*学術的なオリジナリティはありませんが、言葉の世界を知ってもらうために書きました。
ヒネモスの背後
佐藤 貴裕
春の海終日のたりのたりかな 蕪村
私たちは「終日」を、ヒネモスと読むものと思っていますが、少し歴史を振り返ると、いろいろな形があったことが分かります。たとえば、『日本国語大辞典』(小学館)では、ヒネモス以外に五語を載せています。
ひめもす 色葉・名義・伊京・饅頭・黒本
ひめむす 名義・文明
ひねむす 文明・明応・天正
ひねもそ 書言
ひめもそ 書言
各語の下に、それぞれの〔古辞書〕欄の書名を記しました。それぞれの時代の辞書にもあるほど定着した語だったことになります。単なるいい誤りではないわけです。
このように種々の語形が生まれたのは、語源が分からなくなったからと考えられます。必ずしも学術的な語源ではなく、「なぜ、ヒネモスと言わねばならないのか」という素朴な疑問を解消できるものであればいい。納得できればその言葉が使えるような《きっかけ》です。実生活のなかで言語を使う人のための語源です。逆に、そういう語源がなくなれば、ヒネモスでなくてもよくなる。そこで種々の語形が現れた。多少変化しても他の語と同音にならなかったので定着もした、ということなのでしょう。
一方で、語源の制約がなくなったとはいえ、まったくかけ離れた言い方にならないのも興味深いところです。
奈良時代 鎌倉・室町時代 江戸時代
ヒネモス─ヒメモス─┬─ヒメムス
│ │
├──ヒネムス └────ヒメモソ
│
└────────────ヒネモソ
各語は、およそ右のように変化したようですが、それぞれの前身の語から、音の変化を受けました。ヒネモスがヒメモスになるのは、モのmの影響で直前のネがメになったのでしょう。他のものも同様です。
こうした変化は、現代の目からみれば試行錯誤と言ってしまえますが、当時の人々、すなわち当事者には、そんな取り澄ました表現は無縁のものだったはずです。私の思い入れも込もりますが、語源の支えを失った言葉を扱いあぐねながらも使おうとした結果ではなかったか。その意味では、言語使用者としてヒネモスに真摯に対応した痕跡としてこれらの五語をみたいのです。人間の営為として素直に認めたいということでもあります。
文化の理解は、《花》だけではなく、背景や土壌まで見て、はじめて可能になる、という考えによく接します。このことを言葉の世界にもあてはめれば、たとえば、ヒネモスの五つの転訛形を正しく見つめる態度が必要だ、ということになります。それがなければ、営為の集積であるはずの言語文化を理解することは難しいように思うのです。
*ヒネモスをめぐる知見については、前田富祺氏『国語語彙史研究』(明治書院 一九八五)に依りました。
小学館『国語展望』105 1999年
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