案内
 ちょっと変な節用集を入手しました。4書合冊という、あまりに変な本です。そのため、あちこち変な部分が。その変さ加減を、いろいろな点から考えてみました。



『錦嚢万家節用宝』考 
−−不整合の解釈−−


 佐 藤  貴 裕

はじめに

 佐藤(二〇〇二)において、架蔵する『錦嚢万家節用宝』の紹介とともに、当時では例外的な合冊という手法とその価値を中心に見、これを契機として合冊体節用集という存在に注目した。が、紙数の都合もあって「きっかけとなった『錦嚢万家節用宝』の具体的な部分での評価、ことに合冊ゆえの欠点などは棚上げする」こととなった。本稿は、その棚上げした部分を検討し、前稿を補おうとするものである。
 本稿を読むには、前稿と読み合わせる必要があるが、いま、本稿だけでも読みうるよう、必要最小限の範囲で『錦嚢万家節用宝』の概要を示しておく。
 書名──錦嚢万家節用宝(見返し。他に統一的書名なし)。
 刊記──寛政元巳酉年/心斎橋南四丁目/浪花書舗 吉文字屋市兵衛板
 体裁──美濃判縦本。左記四書を合して一冊とする。四書間に「黄紙」
   と呼ぶ料紙を挿入し、境界とする一方で、目録の役を兼ねる。四書
   とも、本来、三切横本ながら、裁断せずに美濃判のまま製本。
 内容──合冊諸本は次の通り。
  人家日々取扱要用之事(見返し)
   吉文字屋刊『文宝節用集』(外題。宝暦一二年刊)付録部の再版。
  伊呂波分字引節用集(見返し)
   目録部での書名は「いろは字引節用集」。吉文字屋刊『急用間合即
   座引』(外題。天明六年再版)の再版。
  訓蒙図彙 一名万物絵本大全(見返し)
   目録部では「万物絵本訓蒙図彙」。高屋平右衛門・村上源兵衛刊『
   万物絵本大全調法記』(内題。元禄六年刊。上下二巻)の再版。
  年中行事綱目(見返し)
   目録部では「年中行事」。亀屋安兵衛・須原屋茂兵衛刊『諸国年中
   行事綱目』(内題。宝暦五年刊)の再版。東京都立中央図書館蔵本
   などによれば、本来の編者・序者は高萩安兵衛と思われるが、「浅
   井素封堂(浅井徳右衛門=書肆・秋田屋徳右衛門)」に改める。
 右のように『錦嚢万家節用宝』は、合冊という自由度の高い方法で節用集に多くの本格的な付録を付し、一冊にまとめたものといえる。ただし、合冊された書籍はいずれも『錦嚢万家節用宝』として合冊されることを想定したものではないので、齟齬を来してしまう部分がある。さらに、後述のように書肆による単純なミスや重大な計画変更もあって、近世節用集中における位置を捉えにくくもしている。
 本稿では、『錦嚢万家節用宝』に対する過不足ない評価・位置づけを行なうべく、それらの齟齬や欠陥などの不整合がどのような経緯で生じたかを考察するものである。

一 不整合一覧

 『錦嚢万家節用宝』にはどのような不整合が見られるのか、合冊に起因するものに限らず、まずは一覧しておきたい。
(一)開版手続きの先後
 『錦嚢万家節用宝』の開版は刊記によれば寛政元年だが、大坂本屋仲間の新板願出印形帳には「万家節用宝」の名が見え、寛政四年八月に出願したことになっている。この願書が『錦嚢万家節用宝』のものとすれば、願書よりも開版の方が先になる点、不審である。
 ただし、新板願出印形帳には「万宝即座引之入事/万宝絵本大全/早考節用/右三書合本一冊」とあり、現『錦嚢万家節用宝』の構成と異なる部分があるので別書と考える余地がある。ことに、節用集本文が『急用間合即座引』ではなく、「早考節用」(『早考節用集』天明五(一七八五)年刊)であるのが整合しない。しかし、後述のように、本来は『早考節用集』が合冊されるはずだったらしく、そのことを考えれば、この願書は『錦嚢万家節用宝』の本来の有りように近いものと考えられる。また、他に『錦嚢万家節用宝』の願書に相当するものがあるわけではないので、この願書が現『錦嚢万家節用宝』のものである可能性は消えない。
(二)新板願出印形帳の年記
 右に「寛政四年八月に出願したことになっている」と不明確な書きかたをしたが、これは願書自体に年記がないためである。影印本によれば、前後に配された他書の願書には、ともに寛政四年八月とあるため、これにしたがったのである。厳密にいえば、寛政四年八月のところに「万家節用宝」の願書はあるが、それ以前に、たとえば『錦嚢万家節用宝』に記された寛政元年以前に書かれた可能性がないわけではない。つまり、文書を整理する段階で寛政四年八月のところに紛れ込んだことが考えられるのである。とすれば、右記(一)開版手続きの先後の問題は、解消される可能性もないわけではないことになる。
 なお、大坂本屋仲間行司の業務日誌である出勤帳を確認したが、寛政四年八月分については簡略に記されているため、詳細が知られない。また、江戸本屋仲間の割印帳にも『錦嚢万家節用宝』はみいだせない。
(三)三切本の不裁断製本
 『錦嚢万家節用宝』では、本来三切本である書籍を裁断せずに製本したため、本文は美濃判の版面を三段に分かって印刷される。そのため、本文の流れは、『伊呂波分字引節用集』を例にとれば
  中段初丁↓中段末丁↓下段初丁↓下段末丁↓上段初丁↓上段末丁
と不自然なものになっている。
(四)記事の重複
 独立的な書籍を合冊したために、内容が重複するものがある。
@『伊呂波分字引節用集』の巻末付録に「服忌令・潮汐満干」があるが、これは『年中行事綱目』の巻末付録「潮汐満干・略服忌令」と重複する。
A『伊呂波分字引節用集』の「石刻印譜・五節句異名・相性名頭書判・中花開闢・諸宗精進日」は、『人家日々取扱要用之事』の「石刻印譜・十二月五節句異名・相性名頭書判・中花開闢・諸宗精進日」と重複する。ただし、「石刻印譜」(印影集)については、二書それぞれに収められた印影自体は重複しないので収載する価値はあることになる。ただし、合冊とはいえ、一書のなかに同名同旨の付録が離れて存するのは不体裁である。
(五)目録での不備
 『錦嚢万家節用宝』に合冊された四書はそれぞれに独立的な存在なので、どこからどこまでが当該書であるかを明示する必要がある。また、三切本を裁断せずに製本したため、本文の流れ方が不自然になっている。これらに対応するため、各書間の境界と目次を兼ねた「黄紙」と称する丁を設ける。が、かならずしも有効に機能してはいない。
@『人家日々取扱要用之事』には黄紙がない。『錦嚢万家節用宝』の最初に位置するので境界表示は不要だが、三切不裁断の本文なのだから丁付け目録まで不要なのではない。にもかかわらず、三切時の目録だけで済ませているのは不審である。しかも、三切時の目録は丁付けを示さず、標目も簡略なので検索の便は得にくい。
Aまた、『人家日々取扱要用之事』の目録末尾の挙げられた七項目「不成就日・服忌令・年歴六十図・しほの満干・十干十二支・鬼宿吉日・願成就日」に相当するものが存在しない。これは前稿にも記したが、『人家日々取扱要用之事』が、『文宝節用集』(外題。宝暦一二年刊)として『蠡海節用集』と合冊されるために編集されたからである。すなわち、『蠡海節用集』巻末に「不成就日・服忌令・年代六十図・潮汐満干・十干十二支・鬼宿大吉日・願成就日」として七項目があり、それを先取りして『人家日々取扱要用之事』の目録に含めたものと考えられた。これを『錦嚢万家節用宝』に合冊したため、不都合が生じたのである。
B『年中行事綱目』の目録には、上段と下段の内容を取り違えて記す単純なミスがある。
(六)『伊呂波分字引節用集』目録における丁付けの齟齬
 目録の丁付けが、本文の丁付けとまったく一致しない。検討の結果、目録の丁付けは、天明五(一七八五)年刊『早考節用集』の本文とほぼ一致することが分かった。このことから、当初は『早考節用集』が合冊される予定だったと考えられる。となれば、右記(一)の新板願出印形帳にみえる「早考節用」を合冊するのが本来の形であること、何らかの事情により、急遽『急用間合即座引』に差し替えられたことが推測される。この件については、目録の異同なので前項(五)に含めてもよいのだが、構成上、重要かと捉え、別項とした。
(七)書名「伊呂波分字引節用集」
 目録にある「いろは字引節用集」にしても、はなはだ簡略な書名である。また、要素「伊呂波分(いろは)・字引・節用集」をみると、当時の節用集はイロハ引きの字引なので重言となってしまう。また、統一的な書名『錦嚢万家節用宝』とまったく異なるのも問題となろうか。

 おおむね、右のような問題点があるのだが、これだけでも『錦嚢万家節用宝』が商品としての整然さがないことは知られるかと思う。もちろん、それは、版元・吉文字屋も承知のことであったろうが、そのうえで、開版に踏み切った事情・背景を考えてみたい。
 右記(一)〜(七)は、検討のための準備状況はまちまちである。(一)(二)は資料にめぐまれないため、右記以上に検討することは困難である。(四)(五)については、ほぼ記しえたことと思う。したがって、残る(三)(六)(七)について検討することとする。

二 三切不裁断製本

特徴と不都合
 前稿では、合冊という手法を重視したため、もうひとつの大きな特徴である三切不裁断製本については、ほとんど触れられなかった。そこで、不整合の検討に先立って、三切本の刻み方をめぐることがらに触れておく。
 まず、『錦嚢万家節用宝』によって、三切本の版木の製作がどのようなものであったかが知られるのは興味深い。合冊された四書とも、本文を三分して三段に配するので(以下「三分三段配置」と言う)、当時においては、そうした刻し方が通例だったのであろう。また、本文の初め三分の一が中段に来る点は四書に共通しており、これもまた通例だったかと思われる。ただし、本文中部・末部が、上段・下段のどちらに配されるかは一定していない。
 なぜこうした配し方になるか、確かなところは分からないが、実際に三切横本を製本する工程を思えば一つの可能性を示せそうである。一丁ごとに裁断することも考えられるが、段ごとに本文が連続することを思えば、裁断する前に丁合いを終え、その時点で仮綴じした方が能率的である。段ごとに裁断し、できた三つの冊子を順次積み重ねれば、そのまま製本できるからである(図版一参照)。このような工程で三切本が製本されたなら、本文の初め三分の一を中段に配したことが生きてくる。中段の上辺を裁つときは上段下辺の余白を案配しながら、中段下辺を裁つときは下段上辺の余白を案配しながら裁つことになる。もちろん、同時に中段自体の上辺・下辺の余白も案配するが、このとき、中段の裁ち幅を、製本後の化粧裁ちと同じか極く近いようにすると一層効率がよい。中段は、本文の初めの部分なのだから三つの冊子を重ねたときに一番上に来るので、化粧断ちでは、この中段部を定規がわりできるからである。こう考えると、中段は、上下段の裁ち方とともに、全体の裁ち方の基準を決める唯一の段であることになる。したがって、本の先頭部である本文初めの三分の一が中段にこなければならないのではなかろうか。逆に、残る中・末の三分の一は、上段であっても下段であっても構わないことになる。このことは、先に述べた三分三段配置の上段・下段に配される本文が、中・末の三分の一のいずれであるか一定しないことの説明にもなっている。このように、三分三段配置の特異な配し方は、裁断・製本までを考慮した周到なものであったと推測されるのである。
 こうした配し方がいつからあったかにも興味が向く。合冊四書のうち、『訓蒙図彙 一名万物絵本大全』は元禄六年、『年中行事綱目』は宝暦六年、『伊呂波分字引節用集』は天明六年であり、『人家日々取扱要用之事』は宝暦一二年の刊行と考えられた。したがって、遅くとも一七世紀末には三分三段配置が採られていたことになる。おそらくは、これ以前の半切本・三切本など、小型の判型のものは同様の刻し方をしていたのではなかろうか。ただし、本文初めの三分の一が中段に来るというスタイルは、後に変更があったらしい。山田忠雄(一九八一)の口絵には『鮮明いろは字引』(柱題)の銅版一枚の写真が掲げられるが、丁付けは上段から「五十三・百十八・二百八十三」と見え、本文の初・中・末の三分の一は、それぞれ上・中・下に配されるのである。
 右のように推測される本文三分三段配置の特徴からすれば、『錦嚢万家節用宝』合冊四書は、やはり三切にすることが前提で作られた書籍であって、三切にしない美濃判のままでは不自然なものである。以下、繰り返しになる部分もあるが、その不自然さについて確認しておきたい。
 三切にしない場合、本文の流れは丁よりも段を優先して進むことになること、ことに本文初めの三分の一が中段に来るのが不自然であった。やはり、上から下へと流れるのが自然であろうから。さらに、『錦嚢万家節用宝』合冊四書では、本文中・末の三分の一の位置が上段にくるか下段にくるかで一定しないため、混乱しかねないものだった。事実、『年中行事綱目』の目録で上段と下段をとりちがえるなど、書肆自身ですらミスをおかすほどのものであったのである。
 この種の複雑さは『訓蒙図彙 一名万物絵本大全』で頂点に達する。というのは、上巻・下巻それぞれを単位として版木が作られているためである。本文の流れを模式的に示せば次のようになる。「〜」は同じ段での連続を、「↓」は末丁から初丁へ戻ることを、「⇒」は上巻から下巻へ移ることを示す。
  上巻中段初丁〜末丁 ↓ 上段初丁〜末丁 ↓ 下段初丁〜末丁 ⇒
  下巻中段初丁〜末丁 ↓ 上段初丁〜末丁 ↓ 下段初丁〜末丁
 つまり、一冊本の場合の三分三段配置の複雑さが、二巻構成のために倍加されるのである。いや、中段・上段・下段という本文の流れが下巻の初めから再び改まることにより、本文の続き具合とともに更改部をも意識する必要がある。しかも、その上下巻の境界は、注意しなければ見過ごしかねないものなので(図版二参照)、利用者の心理的な負担は倍加どころではなかったはずである。いっそ、上下巻のあいだに黄紙を設け、それぞれに目録を作った方が利用しやすかったことであろう。もちろん、『訓蒙図彙 一名万物絵本大全』の目録には丁付けが記してあるので、相応に円滑な検索ができることになる。が、本文の複雑な進み方を反映したものであった。たとえば、目録上段の「道具上 五十八丁目」の左隣には「道具下」があってほしいが、その位置には、下巻の「魚下 百廿一丁目」が来ており、「道具下」は下段の最初に配されるのである(図版三参照)。もちろん、そのような目録ではあっても、なければ困るものではある。
踏み切る条件
 このように三切不裁断製本は煩雑なだけで、利用者にとって利点となるところがない。それだけに、なにゆえ、開版に踏み切れたのかが問われることになる。この問いは素朴ではあるが、『錦嚢万家節用宝』を見たもの誰しもがもつ疑問であろうし、その答えを求めたくも思う。以下、三切不裁断製本をうながした要因なり条件なりをことあげしてみよう。
 まず、三切に裁断しないことの利点を考えてみよう。たとえば、裁断しないことで手間・経費がはぶけるということはあったであろう。詳しくは綴じ紐の長さによる経費如何などについて正確な数字が必要だが、手間の上では、小さな三切よりは、美濃判の製本の方がしやすいようにも思う。ただ、この程度の経費が負担できないようでは、書肆の経営は成り立たないようにも思われる。あくまで印象としてそう思うにすぎないが、経費節減のために裁断しなかったとは、やはり考えにくいだろう。
 吉文字屋が、多くの三切本を所有していたことも注目してよいだろうか。宝暦以降には節用集だけでも、高田(堺屋)清兵衛との相合版も含めて次のようなものがあった。寛政の直前、天明までの再版年を併記する。
  蠡海節用集   延享元・寛延三・宝暦四・宝暦一二・明和六
  字典節用集   寛延四
  大節用文字宝鑑 宝暦六
  新撰部分節用集 宝暦九
  早考節用集   宝暦一一・天明五
  連城節用夜光珠 明和五
  急用間合即座引(真草二行本) 安永七・天明六
  急用間合即座引(行書一行本) 安永九
  大成正字通   天明二
  袖中節用集   宝暦八・天明九
  新撰正字通   明和六・安永九
 こうした三切諸本の処分に手を焼いていたとは言わないが、豊富に蔵していたことが、その(再)利用法を考えるきっかけになることも考えられるので、三切不裁断製本を行うにあたっての必要条件として見ておいてよいかと思う。
 三切不裁断という着想の出所について。段ごとに記事が進められる点は、実は、在来の節用集の中に先蹤が認められる。ただし、巻頭付録にかぎってのことだが、一八世紀の節用集では紙面を三・四段に分割し、それぞれの段ごとに付録本文を書き進めるのが普通であった。図版四として掲げた『玉海節用字林蔵』(延享二年頃刊。架蔵)では、見開き上段に「年暦指南」の一部があり、中段に「独按摩図法」の終わりと「改元年号用字」の初めの部分があり、下段に「新改正御武家鑑」の一部が配されるようなものである。もちろん、この始原をさかのぼれば、『頭書増補二行節用集』(寛文一〇年刊)のような頭書にたどりつくことが考えられる。ともあれ、こうした、丁よりも段を優先したレイアウトが吉文字屋の念頭にあれば、三切不裁断についても容易に実行に移しえた可能性は考えておいてよい。ただ、そうだとしても、在来型節用集の巻頭付録と『錦嚢万家節用宝』の三切不裁断本文との決定的な違いは、前者が段ごとに記事が終了するのに対し、後者は一連なりであることである。本文の初めの三分の一がある中段の最終丁は、中の三分の一がある段(上段か下段)の最初丁に接続すること、すでに述べた通りである。したがって、こうした点をいかに利用者に知らしめ、より違和感なく利用させるかが問題となるのである。
 そのためには、目録の整備がもっとも重要な課題となる。どこに何があるかを周到に知らせる必要があるからだが、この点、吉文字屋は、以前より目録を重視する書肆であり、目録やそれをめぐる工夫に自信のある書肆だったようである。というのは、『錦嚢万家節用宝』以前に吉文字屋が刊行した『急用間合即坐引』『大成正字通』に一連の周到な工夫をみることができるからである。『急用間合即座引』『大成正字通』は、仮名遣いよりも発音の同一の語を優先して一か所にまとめることがある。ことに長音・拗長音がかかわる仮名二字以上で表されるものについては意を用いている(後述)。そのために変則的なイロハ順をとるのだが、これを周知せしめるために、詳細な目録(丁付合文)を用意してもいるのである。
 そしてさらに、この丁付合文をより使いやすくするために、板心の文字を、左側(袋綴じなので丁裏右端)に寄せることまでしている。
   実際に字を引くとき、ことに手の動きに注目してみたい。丁付合文
  で目当ての丁付けを確認し、それよりもやや多めの箇所に右手親指の
  腹をあてて開き、目当ての丁まで親指の力をぬいて丁を送る。一丁ず
  つ送ってもよいが、目当ての丁まで一度に過不足なく送ることができ
  ればなおよい。そのためには、開かれている丁の丁付けと送るべき丁
  の数あるいは目当ての丁付けを把握したうえで、親指の位置・力を加
  減することになる。このとき、丁付けが各丁裏右端にあるので、各々
  の丁と丁付けと親指の位置関係が一目で把握できることになる。つま
  り、目の動きを最小限に抑えることになり、ひいては検索に集中でき
  ることにもなるのである。こうしてみると、板心文字の偏心はエルゴ
  ノミクスの領域に踏み込んだ考案であり、それを彫刻・製本の通念を
  まげて実現したものということになる。(佐藤一九九六b)
 これは、かなり周到に練られた工夫であったと評せるものだが、そこまで目録の効用をきわめた書肆ならば、はなはだ単純な言い方だが、どのような構成の書籍であっても「目録さえ完備していればよい」との判断が芽生えてもおかしくないように思うのである。
 右にみてきたのは、なぜ三切不裁断を実行しえたかということだったが、逆に、三切に裁断できなかったと考え、その理由を考察するという行き方もあろう。三切に裁断して製本すれば書籍の厚みは三倍になる。『錦嚢万家節用宝』に合冊された四書は、『人家日々取扱要用之事』二二丁、『伊呂波分字引節用集』七二丁、『訓蒙図彙 一名万物絵本大全』六三丁、『年中行事綱目』二二丁で、計一七九丁となる。単純計算で三倍すれば五〇〇丁を優に上回ってしまう。このような厚みの、しかも三切の節用集は、分冊ならまだしも、一冊本としては異様というほかない。したがって、合冊することが前提なら、三切にするなとどということは考える余地もなかったことだと思われるのである。
 このように三切不裁断製本の実現については、いくつかの解釈の可能性があることが知られた。それらは互いに排他的ではないから、特にどれを採るということはせず、とりあえず、すべての可能性を認めておくこととしたい。

三 『伊呂波分字引節用集』目録の齟齬

目録の齟齬
 この問題については、第一節で要点を述べたが、問題を見出した経過などもふくめ、やや詳しく記すこととする。
 『伊呂波分字引節用集』の冒頭にそなえられた目録は、その丁付けが節用集本文とまったく一致しない。このことに気づいたのは、旧蔵者の書き込みによってであった。目録の「ラ」部の丁付け「七十八」の上に「百二」と墨書するのだが、前後の「ナ・ム」はそれぞれ「七十二丁・七十八丁」なので、確かめたところ、墨書の方が正確だったのである。
 そこで、この目録の丁付けに合致する節用集をさがすこととした。とりあえず、架蔵書や手近にある複製本などで吉文字屋刊行のものを数種みたが、いずれも合致しなかった。このような経過を米谷隆史氏(熊本県立大学)に知らせたところ、吉文字屋の『早考節用集』(天明五年刊)がかなり近いとの教示を得た。実際には、丁付けの合わない部が二四箇所あるが、そのずれ方は規則的で、目録の丁付けは『早考節用集』の丁付けよりも一丁減じた数であって例外がない。このうち一九箇所は、『早考節用集』における部のはじまりが丁の表、すなわち見開きの左側であった。結局、『早考節用集』の目録には見開きを単位とする方針があり、見開きの前半、すなわち見開き右の丁付けを示していたのである。こうした方針は、前節で紹介した『大成正字通』『急用間合即座引』において、丁付けを見開き右端で見せる工夫と通じるものと考えられ、吉文字屋の方針が一貫していることをしめすものと見られる。
 そうした工夫はともあれ、『伊呂波分字引節用集』の目録の齟齬は、たしかに書肆・吉文字屋の手落ちにほかならない。単純に誤りということもあるが、当初予定していた『早考節用集』を『急用間合即座引』に変更したとしても、目録だけ刷りなおすことができたはずだからでもある。こう考えれば、『伊呂波分字引節用集』の目録の齟齬を単純なミスとすることもできるが、合冊する節用集の入れ換えと捉えた方が、より事の本質に迫ることができそうである。とすれば、二つの問いに分けるのが能率的であろう。すなわち、『早考節用集』が採られなかった理由と、『急用間合即座引』が選ばれた理由とに分けて考えるのである。
検索法の検討
 『早考節用集』も『急用間合即座引』も検索法に特徴のある節用集なので、その点から検討する。
 『早考節用集』は、イロハ・意義分類の下位を濁音仮名の有無によって細分する。まず、意義分類は次のように六門に分かれる。「凡例」につづく「門部」から引いておく。
  言語  書翰方 世話字
  天地  乾坤 時候 国郡 社堂 家居
  人倫  官位 人倫 支体
  財衣  器財 衣裳
  植食  草木 飲食
  禽獣  気形
 細分類されているようだが、本文では一々の標目まで示さないので、伝統的な意義分類に近づけた説明と見たほうがよい。なお、従来型の節用集では、一〇門以上に分類され、かつ、乾坤門が最初に、言語門が最後に来る。『早考節用集』では、六門にまとめたこと、言語門を最初に掲げることなどが新味になる。異なる部分はあるものの、従来の意義分類に親しんできた利用者には、さして違和感なく使えたかと思われる。
 第三分類は、仮名書きしたときに濁点の付される仮名が一字でもあれば「濁」に配し、なければ「清」に配している。これも新味だが、二分するだけのことであり、また清濁でゆれる語形もさして多くはなさそうなので、強く拒否されるものではなかったろう。
 これに対して『急用間合即座引』は、より以上に特徴的ないし変則的である。検索法を構成するのは『早考節用集』と変わらず、イロハ・仮名類別・意義分類であり、この順に適用して語をさがすことになる。が、意義分類は『早考節用集』並みに整理されるものの、イロハ分け・仮名類別は凝ったものである。以下、その有りようを見ていこう。なお、『急用間合即座引』を称する三切の節用集は、少なくとも二種三版が存するが(前述)、いま、『錦嚢万家節用宝』に合冊された天明六年本によりイロハ・仮名類別の特徴をみていく。
 第一分類の語頭のイロハ分けは、仮名遣いにかかわらず、発音の同じものを一所に集めようとしている。「字のよみはじめ/字の操出し様」では次のように示している。
    くハう      こうぢやう
  光 こう    口上 くハうぜう
    かふ       かふじやう
  かやうの字ハ(く)(こ)(か)いづれの部にあるかしれ申さず候ニ  付、(こう)〔くハう/かふ〕と申部を別に出し申候
     (陰刻を丸括弧で、割行を大括弧で包み、句読点を私に補う)
 長音・拗長音以外では「地〔ぢ/じ〕治定〔じじやう/ぢぢやう〕」のような、四つ仮名のうちイ段のものも同種のあつかいをする。こうした工夫のため、イロハ以外の部を一九部立てたという。その一例としてチ部以下の部分けを記してみる。一つの部ごとに改行し、部名についで、その注記(大括弧包み)も掲げる。なお、図版五も参照されたい。
  ち〔ぢとにごるハ、をくにべつにあり〕
  ちやう〔てふ〕ちう
  ちよ・ちや〔ちやう・ぢよ・ぢう・ぢや、にごるハおくニ別に有〕 
  ぢ・じ
  ぢやう・ぢよ・ぢう・ぢゆ・ぢや・じやう・じよ・じう・じゆ・じや
 チ部もチヤウ部も対等な部として別立てするわけだが、こうした変則的なイロハ分けを周知せしめるため、単独刊行された亀田本では一丁半にわたる詳細な目録がそなわる。普通、四七字だけなら半丁で済むところなので、部立ての緻密さとともに目録の周到さがうかがえる分量である。
 第二分類の仮名類別も凝ったものである。「字の引様」から仮名の類別の説明を示せば次のようである。私に句読点を施した。
  すむ  家 石垣 隠居
   字のよみ終、ひかず、はねず、すみて読字、この部に入
  にごる 砂 池田 院家
   字のよみ終、にごる字すべて此部に入
   隠者 印数
   右のるいハ、よみ終の声にごり候ニ付、にごる部に入
   辺鄙 一派
   右よみ終、半濁に御座候。此るいも、にごる部に入申候
  ひく 印籠 衣装 一町
   右のごとく、よみ終を引字、すべて此部に入
  はねる 衣冠 一献 一樽
   字のよみ終、んとはねる字、すべて此部に入
 「よみ終」は、「にごる字・引字・はねる字」とあるように仮名に注目させるので、原則として語末の仮名とみてよい。ただし、〔にごる〕の項では細則がある。まず、「辺鄙・一派」から語末半濁音仮名も〔にごる〕に配される。また、「隠者・印数」からは語末の仮名「や・ゆ」ではなく、その直上の仮名が濁音であることから〔にごる〕に配されることになる。これは、濁音の拗音にかぎって「よみ終の声」と呼ぶように、発音を重視するので変則的である。「声」を音読みとみれば字音語末尾漢字の字音という別の単位を持ち出したものとも捉えられる。あるいは、拗音を仮名二字ではあっても一単位(一拍)としてのことかとも思われるが、いずれにしても単位が仮名ではなく発音に変わっているのである。
 本文にあたれば、「字の引様」に現れない細則もある。濁音をもつ拗音には右のような特例があったが、濁音をもつ拗長音は長音仮名を優先させて〔ひく〕に含める。また、各部の〔ひく〕をみれば、「祝・誘」など、語末を「ふ」とするものも含まれる。「引字」には「ふ」を含むか、実際の発音によっていることになる。後者の方が、「芭蕉」を〔ひく〕に配することからは考えやすい。ただ、「祝・誘」は、長音にするか割って発音するかは個人差があるように思われる。もちろん、当時において割らずに発音するのが一般的であれば問題はないが。
 結局、『急用間合即座引』における仮名類別は、大略は理解できるものの、細則があったり、実際に本文にあたって試行錯誤しなければならなかったりなど、厄介なものとせざるをえない。活用するまでには、相当の時間と根気が必要だと思われる。こうなると、第三分類の意義分類も、普通なら多少の違和感でとどまったであろうが、凝りに凝った第二分類のあとでは、引きがたさ倍加するだけのものだったであろう。
 以上のことから『錦嚢万家節用宝』を構成するのに、『早考節用集』と『急用間合即座引』のいずれがふさわしいかは明らかであろう。三切不裁断製本で複雑になった本文の流れのうえに、さらに複雑さを増すような節用集は無用だからである。おそらく、こうした検索のしやすさもあって、当初は『早考節用集』を合冊することになっていたのであろう。
『早考節用集』の欠陥
 検索法からみた場合、『早考節用集』が合冊されなかった理由も『急用間合即座引』が採用された理由も見えてこない。むしろ、『早考節用集』から『急用間合即座引』への変更はありえないとしか考えられない。したがって、『早考節用集』に、他に何らかの重大な欠陥が生じたことを考えることになる。たとえば、版権上の支障があったり、版木が磨滅して再摺に耐えなかったり、などのことである。
 当時の節用集の多くが真草二行表示であることをおもえば、『早考節用集』が行書一行表示であることは、一つの欠陥と見なすこともできようか。もちろん、行書にかぎったのは、当時、もっとも一般的であった書体に限定することで『早考節用集』の実用性を強調したり、真字(楷書)を省くことで紙数をおさえたりなどと、相応に積極的な理由も考えられるところではある。
 現存する『早考節用集』に天明五(一七八五)年刊の亀田文庫本があるが、その印刷面をみるかぎり、相応に明瞭に読める部分がある一方、版木の磨滅のため、何が印刷されているか即断できない部分がある。たびかさなる印刷によるものと考えられるので、天明五年刊とはいえ、版木自体は、より古くからあった可能性があろう。そこで、『早考節用集』が天明五年以前に開版されていたことを、まず確認しておきたい。
 江戸本屋仲間の割印帳には、宝暦一一(一七六一)年六月二五日の項に本書と同名書の記述がある。
  同年孟春  
   早考節用集 全一冊 穂積義雄作  板元 大阪 鳥飼市兵衛
   墨付百六十三丁          売出し   吉文字次郎兵衛
 割印帳は「開版赦免ののち印刷本が行事に提出された時点で記載され」(多治比郁夫一九八四)るものなので、『早考節用集』との書名の節用集が宝暦一一年に刊行されていたことが知られる。問題は、これが天明五年刊『早考節用集』の初版本かそれに準ずるものかどうかである。「墨付百六十三丁」は異同がない。ただし、天明版のこの数字は最終丁の丁付けであり、表紙見返しなどは含まない数字である。また、編者を穂積義雄とするが、寛政二年に成立したかという大坂本屋仲間記録の「書籍分類目録」では「早考節用集 作者京屋治兵衛 全一冊」であって異なっている。もちろん、穂積義雄の別称が京屋治兵衛であることは十分に考えられる。なお、亀田本には編者名は記されていない。
 天明五年以前に『早考節用集』が存在したことを示す記録は他にもある。大坂本屋仲間の記録の「開板御願書扣」第一二冊に、『滄浪節用集』を『早考節用集』に改題する旨を記した宝暦一一年二月付けの願書がある。開版人として堺屋清兵衛の名がみえるが、編者の名はない。そこで宝暦一〇年正月付けの『滄浪節用集』開版願書にさかのぼれば「一滄浪節用 百六十三丁 全部壱冊 作者京屋治兵衛」とあった。穂積義雄と京屋治兵衛は同一人と考えてよさそうである。また、丁数も割印帳の記事と同一である。また、明和九(一七七二)年刊『書籍目録』における「一 早考節用集 同(高田氏)」との記載もある。なお、「高田氏」とは、吉文字屋と相合版を出すことの多かった堺屋清兵衛のことである。
 以上から、『早考節用集』の書名をもつ節用集が宝暦末ごろに存在したことが知られる。が、検索法に清濁分けを採用するかどうかを確認する必要がある。この点については、幸い、吉文字屋刊行の『文宝節用集』(外題。宝暦一二年刊。米谷隆史氏蔵)や『蠡海節用集』(明和六年刊。架蔵)の巻末書目に「早考節用集 同清濁分」と記されており、清濁分けであことが確認できるのである。結局、天明五年刊『早考節用集』と同じ特徴をもつ節用集が、宝暦末以降、吉文字屋の節用集として名が挙げられることになる。一つの書肆から、同じ時期に同じ書名ながら内容を異にする節用集が刊行されるとは考えにくい。したがって、天明の『早考節用集』は宝暦末には刊行されていたと考えられるのである。
 以上のことから、亀田本『早考節用集』の版の荒れは、宝暦一一年に刻された初版の版木を、天明期においても使いつづけたことによる可能性があることになる。そして、そのように痛んだ版木では印刷結果が必ずしもよいものではなかったため、『錦嚢万家節用宝』には合冊されなかったと推測することが可能になるのである。
『急用間合即座引』の採用
 ついで、合冊される節用集として『急用間合即座引』が選ばれた理由を考えてみよう。とはいえ、最大の特徴である検索法には選ばれるべき理由がないのだから、他に積極的な理由も見つけにくい。そこで、吉文字屋が擁していた節用集諸本から消去法で絞りんでみようと思う。その際、三切本にかぎらず、他の判型のものも候補に挙げることが考えられることになる。体裁の不統一さえ厭わなければ、美濃判の節用集本文を合冊してもよいからだが、現『錦嚢万家節用宝』に合冊されたのはすべて三切本なのだから、吉文字屋は三切本だけで構成しようとしたらしく思われる。また、先にも示したように多くの三切本を所有していたことでもあり、ここでも三切本にかぎって話を進めて大過ないであろう。
 候補となるのは次の諸本である。書名・検索法・表記法などを記す。
  蠡海節用集    イロハ・門 行書一行
  字典節用集    (右同)  真草二行
  袖中節用集(二種)(右同)  部分的に行書一行 平仄四季分付き
  新撰正字通    (右同)  部分的に行書一行 平仄四季分付き
  早考節用集    イロハ・清濁・門 行書一行
  連城節用夜光珠  イロハ・清濁引撥・門 表記不明。行書一行か。
  急用間合即座引  (右同)  真草二行
  急用間合即座引  (右同)  行書一行
  大成正字通(初版)(右同)  部分的に真草二行 平仄四季分付き
  大節用文字宝鑑  門・イロハ 行書一行
  新撰部分節用集  (右同)  行書一行。右書改題補刻
 三切と言っても『大成正字通(初版)』『袖中節用集』『新撰正字通』などは通常よりも大振りなので、美濃判より大きな料紙を用いたのであろう。したがって、『錦嚢万家節用宝』内の他の書籍と判型が異なることとなり、合冊には向かなかったと考えられる。また、この三書は、字・語の平仄や四季を表示するといった韻事向けの工夫があるので、合冊せずとも単独に刊行して相応の需要が見込めたものと思われる。この点では、『蠡海節用集』も、すでに何度も再版されていて実績がある。『字典節用集』は再版自体少ないが、大略『蠡海節用集』に楷書を補ったものであり、寛政以降には何度か再版されるので『蠡海節用集』に準じて考えられそうである。『大節用文字宝鑑』『新撰部分節用集』は、判型上まったく問題ないが、意義分類をイロハ分けの上位に立てるので一般性に欠ける面がある。『連城節用夜光珠』は、山田忠雄(一九八一)によれば『急用間合即座引』の原形ともいうべき検索法を採るものだが、次節で触れるように改題されて『急用間合即座引』となるものである。したがって、『急用間合即座引』が開版されれば、その役は終わったような存在であって、『錦嚢万家節用宝』への合冊も考える必要がないかと思う。
 残るは『急用間合即座引』真草二行本か行書一行本になる。当時の節用集は真草二行を表示するのが普通なので、それに合わせれば前者がふさわしいことになる。また、真草二行本は安永七(一七七八)年・天明六(一七八六)年の、行書一行本は安永九年の異本が知られているが、このうち、寛政元(一七八九)年刊行の『錦嚢万家節用宝』にふさわしいのは、やはり、わずか三年前に再版された真草二行表示の天明六年本であろう。さきに、『早考節用集』の合冊が見送られた理由として摺りの質を挙げたが、その点でも天明六年本は申し分ないものなのである。『節用集大系』第四四巻にはこの天明六年本と『早考節用集』とが併載されるが、両者を比較すれば、影印本であっても天明六年本の版面の鮮やかさが知られるところである。
 以上の検討をふまえてまとめれば、『錦嚢万家節用宝』における節用集部分も差し替えは、以下のような経過が想定されることになる。『錦嚢万家節用宝』を刊行するにあたり、最終段階すなわち「横紙」まで準備した時点で、『早考節用集』では刷りの点で満足できず、より刷りの良いものが求められたのであろう。また、他に『人家日々取扱要用之事』『訓蒙図彙 一名万物絵本大全』『年中行事綱目』を合冊することになった『錦嚢万家節用宝』であれば、相応の威容をもたせたいとの意向もありそうである。それには、やはり真草二行表示の節用集がふさわしかろう。そこで、これらの点を満足する『急用間合即座引』天明六年本に差し替えられたのであろう。

四 書名「伊呂波分字引節用集」

合冊体における書名
 『錦嚢万家節用宝』の辞書部分の書名「伊呂波分字引節用集」(目録標題は「いろは字引節用集」)は、重言的だが、はなはだ分かりやすい。こうした書名を採るのは、やはり『錦嚢万家節用宝』が合冊という特異な形態を採ることと関わっていよう。
 まず、合冊であるために、合冊各書間の区分を明確にしなければ利用しにくいという事情があったと思われる。合冊された四書とも本来は三切本なので、三切の横長の版面が三段にわたって紙面にある。任意の一丁を一瞥した程度ではどのような性格の書籍であるか分からないこともある。もちろん、少しばかり注意深く見れば判断できるが、一見して分かるかどうかは、使用感として案外に大きな差となろう。したがって、他の合冊書籍と紛れさせない工夫が必要になるものと考えられる。
 そのためには、複数の方法により合冊各書間の区分を明示するのが効果的である。この点、『錦嚢万家節用宝』で、体裁上の工夫として四書間の境界に「黄紙」を設けるのは注目される。合冊各書間の区分が必要だと考えていることを示すからである。そうした指向が、書名上にも現れることは容易に推測されよう。
 たとえば、『錦嚢万家節用宝』に合冊された『訓蒙図彙』(目録標題は「万物絵本訓蒙図彙」)との書名にも区分のための工夫があったと思われる。この書の本来の書名は「万物絵本大全調法記」だが、収載された絵は中村■斎編『訓蒙図彙』(寛文六(一六六六)年刊)の縮写であるという(長友千代治二〇〇一)。書名に「絵本」を含むこと、序の記しぶり、付録に「絵具製法」を載せることなどからすると絵手本としての性格を強調するかのようで、原『訓蒙図彙』から離れようとの気味がある。さらにいえば、原『訓蒙図彙』の版元から版権侵害とされるのを避けての所為かともうたがわれる。ならば、『錦嚢万家節用宝』において「訓蒙図彙」の書名をかかげるのは藪蛇にほかならないが、その危険をおかしても原『訓蒙図彙』の知名度にすがって「訓蒙図彙」(「万物絵本訓蒙図彙」)の内容・性格を明示しようとしたものと思われるのである。
 だとすれば、「伊呂波分字引節用集(いろは字引節用集)」との書名も、他書との区別のために分かりやすさを指向してのものと見られそうである。核である「節用集」が包含する〈イロハ引き・辞書〉との意味を再度表出する要素「伊呂波分(いろは)・字引」は余剰ということになる。が、音韻論においては、こうした余剰的特徴が「情況によっては、それは弁別的特徴の代用をする」(ヤコブソン他一九五一)。ヤコブソンらは、この後、電話でのロシア語の例を引くが、余剰的なものが区別の強調や間違えにくさを確保するのに役立つことがあるわけである。したがって、合冊体節用集という特異な「情況」において、重言的な「伊呂波分字引節用集(いろは字引節用集)」との書名も、合冊他書との区別のためになされた結果であったと考えたい。

書名の趨勢から
 右のように『錦嚢万家節用宝』のなかだけの問題として書名「伊呂波分字引節用集」を考えることが、まず可能である。が、全体的に、すなわち、他の吉文字屋の節用集の書名を見ておくことも遺漏を最小限にするために必要かと思う。
 吉文字屋の節用集や大坂本屋仲間の記録類をみると、宝暦以降、書名を和らげようとした節がある。たとえば、意義分類をイロハよりも先に立てる『大節用文字宝鑑』(宝暦六年刊)は、宝暦九年の再板改修本では『新撰部分節用集』と改題する。当時、意義分類を門とも部とも呼んだことからすれば、「部分」を取り入れた書名の方が特徴をよくあらわす一方、簡明でもある。こうした吉文字屋本の改題の例を大坂本屋仲間記録の「新板御願書扣」から拾えば次のようである。
  百川学海錦字選 ↓ 新撰用文章宝玉集(宝暦一二年三月)
  大魁訓蒙品字選 ↓ 森羅万象要字海(安永四年二月)
  連城大節用集夜光珠 ↓ 急用間合即座引(安永八年七月)
 これに、堺屋清兵衛の『滄浪節用集』が『早考節用集』と改題したこと(前述)を加えてもよいだろう。「百川学海・連城・夜光珠・滄浪」のように、漢学の教養なくしては容易に思い至らない高尚な名から、より分かりやすいものに改めているのは明らかである。このうち「森羅万象」への改題は例外かとも思えるが、筆者の印象──といっても現代人のそれであるから、おのずと限界はあるが──からすれば、分かりやすいものと感じられる。分かりやすさといえば、「急用間合即座引」への改題が最たるものだろう。「急用に間に合い、即座に引ける」という口語そのままのような変わりぶりである。品格すら感じられないが、逆に「分かりやすさ」の要請がペダントリィを捨てさせるほどのものだったと見ることもできよう。常識的にみて、書名が分かりやすければ、購買者は親しみをいだきやすく、記憶しやすくもある。それはそのまま、その書の売れ行きを約束する要素でもあろう。現代でも、営業上の命名、すなわちネーミングが重要であることは多くの人々の知るところだろう。そうしたことは、何も現代に限ることではなく、江戸時代においても同様であったろう。特に、多数の書肆から多くの異本が刊行されていた節用集ではなおさらである。右の改題は、こうしたことを背景になされたものなのであろう。
 こうした傾向も後押しして、「伊呂波分字引節用集(いろは字引節用集)」という、分かりやすすぎるほどの書名が生み出されたと見てよいかと思う。ただ、本来の書名が、すでに分かりやすい「急用間合即座引」ないし「早考節用集」だったにもかかわらず、さらに重言的な「伊呂波分字引節用集」に変更されたことをふまえれば、前項でみたような合冊体における区分の必要性による書名の変更の方が、より優先されるべき条件だったとも考えられる。
統一的書名との乖離
 『錦嚢万家節用宝』の辞書本文の名称が「伊呂波分字引節用集(いろは字引節用集)」となったのは右の推測で十分かと思う。が、そのために統一的書名『錦嚢万家節用宝』から離れたものになったのは、合冊体ゆえのことと思われ、興味深い。合冊他書との区分を強調するために「伊呂波分字引節用集(いろは字引節用集)」との書名を与えたわけだから、それが、全体を表す書名と同じであってはならない。区分のためにしたことの意味がなくなるからである。
 これに対して従来型の節用集では、正反対の傾向があると見られる。前稿において、合冊体に対する用語として従来型の節用集の構成を複合体と名付けた。辞書本文を中心に、巻頭・辞書本文上欄・巻末に付録記事を配するものである。そうした節用集の多く、特に一八世紀以降の節用集では、表紙や扉などに記される統一的な書名と、辞書本文直前の書名(内題)とは、同一かほぼ同じであるのが普通である。なかには、外題を「万華節用群玉打出槌」(享保二年刊)とし、内題を「大益字林節用不求人大成」とするような例もあるが、やはり少数であろう。
 考えてみれば、複合体の節用集であっても、辞書本文と付録とがまったく渾然としているわけではなく、合冊体のような切れ目がある。早期のものをのぞけば、辞書本文の最初の丁から頭書記事も新たに始まるのが普通なので、そこが巻頭付録との切れ目になるのである。したがって、辞書本文冒頭の内題に、統一的な書名と異なる書名を与えてもよかったはずである。しかし、多くの節用集ではそうしていない。これはおそらく、命名者が、節用集の辞書部分を中核的な存在と見ているからであろう。それが、単なる習慣や惰性あるいは通念だったとしても事情は同じ、むしろ、そうであればこそ、より一層辞書部分が中核的な存在として意識されていると考えられる。このような書名の有りようから、付録を含めた書籍としての統一の根に辞書本文があると見ることも、あながち乱暴な話ではなさそうである。約していえば、複合体節用集においては、複合体であるからこそ、統一的書名と内題とが同じかごく近いものになるということである。
 このように、統一的な書名と辞書部分の書名との関係は、合冊体・複合体それぞれに異なるものと思われる。そしてその異なり方は、合冊体と複合体という構成方法の対照性を反映して、対照的である。少なくとも理屈の上では、一方の書名の関係が、他方の書名の関係を、逆に証明する部分があるものと考えられるからである。

おわりに

 以上、『錦嚢万家節用宝』における不整合三点につき、筆者なりの解釈をほどこしてみた。右の検討において、基本にある筆者の態度は、普通なら起きるはずもない不整合をいかに合理的に解釈するかであったが、一方では、それらが、近世節用集の時代的な趨勢のなかでどのような現象として捉えられるかを見ようとするものであった。もちろん、これは、『錦嚢万家節用宝』を近世節用集のなかに位置づけようとの意図があってのことである。
 また、近世節用集の典型から著しく逸脱する『錦嚢万家節用宝』を種々の点から考察することで、前稿で述べたように、逆に近世節用集の典型(ひいては通念・常識など)をかえりみることを筆者は企図している。この点は、四節において一応の成果がえられたかと思う。
 最後に、今後の課題について触れておく。本稿は『錦嚢万家節用宝』における種々の不審を解釈したものであり、前稿は合冊体の展開をみたのであった。これらはともに『錦嚢万家節用宝』の合冊という有りようをそのまま認めたうえでのものである。すなわち、合冊体をとった理由や背景については、いまだ考察していないのである。いずれ、その点についても検討をおよぼし、補完をはかろうと考えている。



1 一気に一冊分を丁合いするのではなく、あるいは、いくつかに分ける
 のかもしれない。が、基本的には以下のように考えてよいかと思う。
2 上・中段の丁付けの差は六五なのに、中段・下段の丁付けの差が一六
 五になるのが不審である。おそらく一一九丁以降二八二丁までのあいだ
 で一〇〇丁飛ばしているのだろうと想像していた。が、幸い、その銅版
 によって摺りだされた刊本を入手することができた(二〇〇一年一一月
 七日)。『鮮明いろは字引大全』(内題)で、「明治十九年九月卅日出
 版届/同 十九年十月卅日刻成」とするもので、編者は「京都府平民 
 後藤七郎右衛門」である。これによれば、「百五十」丁の次葉が「二百
 五十一」丁であり、やはり一〇〇丁分飛ばしていることが知られる。
3 宝暦一一年に刊行されたことについては第三節を参照。
4 年記は刊記になく、付録の「本朝年鑑六十図」の最終年による。
5 三階版・四階版などということがある。
6 吉文字屋刊行の一連の節用集の仮名類別については、山田(一九八
 一)、高梨信博(一九八八)に紹介・解説がある。
7 朝倉治彦・大和博幸(一九九三)による。ゆまに書房(一九八〇)の
 国会図書館本影印では、冊数と作者の位置が入れ替わり、墨付丁数も記
 されない。
8 「同」は「増字」もしくは「増字懐中本」。
9 宝暦二年六月に版権侵害を指摘されたことと関係するか。佐藤(一九
 九六a)参照。
10 重板類板停止令(元禄一一年)以前の刊行なので、『万物絵本大全調
 法記』刊行の元禄三年当時、版権の優先権などがどれほど尊重され、ど
 れほどの実効があったかは必ずしも明確ではない。しかし、元禄以前の
 刊行書を根拠として版権を主張した例もあるので(佐藤一九九五)、そ
 のような場合として想定してみた。ただし、大坂本屋仲間の「差定帳」
 一番にある「絵本出入格式之事」(元文二〈一七三七〉)には「三ツ切
 二ツ切寸珍本ヲ以、大本半紙本ニ仕候事不相成、大本半紙本之株ヲ以、
 三ツ切二ツ切寸珍本ニ不相成事」とあって、判型によって版株のおよぶ
 範囲が限定されると読めるので、書名の変更によって版権侵害をまぬか
 れようとしたとの想定は有効でないかもしれない。しかしながら、この
 格式を楯にして、他の書肆が刊行した書籍をそのまま小型化ないし大型
 化したものが版権に抵触しないというのも不自然であろう。この格式を
 めぐっては、なお熟考が必要な点があることになる。
  版権上の問題はさておくとしても、『訓蒙図彙』の知名度にすがって
 内容を明示しようとする試みは成立するものと思われる。
11 『早引節用集』という、分かりやすく訴求力も強い書名からの影響も
 考えられるかと思うが、詳細は別稿にゆずる。
12 あるいは出版上の都合として、みだりに別称を用いないなどの内規の
 ようなもの、あるいは不文律があったとも考えられる。
13 ただし、このことは、特に合冊体については軽々には言えないかもし
 れない。まず、合冊体を採る節用集の数が少なく、理屈の上ではともか
 く、現実的な判断が確定できないことがある。また、一九世紀の合冊体
 節用集のように周到に練られたものでは、むしろ複合体に近い書名のあ
 りようを示すからでもある。したがって、合冊体の場合は、『錦嚢万家
 節用宝』のように、まったく独立的な書籍を合冊するようなプリミティ
 ブなタイプに限定すべきかもしれない。
 このことからまた、一九世紀の合冊体を「合冊体」の名で呼ぶこと、
 ないし、その範疇に含めることには注意が必要かもしれない。一九世紀
 の合冊体は、はじめから一冊の節用集を編成するよう、かつ、切り離し
 ても違和感のないよう、調和的な複数のユニットを作るという手法をと
 るからである(前稿)。このことはまた、付録部分が必ずしも独立的で
 ないことを意味するが、だとすれば、単独刊行に向くとはかぎらず、こ
 の点でも『錦嚢万家節用宝』のようなタイプとは異なる性格をもつから
 である(ただし、ユニットが単独刊行できないことは必ずしも欠点とは
 ならない。摺りださなければその分の経費が浮くのだから、それはそれ
 で好都合だったのかもしれない)。

参考文献

朝倉治彦・大和博幸(一九九三)『江戸出版書目 新訂版』臨川書店
佐藤貴裕(一九九五)「近世節用集版権問題通覧──元禄・元文間──」
    『岐阜大学教育学部研究報告(人文科学)』四四−一
────(一九九六a)「近世節用集版権問題通覧──宝暦・明和間──
    」『岐阜大学教育学部研究報告(人文科学)』四四−二
────(一九九六b)「近世節用集の記述研究への視点──形式的特徴
    をめぐって──」『国語語彙史研究』一五 和泉書院
────(二〇〇〇)「節用集の世界──典型と逸脱──」『月刊しにか』
     二〇〇〇年三月号
────(二〇〇二)「『錦嚢万家節用宝』考──合冊という形式的特徴
    を中心に──」『国語論究』九 明治書院
斯道文庫(一九六三)『書林出版書籍目録集成』(三)井上書房
高梨信博(一九八八)「近世節用集の序・跋・凡例(二)」『国語学 研
    究と資料』一二
多治比郁夫(一九八四)「本屋仲間」『日本古典文学大辞典』第五巻 岩
    波書店
長友千代治(二〇〇一)『江戸時代の書物と読書』東京堂出版
ヤコブソン、ファント、ハレ(一九五一)"Preliminaries to Speech
    Analysys" M.I.T.Press。竹林滋・藤村靖訳『音声分析序説』(研
    究社 一九六五)による。
山田忠雄(一九八一)『近代国語辞書の歩み』下 三省堂
ゆまに書房(一九八〇)『江戸本屋出版記録』上


岐阜大学教育学部研究報告・人文科学 50−2(2002)