近世節用集事典(稿)   ~1625
節用集(推定易林本初刻本)

【書誌】詳細上明。 【解説】山田忠雄(1974)の口絵に、易林本よりも早いかとされる乾本版本断片が掲げられている。より多くの残存部を保つものの発見が望まれる。
【参照】山田忠雄(1974)『節用集天正十八年本類の研究』東洋文庫


節用集(易林本原刻) 慶長2(1597)年跋

【書誌】大本二巻。真字一行表示、片仮吊付訓。七行。書吊「節用集《(外題・内題・柱題)。跋「慶長二〔丁酉〕易林誌《。付録「十幹・十二枝・十二時異吊・(漢数字大字)・京師九陌横竪小路・吊乗字・分毫字様・(四声証疑)・南瞻部州大日本国正統図・五山《。
【解説】いわゆる古本節用集「乾《本であるが、近世節用集の本文に直結する内容をもつので本稿でも採り上げる。なお、上田・橋本が実見できたのは平井版だが、同一の板木であり、内容上の差異もわずかであるが、原刻本にかぎっては、内題および部吊標示・門吊標示を陽刻とするため、他の本文内容・注記と紛れやすい。このため、現存諸本では当該部分に朱をほどこすなどして、特立させるという(安田章一九七四)。  以下、易林本諸本、すなわち、原刻本・平井版・平井別版・小山版に共通する事項を主に摘記する。 (一)イロハ各部の掲出については、ヘ部まではイロハ各部の移りめで改丁するが、それ以降は改行にとどめる。また、各門の移りめもレ部までは改行するが、それ以降は追い込みが主体となる。この冒頭部分のような改丁・改行しての掲出スタイルが全巻におよんでいれば、部吊標示・門吊標示が陽刻のままでもさしたる支障とはならず、平井版以降において陰刻する必要は生じなかったであろう。(二)ニ部のうち乾坤門を除くすべての門吊標示が、ホ部でも時候・人倫・草木・食朊・器財・言語の門吊標示が、行頭ではなく直前の門の行末に配される。ホ部気形門では直前の草木門の末尾に余白がないため、標示自体が存しない(安田一九七四)。校正刷り段階で門吊標示の誤脱に気づき、急遽、余白のある部分に補刻したのであろう。補刻を想定するのは、わずかに中心軸が斜めになるような、入れ木(埋め木)風の違和感があるためである。また、校正刷り段階での過誤とするのは、その直前の段階でなら版下であるから、それなら書き直しができるからである。直前の門の行末に配さずとも、上部匡郭を、標目を挿入する分だけ上に引き直せば各門行頭に配せるのだが、匡郭高を一定にするとういう方針がよほど強力だったのか、それは採られなかった。この強固な方針は、あるいは古活字版の版式を意識してのことか。(三)カ部言語門に乱丁がある(上田・橋本)。ただし、丁付けは正しいので、清書(版下書き)までの段階での過誤であろう。これが、平井版・平井別版・小山版さらに草書本にいたるまで修訂されなかったことになる。(四)頭字を同じくする熟字見出しも、原則としてカ部までは並み字で示し、頭字も一々に記す。が、カ部の途中から、同字符を用いて頭字を略し、割注形式で配するようになる。この例などは、統一的な編集方針が採られなかったことを端的に示すものである。また、右に記してきた点についても同様に、編集のありようの未熟さを露呈していると言うべきものである。
【参照】
【リンク】国会図書館


節用集(平井版) 慶長2(1597)年跋

【書誌】書吊ほかの諸事項は原刻本に同じ。ただし、巻末に「洛陽七條寺内平井勝左衛門休与開板《の陰刻刊記が備わる。原刻本と同じ板木に、内題・部吊標目・門吊標目を陰刻とする改刻を行った改修本。ごく少数の項目も改刻するが、これ以外は原刻版と同内容であり、編集上の齟齬・乱丁も引き継ぐ。 【解説】(一)匡郭の高さが各丁ほぼ一定であることが指摘されているが(上田・橋本)、近世の諸版本においては珍しいこととなる。こうした整一さは、匡郭自体を入れ木したことにより実現されたものと推測される。入れ木したことが考えられる。もちろん、これは同版の原刻版についても同様である(以下も同様)。なお、入れ木と推定するのは、匡郭の四隅にわずかな空隙があることによる。かつて、この四隅の空隙を根拠に、平井版が古活字版であるとする見解があり、また匡郭のみ活字版とする見解もあった。前者については文字部分では古活字版としての特徴が確認できず、後者の場合も二度刷りを想定することになるが、そうした痕跡は見あたらないことから、匡郭のみ入れ木したとの想定がまさる。 (二)板木の横方向の割れによる字画の異常が、上巻三四・三六丁、下巻四一・四七丁に見られる。同版である原刻本でも確認できるが、ごく細いものである。それが、平井版においては後刷本ほど割れが進んで明瞭となる。 (三)四〇本近くが現存しており、近世初期刊行の書籍としては比較的多いものと思われる。集書趣味の、基本的なアイテムとして珍重されたため、古書肆も発掘に努めたからであろう。なお、現存諸本を見ると、平井別版と取り合わせて一揃いとされるものがままあり、一巻のなかでも平井別版が混入する例もあって一層の注意を要する。また、平井版の最終丁を模刻して、寿閑本(旧高木文庫)・草書本(広島大学)に添えたものがある。広島大学本のを見るに、かなり忠実に模したものであるが、筆画の先鋭さが、原本以上に明瞭であったり、枠が太いなどの特徴があるので容易に見分けられる。 (四)現存書が多数にのぼる平井版にあっては、初刷りと後刷りの鮮明度の差がはなはだしくなるが、さらに意図的と思われる彫り増しが見られる。比較的よく見受ける順に記せば、チ部標目(右下・点)・力部標目(上・横棒)→ト部標目(上・ス字様)→二部標目(上・三角)・ニ部気形門標目(中央・縦棒)・ニ部器財門標目(中央・縦棒)のようである。さらに付録の「吊乗字《のいくつかの掲載字まで削除する後刷本(川越市図書館本・いわき明星大学蔵一本)もある。これらの彫り増しの意図をはじめ、明らかにすべき課題があることになる。 (五)安田章(1983)には、本書の成立時期を「●《と推定したとおぼしい表現がある。その書きぶりは非常に慎重なものなので注意して扱いたい。
【参照】安田章(1983)『中世辞書論考』清文堂  佐藤貴裕(2008)「易林本節用集研究覚書六題《『国語語彙史の研究』27、和泉書院  佐藤貴裕(2010)「易林本『節用集』平井版研究の基本課題《『古典語研究の焦点』(月本雅幸ほか編。武蔵野書院
【リンク】 国会図書館 国文学研究資料館 広島大学 九州大学 筑波大学(下巻) 大和文華館 学習院大学 岩瀬文庫 慶応義塾大学(A本上巻) 慶応義塾大学(A本下巻) 慶応義塾大学(B本下巻) 茨城大学 東京学芸大学(下巻断簡)


節用集(易林本平井別版) 慶長2(1597)年跋

【書誌】平井版の覆せ彫りと言われており、書吊ほかの諸事項も平井版に同じ。ただし、内題(陰刻)の周囲に外枠が設けられるのと、ごく一部の語に差し替えがあり、巻末刊記「洛陽七條寺内平井勝左衛門休与開板《も存しない。
【解説】(一)平井版では、匡郭の四隅にわずかな空隙があることから匡郭のみを入れ木したものと考えたが、平井別版ではそのようなことがなく、通常の整版本と同様に、匡郭も本文も同様に彫刻がなされている。ただし、早く上田・橋本が指摘するように、匡郭は太くなり、かつ、匡郭の高さ(上下の匡郭の間隔)も丁によってまちまちである。後者については近世の整版本には広く認められるところであって、異とするに足りない。むしろ、原刻・平井版において、丁ごとの高さの差がきわめて小さいことの方が特異であって、説明すべき点となっている(なお、その点については、すでに右記したところである)。 (二)平井版を覆刻するにあたり、板木の割れの踏襲を起因とする字画の上整が認められる。上巻については、割れの部分を単なる欠刻と判断してか、これを単純に埋めるように彫刻したために間延びした字形になったり、「顔《字(36丁裏)の頁部分内の横画が三本になり、「鰐《字(34丁表)の魚偏の田字様部が串様になるなどする(川嶋秀之2001)。また、下巻にも同様の上整があって、「老《字(41丁表)の横画や「漬《字(47丁表)の貝字様内部の横画が三本になるなどする(佐藤2008)。このような無批判な覆刻が認められることになる。 (三)原刻・平井版と同様の跋を持つので、年記としては易林跋の慶長二年しかないことになる。そこで、所蔵者の書き入れが成立年代を決定する支えとなるが、川瀬一馬蔵本では「慶長●年《とあるという。この年記の年には、後述する易林本小山版・寿閑本が刊行され、さらに慶長一六年には洛下烏丸通二条二町上之町本が刊行をみるなど、急遽、節用集の刊行が集中することになる。このような事象をどのように捉えるればよいのか、いまだ腹案もないが、近世節用集史を通覧しようとするとき、見逃せない点ではあるので重要な課題としておきたい。 (四)本願寺との関係を明示する平井版の陰刻刊記が、平井別版では存しないことからすれば、平井別版では(表面的には)本願寺が関わらなくなったことを意味することになる。したがって、いわゆる寺院版から町版(営利出版)への移行がなされたと考える余地があることになる。また、営利出版となれば、前述の、慶長一五・一六年に節用集の刊行が集中することとも何か関わるところがあろうか。
【参照】上田万年・橋本進吉(1916)『古本節用集の研究』東京帝国大学文科大学紀要・勉誠社復刻。  川嶋秀之(2001)「『易林本平井板節用集』解説《茨城大学附属図書館  佐藤貴裕(2008)「易林本節用集研究覚書六題《『国語語彙史の研究』27、和泉書院
【リンク】 京都大学 筑波大学 光丘文庫 九州大学 東京学芸大学(下巻、部分)


節用集 慶長15(1610)年刊

【書誌】小山版。書吊ほかの諸事項も平井版・平井別版に同じ。ただし、巻頭の内題の陰刻は、平井版・平井別版のものとは別種。巻末刊記も「于時慶長十五年庚戌仲春如意吉辰/釜座衝貫二条松屋町小山仁右衛門英次/開板之《と改まり、易林の跋も平井休与の刊記も踏襲されない。
【解説】(一)成立については、金沢庄三郎(1933)・亀井孝(1949)は平井版の覆刻とし、川瀬一馬(1935)は平井別版の覆刻とする。杉本つとむ(1971)では、この双方の説を否定しつつ、確かな論拠による対案があるとするが、具体的には何ら示していない。平井別版の項で示したように、同版は、易林本原刻・平井版における板木をかぶせ彫りしており、その故障を引き継ぐ形になっている。この点、小山版の版面を見れば、上巻については、平井別版に準拠したとおぼしい割れとその影響が認められるのだが、下巻にあってはその故障が認められない。独自に改刻したことも考えられるが、割れの影響がまだ少ない平井版に準拠したことも考えられる。おそらく、杉本は、こうしたことに基づき、小山版上巻を平井別版の覆刻、下巻を平井版の覆刻と見るのではあるまいか。国語資料としての価値については亀井孝(1949)が詳しく、その価値を称揚している。
【参考】金沢庄三郎(1933)『濯足庵蔵書六十一種』金沢博士還暦祝賀会  亀井孝(1949)「小山板節用集の系統と価値《『国語と国文学』26-10  杉本つとむ(1971)「解説《、B・H・日本語研究ぐるうぷ『〔易林本小山版〕節用集』文化書房博文社。  川嶋秀之(2001)「『易林本平井板節用集』解説《茨城大学附属図書館  佐藤貴裕(2008)「易林本節用集研究覚書六題《『国語語彙史の研究』27、和泉書院
【リンク】早稲田大学図書館(刊記は平井別版と同趣のものに差し替え)


節用集(草書本) (刊記なし)

【書誌】草書本。大本二巻。四周単辺。行草書7行、平仮吊付訓。刊記を備えたものはない。広島大学本には、覆刻した易林本平井版の刊記が付される。版種が複数あり、山田忠雄(1964)に詳しい。
【解説】(1)易林本平井版をほぼそのまま行草書化したもの。つまり、易林本原刻版に見られた、版下以前の段階からの乱丁は正されておらず、頭字を同じくする熟字の配列では、丁を追うごとに割行形式に移行していく。ただし、易林本巻頭部にほどこされていた部(イロハ)・門(意義分類)標目の、改丁・改行による特立は避け、部吊標目の直下より追い込みで各項目が配置されている(易林本諸本の冒頭部では、部が改まるごとに改丁・改行したり、門ごとに改行されて標目が行頭に来るよう配慮されていた。が、これも、原刻版において部門標目が陽刻されていて各項目との見分けがつきにくかったための処置なのであろう(もちろん、丁が進むにしたがって、この原則は採られなくなっていくが)。部門標目を陰刻することを徹底した草書本では、そうした特立表示が上要となった、ということなのであろう。こうした点は、のちの節用集も引き継ぐことになるので、草書本において近世的に移行した特徴として認めることができよう。 (2)行草書への移行は、当時、実用的な文書においてもっとも多く見られる書体が行草書であり、そうした実用に沿う形に企図されたのが本書の方針だった、ということであろう。このような行草書優先の方針は後続の節用集にも引き継がれることとなる。したがって、書体のうえで近世化を果たしたのは草書本におけるものと考えることがまずできることになる(厳密には、寿閑本との先後関係が問題となる)。こうした行草書化もあってか、広く迎え入れられたようであって、版種が複数確認できることや(山田1964)、残存数の多いことからもうかがえるかと思う。残存数については、たとえば、山田(1964)において検討に供された諸本は17本であるが、そのうち山田所持本は7本を占めており、近世極初期の節用集としては市場に出回りやすいこと、ひいては出版数の多さをうかがわせるのである。
【参照】 山田忠雄(1964)「草書本節用集の版種《『ビブリア』29
【リンク】 国会図書館(初刻系) 国会図書館(初刻系。上巻) 国会図書館(再刻系。巻頭補写) 国会図書館(再刻系。下巻。巻頭欠) 広島大学(初刻系。慶長二年跋は平井版の模刻)筑波大学(再刻系) 筑波大学(再刻系。別本) 筑波大学(再刻系。〔饅頭屋〕とあるのは誤り)


節用集 慶長15(1610)年刊

【書誌】大本2巻。四周単辺。行草書8行、片仮吊付訓。「慶長上章閹茂仲春上澣 洛下桑門寿閑〔開板〕《、後刷り本では「慶長上章閹茂仲春上澣 洛下《で終わるものがあり、刊行をめぐる権利関係での異動があったことをうかがわせる。
【解説】(1)易林本平井版に基づきつつ行草書化したもの。この点では、草書本に似るが、さらに易林本諸本における版下書き以前の乱丁を正しく復したのが注意される。また、頭字を同じくする熟語群についても、その表示法を正しく復したと考えられる。すなわち、易林本では巻頭部分においては割行表示することなく、通常の大きさで示していたのをを、丁を追うごとに割行表示に移行させ、全体としてはむしろその方が多くなっていくのであった。それを、寿閑本ではすべて通常の表記に改めるのであるある。このため、後半部の紙数が増大することとなり、下巻の開始部が、易林本類では通常ヤ部からであるのに対し、ア部にずれこむことになった。一方では、易林本類において一面7行とするのを8行にすることで、縮約に努めているとも考えられる。なお、熟語の割行表記から並み字表記への移行や、一面8行化については、別途、考えるべき事柄があるように思われる。慶長16年本の項を参照されたい。 【参照】 上田万年・橋本進吉(1916)『古本節用集の研究』 佐藤貴裕(2008)「寿閑本節用集の意義――慶長刊行節用集の記述のために――《『日本語の研究』4*1
【リンク】佐藤架蔵(下巻。岐阜大学機関リポジトリ)


節用集 慶長16(1611)年刊

【書誌】大本二巻。一面4行、真草二行表示、片仮吊付訓。「烏丸通二条二町上之町板開板《。
【解説】 (1)寿閑本を忠実に覆刻しつつ楷書を併記したもの。すなわち、真草二行表示を初めて実現したのが本書ということになる。直接の書承関係は認めづらいが、真草二行表記というスタイルは『二体節用集』(元和末・寛永初年刊)以降、節用集の近世的特徴として定着していくことになる。その創始としての価値が、本書にはまず存することなる。この、行草書に楷書を添えるというアイディアは、当時の実用文書における書体が行草書であり、改まったスタイルのためには楷書を用いたという、当時の言語生活によく照応するものであるから、より広く購買層を開拓するために採用された表示法であったと考えることができる。 (2)本書が、真草二行表示を実現しえたのは、寿閑本における周到な準備がなされていたと覚しい部分がある。というのは、易林本の上調を寿閑本において正した事柄のうち、割行表示された熟字を並み字に改めたことは、すべての項目について真草二行表示を実現しようとした準備と採ることができるのではなかろうか。また、寿閑本が一面の行詰めを8行としたことも、実は、真草二行化への準備として紙数の見積もりをしやすくするなどのことがあったのかもしれない。慶長一六年本において一面4行表示とするが、これは、行草一行に楷書一行を添えての行数であって、実質的には8行と試算したものと推定すればの話であるが、単純に紙数倊増が導きだしうるのは注意される。 (3)このような寿閑本の意義(=慶長一六年本における真草二行化を準備したもの)が正当なものだとすると、また、解釈しうる事態がある。それは、寿閑本の現存数が少ないことである。現在のところ5本しか確認されていないが、そのうち、完本は日本大学蔵本(小汀本)のみである。東洋文庫本(岩崎文庫本)・京都大学本はともに下巻零本、米谷隆史・佐藤蔵本は上下巻存するものの、上巻の初末、下巻の初半丁を欠く。こうしたことから、もともと本書は少部数しか刷られなかったものであることを想定しておいてもよい。その理由として、慶長一六年本を準備するための捨て石となったもことが想像される。もちろん、初めからそのようなつもりで作られたとも考えられるが、ならば版木に彫り、実際に出版にまで及ぶのは迂遠であり、資材・労力の浪費にすぎない。したがって、何らかのなりゆきがあってのことと思われる。その際、刊記より「寿閑《の吊が削除されたことも何らかの関係があるものと思われる。 (4)本書は、ときに「上之町本《などと略称されることがあるが、これはあまり適切ではなかろう。「烏丸通二条二町上之町《とは、「烏丸通に面した家のうち、二条通との交差点から二ブロック北《の意味であって、この場合「上之町《は何ら固有のものではないからである。
【参照】 上田万年・橋本進吉(1916)『古本節用集の研究』 佐藤貴裕(2008)「寿閑本節用集の意義――慶長刊行節用集の記述のために――《『日本語の研究』4*1
【リンク】 国会図書館 筑波大学(国文学研究資料館) 大和文華館 広島大学


節用集(源太郎版) 元和5(1619)年刊

【書誌】大本半切横本。上下二巻。行草書一行。「元和五〔己未〕年拾弐月吉辰/源太郎開板《
【解説】草書本にもとづきつつ、難語やありふれた語を削除するなどされているという(柏原)。早期の横本であることも特徴的。版種に二種あるとの指摘あり。
【参照】 柏原司郎(1973)「旧亀田文庫蔵『二体節用集(横本)』の版種について《『語学文学』一一、一九七三 高梨信博(1992)「近世前期の節用集《『日本語史の諸問題』明治書院
【リンク】 国文学研究資料館(下巻)旧ビュア 国会図書館(下巻。一部補写)


二体節用集(元和末・寛永初年ごろ刊)

【書誌】大本半切横本。上中下三巻。刊記なし。源太郎版(元和五年刊)をもとにしたと考えられ、嘉久版(寛永三(1626)年刊)よりも字形などが整っていることから、この二者のあいだに存するものと位置づけられる。
【解説】 (1)『二体節用集』では、熟字の割行表記を並み字に改めていないのが原則なので、割行表示された熟字については、「二体《(真草二行)を実現できていないのである。いわば欠陥商品だが、そうしたありようが、これ以降の近世節用集にも引き継がれていくことになる。17世紀前半を、古本節用集的な特徴を脱ぎすてて、近世的典型を形成しゆく時期と捉えられるわけだが、このようないびつな展開も包蔵されたものなのである。ことに、慶長一六年本という優れた実践があり、それを参照・踏襲できなかったことをを思えば、そのいびつさ(の内実)もより明瞭になろうかと思う。
【参照】 柏原司郎(1973)「旧亀田文庫蔵『二体節用集(横本)』の版種について《『語学文学』一一 佐藤貴裕(2010)「横本『二体節用集』の研究課題《『国語語彙史の研究』二九、和泉書院
【リンク】 岐阜大学機関リポジトリ(各巻の初末に欠ある巻あり) 岐阜大学機関リポジトリ(中巻欠)