*学術的なオリジナリティはありませんが、言葉の世界を知ってもらうために書きました。


奇妙な語源でも   

佐藤 貴裕    

 岐阜に来て興味深い体験をいろいろしました。言葉のうえでは、たとえば「えらい」があります。立派だ、地位・名誉がある、の意味で使ってきましたが、こちらでは、大変だ、労力がかかる、の意味でも使います。仕事のきつさも「えらい」で表せますし、疲れたことも「えらかった」と言えます。私には、自分の使ってきた意味・ニュアンスが重なって、心に響く言葉になっています。
 その「えらい」ですが、『日本国語大辞典』などをみても江戸時代以降の用例しかないので、比較的新しい言葉のようです。その分、語源もはっきりしていそうですが、『日本国語大辞典』には、江戸時代の語源説を中心に六っつほど挙がっていて、ばらついています。ただ、多くは、イラ(苛)という要素に注目するので、何らかの形でイラの関わる説が無難なのかなとの印象を受けました。
 ただ、一つだけ、実に奇妙な、ある意味では痛快な語源説が挙げられています。

     享保年間に、兵庫の浦で大鯛がとれ、あらの料理を受け持った一人が、鰓を切るときに指に怪我をした。その口合に、「ああ痛い、これはエライタイ、さてもエライ鯛じや」と言った。それが広まって以後、大きな物でさえあれば、エライ、エライ物と言うようになり、日本国中の俗語になった〔世間仲人気質・摂陽奇観〕

 鰓でいためたのでエラ・イタイ、切れめを変えてエライ・タイ。そのまま単語にあてて「えらい」 ・鯛…… こうして形容詞「えらい」ができたというのです。本当でしょうか。『世間仲人気質』(安永五年刊)の原文だと、「享保年間」は「当年で四十九年以前三月下旬の比」と、妙にリアルな表現になっていますが、かえって疑いたくなります。結局、あまり採りたくはない説なのですが、一方では、捨て去るには惜しい何かがあるようにも思っています。
 日本語は、時代をくだるにつれて、新たな形容詞を生み出せなくなっていると言われます(在来の形容詞が他の要素と複合する場合は別です)。
最近では、若い人たちの「うざったい・うざい」が注目されていますが、元をただせば東京西部の方言だそうですから、まったく新しいとは言いにくい。その点では「ナウい」の方が“新しさ”があります。ただ、これも流行語で終わりました。
 こうした日本語の流れのなかで新しい形容詞が生まれるには、その流れに対抗する“何か”が必要です。その点、鰓痛い説の印象的な奇抜さ・面白さは、十分な対抗力になりそうです。こう考えてくるとつい信じたくなりますが、でもやはり俗説なのだろうというのが正直なところで、せいぜい、ありえなくもない、というところでしょうか。
 ただ、こういうことは言えるでしょう。鰓痛い説のおかげで、言語を見る目は確実に広がる、と。
 言葉には、理屈はどうあれ、相応に納得できれば使われていくという面があります。「ズボンと足を突っ込むからズボン」といういかがわしい語源を信じることで、「ズボン」という言葉の意味を理解し、不自由なく使えれば、社会生活は円滑にいとなめます。鰓痛い説も、こうした実用語源とでもいうべき役割は果たしそうです。その奇抜さゆえに人々の記憶に残りやすいでしょうから。
 このような実用性を優先する行き方は、現代の言語学・国語学では、言語運用上の一事実として軽からぬ位置を与えています。鰓痛い説をきっかけに、言語の、そうした側面を受けとめられる豊かな目が育っていけばいいな、と思っています。

*参考文献 『帝国文庫 気質全集』博文館。増井典夫「形容詞『えらい』の出自と意味の変遷」 『文芸研究』一一七。

小学館『国語展望』107 2000年11月