易林本節用集研究覚書六題

                                         佐 藤  貴 裕


はじめに

 近世節用集の記述的研究の一環として、最初期である慶長年間刊行の諸本を検討中であるが、さまざまな疑問点や注意点が出てくるので筆者なりに整理しようと思う。筆者だけの問題意識かもしれず、かならずしも仮説を論証する形式もとらず、視点も定まらない。思いつきを紹介したり、他人の説を難じたりもしている。そうした雑多さから「覚書」としたが、実際は、識者への質問状のようになった。御批正・御教導を乞う次第である。

一 原刻本の性格

 原刻本における偏向について触れておきたい。これは、近世節用集の祖となった本がどういうものであるか、逆に、近世節用集が引きついだものが何者であったのかを確かめたいからである。
 まず、原刻本において誰しも怪訝におもうのは部門名の陽刻であろう。ヨ部までは部名表示に一行用い、レ部までは門名が原則として行頭にくるからまだよい(注1)。が、それ以降ではそうした余裕ある掲出法はとらず、カ部以降では、頭字を同じくする熟字見出しを割行表示することも急増する(菊田紀郎一九七三)。外見上も集約感が高まるわけで、そうなれば部門名が見出しや注に紛れやすくなるのである。さすがに、現存する原刻本では朱で目立たせなどするが(安田章一九七四)、標示にのみ再度手をかけるのは印刷物としては効率が悪かろう。
 ただ、平井版以降、近世節用集においては部門名が陰刻されることを思えば、原刻本の陽刻とは、出版に付すことが十分に意識されなかったためのことと了解されよう。もちろん、古本節用集の部門標示でも、版本の天正一八年本は陰刻であり、写本の広本節用集でも門名標示に陰刻印を用いるので、易林本原刻での陽刻を古本から近世節用集への過渡的現象とは位置づけにくい。ただ、易林本の関係者は仕上がりを予測できず、陰刻にも思いいたらずに開版にいたったことは、周到を欠くであろうし、未練であると評するしかなかろう。
 これに付随する類例を一つ。本来なら行頭にあるはずの門名が、ニ・ホ部では直前の門の所属語末に配されることが多い。当該門の所属語は次行行頭から配されるので門名行頭の原則は化石的に効いてはいるが(注2)、行の途中に門名が来る場合、行の残部は空白になる。この信じがたい不体裁はどのように生まれたのであろうか。
 原刻本ではホ部気形門の門名は刻されなかったため補筆されるが(安田一九七四)、他の門名でも、たとえばニ人倫・支躰は右上がりに、ニ器財・言辞やホ食服・器財は左上がりに刻されるなど不安定であって、埋め木による補刻を思わせる。つまり、ニ・ホ部においては、試し刷り段階では門名が刻されてなかったのではなかろうか。ならば、補刻しなければならないが、各門所属語の直上すなわち行頭には匡郭があるため門名を補刻するスペースが確保できず、次善の処置として前門末に配したのであろう。ところが、ホ気形では、直前行も草木門所属語により行末まで埋まっていたため、補刻すらできなかったのであろう。(注3)
 ついで、原刻本にかぎらず易林本諸版に言いうることだが、一種の癖について考えておきたい。上田・橋本(一九一六)より引用するが、手を加えすぎる、あるいはある種の冗長・過剰があるということだろう。(注4)
   易林本は、之を他の諸本に比するに、其の所収の語は、必しも少いのではないけれども、概して印度本よ
  りも少く、殊に、詩文等に用ゐる語が比較的多くして通俗の語は割合に少い。門名も、乾坤、時候、気形、
  官位、言辞、器財など、むつかしい名目を用ゐ、仮名遣を訂したのも、正しきに過ぎて、一般世俗には却つ
  て不便であって、此の本は、通俗的辞書としては、必しも他の諸本に勝れて居るとは云はれない。
 やはり易林の編した夢梅本『倭玉篇』にも偏向がある。多すぎる部首を整理するためか、ある部首に従属する部首(附部)を配して二重構造とするが、その配し方が独特な場合があって容易に検索できないのである。
   例えば、夢梅本では「乾」という文字が「甲」の部に収載されている。「乾」字と「甲」部とはどのよう
  に関連づけられるのであろうか。実は、「甲」部の附に「乙」があって、その「乙」に「乾」が所属すると
  いうことになる。この点から見ると夢梅本は、甚だ非実用的である。(中田・北一九七六)
 また、中田・北は、易林本と夢梅本とに共通する特徴として、「◆」にアヒヤケ、「姦」にカタカマシの訓をほどこすことや、片仮名もサ・セ・マに「七・せ・丁」をあてることを指摘する。以上のような一般からのずれが両書に認められるのだから、易林が節用集の跋において、定家仮名遣によってイヰオヲエヱの六部を分けただけだと言うのは信じがたく、やはり相応に節用集にも手を加えていたのであろう。(注5)
 それにしても、歓迎されなかったであろう偏向が、どのような理由・要請からなされたのか知りたく思う。近世節用集では版権(板株)をえるためだけの、有用性の乏しい改編もあったが(佐藤一九九三)、慶長年間ではそれほどには版権が意識されなかったであろうから、別の観点からの説明が求められるかと思う。
 一方、印刷文化の役割に、漢字字形の標準を示すことを認める立場からは、易林本は評価されている。
   中世の辞書といいますと節用集というものがありますが、その節用集も殆どは異体文字でありまして、異
  体文字も色々ありますけれども、お経の写経の文字で大体は書かれております。きちんとした正書の、正楷
  といいますか、楷書の字体で節用集が出来上がるのは慶長2年の『易林本節用集』からであり、それまでの
  節用集はその正しい字の形とは違う異様な字を沢山含んでいるのであります。しかし、展示されております
  五山版、これは正楷の字体で殆ど書かれているのであります。我々の文字に対する文化に風穴を開けたのが、
  宋からやって来た宋版と、それを覆刻し、あるいは模刻した五山版であります。(濱田啓介一九九四)
 これに関連して。易林本は規範を示そうとしているけれども(乾善彦一九九六・一九九九)、示し方ないし実践については周到さを欠く点もあるらしく(白井純二〇〇四)、一方では、今西浩子(一九九六a)が一部試みたように、易林本の漢字がどのような位相での漢字使用を反映するのかも問われる必要があろう。
 規範を示す試みと、組織・体裁面を主とする未練なさまからは、不体裁ながらも新しさを持つ存在として易林本が捉えられそうである。が、規範の提示をめぐる準備不足を重視すれば、組織面の不体裁と連動すると捉えて、総じて未練の書と見る立場もありえよう。いずれにせよ、近世最初期の節用集としてありうる姿ではあろう。

二 平井版における改刻

 原刻本のうち国会図書館本・竜門文庫本と天理図書館本とのあいだでは、字画の欠損などから先後の差があり(川瀬一馬一九五五・安田一九七四)、具体例の一部も報告されている(中田一九七九)。同じことは平井版でも中田(一九七九)が指摘しており、受動的・不可抗力的な「欠けていく変化」だけでなく、改刻・補刻のような意志的・人為的な「加えられる変化」にも言及するのが注意される。さらに川嶋秀之(二〇〇一)は、図書寮本平井版の上巻一一・三一・三二丁における丁単位の改刻を想定しており注目される。次に引用する。
   他の丁では濁点の第二点が下がり目に打たれているのに対し、これらの丁では「方角」(ホウガク)・
  「判断」(ハンダン)・「半分」(ハンブン)などの濁点の第二点が、第一点より上がり気味か並びの高さ
  に打たれている。また、「シ」の仮名は原刻本・他の平井板とも第二画と第三画が連続して付いているのに
  対し、上記の丁では連続せず離れて書かれている。「拝読」(上十一ウ2)の仮名を「ハイドケ」と誤り、
  「博聞」(上十一ウ4)の「聞」の門構えの中を「目」に誤るなどは、改刻に際しての誤刻であろう。
 実は内閣文庫本にも丁単位の異同がある。中田(一九七九)で示された国会図書館本との異同のうち、四件までが図版11・12(上巻第六丁)に集中する。内閣本で確認すると、ロ草木「蘆葦」の「葦」が下部の構成要素ほど右にずれたり、訓の「井」が縦画・横画とも明瞭であり、横画の薄い原刻本・平井版とは異なるのである。また、ロ官位「漏刻博士」の注「陰陽寮」の訓ヲンヤウシウはヲンヤウレウであり、ロ数量「六通」の注「神境ー」の第一字は木偏でなく示偏となっているが、これらはすべて平井別版の特徴なのである(注6)。内閣本は、下巻のはじめ五丁が欠けるなどの問題があるけれども(中田一九六八)、平井別版からの混入も見られるのである。おそらくは、落丁していたのを、何者かが平井別版から補入したのでもあろう。
 こうした改刻や補いは、ある程度以上、想定しておく必要がある。中田(一九七九)は国会図書館の原刻本・平井版ともに補筆があるといい、筆者も東洋文庫の平井版(伊勢貞丈旧蔵)への補筆を確認している。杉本つとむ(一九七一)は早稲田大学蔵の小山版易林本の補筆とともに、切り取られた最終丁裏に平井別版(ないし原刻)の刊記を書写したものが補われているという。寿閑本(慶長一五年刊)の例になるが、高木文庫本では「巻末二葉を失せるを、後人古紙を以て易林本〔休与開版/有木記本〕の巻末二葉を摸摺し、作偽を行へり」(川瀬一九三三)という。こうした作為は、おそらくは易林本が珍重されたが故のことなのではあろう。
 やや負のことを並べすぎた感じもするが、現存する平井版のそれぞれがどのように成り立っているか、ことに改刻をめぐっての具体相を──一巻全体が同時期の版なのかどうか、新旧の版が混在・交錯するのかどうか(注7)、それはまた別々の版本から取り合わせたのか等々を──明らかにできれば興味深い。易林本にかぎらないが、そこに人々の営為が反映されているかぎり、記述的研究の対象となりうるからである。ただ、珍重された易林本であれば現存数も多めであり、保存状態も好ましいことが期待される。平井版での検討が、そうした研究の雛型となる可能性が考えられるところである。

三 平井版諸本の序列

 改刻の有無、改版丁の混入などを見るには、一丁ごとの特徴を把握する必要があろう。ただ、前節でみたのはイレギュラーで、稀なものでもあろうから、通常の調査では、また別のオーソドックスな方法が求められよう。
 版木の経時変化は欠損として現われるが、(部分的)改刻という意図的な行為が加わることもある。意図的であれば事例も少ないであろうから、版木の変化を画期してみる際の目印になり、版木の先後を効率的に把握するのに役立ちそうである。実際、平井版諸本をみると、単なる改刻や欠損の上位にくる別種の改刻が認められる。普通、改刻は欠損や誤刻の補修などの必要からなされるが、平井版の上巻では、美観上削除すべきなのを残したり、必要もないのに補刻する例が見られるのである。必要性と改刻の実施がねじれた関係にあるわけだが、そうした箇所にこそ、版木にかかわる人の意図が、その中身はにわかには分からないけれども、強く反映しているように思われる。そうした例に注目して諸本の版の状況を画期してみようとおもう。
 具体的に指摘すれば、まず、縦棒状の彫残しが四点ある。原刻本から見えるもので、美観上、削除されるべきだが、後の版まで残されるものもある。通常の字画同様、後刷のものほど薄れがちになる。
  A ロ部支体門(六オ四)下部。約四字分      B ホ部言語門(一七ウ七)下部。約八字分
  C ヘ部官位門(一八オ七)下部。約四字分     D ヘ部言語門(二〇オ一)下部。約四字分
 ついで、部や門の標目の陰刻部分に、特に必要とも思えない模様が追加される例が六例がある(注8)。故意になされたものだろうが、何かの目印としてのものか、単なる手すさびの類なのか、理解に苦しむ。
  E ニ部標示(一三オ一)上辺中央に三角形飾り   F ニ部気形門標示(一三ウ二)中央に縦棒
  G ニ部器財門標示(一三ウ六)中央に縦棒     H ト部標示(二〇オ二)上辺中央にス字様模様
  I チ部標示(二四オ五)「知」字右下に点模様   J カ部標示(三四ウ五)上辺に横棒
 調査結果は次のようである。旧態をとどめるものに○、改めたものに×を与えた。諸本は国会本に近いものから配し、調査項目は後まで残るものから掲げた。なお、内閣本のAにあたる部分は別版によるので(前述)検討しない。
     国会 刈谷 京都 大和 静嘉 国文 伊勢 内閣  菅 東洋 写字 西尾 学習 図書
   A  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○     ○  ○  ○  ×  ×  ×
   E  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ×  ×  ×
   F  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ×  ×  ×
   G  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ×  ×  ×
   H  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ×  ×  ×  ×  ×  × 
   I  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ×  ×  ×  ×  ×  ×  × 
   J  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ×  ×  ×  ×  ×  ×  × 
   D  ○  ○  ○  ○  ○  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  × 
   B  ○  ○  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×
   C  ○  ○  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  × 
  ○数 一〇 一〇  八  八  八  七  七  四  四  四  四  〇  〇  〇
      *京都府立総合資料館本・国文学研究資料館本・伊勢貞丈旧蔵本(東洋文庫)(注9)・東洋文庫本・写字
       台文庫本(龍谷大学)・国会図書館本(マイクロフィルム)・刈谷市立図書館本(国文学研究資
       料館マイクロ)・大和文華館本(同)・西尾市立図書館本(同)・学習院大学本(同)・静嘉堂
       文庫本(雄松堂マイクロ)・内閣文庫本(中田一九六八)・菅文庫本(茨城大学。http://www.
       lib.ibaraki.ac.jp/kan-db/kan-title-KJPEG.html)・宮内庁図書寮本(日本古典全集)
 彫り残しのA〜Dでは改刻時期がばらつくが、内閣本をのぞけば補刻の群ではEFGとHIJの二段階におさまっている。また、国会本のようにBCが旧態なら他の特徴も旧態であるといった一種の階層性も構成されており、この調査に有効性があることが示されているようである。
 諸本を分類してみよう。○の数の差が二以上ある部分で区切ると「国会・刈谷/京都・大和・静嘉・国文・伊勢/内閣・菅・東洋・写字/西尾・学習・図書」の四段階となり、これが平井版諸本のこの表での序列となる。個別にみれば、やはり内閣本が気になる。Aは平井別版の混入した丁のものだが、混入がなければ旧態のままであったと想像される。また、HIJが同期せずにHだけ旧態なのも不審である。調査対象を増やせば同趣の本が出てくるのかもしれない。また、図書寮本は、右に挙げなかった欠刻の状況を勘案すると、西尾市立図書館本・学習院本よりも格段に劣るものである。右の一〇項目調査ではそうした差がすくえなかったわけだが、いわば測定限界下での並みはずれた数値を示す個体なのであって、一〇項目調査がただちに無効というわけではない。
 ともあれ、さらに指標を設定し、より多くの諸本を見るとことできめ細かい把握を心がけたい。

四 版木の損傷と平井別版・小山版

 川嶋(二〇〇一)は、原刻・平井版での版木の故障が、改版したはずの別版にも影響することがあるという。
   三本(図書寮本・内閣文庫本・菅文庫本──佐藤注)を比較すると、上巻三四丁中央のオ一行から三行に
  至る欠け、三六丁オ中央を一行から七行まで横断する欠け、三六丁ウ三行目の訓に至る欠けがあることが共
  通する。この欠けは二ミリ幅の欠けで、原刻本では「鰐」(三四オ1)、「往」(三四オ3)、「學」(三
  六オ4)、「高」(三六オ7)、「顔」(三六ウ3)の諸字に少しの幅であるが確認できる。平井板に至っ
  てそれが拡大したものであろうが、文字自体にはそれによって欠落した部分は認められないため、欠けとい
  うより裂けというべきものである。版木に何らかのトラブルがあったのであろうか。なお、平井板別板では
  この幅の開いたものをもとに改刻したのであろう、「往」の字など縦に長く間延びしたものになっている。
 この指摘に触発されて、やはり版を改めた小山版(杉本一九七一)で確認すると、何がしかの、字によっては決定的な影響を受けるものがあった(注10)。まず三六丁の諸字のうち、「看(オ一)・咳(オ三)・学(オ四)・傘(オ五)・高(オ七)」などは一見異常はなさそうだが、字丈は高めであるから、裂けによる影響を隠そうとしたようである。さらに「顔」では頁部内の横画が三本になるという字形レベルでの影響が認められるのである。三四丁では「往」字の丈がやや高くなるだけだが、画数が少なくて認識しやすく、前後にも同一字を用いる熟字が連続するので変調に気づきやすいため、容易に修正しえたのであろう。しかし、「鰐」字では、魚偏の田部は横画が増えて三段になり(注11)、旁の横画も一本増えるなど、字形レベルでの影響がみられた。「往」字のようには好条件がないので訂正されなかったのだろう。小山版の改修能力に段階があるように見える例となっている。
 他にも同趣の裂けがあれば注目すべきだが、下巻四一・四七丁にも見られたので報告したい。
 四一丁にほぼ中央を横断する裂けがある。関わる字は「ー(オ二)・近(オ三)・進(オ四)・深(オ五)・脚(ウ六)・執(訓シフ。オ七)・善・老(ウ一)・食(ウ二)・准(ウ三)・翳(ウ四)・酌(ウ五)・不・皃(ウ七)」などである。原刻本ではかすかに、内閣文庫本でもまだ細いが、図書寮本なら確実に認めうる。別版では、「却」字の旁の分断された縦棒が直下の「七宝」の訓のように刻まれたり、「老」字の短い横画が二本になるなどの影響が見られた。小山版ではこの裂けによる影響はない。
 四七丁でもほぼ中央を裂けが横断する。関わる字は「沖(オ一)・疼(訓。オ三)・漬(オ五)・涵(オ六)・身(オ七)・籬(ウ一)・三(ウ二)・門(ウ三)・狂(ウ四)・鬘(ウ五)・鳥(ウ六)・樅(ウ七)」などである。やはり原刻本ではかすかに、内閣本ではわずかに、図書寮本では明瞭に認められる。別版では「漬」の貝部内の横画が三本であるほか、「籬・三」がゆがむなどの影響があった。小山版では影響はない。
 程度の差はあるが、下巻でも、平井別版は原刻・平井版版木の故障を引きつぐ、無批判な改版が見てとれた。小山版では上巻のような影響はなく、評価すべき結果となっている。亀井孝(一九四九)は、小山版の国語資料としての価値を平井別版より上とされたが、それと歩を合わせるような結果といえようか。
 ただ、小山版では、上巻での処理のように改修態度に段階のあることが知られたが、亀井の指摘も合わせれば、訓(読みがな)や判別しやすい字形は修正するが、やや複雑な字形になると修正の手がおよばなくなる、ということだろうか。これに平井別版の無批判なさまも合わせ考えると、慶長刊行節用集の限界を垣間見たような気もする。が、これは易林本諸版にかぎることかもしれない。コスト削減のために覆刻するのであろうから、刊行態度としては安易であって、改修の程度もそれに見合ったものになりそうである。一方、草書本・寿閑本では行草書表記に改めるのでコストもかけた開版であり(注12)、見方を変えれば易林本の「楷書による表記」の軛からはずれることになった。であれば、その価値について別途考察する価値のあることが期待されよう。

五 小山版の刊行者

 川瀬一馬(一九八〇)は、小山版の刊行者・小山仁右衛門永次について、のちに田原仁左衛門と改名して禅籍を多く開版し、江戸中期まで活動したという。が、この説にはしたがいがたい。
   この田原仁左衛門なる者は、元和頃に「伊勢物語闕疑抄」と「平家物語」(一方流本」」とを同種の平仮
  名活字で印行しているのが初見で、伊勢物語闕疑抄には、「御幸町通二条 仁右衛門活板之」、また平家物
  語には「河原町 仁衛門」との刊記があり、これは同趣の活字を使用しているのであるから、同人とみるべ
  きであろう。さすれば、慶長十五年に節用集(整版)を刊行している小山仁右衛門永次も同人でなければな
  らず、そして、仁右衛門は寛永後半から正保にかけて殊に禅籍を多く整版で出版している。〔(寛永十六年)
  禅苑蒙求、(同十七年)景徳伝統録(同十八年)尚直編・尚理編、(正保三年)大慧普覚禅師普説(等)〕   (植工「常信」活字印行の禅籍)
 活字様式の一致があるという仁右衛門(闕疑抄)と仁衛門は同一人の可能性が高いが、他の小山永次や田原仁左衛門と結びつける根拠は、名前の類似以外にはなさそうである。川瀬(一九三五)から見える所説だが、それにさかのぼっても「さすれば〜なければならず」と言えるような明確な根拠は示されないのである。
 こころみに住所から整理してみよう。仁衛門のは「河原町」とあるので河原町通よりも、通常「川原町」と記される現・東川原町(五条大橋の北東二〇〇m強)であろう(注13)。江戸期には建仁寺領であったという。仁右衛門(闕疑抄)の御幸町通二条は「御幸町通に面する町で、二条通の北か南」なので達磨町か鶴屋町(現・山本町。京都市役所の北西一五〇m)になる(注14)。田原仁左衛門は後述のように二条通鶴屋町だが、これは「二条通りに面する鶴屋町」なので現・晴明町になる。仁右衛門(闕疑抄)の鶴屋町とは別だが、一〇〇mほどしか離れていない。以上三者については、決定的なことは言えないけれども、住所の近さから仁右衛門(闕疑抄)と田原仁左衛門が縁者かと疑われ、宗旨から建仁寺領住みの仁衛門と禅籍刊行の田原仁左衛門とがつながりそうではある。
 ところが、小山永次はこの中に入り込めない。まず、住所は「釜座衝貫二条松屋町」(小山版刊記)なので、「二条松屋町」の字面から二条・御幸町から西へ三〇〇m強の松屋町と紛れそうだが、「釜座通に面した松屋町で、二条通りの近辺」なのだから現・上松屋町になる。二条・御幸町からは西に八〇〇m強離れた町である。
 残るは禅籍でのつながりだが、引用箇所にみえる『禅苑蒙求』以下四書の刊記には田原仁左衛門の氏名しかない。田原の刊行書はさらに『歴代名医伝略』(寛永九)を初め『難教本義』(寛永一〇)・『医学正伝或問抄』(同一二)・『便蒙類篇』(同一三)・『続錦繍段』(同一四)・『桐火桶』『聚分韻略』『蒙求抄』(同一五)に遡りうるから(注15)、寛永後半からの活動が認められるのは正確には田原仁左衛門とすべきである。なお、川瀬(一九六七)では、寛永年間の付訓本禅籍開版者の第一に「田原仁右衛門」と掲げるが、これも田原仁左衛門と小山仁右衛門が混交したものであり、右掲の開版書刊記を踏まえれば「田原仁左衛門」とすべきところである。
 川瀬は、先の引用に続けて次のようにもいう。
   然るに、この仁右衛門は、正保頃から、二条通鶴屋町田原仁左衛門と名乗り、正保四年(祖庭事苑、大慧
  普覚禅師年譜等の整版出版)以下多数の出版を行なっており、また、活字印行でも、正保三年に新編晦庵先
  生語録等を出している。この整版印刷を盛んにやっている中に、活字印行をも併せているという点を特に注
  意したいのであるが、要するに仁右衛門から仁左衛門と改まったのは、恐らく代がわりということを示すも
  のであろう。
 田原仁左衛門の名が寛永九年から見られることは右に確認したとおりである。また、近世において代がわりによって名が小異することはあろうが、姓まで変わる事態はそうはなさそうである。もちろん、入り婿などすれば別だろうが、川瀬の書き方からするとそこまで想定しているようでもない。結局、右のような事情を総合すれば、川瀬は、何かをきっかけとして誤認に誤認を重ねているように思われるのである。
 そのきっかけに田原仁左衛門の刊記の記し方があるのかもしれない。寛永年間のものでは、住所を記さなかったり、住所氏名とも「二条 仁左衛門」と略記したり、さらには別人かもしれないが「二左衛門」とのみ記したものもある。それらが、先の引用にある「仁衛門・仁右衛門」の簡略表記と混同されたのかもしれない。
 また、寿閑本節用集もかかわろうか。その刊記には「洛下桑門寿閑〔開板〕」とあり、寿閑が京都住まいの僧か僧籍を持つものであることが知られる。その宗旨については次の一節が糸口になろう。
   寿閑は後に慶長二十年から徳川家康の駿河版印工の工匠として京都から駿府へ下つて仕事に従ひ、後又帰
  洛して元和三年に元亨釈書の活字版等を印行した者と同人であらう(川瀬一九四三)
 駿河版の実質的推進者・金地院以心崇伝も、『元亨釈書』の虎関師錬も臨済宗であるから、寿閑も禅宗おそらくは臨済宗なのであろう。そして寿閑版『元亨釈書』の刊記には、田原仁左衛門とおなじ住所「洛陽二条通鶴屋町」が記されるのである。こうなると、寿閑の方が田原仁左衛門と結びつきやすいほどだが、それだからこそ川瀬の誤認のきっかけになりそうである。関係者のポイントをまとめれば次のよう。
  A 小山仁右衛門永次 釜座衝貫二条松屋町       慶長一五年に節用集を刊行
  B 寿閑       二条鶴屋町  禅僧(臨済宗)か 慶長一五年に節用集を刊行。古活字版も刊行
  C 田原仁左衛門   二条鶴屋町           禅籍などを刊行。正保年間に古活字版も刊行
 こうした三者間の共通事項が混同を読んだのしもしれない。Bを介してAとCが結びついたり、節用集を介してAとBの住所・宗旨の印象が重なってCと関係づけられたりしたのでもあろう。
 結局、小山版の開版者・小山永次については、いまのところ、他のだれかに結びつけうる確かな材料はない。

六 刊記をめぐって

 刊記には開版者・編者をめぐるさまざまな情報が凝縮されている。それをできるかぎり引きだして研究に役立てたいと思う。たとえば、安田(一九七四)では、平井版の開版時期にもかかわる興味深い推論を示している。
   易林が、「客」としたのは、川瀬博士も説かれるように(一七三一頁)、平井休與をさすと考えてよいで
  あろう。しかし、その場合、改修本に至って初めて表面に名を出した理由は解し難い。つまり平井休與が易
  林本印行の或る時期、改修本に関与していることは明らかであるが、原刻本における位置如何という点につ
  いては、そのまま問題を残さざるを得ない。或る時期が、「休與開板」と明示して大学・中庸章句を刊行し
  た慶長九年、あるいは夢梅本玉篇の同十年と関わるとすれば、まさに牽強付会と言うべきであろうが。
 安田は決して強調しないし、むしろ否定のニュアンスを示しているので、この一節から平井版が慶長一〇年頃に開版されたとは誰もとるべきではないのかもしれないが、魅力的な推定であることはたしかであろう。
 この平井休与の陰刻刊記は別版では削除されるので、権利・責任上、彼が関与しなくなったことを示すのだろうが、詳細は不明である。さらに小山版では易林の跋すら削除されて、小山仁右衛門永次の刊記が刻されることになる(注16)。易林・平井休与という本願寺関係者の名が消えることを重視するなら、前節での川瀬の推測も興味深いものになるかもしれない。もちろん、小山永次と禅籍書肆・田原仁左衛門との関係は立証できないが、もし小山永次が禅宗関係者なら、節用集の刊記から本願寺関係者の氏名を消し去ることは考えやすそうである。(注17)
 ついで参考までに、易林本から派生した草書本・寿閑本、寿閑本から派生した慶長一六年本にも触れてみる。
 草書本には刊記のないものしか存在しないのも不審である。覆刻再版本まであるのだから(川瀬一九五五・山田忠雄一九六四)、相応に流布したはずであって、権利を主張するためにも刊記をもうけそうなものである。
 寿閑本では二種類の刊記が知られている。一つは「慶長上章閹茂仲春上澣洛下桑門寿閑〔開板〕」で、もう一つは「桑門」以下が削除されたものである。前者には日本大学・東洋文庫・京都大学などの蔵本があり、後者には米谷隆史と筆者の蔵するものがある。両者は同版と見られるので、単に権利関係上、寿閑の手を離れたということなのだろう。ただ、寿閑本の開版された翌年に慶長一六年本が派生・改作されるわけだが、わずかに一年の差しかなく、刊記にも寿閑の名が存しないのは気になる。慶長一六年本の派生をめぐる何事かが、寿閑本の二様の刊記の存在にも関わりそうな気もするが、やはり詳細は不明である。
 慶長一六年本の刊記には「洛下烏丸通二条二町上之町刊之」と住所だけがあって開版者名がない。これも事情は不明だが、あるいは住所のみ示せば事足りるような、たとえばそこの町衆が出資したということだろうか。なお、本書を「上之町本」と略称されることがあるが、この場合の「上之町」は固有名ではなく北方の町の意であろう。「烏丸通に面した、二条通より二ブロック北の町」を表すわけで(注18)、常せい町(常けい町とも。現・少将井町)か、北隣の大炊町(現・大倉町)が相当しよう。当時の書肆で大炊町の住所を刊記に記すものに、『列子■斎口義』(寛永四)・『五経』(寛永五)を刊行した安田安昌と、『義貞軍記』『弓書』『十二月往来(菅丞相往来)』(寛永六)を刊行した安田弥吉があるが(注19)、慶長一六年本節用集との関係は不明である。

おわりに

 思い浮かぶ問題点を整理してきて、あらためて意識されたことはいくつかあるが、今印象に残っているのは宗教ないし教団というものとの関わりである。そもそも節用集祖本は臨済宗・建仁寺の僧が編纂したかと言われており(上田・橋本一九一六)、本稿であつかった易林本も本願寺の俗臣らが改訂・開版し(森末義彰一九三六)、さらに臨済宗の僧かと疑われた寿閑が行草書版へと大改編したのであった。こうした営為の背景に、教団や教団の社会的位置などが影響することはないかと、漠然とではあるが考えつつある。
 後の時代にも参照すべき例はある。文政年間に、西本願寺が『倭節用集悉改嚢』『都会節用百家通』等の版元に対し、公家鑑中の序列を東本願寺の前にするよう働きかけたことがあった。版元らが正式な手続きをとらずに応じたため出版管理上の問題となり、公家鑑を他の付録に差しかえる節用集もあった(佐藤一九九七)。構成に影響を与えたわけだが、慶長期の方が出版と宗教との関わりは深いから十分に注意してよい視点であろう。
 また、易林本に特徴的な片仮名のうち「丁」についても教団から解釈できるかもしれない。この字は、当時の辞書類での使用例が著しく少ないとされるが(今西一九九六b)(注20)、浄土真宗資料には比較的見いだしやすい。手軽には『真宗史料集成』(同朋舎)各巻の巻頭図版を見るのでもよい。古い資料だけでなく易林本に近い時期の『御伝抄聞書』(室町末期写。龍谷大学蔵)や(注21)、さらに下って宗誓(一六四五年生)編『遺徳法輪集』(宝永八(一七一一)刊)にも見られるのである。教団を一つの言語位相と見てもよいし、和讃で古音が伝承されたのは信仰心によるものと解されているから(福永静哉一九六三)、片仮名もそのように考えてもよさそうである。
 こうしたことも覚書の一部とはなるが、右六題にくらべて筆者の踏みこみが浅いこともあり、付言するにとどめる。それにしても刊記一つとっても未解明のことが多い。大方の御教示をあおぐ次第である。

(1)易林本の当初には、このような表記原則があったから、部門表示を陽刻としたのかもしれない。なお、後述のようにニ・ホ部については例外的な表記がなされるが、実質的にはこの原則は成立していると見る。
(2)これに誘発されたのか、安田(一九七四)は門名標示を「ハ部までは門毎に改行するが、ニ部で行頭に来るのは「乾坤」だけであり、それ以降必ずしも改行しない」とする。門名行頭の原則はレ部まで有効と見たい。
(3)カ乾坤の門名も表記されないが(安田一九七四)、これも同趣の事情が考えられる。乾坤の直前行は部名(加字)の表示に用いられるので、次善の対応であってもさすがにこの直下には補刻できなかったのであろう。
(4)安田(一九八三)を貫く「韻事の書」としてみるとき、必ずしも冗長・過剰とはかぎらないことになる。
(5)安田(一九七四)も、易林の学殖からして節用集を深いレベルで改訂した可能性を示唆する。
(6)東洋文庫本・京都大学本・静嘉堂文庫本(雄松堂マイクロフィルム)等による。なお、京大本は京都大学電子図書館貴重資料画像(http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/index.html)からも閲覧できる。
(7)一九世紀の滑稽本の例になるが、佐藤(一九八七)・鈴木圭一(二〇〇一)を参照。
(8)ほかにチ部標目上部の横棒の太さも指標になるが、細・太の差が明瞭でないことがあるのではずした。
(9)字画の切れやかすれを補筆することが少なくないが、当該一〇項目の調査にはたえうる。
(10)杉本(一九七一)で、一行目に縦に線が入ったようにみえるのは、原本紙面の皺であろう。
(11)平井別版では魚偏の田部が「串」字様なので、小山版の三段型の原型かと疑われ、ひいては平井別版から小山版を覆刻したかとも思わせる。平井版から小山版が出たことは金沢庄三郎(一九三三)・亀井孝(一九四九)により通説化しているが、川瀬(一九三五)は別版から、杉本(一九七一)は平井版・別版双方からと考えているらしい。両者とも論拠を明示しないが、あるいはこの「鰐」字の変形が踏まえてのことか。ただ、平井版からでも、裂けによる空白の分、機械的に縦画を延長すれば三段型は構成できそうである。
(12)慶長一六年本を挙げてもよいのだが、大幅に寿閑本に依拠するものなので、ここでは掲げない。
(13)『角川日本地名大辞典 二六 京都府(上)』によれば「寛永年中の開町」という。これにしたがえば、仁衛門の『平家物語』は寛永年間(一六二四〜四三)の開版となるか。あるいは仁衛門の『平家物語』が開版されたと推測される元和年間(一六一五〜二三)ごろには実質的に「川(河)原町」と称されていたか。
(14)以下、旧町名の同定には『都記』(寛永初年ごろ開版。京都大学電子図書館貴重資料画像)・『平安城東西南北町并之図』(慶安頃刊。『〔慶長昭和〕京都地図集成』(柏書房、一九九四)所収)を参照した。
(15)太田正弘『寛永版目録』(二〇〇三)を中心に、必要な場合は他書・画像などで確認した。
(16)刊記の「于時慶長十五年庚戌仲春如意吉辰」の「十」字は、「長・五」間に無理に刻したような不自然さがある。こうしたことも何事かを反映したものであろうか。ちなみに慶長五年の干支は「庚子」である。
(17)前節での川瀬の所論は、これらの事情も承知して小山永次を田原仁左衛門と同一人とみたものか。
(18)類例を示す。松江重頼編『犬子集』の刊記に「寺町二条二町上/大炊道場/存故開板」とあるが、やはり寺町・二条の二ブロック北、竹屋町通交差点東側に大炊道場がある。ただし『都記』では南寄りに記される。
(19)寛永五年の祇園祭の際、安田安昌は儒学の師・菅玄同を弑して捕えられるので、翌年三書を刊行した弥吉は安昌本人ではなく、子息・縁者ででもあろうか。
(20)寿閑本は、漢字表記を行書・草書に改めたが、仮名は易林本を踏襲して片仮名付訓とし、さらにサ・マの異体もおおむね受け入れている。一方ではモの初筆を左下へ払う字画を採るのも注意される。
(21)龍谷大学電子図書館(http://www.afc.ryukoku.ac.jp/kicho/top.html)からも閲覧できる。

参考文献

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────(一九九六b)「『易林本節用集』の片仮名字体」『国語国文』六五─五
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          http://www.lib.ibaraki.ac.jp/kan-db/namazu-d/kai/kai-setsuyoushu.pdf
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────(一九三七)『古活字版之研究』安田文庫(一九六七増補版。ABAJ)
────(一九五五)『古辞書の研究』講談社(一九八六増訂版)
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鈴木圭一(二〇〇一)「「鯉水」著『傳労俚談旅寿々女』出板の意味」『鯉城往来』四
中田祝夫(一九六八)『古本節用集六種研究並びに総合索引』風間書房
────(一九七九)『古本節用集六種研究並びに総合索引』(改訂新版)勉誠社
中田祝夫・北恭昭(一九七六)『倭玉篇〔夢梅本/篇目次第〕研究並びに総合索引』勉誠社
濱田啓介(一九九四)「本屋と草紙屋」『静脩』特集号(通号一一五)京都大学附属図書館
          http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/37834/1/s94ex01.pdf
福永静哉(一九六三)『浄土真宗伝承音の研究 室町時代音韻資料として』風間書房
森末義彰(一九三六)「易林本節用集改訂者易林に就いて」『国語と国文学』一三─九
安田 章(一九七四)「(節用集二種)解題」『天理図書館善本叢書和書之部』二一 八木書店
────(一九八三)『中世辞書論考』清文堂出版
山田忠雄(一九六四)「草書本節用集の版種」『ビブリア』二九

付記
 本稿は、日本学術振興会科学研究費補助金・基盤研究(A)「日本における書物・出版と社会変容」(一橋大学大学院・若尾政希)による研究成果の一部である。なお、同(C)「近世辞書の学際的・言語生活史的研究のための基礎研究」(佐藤貴裕)の経費による調査を含む。

※国語語彙史研究会編『国語語彙史の研究』27(和泉書院、2008・3刊行予定)。