織的に調査したわけではなく、筆者の知る範囲のものになるので、今後の調査により未発見のものが数多く出てくるようなら、再度、書き改める部分も出てこよう。その意味では、節用集の合冊について何事かを記すのは、時期尚早ともいえるが、視点を提示しておくことで研究・検討が進むこともあろうかと思う。そうした願いもこめて触れることとする。 字会節用集永代蔵(安政三(一八五六)年ごろ刊。亀田文庫本) まず、複合体の節用集に他書を合冊するという単純なものが考えられるわけだが、意外にも、はっきりした例は少ない。『国書総目録』にみえる『大増節用万宝蔵』(ただし、寛政一一(一七九九)年再版)は『大豊節用寿福海』と『用文筆道往来』を合冊したものらしい。また、江戸本屋仲間の割印帳の『増補節用字海大成』(文化七(一八一〇)年ごろ刊)には「付録/和漢朗詠/雑書大全」とあって合冊体かと疑われる。が、双方とも未見である。 これらを除くと『宝暦大雑書万万載』を合冊した亀田文庫本の『字会節用集永代蔵』が目をひく。なお、別々だったものを旧蔵者が合冊したことも考えられるが、同じ体裁のものが架蔵本(首尾欠)にもあること、そして、その背は、きれいに化粧断ちされていて二冊であった名残りを留めないので、初めから合冊されていたものと考えられる。 倭節用集悉改大全(文政九(一八二六)年、京都・菊屋喜兵衛ほか刊。謙堂文庫本) 本書は、「和漢武将名臣略伝」ほか三〇丁分を巻頭付録中に挿入するものである。架蔵本にはその部分がなく、ニ種の異本があることになる。ただし、両書の目録は同一で、挿入箇所である「大日本之図」と「改正御武鑑」のあいだには、挿入の事実が反映されていない。なお、「大日本之図」と「改正御武鑑」は一四丁めの表と裏に当たるため、「和漢武将名臣略伝」の挿入にあたっては、半丁分ずつ彫り改めたようである。そして、この挿入により、丁付けも変調をきたしている。「大日本之図」と「和漢武将名臣略伝」の丁は「武ノ壱 一四」のように新旧併記し、それ以降「武ノ二」から「武ノ三十」まできて、挿入部最終丁は影印本によるので定かでないが、「武ノ卅一 十四」のごとく見える。次丁からは「十五」以下となって本来の丁付けになるのである。 それにしても、この挿入の例は不自然である。改刻、丁付けの変調、目録の不備、そして三〇〇丁を超える大部なものに僅々三〇丁ほどのものをあえて挿入することなど、理解に苦しむ点が多い。逆に、だからこそ、挿入という手法を考えるにあたって、注目に値するということもあろうか。 玉海節用字林蔵(文政元(一八一八)年、大坂・秋田屋太右衛門ほか刊。亀田文庫本) 本書の構成は次のようであり、柱題に注目すると、複合体の節用集の複数箇所に付録類を挿入するものである。なお、状態のよくない本書をマイクロフィルムで見たため、丁付けの確認ができない部分がある。 イ 十三門部分絵ほか『玉海節用字林蔵』の頭書「大倭年代皇記」の最新年は「延享二年」(一七四五)なので、七〇年以上もまえの本に、付録を挿入して新たに開版したことになる。柱題の異同をみればかなり露骨な挿入と思われ、それだけにプリミティブなありようともいえ、興味深い。また、挿入箇所が複数であることも手伝って、複合体の節用集というよりは、合冊体と見た方が分かりやすいほどの変わりぶりとなっている。 字宝早引節用集(安政四(一八五七)年、江戸・吉田屋文三郎刊。架蔵) 本書は、早引節用集ではあるが、美濃半切縦本の紙面を利用し、辞書本文頭書に付録を配している。いわば、複合体節用集の辞書本文を早引節用集にさしかえたようなものである。構成は次のようである。 イ 序・目録等 ………………………………………………… 丁付けなし(三丁分) ロ 夢はんじ・安政年代記など ……………………………… 一〜五〇 ハ 魚類精進当世料理 ………………………………………… 一〜一五 ニ 標目・文字引様・字宝早引節用集(辞書本文)等 …… 目・一〜百二十二 ホ 商売往来・年始状等 ……………………………………… 一〜四十八 本書には、ニだけで構成された異本もあり、それを合わせ考えると、右の構成は相応に練られものと思われる。すなわち、合冊・挿入といえば増補を思い浮かべやすいが、合冊体なら一部を間引いて、安価に販売することも考えられるわけであって、そうした利点をいかすための構成と思われるのである。 まず、ロ以下でそれぞれに丁付けを改めるのは、いかにも合冊体的だが、これも、ニ種の異本を生み出すには有利であろう。ロ・ハ・ホのうち、一つないし二つを間引いても一書となるからである。また、版心に注目するとイ〜ホすべての丁に同じ書体で「萬代」とあって、間引いても合冊しても統一感が失われないようになっている。 本書では、さきに見た単純・不自然な合冊・挿入とは次元のことなる周到な配慮があるように思われ、注目に値する。ただし、「目録」は、別立ての丁付けをそのまま記すので混乱しやすく、この点は『錦嚢万家節用宝』ように各部分の境界を明示した方がまさっていよう。 万世早引増字節用集(文久三(一八六三)年、江戸・吉田屋文三郎刊。亀田文庫本) 本書は、横本の早引節用集なので、これまでの例と異なる部分もあるが、より一層洗練された点もあるので、採りあげる。構成は次のようである。 イ 序・目録・士農工商之図などの付録 …………………… 口ノ一〜口ノ五十四(丁付け。以下同)
ロ 万世早引増字節用集序・文字引様見方 ………………… 口ノ一・口ノ二ハ 万世早引増字節用集(辞書本文) ……………………… 一〜五百八十四 ニ 年代記・武家諸役名目抄などの付録 …………………… 五百八十五〜八百四十 版心も、魚尾の形式・柱題(早引増字)・丁付け(「○」下に丁数)など、すべての丁に共通するので統一感がある。ロ・ハで丁付けが改まるのは合冊体的で、統一感を欠くようにも見えるが、辞書本文から丁付けを改めるのは複合体節用集にも例がある。また、本書は美濃判半切横本の早引節用集のため、ハでは辞書本文だけが紙面にあり、絵図を中心としたイとは視覚印象も変わるので、丁付けの改まりもさして不自然ではないかもしれない。 複合体節用集なら巻頭付録が厚く巻末付録が薄くなるが、本書では逆の配分になるのが興味深い。その理由は、ハとニの丁付けが連続することと関係しそうである。本書は外見だけでもかなりの存在感があるが、丁付けを連続させて「八百四十」という大きな数字にすることで、購買者に偉容を明示する意図があったかもしれない。これは、何も、当て推量で言うのではない。『大日本永代節用無尽蔵』嘉永二年刊本の最終丁は、本来「三百廿一」あるいは「三百二十一」とでも記すところを、「口画百十四丁 本文奥合四百卅五丁」と総丁数を記している。そうする必然性を考えるとき、筆者には、右のような書肆のテクニックがまず思い浮かぶのである。このような意図があるなら、連続した丁数は大きいほどよく、そのために巻末の付録を厚くしたと考えられるのである。 ならば、巻頭付録の丁付けも連続させた方が効果的にみえるが、間引きを前提とするなら、かえって不都合である。本書にはロ・ハだけで構成した異本があるが、丁付けが連続していては最初の丁が「五十七」となり、いかにも不自然である。逆に、巻末付録(ニ)は取り去れるのだから、丁付けが連続していても何ら問題ないのである。 吉田屋は、はじめから二種類の『万世早引増字節用集』を準備し、販売していたことが知られる。本書は、実は版権侵害の書であり、慶応元年閏五月には売留の通達が出されている。幸い、そのなかに本書の体裁を記した部分があり、大坂本屋仲間記録の「仲間触出留」では「一 万世早引増字節用集 江戸板全壱冊/一 同 雑書入 同(=江戸板) 全弐冊」とあるのである。このように見ると、本書の丁付けの連続と改まりは、二タイプの異本を準備した上でのことと確認でき、周到な配慮が込められていたことが明らかになるのである。 七 おわりに 右に、一九世紀の節用集の合冊・挿入を見てきた。粗野なものもあったが、洗練されたものもあり、合冊体の利点が相応に吸収・消化されていることが確認できた。これらの例は、ともすると、一九世紀にもなれば種々の試みがなされるであろう、と漠然と捉えられてきた事例だったのではないか。しかし、そのように、諸事例・現象が自然発生的に起こるとみるのは、節用集諸本の消長の説明まで求める記述研究の視点からは採りがたい態度である。が、幸いにも、合冊・挿入の端緒が、吉文字屋の一連のいとなみにある可能性を指摘できた。大きな収穫だと思う。 しかしながら、一九世紀の合冊・挿入を、一八世紀後半の吉文字屋のいとなみに直結できるかといえば、未だしの感もある。両者を因果の関係で結ぶ理由は、いまのところ、時代の先後関係しかなく、決定的ななにごとかを欠いているからである。いまは、可能性としてでも提示できたことに満足し、今後の調査・検討にまつこととしたい。 決定的な徴証を提示できないのは、一九世紀の合冊体の例が案外に少ないことも影響していよう。逆に、そこから、なぜ、一九世紀にいたっても複合体を採りつづけるのか、という疑問も発せられることになる。もちろん、この疑問は、合冊体の利点や吉文字屋の展開があったにもかかわらず、との注記を含めて発せられるものである。 一つには、複合体が典型的なスタイルだったから、ということがあろう。俗に「形から入る」というが、一目見て節用集とわかるスタイルをまとえば、その本は、容易に節用集になりうる。また、典型的なスタイルならば、購買者にも体裁のイメージは醸成されているだろうから、受け入れられやすくもある。つまり、典型的な複合体を採ることは、安心して出版・販売ができることを意味するのである。もちろん、そうした典型のありがたみを書肆たちが自覚していたかどうかは、また別のことである。典型が、通念・常識の域にまで達していて、それに反するものに出くわして初めて意識されるという状態だったのではなかろうか。そうした典型の在り方が二つめの回答になる。通念だからこそ、典型のスタイルを無批判に踏襲することができた、ということである。それだけに、複合体という典型のスタイルが、いかに根強いものであったかを知ることにもなるわけである。 数のうえでは必ずしも十分な展開を見なかったらしい合冊体節用集だが、その存在を契機に、右のように典型への疑問を持つことができ、典型の質的な有りようにも触れられたのは、やはり収穫だと思う。それだけでも、合冊体節用集の存在価値はあり、検討に値する存在でもあると思っている。 以上、合冊という手法とその展開を中心に見てきたわけだが、きっかけとなった『錦嚢万家節用宝』の具体的な部分での評価、ことに合冊ゆえの欠点などは棚上げするかたちになった。この点は、幕末の節用集における洗練された、擬似的合冊体とでもいうべきものに触れた以上、早い時期に検討したいと思っている。 [注]*本稿をなすにあたり、米谷隆史氏より、長友千代治(二〇〇一)に『万物絵本大全』の記述があることや、『文宝節用集』の存在について教示を受けた。記して謝意を表する。 (二〇〇一・六・二一稿)
佐藤喜代治編『国語論究』9(2001)掲載予定 |