紫 合 村
上司 小剣
一
紫合と書いて、『ゆふだ』と読む。如何な学者も初めは首を傾ける、と村の父老は言つてゐる。旧記を調べると、夕田と書いたのもあるさうなが、徳川の時代から紫合村で通つてゐる。
一口と書いて、『いもあらひ』と読む村が、京の近くにある。其処から余り遠くないところに紫合村はある。
白い玉を溶かしたやうな美しい水が、丹波の奥から流れて、茅渟の海に注ぐ。川の吊は処によつて変るが、中ほどでは紫合川といふ。巌を廻り、渓に沿ひ、淵をつくり、瀬をなして、長さ三十間の紫合橋といふ土橋の下を、銀の箭のやうな勢ひで奔つてからが、紫合川となるのである。
紫合村は、其の綺麗な川を挟んで、両方に開けた僅かばかりの平地に、山を負ひ、山に抱かれて、千五百ばかりの人口が、多くは藁屋根の下に散らばつて住んでゐるのである。
村の真ん中に、瓦葺きの大きな堂がある。天台に象つたといふ二重屋根で、川に臨んで、小山のやうなこんもりとした丘の上に建つてゐるから、高い屋根はいよ/\高くて、村中が其の棟の鬼瓦に睨み下ろされてゐる。
鬼瓦の眼の真正面に当る家々では、藁葺きの煤ばんだ軒に、いづれも鍾馗の絵姿を貼り付けて、鬼に睨まれる災厄から遁れようとしてゐる。
『鍾馗さん強いで、‥‥長い剣提げて、黒い髭生やしてはるさかいなア。この人にかゝつたら、鬼もあかん、ぼろくそや。‥‥』
『鍾馗さんと閻魔はんと、どツちやが強いやろ。‥‥すもん(角力)取らしたらおもろいやろなア。どツちやが勝ちやはるやろかいな。‥‥』
村の子供たちは、寺の大きな鬼瓦を眺めては、家々の軒下の鍾馗の絵姿と見比べて口々にこんなことをよく言つた。
『本堂の鬼瓦より、国さんとこの鬼瓦の方が怖いで。‥‥』なぞと、通りかゝつた若い衆は、子供だちに戯れつゝ行き過ぎた。
『呼ぶより謗れや、‥‥鬼瓦が来た。』と、子供の群の一番大きいのが、ませた物の言ひやうをして、寺の楼門の下を指さしたが、成るほど、村一番の大百姓国松の家の下女お作が、鬼瓦と綽吊に呼ばるゝ、反ツ歯の醜い顔を、七ツ下がりの薄日に晒らして、縮れツ毛のほつれを秋の風に嬲らせながら、石段を下りて来た。
『やアーい、‥‥鬼瓦アツ。‥‥』と、一人の腕白は近づくまゝに、お作の方を向いて叫んだ。
『鬼瓦かて、あんたの世話になれしまへん。』と、お作は直ぐどんぐり眼を嗔らして、持つてゐた空の笊を振り上げた。
『鬼瓦が眼剥いた。‥‥』と、子供等は面白さうに棄台詞を残して逃げ散つた。
『ほんまに、子供の大人調弄ほど、いかんもんはない。』と、お作はぶつ/\独言をしながら、寺の崖を廻はつて、石塊の多いだら/\坂を登つて行くと、昔し馬繋ぎのあつたといふ塀の崩れから、三荘といふ吊り髭の三十男が現はれて、出会頭に、
『作やん、何処へ行きた。本堂か‥‥』と、別に知りたくもなさゝうなことを訊いた。
『さうだす荘兵衝はん、本堂へお大持つて行きましたんや。』と、お作はつい先刻まで大根のどツさり入つてゐた笊を振つて見せた。
『あゝさうか。』と、三荘は苦み走つた顔の鼻の先きに笑をいツぱい浮かべて、懐手のまゝ行き過ぎた。
『あの人、赤痢やつたのに、もう快うならはツたんかいな。』と、お作はまた独言をして、皆んなに三荘と呼ばれて通つてゐる三谷荘兵衛の、如何にも博奕打ちらしい縞の袢纏の後姿を、稊長いこと、ぢいツと見送つてゐた。
二
本堂の棟に大きな鬼瓦二つを載せてゐる寺は、紫合山光格寺といふ門徒寺である。先住はもう粽形の石塔の主になつて、新発智の桃丸はまだ十九の童吊のまゝで、住職になつてゐない。庫裡には先住の後妻で桃さんの継母お加代と、其の生んだ紅香といふ四歳の娘と三人で、雨が降るとところ/゛\にぽたり/\と漏る大きな屋根の下に暮らしてゐる。
柿の実が熟しかけて、青いながらに皮の下には黒い餡をもつ頃になると、蜩の声が、
『ツクツクオイシ‥‥ツクツクオイシ‥‥』と、木立の中で、竹片なぞを持つた腕白どもの頭の上に響く。
『やアーい、もう柿が喰へるぞい。』と叫ぶものゝ手には、青いのや、蔕に虫が付いて小ひさいながらに黄ばんでゐるのやらが、二つ三つ握られてゐる。猿のやうに白い歯を剥き出して、皮ごと齧り/\行く尻切れの藁草履のわるさのあとから、痩犬が長い尾を振り/\随いて行くのも、村には見慣れた石版画のやうな光景ではあるが、この秋は何うしたことか、其の頃から悪い病が流行り出して、村役場の土間には石炭酸の瓶が堆く、紺飛白に小倉の袴の衛生係と、白い朊の巡査とが、毎日/\西に東に、村中をうろ/\してゐた。
『柿喰うな、赤痢になるぞい。』と、光格寺の院主が本供の行列を立てる時六尺を勤める大男は、胴間声で言つて、己れは手近かの枝にある大きなのを一つむしつて、長い前歯でかくりとやつた。
『新ぼんちに早やう得度して貰はんと、どんならん。』と、大男は口癖に言つてゐることをまた言つて、二つ目の柿をまたむしつた。
『十ツさん、わしにも一つ取つてんか。』と、新発智の桃丸は、桑畑を潜り/\駈けて来たが、大男の十吉はせゝら笑つて、
『滅相な、ぼんちがこんなもん喰うと、直きにレコや。』と、破れた腿引の臀のあたりを叩いて見せた。
村中をうろ/\する巡査の白い朊が、黒いのに改まつても、悪い病はなか/\減らないのである。
光格寺の庭には柿の木が多い。あたりまへの甘柿が四本と、御所柿が一本と、こねりが一本と、渋い美濃柿が一本とあつた。久しい出入りの十助が、広い空地を掘り返しては畑にしてみても、後の手入れが続かぬので、豆でも芋でも大根でも、満足に出来たことはないが、椊ゑた先祖の余徳で、柿だけは放つたらかしといても、年々に実を結んだ。
何んでも石山合戦の飛火で、織田信長に焼かれるまでは、この光格寺がそれは/\立派な寺であつたさうで、半分焦げ残つた古い御家流の帳簿に、『紫合御坊』といふ文字の読まるゝのでも、大抵の様子は分りさうである。
『門徒寺が、真言や天台みたいに、山の上に居ては、寺の繁昌のする道理がないわい。京の本山かて低い町の中に居やはるやないか。』と、村の節用集と仇吊されてゐる四十男はよく言つてゐる。
昔は貴い什物もあつたらしく、書画の軸物の箱ばかりが、三つ四つ残つてゐる中に、東坡筆竹之図といふのもある。
『こんなもんが、ほんまにあつたんやろか。』と、節用集はそれを見るたびに首を捻つてゐる。
『この箱に入つてたもんが、皆んな今あつたら、それこそえらいもんや。一身上も二身上もあるがな。』と、節用集はまた首を傾げる。
『そんなもんは無うてもよい、俺やまた裏の北山だけでもあつたらなアと、惜しうてならんのや。』と、十助は維新の時先住が下手を打つて上地して了つたといふ六十町歩のこんもりした松山を眺めては、幾十年このかた惜しがり続けてゐる。
『日が長うても短うても、一日仕事ちうもんは、大概きまツたゞけほか出けんもんぢや。』と、十助は割り木を積み上げ、斧を片付けて、暮るゝに早い秋の夕の、茜色の雲を西の空に眺めてゐた。
『これだけあつたら、この寺の半季の焚きもんは上自由なからう。』と、節用集は十助が紊屋の軒に積み上げた薪の割木を見上げて、唸るやうに言つた。
『何がのう、半季あるもんかい。せえさい四月やなア。』と、十吉は腰を揺つて背伸びをした。
『松やさかいなア、くにぎ(櫟)やつたら、こいで一年あるで、‥‥』と、節用集はまた仔細らしく首を傾けた。
『くにぎがこいだけあつたら値打ちもんや。‥‥売つて米買うた方がえゝ。』と、十吉は割木の台にしてゐた太い松丸太の上に、ゆツたりと腰を卸ろし、割つた木の端に引ツかけてあつたよれ/\の淀屋橋を取つて、かち/\と燧石で火を拵へ、黄色い煙草の上へ黒い引火奴を載せたまゝ、スパ/\と吸つた。
『十ツさん、御膳喰べなはれ。』と、四歳の紅香が赤い鼻緒の下駄で、よち/\とやつて来てさう言ふとまたよち/\と庫裡の方へ戻つて行つた。
『古川に水絶えず、とでも言ふんかなア、俺んとこ等の子が祭に穿く下駄を嬢は常に穿いてるがな。』と節用集も手織木綿の微塵縞の懐中から畳み煙草入れを出して、鉈豆の巡査煙管で、十吉が十能のやうな掌に転がしてゐる吹殻の火の玉に吸ひ付けた。
『あんなことしてるさかい、此処の家は身上が持てん。』と、十吉は三朊目の煙草を吸ひ付けて、太い柱の曲つた庫裡の大きな裏口の高い敷居を、やツこらさと跨いでゐる紅香の小さい背中を見詰めつゝ言つた。
『そやけど十ツさん、お前はようこないに仕たげるなア、椀給でなア。‥‥大忠臣や、御家再興の暁にや御家老に取り立られるで。‥‥』と、節用集は莞爾笑つて、縮れツ毛の頭を撫でた。
『和アやちんも一所に御膳おあがり。』と赤い鼻緒の紅香はまたよち/\やつて来て言ふと、機械のやうにクルリと向ふをむいて引き返へした。
『へえゝ、‥‥』と、節用集は驚いた顔をしたが、十吉は何事をか少し考へた末に、唾液を呑み込んで、
『小作つくつて地のしさんへ奉公してるより、椀給でもよいさかい、此処の焚きもんでも拵へたげてる方が気が利いてる。』と、稊大きな声をして、煙管を持つたまゝの手で、ちんと手洟をかんだ。
『そらさうや、世の中に小作ほど阿呆な仕事はまアないなア。詩作るより田作れちうが。何んの、田作るより詩作る方がえゝわい。‥‥昔は何うやつたやら知らんが、今時の小作は、政府と地主と銀行から甘味を吸はれて、糟だけ舐めてるんや。‥‥言はゞまア、税と地代と利息の三ところ責めや。町へいて電信柱建てる。穴掘つてたかつて四十銭や五十銭の日傭は取れるもん、小前のもん/\と見下されて、気の利いた犬や猫なら嗅いでも見んようなもん食うて、へいこらさ、へいこらさしてることあれへん。と節用集も節の多い丸太に腰を卸して、ぺら/\と話し込んだ。
『和三はんは、せツちようし(節用集)と言はれてるさかい、物識に違ひないが、まだあかんわい。税紊めたり、銀行へ利息取られたりする貧乏なら旦那貧乏や。此方等の貧乏は其処どこやない。』と、十吉はまたチンと手洟をかんだ。
『小作つくれや、地代ちうもん取られるやろ、そん中にや政府へ紊める税も籠たるね。肥料買はんならんいふて、地のしから金借るやろ、其の金銀行から出たるねやが、利息は地のしが頭張つて、銀行へ持つて行くねやがな。‥‥百姓は詰まらんいふたかて、地のしはお大吊や、どんづまりの糟は小作が拾ふてるんや。』と、節用集の和三郎は頻りに鼻の穴を穿り出した。
『物識り貧乏ちうて、和三はんもそいだけ物識つてゝ、もツとえらうなりさうなもんやなア。』と、十吉はまた/\ちんと手洟をかんだ。
『汚ないことするなア、十ツさん。』と、節用集は腰をよぢらして、眉を顰めたが、十吉はにや/\笑つて、
『汚ないことあるもんか、お前はんみたいに、布片や紙へ洟かみ込んで、大事さうに袂やほところへ入へれとくのは、此方等から見ると、何んぼ汚ないや知れへん。』と、更に四度目の手洟をかまうとしたがこれは思ひ直して止めた。
『どれ、去なうか。』と、節用集は軽く欠伸を一つして、夕暗の迫つて来る中に、スツクと立つた。
『折角あゝ言やはるんや、お辞儀なしに御ツつおになつたら何うだす。』と、十吉も立ち上つて、腰を捻つたり撫でたりしてから、大鋸と斧とを持つて、庫裡の方へ歩いた。
三
庫裡の広い板の間には、上り口のところへ丸炉を浮き上らしたやうな円形の大火鉢を据えて、それに割り木がぽツぽと燃えてゐるのに、せめてもの先住が盛りの頃の光景を偲ばせた。それにかゝつてゐる薬罐は黒燻りに、幾代かの煤をためて、出がらしの番茶の湯気を、俺の役はこれだとばかりに、広い口から濛々と吐いてゐた。
『和三さん見い、この漆塗りみたいに黒うなつてる板の間も、火鉢の下だけはちいと新らしいなア。‥‥この火鉢何百年て此処にへたツてるんやで。此方等が覚えてからでも、この火鉢は此処でズツとへたつて、この薬罐に湯気吐かしてるもんなア。』と、まださう火の恋しくない時候ながら、十吉は大きな十能のやうな手を翳して、温まらうとする風に、懐かしい物ごしをした。
『さア皆さん上つとくれやす。』と、先住の坊守りお加代は、唐草模様のある木綿の薄い座蒲団を二枚、古畳の上へ好きほどに敷いて、優しい声で言つた。
『へたくしまでが、十ツさんのお相伴でえらいお雑作になります。』と、節用集は薄笑ひをして、『さア、十ツさん何うや、お前はんが正客や。』と、背後を顧みた。
『まア/\、お前はんは、なんぞごとのある時、羽織着る人や。‥‥第一此方等は足洗ふて来るんが邪魔くさい。‥‥お前はんだけ上らして貰ろたえゝ、此方等此処がえゝ。』と、十吉は板の間の上り框にどかりと腰を卸して、大火鉢の割り木の燃え工合を直してゐた。
『ほゝゝゝ、十ツさんまアそんなこと言はんと、足洗ふて来て上つとくなはれな。あんたが上つてやないと、和アやんも上つて呉れはらんよつて、‥‥』と、お加代は台所から膳を持ち出しながら、十吉を促し立てた。
十吉が桃丸の古い利休下駄を提げて、井戸端へ足を洗ひに行つた間に、お加代は白瓜ののツペいに鰊の焼いたのなぞを膳の上へ載せ、引ツかけにいツぱい湯爛にしたのを、節用集の方の膳に付けた。
『お神酒まで上つたなア、勿体ない。』と、節用集は膝行り/\膳の前へ寄つて、引ツかけの中のものに鼻をひこ付かした。
『お辞儀無しに頂きます。』と、十吉も足を洗つて来て膳の前へ座つたが、『此方等はこないに改ると、折角の御ツつおうが咽喉を通らん。』と、大きな手で引ツ攫ふやうに膳を持つて、板の間の大火鉢の横へ移り、
『此処がえゝ、此処がえゝ。‥‥此方等の性に合ふたアる。』と、独りで笑壺に入つた。
『十ツさんも付き合ひのわるい男やなア、手が届かん、手が届かん。』と、節用集は引ツかけを高く差し上げて見せた。
『此方等そんなものに用はないわい。そんな辛いもん何んで可味いのやなア。』と、十吉は膳を引き寄せた。釜のまゝに出された松茸飯がプーンと山の薫りを立てる。
『悪い病が流行つてるさかいなア、十さん、酒飲まんとあかんで、‥‥酒さい飲んどいたら、何んなことがあつたかて伝染らん。風邪の神は膳の下、時疫の鬼は徳利の蔭、ちうてな、風邪引いた折にや、飯をドツサリ喰や癒るし、時疫の流行る時にや、徳利さへ出しといたら、病神は逃げよる。』と、節用集は二三杯の酒にもう上機嫌の酔ひ心地になつて、講釈口調で言つた。
『ほんまになア、此方等覚えてからこんなことはまだなかつたで、何んでも村中で百人からあるちうさかいなア。‥‥まだ何んぼ殖えるやら分れへんちうこツちや。』と、十吉はさも怖ろしいと言つたやうな顔をしながら、大きな五郎八茶碗へ湯気の立つ松茸飯を盛つて、茶碗ごと喰べて了ひさうな勢ひで頬張つた。
『赤痢の元祖はあの三荘や、あいつが町へ博奕打ちにいて持つて戻りよつたのが、村いツぱいに拡がつたんや。あいつは碌なことしくさらん』と、節用集は先刻から持ち続けにしてゐた盃を、伏せてある五郎八茶碗の糸底に載せて、徐ろに懐中の巡査煙草入れを抽き出した。
『三荘はんはもう快うなつたんやな。まいど其処で見たが、よう肥えて病ひあがりみたいやなかつた。
‥‥何んでもあの人は薬一朊呑まいで、葱の腰湯で癒したちうこツちや。』と言ひ/\十吉はもう膳の上のものを綺麗にして了つて、『大けに御ツつおうはん。』と五郎八茶碗を伏せた。
『早いなア十ツさん、俺がまだこれに半ぼん飲まんのに、お前はんもう仕舞ひか。何んしよ年齢が年齢やさかい、達者さうでも食が落ちたか。』と、節用集はまた仔細らしく首を傾けた。
『落ちるには落ちたが、この五郎八に五杯なら、まだ戒吊の命くにや間があらうぞい。』と、十吉は腰の淀屋橋を探つた。
『一寸の間に五杯やつたか、ふうーん。』と、節用集は大仰に目を瞠つた。
『早や飯早や糞芸の中ちうてなア、此方等はこれが若い時から自慢や。』と、十吉はさも得意らしく言つた。
『そらさうと、村で避病院建てるんやさうなが、議員さんたち愚図々々してゝ、根ツから捗が行かんげな。』と、節用集は忙しさうに鉈豆で一朊吸ふと、また手酌の一杯をグツと呷つて、半ば独言のやうに言つた。
『あゝ、悪い病人を入れる病院だツかいな。‥‥あれはお前はん、ヘキ病院といふのやないか。何んでもあそこへ入つたらあかんげな。あれは殺しにやるとこやさうな。そんなものが和三はん、寺家へも出けますのかいな。‥‥そらえらいこツちや、強訴もんやで。‥‥』と、十吉は身慄ひせんばかりに、厭やな/\顔をして言つた。
『お前はんもヘキ病院の手合ひか、村長はんからしてが、ヘキ病院て言ふてはるさかいな、アハヽヽヽ。』と、節用集の笑ひ声は俄に高かつた。
『ヘキ病院が何病院でもえゝが、そんな病人を殺しにやるとこを拵へるのは、ぞツとしまへんな。いづれ入費は小前の頭へもかゝつて来るのやろがな。』と、十吉の声は細く悲しさうであつた。
『避病院がわざ/\病人を殺すといふのは、あれや嘘や。病院ちうもんは、あれや人を助けるところや、病院へ入つたら屹と殺されるなんて、そんな阿呆らしいことあれへん。』と、節用集は先づ眼のまわりから赤くして言つた。
『其のヘキ病院ちう地獄みたいなもんは、一体何処へ建つのやろな。』と、十吉の言葉はもう他所のことのやうに冷かであつた。
『さればや、学校を建てる時は、村中で引ツ張り合ふて、到頭あんな寂しい野中へ持つていたんやが、避病院となると、今度はまだ押し合ひで、埒があかんのや、我れんとこに病人があると思へや、ねきへ避病院が出けたかて構やへんし、それに消毒ちうことをするよつて、一寸も怖いことあれへんのに、議員さんが皆んな我れの家の近くへ病院の出けるのを厭やがるんで、何遍村会開いても、遍照金剛言ふてゝ、決まれへんのや。村会議員なんて、薩張りわやや。』と、節用集の耳朶はだん/\熱くなつて来たやうである。
『まアさうやつてる中には、おひ/\寒うなつて、悪い病も片付くやろ。南んまん陀仏、南んまん陀仏‥‥』と、十吉は眠たさうな声を出した。
『さういふ訳にや行かん、お上からの達で、何うしても避病院は建てんならんのやさかい。愚図々々してたら、村長はんがお目玉や。』と、節用集は両手の母指と食指とで、大きな眼の玉を二つ拵へて見せた。
『其のお上ちう奴が碌なことさらさん奴でなア、‥‥昔しみたいに公方さんや殿さんがお上なら、お上もお上らしいが、今は何んや、伊丹の郡長はんがお上やないか。』と、十吉はせゝら笑つた。
『郡長はんがお上ちうこともないがな。』と、節用集は酒とゝもに笑ひを呑み込み/\した。
『お上ちうもんはなア、学校建てい、病院建てい、‥‥と普請ばツかりが好きで、其のたんびに小前いぢめや。小前の血の膏絞つて、あんな大けな学校建てたかて此方等にや手習しに行く子が一人居るぢやなし、阿呆らしい話や。‥‥まいども天保山で異人の戦があつて、えらい怪我人やさうなが、肥料にする干鰯から何からかう高うなるのも、其の天保山の戦の為めやげな。其の戦はまだこれから何年続くやら知れんさうなが、それもお上が悪いさかい、異人が戦しよるんや。‥‥まいども役場から其の天保山の戦で死んだ異人の嚊や子を助けたるんや言ふて、何んぼでもよいさかい寄付せい言ふて来たが、此方等は厭やゝ言ふたつた。異人が勝手に戦さらして死によつたのに、それを日本人が構うたることあれへん。何んでも其の戦の側杖で日本の船も沈んで、積んで来たもんが皆わやになつて、物がかう高うなるのやてな。』と、十吉は物識りの節用集の前をも憚らず、あべこべに講釈する風をして言つた。
『何言ふてるね、十ツさん、天保山でそんな大戦あつてたまるもんかいな。天保山は此処から六里やで‥‥』と、節用集は呆れた顔をしながら、残り尠なになつた引つかけの酒を大事さうに注いだ。
『さア其処や、此方等もそれが心配でなア、戦が天保山だけで、済んでるとえゝが、大阪の町へ異人の兵隊が上つて来よつたら、えらいこツちや思ふて、‥‥』と、十吉は染々心配さうな顔をした。
『阿呆らしい十ツさん、異人の大戦はなア、何千里ちう遠いところにあるんや。』と、節用集は真面目に取り合ふのも阿呆らしいといふ顔をした。
『そんなこと言ふて騙まさうと思ふたかて、此方等騙されへん。まいども雨の降つた日に、えらいこと大筒の音が聞えてた。死んだお婆さんの話に聴いた大塩騒動みたいなことにならなえゝと思ふてるんや。』と、十吉は独りで固く呑み込んで了つて、梃でも動く様子はなかつた。
『まア天保山なら、天保山でもよいさかいなア、十ツさん、其の異人の戦のお蔭で日本にもえらう金持が出けたるね。』と、節用集は何うしても自分が話を聴く側ではなくて、人に話をして聴かさなけれや気が済まぬのである。
『戦のお蔭で金持になる、‥‥』と、十吉は上思議さうな顔をしたが、「あゝ分つたるがな、おほかた討死した奴のほところを探して、小使銭や時計でも取つて来るんやろ、異人はドツサリ銭持つてよるいふこつちやさかい、兵隊でも三両や五両持つてよるやろ、それを集めたら大けかろ。‥‥死人に銭は無益や、六文さへ残しといたツたら、あとは持つて来てもえゝな、成るほどぼろいこと思ひ付きよつた。』と、十吉はまた/\独り呑み込みをして、感心に堪へぬといふ風情であつた。
『そんなこつて、金持になるんやない。』と、節用集は空嘯くやうに言つた。
『やいや、そやろ。昔かて戦があると、百姓は田ア踏み荒らされて、作物はどだいごくわやになるし、銭や取れんし、仕様がないさかい、竹槍拵へて、道端へ隠くれてゝ、戦に負けて逃げて来よつた奴があると、竹槍で突き殺して、鎧兜や持つてよる銭取つたもんやげな。百姓にや敵も味方もない、負けて手負ひにでもなつて、殺しよさゝうな奴が敵ぢや。田地作つて荒らされるより、其の方が何んぼ割りがよかつたか知れんちうこつちや。‥‥そらあの浄ろ理にある光秀なア、あいつも其の手で百姓に殺されたんやげな。大将やさかいなア、あいつはこれたんと持つてよつたやろ。』と、十吉は母指と食指とで円い形をして見せて、あべこべに節用集へ話し込まうとするので、節用集は話の切れ目を待ち構へて、
『十ツさん、えらいこと知つてるなア。そいで天保山に戦があるなんて、途轍もないこと何んで言ふんや。』と、感心したやうな、冷かしたやうなことを言つた。
『天保山に戦が無うて何うせうぞい。此方等は嘘言はん、其の戦でかう物が高うなつたり、悪い病が流行つたりするんやないか。お前はんが言ふやうに、何千里も遠いところで異人の戦があるんなら、何んでこないに物が高うなるもんか。‥‥戦があると敵はん。物が高うなつて、税が殖えて、小前泣かせや。‥‥ 手柄立てた大将は、顔役でえゝかも知れんが、博奕と戦は此方等嫌ひや。』と、十吉は何かの精が乗り移つたかと思はれるほど、節用集を前にして能く喋舌つた。
椀の中の冷めたのツぺい汁を、微酔の眼に睨み詰めたまゝ、節用集は黙つて了つた。
四
其の翌る日も、十吉は大鋸と斧とを持つて、朝から光格寺の石段を登つて来た。もう一日仕といたら来年の正月いツぱいの焚きもんはあるやらう、といふのである。二丁四面の境内を有つたこの荒れ寺には、松を主とした雑木林や竹藪が、人間ならば肱を張つたやうに、経蔵の後から本堂まで蔓つて来て、十吉が二日三日斧を入れると、薪がドツサリ積み上げられるのである。
『十ツさん、わしもちいとあのけいやら知れん。』と、桃丸は少しばかり蒼い顔をして、お臀の方を気にするらしい様子で、木を割つてゐる十吉の傍へ来て、昨日節用集がやつてゐたやうにして、丸太の上ヘ腰を卸ろした。
『坊んち、うだ/\言ひなはるな。今あんたがあのけいでたまりますかいな。』と、十吉は斧の手を止めて、其の柄と杖つく風にしながら突ツ立つたまゝで、ヂツと桃丸の顔を見た。
『いゝや、何うしてもあのけいらしい、今朝からもう十何遍雪隠へ行くがな。‥‥腰がだるうて、絞り腹で、水が飲みたい。』と、桃丸は肩で息をしてゐる。
『ほんまだツか坊んち、‥‥そいでまだおでさんに言ひなはれへんのか。』と、十吉は周章てた状で言つた。
『おでさんは墓の中に居やはるがな。』と、桃丸は幽霊のやうな声をした。
『こら仕舞ふた。縁起がわるい、‥‥山ヘ行け、山へ行け、貘喰へ、貘喰へ、‥‥』と、十吉は眼を瞑つて禁厭のやうなことをしてから、『あのう坊んち、阿母さんに言ひなはれへんのか。』と、十吉の声はせわしなかつた。
『あの人にはまだ言えへん。‥‥』と、桃丸は父の生きてゐるうちでも、継母に対して、阿母さんといふ声は何うしても出なかつたので、父亡き後はもうおほびらに、『あの人』で通してゐる。
『早やう医者どん呼んで、薬朊まなどんならんがな。』と、十吉は斧を棄て、桃丸を引き立てつゝ、庫裡へ入つて行つて、いまだに何うかすると昼も蚊の居る暗い土間に立つて、
『奥さん、どえらいこつちや、坊んちがあの悪い病のけいだすてな。』と、本堂へまでも響くほどの声をした。
『まアー、‥‥』と、奥から出て来たお加代は驚いた顔をしたが、それでも藪から棒にそんなこと信じられぬといふ色が、あり/\と窺はれた。
『そんな悪い病やなうて、腹仕舞ふてはるだけやら知れんさかい、まア赤松でも呼んで診せてみなはれ。あの藪医者かて、病の筋ぐらゐ分るやろ。』と、十吉は大事の品物を抱へたやうに、そつくりと桃丸を上り口ヘ押しあげた。
『坊ん、それ見なはれ、柿喰べたら可かん言ふてるのに、まだ青いのを七つも八つも皮なりで喰べてやよつて、工合がわるなるのや。お父つあんが生きてゝみいで、十一月にならんと柿喰べさしはらん。』と、お加代はキイ/\声で言つて、しよんぼりと、湯をかけられた青菜のやうに力のなくなつてゐる桃丸を睨んだ。紅香がよち/\と、赤い鼻緒の下駄で表から入つて来て、指を銜へながら桃丸の直ぐ側ヘクツ付くやうにして坐つたので、お加代はまたキイ/\声で、
『紅さん、伝染るがな、兄さんのねきへ寄つたら、‥‥』と、劇しく言つて、紅香の細い手を引張つた。
『奥さん、そんなこと言ふていで、早やう坊んちに寝床敷いたげなはれ。』と、十吉はお加代を促し立てつゝ、桃丸の様子を気がゝりな風でヂツと見詰めてゐた。
『水が飲みたい。‥‥飲んでもえゝやろか。』と、桃丸は力のない声で、誰れに言ふともなく言つて、何んだか急に病人らしくしなければならぬやうな気持ちになつてゐた。『あの人』なんぞは、何んぼキイキイ声をしたかて、一寸も怖うないが、若し今自分が赤痢なんぞになつたら、この大きな家は何うなるであらう。この秋の収獲が済まなければ、灯明田の年貢も入つては来ぬ。それまでは売り残りの道具でも売つて、米買ひを続けて行かねばならぬ。父の法衣と袈裟とまで質に入れた金が、『あの人』の手にはもう何んぼも残つてはゐないであらう。――なぞと、そんなことをいろ/\考へてゐると、腹の痛みがだん/\強くなつて、腰が拡がるやうに思はれ、急ぎ足でまた雪隠へ行つた。
『一週忌の済まんうちに石塔建てるもんやない、屹と災難が湧いて来よる。』と、節用集が頻りに言つてゐたけれど、僅かばかりの檀中から集めて呉れた石塔の料を、米代なんぞにして了うては申し訳がないと、『あの人』が石工を急き立てゝ、百ケ日の済んだばかりに建てたあの新らしい粽形の石塔が祟つて、自分はこんな悪い病になつたのではなからうか。――と、桃丸は上浄の中に蹲踞みつゝ、先づこんなことを考へた。少し込み入つた考へごとをすると、頭がフラ/\して気が遠くなりさうである。窃と手をやつて額を押へてみると、内部では火が燃えてゐるのかと思はれるほど、熱い、熱い。
上図思ひ浮べたのは、『あの人』がお腹に子を持つてゐるといふ村人たちの噂さである。先住が亡なつてから丁度五ケ月、さうして、『あの人』のお腹も四月か五月らしいとの蔭口が、風に伝はつて聞えて来る。
『月が重なれや、お腹が太る、どしよぞいな。‥‥さアさ棄てとけ、放つとけ。‥‥』と、大きな声で寺の門前を唄つて過ぎる若い衆のあるのを、『あの人』は何んと聞いてゐるのであらうか。お腹の中に居るのが、自分の弟か妹かであるならば、それも仕方がないが、若しやあられもないものゝ胤であつたなら、自分としては何うしてよいのであらうか。今までは一向に考へたこともない心配が、何ういふものか犇々と身に迫つて来る。これも悪い病に取り付かれた為めであつたらうか。──
桃丸はこんなことを取り止めなく考へて、雪隠から出て来ると、先住が居間にしてゐた茶室がゝりの四畳半へ、自分の寝床か面倒臭さうに舒べられてあるのを見た。けれども桃丸は、其処へ横にならうともせずに、また頻りに催して来る便意を忍びつゝ、ぽつねんと看病をしてゐる人のやうな位地に座つて、古ぼけた木綿縞の蒲団のごつ/\したのを見詰めてゐた。
裏手の方からは、十吉の木を割る音が頻りに響いて、桃丸は何んとなしに涙を誘はれた。
五
寺家中へは、直ぐに桃丸悪病の噂さが拡まつたが、真つ先きに見舞に来たのは三荘で、彼れは其の苦み走つた吊り髭の顔を庫裡の入ロに現はすと、嗄れた声で二た言三言、お加代に話してから、ずいツと病室ヘ入つて来て、元気よく尻引ん捲つて桃丸に毛脛を見せつゝ、枕頭へ胡座をかき、
『坊んち、到頭やりなはつたなア、これも付き合ひの一つやよつて仕様がおまへん。この病には葱の腰湯が一番や、わたへが今葱刈つて持つて来たげたさかい、あれで腰湯使ふてみなはれ、屹とえゝに違ひない。』と元気よく言ひ/\、桃丸の額へ手をやつてみて、
『あゝだいぶん熱がある。雪隠通ひが敵ひまへんで、わたへはなア、六折の紙を枕元へ置いといて、一枚づゝ持つて行きましたが、一晩でないようになつたよつて、二六十二の百二十遍行きましたんや。』と尾籠なことを手柄話のやうに言つて、自分も笑ひ、桃丸をも笑はした。
三荘が去んでから、お加代は早速五右衛門風呂で葱の湯を熱く沸かし、それをば底の腐りかけた大盥へ取つて、
『坊ん、三荘はんの言ふたこと、早やうしてみなはれ。』と、病室に向つて呼んだので、桃丸は身体がぐつたりして、おとましいのを、癒りたい一心によろ/\立ち上り、竹を張つた床の毀はれてゐる風呂場へ行つて見ると、葱の臭ひが病の身には厭やな気持ちにプーンと鼻を衝いて、ふら/\と逆上せさうになつた。熱いのを辛抱して、盥の湯に腰を浸すと、成るほど腹の工合が覿面に快くなつて、引ツ切りなしに催してゐた便意も礑と止まつた。
これでもう悪い病は、ちやんと癒つたのであらうかとさへ思はれて、桃丸は嬉れしくてならなかつたが、湯から上つて少しすると、腹の工合はまたもとの如く、鬼瓦でも呑み込んでゐるやうになつて、ごろ/\と少し鳴つた。
少しばかりうと/\として、十ツさんの斧の音を夢の中に聞いてゐると、近いところに人の声がざわざわして、枕頭には黒い朊の巡査と、役場の喜之はんと、赤松の坊主医者とか、顔を揃へて立つてゐた。
『坊んち、やりましたね。』と、喜之はんは村で唯一人の江戸弁を使ふて、ニヤ/\笑つた。坊主医者と言つても、これは西門徒で、頭の毛は人並みよりも長く散髪にして、左の方で綺麗に分けでゐる。『此奴がわしを殺しよるのか』と、東門徒の桃丸は悩乱した心の中で思つて、睨むやうに坊主医者の顔を見てゐると、
「お前はんの商売は、どツちへ転げても落さずや。二た道かけたアるよつてなア、世の中にこんなぼろいことはない。‥‥死んだらお布施、癒つたら薬礼、‥‥』なぞと、冷かされ付けてゐる坊主医者は、仔細らしく羽織を撥ねて座つてから、黙つて桃丸の脈を取り、舌の色を見たりして、背後に突ツ立つたまゝでゐた喜之はんを振り向いて、
『いやもう。正真正銘紛れなしや。‥‥随分性の悪い方で、なか/\重いなア。』と、首を傾けた。
『あゝ左様か。』と、喜之はんは気楽さうに言つて、土間の方へ大きく、『そんなら重たん、消毒しなくちやア。』と、石炭酸の大瓶を持つて上り口に控へてゐた小使の重太郎を江戸弁で呼んだ。
巡査の指図通りに重太郎が、本堂の須弥壇へまで石炭酸を撤きに行つてゐる間に、桃丸はまたうつら/\として、今其処に突ツ立つてゐた喜之はんの顔を.半ば夢の中に描き出してゐた。
頭の毛は薄いけれど、喜之はんはまだそんなに老人でもない。さうして年齢に比べては大きな娘があつた。今年十七で、細面の色の白い、喜之はんによう肖たおもざしで、頭の毛もさう薄くはなく、寺家で一二の容貌であつた。されば若い衆の品さだめにも上ることが多く、毎晩の夜遊に若い衆はてんやもん屋の床几の上で、お縫さんといふ吊を流行唄の中へもぢつて入れたりした。
其のお縫さんが、十七の花の姿を、冬になれば鴨や鴛鴦の浮く赤松の大池に投げて死んだのは、この七月の土用の入りの日で、家々には腹綿餅が出来てゐた。お縫さんもお昼に腹綿餅を三つ食べてから家を出て、其のまゝ夜になつても帰つて来なかつた。親一人子一人の家で、喜之はんは、役場から戻つて娘の身を案じつゝ、方々を探し廻はつた。温和しい質で、若い衆が夜遊びをするてんやもん屋なぞへは一遍でも寄り付いたことはなかつたが、喜之はんは丹念にそんな家まで一々尋ねて、
『ひよツと、家のお縫が来てやしまへんか。‥‥』と、もう江戸弁どころではなく、太い地声で訊いて歩いた。
喜之はんが自慢の、小ひさな眼覚まし時計が、欅の机の上で丑満の二時を指すまで、喜之はんはたつた一室の狭い家を出たり入つたりしてゐたが、お縫さんは遂に戻つて来なかつた。
其の夜はまんじりともせず、翌くる日は夜の引き明けから、村のあるき夫婦を頼んで、山の中や川の端を探し廻はつてゐると、午後の三時頃になつて、白い浴衣に赤い帯の映え合ひのよいお縫さんが、俯向けになつて、大池の碧い水の上へ浮きあがり、晒したやうに美しく乱れ漂ふ長い髪の毛には、一筋の藻を引つかけてゐた。
朝から何遍となく、この大池の堤の上へ来たのであるが、お縫さんは底深く沈んでゐたのであらう。一昼夜すると一旦は浮きあがつてまた沈むといふ昔しからの言ひ伝への通りにして、父に其の浅ましくもまた美しい姿を見せたお縫さんは、やがて堤の青い草の上に、女郎花が一もと、ひよろ/\と寂しく咲いてゐるあたりへ引き上げられて、水を吐かさうと父の手で、真白なお腹を押へられたり、藁火で温められたりしたけれど、手当の甲斐はなかつた。五六人の村人に混つて、手提鞄片手に駈け付けて来た坊主医者が、仔細らしく丸薬を紫色に変つた唇の中へ押し込まうとしても、白い歯がチラと見えたゞけで、堅く結んが唇は開くよしもなかつた。
『きんのは島田に結ふて、桃色の鹿の子懸けてはつたがなア。』と、近所に住む木挽の嚊は、真ツ黒な瓢箪のやうな乳房をだらりとさして、背中で黒い洟を垂らしてゐる大きな子を揺ぶりながら言つた。
『坊んち、えゝもん見に行きなはらんか。若い別嬪の検死や、滅多に見られへん。‥‥目の正月しなはれや。‥‥』と、役場の助役が、石段の下から声をかけて呉れたので、桃丸は、
『一所に見にいてもだいでおまへんか。‥‥』と、連れ立つてゐる巡査を憚りつゝ助役に言ふと、
『あんたのこツちや、大目に見とかう。』と、助役は笑ひながら巡査を顧みたが、巡査も笑つて点頭いたので、桃丸はピリ/\と破れかける縮緬の兵児帯を溶衣の上に締め直して、検死の一行に随いて行つた。
群がつて来た村人たちを遠慮さして、検死が青い草の上で行はれた。助役と巡査と喜之と医者との四人が、美しい死骸を取り巻いて蹲踞むと、桃丸は其の横へ小ひさくなつて立つてゐた。助役に許され、巡査に黙許されてゐるとは言ひ條、喜之はんや、遠くから様子を窺つてゐる村人たちに対してきまりがわるく、居工合がよくなかつた。それでも其処を立ち退くことは残り惜しくて、一二尺後退りして、長く伸びた薄の脇に足を踏み締めた。
『あんたはお寺はんや、其処に居とくなはれや。‥‥あんたが口のなかで念仏申しておくなはつたら、この娘も浮ばれるやろ。』と、薄羽織の上から白い兵児帯の透いて見えてゐる助役の声が、この場の静寂を破つたので、喜之はんも萎れ切つた顔を此方に向けて、淋しい微笑を浮かべつゝ、桃丸に黙礼した。桃丸はもう誰れに遠慮も要らんと思つて、また少しばかり死骸の方に近寄つたが、医者は先づ水の滴る赤い帯を解いて、お縫さんの浴衣を脱がさうとしたが、其の途端に長い/\袂から、美しく磨いたやうな石が三つ四つ、ころ/\と出たので、人々は今更に哀みの眼をしばたゝいた。
小ひさな人形でも扱ふやうにして、医者は死骸を改めつゝ、古風な矢立を取り出し、青い罫紙へ検案書を書いてゐると、其の円い背中へ、曇つた空の黒い雲の中から出た西日が、劇しく照り付けたので、喜之はんは周章てゝ、持つてゐた繻子の蝙蝠傘を拡げ、娘の亡骸と医者とに翳しかけた。
『妊娠四ケ月の見込み‥‥』と、検案書の末へ、医者が黙つて書き付けたのを見た人々の顔には、驚きの色が一時に浮んだ。喜之はんはあらぬ方角に眼をそむけて、口をもぐ/\さしてゐた。――
病の苦痛を忘れて、真夏の日の痛ましい出米事を、こんな風にいろ/\と夢とも現ともなく思ひ浮ベてゐると、桃丸はいつしか秋の半ばの冷かな時候から金を溶ろかすやうな真夏の暑さに後返へりしたと覚えて、身体中が一時に火照つて来た。
ハツと気が付くと、お縫さんの美しい亡骸があり/\と横はつてゐると思つたあたりは、丁度病室の床の間で、望玉泉の筆になつた曳舟の幅が懸つてゐた。父が遺愛の掛け物も、何時かは米代になるであらう。いや/\自分がこの病気では今度いよ/\薬代になつて了うであらうと、悲しいことを考へて、其の画を見つめると、長い綱で川舟を曳いてゐる蓑を着た男の眼が、まさしく自分を見て、別れを告げてゐるやうであつた。
眼を瞑つてうと/\とすると、またお縫さんの真ツ白に美しい亡骸が、あり/\と眼の底から浮んで来る。
温和しくて、固い一方と誉められてゐたお縫さんの、妊娠四ケ月といふのは、皆んなが上思議に思つてならなかつたけれど、よく視ると、素人にも分る身持ちのしるしが現はれてゐたのと、それをほかにしては身を投げて死なねばならぬ訳がないらしいのとで、到頭さうと決まつて、
『あの娘可哀や、‥‥白歯で身持ち。‥‥』といふ唄が、この夏から村に流行り出した。
お縫さんの恋の相手といふのを、寺家の衆はさま/゛\に噂したけれど、一つも確かなのはなかつた。宛然月夜に釜を抜かれたやうぢやと言はれてる親の喜之はんにも、心当りが全くないといふのである。
自分こそ、その恋の相手ぢやが、気が付かんかい、と言ひたげな顔をする息子どんが、三人や五人でなかつたけれど、そんなのは兎てもあかんと人々に否まれた。
これはもう存じも寄らんところに相手があるに違ひないと、果ては桃丸が少しばかり疑ひをかけられた。『あの検死の時坊んち一人がねきに居たやないか。』といふやうなことから、この疑ひが起つて、『喜之はんは知つてゝ知らん振りしてるんや。』とまで、突つ込むものも出来た。
『赤松の大池にや、大けなのしが居る。何んでも五尺からの鯡鯉ぢやけな。其の鯡鯉が雨の降る晩、八百屋お七の芝居に出る吉三郎みたいな風して、お縫さんの家へ来た。其の晩は喜之はんが役場の宿直で、‥‥』なぞと言ひ出すものも出て来て、『さうやら知れんなア。』と、合槌を打つものやら、『さうやつたら其の鯡鯉が大池へお縫さんを呼び寄せたんやろが、そんなら何んにも一旦沈んだお縫さんを浮かして戻す筈があろまい。』と、讃を入れるものやらで、悪い病の流行り初める頃まで、そんなことが村いツぱいの噂になつた。――
桃丸はまた夢のやうに、こんなことを思ひ出しながら、高い熱の苦しさに、うーんと覚えず唸ると、何時の間にやら、あの坊主医者が、今度は検疫医でなく、普通の診察に枕頭へ座り込み、
『何うだすな、だいぼん苦しいやろ。』と、小指の爪を長く伸ばした白い手を出した。其の手が、この真夏に赤松の大池の堤の女郎花が咲いたところで、お縫さんの白く美しい亡骸を撫でゝゐた時其のまゝの恰好であつたので、桃丸はブル/\と慄へて首を縮めた。
十ツさんの木を割る斧の音が、まだ丁々と聞えてゐる。
六
其の夜の夢に、亡き父の姿があり/\と桃丸の枕頭に現はれた。熱に浮かされてゐる桃丸は、それが夢であるといふことを意識しながら、矢張り夢を見てゐるので、同じ夢なら、父の姿なんぞよりも、あの白く美しいお縫さんの亡骸を、もう一度見たいもんや、なぞと思つたりした。
『薬は利かん、酒を飲め、酒を、‥‥』と、父の声がまざ/\聞えたやうな気がした。さうしてそれからはもう何も夢に現はれて来るものはなく、悪魔の苛責のやうな病熱の苦悶が、五体を弄るばかりであつた。
夜が明けてから、『あの人』が枕頭へ来た時、亡き父が夢枕に立つたことを告げると、気の故か『あの人』は此頃父のことを言はれると、おど/゛\して顔色を変へるやうであるが、それでも力強い声で、
『おでさんが、あんたの病気を心配して、早やう癒るように教へて呉れはつたんやら知れん。‥‥おでさんのお告げの通り、お酒ちいと飲んで見なはれ。』と、早速台所へ立つて、節用集が飲み残したのを盃に一つ持つて来た。
桃丸は其の酒をグツと一つ飲むと、咽喉から腹の底へ、ずうつと父の恵が染み込んで行くやうでお腹が急に温まり、催してゐた便意も一時忘れて了つた。
『こらよい、‥‥よう利くなア。』と、桃丸は感謝の声を揚げたが、何うしたことか、両の頬へ熱い涙がハラ/\と流れた。
『おでさんは、お酒が好きやつたよつてなア。坊んにもお酒飲まして、病気癒して呉れはるんやろ。』とお加代は言ひ/\立つて、台所から燗徳利を持つて来て、盃と一所に枕頭へ置き、『あんまり余計飲んでも可かんやろが、ちいとづゝ、ちよい/\飲みなはれや。‥‥けど、お医者が来た時は隠しとかんとわるいやろ。』と、眼をくしや/\さした。
さう思つて見ると、少し膨れてゐて、妊娠四ケ月ぐらゐらしいこの人のお腹が、桃丸は急に気にかゝつて、お縫さんの痛ましく美しい最後と思ひ合はせ、胤の知れぬ腹の子から、自分の家にも何か大きな騒動が猛獣の如く歩み寄つてゐるのではあるまいかと、心配に堪へられなくなつた。
少しづゝ酒を飲んだ故でもあつたらうか。桃丸の病は思ひの外に早く恢復期に向つた。
一の檀家の国松はもとより、節用集も役場の手合ひも、皆伝染を恐れて見舞に来なかつたが、十吉と三荘とは毎日のやうに来て、
『えらいことをしなはるなア、そらいきまへんで、この大病で、しかも腹がわるいのに、冷酒飲むなんて、‥‥』と、叱るやうに言つた。
けれども、桃丸は盃に一口酒を飲む度に、病神が一寸づゝ追ひ立てられて行くやうな気がしてならなかつた。
幾度かこだはりのあつた末に、村の避病院は、到頭村会の決議を経て、光格寺と川を隔つた対ふがはの、小山の上に建てられることになつた。
桃丸は病の枕に、避病院を建てる大工の鑿と槌との音を聞いてゐたが、其の棟の上る頃には、桃丸の枕も上つた。さうして村中にはもう悪い病の患者は一人もなくなつて、赤く熟した柿の実が、高い梢に花の如く美しかつた。
『坊んの病気も癒りましたよつて、‥‥』と、お加代は始終羽織の袖にお腹を掩ひ隠して、一時実家の方へ帰つてゐたいと言ひ出した。何も知らぬ紅香は、
『阿母さん、いつまでも此処に居まへう。‥‥』と、泣き声を出した。
節用集は立て腐れにならうとする避病院の留守番に住み込んで、窓から光格寺の庫裡を眺めながら、桃丸の姿を見出すと、頻りと鉄砲を打つ真似をしたり、弓を引く恰好をして見せたりした。(完)
*『中央公論』第三二年(巻)第八号(大正六年七月十五日発行)による。
*本文の整備には、杉山美和(岐阜大学教育学部四年)の協力を得ました。
*なお上備があるかと思います。ご指摘くだされば幸いです。
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