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早引節用集の流布について   



佐藤 貴裕   


  はじめに  

 近世において種々の節用集が開板されたことは周知のことである。そのなかに、早引節用集と呼ばれる一群の節用集がある。これは、イロハ分け(部)と仮名数(声)で語を分類し収載するものである。『  早引節用集』が宝暦二(一七五二)年に開版されてから、次第に流布し、明治にいたっては、簡便な辞書として主流を占めるにいたるものである。したがって、近世後期から明治にかけての言語生活にあたえた影響も小さくないものと考えられ、早引節用集に対する種々の面からの研究も必要であると思われる。そのなかで、ここでは、早引節用集の流布の様をいくつかの視点から検討するものである。
 なお、本稿の性質上、旧稿と重複する部分があることをあらかじめお断りしておく。

  早引節用集の諸本と展開

 まず、早引節用集の諸本を一覧しておこう。管見によれば、早引節用集には次のような諸本がある。いま、書名は内題をかかげた。刊年は初板のものとしたが、再板以降のもので本文などに異なりのあるものは可能なかぎり示した。また、諸本の規模などを知るために、板形・丁数・行数・語数を示した。丁数は丁付けが飛ばされている場合にはその部分を含めていない。語数は五丁表ごとの語数を集計し、そこから推計したものである。いま、万を単位として掲げた。また、当該本の同定のために、冒頭字と山田忠雄編『開版節用集分類目録』の登録番号を掲げた。

               刊年        行数    冒頭 山田 所蔵   
   書名(内題)       板形 実丁数   総語数         備  考
 A類                       
  @ホシ早引節用集    宝暦2 三縦 一二七 5 一・一 位 四〇一 望 
  Aゾカ早引節用集    宝暦7 三縦 一三二 5 一・二 位 四〇二 亀 角書明体
   ゾカ早引節用集    寛政5 三縦 一三二 5 一・二 位 四〇六 亀 角書清体
   ゾカ早引節用集    文化11 半縦 一一〇 6 一・二 位 四一一 亀 角書行体
   ゾカ早引節用集    文政2 三縦 一三二 5 一・二 位 ─── 貴 角書行体
  B早引節用集      天保14 三横 一五八 10 一・二 以 五一六 東 別・懐宝早引節用集
  Cゾカイロハ数引節用集 弘化3 半横  九八 10 一・二 位 ─── 亀 
  Dリセ懐玉節用集    天保15 三横 一一二 11 一・二 伊 補 一 亀 
  E早引節用集      嘉永元 半横 一〇〇 8 〇・七 伊 四九九 亀 別・寺子節用
  Fゾハいろは節用集   安政中 半横  九六 10 一・二 位 四一四 東 
  G嘉永早引節用集    安政2 三横 一一六 9 〇・七 伊 四七五 東 
  H字宝早引節用集    安政4 半縦 一二二 5 〇・八 伊 ─── 東 丁付略記法
  I早引節用集      ─── 三横 一五八 7 〇・八 伊 四七七 東 右同 吉田・近江屋板
  Jシリいろは節用集   ─── 三横 二〇四 7 一・一 伊 四七九 東 
  K早引節用集      ─── 三横  九四 11 〇・九 伊 四八一 東 西村徳兵衛板
  L早引節用集      ─── 三横 一一八 11 一・一 伊 四八三 貴 山城屋平助板
 B類
  Mゾヒ早引節用集    宝暦10 半横 一七一 7 一・三 位 四二一 東 安永5年本による
  Nゾヒ早引節用集    ─── 三横 一七一 8 一・三 位 四四一 東 
  Oゾヒ懐宝節用集    天保7 三横 一一一 11 一・三 以 五一七 東 
  Pシ早引節用集     天保14 三横 二七〇 7 一・三 位 ─── 貴 初板
   シ早引節用集     文久3 三横 二七〇 7 一・四 位 四四四 東 再板 全体に小異あり
  Q訂正早字引      天保14 半横 一七〇 7 一・三 位 四四七 東 
  Rカ数引節用集     天保15 三横 二七〇 7 一・三 位 四五二 東 初板
   懐宝数引節用集    嘉永3 三横 一〇九 11 一・〇 位 四五三 亀 再板 題は扉による
  S早引文寿節用集    天保14 三横 一五五 10 一・三 以 ─── 遠 
  (21)ゾヒ早引節用集    嘉永2 半横 一四八 8 一・二 位 ─── 東 別・早引字会節用集
  (22)早引万代節用集    嘉永6 半横 一七〇 7 一・二 伊 四九〇 東 
  (23)早引通字節用集    嘉永7 半横 一八二 7 一・三 伊 五〇〇 東 
  (24)早引節用集      文久元 三横 三〇五 6 一・一 伊 四八八 貴 別・万代早引節用集
  (25)ゾヒ改正早引節用   ─── 三横 一一一 11 一・三 以 ─── 貴 Oの改題本か
  (26)新増早引節用集    ─── 三横 二七〇 7 一・四 位 ─── 貴 P再板の改題本か
 BZ類
  (27)大全早引節用集    天明8 半横 三三一 7 二・五 位 四五六 貴 寛政八年本による
   大全早引節用集    寛政5 半横 三四三 7 二・五 位 ─── 米 Mと(40)の合本
  (28)セマ早引大節用集   文化6 半横 一八四 7 一・六 意 五三七 東 
  (29)ゾ二体節用集     天保13 半横 三三一 7 二・五 伊 四九六 東 
  (30)大全早字引節用集   天保14 半横 三三一 7 二・五 位 四六六 東 (27)の改題本か
  (31)大全早字引節用集   天保14 半横 三三一 7 二・五 伊 四九五 東 (29)の改題本か
  (32)ゾサ大全早字引節用集 嘉永7 半横 三三一 7 二・五 位 四七一 東 (27)の改題本か
  (33)テシ用文早引節用集  慶応2 袖横  六四 8 〇・三 伊 五〇二 東 
  (34)ゾカいろは節用集   ─── 半横 三六二 7 二・五 以 五一九 東 
 BS類
  (35)ゾオ大全早引節用集  嘉永4 半横 五六八 7 四・一 以 五二一 東 初板。二冊本もあり
   ゾオ大全早引節用集  元治元 半横 五六八 7 四・一 以 五二二 東 再板。最終丁に小異あり
  (36)早引万宝節用集    嘉永6 半横 四二四 7 二・七 威 ─── 豊
  (37)万寿早引節用集    文久元 半横 三八六 7 二・五 以 五一四 東
  (38)万世早引増字節用集  文久3 半横 五八四 7 三・四 伊 四九三 東 雑書入二冊本あり
 C類
  (40)早引残字節用集    天明5 半横 一七二 7 一・二 以 五一一 佐
 D類
  (41)メシ早引大節用集   明和8 美縦 一〇五 7 一・三 位 四一六 東
 E類
  (42)ジモオセイいろは節用集大成
             文化13序 半横 五〇一 7 三・三 夷 五二五 東
  (43)ジモオセイ大全早字引 天保13 半横 五〇一 7 三・三 夷 五二七 東 (42)の改題本
  (44)ハ永代節用集     天保14 半横 五〇三 7 三・四 夷 五二九 東
  (45)シリ数引節用集    嘉永7 半横 二六九 7 一・九 意 ─── 貴
 F類
  (46)ハ万代節用集     嘉永2 半横 七八二 7 六・五 R 五三四 東 薄様刷一冊本もあり
 
(以下、各類補遺)
 A類
  (47)テゾ早引節用集    文化6 三縦 一三二 5     伊 ─── 貴
  (48)テシ早字引節用集   天保14 三縦 一三二 5 一・二 位 四一〇 亀 A明本・清本の改題本か
 B類
  (49)ゾマ数引節用集    弘化5 半横 一七一 7(一・三)位 ─── 米
  (50)シリ早字引大正    文政5 三縦 一五二 4 一・〇 伊 四八六 新
 BZ類
  (51)イヒ大全節用集    天保13 半横 三三一 7 二・五 伊 ─── 貴
    *板形略称  美・美濃板   半・美濃板半切   三・三切   袖・袖珍
    *所蔵者略称 望・東京学芸大学望月文庫  東・東北大学附属図書館
           亀・国会図書館亀田文庫   豊・豊橋市立中央図書館
           新・群馬大学新田文庫    
           遠・遠藤好英氏  佐・佐藤武義氏  米・米谷隆史氏  貴・佐藤貴裕

 早引節用集の諸本はA〜Fの六類に分けられる。これは、イ部三声・タ部四声・ム部三声・フ部三声・ヒ部四声における「一・大(「太」も)・無・不・一」各字を頭字とする熟字の掲出順を調べ、その異同から判断したものである。なお、記号A〜Fは、それぞれの類のなかでもっとも早く開板されたものを基準に刊行順に配したものである。したがって、諸本の発展の順序を大まかながら反映するものとなっている。なお、B類については、増字のないものをB類とし、一度増字されたものをBZ類、それに再度増字をほどこしたものをBS類とした。
以下、この類別にしたがって、諸本の概要を示しておく。
 A類は、早引節用集の嚆矢である@『宝 早引節用集』にはじまるものである。これにごく小規模の改編をほどこしたA『増 早引節用集』は幕末まで板を重ねることになる。なお、依拠した本文としては、部・門引節用集のうち、言語門を各部の最初に配した『蠡海節用集』(寛延三〈一七五〇〉)などが考えられる。板形は、小型(三切)のものがほとんどである。このことと関係してか、従来型の節用集では漢字を掲出する際に真草二体を示すのが普通であったが、A類の早引節用集は草体しか示さないものがほとんどである。この点では、原拠と推定される『蠡海節用集』も同様なので、その影響も考える必要がある。ただし、他類の諸本は真草二体を示すのが普通であるから、早引節用集全体の中で考える場合には、A類の特徴の一つに挙げておきたい。また、草体のみを掲げるということは、当時の手紙・文書などは行草体が中心であったことを考えると、それなりの妥当性や実用性があると言うことも可能である。また、草体しか示さないことによって、小型ながら収載語数も多く、後発のB類諸本と比べても、遜色ないものとなっている。また、これは、他の類の早引節用集にも共通することであるが、付録が極端に少ないことも特徴として挙げておく。これらのことから、A類は、携帯の便利さや書写の際の実用性を重視した、最小限の必要を満たす節用集であると考えられる。なお、少数ながら、「ゐおえ」部を立て、四七部分けとしたものもある。また、『増 早引節用集』の最も古い板は宝暦七年のものであるが、その刊記には「再板」とあり、同名の初板があったと受け取れる。しかし、『大坂本屋仲間記録』に「大坂順慶町五丁目柏原屋与市義、去ル申ノ年(=宝暦二)早引節用集開板仕候之後板行損シ、同丑年(=同七)増補いたし」(「差定帳一番」宝暦一三)とあるので、『増 早引節用集』の再板ではなく、「早引節用集」として二番目のものというほどの意味であろう。
 B類は、M『増 早引節用集』から出たもので、中型(美濃半切)が多く、語数もA類にくらべて若干は多い。
また、草字の左傍に真字を付すようになり、真草二行の形態をとることになった。BZ・BS類の本文としても使用され、もっとも広範に流布した早引節用集である。ただし、BZ類における該当部分とは少数ながら語順の異なる部分がある。なお、B類についても、原拠となった節用集の同定を種々検討を試みているが、いまだ不明である。
 BZ類は、(27)『大全早引節用集』をはじめとし、これに若干の改編をくわえたものである。(27)は、Mを本文とし、(40)『早引残字節用集』を「増字」として各部各声に別掲したものである。ただし、それぞれに、もとの語順が少数ながら変更されているようである。この類では、(27)を単に改題したものや編集しなおしたもの、大幅に語を削除したものなど、異本のバリエーションが豊富である。なお、米谷隆史氏蔵の(27)寛政五年板は、Mと(40)を合冊したものとなっている。『江戸本屋出版記録』に「大全早引節用集(略)已前残字と合巻之処此度残字合刻ニ相成候」(「割印帳」寛政八)とあることからすれば、Mを本文とし(40)を「増字」として掲出するのは、(27)寛政八年板が最初であるということも考えられる。
 BS類は、(27)などをもととして、さらに増字をほどこしたものである。この類は、大きく二つに分けられる。
一つは、(27)をもとに、おそらくは、E類の(44)『 永代節用集』と部・門引きの『永代節用無尽蔵』(天保二〈一八三一〉)とによって大幅な増補をおこなったと思われるものである。これには(35)『  大全早引節用集』と、(38)『万世早引増字節用集』がある。ただし、後者は、(22)『万代早引節用集』を本文とし、(35)の増字・再増字部分を「増字」として掲出するものである。他の一類は、(27)か(27)の改編本を元とし、ある本(あるいはこれも(44)か)によっていくらか増字をほどこしたものである。これには、(36)『早引万宝節用集』と(37)『早引万寿節用集』がある。(36)には「増字」という標目のほかに「再増」の標目も有しており、再度の増字をほどこしたことが明らかにされている。(37)は、(36)の本文と増字の境目をなくし、頭字の同じものを一箇所にまとめるような改編をほどこしたものと思われる。なお、(38)『万世早引増字節用集』は、本文以外の部分が、口絵(五四丁)と付録(一五六丁)とで二一〇丁に及んでおり、付録類が貧弱であった早引節用集においては群を抜くものとなっている。ただし、各所に蔵されるものを見ると、この部分のない本も認められる。旧蔵者が取り去ってしまった可能性もあるが、『大坂本屋仲間記録』によれば「一 万世早引増字節用集 江戸板 全壱冊/一 同 雑書入 同全二冊」
(「仲間触出留」慶応元)とあり、両方のものとも開板・販売されていたことが知られる。
 C類の(40)『早引残字節用集』は、その凡例でも「今此書は前板に洩れたる文字斗を拾ひ集て新に開板して早引残字節用集と号く」と述べるように、Mにない語・用字を集めたものである。BZ・BS類に吸収されたことは前記のとおりである。なお、これについても原拠となった節用集の同定に成功していない。
 D類の(41)『メシ早引大節用集』は大型(美濃板)だが、収載語数はB類に近い。これも、原拠となった節用集は不明である。ただ、『大坂本屋仲間記録』などによれば、あるいは、現存の確認されない『千金要字節用大成』である可能性も考慮すべきかと思われる。
 E類本は『和漢音釈書言字考節用集』を改編した(42)『     いろは節用集大成』をはじめとするものである。近世の節用集には珍しく、いずれの諸本とも用字の出典注を豊富に有するのが大きな特徴となっている。また、(45)『真 数引節用集』を除けば、第三検索に門別を導入する点でも特徴的な類となっている。なお、(45)はゴシケビッチ・橘耕斎編『和魯通言比考』(一八五七)の主要な原拠本として注目されている。
 F類も第三検索に門別を導入している。また、四七部立てで、「ゐおえ」部の収載語数も比較的多く、本文だけでも八〇〇丁に近く、早引節用集の集大成といった趣がある。この本についても原拠となった節用集の同定には及んでいない。ただし、E類本収載語が割に採られているように見え、何らかの形で交渉があったものと想像される。

 以上が早引節用集各類の大要である。このような早引節用集がどれだけ開板されたかをみたのが、グラフ「開板再板年次と推計総語数」である。はじめは語数の少ないものが開板され、やがて語数の多いものが開板されるのが知られる。また、語数の少ないものも引き続き再板されていることにも注意したい。
 早引節用集は、はじめ、携帯に便利な小型で実用本位の手軽な辞書として誕生した。それは、ややうがった見方をすれば、付録の増加などで重厚長大になった他の節用集と対峙する関係であったとも言える。しかし、その後、収載語の増加を中心とした内容面での充実がはかられ、種々のタイプの異本を有するまでになった。これは、初期の早引節用集にはなかったさまざまな要求を満たすための展開であったと想像される。また、このことは、他の節用集の受け持っていた重厚長大な面をも採り入れることになり、早引節用集と他の節用集との均衡もくずれたことを示すものである。すなわち、早引節用集は、付録を除けば、従来型の節用集の持っていた特徴をそっくり引き継ぐことになるのである。このことは、早引節用集が従来型の節用集を駆逐しつつあることを意味する。
明治期になると節用集は早引節用集だけになるが、近世においてすでにその体制が整っていたと考えられるのである。
 以上のように、早引節用集は一応の位置づけをとるものと考えられる。以下では、より具体的に流布の様を見ていくこととしたい。

 早引節用集と他の節用集の開板再板数

 まず、開板再板回数を確認することで、早引節用集と他の節用集との勢力の移り変わりをみておく。グラフ「早引節用集の台頭」を参照されたい。全体的な推移を把握しやすくするため、一〇年を単位に集計した。調査の範囲は、『宝 早引節用集』が開板された宝暦二(一七五二)年から、最後の早引節用集と目される『昭いろは字典』の開版された昭和四(一九二九)年までである。資料は、近世を『国書総目録』に、明治以降を『近代国語辞書の歩み』によった。なお、『国書総目録』『近代国語辞書の歩み』の両者のあいだには、近世の再板状況が明確につかめないためか、やや精粗の差があるように思われる。
 一八三〇年までは、近世前期からの余勢をかってか、早引節用集以外の節用集が優勢である。早引節用集が優勢になるのは、一八三一〜四〇年からである。次の一八四一〜五〇年では早引節用集も他の節用集も急激にのびるが、これ以降、早引節用集は一時落ち着きを見せるものの優勢を確立し、他の節用集は下落していく。
 これによれば、早引節用集が他の節用集を圧倒するのは一八三〇年以降であり、このころから早引節用集が広汎な流布を獲得したかに見える。しかし、実際の需要や関心の高まりをそのままに反映しているかどうかには疑問が残る。なぜならば、当時においても、本屋仲間による自主的な板権の保護・管理が行われており、板権所有者である村上家(木屋あるいは本屋)・渋川家(柏原屋)および両家から板権を譲られたもの以外は早引節用集を開板することができなかったからである。その制度が崩れたのは、天保の改革において株仲間解散令(天保一三〈一八四二〉)がだされ、本屋仲間も解散させられたことに起因する。
 当時の板権管理は、判決は奉行所が下すものである。しかし、それにいたるまでの実務の大部分は、板権者とその所属する「本屋仲間」が行なっていた。したがって、天保の改革で株仲間解散令が発令され、本屋仲間も解散させられると板権管理が停滞することになった。板権をもたない本屋が早引節用集を開板してもそれを監視する機構がなく、免許さえ得られれば自由に開板できるようになったのである。このことが、グラフの一八四一〜五〇年での急激な伸びとして反映されているのである。その後、株仲間再興令(嘉永四〈一八五一〉)で本屋仲間が再興されても、以前のようなゆきとどいた板権管理は不可能で、早引節用集の類似板・模倣板が横行したという。このような本屋仲間の機能を考えると、逆に、一八三〇年までの早引節用集の低調さも理解される。それは、板権の自主管理が厳格に行われていて、他の書肆が早引節用集を開板することができなかったからと考えられるからである。したがって、早引節用集の流布や盛行・需要・関心の高まりなどが、開板再板数の増減だけからは、正しく把握できにくいことを考慮する必要があるのである。
 また、早引節用集の開板は、本来、村上家と渋川家の二家合同によるものだけであるのに対し、他の節用集はその他の板元から開板・再板されるのである。したがって、開板再板数による比較については、ある程度、早引節用集の側に比重をかけてみるべきものとも言える。そのようなことを考慮すれば、早引節用集の流布・盛行などは、一八三〇年以前においても相応に認められるのではないかと推測されるのである。
 したがって、早引節用集の巷間における流布ないし関心の高まりなどを確認するには、他の方法によって補う必要がでてくるのである。

  戯作と早引節用集

 以上のように数量的な側面から、早引節用集の流布を正確には捉えきれないならば、まず、同時代人による流布の記述に期待したいところである。しかしながら、随筆類などにおいても、そのような記述は確認することができない。また、早引節用集自体、凡例などで「原板早引節用集世ニ行ハレテ尚増補ノ集アリ」(『大全早引節用集』寛政八年板)と流布について触れることもあるが、それをそのまま受け取ってしまうのは躊躇されるのである。
 早引節用集が巷間に流布するようになれば、その反応が何らかの形で現れるものと考えられる。そのような見通しのもとに、戯作において、早引節用集がどのように扱われているかを見、そこから、当時における早引節用集の流布などを推測していくこととした。
 まず、早引節用集が、戯作などの題目に採られた例をみることで、流布のさまをみる一助としたい。
 早引節用集が戯作の題目にとられるということは、一種のパロディとして用いられたということである。パロディの成功は、その元となったものがいかに多くの人々に知られているかにかかっている。したがって、戯作の題目として取られたことから、早引節用集の流布や関心の高まりを推測することは、ある程度可能であると思われる。そのような前提にたって、江戸期の戯作をみておくこととする。なお、早引以前に開板された本で「早引」の名をもつものに享保一〇(一七二五)年刊の『早引和玉篇大成』があるが、これ以降『ホシ早引節用集』のでる宝暦二(一七五二年)までは、「早引」の題目をとる書はないようであるから、以下に引く例で『早引和玉篇大成』の影響を受けたものはないと考えてよいと思われる。
 山崎麓編・書誌研究会改訂『改訂日本小説書目年表』(ゆまに書房 一九七七)によれば、次のような例があった。なお、ジャンル別も同書にしたがった。
  早道節用守    山東京伝  寛政 元(一七八九) 黄表紙
  テハ廓節要    楽亭馬笑  寛政一一(一七九九) 洒落本
  早引説要集    山東京山  文化 七(一八一〇) 合巻
  娘太平記操早引  三文舎自楽 天保 八(一八三七) 人情本
  意見早引大善節用 柳亭種彦  天保一四(一八四三) 滑稽本
 もっとも古い例は、京伝の『早道節用守』で、つぎの『廓節要』と合わせて寛政期となる。これらの例から、すでに寛政期において早引節用集はある程度の流布を得ていたか、少なくともその名が知られるなり、関心が高まるなり、何らかの現象があったと推測することが可能だと思われる。
 戯作以外のものではどうであろうか。ただし、これらの場合は戯作の題目とは異なり、「早引」という名目がその書の機能性を表現するために用いられていることが考えられる。つまり、戯作の題名ほどには、純粋なパロディ性をみとめることはむずかしく、かならずしも早引節用集の流布を反映しているとは限らないのである。したがって、あくまで参考として掲げることにする。いま、『国書総目録』により「早引」を冠するものを拾うと次のようであり、文化一一(一八一四)以降のものに認められることとなった。
  早引塵刧記(文化一〇)  早引米相場(文化一一)  早引塵刧記大成(文化一一)
  早引年代記(文政八)   早引人物故事(享和二序・文政八)  早引紋帳大全(文政九)
  早引歴通覧(文政一三)  早引蘭字通(文政一三)  早引道中記(文政一三)
  早引定紋鑑(天保三)   早引発句集(嘉永四)   早引相場割(嘉永七)

 さらに、戯作に現れた早引節用集の用例を掲げ、流布の様をみる目安としたい。また、前後の文脈などから、当時における早引節用集の使用のされ方や位置づけもある程度は知ることができるので、その点でも一言しておきたい。
 近世の戯作においては、特に、黄表紙に早引節用集の記述が認められる。収集した用例を以下に掲げるが、のちの記述の都合により、時代順に配してはいない。なお、私に、平仮名を漢字にあらためたり、句読点を補った部分がある。
 
 (1)時に将門、文字の早書きにはかなわせまじと、七ッいろはを一度に書いてみせる。秀郷それもかなわせじと、早引節用にて、八ッの文字を一度に引いてみせ、その上、八打鉦を一度に打つて見せる。(山東京伝・黄表紙『時代世話二挺鼓』天明八(一七八八)年)
 (2)朝ほらけ(略)『早引節用』気形門ニ、鯔 『日本紀』鯔 ボラナリ。(京伝・滑稽本『百人一首和歌始衣抄』天明七(一七八七)年)
 (3)世に早引節用集なる物あり。大抵其書を閲するに。大屋店子の代筆に採て。張華が博物を資け。文謁子の贈答に名姑秘して論衡に擬す(楽亭馬笑・洒落本『テハ廓節要』寛政一一(一七九九)年)
 (4)一つとは書いたが後がつまらぬ。ちよつと大屋さんへ行つて早引を借りてこい。じきに去り状を書いてやるは(曲亭馬琴・黄表紙『料理茶話即席話』寛政一一(一七九九)年)
 (5)「一つとは書いたがあとがつまらねへ 「夫婦喧嘩をするなら、早引を一冊買つておいてすることだ。去り状が書けぬと直に差しつかへてじやん\/になる(馬琴・黄表紙『胴人形肢体機関』寛政一二(一八〇〇)年)
 (6)「さて\/長い返事だ。早引節用で一字づゝほつていたと見へた。今朝から一日(玄関先で待たされて──佐藤注)門番をしてやつたやうなものだ。(馬琴・黄表紙『麁相案文当字揃』寛政九(一七九七)年)
 (7)戯作者にさづける文字は深いことはいらぬ。早引節用ぐらゐの文字てすむことだ。(京伝・黄表紙『作者胎内十月図』文化元(一八〇四)年

 早いものは天明(一七八一〜八九)のものが確認できるが、おおかた、寛政(一七八九〜一八〇一)のものである。このように戯作などに現れること自体、天明・寛政期において、早引節用集が、それ相応の流布をむかえたことや、一般に関心がもたれていたことを推測させるものと思う。
 さて、これらの用例から、当時における早引節用集の位置を考えてみよう。
 (1)『時代世話二挺鼓』は、俵藤太秀郷の平将門征伐に取材した黄表紙で、両者が早業くらべをおこなうという潤色をほどこしている。将門は分身を使って早業で秀郷にいどむ。秀郷は早業八人前(千切り器)・八人芸・八角眼鏡・八打鉦など、当時、流行しつつあった利器や風俗で対抗する。その一つに早引節用集が出てくるのである。早引節用集の流行や関心のもたれたことがうかがえる好例といえる。
 (2)は百人一首の注釈書の体裁をおそった滑稽本で、「朝ぼらけ」の注の部分である。引用書の一つに早引節用集の名が挙げられている。ただし、「気形門」と門別が記されているのが注目される。早引節用集は、門別を廃した節用集であり、また、当時においては門別を施した早引節用集も開板されていないからである。したがって、この場合は単に「節用(集)」とあった方が、従来型の部・門引きの節用集をさすこととなるので自然である。
また、このことから、逆に、早引節用集の名目だけが先行して流布し、その実体が伝わっていないというような状況を考えることが必要なのかもしれない。
 (3)は、早引節用集の実際の使用のされかたが記されている。大家が店子の代筆をするときに使うというものである。(4)の例では大家から早引節用集を借りるという状況が描かれている。この二例から、階層の上では、大家層くらいまでは、早引節用集を備えていたことが考えられる。なお、(4)からは、早引節用集が店子層の人々にも気軽に扱えたものであることが推測される。この点では、(5)の例も同様と思われる。
 また、(5)からは、早引節用集の価格についてもある程度の情報が得られると言えようか。妻の言葉からすると、店子の収入でも早引節用集が手に入れることができたとも考えられる。価格も早引節用集の流布にとっては重要なポイントだが、現在までのところ、具体的な数字は知られない。『大阪本屋仲間記録』などにも店頭の売価は記されていない。ただ、『大全早引節用集』の価格を記したらしい記事があり、それは、「一東寺社御役所より、大全早引、御注文に付差出し候事、代八匁八分」(「出勤帳」天保一二年五月)というものである。「八匁八分」は現代の二万円前後に相当するかと考えられるが、注文冊数の記述がないので確実なところはやはり不明である。そのような状況であるから(5)の例は貴重である。
 このほかに、京伝の黄表紙に『御存商売物』(天明二〈一七八二〉年)がある。これは、時代遅れの草双紙(赤本・黒本など)と新興の草双紙(黄表紙)との抗争を描いた黄表紙であるが、その調停役に『唐詩選』『源氏物語』があり、その配下に『徒然草』とともに「早引」が登場する。この役どころは、『唐詩選』『源氏物語』『徒然草』などからすると、名の知れた堅めの書物ということであろう。ここでは、辞書の代表として早引節用集がとられたと解すべきものと思われる。そして、早引節用集がそのような位置をとるものとして扱われていたことが知られるのである。また、その役どころは、特に早引節用集でなければならない理由はなく、「節用(集)」とあっても特にさしつかえるわけではない。したがって、この例は、節用集の中で早引節用集が注目されていたことを意味するものと受け取ることができるのである。この点では、すでにみた例においても同様のことがいえる。(2)は門別を記す点から節用集の方がふさわしい例であり、(3)〜(5)は漢字を求めるという場面であったから「節用(集)」とあってもよいところである。そのような例に早引節用集が現れるということは、当時においてもそれ相当の流布を想定する必要があることを意味しよう。もちろん、新しいものだからもてはやされるといった面があることも考慮しなければならないであろうから、部・門引の節用集にとってかわるほどに流布していたとか、節用集といえば早引節用集のことをさすようになっていたとまで言えるかどうかについては慎重であるべきだろう。
 このように、早引節用集の流布をうかがわせる例は少なからず見つけることができる。しかし、一方では、かならずしも高い評価を与えていない例も認められる。それが(6)(7)である。
 (6)は一見すると早引節用集の引きにくさを示すかにみえる。が、『麁相案文当字揃』はその題が示すとおり、当て字の面白さで読ませる黄表紙であるから、「一字づゝほつていた」も「当て字を作るのに時間を用した」と考えられる。したがって、この「早引節用」も「節用(集)」でもよいところで、(3)〜(5)と同様、「節用集」の代わりに早引節用集が現れたものと考える余地はあることになる。
 (7)は内容の拙劣を示すかに見える。同様のことは、(50)『シリ早字引大正』にも「此早引といふもの、物を能よみ能書人の用ふへきにあらす。偏に童の導ぐさなれは」(凡例)とあることからも、当時においては、ある程度一般化した認識であったのかもしれない。ただし、早引節用集と他の節用集とで、内容に大きな差はないようなので、これらの例を字義通りに受け取ることにはやや抵抗がある。むしろ、従来のものより簡便で引きやすい早引節用集よりも、少々引きにくいものをありがたがるといった性向が背景にあるとみるのが妥当であろう。したがって、この例も、早引節用集の流布を否定するほどものではないと考えられそうである。
 以上のことから、早引節用集は、すでに天明・寛政期において流布しつつあったか、少なくともその名が広範に流布していたことが考えられ、その浸透の度合いについてもある程度の情報が得ることができた。このことから、早引節用集の流布や関心がもたれ出した時期が、先にグラフでみた時期よりも四〇年ほどは早まることが考えられるのである。

  早引節用集の重板・類板から

 さて以上のような推測をさらに確実なものとするため、当時の書肆の動向をみておくこととしたい。巷間での流布に先んじて、書肆の側から何らかの反応があると考えるのが自然であるからである。
 当時の本屋仲間は、運営上の必要から種々の書類を保管し、後事に備えていた。その多くは散逸したが、大坂のものは例外的によく保存されている。早引節用集の板元も大坂の書肆であるので、早引節用集に関してはかなりの情報を得ることができる。現在、大阪府立中之島図書館から翻刻・影印が出版されているが、既刊分によって早引節用集にかかわる事項を拾い、年表としてまとめたものを次に示す。なお、京都・江戸の本屋仲間の記録も参照した。便宜上、寛政一二(一八〇〇)年まで示す。ここに年表はいる。年表は余滴にあり 年を追ってみていこう。『  早引節用集』が開板された翌年、早くも京都において「出入」が記録されている。これは、京都書林仲間の「上組済帳標目」によるものである。書名が示すように、標目しか載せないものなので、この出入の詳細は不明である。なお、『大坂本屋仲間記録』にはこの件の記載がないので、さして重大なことではなかったのかも知れない。
 これについで宝暦一二年には、イロハ分けを仮名第二字までほどこした『早字二重鑑』『安見節用集』が開板されるが、早引節用集の類板(模倣書)として訴えられている。ただし、この件は、早引節用集の板元が過剰に板権を主張した事例であると私考する。この場合は、逆に、早引節用集の開板・流布に刺激されて、新たな引様を考案するにおよんだ例とみるべきもののようである。このことについては、以前にも触れたことがあるので、これ以上立ち入らないこととする。
 明和元年の『千金要字節用大成』は、早引節用集と同様の引様を施したものである。普通なら、早引節用集の板元から類板と指定されてもおかしくないものである。しかし、それまでの早引節用集よりも大きな半紙本であったため、『千金要字節用大成』の場合は小型本にしないという限定つきで、板権が認められた。
 明和三年の『万代節用字林蔵』の場合は、早引節用集の板元と『千金要字節用大成』の板元から類板の争議が起こされ、絶板となった。現在みられる『万代節用字林蔵』はイロハ分けと門別によって収載語を配列する部・門引きのものである。これは、『大坂本屋仲間記録』に「其後数年已後段々京より頼候ニ付、右仮名ヲならべ不申、本文悉ク書改、彫直シ候旨申候ニ付、大坂より罷上り、願下ゲ致遣候、本文彫替流布致シ候事」(「鑑定録」)とあることから、類板争議の後、部・門別に改めたものであることが知られる。
 これ以降では、早引節用集を無断で開板する「重板」が続く。明和七年に二件、安永三年に一件、同四年には二件となっている。注目したいのは、江戸や京都のほかに、松本や仙台においても重板が行われていることであろう。地方の書肆においても、早引節用集がいち早く注目されていたことがうかがわれるからである。
 天明元年の『二字引節用集』は、語頭の仮名のイロハ分けに、語末の仮名のイロハ分けを併用し、語を収載するものである。『五音字引節用集』は、語頭の仮名のイロハ分けに、語末の仮名の五十音引きを採用したものである。両者とも開板された時期は明確ではないので、早引節用集の板元が三都の本屋仲間にあてた類板本取扱停止を依頼した書類の年に掲げた。両者とも早引節用集の類板となったが、これについても、宝暦一三年の『早字二重鑑』『安見節用集』と同様に、早引節用集の板元が過剰に板権を主張したことが考えられる。したがって、『早字二重鑑』などと同様、早引節用集の流布に刺激されての新たな工夫であったとみるべきものと思う。
 以上のように、重板や類板が続くことが、早引節用集に対する当時の書肆の動向を示すものと考えられる。すなわち、早引節用集は、宝暦二年の開板から数十年で、他の書肆に対して、このような動きをとらせるほどの影響を与えた節用集であったことが知られるのである。
 重板・類板の状況からは、以上のような結果をみることができた。この結果をまた別の面から支えるために、一八〇〇年以前における早引節用集の開板についてふりかえっておきたい。
 年表にかかげるごとく、数度の開板と再板があるが、宝暦二年に@『  早引節用集』が開板されてから、『大全早引節用集』の出る天明八(一七八八)年までの三七年間で各種の早引節用集が出そろうことになる。A『  早引節用集』・M『  早引節用集』・(40)『早引残字節用集』・(41)『  早引大節用集』そして(27)『大全早引節用集』である。このバリエーションだけで、第三分類に門別をほどこした(42)『     いろは節用集大成』が開板される文政一〇(一八二七)年までの四〇年間を過ぎるのである。(42)は名古屋での類板(模倣書)であって、早引節用集の板元が買い取って再板する天保一三(一八四二)年までとすれば、五五年間となる。すなわち、宝暦〜天明期(一七五一〜八八)に開板されたバリエーションだけで半世紀を経たことになる。すなわち、先にもみたように、この期間における開板・再板の量は決して多くはないのだか、質の点で充実しているとすることができそうである。このことは、それだけ、早引節用集が巷間に受け入れられたことを反映した結果であるとみることができよう。

 以上のようなことから、さきにグラフで示した時期よりも五〇年から六〇年近くも早くから、書肆のあいだでは早引節用集が注目されていたことが知られるのである。したがって、先にみた戯作の例なども単に「戯作」におけるものとして低く扱うこともできにくいものと思われるのである。

  おわりに

 以上、種々の点から早引節用集の流布について検討してみた。早引節用集は、宝暦二年の開板から二〇〜三〇年ほどで流布していくことが知られたが、そのような早引節用集がその後どのような影響を与えていくのかが、問題となるものと思う。その一端は、近世後期における引様の新案の続出という現象としてあらわれたと推測したことがあるが、また他の面からの追究も必要であるものと思っている。今後に期したい。


1 山田忠雄編『開版節用集分類目録』(一九六一)、同述『近代国語辞書の歩み その模倣と創意と上下』(三省堂 一九八一)などを参照。
2 「近世後期節用集における引様の多様化について」(『国語学』一六〇一九九〇)3 具体的な手続きなどについては、拙稿「早引節用集の分類について」(『文芸研究』一一五 一九八七)を参照されたい。
4 また、Q『訂正早字引』と(49)『シリ早字引大正』は、BZ類のある本(もっとも流布し(27)と考えられる)から増字の部分を削除したものであることが判明する。が、いまこのことによりB類に含めた。
5 『千金要字節用大成』は板権を認められたが開板された形跡がないこと、(41)の板元として『千金要字節用大成』の板元も名を連ねていることなど、変則的な事象が両者のあいだに認められることから推測したものである。なお、詳細については、別稿を準備中である。
6 このことについては旧稿(注3参照)で指摘した。また、松井利彦「辞書と近世日本語」(『日本語学』八−七 一九八九)にも指摘がある。
7 山田忠雄『近代国語辞書の歩み』「序説」の指摘のほか、岩井憲幸「ゴシケービチ『和魯通言比考』覚書」(『早稲田大学図書館紀要』二〇 一九七九)、中村喜和「『和魯通言比考』成立事情瞥見」(『国語史学の為に』第二部 笠間書院 一九八六)などの研究がある。なお、『  数引節用集』がE類本に属することについては、拙稿「冒頭に「意」字を置く早引節用集二種」(『文芸研究』一一八 一九八八)で触れた。
8 蒔田稲城『京阪書籍商史』(高尾彦四郎書店再版 一九六八〔原版 一九二八〕)による。
9 小池正胤ほか編『江戸の戯作絵本』続巻二(社会思想社〔現代教養文庫〕一九八五)。
10 武藤禎夫編『百人一首戯作集』(古典文庫 一九八六)。
11 水野稔代表『洒落本大成』第一七巻(中央公論社 一九八二)。
12 清田啓子「曲亭馬琴の黄表紙(七)」(『駒沢短期大学研究紀要』一〇 一九八二)。
13同「同(八)」(『同』一二 一九八四)。
14 同「同(六)」(『同』九 一九八一)。
15 林美一『江戸戯作文庫 作者胎内十月図』(河出書房新社 一九八七)。
16 水野稔『日本古典文学大系59黄表紙洒落本集』(岩波書店 一九五八)。
17 注2参照。
18 この記事には日付がないが、この次の記事には「明和六年丑九月廿六日」の日付があるので、それ以前の記載かと思われる。ただし、この件については、「裁配帳一番」に奉行所などにあてた諸書類の写しがあり、それらは、明和六年一一〜一二月の日付となっている。

 参考文献など

高梨信博「近世節用集の序・跋・凡例(一〜三)」(『国語学 研究と資料』一一〜一三(一九八七〜八九))中村喜代三『近世出版法の研究』日本学術振興会 一九七二大阪府立中之島図書館編『大坂本屋仲間記録』第一〜十四巻 清文堂 一九七五〜八九 『江戸本屋出版記録』上中下 ゆまに書房 一九八〇〜八二宗政五十緒・朝倉治彦編『京都書林仲間記録』一〜六 ゆまに書房 一九七七〜八〇

 付記
『ホシ早引節用集』の所在は高梨信博氏から、『大全早引節用集』(寛政八年板)の所在は米谷隆史氏より御教示いただいた。記して感謝申し上げます。また、御蔵書の閲覧を許可された、遠藤好英氏・佐藤武義氏をはじめ、諸図書館などの関係者の方に御礼申し上げます。
 なお、本稿は、第三二回国語語彙史研究会(一九八九年九月一六日・大阪大学)における研究発表原稿の一部に加筆訂正したものである。また、同会においては、質疑などをはじめとして有益なご意見をたまわることができた。厚く御礼申し上げます。
 本稿は、平成元年度文部省科学研究費補助金・奨励研究(A)による研究成果の一部である。

『国語語彙史の研究』11(和泉書院。1990)所収