案内
 普通、言語資料は、言語生活・言語活動の結果として出きあがるものです。しかし、辞書は、そういう面もありますが、言語生活・言語活動に役立つようにと作られます。普通の言語資料との違いがここにあります。

 では、節用集が、当時の人々のあいだで、どのように用いられ、また、どのように見られていたか。生活の中でどんな役割を果たしていたか…… それが分からなければ何にもなりませんが、これを明らかにするのは、意外にもむずかしい。でも、やらなければいけないことでしょう。

 ここでは、子どもがどんな風に節用集にかかわったのかを見ていこうと思いました。本来なら、大人の利用の具合が先にあるはずですが、ちょっとお預け。



子供と節用集


 佐 藤  貴 裕

  はじめに

 案本胆助『江戸愚俗徒然噺』(天保頃成立)に次のような記述がある。句読点を改め、鍵括弧を施して示す。

 五六人も集りていろ/\噺しする其中に、壱人舌短くして物言わかりかねる者ありしを、傍より「我は縁者ゆへ」とて申やう、「いかに其許はろれつも廻らぬ癖に、口を利きたかるが甚だ聞きにくし。自分で人並みにあらざるを恥て引込て居られよ。他人は心に笑ふといへ共、我等は其許と従弟違のよしみをもつて、為をおもひ申なり」と恥しめければ、彼男返事もせずして、笑ひながら紙を出して、何か書付、恥しめたる人の前に置て立帰りける。跡にてこれを開きけれども、無筆文盲の男なればよめず。其座の者に読せて聞けるに、其文に「先以て只今御異見に候へども、拙者事は生れ付の事なれば、療治を加へても仕方是なく候。其許こそ療治加へて其後人の中にて口をも利なさるべく候。其訳と申は、拙者の物言をろれつが廻らぬと御笑ひなさるゝ事、夫が其元の病ひなり。おしへて遣すべし。呂律が分らぬと申さるべく候。其外聞苦しき気の毒なる事度/\に候へば、まづ節用にても御求め、早/\御療治然るべく候」との書付也ければ、其座にて面をうしないしとかや。(三田村鳶魚校訂『未刊随筆百種』第七巻、中央公論社、一九七七)

 呂律の回らぬ男の反撃は二段構えである。まず、書き付けという手段で相手の無筆文盲を暴露し、ついで「ろれつも廻らぬ」の不合理を、よりいえば、その不合理に気づかぬ迂闊さを突くのである。当時でもすでに慣用化していた「呂律が回らぬ」を責めるのは酷だが、その座の調子で書いてしまったのでもあろう。
 この話で気になるのは、「まづ節用にても御求め、早/\御療治然るべく候」の部分である。節用集は現代風にいえば用字集であって、かならずしも国語辞典のようには言葉の知識を提供してくれない(注1)。ことに「呂律が廻らぬ」を「呂律が分らぬ」に修正する、合理的な思考を養うような「療治」までは保証しないだろう。とすれば、「まづ節用にても御求め」は、節用集を所持し、使用することで、言語表現に関心をもつようにせよとの、一段深い読みが必要なアドバイスなのかもしれない。
 反撃の中心が必ずしも節用集に直結しないなら、反撃の手段に関わることがら、すなわち、相手の無筆文盲との関係に注目してもよいかもしれない。ただ、それでも、無筆文盲のものが言葉・文字を学習するのに節用集を用いるのが普通のことのように見えてしまい、違和感を覚える。節用集には、学習用や実用的な語・表記だけでなく、和歌・俳諧など創造的な行為をするにあたって初めて必要になる用語・用字も少なくないからである。
 もし、節用集が学習の具であるなら、未学習ないし学習中の子どもに似つかわしいことになる。では、当時の子どもは節用集で学習することがあり、それが普通だったのだろうか。あるいは、そう言っては、右の引用に引きつけ過ぎて、本稿の実りが小さくなりそうである。筆者は、近世節用集を当時の言語生活のなかに位置づけるために、使用者との関係の種々相を知りたいと願っている。それを踏まえれば、使用者の年齢の下限や低い識字段階の者との関係を見極めたい、ということになる。そして、関係の種々相というとき、必ずしも漢字を引くだけではない関係のありようにも関心がいく(注2)。本来の使い方から離れるわけだが、そうなる原因の一つに、使用者の側が、本来的な使用ができない、特殊な事情を抱えている場合が考えられる。普通、我々は、書籍・資料の使用者を無意識のうちに大人を想定する。当該時期の言語を考えるときもそうであるように。とすると、節用集の使用者が子どもであるケースは、十分、特殊な事情であろう。結局、子どもと節用集の関係を問うこと自体、種々相の外延の一画を捉えることになる、魅力的な問題設定なのである。ここでも、そうした本来的でない使用例も含め、広く、子どもと節用集の関係を見たいと思う。
 ともあれ、使用者と節用集のかかわりを明らかにするのは困難なことであり、参照すべき事例も決して多くない。いきおい、推測・想像が多くなることを、あらかじめ、お断りせざるをえない。

  一 就学前後の節用集

 就学以前の子どもが、節用集で文字を学んだり、節用集を辞書として使ったりした例は、現在までのところ、得られていない。したがって、以下に示す例も文字学習に直結しないものとなる。
 まず、江村北海『授業編』(天明三年刊)巻之一「幼学」では、幼児を書籍になじませるため、絵本から与えることが有効だというが、その一つに節用集も挙げている。まず絵本を与えるというのは橘守部『待問雑記』(文政一二年成)にも見え、渡辺平太夫『桑名日記』にも実例があり、広く実践されていたのであろう。

 凡そ小児二三歳の頃より、(略)みやげを遣すに、二三度に一度は、何にてもあれ、世にいふ絵草紙を求め帰りてつかわす。もちろん小児の事なれば、破りもするよごしもする。それに頓着なく、他のもてあそびと同じく、打まかせ置なり。(略)外より入来る人も、此児こそ本が好きなれと、人々のみやげ或は年始のとし玉など云にも、大方画本を遣す。かくしていよ/\多くなる。其中にやゝ部だちたる物をいはゞ、絵本古事談・訓蒙図彙・絵入ノ年代記・絵入ノ庭訓・絵入ノ節用集、京メグリ、日本歳時記・曽我物語・平家物語など、何と限りたることなく、画のある書をあてがひ置ば(岐阜県図書館蔵本。原文は漢字片仮名まじり)

 右の例は、早期教育として学習に直結するが、中田主税『雑交苦口記』にみえる例は、学習からもそれる。噺本『笑顔はじめ』(天明二年頃序)に、節用集を枕にしようという似非儒者の話があるが、その体の、物理的な利用である。荒唐無稽とも思えるが、実体験に基づくかのような真実味のある記しぶりなので、引いてみる。

 小児宵にうたゝ寝などして目覚てねぼけ、色々たは事を云て座敷などを駈まはる事あり。大人にも間々有て、両親は是をかなしみ、色/\薬など用ひ、神仏を祈るに(略)きかず。是を直すに妙々の薬あり。草双紙か節用か百人一首の類の大巻の書をひろげ、ねぼけたる横つらを力一ぱいに打ば大に驚き、はつきりと成。心柱急度たつ故、本心に成なり。二三度にて平愈す。(巻之三。『未刊随筆百種』第八巻)

 右のように文字とは直接に結びつかない例に対して、亀田文庫蔵『寿海節用万世字典』の書き込みは微妙である。柏原司郎「近世国語辞書の一本(寿海節用集)」に分析があるので引用する。

 口ノ五丁表上の匡郭の外に、右から左へ次のように記す。
  @享和三 
  出羽由利郡本庄□金浦新町
   □歳    渡部幾松持之
    正月吉日
(略)右の書入れに共通するのは、どれも幼稚な書きぶり、草体の不安定など粗笨の感が強いことである。
@は当然として、AFGHIの筆者が、幼い子どもたちであったことを思わせる。(略)
 右の文字の特徴と、巻首の付録に施された損傷には共通性がある。人物の顔に墨を、鳥瞰図の鳥居に代赭を塗り、竜頭馬面を指で紙が破れるほどこすり消すのも、子供心の現れであろう。私蔵本によってその図を見ると、眼窩と鼻孔とが黒くうつろな竜面で、白骨化した馬の頭骨より恐ろしげであり、さぞ恐怖心をかき立てさせられたに違いない。(『語学文学』九、一九七一)

 「□歳」は「一度六と書き、七と訂正したか、その逆のいずれかに見える」という。すなわち、「幾松」は、これを書いた当時、六・七歳だったのである。使用者層の年齢の下限を知るうえで貴重な情報だが、このような児童が所持していたことは、所持するにいたった経緯や利用法について、つい推測したくなる魅力がある。
 「正月吉日」からすると御年玉として授かったのであろう。ならば「□歳」での誤記・訂正も、年取りによる年齢計算の混乱のゆえかと思われ、ほほえましい。ただ、ここで注意すべきは、筆跡を「粗笨」と言うのは、大人の流麗なものに比べてのことであろう点である。@の書き込みをマイクロフィルムで見るかぎり、熟達してはいないが、始筆・終筆のありようには、多少の手ほどきを受けた跡が見える。もちろん、字を図形と捉えるようなレベルではなく、相応に結構も整っている(注3)。六・七才といえば寺子屋に通いはじめる年齢であるから、書き込み当時、幾松は、すでに寺子屋に就学していくばくかの手ほどきを受けており、おそらくは寺子屋に入って初めて迎えた正月に、よく学習したことへの褒美として『寿海節用万世字典』を授かったかと想像されるのである。
 「人物の顔に墨を……指で紙が破れるほどこすり消す」といった児戯は(注4)、北海ではないが「もてあそび」としての有り様を想起させる。したがって、六・七歳の子どもが、節用集を辞書として、また、学習の具として利用したかは確認できないとせざるをえない。所持するにいたる経緯を想像しえただけで満足すべきであろう。
 では、子どもが節用集を使うことはなかったのだろうか。これは、裏返せば、節用集を、大人だけが使うものと規定してしまってよいか、と問うことでもある。

  二 就学児の識字傾向から

 藪田貫「民衆のことばと力」に、一二歳の子どもが書いた一札が紹介されている。いつのこととはっきりしないのは残念だが、播磨国佐用郡大畠村で道円という禅門が行きだおれた。そこで、彼の故郷という因幡国智頭郡篠坂村に知らせたが、そのような者は与りしらぬというので、言質となる一筆を書いてもらうことになった。が、戸数一七の篠坂村で字が書けるのは「最近手習いをしている」一二歳の子どもだけであった。その子の書いた一札は次のようである。なお、原文では一段に書かれているとのことである(Web版では一段にした)

  因州知頭郡しの坂村庄屋四はい正之内
  道ゑん申せんもん、此村者ニて無御座候、
  当ふゆより紙代米、御こお儀様   
  借シ被成候らはゝ、壱人も小共ニ而も
  たこくニ出し不申候、此道ゑん儀付 
  いつ方ものニても、いんしうちす郡
  しの坂村道ゑんと申者御座候はゝ、 
  庄や年外□□下百正申をよはす
  きとらち明可申候(宛て名・筆記名義人を省略──佐藤注)

 形式はさまになっているが、「四はい正」は支配百姓、「せんもん」は禅門、「はん四ゆ」は播州、「両ふん」は領分と正字を補わないとなんとも読みづらい。なるほど手習い中の少年の筆跡であろう。(藪田貫「民衆のことばと力」。ひろたまさき編『日本の近世』16 中央公論社、一九九四)

 多くの古文書を目にした研究者に「形式はさまになっている」と書かせたように、「無御座候」「と申者御座候はゝ」「きとらち明可申候」などの定型的な句は使えているようである(注5)。これとは対照的に、個々の表記は不安定である。「当ふゆ・御こお儀様・たこく」(当冬・御公儀様・他国カ)のような、さして難しくない漢字を仮名書きしたり、「因州知頭郡・いんしうちす郡」のように漢字・仮名表記が揺れたりするのである。
 こうしたアンバランスは、当時の手習いでは、形式を学ぶ機会が多かったために生じたのであろう。形式を支える「無御座候・可申候」などなどの定型句は、頻用され、種々の往来物にも現れやすい。つまり、書写する機会が多い分、身につきやすかったと思われるのである。
 実際の寺子屋での教授を見てみよう。高井浩『天保期、少年少女の教養形成過程の研究』(河出書房新社 一九九一)は、天保年間に開かれた、上野国原野郷村の九十九庵の課程を次のように分析する。

 教科書や学習課程をみると、九十九庵では、入学したものは、最初は一人の例外もなく、「いろは」「村名尽」「郡尽」「国尽」「十干十二支」「年中行事」「五人組前書」「証文類」という順序で手習をうけている。ついで、選択コースにはいって「妙義往来」「東海道往来」「四書」「つれづれ草」「庭訓往来」「今川」「実語童子教」などを主とした読方教科書が、筆子のもつ素質と才能と生活環境に応じて課せられた。そして卒業を間近にひかえるようになると、ふたたび必修コースに戻り、「百姓往来」「世話千字本」「商売往来」などが用いられている。はじめに村の日常生活や公的活動を営む為に必要な知識を、ついで人間として必要な一般的教養を、最後に生産活動、職業生活を営む為に必要な知識を課していくように仕組まれていた教育課程は、注目にあたいするであろう

 やはり、「往来」と名の付くものが複数見え、形式の学習という点では「証文類」も目を引くところである。
 また、高井は、上野国桐生新町の裕福な機屋の子息・吉田元次郎が寺子屋で使った教科書類も掲げるが、そこにも、書簡文例集の体裁のものが複数現れる。いま、注を省略し、体裁を改めて引いておく。

現物名入れ  いろは 名頭字尽 村名尽 国尽 近道子宝 消息文例 
       妙義詣 商売往来 古今和歌集
現物無記名  消息往来 消息文例
現物印付   泰平江戸往来
蔵書目録にのみみえるもの  実語童子教 御成敗式目 和漢朗詠国字抄
       新続商売往来 滝本庭訓往来 消息千字文 月なみ消息 
       消息あわせ 源氏かな文章 小野篁歌字尽

 また、形式を支える頻用句は、現実の文書では、仮名と見紛うほど草体化されることが多い。草体の程度には多様の段階があるので一概に言えないが、たとえば、「候」などは古文書で「ゝ」のように表されるのは普通のことである。あるいは右に引用した文書の原文もそうだったかもしれない。他字との弁別が損なわれるようにも思うが、定型句の現れる位置は固定しがちなので、そうした文脈の情報も合わせて文字としての機能を果たしていたのであろう。あるいは、それだからこそ、極度の草体化も許されたと考えるべきかもしれない。
 こう考えれば、文書の形式は、出現頻度の高さと筆画の少なさのために、子どもにも比較的容易に習得できたと思われる。一方で、子どものうちは責任をとれるはずもないので、現実の文書に必要になる個別の漢字表記を覚えることもなく、少なくとも、いくぶんか集中力を欠いた学習でも許されたのであろう。そうした傾向を総合すれば、一般的な就学児童の識字傾向は、形式に強く個別に弱かった、ということになる。右に引用した一札は、それを如実に露呈しているのであろう。子どもゆえに普通なら書きたくとも書けない大人社会に通用する文書を、手習いの習練も、そしておそらくは心の準備も不十分のまま、書かされたからである。言わば、抜き打ち実力テストだったわけだが、それだけに当時の子どもの識字傾向をよく伝えていると思われるのである。
 そこで節用集に立ちかえってみよう。現実の場に通用する文書を記すのは、責任の持てる大人の仕事だったはずで、その場面・状況・人間関係に応じて、個別の語を正しく書かなければならない。そのようなときにこそ、漢字の形を知ることのできる節用集が必要となろう。だとすれば、節用集は、やはり大人のための辞書であり、子どもの使うものではなかったと、原則として、そう考えることが許されるように思うのである。

  三 学習具としての節用集

 ただ、一方で、子どもが節用集で学習した例がないわけではない。
 節用集批判として有名な貝原益軒『和俗童子訓』(宝永七年刊)巻之四の一節を見てみよう。

 世俗は通用の文字をしるに、順和名抄、節用集、下学集などを用ゆ。順和名抄は用ゆべき事多し。又あやまり多し。功過相半なり。節用集、下学集は誤多し。用ゆべからず。世俗是等の書を用ゆる故、誤多し。(『養生訓・和俗童子訓』岩波文庫、一九九〇)

 「童子」をかかげる書でのことなので、「世俗は通用の文字をしるに」の「世俗」は子どもを含むように思えるが、あるいは、大人の実態を言ったにすぎないのかもしれない。したがって、この一節から当時の子どもが節用集で文字を学んでいたかどうかは知られないと見た方が穏当であろう。
 ただ、益軒自身は、幼少時、節用集に親しんでいたようである。貝原好古編『益軒先生年譜』には次のようにある。同年譜より学習事項に関するものを摘記し、年号・干支は省略して示す。

 七歳 未だ曾て書字の教を受けざるも、自ら国字を知り、好みて草子を読む。
 九歳 此春仲兄存斎の教を受け、始めて書字を学ぶ。たゞ国字は已に善く諳んするが故に復た学ばず。深く読書を好むも、家甚だ貧うして書なく、且つ山中の僻居師なし、徒に時日を費すのみ。此歳また三体詩絶句の口授を仲兄在斎に受け、酷だ悦んで朝夕復読し、旬日の間尽く背誦し、身を終るまで之を忘れず。八木山に加藤田氏あり、平家物語を蔵す。巻を追うて之を借り、朝夕耽読して幾んど寝食を忘るゝに至る。また保元平治物語を読む。
 一〇歳 始めて倭玉篇を閲して、字を識ること多し。又、節用集に見て、和訓を知る。(益軒会編『益軒全集』一 国書刊行会、一九七三)

 益軒の生年は寛永七(一六三〇)年であるから、後年にくらべて版本も潤沢ではなかったであろう。そのうえ、福岡藩の祐筆の子ではあったが、「家甚だ貧うして書」もなかった。そうした環境にある「深く読書を好む」少年ならば、書籍・文字への飢えを癒すためにも興味をもって節用集に臨んだことであろう。
 また、儒者・西依成斎(一七〇二〜九七)にも、やや荒唐無稽ながら、類例がある。原典に行き当たらないので、薄田泣菫『茶話』から引くこととする。

 成斎は野良仕事を助けようとはしないで、日がな一日青表紙に齧りついてゐた。(略)親爺は、とうと成斎を家から投り出すことに決めた。
 成斎は泣く泣く家を出たが、それでも出がけに節用集一巻を懐中に捻ぢ込む事だけは忘れなかつた。(略) 成斎はその節用集を抱へ込んで、狗児のやうに鎮守の社殿の下に潜り込んだ。そして節用集を読み覚えると、その覚えた個所だけは紙を引拗つて食べた。(略)で、十日も経たぬ間に、とうと大部な節用集一冊を食べてしまつたといふ事だ。(『完本茶話』上 冨山房百科文庫、一九八三)

 「青表紙」が経書であれば、読書は相応の段階にあり、ある程度以上読み書きもできたと思われる。また、一種の緊急事態で節用集を選んだことから、成斎は日ごろから節用集に親しんでいたものと思われる(注6)
 このような益軒・成斎の例は、やはり栴檀は双葉より芳しの類で、一般の子どもが節用集を使用した例とはしにくいだろう。ただ、ある程度の学習ののちに節用集に出会っているのはおもしろい。節用集が必要になるのは、前節で推測したように、原則として大人になってからであった。大人とはある程度の学習を経た存在である。とすれば、学習を経てからという点では二人の儒者も同じなのである。したがって、少なくとも節用集がまったくの初学者のものでないことは、この二例からも知られるとしてよいかもしれない。
 特殊例である可能性が高いものの、節用集で学んだぶ子どもがいないわけではない。一方で、原則として節用集は子どもには必要ないと考えられた。このあたりが、今後、詰めるべき点であろう。すなわち、二つの子どもの有りようを分ける条件とは、どのような事柄なのかを明らかにできないかということである。

  四 家庭環境と子どもの節用集

 一四・五歳の子どもが節用集を所持していた事例を見てみよう。近世の一四・五歳の人間を子どもとみるのは妥当ではないかもしれない。その点については次節で触れることとし、ここでは、子どもの最上年齢者と捉え、彼らが、どのような家庭環境にあり、どのような経緯で節用集を所持するにいたったかを見ようと思う。
 先に高井浩『天保期、少年少女の教養形成過程の研究』を引いたが、「少年少女」とは、上野国桐生新町の裕福な機屋・吉田家に生まれたいと・元次郎姉弟をいう。当時の当主・吉田清助は、機屋のかたわら、清水浜臣・橘守部に師事し支援もする、文化に相当の理解のある、教養豊かな人物だったようである。また、いと・元次郎姉弟を一五歳の折りに、それぞれ一年八カ月・七カ月のあいだ、江戸の守部のもとに留学させてもいる。寺子屋や素読塾での学習の仕上げを守部に託しつつ、江戸での生活を体験させて見聞を広げさせるつもりなのだろう。ただ、姉・いとの場合は耳疾の治療も目的だったらしいが、それにしても清助の教育熱は十分にうかがわれる。
 弟・元次郎の留学では、元次郎自身が所望したらしく、清助の手紙に節用集を送付したことが見える。

 四書、怜野集、節用集、墨等は十一日之舟便ニ夜具之中ニ入送可申候。ひも鏡は田村にて見出兼候よしニ候間、江戸ニ而もとめ候而橘様之朱之書いれを其通りニ書入可被成候(天保一四年一二月九日元次郎宛吉田清助書簡。高井前掲書による)

 残念ながら節用集の種類は分からないが、おそらくは守部の指示もあったと思われるし、また、高井浩は右書簡中の書名から「読書力の涵養と歌学びに、勉強の焦点がしぼられていた」と推測するので、通常の節用集よりはその方面向きの、たとえば『和漢音釈書言字考節用集』や『大成正字通』のようなものだったかもしれない。ともあれ、元次郎はその節用集を実際に使ったのであろう。天保の四大人の一人・守部のもとに留学するくらいだから、父の教育熱ばかりでなく、彼にもそれに相応する学力が備わっていたと考えられるからである。


 また、架蔵の『真草二行節用集』(寛永一六年刊)の裏表紙見返しに、次のような購入記事と署名がある。
 中心線が左にかたむく部分があるが、まずは安定した筆跡である。内容も興味深い。「求ル」とあるように、父兄からのお下がりではなく、新たに購入したのである。「又鶴」との署名は、俳号・雅号と見られるので、俳諧をたしなんでもいたのだろう。とすれば、節用集は語・表記を知るのに役立とうから、句作のために購入したとも想像される。安定した筆跡と雅号と専用の節用集をもつ一四歳の子ども。おそらく、又鶴は、十分に手習いを受けられ、この歳で雅号を持つことが許されるような、裕福で文化的な家庭の子息だったのであろう。
 あるいは、筆跡の安定感ゆえに、購入記事・署名は父兄の手になるかとも疑われる。たしかに、その可能性は否定できない。が、十代前半の子どもが十分に達筆だった例は他にもある。吉田姉弟の姉・いと一一歳のおりの書き初めを、父・清助は守部のもとに送ったが、守部は「おいと様御書始御送被下恭実に御見事成、皆々感心、中々以尋常容易成御手際には無御座驚入候」(天保五年一月一日書簡。高井前掲書による)と評した。この手放しの褒めようは、正月の祝詞や、門人で支援者でもある人の子弟ゆえというだけでなく、いとの達筆ぶりを伝えるものであろう。また、後述のように、幕末の例ながら、一四歳で寺子屋の師範になったと思われる例もある。したがって、一四歳の又鶴が達筆であっても不思議ではないのである。
 いと・元次郎姉弟や又鶴のように、裕福で文化に理解があり、子弟の教育にも熱心な家庭の子どもなら、比較的早い時期に節用集と出会い、おそらくは使いこなしたであろうと推測されるのである。
 このような見通しは見通しとして、一四・五歳という年齢は、子どもとみてよいかどうか、微妙な年齢である。その点を考慮し、あらためて一四・五歳の人間が節用集を所持することの意義を考えてみよう。

  五 境界年齢者の節用集

 一四・五歳といえば、江戸時代では、子どもから大人への境界的な年齢であった。

 十五歳までは子供であった。この区分は日本で普遍的であった。(略)村の道普請や用水の掃除などの共同労働に際しても、十五歳以上の男子が出役するのが原則であり、たとえ身体が小さく、体力がなくても、十五歳以上であれば一人と勘定された。(略)百姓一揆の動員に際しても十五歳以上の者が対象となった。(福田アジオ「村の共同と秩序」。塚本学編『日本の近世』8 中央公論社、一九九二)

 村によって差異はあるが、一般的には数え一五歳の正月に男子は成人式の通過儀礼を経て子供から大人への仲間入りをした。成人式は若者組への加入という形式をとる所が多く、これをすませると、前髪をとり、褌をしめ、名前を変えるなどのけじめをした。(略) 幕府の制定した公事方御定書でも、一五歳以下の者が殺人や火付けをした場合、一五歳になるまでは親類に預けておき、これに達した段階で遠島に処する、一五歳以下の者の盗みについては大人の仕置よりも一等軽い処罰にする、という定めになっていた。このように、一五歳になれば一人前の労働力と刑事責任能力があるものと社会的にみなされていたのである(大藤修『近世農民と家・村・国家』吉川弘文館、一九九六)

 このように、大人並みの責任を負わされるのが、当時の一五歳であった。また、これより一年早い一四歳にして、大人と同様の責任を持っていたと思われる事例もある。岐阜県高富町浄光寺所蔵『習貫堂社中記名簿』の冒頭に次のようにある。

文化一二乙亥春以来於当山、素読并手習師範創業
 初依論語名時習堂 
○         習貫堂
 後由家語而改号  
              愚 道(花押)
              十四歳 

(『岐阜県史 史料編 近世八』一九七二)

 『記名簿』作成当時、習貫堂の主は愚道という者で一四歳だった、と読むのが素直であろう。『岐阜県史』の口絵の写真によれば、わずかに癖があって又鶴ほどの美しさはないが、安定感のある行書である。ある程度以上の書字能力があれば、一四歳でも寺子屋の師範をつとめられたものと解したい。
 こうしたことから、一五歳の吉田元次郎や、一四歳の又鶴についても、成人に近いものとして見直す必要があろう。そうすることで、彼らの例を過不足なく捉えられるように思うのである。
 まず、元次郎の例で節用集が出てくるのは、橘守部のもとで研鑽しようという時期だった。これは、天保当時の守部の社会的な地位を思えば、父・清助と守部との人間関係があったにしても、普通のことではなかろう。それを、父・清助に決断させた背景には、一五歳に達した元次郎を一人前の人間として認めようとした部分があるのではなかろうか。姉・いとの留学が、やはり一五歳の時だったのも合わせ考えられよう。
 又鶴については、購買記・自署があるので、節用集の所持をより積極的な行為として捉えてみたい。すると、わざわざ年齢と雅号を記した背後に、いくぶんか誇らかな酔いがあるようにも思う。節用集と雅号を持ちえた喜びはあろう。そのうえに、普通なら一五歳まで待つべきを一四歳で手にしたことを誇る気分がありそうである。もちろん、見かけだけの粋がりではなく、実力に見合っていることは、彼の筆跡が保証してくれよう。
 こうみるとき、一四・五歳の少年が節用集を所持するという事態は、一種の成人儀礼的な色合いを帯びているように思われる。このことは、第二節で、原則として節用集を大人のための辞書と見たことに反せず、むしろ、別の角度からの証明となっていよう。改めてこの原則の有効性が確認されることになる。

  六 子どもの節用集への視点

 以上、ほぼ成長段階にそって見てきたが、子どもの関係した節用集が、どのような性格・種類のものだったかには、ほとんど触れられなかった。書名まで知られるのが、幾松と又鶴の二例だけだったからである(注7)。この種の研究の困難を示すわけだが、やはり、使用例のさらなる収集を痛感するところである。
 ただ、又鶴と幾松の例は、不思議に共通する部分がある。一つは、彼らの節用集が、二人の記名した時点において開版後五〇年以上を経ていたことであり、二つめは、一つめの共通点から導き出される面もあるが、記名当時の節用集としては時代遅れのものだったことである。要点を摘記すれば次のようになる。

又鶴記名、元禄五(一六九二)年。『真草二行節用集』寛永一六(一六三九)年刊、巻頭付録無・頭書無
幾松記名、享和三(一八〇三)年。『寿海節用万世字典』享保一四(一七二九)年刊(注8)、巻頭付録有・頭書無

 頭書(本文上欄)を設けるのは近世節用集の典型的なレイアウトだが、その嚆矢『頭書増補二行節用集』は寛文一〇(一六七〇)年に開版されたので、元禄五年ごろには主流になっていただろう。が、又鶴の購入したものには頭書はない。また、享和ごろでは、絵入りの日用教養記事付録を巻頭・頭書に載せるものか、仮名数引きを導入した早引節用集が主流だったはずである(注9)。が、幾松の節用集は、巻頭に絵入り付録はあるが、頭書付録のない(注10)、イロハ・意義分類のものであった。このように彼らの節用集が当時の主流でなかったことは、まずは、子どもと節用集のありようとして重要だが、両者の関係の薄さを示すものとみることができる(注11)。もちろん、こうしたことを、わずか二例から推測するのは早計である。が、所持した節用集が明らかならば、使用者との関係を見るのにどれほど役立つかの例として、つまりは、今後に生かせる注目点として示しておきたい。
 さて、子どもと節用集との関係をみるとき、子ども用と銘打たれた『子供節用集』『寺子節用錦袋鑑』『寺子節用集』などの存在も気になる。しかし、この種の多くは、意義ないしイロハだけで語を分類するので検索効率が低く、辞書というよりは語彙集型往来と見た方がよい(注12)。したがって、当面は視野に入れないでよいと思う。ただ、それらを節用集のなかに含めるなら、検索法の単純化自体、本格的な節用集から一歩退いているのは明らかなので、子どもと本格的な節用集との関係の薄さを証するものと捉えることになろう。
 ではひるがえって、本格的な節用集の序にしばしば現れる「童蒙のために」といった表現をどう捉えたらよいだろうか。この種のものは、単なる惹句の可能性もあり、意地悪く見れば、編者の気恥ずかしさの現れで、背後には屈折したペダントリィがあるのかもしれない。もちろん、真に「童幼のため」の配慮があるかどうかを問う必要があるが、いまは、この種の序によっては考えないこととした。
 もちろん、そうした序から出発する方法もあろうし、それを否定するつもりもない。が、まず現実の使用例から検討し、一定の成果が出てから突き合わせても十分に間に合うようにも思う。これは、「子ども用と銘打った節用集」にもあてはまるが、見やすい部分に引き寄せられない考察を、裏がえせば、可能なかぎり現実の使用例に基づいた、その意味で実証的な考察を優先したいということである。

  おわりに

 節用集が大人のための辞書であって子どもにはふさわしくない、との原則は、今後、多くの使用例に触れるにつけ、変更されることがあろう。が、それは、検討の精密化につながることであり、それこそを期待するところである。そうした将来の検討への出発点にたどりつけたことを成果としたく思う。
 また、本稿で紹介したなかにも、原則にしたがわぬ例があった。そうした例は、節用集使用者の記述的研究を豊かにする襞の部分として重要なものである。あるいは、調査不足のために襞としか見えないものが、実は本体の一端である可能性もないではない。ともあれ、今後とも、使用例の収集に心をくだくばかりである。

 ところで、冒頭に引いた、無筆のものに節用集をすすめる例はどう解したらよいか。
 無筆を、子どもとほぼ同じ条件にあるものと考えれば答えは明らかで、アドバイスは失当である。では、なぜ節用集を持ちだしたのか。それはやはり、親族とはいえ、大人に対して、さすがにイロハ・往来物よりはじめよとは書けなかったのだろう。つまり、節用集を持ち出したことは、相手の、大人としてのプライドだけは尊重したと読めるように思うのである。ただ、深読みすれば、そのように仕返しの手をゆるめたのは優越感の現れであって、むしろ手痛い反撃だったと見られなくはないけれども。
 そこまでいけばまったくの想像になる。ただ、大人としてのプライドへの配慮があったとすれば、節用集が大人のものであることを証する例となりそうである。それなら、本稿の趣旨とも合致し、好都合なことである。

     注
    (1) 語注の詳しい『和漢音釈書言字考節用集』や『男節用集如意宝珠大成』のような例外はある。また、他の節用集でも、言葉に関する知識がまったく記されないのではない。たとえば『増補改正/早引節用集』(宝暦七年版)のハ部二声には、次のような行があり、同音異表記語の弁別のために施注する。
       箸食.端物の 橋川渡.土師所名.階堂 灰.蠅虫.蜂虫.鉢器.判印形.飯食.箱. 言葉・表記の注としては最低限のものだろうが、こうした注が全語にほどこされているわけではない。
    (2) このような点については、文明史の視点からアプローチする横山俊夫にまとまった成果がある。「日用百科型節用集の使用態様の計量化分析法について」(京都大学人文科学研究所『人文学報』六六、一九九〇)では老人からの聞き取り調査のいくつかが紹介されている。また、早くから注目していた手垢の濃淡を手がかりとする研究も『日用百科型節用集の使われかた──地小口手沢相の電算画像処理による使用類型析出の試み──』(京都大学人文科学研究所 一九九八)として一つの区切りを付けられた。『(大日本)永代節用無尽蔵』の使用者の類型化に成功したこと、きめ細かな分析結果が一覧できるようになったことを喜びたい。
    (3) 住所の記しぶりや「持之」の文言が適切なのを見ると、手本があったことも考えられる。引用した@の地名・固有名などは、柏原論文によれば別の箇所にも見られるというので、手本があっての練習とも見られる。
    (4) 児戯の類例と、それに基づく考察については後述注11も参照。
    (5) 大畠村の使いなり、手習いの師匠なりが、手本を見せるなどの手助けをした可能性はある。が、それならば、固有名詞をはじめ、他にも漢字書きの箇所があってもよさそうである。また、たとえ手本を見ながら書いたとしても、漢字書きの不安定は動かないので、以下の論旨に変更を加えるには及ばない。
    (6) このときの成斎の正確な年齢はわからない。野良仕事を手伝うのが当然であるような年齢であろうが、一方では「狗児のやうに」との表現にふさわしい年齢と考え、子どものうちに含めた。
    (7) ただ、近世初期の例、たとえば貝原益軒が接した節用集なら、版本にかぎれば寛永後半までに開版されたものとなり、バリエーションが著しく少ないので、ある程度の具体的なモデルを想定することができる。易林本の内容を色濃く反映したもので、新しいものでも真草二行体をとるものということになる。
    (8) 幾松の『寿海節用万世字典』は刊記が脱落しているので慎重に対する必要があるが、仮に享保一四年版とした。柏原氏蔵本・架蔵本とも享保一四年版であり、それ以外の異本の存在を聞かないからである。なお、現存する近世節用集の異本については、拙稿「近世節用集書名変遷考──資料篇・付言──」(『岐阜大学教育学部研究報告 人文科学』四四−二、一九九六)で書名を一覧できる。
    (9) 拙稿「早引節用集の流布について」(『国語語彙史の研究』一一 和泉書院、一九九〇)、「近世節用集の記述研究への視点──形式的特徴をめぐって──」(同一五 一九九六)を参照。
    (10) 節用集の付録の位置は、巻末のみ、本文頭書・巻末、巻頭・本文頭書・巻末、と推移する。したがって、『寿海節用万世字典』の体裁はこの流れに乗らないが、頭書付録のないことを重視して、古いものと考えた。
    (11) 架蔵の『寿海節用万世字典』にもいたずら書きがある。〈口の十四〉丁裏右上部が大きく失われたのを別紙で補修するが、そこに騎馬武者三名の図がある。稚拙ながらも細かく描こうとしたあとが見え、筆を持ってから何年かは経ったものの所為と思われる。他の丁では、人物の目から涙を垂らしたような墨痕や、積み物の図の魚の口から線状の墨痕が延びるものなどがある。残念ながら、氏名・年記など文字のたぐいは書き込まれていないので、詳細は分からないけれども、印刷の墨色よりも明らかに鮮やかで時間差があることが知られる。おそらく、幾松のと同様、時代遅れのものとして子どもに授けられたものなのであろう。
    (12) ただし、なかには、本格的な節用集と同様に二重検索を採るものや、簡便な節用集以上の収載語数を誇るものもある。それらを節用集と見るかどうかは、節用集の定義と相まって改めて論じたい。なお、関場武『近世辞書論攷』(慶応義塾大学言語文化研究所 一九九四)に「子供節用・寺子節用集」の章がある。

    『国語語彙史の研究』21(2002年刊行予定)