王城の旅宿にても、国詞しれざる内は、いつも両人づヽか丶り、二冊の本にて文字を見出し認め候せつなどは、官人・通辞までも珍敷存じ、本をかしくれ候様申、くりかへし\/詠め悦びけり。
其内にも和漢節用の奥にある男女相性の図にて、我国の女の風俗をみて、甚だ笑ひを催せり、又は口にある所の武者の百将伝などにては、大きに我折、或は文字一つを二様に用ひ、音と声の替ることを皆感心せり。 |
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「男女相性の図」では相性のよしあしのほか、相性ごとの未来予想図が描かれていました。
いかにも福々しい人や、夫に箒で叩かれ泣く女、子宝にめぐまれた温和そうな家庭‥‥‥
国はちがっても男女の仲というものは、何か通じるものがあったのでしょうか。
「音」は音読み、「声」は訓読みです。 |
此書の事官人衆より王城へ申上しにや、帰帆まへに、何卒国王へ献上致し呉候様相頼候故、望に任せ殿中へ暇乞の節持参せしが、永く安南国の秘蔵となりしも、持主何がし此地にて相果し故、同じ国に納りしにやと、ふしぎの事におもひけり。
残壱冊大々節用の方は、清朝の左甫まで持来りしに、是も此所にて官人所望いたされ、かの国の宝となりしなり。
誠に文字の徳四海を照し外国までも通用なすこと、難レ有ことども也。(枝芳軒『南瓢記』寛政一〇(一七九八)年刊より)
◆子供に読書習慣を付けさせるために、節用集の挿絵が利用されました。周囲の大人たちも巻き込むようなことまで考えてあり、巧妙な工夫です。
凡そ小児二三歳のころより、父母外へ出て家に帰れば、必みやげ\/と求むる故、世にいふ人形及びさま\/のもてあそびを、其度毎につかわす事世上皆同じ。
そのみやげを遣すに、二三度に一度は、何にてもあれ、世にいふ絵草紙を求め帰りてつかわす。
もちろん小児の事なれば、破りもするよごしもする。それに頓着なく、他のもてあそびと同じく、打まかせ置なり。
されど何事も、其始をつ丶しむべき理なれば、余は絵入の二十四孝の本を、最初につかわし、其の余は何と云事なく、画のある本を遣す。
次第に本多くなりて、左右に引きちらしあるを見て、外より入り来る人も、此の児こそ本が好きなれと、人々のみやげ、或は年始のとしだまなど云にも、大方画本を遣す。
かくしていよ\/多くなる。其中にや丶部だちたる物をいはゝ、絵本古事談・訓蒙図彙・絵入ノ年代記・絵入ノ庭訓・絵入ノ節用集、京メグリ、日本歳時記・曽我物語・平家物語など、何と限りたることなく、画のある書をあてがひ置ば、子どものならひにて、必す画ときをせよとせがむ。
其の時、かの二十四孝よりはじめて、たとへばこれは舜といふ聖人、これは象といふ獣、舜が親ごに御孝行にありし故、耕作をなされしに象といふもの来たりて田を耕し、鳥は觜にて田の草をくわゑてぬきしぞと、かやうに云きかす。余が家、小児を教るは皆かくの如し。
江村北海『授業編』巻之一「幼学」より。原文は漢字・片仮名まじり
ほとんど冗談
◆付録や挿絵が多くなると、当然、本の厚さが増してきます。それが邪魔だと思う人もいるでしょうし、ありがたみを感じるひともいるでしょう。
◆そうした心理は心理として、物理的な厚さが役にたつこともあったようです。枕? いえいえ。
小児宵にうたヽ寝などして目覚てねぼけ、色々たは事を云て座敷などを駈まはる事あり。 大人にも間々有て、両親は是をかなしみ、色\/薬など用ひ、神仏を祈るに(中略)きかず。
是を直すに妙々の薬あり。草双紙か節用か百人一首の類の大巻の書をひろげ、ねぼけたる横つらを 力一ぱいに打ば大に驚き、はつきりと成。心柱急度たつ故、本心に成なり。二三度にて平愈す。
親の身にしては、其面をたヽくはむごいと覚へて、畜生の子を愛する如く撫さすりて、左様の事はせず。 是よく考へて見よ。本を以て何程打たればとて怪我もせず、痛みもせず、疵も付ず、 本心に成ても正しくならずねぼけるは、儒弱の人にて心柱なき故也。
子を寵愛するは、前にいふ姑息の愛とて、聖賢もいましめ置れたり。是子への慈悲也。後に能人に成ぞかし。親の役也。
中田主税『雑交苦口記』より。
◆「二三度にて平癒す」とまじめに言っているのが微笑ましいかぎりです。
◆当時の本は、和紙でできていました。ですから、現代のものにくらべて、表紙・本文の用紙ともやわらかくできていました。くれぐれも、現代の本で実地に検証されませんように。
節用集を食べる!
◆辞書を片端から暗記して、完全に覚えたページから食べるという逸話、よく聞きますね。薄いインディアペーパーならありうるかなぁ、と思っていましたが、節用集を食べた人もいるそうな。
◆これは、薄田泣菫の『茶話』(ちゃばなし)に見えるものです。逸話の主・西依成斎(1702〜97)は、肥後(熊本)生まれの儒者で、京都に学び、小浜藩にも仕えた人だそうです。成斎は、本ばかり読んで家業を手伝わなかったので、家を追われることになりました。
成斎は泣く泣く家(うち)を出たが、それでも出がけに節用集一巻を懐中(ふところ)に捻ぢ込む事だけは忘れなかつた。 (中略)節用集といふのは今の小百科全書の事だと言ひ添へて置きたい。
成斎はその節用集を抱へ込んで、狗児(いぬころ)のやうに鎮守の社殿の下に潜り込んだ。 そして節用集を読み覚えると、その覚えた個所だけは紙を引拗(ちぎ)つて食べた。 書物を読み覚える頃には、腹もかなり空いてゐるので、節用集はその儘(まま)飯の代りにもなった訳だ。で、十日も経たぬ間(うち)に、とうと大部な節用集一冊を食べてしまつたといふ事だ。
◆和紙ですから、ごわごわしてさぞ食べにくかったろうと思います。が、インディアペーパーにまさるとも劣らない極薄和紙もありますから、「節用集を食べる」というのもあったかもしれません。インクにじみを押さえる化学処理はしてないでしょうから、一応、無害ということになりますし!?
◆この逸話、ほかのサイトでも触れられています。
・矢吹晋「朝河貫一の日本農業論」
・腑に落ちた話
・矢吹晋「辞書食いの真偽」