*学術的なオリジナリティはありませんが、言葉の世界を知ってもらうために書きました。
方言周圏論の功罪
佐藤 貴裕
方言周圏論とその魅力
中心地で新たな語形が生まれては周辺へ伝播する。その結果、古い語形ほど外に、新しい語形ほど内側に分布することになる。この順序を手がかりに歴史をたどるのが方言周圏論で、柳田国男『蝸牛考』(初出一九二七)によって提示・実践されたものである。
柳田は、一九二二〜三年にジュネーブに滞在したおりにドーザ『言語地理学』(一九二二)を学んでおり、後年、周圏論がテューネン『孤立国』(一八二六)の影響下にあるとも述べている。したがって、外国文化の摂取によって周圏論が醸成されたようである。。
ただ、「古語は辺境に残る」という原則は、日本では古くから知られていた。歌論書では古歌の注釈に方言を援用したし、天台僧・明覚(一〇五六〜?)は次のように言い切ってもいる。
例せば日本にも田舎の人の語は是古の日本の語、
王城の人の語は他国の語を学べば展転改変するが
ごとし。(『悉曇要訣』。馬渕和夫『日本韻学史
の研究』により私に読み下した)
「例せば」とあるように、この一節は説明のための援用である。旧訳『四十二章経』が新訳と相違するのは、インド辺境の訛音を伝えたからだとする説がある。が、明覚は古音を伝えたのだと主張する。その過程で、曲解がおきた理由を「古語は辺境に残る」で推測したのである。周圏論的説明がなされたごく早期の例であり、しかも外国語に応用した点では一般言語学性があるともいえる。
また、分布を歴史へと転換する知的なダイナミックさも魅力であった。この着想も『蝸牛考』以前に柳田自身が直観していた。徳川宗賢が『新・方言学を学ぶ人のために』で指摘するように『後狩詞記』(一九〇九)に次の一節がある。
茅を折り連ねて垣のやうに畑の周囲に立てるこ
と。之をシヲリと言つて居る。栞も古語である。
山に居れば斯くまでも今に遠いものであらうか。
思ふに古今は直立する一の棒ではなくて。山地に
向けて之を横に寝かしたやうなのが我国のさまで
ある。(『柳田国男全集』第一巻)
ともあれ、日本人には古くから親しまれた考えであり、知的感性にもうったえる魅力をもつのが方言周圏論であった。それだけに、うまく適用すれば学問を進展させるが、安易な適用による弊害も生みやすくもあるのである。
功──新局面の開拓
昭和三〇年代以降、柴田武・徳川宗賢・グロータースらが方言地理学を実践していったが、強烈な批判や限界説との論争もあった。そのたびに方言周圏論は揚棄され、修正を受けて育まれていった。
たとえば長尾勇「地蜘蛛考」。地蜘蛛は、地面に穴をあけて袋状の巣をつくることからツチグモ・アナグモ・フクログモと呼ばれたり、もてあそぶうちに足先で腹を切ることからハラキリグモ・サムライグモ・カンペイグモ(↑早野勘平)と呼ばれる。このように生態・習性が特徴的なものだと、各地で別個に命名されても同一の語形ができそうである。これでは同一語形の伝播を想定する周圏論は適用できない。語源の分かりやすいものには適用しにくいのである。逆に、周圏論が成立するには、語形と対象(意味)を結びつける必然性が低いこと(=恣意性の確保)という条件があることに気づかされるのである。
では、動物の鳴き声はどうか。音声に直結した語形になるので「必然性」は地蜘蛛以上に高まるはずだが、『日本言語地図』の「ちゅんちゅん(雀の鳴き声)」では、中部・四国・九州にチューチューが分布するなかに関西・中国のチュンチュンがあって見事に周圏的な分布になっている。語形の成立背景が似ていても周圏論の適・不適が分れるのであり、そのこと自体が興味深い検討課題になっている。
類例を二つ。金田一春彦は、アクセントには周圏論が適用できないとし、大局的には今なお有効な見解とされる。が、真田信治「利賀谷におけるアクセントの動態」は、変化の最前線では周圏論が成立することを示した。また、加藤正信「ある方言地図の解釈」は佐渡島のような島嶼では新たな語形が周辺部に分布することを示した。
このように方言周圏論は試されるたびに磨かれ、かつ、言語現象の新たな世界・側面を見せてくれたのである。
功──文献言語史との交渉
方言周圏論は歴史をあつかうから、文献による歴史的研究との対照が大きな課題であった。柴田武『言語地理学の方法』で二つの方法論の成果が突きあわされ、文献国語史の前田富祺が『日本言語地図』第三巻を書評するなど(『国語学』八〇)、比較的早期に特徴的な試みがなされた。現在までに様々な語で突きあわせが試みられ、方言と文献の提携による豊かな成果をもたらしている。
たとえば、小林隆「〈顔〉の語史」は、文献と方言とで語形の出現順序が正反対になる例を検討している。現代語の表記でしめせば次のよう。
文献 奈良:オモ(テ)↓平安:カオ↓鎌倉:ツラ
方言 オモテ(ウムチ)↓ ツラ ↓ カオ
文献上ツラが現れるのは、庶民層が登場する説話・軍記物からである。このことから、小林はツラを庶民語と考え、平安時代でも庶民語ツラがあったと想定し、それを支持するのが方言分布であるとした。この推定の確からしさは、文献も方言も最古の語形にオモ(テ)を設定することが支える。互いに他を証明するのだから確実であり、だからこそ、それ以降のカオとツラについても文献・方言両者がしめす出現順は正しく、両者を満足させる説明が有効になるのである。
このように周圏論は、方言という身近すぎる言語が、文献資料に比肩する重要な言語資料であることを示してくれたのである。
罪──適用者の罪
方言周圏論自体に罪はないが、それを使う側に問題のあることは考えられる。
心ある研究者なら対象となる言語現象の性格や地域の特性を考慮してから周圏論を適用する。しかし、それをしないで周辺部の語形をなんでも古いと決めつける論考がないではない。適用すれば説明した気になるし、読み手も納得した気分になるから厄介である。
また、語形の伝播などを擬人法で説明するのも罪を誘発するかもしれない。たとえば柳田自身、次のような説明をしている。
自分は必ずしも蝸牛の新名が、京都の地から発
生したとは見ない。只その普及の為には一旦中央
を占領した者が比較的容易に覇を唱へ得たといふ
に止まるのである。(『蝸牛考』「結論」)
分かりやすい説明である。が、現在の研究のなかには、安易に比喩を適用したために本質を捉えそこなったものもないではない。一旦は、言葉は人間が運ぶのだという本質に立ちかえる必要があるだろう。
類似する問題として術語にも注意が必要だろう。たとえば、筆者も使ったことのある「東西方言対立語」というのも不用意な用語のように思う。「対立」としてよいのか、単に西(東)からの語形が東(西)に及んでいないだけではないのか等々、検証すべき点がある。
また、中心地の伝播力を「威光」として説明するが、これもどうか。井上史雄らの研究が示すように新語が周辺部から中心地に入ることもある。そうした進出を許す中心地の「威光」とは何なのか、一度、考えなおす必要がありそうである。
補記 菊池久一『〈識字〉の構造』は、見る人によっては方言地図が方言間の優劣を示すものと映るという(三〇頁)。本稿の趣旨とは別次元のこととして採りあげなかったが、改めて考えたい。本稿は科学研究費補助金・基盤研究B「日本語方言形成モデルの構築に関する研究(代表・小林隆)」の成果の一部を含む。
*『国文学 解釈と教材の研究』51巻4号(2006年4月)所掲
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