近世節用集版権問題通覧

 −嘉永・明治初年間−    

  はじめに

 本稿は、前稿(本誌前号)に引き続き、嘉永から・明治初年までに起こった節用集の版権問題を通覧するものである。その趣旨・方針は前稿までと同じである。ただし、嘉永年間のうち、本稿でとりあげるのは、天保の改革で解散させられた本屋仲間が再興される嘉永四(一八五一)年以降ということになる。また、江戸期に刊行された節用集の版権問題が終了する明治五年までを扱うことにした。
 本期は、前半が、仲間解散中に横行した版権侵害の余波を収拾すべき時期であり、後半は、近代的な版権への移行期でもあった。もちろん、幕府瓦解から明治新政権への移行という歴史的な事件もおこる時期でもある。
そのようななかで多様な情報を期待したいところなのだが、後半期の記述は簡略になっており、かならずしも詳細が知られないのは残念である。

  版権問題諸例
 前稿でも記したが、念のため、凡例的なことがらを略記しておく。各事例には前稿からの通し番号を付し、事例名は、問題となった本の名をもってした。
 各事例を次の八項目に分けて記した。
  A期間  原則として、記録上の日付の上限と下限を記す。
  B問題書とその刊行者
  C被害書・被害者
  D問題点  版権に抵触した要点を記す。
  E様態  問題のありよう。記載どおりに記すのを原則とする。
  F結果  侵害書および侵害者の処分・処遇を記す。
  主資料  考察・備考 なお、おもに参照したのは次のような資料である。
京都関係上組重板類板出入済帳(「京都済帳」と略記) ともに、宗政五十緒・朝倉治彦編『京都書林仲間記録』★★(ゆまに書房 一九七七)により、弥吉光長『未刊史料による日本出版文化』第七巻(ゆまに書房 一九九二)を参照。
  大坂関係   出勤帳(「大坂出勤帳」と表記)   差定帳(「大坂差定帳」と表記)   裁配帳(「大坂裁配帳」と表記)仲間触出留(「大坂触出留」と表記)公用窺之控(「大坂窺之控」と表記) 大阪府立中之島図書館編『大坂本屋仲間記録』第五・六・八・九・一〇巻(清文堂 一九八〇〜三)による。

109■■大全早引節用集Y増補音訓ZA嘉永五(一八五二)年一月一一日。
B『■■大全早引節用集』、柏原屋与左衛門(大坂)。
D本屋仲間解散中に開版した書につき、本屋仲間再興にともなって、旧来の手続きにしたがい、諸手数料などを支払う。
大坂出勤帳五四番。
いわゆる版権侵害に属するものではないが、本屋仲間再興後の動向や書肆らの意識・見識を示すものとみてとりあげた。いわば広義の版権問題ということになる。他の書肆の他の書物も同様の処置をしており、手続きへの忠実さが認められるわけだが、これもおのれの版権をめぐって将来に起きるかもしれない侵害問題のための事前の策なのであろう。すなわち、規定の諸手数料を仲間に支払うことによって、事があれば、仲間組織を活用して対処するためのものかと思われる。

110都会節用百家通A安政二(一八五五)年二月二九日。
B『都会節用百家通』、敦賀屋九兵衛ほか(大坂)。
D付録中の東西両本願寺の記載についての風聞。
本件も明確な版権侵害ではなく、付録の内容についての風聞があることが記されるに過ぎない。全文も「一勘定寄合致、都会節両本願寺御例座之事ニ付、鳥渡風聞承り候ニ付内談致候事」とあるばかりで、具体的な内容はわからない。ただ『都会節用百家通』で東西両本願寺がかかわる件といえば事例87が想起される。その件と同様に、当時出回っていた天保七年板のなかに、再板出願時とことなった記述の異本があったということかもしれない。

111■万代節用集・早引万宝節用集Y早引ZA安政二年六月二〇日から、慶応三年一〇月五日まで。
B『■万代節用集』『早引万宝節用集』、河内屋茂兵衛(大坂)・英屋大助(江戸)。
C『大全早引節用集』『■■大全早引節用集』『■■■■■大全早字引』、柏原屋与兵衛・木屋伊兵衛(大坂)。
D『■万代節用集』は三重検索(語頭イロハ順→仮名数順→意義分類)が『■■■■■大全早字引』に抵触したのであろう。『早引万宝節用集』は、本文が『大全早引節用集』に、検索法は早引節用集一般に抵触。
E「類板」。
F柏原屋らが出訴し、板木のすべて(『■万代節用集』八三〇丁分・『早引万宝節用集』四二七丁分)を回収する。なお、『■万代節用集』は、慶応三年に早引節用集本来の板元より再刊される。
大坂差定帳六番。大坂出勤帳五七・五九・六七番。
現本について。『■万代節用集』(嘉永三年刊)は、宮田彦弼(播磨)の編著で、唐話語・奇字のたぐいも積極的に収載し、早引節用集の中では群を抜く語数(推計延べ六五〇〇〇語)をほこるものである。検索法は、早引節用集一般と同様に語頭の仮名のイロハ順に仮名数引きだが、さらに一五門の意義分類を施している。語数と検索法のうえからは、柏原屋らの大規模な異本である『■■■■■大全早字引』との関係があるように思われるが、語順などでは顕著な関係が認められず、一本で一系統をなすものと考えられる(拙稿「早引節用集の分類について」『文芸研究』一一五、一九八七)。一方、『早引万宝節用集』(嘉永六年刊)は、山川誥司(江戸)の編著である。柏原屋らの『大全早引節用集』に依拠したことは明らかだが、さらに増補した語を「再増」の表示のもとに掲出している。以上のように本件の二書は、検索法上はたしかに柏原屋らの早引節用集を踏襲しており、類板のそしりは免れないが、内容上は見るべき点があるものといえよう。
 本件は、仲間復興後初の本格的な版権問題なので、興味深い点が存する。まず、仲間解散中の刊行である『■万代節用集』の版権侵害を追及している点である。もちろん、本屋仲間が復興したのだから、過去のものではあっても版権侵害を追及するのは当然とも見える。が、それにしては復興の年である嘉永四(一八五一)年から四年を経過した時点での取り組みであって、この四年間の空白が何を意味するのかが知りたく思うのである。
 ただ、いまのところ、具体的な資料もなく、単に空白を指摘するにとどめざるをえない。もっとも単純に考えられるのは、安政になってにわかに増刷されるという事態が発生し、版権侵害による不利益がはなはだしくなった、などの事情であるが、もとより推測である。
 また、本件二書は同時に出訴・裁決と経ているが、一連の本件の記録では、『■万代節用集』に重点がおかれているのも興味を引く。たとえば、『■万代節用集』の開板経緯について、河内屋が所持していた下書きを、河内屋の在住する大坂で開板免許を申請せずに、かねてから昵懇だった英屋を介して江戸で免許をとったことなどまで、調査し記録にも残しているのだが、『早引万宝節用集』については、このような開板の経緯にまでは触れていないのである。このような二書の扱いの差が生じた背景には、一つには、右のような『■万代節用集』の開板経緯を「殊更取巧」と表しているように、開板にいたる過程が悪質であると捉えていたことが考えられる。また、一方では『早引万宝節用集』が『大全早引節用集』を大幅に踏襲していて剽窃の事実が示しやすいのに対して、『■万代節用集』については、検索法以外の、剽窃などの事実を示しづらかったことなども考えられようか。版権侵害が顕著でないものの版権侵害を主張するには相応の準備が必要となり、いきおい、調査・記述も詳細にわたるのであろう。また、この場合は出訴した訳であり、侵害の事実を客観的に提示しなければ、当局は関心も持ちにくく、裁判にはもちこみづらいということもあったであろう。

112■■早引大節用集A安政六年五月一一日より一一月五日まで。
B『■■早引大節用集』、藤屋宗兵衛(大坂)。
C『大全早引節用集』、豊田屋卯左衛門ら(大坂)。
D類板書板木による開板・販売。
F板木を元板持主に返還し、出回っている本も回収する。
大坂裁配帳五番。大坂触出留。大坂出勤帳六〇番。
本件の問題書は、かつて尾張で開板されたものである(事例72参照)。
その折り、板木は、早引節用集の板元・柏原屋に帰した。その後、嘉永二年、柏原屋源兵衛伜嘉助が京都で藤屋にであい、質入れさきの斡旋を依頼し、平野屋茂兵衛のもとに質入れした。その後、藤屋は、質流れになりそうなことを嘉助に知らせたが、自由に売り払いしてくれとの返事だったので、買い戻して開板したという。
 結局、藤屋が所持していた百八〇丁分の板木(四丁張り三八枚、二丁張二〇枚)を嘉永二年当時の板元・柏原屋に返却した。さらに柏原屋から安政時の早引節用集板元・豊田屋らに返却することになった。この間には、藤屋が「板賃摺」(現代風にいえばライセンス生産か)を申し出るが、受け入れられなかったり、慰謝料・手数料のごとき含みでか、柏原屋清右衛門から藤屋へ「大万節用集・玉海節用集」など九点の委譲などがあった。
 右のうち、『■■早引大節用集』の板木が、藤屋から直接豊田屋らへ返還されるのではなく、一旦柏原屋に返還しているのが興味深い。これは、安政二・三年には、早引節用集の版権が一括して豊田屋らに移動していた。この移動はあくまでも「一括」してのものだったにもかかわらず、今回の『■■早引大節用集』だけが、右のような経過で漏れてしまったのである。そこで、確認の意味でも、一旦、柏原屋に返還する必要があったのだと思われる。なお、このような事情のため、柏原屋徳次郎は、版権を主張しないむねを記した念書を書いている。
 なお、藤屋の説得にあたった行司の発言に次のようなくだりがある。
一藤(=藤屋)宗兵衛呼掛、前条ニ口上書差出し候故、段々取調評議 候処、全体名高キ早引類之事者、其方も乍心得取扱候故、不正之板 木ニ間違無之、依之元株之方へ平和ニ掛合候様利解申聞候ニ付(下 略)                 出勤帳六〇番五月一七日 どのような点をとらえて「全体名高キ早引類」と評しているのかははっきりしないけれども、少なくとも広範にわたる流布については考えておいてよかろう。さらに、よりこの文脈に即していえば、豊田屋らも藤屋も同じ大坂本屋仲間の構成員であったことも含意されていよう。このことは、たびたび繰り返されてきた早引節用集をめぐる版権問題を、藤屋が直接間接に見聞きする立場にあったはずだとの意味も込められていよう。ともあれ、「全体名高キ早引類」といった表現が説得の場にあらわれること自体、早引節用集がどのような存在として受け取られていたかがうかがえるようで興味深い。

113都会節用百家通A万延元(一八六〇)年五月一一日より文久二(一八六二)年一〇月五日までか。
B『都会節用百家通』、松村(敦賀屋)九兵衛(大坂)。
D付録の公家鑑の内容の変更について。
大坂出勤帳六一・六三・六四番。
万延元年五月一一日の記事では、提出された再板見本の写本に、公家鑑の本願寺の部分が「先例」(旧版の意か)と大きく変わっていて不審だったので、行司は写本を預かるだけにした。ついで文久元(一八六一)年十月七日、江戸では公家鑑・武鑑の内容にかかわる触れがでたらしいことを知り、天満組惣年寄の今井喜左衛門に対応方を聞いたところ、大坂では触れもないので従来通りに対応することになった。同二年一月二十日、敦賀屋九兵衛の手代より、都会節用の再板願いがだされたが、公家鑑変更の件、「先方」が承知しているかどうか確認してから願い出るよう入念に言い聞かせ、引き取らせた。その後、再度、願書は提出されたものと思われる。同年一〇月五日、訂正のため見本写本を返却するよう板元が求めてきたので行司は返却している。その後、『都会節用百家通』の再板をめぐる記事はなく、結局断念したものと思われる。
 『都会節用百家通』と付録の公家鑑といえば、事例87が想起される。
三〇数年前の事例ながら、仲間の記録には残っており、事が事だけに記憶に残りやすいものだったであろう。そのような「前科」のある『都会節用百家通』であり、かつ、本期事例%0繙纒Kずしも事実関係ははっきりしなかったけれども『都会節用百家通』の公家鑑の内容が取り沙汰された事例繙繧煖Cになる存在だったのではなかろうか。このようなことも合わせて、行司・板元とも慎重な対処をしたものと思われる。
 さて、現存する『都会節用百家通』は天保七年板が最新のものであるが、本事例は、最幕末期ともいえる万延・文久年間において再板が企図されたことが知られるものである。また、その再板が公家鑑の内容をめぐって見合わされたように見える点も興味深い。もちろん、大部の節用集であるだけに経費の工面がつかないなどの障害も考えられるので、かならずしも、再板見送りの要因を公家鑑だけに求めることはできにくい面もある。なお、内容の訂正が、どれほど経費を圧迫するかについて考えさせられる事例として、次の『大日本永代節用無尽蔵』の事例があると見られようか。二年の時間を経てはいるが、本事例と時期的にまずまず接近しているので、「訂正」の内容についても、何らかの暗合があるかにもみえる。

114大日本永代節用無尽蔵Y  京重7−375・384ZA元治元(一八六四)年十月より元治二年一月まで。
B『大日本永代節用無尽蔵』、勝村次右衛門・菱屋孫兵衛(京都)ら。
Dすでに文久板が再板・販売されたが、校合に不行届きがあったので、出回っている本を売留にするよう、板元から要請があった。
Fすでに出荷されている分については、校合の完了したものと差し替えることになった。
京都済帳。
どのような点が問題となって校合におよんだのか、詳細は不明である。
改版の前と後の、該書を比較すればよいのだが、いまのところ、その機会を得ていない。
 あるいは付録の公家鑑をめぐることがらかともそうぞうされる。それは直前の『都会節用百家通』の事例が、おそらくは公家鑑をめぐって再板を断念したとおぼしい例であって、時期的に、公家鑑などの扱いの上で慎重にならざるをえないような事情があるかに見えるからである。さらに、ややさかのぼって事例87において『都会節用百家通』が公家鑑をめぐって失態を犯したのだが、その直後の事例88では『倭節用集悉改大全』文政九年板の公家鑑が他の付録に差し替えられたことが問題になっている。この『倭節用集悉改大全』(初板の文政元年板は『倭節用集悉改嚢』)は『大日本永代節用無尽蔵』の前身と考えられるものなのである。すなわち、公家鑑をめぐる問題が『都会節用百家通』でおこれば、『大日本永代節用無尽蔵』ないしその前身の節用集でも何事かが起こっていることになる。したがって、あくまでも可能性という次元での話だが、本事例においても付録の公家鑑をめぐって何ごとかの問題があったことが想定されるのである。

115万世早引増字節用集ほかA慶応元(一八六五)年五月一六日より七月二〇日まで。
B早引節用集、豊田屋卯左衛門(大坂)ら。
C『万世早引増字節用集』ほか全六書。吉田屋文三郎(江戸)。
D株仲間解散期などに多くの重板・類板書が開版された。
E「重板同様之類板」。
F一括して売留を発行する。
大坂触出留。大坂出勤帳六六番。大坂窺之控。京都済帳。
大坂触出留に収録された慶応元年閏五月付け「通達」の控えには一〇種の書名が認められるが、便宜上、重板・類板の板元ごとに三分して記すこととし、そのうち、本件は、江戸板とされる六書について扱うことにした。
 江戸板の六書とは以下の氈`、である。記号の直下に大坂触出留の記載どおりに書名などを記し、それぞれについて現本のへ比定を行う。
泱恊「早引増字節用集 江戸板 全壱冊同 雑書入 同(江戸板) 全弐冊氓ヘ文久三年刊。刊記に「東都 織田氏蔵」とあり、「製本所」として吉田屋文三郎の名をかかげる。これに付録類を大幅に増補したのがである。刊記のある書は未見。
。早引万寿節用集 江戸板 全壱冊 内題を『万寿早引節用集』とするものであろう。文久元年刊。刊記には、沒ッ様、「織田氏蔵」とあり、「製本所」として吉田屋文三郎の名をかかげる。
「早引節用集 大半紙三つ切 同(江戸板) 全壱冊」同 半紙三つ切 同(江戸板) 全壱冊、早字引節用集 同(江戸板) 小本 全壱冊この三書については、書名と判型と開板地だけでは現本への同定がしにくい。類書が複数あるためである。大坂触出留の記述だけでは詳細が知れないけれども、大坂本屋仲間記録の「公用窺之控」に「重板同様類板之品々」という文書があって参考になりそうである。この文書は、明治三年一一月二七日、明治三年伏見板早引節用集重板の裁判のために大阪府庁裁判所に提出された参考資料で、「此節流布仕候重板類板之品」を書き出したものである。そのなかに次のようなくだりがあって、「〜、の板元を知ることができる。
 一 早字引節用集 元板早引節用集小本之重板 一 万寿節用集          両品共、元板大全早引節用之類板 一 早引増字節用 一 早引節用集  大半紙三つ切本 一 同 名    半紙三つ切本 一 懐宝節用集  半紙三つ切本 一 同 増補   半紙三つ切本            各、元板数引節用集真字入之類板  右、官許之印なし           東京 吉田屋文三郎板「万寿節用集」「早引増字節用」はそれぞれ氓ノあたるのであろうし、「〜、と同じ書名・形態の節用集も記されている。すなわち「重板同様類板之品々」の記述は「大坂触出留」に呼応するものと考えられるのである。したがって、現本への比定が困難であった「〜、も吉田屋文三郎の開板書である可能性が高いものと思われる。
 そこで、この時期ころに開板された諸本のうち、刊記に吉田屋の名の見えるものから現本を比定することができる。すると「は、見返の題・序題を「萬代早引節用集」とする真草二行体の文久元年刊横本が考えられる。」は、文江堂主人序、内題角書に「増字百倍」を冠する『早引節用集』横本が候補に挙がろう。、は、内題を「■■早引節用集」とし、外題を「■■早字引節用集」とする文久二年刊六行縦本があたることになろう。
 ほかにも、吉田屋文三郎の名がみえる節用集が数本あり、やはり類板のそしりを免れないものだが、大坂本屋仲間の記録類にも名が見えないので本稿では割愛する。それにしても、この当時、吉田屋はかなり大規模に早引節用集の類板を作成・販売していたことが知られる。天保の改革で本屋仲間が解散させられ、版権の自主管理体制が崩壊してからは、たしかに版権を無視した板行が横行するのだが、そのなかでも希有のものと思われる。

116大全早字引節用集ほかA慶応元(一八六五)年五月一六日より。
B早引節用集、豊田屋卯左衛門(大坂)ら。
C『大全早字引節用集』ほか。亀屋(あるいは亀本屋)半兵衛(伏見)。
ただし、刊記には亀屋以外の書肆の名も認められる。
D豊田屋らの早引節用集諸本を無断複製・改題し、販売した。
E「重板同様之類板」。
F豊田屋が買い取る。
大坂触出留。大坂出勤帳六六番。大坂窺之控。京都済帳。
大坂触出留の慶応元年五月付け通達にみえる一〇書のうちの「伏見板」
と記された三書の件で、類板板元を亀屋(亀本屋)半兵衛とするものである。前事例とおなじように、大坂触出留の記述を記し、ついで現本への比定をおこなう。なお、記号は前事例からの続きとして・〜ァを付した。
・大全早字引節用集 伏見板 全壱冊ヲ同 同 全壱冊触出留の記述ではまったくの同名書となってしまうが、一つは豊田屋らの『■■早引節用集』を改題・重板したものである。内題を「訂正早字引 一名仮名引節用集」とし、外題を「早字引節用集真字附」とするものであろう。大坂触出留はこの外題によって記したものと思われる。「大全」の二字がないのは不審だが、この点は後述する。架蔵の一本には「天保十四癸卯歳新刻 文久三癸亥歳再刻」とあり、開板書肆が「亀屋半兵衛」と一名だけ記される。なお、刊記については、刊年の有無・書肆数についていくつかのバリエーションがある。
 いまひとつの「大全早字引節用集」は、豊田屋らの『大全早引節用集』を改題したものである。山田忠雄『■節用集■目録』(以下『山田目録』と略記)によれば天保一四年刊本のほか、「増補再刻」と角書する安政六年板ほか明治元年板・同三年板がある。架蔵の安政六年板によれば、付録類が増補されているのが新味である。なお、角書のない異本には、『訂正早字引」と同様に、刊年の有無・書肆数でいくつかのバリエーションがある。
ァ早字引節用集 小本 同(伏見板) 全一冊 大坂本屋仲間の記録類で「早引節用集小本」といえば、『■■早引節用集』などの縦型小本をさすのが普通である。その体裁で該当するのは、内題に「天保新刻」と角書する天保一四年刊本である。刊記にみえる書肆は亀本屋半兵衛(伏見)・播磨屋利助(大坂)である。
 諸本の同定は右のようになるので、亀屋半兵衛(ら)の無断複製は、豊田屋らの早引節用集の主要な異本である『■■早引節用集』『■■早引節用集』『大全早引節用集』におよぶことになり、組織的・全体的な行為との印象を受ける。
 さて、さきに記した『訂正早字引』の外題の相違繙繻サ本に「早字引節用集」とあって、触出留には「大全」を冠した「大全早字引節用集」
とあること繙繧ノついて記しておく。『山田目録』によれば、『訂正早字引』のなかにも外題を「大全早字引節用集」とする天保一四年・播磨屋理助刊本があるという(番号四三六)。一方で、外題を「早字引節用集」とする『訂正早字引』の一本(刊年不記本)、たとえば架蔵書の刊記には、四名の書肆の名があげられるが、そのなかに「播磨屋利助」というのがある。これが、外題「大全早字引節用集」の「播磨屋理助」と同一人であるならば、当然、なんらかの関係があるわけであり、外題の「大全」の有無の相違ともかかわるものと思われる。
 なお、『大全早字引節用集』については関場武『近世辞書論攷』(慶応義塾大学言語文化研究所 一九九四)に諸本の調査があり、豊田屋らの『大全早引節用集』のうち、天保七年板・天保一四年板・嘉永七年板・同安政改修板それぞれに基づいたものがあり、さらに万延元年板によって部分的に改訂したものもあるようである。ただし、架蔵書のなかにも関場が触れていないものもあり、異本の整理・調査は今後に期する面がある。本稿では、当面、これらの諸本を一括して現本としておこうと思う。これは便宜的な措置であるが、一方では、これらの諸本はやはりいずれも豊田屋らの『大全早引節用集』の版権侵害書であり、当時、問題となっていたのも、どの一本ということではなく、亀(本)屋のかかわる一連の『大全早字引節用集』であると考えた方が現実的だと思うからである。なお、このような措置は、関場の調査を無効とするものではなく、問題の質が違うことから来るものにすぎない。

117■永代節用集A慶応元(一八六五)年五月一六日より。
B『■■■■■大全早字引』、豊田屋卯左衛門ら。
C『■永代節用集』。丁子屋平兵衛(江戸)か。
DB所掲書を無断複製・改題し、販売した。
E「重板同様之類板」。
F売留発行。
大坂触出留。大坂出勤帳六六番。大坂窺之控。京都済帳。
大坂触出留の慶応元年五月付け通達にみえる一〇書のうちの最後のものである。前事例までにならい、現本を比定しておく。
ィ永代早引節用集 全壱冊 但、奥書江戸神明前和泉屋市兵衛与在之内題を「■永代節用集」とするものであろう。「芝神明前/和泉屋市兵衛」の名は見えるが、架蔵の天保一四年板の刊記には大坂三肆・江戸七肆の名も見える。なお、亀田文庫本嘉永三年板の刊記には大坂二肆・江戸一〇肆の名が見えるが、和泉屋市兵衛ではなく和泉屋金右衛門となっている。
 通達にある「奥書江戸神明前和泉屋市兵衛与在之」との但し書きは、本の同定のための注記であって、類板の首謀者ということではないようである。というのは、大坂触出留に対応すると思われる「大坂窺之控」
中の「重板同様類板之品々」の控えには次のようにあって、首謀者が明らかにされているからである。
 一 早引永代節用集  元板大全早引節用の類板  右、旧幕官許       東京 丁字屋平兵衛板 この丁字屋の名は『■永代節用集』の天保板・嘉永板双方にあり、かつ、両書刊記の書肆末に挙げられ、「版」字も付される。したがって、通達の「奥書江戸神明前和泉屋市兵衛与在之」の但し書きは和泉屋金兵衛ではなく和泉屋市兵衛の名のある天保板を指すためのものと考えられる。年代的に新しい嘉永版ではなく天保板の方を問題にしていることになるが、嘉永板についてはすでに処分が済んでいながらも、古い天保版があいかわらず出回り続けていたなどの事情があったのかもしれない。
もちろん、佐藤未見の書のなかに、和泉屋市兵衛の名が記されたより新しい異本がある可能性もある。

118大全早字引節用集A明治三(一八七〇)年二月二九日より一二月二〇日まで。
B早引節用集、豊田屋卯左衛門(大坂)ら。
C『■■大全早字引節用集』、亀屋(あるいは亀本屋)半兵衛(伏見)。
D早引節用集を無断複製・改題し、販売した。
E「重板同様類板」。
F出訴。絶板、板木出来本没収。
大坂窺之控。大坂出勤帳七二・七三番。大坂触出留。
事例%5からの続きとも見えるが、大坂窺之控などの記述では新たな版権侵害であることは明らかなので別件として扱った。

119早引節用集A明治三(一八七〇)年一一月二七日以前より。
B『懐宝数引節用集』(扉題。内題なし)、豊田屋卯左衛門ら。
C『早引節用集』(見返し「懐宝早引節用集」)、吉田屋文三郎(東京)。
DB所掲書に類似する節用集を刊行・販売した。
E「重板同様類板」。
F不明。
大坂窺之控。
「大坂窺之控」にある「重板同様類板之品々」による。本件についてはこれ以外に記録がなく、詳細は不明である。なお、本書該当部分を同記録のままに引くと次のようである。
 一 懐宝節用集  半紙三つ切本 一 同 増補   半紙三つ切本          各、元板数引節用集真字入之類板  右、官許之印なし       東京 吉田屋文三郎板 このことから、現本は、表紙見返しの題を「懐宝早引節用集」とする一〇行真草二行体横本『早引節用集』(内題)かと思われる。なお「増補」とされた本については同定ができない。
 なお、豊田屋らの『懐宝数引節用集』は、一一行行草一行体横本である。もともと早引節用集の類板として開板されたもので、天保一五年板・嘉永三年板などがある。が、安政三年板・慶応元年板・明治三年板は豊田屋らが板元となっているので、安政三年までに版権上の問題が是正されたのであろう。ただし、大坂仲間の記録にその件は見えないので、本稿では割愛することにした。同様の例は、事例%5の吉田屋板についても触れたところだが、当においては記録に残らない版権問題も少なくなかったものと思われる。

120■■いろは節用集A明治三(一八七〇)年一一月二七日以前より。
B『懐宝数引節用集』(扉題。内題なし)、豊田屋卯左衛門ら。
C『■■いろは節用集』、森屋治兵衛(東京)。
DB所掲書に類似する節用集を刊行・販売した。
E「重板同様類板」。
F不明。
大坂窺之控。
前件同様、「重板同様類板之品々」による。本件についてはこれ以外に記録がなく、詳細は不明である。
 現本刊記には須原屋茂兵衛以下一〇肆の名が挙がるが、住所は表記されない。一一肆めの森屋のみ「馬喰町二町目 森屋治兵衛版」と住所・「版」字付きで記されており、森屋が首謀者なのであろう。

121早引節用集A明治三(一八七〇)年一一月二七日以前より。
B『懐宝数引節用集』(扉題。内題なし)、豊田屋卯左衛門ら。
C『早引節用集』、山城屋平助(東京)。
DB所掲書に類似する節用集を刊行・販売した。
E「重板同様類板」。
F不明。
大坂窺之控。
前件同様、「重板同様類板之品々」による。本件についてはこれ以外に記録がなく、詳細は不明である。
 山城屋平助板の『早引節用集』には、架蔵の一一行横本があるが、刊年が記されていないので、断定することはできない。

122大全早字引節用集A明治三(一八七〇)年一一月二七日以前より明治五年一月一一日まで。
B『大全早引節用集』、豊田屋卯左衛門ら。
C『大全早字引節用集』、椀屋伊兵衛(東京)。
D『大全早引節用集』を無断複製・改題し、販売した。
E「重板同様類板」。
F一時、出訴の構えもみせたが、結局内済。
大坂窺之控。大坂出勤帳七四番。
椀屋は、かつて亀屋半兵衛らとともに類板書『大全早字引節用集』を開板していたので、本件も独立のものではなく、あるいは事例%7と合して考えるべきものかもしれない。椀屋と亀屋とで板木を分け合っていたことなどは十分に考えられるからである。が、いま念のため別件としてたてた。

■まとめ
 前稿までと同様に本期のまとめをおこなう。
 まず、前稿までにならって本期事例を分類しておく。1〜bフ名称は、つぎのものを表す。
  1 元禄〜元文期 本『報告』四四巻一号にて言及
  2 宝暦〜明和期 本『報告』四四巻二号にて言及
  3 安永〜寛政期 本『報告』四五巻一号にて言及
  4 享和〜文化期 本『報告』四五巻二号にて言及
  5 文政〜嘉永期 本『報告』四六巻一号にて言及
 これは単に順序をしめす便宜的なものであって、版権問題の推移によって時代区分をおこなうなどの意図はない。これは、一連の拙稿が、単に版権問題の事例数などによって区分するという、便宜的な基準によっているためである。より本質的な時代区分については別稿を準備中である。
 本期の事例$9〜&2を、前稿の「付録」以下九類に分けると次のようになった。なお、前稿までと同様に、一つの事例が複数の項に分類されることがある。Y"#$%%&'() Z
                   本期  該当事例  
  付録    九  九  一   一  四  〇
  本文    二  一  三   一  一  〇
  検索法   一  七 二(四) 四  四  六  
  判型    一  六  二   一  〇  〇  
  レイアウト 一  二  四   三  二  〇  
  重板    〇  三  三   五  六  四  
  禁忌    〇  一  一   一  四  二  
  管理                 八  二  
  不明ほか  二  七  三   四  二  一  
 =Ejとほぼ同様の傾向を示しているとみてよいであろう。ただ、直前のjと比較すると、管理の項が落ちつきを見せているのが特徴的である。冒頭でも触れたように、本期は、本屋仲間解散の余波の収拾と、幕末瓦解・明治新政権への移行などの悪条件が重なる時期であった。が、そのような、内外に不安材料がある時期にしては、管理機構が破綻せずよく機能したと評すべきであろう。ただし、資料となった本屋仲間記録がほぼ大坂のものに限られることに注意しなければならない。また、事例%5%9でも触れたように、記録に遺こされなかった版権問題も少なくなかったものと思われる。あるいは、多数になるあまり、悪質で解決がよほど難航した件は記録として残し、単純で容易に解決された件については記録されなかったといったことを想定しておいてよいかもしれない。
 また、右の表には必ずしも反映されておらず、本期の各事例をみなければ知られないことだが、本格的な版権問題が早引節用集をめぐるものにほぼ限定されるのも≦jからの特色である。むしろ、本期ではその特徴がいよいよ鮮明になってきたとの印象がある。

 本期で注目すべき類板書としては、まず事例%1の『■万代節用集』を挙げないわけにはいくまい。すでに記したように延べ六五〇〇〇語(推計)という群を抜いた収載語数は驚嘆に値する。それだけに、なぜ、この時期にこのような大規模な編集がなされる必要があったのかが問われるべきであろう。そのためには、『■万代節用集』自体の成立にかかわって、依拠資料の究明を中心とする本書の成り立ちの解明も必要だが、それにとどまらず、近世節用集史上に確たる位置づけをおこないたいものである。
 また、事例%5の『万世早引増字節用集』(雑書入)も注目したい。早引節用集は、付録がはなはだ少ないことが特徴であり、そのために辞書に徹したものとする見方が可能であった。そしてそのような在り方は、数多くの付録を収録しようとする他の節用集への批判として捉えたことがあった(「早引節用集の成立をめぐる諸問題」『岐阜大学国語国文学』二二、一九九四)。が、付録を大幅に増補した『万世早引増字節用集』(雑書入)はそれに逆行する存在ということになる。そのような編纂の背景も考えるべき課題となろう。
 このように興味深い問題を提起する類板書があるのだが、一方では、早引節用集の本来の板元も、事例$9の『■■早引節用集』(嘉永四年)を開板している。収載語数延べ四万語(推計)に達する大規模なものである。
このように、類板書だけでなく、本来の板元からも大部の早引節用集が開板された以上、本期においてなにゆえこのような状況にいたったのかを解明することは、近世節用集史の記述的研究において避けられない課題の一つと言えよう。

 本『報告』において六回にわたって、近世節用集の版権問題を通覧してきたが、本稿をもって一応の終了をみることになった。本来ならば、ここで、通覧の総括をおこなうべきであり、筆者もそのつもりでもあったが、あえてそれをとりやめることにした。六回に分かって記したために、初めの元禄・元文期と本期とでは、筆者の見る目にも変化があるように思う。
それらを修正しながら総括をおこなうには、それ相応の準備が必要になると予想されるからである。その点、ご了解をねがう次第である。