佐藤 貴裕
はじめに
宝暦二(一七五二)年、大坂の柏原屋与市と本屋伊兵衛が『〈宝暦新撰〉早引節用集』を開版したことにより早引節用集の歴史がはじまる。同書は、それまで節用集に必須であった意義検索を煩雑なものとして廃し、新たに仮名数引きを採った節用集である。この検索法は、イロハ・仮名数というシニフィアンに属する指標だけで構成される点が近代的であると評しうるが、やはり、簡便さが受け入れられて短期間に広く迎えいれられ、近世後期から明治にかけては通俗辞書の代表格となった。その影響は、早引節用集の模倣版や検索法の新案の続出を招来するとともに、ゴシケービッチ・橘耕斎編『和魯通言比考』(一八五七)の重要な原拠となる異本や、ヘボン編『和英語林集成』(一八六七)の編纂資料としての可能性が検討される異本を派生するなど、節用集だけにとどまらなかった。このように、早引節用集は、近世辞書史上に固有の位置を占める存在なのである。
こう記せば順調に歴史を重ねたかに見えるが、実は、開版間もない時期に存亡にかかわる危機が二度あった。
一度目は『早字二重鑑』『安見節用集』(宝暦一二刊)の開版による。この二書の採用したイロハ二重検索はイロハ・仮名数引きよりもさらに近代的で簡便なので、早引節用集にまさるのは明らかだった。ところが、柏原屋らは、逆に『早字二重鑑』を類版(意匠剽窃)として出版界から締め出すことに成功したのであった。
二度目は、明和元(宝暦一四)年、大坂の書肆である吉文字屋市兵衛・堺屋清兵衛が『千金要字節用大成』の版権(板株)を入手したことに始まる。この書は、早引節用集に先んじて仮名数引きを採用するものだった。同年、柏原屋らが『早引大節用集』の開版手続きをしたところ、吉文字屋らは『千金要字節用大成』の版権に抵触するものと訴えたのである。仮名数引きの明確な先例を根拠にした要求だったため、早引節用集全体に影響が及びかねない重大な危機をむかえることになったのである。
この明和元年の件を検討していくといくつかの不審にでくわす。のちに見るように、大坂本屋仲間の議決は吉文字屋側の意向をくんで『千金要字節用大成』の再版を認めるが、再版された形跡はない。また逆に、この件以降も柏原屋らは早引節用集を刊行しつづけており、明和八年には、吉文字屋らとともに差し止められたはずの『早引大節用集』を開版しているのである。
本稿では、こうした疑問点のある明和元年の紛議について少しく検討を加えてその真相にせまり、さらに、本件の、節用集史上への位置づけを試みようとするものである。
明和元年三月、柏原屋らは『早引大節用集』(以下『早引大』)の見本写本を大坂本屋仲間に提出した。出版実務にさきだって、他書の版権や公序良俗に反しないか確認をえるためである。これに対し、吉文字屋らは『千金要字節用大成』(以下『千金要字』)の版権に抵触すると抗議した。これ以降、大坂本屋仲間内で議論が交わされることになるのだが、詳細は現在に伝わらない。大要だけは大坂本屋仲間の記録類にあるので引いておく。大阪府立中之島図書館(一九八一)により、句読点・鍵括弧を私に補った部分がある。
覚
一此度吉文字屋市兵衛殿・堺屋清兵衛殿相合ニ而、江戸表より千金要字集株被買請候。然ル処、柏原屋与市殿・本屋伊兵衛殿より早引大節用大本写本仲間江板行被願出候処、吉文字屋・堺屋より右千金節用集ニ差構被申出候処、柏原屋・村上被申候ハ「右早引節用ハ小形ヲ大本ニ致シ候儀故、何方へも構無之、其上当三月御仲間へ差出シ置候写本。又千金節用集之義ハ当五六月之比差出シ被申候義ニ御座候。手前写本先ニ相立可申哉」と被申出候。吉文字屋・堺屋よりハ「右千金節用集ハ数十年以前之古株ニて、其上当二月ニ買請証文御座候間、手前共先ニて御座候」様被申、此義難一定候故、仲間惣寄合ヲ以評義之上相糺シ申ス定之事
一千金要字集ハ古株ゆへ、古株之通ニ増減之義ハ勝手次第ニ再板可被致事、尤一二三付外之節用へハ不取用、猶又小本半紙本等ニも被致間敷定之事
一早引大節用集大本ハ、板行願可被相止メ事、且又半紙本ニも被致間敷定之事
右之通銘々共立合相定候、以上明和元年申ノ年十二月四日 (差定帳一番四六)
まず、問題の両書について。『早引大』は、それまで三切縦本・半切横本のような小本だった早引節用集を、大本(美濃判)にしたものである。『千金要字』は、現存が確認されないが、右引用の「一二三付外之節用へハ不取用」や、次に引く別件記録に「かな之次第」とあるので、仮名数引きを採るものであることが知られる。
一早引節用之義、惣打込かな之次第ニ而、文字引出し候書ニ而御座候
一千金節用之義、廿一門分ケかな之次第ニ而、文字引出し候書ニ而御座候 (差定帳一番五〇)
なお、早引節用集にはイロハ分けがあるが、この記録ではその旨を記さないので、やはり特記しない『千金要字』にもイロハ分けがあったと思われる。とすれば、イロハ・意義分類・仮名数引きの三重検索となるが、イロハ引きを備えると判断できる材料はこの記録しかなく、またその判断も間接的であるから、確実なところは不明とすべきで、三重検索についても可能性としてだけ捉えるのが穏当かもしれない。
ついで、両書の版権の正当性を確認しよう。まず、この紛議までに柏原屋らの早引節用集は『〈宝暦新撰〉早引節用集』(宝暦二。以下『宝暦新撰』)・『〈増補改正〉早引節用集』(同七・同一二)・『〈増字百倍〉早引節用集』(同一〇)と四度刊行されている。この間、どの書肆からも版権侵害等で訴えられなかったので、仮名数引きが柏原屋らの版権に属するのは確実といってよい。なお、『早引大』の開版は、『宝暦新撰』の刊記にも次のように予告されるので、早引節用集の登場時、すでに計画されたものであった。
早引大節用集〈大本一冊〉山下重政著述
日用重宝品々入近刻 (東京学芸大学望月文庫蔵本)
一方、『千金要字』は「数十年以前之古株」とあるように『早引大』はもちろん、他の早引節用集にも先んじるのが強みである。『新書籍目録』(享保一四刊)に「千金要節用」(欠ママ)とあるのを『千金要字』だとすれば、確かに「数十年以前之古株」であって、こちらも版権に不安はないものと思われる。
このように双方とも版権は確かなので、「此義難一定候」と議論は紛糾したのであろう。その末での議決は、吉文字屋らには「古株之通」に『千金要字』の開版を認めるものであり、かつ、判型については大本のみが許された。柏原屋らには『早引大』の開版を中止させたものの、小型の早引節用集の刊行は認めることとなった。おそらく仮名数引きのプライオリティについても議論されたのであろうが、その決着は見送り、仮名数引きの権利を判型の大小で分有させたのである。なお、中間の判型である半紙本の開版が両者に認められないが、不可侵領域を設けて大小を明確にし、紛議再発をふせぐ意味があったものかと推測する。結局、仲間議決は『千金要字』の版権を認めながらも柏原屋らの既得権も保護する折衷案だったと考えられる。
二 議決の要点
仲間議決は、折衷案とはいえ、『早引大』をしりぞけ『千金要字』の開版を認めたのだから、吉文字屋らに有利なものと考えられる。しかし、議決を受けて「古株之通ニ」『千金要字』を開版した場合、小さからぬ問題がある。『千金要字』の検索法には意義分類が含まれるが、これは曖昧・不分明な場合があって、必ずしも優れた検索法ではない。そのうえ、意義分類の欠点を自覚し排除した早引節用集がすでに開版・再版されている以上、「古株之通」の『千金要字』が購買者をひきつけたかどうかは疑わしい。ならば、意義分類を廃してもよさそうだが、それは「古株之通」ではなくなるので仲間議決が許さないのであった。結局のところ、明和元年紛議の議決は、吉文字屋らにとって必ずしも有利ではなかったと考えられるのである。
改めて議決をふりかえろう。吉文字屋・柏原屋に認められたのは次のような組織・体裁の節用集であった。
吉文字屋ら『千金要字』 (イロハ)・意義分類・仮名数引 大本
柏原屋 早引節用集 イロハ ・仮名数引 小本
したがって、両者の特徴をあわせもった節用集、すなわち、意義分類を廃した仮名数引きの大本節用集──具体的には柏原屋らの『早引大』と同趣のもの──は、開版できなくなったのである。単に早引節用集を大型化したものを何人も開版できなくなった、そしてそれが仲間議決という組織・制度の上から規定されたことには不条理に近いものを感じる。が、それはやはり、この議決が真の解決策ではなく、長引く紛議を収束させるための方便であることを匂わせてもいよう。
その方便のありようとして、両者が望んだことを共に諦めさせるという途がありうる。本件で吉文字屋・柏原屋両者に大本の仮名数引き節用集の開版が認められなかったのだから、柏原屋らはもとより、吉文字屋らもそれをこそ開版するつもりであり、また主張したのではなかろうか。これは当て推量で言うのではない。仲間議決では、吉文字屋らの『千金要字』に対し、「古株之通ニ増減之義ハ勝手次第ニ再板可被致事」との制約を加えているのが証拠である。もし、当初から『千金要字』の再版だけを望んだのなら、こうした制約事項は添えられなかったはずである。したがって、吉文字屋らは、『千金要字』を根拠とし、それを発展・改編した仮名数引きの大本節用集の開版を意図し、その版権をこそ主張したものと思われるのである。
以上のことから、明和元年紛議の争点は、大本の早引節用集の開版はだれの権利であるのかをめぐってのことだったと推測されることになる。
三 紛議後の動向から
明和四年一一月、京都の梅村市兵衛らが開版した『万代節用字林蔵』(以下『万代節用』)が京都町奉行により絶版に処せられた。同書は「本文之かな付一より段々次第を分チ候書」と、仮名数引きを採るものであった。この紛議は、いくつかの点で明和元年紛議の余波を受けており、興味深いことを教えてくれる。
記録には「柏原屋与左衛門・村上伊兵衛所持仕候早引節用、吉文字や市兵衛・堺屋清兵衛所持仕候千金節用、右両書ニ差構候」とあって、吉文字屋らも名を連ねるのが興味深い。これは『万代節用』が大本であったため、柏原屋らだけでなく、吉文字屋らも事にあたったということであろう。
また、公儀の裁定にいたった点も興味深い。当時の民事裁判では内済(和解)による解決が大原則であり、公儀もそれを強くすすめ、当事者たちも経費や煩雑な手続きを厭うてこれに努めた。ならば、公儀の裁定にまでいたったのは、当事者同士がよほど互いの主張を譲らなかった場合ということになるからである。
とすれば、梅村市兵衛らも版権を強固に主張し、それを支えるほどの確たる根拠もあったことになる。が、梅村や、共同出版した山田屋三郎・津国屋嘉兵衛・菊屋長兵衛・加賀屋卯兵衛らに、そうした根拠や実績があることは確認できないのである。ならば、彼らの主張の根拠がどこにあるのかといえば、仮名数引きをとる大本節用集がこの世に存在せず、それを初めて世に送り出した、ということしかないように思うのである。
そもそも版権(板株)は、それまでに存在しなかった本を創出することで得られるから、『万代節用』はその条件にかなっている。ただ、この場合、誰も案出しなかったために存在しないのではない。明和元年紛議の議決が、誰にも許さなかったためであった。が、経緯はどうあれ、現象としては、この世に存在しないことに変わりはない。梅村らは、それを踏まえてプライオリティを主張したのであろう。たしかにそれは誤りではない。が、それだけに、内済交渉では理解に苦しむ場面もあったであろう。まず、柏原屋・吉文字屋両家が仮名数引きを分有するということが理解しにくかったであろうし、大本の早引節用集を開版できない両家が版権を主張するにいたっては奇怪至極とも感じたことであろう。梅村らには、そのような両家に正当な版権があるとは納得できなかったはずである。そうでなければ、己が版権を主張するあまり、訴訟さえ受けて立つことにはならなかったからである。思えば、『万代節用』一件は、明和元年紛議議決がもたらした不幸な事故でもあったのである。
右のなかで最も興味深いのは、やはり、柏原屋・吉文字屋が共同した点である。明和元年紛議の議決で版権が分割された以上やむをえないが、裏返せば、両家の版権を合すれば早引節用集大本を開版できることにならないか。考えてみれば、明和元年紛議の議決は負の平等をはかって両者から早引節用集大本を奪ったと推測されたが、反対に、両者に早引節用集大本の開版を認めることも平等なはずである。もちろん、すでに版権分割は決定されたので議決そのものを改めるのは困難だが、共同で開版する(相合)には何らさしさわりがない。そうした便法があることを、柏原屋・吉文字屋らは、『万代節用』一件で確認したのではなかろうか。明和八年、相合が実現して『〈明和新編〉早引大節用集』(明和八年刊。以下『明和新編』)として早引節用集大本が誕生するが、明和元年紛議から『万代節用』一件を経ての相合という順序はしかるべきものなので、『万代節用』一件の果たした役割を右のように推測するのもあながち誤りとはいえないように思うのである。
前節では、吉文字屋らも早引節用集大本の開版を望んでいたと推測したが、それは、右のように『明和新編』によって実現された。その意味では、ここに、明和元年紛議の最終的な収束があったと見ることもできよう。
四 早引節用集の弱みと強み
吉文字屋らが『明和新編』の開版にあずかったのは、さかのぼれば明和元年紛議に端緒がある。そこでの成功の要因には、『千金要字』の存在もさることながら、早引節用集の側にも重大な落ち度があったことを考慮すべきように思う。先に要点を言えば、柏原屋らの早引節用集は、辞書の生命である本文と検索法とを、吉文字屋側の書籍に依拠していたということがあるのである。
まず、早引節用集の嚆矢『宝暦新撰』とその直系『〈増補改正〉早引節用集』の本文は吉文字屋らの『蠡海節用集』(延享元刊)に依拠する。たとえば、『蠡海』のア部言語門の本文を連番付きで示せば次のようだが、
1剰 2欺 3嘲 4鮮 5遽 6怪 7危 8諦 9強 10扱 11L 12欠 13泡 14暑 ……
これを仮名数の別で順にふりわければ次のようになり、
二字 13…… 三字 1214…… 四字 23467891011…… 五字 15……
これはそのまま、『宝暦新撰』ア部の仮名二字から五字の部の配列なのである。この範囲での例外は、四字の項で9(強)の次に「遖」が入ることだけである。このような配列上の類似は、冒頭のイ部では異同のある部分があるものの、他の部でも同様に認められるものである。
つぎに検索法についてだが、早引節用集の仮名数引については、吉文字屋の江戸出店・結城次郎兵衛の開版書である勝田祐義編『早引和玉篇大成』(享保五刊。以下『早引和玉篇』)との関係が疑われている。本書は、部首を八九に抑える一方、部首引きしにくい字を「雑部」に集め、総画数引きにするものである。関場武(一九九一)は、『早引和玉篇』と『宝暦新撰』の関係を示すものとして、検索法での数の重視、書名における「早引」の共通を指摘する。さらに「雑部引ヤウノ指南」で従来の和玉篇の部首が多すぎるという指摘が、『宝暦新撰』で意義分類の多さや煩雑さを説くのに通ずるというのである。
このように『宝暦新撰』系早引節用集の成立には吉文字屋刊行書二書がかかわる可能性があり、検索法にかぎれば他の系統の早引節用集すべてが影響下にあることになる。ここに、柏原屋らの早引節用集とは、まったく吉文字屋らの刊行書に依存して開発されたものである可能性が明らかになったのである。
ただ、こうしたことは現代の我々が気づくのであって、吉文字屋らが気づいたかどうかは別の問題である。が、十中八九、熟知していたかと思う。たとえば、『早引和玉篇』との関係なら、書名の相通から検討した可能性がある。節用集の版権問題において、軽微な抵触ではあろうが、書名の類似が問題にされた事例もあるので、相応に注意を払ったことが推測される。『蠡海』の本文流用の方は仮名数で改編しないと分からないが、当時、吉文字屋らは新たな検索法の開発に注力しており、自身の版権書の本文を種々加工していた。その過程で『蠡海』の本文流用も、容易に知りえたのではないかと思われるのである。
とすれば、吉文字屋らは、早引節用集誕生の当初、すなわち『宝暦新撰』の開版時点から版権侵害として争いそうなものなのだが、記録には見当たらない。実のところ、吉文字屋らが、仲間寄合などで自家開版書と早引節用集との関係を証するだけの根拠は示すのは困難だったかもしれない。諸状況が、早引節用集の側に有利にはたらいていた節があるからである。
たとえば、仮名数引きについては、早引節用集に先行する玉篇・和玉篇でも部首の下位を画数引きしたものがあるので、『早引和玉篇』との固有の関係を証するのはむずかしそうである。そのうえ、享保二〇年再刊の『増続大広益会玉篇大全』では吉文字屋だけでなく、柏原屋も本家の清右衛門がやはり版元として名を連ねており、柏原屋らはこちらから考案したと主張できることになる。書名についても同様で、共通する要素「早引」も固有の関係を証する根拠としてはあまりに普通名詞的である。
書籍としての側面からだけでなく、柏原屋を紛議の相手とすることも不利であった。というのは、柏原屋らは、明和元年紛議の直前、早引節用集にさして抵触すると思われないイロハ二重検索の『早字二重鑑』『安見節用集』を絶版・版木買収においこんでおり、そこまでにいたる交渉術等々の力量を考えれば、よほどの根拠なくしては、軽々には争えない相手だったと考えられるからである。
このように悪条件が重なったため、正面から柏原屋らと争っても、吉文字屋らが早引節用集の版権を〈奪還〉できる可能性は少なかったと推測されるのである。
五 『千金要字』の強み
ところが、吉文字屋らは『千金要字』を得ることで、悪条件を解消することができた。『千金要字』が、早引節用集の弱みを突くだけでなく、強みを切りくずしうる特徴を備えていたからである。重要なのは「数十年以前之古株」と早引節用集に先行することだが、さらに見逃せない特徴が二つある。その第一は編者が『早引和玉篇』と同じ勝田祐義であることである。まず、大坂本屋仲間の『書籍分類目録』五(寛政二頃編)に、
千金要字節用大成 作者勝田祐義 全一冊
とあり、また、『新書籍目録』四(享保一四刊)に、
金言童子教 勝田祐義 (三二丁オ。最終行)
千金要節用 (三二丁ウ。第一行。「字」字および編者名の欠はママ)
とある。「千金要節用」の直下に勝田の名はないが、直前の行にあるので省略されたのでもあろう。このように『千金要字』の編者は『早引和玉篇』と同じく勝田祐義であることが知られる。とすると、さきに、早引節用集の仮名数引きが『早引和玉篇』からのものとする関場武の説を紹介したが、その編者・勝田祐義自身が、すでに仮名数引きによる節用集を編んでいたことになる。
こうした『千金要字』の存在は、明和元年紛議において吉文字屋らが主導権をにぎるのに効果があったろう。折にふれて、柏原屋らに『千金要字』で勝田の名を示すことで『早引和玉編』を想起させ、早引節用集の依拠資料が吉文字屋に属することを意識させられるからである。『千金要字』は急所をおさえるものだったのである。
『千金要字』の第二の特徴は、大本であることである。そのことを直接示した資料はないが、吉文字屋らが大本の『早引大』を版権侵害としたこと、議決で『千金要字』には小本としての再版が認められなかったことから判断できる。幸い、柏原屋らが明和元年紛議以前に刊行した早引節用集は小本だけなので、『千金要字』のような確たる根拠があれば、大本の仮名数引き節用集の版権を主張する余地があることになるのである。
判型の大小で版権を分割するのは少々奇異に思えるが、すでに先例があった。それゆえに、吉文字屋らも分有の可能性にかけたのであろう。たとえば、節用集では、明和元年紛議直前に起きたイロハ二重検索の『安見節用集』一件が参考になる。同書は、早引節用集の版権侵害書として柏原屋らが買収したが、判型が他書に抵触するため、柏原屋ら自身も再版できなかった。
京師ニ出来候安見節用集之板木、他所へ遣シ候而ハ、本形ハ懐宝節用ニ差構候(略)大坂ニおゐて本壱部も摺被出候義、かたく相不成候趣之相対ニ而、内済仕候事 (差定帳一番四二)
また、大坂本屋仲間記録の「絵本出入格式之事」(元文二)は、まさに判型の大小によって版権の範囲を画定する規矩であった。
一三ツ切二ツ切寸珍本ヲ以、大本半紙本ニ仕候事不相成、大本半紙本之株ヲ以、三ツ切二ツ切寸珍本ニ不相成事 (差定帳一番一七)
ただし、これをそのまま節用集に適用できたかどうかは知られない。が、さきに掲げた『早引大』の広告に「日用重宝品々入」とあるのは付録の絵入り日用記事のことであって、これをもって絵本の一種とみなし、「絵本出入格式之事」を適用することも考えられる。また、そこまで行かずとも、参照・準用することはありえよう。そうなると、柏原屋らの「右早引節用ハ小形ヲ大本ニ致シ候儀故、何方へも構無之」との主張は、説得力はともかく、有効性は大いに揺らぐことになりそうである。
以上、『千金要字』は、早引節用集以前に仮名数引きを実現しており、『早引和玉篇』と同じ編者の手になり、また大本であったがために、吉文字屋らの不利な状況を一掃したのであった。そしてそれを入手した吉文字屋らは首尾よく明和元年紛議に勝利したのだが、改めて紛議の結果を評価すれば、吉文字屋らの勝利とは、やはり『千金要字』の再版ではなく、柏原屋に仮名数引きの大本節用集を開版させなかったことにあるのである。
おわりに
種々見てきたが、結局のところ、明和元年紛議とは、仮名数引きの版権を柏原屋らが専有することに対する、吉文字屋らからの異議申立てとしての側面が強いもののように思われる。
それからの連想で吉文字屋らの節用集を見返せば、早引節用集に対抗するかのような熱気を感じさせるものがある。たとえば、検索法では『国字節用集』(宝暦七、未刊)のイロハ二重引きや、『早考節用集』の濁音仮名の有無、『連城節用夜光珠』の濁音・長音・撥音仮名の有無での検索などがある。『連城節用夜光珠』系の節用集などは、再版をきっかけに改良することも怠らない。なかには、仮名遣いではなく発音を同じくする語を一まとめにしたり、人間の目と指の動きに配慮して丁付けの位置を決定するような、細やかで現代的な工夫も見られる。さらに、他分野書籍と合冊して節用集を構成するという大胆な試みを行ってもいるのである。
このようなことを見るとき、吉文字屋らが、早引節用集とその版元・柏原屋らをライバル視していたことは容易に想像されるし、だからこそ、両家が共同出版(相合版)することは考えられないのだが、唯一の例外に『明和新編』があることになる。なにゆえ『明和新編』の版元に吉文字屋らが加わるのか、佐藤が近世節用集の研究を開始した当初からの疑問であったが、三節でみたように明和元年紛議に端を発するものと解されるのである。
ところで、明和元年紛議につき、蒔田稲城(一九二八)が「爾今早引節用集の板株に或る制限が付けられたことは注意を要すべき点である」と評するのは興味深い。蒔田がどこまで見通していたのかは不明だが、たしかにこの紛議の議決は、本稿で検討した以外にも重要な影響を与えた。早引節用集のほとんどが三切・半切など小本であるのは、必ずしも携帯性への配慮から自然に落ちついた結果ではなく、本件議決の存在を考慮する必要があることになるからである。版権の範囲がゆるやかになった明治以降でも、早引節用集の多くが小本、殊に半切横本を維持したが、実に、この体裁を採ることが通念の域にまで達して固定したことの現れと見られるのである。
なお、この紛議は、佐藤(一九九〇a)で確認した検索法の新案続出期のさなかに起こった。したがって、本稿は、新案続出期のありようの一つを詳述したということができようか。ともあれ、本稿での種々の検討を通じて、明和元年紛議の持つ影響力が、意外にも広くかつ深いことを改めて認識した次第である。
注
(1)以上、佐藤(一九九〇ab)、中村喜和(一九七三・一九八六)、山田忠雄(一九八一)、飛田良文(一九六五)ほかを参照。
(2)宝暦三年に、京都の長村(半兵衛か)・菱屋(治助か)らから判型についてクレームが付けられたが、大事にはいたらなかったようなので考慮しない。佐藤(一九九六a)参照。
(3)佐藤(一九九〇a・一九九三)参照。
(4)明和四年、京都五書肆相合版『万代節用字林蔵』の件。「京板万代節用出入之覚」(中之島図書館(一九八一))による。同書は、『早引大』と『千金要字』の版権に抵触するとして絶版に処せられた。佐藤(一九九六a)参照。なお、本稿三節でもやや詳しく触れる。
(5)「惣打込」は、ウチコムが「入り交じる」の意であろうから、「廿一門分ケ」と対比して「一切意義分類せずに」の意であろう。意義検索を廃した早引節用集の検索法をよく表している。
(6)蒔田稲城(一九二八)では「仲間創制前の古板の節用集は板株が認められてゐなかつたから、その欠点に乗じ古板の株を買収して早引節用集を模倣することが行はれた。左に記す千金要字集は其の一例である」とみる。が、これは、早引節用集の版権問題では対立する側が侵害書であるという図式に捕らわれた誤解であろう。単純な偽造であれば長々と仲間間で議論されるはずもない。また、吉文字屋は当時最大の大店であるから(浜田啓介(一九五六))、信用を落としかねない版権偽造に手を出すとも思えない。
(7)佐藤(一九九〇a)注5参照。
(8)注4参照。なお、各所に現存する『万代節用字林蔵』(天明二刊)は、仮名数引きを廃した別書である。
(9)安永三年、仙台の柳川庄兵衛が早引節用集を重版(無断複製)した折りの大坂本屋仲間記録に「万代節用集与申大本節用集」(差定帳二番)とある。
(10)たとえば、「近世期の内済制度は寧ろ民事裁判は原則として総て、一定の内済手続を経て裁判役所に提出されるものであり、然らざる場合に於ても裁判役所は訴の審理に先立ち、当事者間に於て内済和融をなす可き事を要求した」(小早川欣吾(一九五七)、八二ページ)といい、また「内済に依りて事件を平和的解決に導く事を企図した」ため、故意に「重大なる争訟、例へば論所の如き事件は急速に取扱はざる事を裁判の格式と」(同、七七ページ)するほどに内済を重んじたという。
(11)佐藤(一九八七・一九九〇a)による。また、高梨信博(一九九四)は『蠡海』から『宝暦新撰』への改編例を種々示している。
(12)たとえば、『蠡海』は当時通行の節用集とことなって意義分類を言語門から始めており、『袖中節用集』(宝暦八刊)では乾坤門からに改め、『大節用文字宝鑑』(宝暦六刊)・『新撰部分節用集』(宝暦九刊)では意義分類をイロハ分けの上位に配している。米谷隆史氏の教示によれば、これらの本文は、小異はあるものの、基本的には『蠡海』に依るという。また、開版には至らなかったがイロハ二重検索の『国字節用集』(宝暦五。現存せず)も、時期からみて『蠡海』の本文に依った可能性が高い。
(13)佐藤(一九九〇a)参照。
(14)では、『明和新編』の相合をどう評価するのかが問題になりそうだが、ここでは、明和元年紛議の仲間議決にかぎっている。紛議の影響まで視野に入れるとき、『明和新編』も評価対象となり、それについては、二節・三節に触れてある。
(15)詳しくは、山田忠雄(一九八一)・佐藤(二〇〇二)参照。
(16)佐藤(一九九六b)参照。
(17)佐藤(二〇〇一)参照。
参考文献
大阪府立中之島図書館(一九八一・一九八六)『大坂本屋仲間記録』第八・一一巻 清文堂
小早川欣吾(一九五七)『近世民事訴訟制度の研究』有斐閣。増補版(名著普及会、一九八八)。
佐古慶三(一九六二)「〈浪華書林〉渋川称B堂伝」『上方文化』五
佐藤貴裕(一九八七)「早引節用集の分類について」『文芸研究』一一五
────(一九九〇a)「近世後期節用集における引様の多様化について」『国語学』一六〇
────(一九九〇b)「早引節用集の流布について」『国語語彙史の研究』11 和泉書院
────(一九九三)「書くための辞書・節用集の展開」『月刊しにか』一九九三年四月号
────(一九九五・一九九六a・一九九七a・一九九七b・一九九八)「近世節用集版権問題通覧」『岐阜大
学教育学部研究報告・人文科学』四四−一〜四七−一
────(一九九六b)「近世節用集の記述研究への視点」『国語語彙史の研究』一五 和泉書院
────(二〇〇一)「『錦嚢万家節用宝』考──合冊という形式的特徴を中心に──」『国語論究』九 明治 書院
────(二〇〇二)「『錦嚢万家節用宝』考──合冊の背景──」『岐阜大学教育学部研究報告・人文科学』
五一−一
斯道文庫編(一九六三)『書林出版書籍目録集成』三 井上書房
関場武 (一九九一)「宝暦新撰、増補改正、早引節用集」『芸文研究』五九
─── (一九九四)『近世辞書論攷』慶応義塾大学言語文化研究所
高梨信博(一九九四)「早引節用集の成立」『国文学研究』一一三
中村喜和(一九七三)「東風吹きししるしや……」『NHKロシア語入門』三月号 日本放送出版協会
────(一九八六)「『和魯通言比考』成立事情瞥見」『国語史学の為に』第二部 笠間書院
浜田啓介(一九五六)「近世後期に於ける大阪書林の趨向」『近世文芸』三
飛田良文(一九六五)「和英語林集成の語彙の性格──江戸後期の節用集との比較から──」『文芸研究』五〇
蒔田稲城(一九二八)『京阪書籍商史』高尾書店(一九六八復刻による)
山田忠雄(一九八一)『近代国語辞書の歩み』三省堂
米谷隆史(二〇〇一)「蠡海節用集の形式的特徴をめぐって」『語文』七五・七六