近世節用集版権問題通覧

 −文政・天保間−    

                     佐藤貴裕

 キーワード‥節用集 辞書史 版権 近世

  はじめに

 本稿は、前稿(本誌前号)に引き続き、文政・天保間(一八一八〜四三年)における節用集の版権問題を通覧するものである。その趣旨・方針は前稿までと同じである。

 本期は、先期と同様に幕府による改革などの影響がない時期であり、先期と同様の特質、すなわち、「書肆による出版活動が江戸時代の本来の出版制度にもとづきつつ、正常に行われ(中略)どのような版権が侵されやすかったが如実に知られる」(前稿)時期である。
 そのようななかにあっては、やはり、既存の三都の書肆間での事例が相変わらず多い。そのためにかえって、尾張の書肆の重板・類板問題があって注目されることになろうか。以前にも早引節用集などでは地方の書肆が重板・類板を行ったことはあるが、どちらかといえば散発的なものといえた。が、尾張の場合は三都につぐ出版文化を生んだ地として、その発展とにらみあわせながら注目する必要があろうし、類板のしかたもそうした様相にふさわしい内容をもった問題と思われる。
 また、西本願寺が、節用集中の付録の公家鑑において、東本願寺よりも上位におくよう要請し、それをうけて板元が改板・販売してしまった件があった。当時の開板手続きのうえからは幕府当局の検閲を受けなかったことが問題となるのだが、改板の内容については東本願寺側が出訴のかまえを見せるなど、教団の対立問題にのみこまれかねない面もあった。辞書本文ではなく付録についての問題ではあるが、節用集がいかに社会的な存在であるかを示す好個の事例となっており、注目に値するものといえよう。

 本期にあっても大坂本屋仲間の記録が充実しており、細かい事件についても記すようになる。そのため、あるいは先期までなら記されないような事柄であっても表面に出ることになる。その意味では、版権問題の通覧を目的とした本稿のくわだては、時代によって精粗のばらつきがでることになる。が、一方では、可能なかぎり当時の版権問題の実態に肉薄していくのが、一つの記述的研究のありかたともいえよう。したがって、問題となる事項については細大もらさず、触れていくことにしたい。ただし、細かい件については、一般に記述が簡略であることがあって、詳細が知られないことも少なくないことをあらかじめお断りしておく。

  版権問題諸例
 前稿でも記したが、念のため、凡例的なことがらを略記する。
 各事例には前稿からの通し番号を付し、事例名は、問題となった本の名をもってした。その際、アステリスクを付したものは、記録にある書名をとったもので、現本への比定が必ずしも成功しなかったものである。
 各事例を次の八項目に分けて記した。
  A期間  原則として、記録上の日付の上限と下限を記す。
  B問題書とその刊行者
  C被害書・被害者
  D問題点  版権に抵触した要点を記す。
  E様態  問題のありよう。記載どおりに記すのを原則とする。
  F結果  侵害書および侵害者の処分・処遇を記す。
  G主資料  H考察・備考 なお、おもに参照したのは次のような資料である。
  京都関係
   上組諸証文標目(「京都証文」と略記)
   上組済帳標目(「京都済帳」と略記)
   板行御赦免書目(「京都赦免」と略記)

前二者、宗政五十緒・朝倉治彦編『京都書林仲間記録』★★★・★★★★★(ゆまに書房 一九七七)により、弥吉光長『未刊史料による日本出版文化』第一・七巻(ゆまに書房一九八八・一九九二)を参照。後者は宗政五十緒・若林正治編『近世京都出版資料』(日本古書通信社 一九六五)による。
  大坂関係
   出勤帳(「大坂出勤帳」と表記)
   差定帳(「大坂差定帳」と表記)
   裁配帳(「大坂裁配帳」と表記)
大阪府立中之島図書館編『大坂本屋仲間記録』第一・八・九・一〇巻(清文堂 一九七五・一九八一〜三)による。
 なお、江戸の記録である「割印帳」は文化年間までのものしか残存せず、資料としてあつかうことができない。

79書名不明の一本
A文政元(=文化一四。一八一八)年一月中に解決か。
B書名不明*、江戸での重板と知られるだけで詳細は不明。あるいは英平吉らか。H参照。
C『大全早引節用集』、柏原屋与左衛門(大坂)ら。
D詳細は不明。
E「重板」。
F詳細は不明。
G大坂出勤帳三一番。
H出勤帳正月一九日の項に、江戸からの重板の報告について柏原屋らが「篤ト勘弁致可」と言ったとある。当時の「勘弁」の語義は、た とえば『古語大辞典』(小学館)によれば、「1)勘(かんが)え弁 (わきま)えること。よく考えること。2)数理に明るいこと。3)過 ちを許すこと。がまん。「かんにん」とも。」(一部表記を改めた)が掲げられる。『日本国語大辞典』『角川古語大辞典』なども派生義や形容動詞形を分立する程度の差はあるが、ほぼ同じである。
 この三つの語義のうち、重板(無断複製)の知らせに対する応答であることを考えれば、1)か3)の意味をとることになる。さらに『古語大辞典』の「語誌」では「1)2)は上方の用法で、浮世風呂の例も九州方言を話す男の言葉である。これが江戸に入って、3)の意に転じたものと思われる」(坂梨隆三執筆。一部表記を改めた)とある。これにしたがえば、「篤ト勘弁致可」は熟考するの意となろう。
 そしてそれは、具体的な行為としては、重板者の徹底した追及ということになるかと思うが、記述が簡略なので、これ以上のことは知られない。
 ただ、大坂出勤帳天保七年九月一八日の一項として、つぎの文言があり、あるいは、本件とかかわるかも知れない。
 一江戸行事状到来、披見致候処、先年早引大全重板一件之節、仲間衆外ニ被仰付候処、此度英平吉大助ト申仁、西宮弥兵衛両人衆外御免之儀、相談之上、御願被致候処、御聞済有之段申来候ニ付、承知之趣返事遣し候事
 すなわち、本件以降天保七年九月まで、江戸において『大全早引節用集』が重板された記録がないので、右の一節が本件とかかわることが考えられる。ならば、英・西宮が本件の重板人であったことも考えられよう。ただし、重板ばかりでなく、重板書と知りながら売買した場合にも衆外が適用された例もあるので注意が必要である。

80早引節用集小本*
A文政元年一二月より文政二年八月まで。
B早引節用集小本*、書肆不明。あるいは『■■早引節用集』伊勢屋板か。H参照。
C『■■早引節用集』、柏原屋与左衛門ら。
D重板。
E「重板」。
F江戸行司が板木を回収し、大坂に送る。重板者は「欠落」。
G大坂出勤帳三二番、大坂裁配帳三番。
H比定される現本として有力なのは、時期からみて「文政二年/巳卯正月吉日/四ッ谷伊賀町/伊勢屋治助蔵板」の奥書をもつ一本(架蔵書)である。これは、『■■早引節用集』文化一一年本などをもとに重板したものと思われる。なお、右Bでは、この本を本件の現本と確定しなかったが、これは、仲間記録中に伊勢屋治助の名が現れないためである。この件に関する記載は相応にあり、板木の枚数まで四丁張一八枚・二丁張三三枚・外題一枚・奥書一枚と確実に記されるが、これも特定する材料にはなりにくい。誰が『■■早引節用集』を重板しても総計一四〇丁程度の板木が必要だからである。
 板木の丁数まで記しながら、重板者の名が記されず、わずかに「江戸重板主欠落致候」としかしるされないのは不自然とも見える。
 が、これは、江戸本屋仲間が当面の被害がでないよう完全に重板書を処分したため、大坂仲間としては直接に処理することなく、江戸仲間との事務的な手続きをおこなえば事足りたことによるのであろう。

 81倭節用悉皆嚢
A文政二年二月より五月までの間。
B『倭節用悉皆嚢』、額田正三郎(京都)ほか。
C『雲上明鑑』、出雲寺文次郎(京都)か。
D付録の内容が出雲寺の版権に抵触したのであろう。
E「差構」。
F不明。
G京都済帳。
Hこのでも付録上の版権抵触があったことを示す例と見ておきたい。
 なお、公家鑑の類との版権問題はのちに事例8687があるが、本件とは事情が異なるものと思われる。

82増補節用早指南
A文政二年九月よりB『増補節用早指南』、不明。
C不明、吉文字屋市右衛門(大坂)。
D差構。
E「差構」。
F不明。
G大坂出勤帳三三番。
H吉文字屋が口上書を大坂仲間行司に提出したことが知られるだけで、詳細は不明。
『増補節用早指南』は先期事例75でも扱った。このときも売留(売買の一時停止)を依頼したことしか知られなかったが、売留が徹底されず、ふたたび市場に出回るなどということが出来したため、再度、口上書を提出したということか。

83要字箋*
A文政三年一二月中。
B『要字箋』、吉文字屋市右衛門。
D元版の題名「要字選」と異なることと、付録の服忌令に誤りがあること。
F「箋」字を「選」に改め、服忌令も削除することとした。
G大坂出勤帳三三番。
H本書は現存が確認されず、また、諸論文等にも言及されないので、節用集であるかどうか知られない。が、「板木総目録株帳」などでは節用集の項にその名が見えるので念のためとりあげた。
 本件は、再板に際して、検閲にあたった北組惣会所より、Dのごとき問い合わせがあったものである。

84■■節用大全
A文政六年七月。
B『■■節用大全』、不明。山田忠雄編『■節用集■目録』によれば、「須原屋市兵衛元株」で、英平吉・伊勢屋忠左衛門(江戸)ほか二書肆が記されるという。
C『■■字引大全』、吉文字屋市右衛門・柏原屋与左衛門ほか八書肆。『■字貫節用集』、敦賀屋九兵衛・河内屋喜兵衛・吉文字屋市左衛門(文化三年本による)。
D詳細不明。H参照。
E「差構」。
F売留を依頼した以外は不明。
G大坂出勤帳三五番。
H記述が少ないので詳細は不明だが、右三本はいくつかの類似点がある。判型はいずれも美濃半切横本で、表記は真草二行体をとり、検索法はイロハ・意義分類となっている。このような点が、先行する『字貫節用集』『字引大全』に『節用大全』が抵触したということであろう。

85寺習早手本*
A文政六年一二月中。
B『寺習子早手本』*、津国屋安兵衛(大坂)。
C『万万節用福徳宝蔵』『初心手習重宝記』*、利倉屋新兵衛(大坂)。
D詳細不明。H参照。なお、津国屋は『寺習子早手本』をはじめ、いくつかの書籍を版権を所持することなく、無届けで開板していた。
E「指構(差構)」。
F板木を行司に差し出し、始末書(誤一札)を提出する。
G大坂裁配帳三番、大坂出勤帳三五番。
H裁配帳に「津之国屋安兵衛方ニ、寸珍小本手習子手本与申書致出板、利倉屋新兵衛方所持板手習調法記之内、并万々節用集之内指構有之」とある文言からは、『万万節用福徳宝蔵』の付録か内容が抵触したものと思われるが、詳細は知られない。記録によれば『寺習子早手本』は袖珍本とのことであるが、『万万節用福徳宝蔵』は美濃判であるから、この点が問題となったのではない。
 なお、『万万節用福徳宝蔵』は大坂記録には「万々節用(集)」
と表記される。本書は、亀田文庫・米谷隆史氏などに蔵されるが、ともに刊記を欠く。いま、「板木総目録株帳」(文化九年改正)の当該書の板株所有者に「利新」とあるを利倉屋新兵衛とみて特定することとした。

86倭節用集悉改嚢・万宝節用集*
A文政七年九月より翌年一月までのうち。
B『倭節用集悉改嚢』、額田正三郎ほか。『万宝節用集』*、不明。
あるいは『万宝節用富貴蔵』、小川多左衛門(京都)ほか、か。
D付録の公家鑑において東西本願寺の順序が相違していたため。
E皇室への禁忌か。
F行司がそれぞれの板木一枚を預かることになった。
G京都済帳。
H『倭節用集悉改嚢』は文政九年に『倭節用集悉改大全』と改称のうえ、再板するが、その手続きの過程で右のような指摘をうけたものであろうか。
 ただ、行司が板木を預かるという事態からすると、相応に重い問題となったと推測される。たとえば、次例のように、正式な再板手続きをしないまま、東西本願寺の順序を改めた本が巷間に出回った ことなどが考えられるということである。
 なお、架蔵の『倭節用集悉改大全』文政九年板では、公家鑑自体を削除し、代わりに「古今銘尽彫物次第」で補っている。

87都会節用百家通
A文政八年六月より九月まで。
B『都会節用百家通』、敦賀屋九兵衛・河内屋木兵衛・塩屋平助(大坂)。
D文政二年再板本のなかに、頭書付録「御公家鑑」の東西本願寺の順序が、出願時とは異なるものが出回っていたことによる。
E当局に許可をえることなく改板・販売したこと。
F売留依頼。問題となった出来本一五九部を回収し、もとの通り改めたものと差し替え、始末書を提出した。
G大坂差定帳五番。大坂裁配帳三番。大坂出勤帳三六番。
H本件は、Dのように、内容の変更を届け出ないまま開板したことが問題となった。敦賀屋以下、書肆として長く営業してきたものなの で、単なる不注意ではなく、それなりの事情があった。
 文政八年二月、西本願寺の役人より、「御公家鑑」中の西本願寺の順序を東本願寺より前に据えるよう、要請があった。この要請は、「此度改正之雲上明鑑」に準拠させようとするものだった。この「雲上明鑑」とは、西本願寺が先に掲載されるという文政九年刊『(増補新撰)万代雲上明鑑』(外題)のことと思われる(『国史大辞典』「うんじょうめいかん」。武部敏夫氏執筆を参照)。この要請に板元たちは「種々御断申上」げたが、「外々より決而差支之儀無之段、慥成書付被下」れたため、「無拠相改」めたのである。
 以上が本件の中心部分なのだが、たとえ「慥成書付」を西本願寺から得ようとも、何の保証にもならない。書籍の内容の異同とは、つまるところ、幕府の思想管理政策に連なっていくものであって、まったく次元の異なることだからである。板元たちがさしだした口上書に「全心得違」とあるのは単なる謝罪の決まり文句としてばかりでなく、書籍に対する支配のありようを改めて悟ってのものと見ることもできるのである。
 板元たちの犯したのは右のような不注意だが、さらに、東本願寺が乗り出して、ことを紛糾させることになった。難波御堂輪番代聞信寺から、板元たちを相手取り、訴訟を起こす旨を本屋仲間行司に伝えてきたのである。結局、奉行所のはからいで、両本願寺がかかわったことは何も記さず、単に本屋側の彫り過ちということで口上書を提出して落着することになった。そのほかの、具体的な処置はFに記した通りである。
 右のように両本願寺がかかわってきており、その背景には、准門跡としての扱いに変化があったことがうかがわれるのだが、詳細に ついては調査中であり、識者の御教示をあおぐ次第である。

88倭節用集悉改大全
A文政九年二月より四月まで。
B『倭節用集悉改大全』、額田正三郎・河内屋茂兵衛(大坂)ほか。
D再板に加わった頭書付録の「庭訓・銘尽」が、板株にあったかどうかを大坂仲間行司が河内屋にただした。
G京都済帳。大坂出勤帳三七番。
H文政元年本と文政九年本を比較すると、「御公家鑑」が「古今銘尽彫物次第」に、「華洛諸寺院名籍」が「庭訓往来」に変更されている。東西両本願寺を意識しての改変であろうか。

89いろは節用集*
A文政一〇年二月。
B『いろは節用集』*。あるいは『いろは節用集大成』か。
C早引節用集、柏原屋与左衛門ら。
D検索法の類似であろう。
E「重板」とあるが、『いろは節用集大成』ならば類板とすべきである。
F売留を依頼。
G大坂出勤帳三八番、京都済帳。
H近世の中ごろから、尾張でも出版活動が盛んになっていった。その過程で、先行書の重板・類板もおこなわれた。本件は、そうしたなかでの一件である。
 現本としては『いろは節用集大成』があたるものと思われる。これは、本書が、尾張の開板書であること、本件に先立つ文化一二年の序を有すること、仲間記録にも「いろは節用集」と平仮名表記されることなどによる。
 なお、本件以降天保一〇年にいたるまで、『いろは節用集大成』にかかわる件が散見される。これらは一連の事例として扱うべきものなのだが、長いあいだにわたって問題化することでもあり、天保に入ってからは、京都・大坂それぞれに売買した書肆が現れ、その処遇が問題とされたり、重板板木によって再板を願い出る際にも内容上の問題が起こるなど、複雑に発展していく。そこで、本稿では、ある一定のまとまりがつけられそうなところで区切り、それぞれを別個の事例として扱う。

90書名不明の二本
A文政一一年一〇月。
B書名不明。江戸書肆某。
C『■■早引節用集』、柏原屋与左衛門ら。
D重板。
E「重板」。
F相済か。売留を依頼。
G大坂出勤帳四〇番、京都済帳。
H一〇月五日の寄合で、柏原屋与左衛門より、江戸での重板二件につき、落着したことの報告があった。右はそれにもとづくもので、これ以上の詳細は不明である。

91和漢武将名臣伝
A文政一一年一一月。
B『和漢英勇武将伝記』*、京都の書肆某。あるいは『倭節用集悉改大全』の板元とすべきか。
C『倭節用集悉改大全』の巻頭に「和漢英勇武将伝記」を合冊することについて。
G大坂出勤帳四〇番、京都済帳。
H京都より『和漢英勇武将伝記』を販売する旨の書状(添章)がきた。これについて『倭節用集悉改大全』の大坂相合の書肆・河内屋茂兵衛と秋田屋太右衛門が、同書の付録として合冊するもので、単独での板行はしない旨の口上書が差し出された。
 古くは付録と節用集との間で種々の版権問題が出ていたが、ここでは逆に節用集の付録となることを前提として開板されるものがあるのが興味深い。現存諸本のなかにも、単独の刊行書を複数合冊して一書としたものがままある。この件は、そのような合冊本のできる一過程を示すものともいえる。
 また、もともと付録・語数の多い『倭節用集悉改大全』に付録を追加するという営み自体、注目されよう。『都会節用百家通』によって大型本への歩みが開かれたことは先期事例63でも触れたところだが、本件は、さらなる大型化への傾向を反映する例と捉えられるからである。
 この増補によって『倭節用集悉改大全』文政九年刊本は、刊年表記を「文政九年丙戌三月新刻」と同一としながらも、追加付録の有無による異本が生じることになった。一つは、架蔵本のように追補のないものであり、他は、謙堂文庫本(『節用集大系』所収)のように「和漢武将名臣略伝」「謡曲注解絵抄」「万々雑書新増大成(ただし頭書)」「八算見一初心指南(同)」など三〇丁分を巻頭に配した追補本である。

92大成早見節用集*
A文政一二年五月より九月までのうち。
B『大成早見節用集』*、橘屋儀兵衛(京都)か。
C早引節用集、柏原屋与左衛門ら。
D数引きを取り入れた『早見節用集』の刊行準備が進んでいるとの知らせを受け、早引節用集に抵触するので、開板出願があっても受理しないよう、京都本屋仲間に通知した。
E「差支」。
F開板人が京都行司に出願用の写本を提出したが、受け取らなかった。
G大坂出勤帳四〇番、京都済帳、京都証文。
H板行の計画段階で察知したもの。早い対応である。なお、Bで橘屋の名を挙げたのは、「京都証文」にその名が見えるからである。同記録は、書名・開板人などを記しただけの簡単な目録だが、本件の『大成早見節用集』については、出願時の写本を「甚紛敷相見え候」として出願人に差し戻したことが記されている。「甚紛敷」という内容は記されないが、状況からして早引節用集が念頭にあったものと思われる。

93文宝節用集
A天保元年三月。
B『文宝節用集』*、橘屋儀兵衛。
C『字典節用集』『蠡海節用集』など。H参照。吉文字屋市兵衛(大坂)。
D判型の類似であろう。
E「差構」。
F売留を依頼。吉文字屋が上京し、対談もあったが結果は不明。H参照。
G大坂出勤帳四一番、京都済帳、京都赦免。
Hふたたび、京都・橘屋の関係する件である。Cに『字典節用集』などを挙げたのは、「大坂出勤帳」に「吉市より(中略)所持之三つ切節用ニ必止と差構ひ候」とあるのによった。

94書名不明の一本
A天保三年一月よりB書名不明、江戸の書肆某。
C『ゾヒ早引節用集』、柏原屋源兵衛(大坂)。
D重板。
E「重板」。
F江戸仲間行司に「差留」(売留と同義であろう)を依頼する。
G大坂出勤帳四三番。

95『蠡海節用集』ほか一五本
A天保三年三月より五月まで。
B『蠡海節用集』など節用集類一五本・他書八本、吉文字屋市兵衛(誤売)・本屋仲間行司(共謀)。
C同、堺屋清兵衛。
D堺屋があずけておいた板木を、吉文字屋が誤って網屋茂兵衛へ売り払い、板木台帳の名義も変更された。
F堺屋が出訴。吟味も行われたが、仲間行司の尽力により、板木を買い戻して内済。
G大坂差定帳五番、大坂出勤帳四三番。
H本件は、Dに記したように板木を誤って売り渡されたために生じたものである。また、名義変更のおり、担当行司が堺屋に確認をとらず、その後の対応も敏速でなかったため、仲間行司も訴訟の相手となっている。
 節用集の板行では、吉文字屋と堺屋とが共同することが多かったが、そのなかで築かれてきたであろう信頼関係をこわしかねないものといえる。にもかかわらず、対処の相談にも吉文字屋は「一円懸合ニも不参」ときわめて消極的であった。吉文字屋側に何らか異変があったとみられる。

96大節用文字宝鑑
A天保三年六月。
B『大節用文字宝鑑』、吉文字屋市兵衛(版権売り渡し)。
C同、網屋茂兵衛(版権購入)。
D網屋は焼け株として購入し、相合に尋ねても板木のないことを確認した。が、行司に版権目録の確認を依頼したところ、焼け株ではないことが判明した。
E版権の売買をめぐって。
F網茂・塩喜、口上書を提出。ただし、内容は不明。
G大坂出勤帳四四番。
H本件の記述は、D以上の情報はなく、顛末の詳細は不明とするほかない。ただ、一般論として、購入した版権が、板木の備わった正常のものなのか、焼失などで板木の存しないものなのかは、板行経費の点で問題となったであろう。前者の場合、板木の状態がよければそのまま印刷できるが、後者の場合、彫刻からはじめなければならないからである。もちろん、版権としての資格はどちらの場合でも等しく認められるから、致命的な不利益をこうむることはない。何か問題が起きたとしても、版権所有の明証さえ示すことができれば、事態を有利に収拾できるからである。
 本件の場合、吉文字屋は焼け株として売り渡したが、板株台帳では焼け株となってはいない。このような齟齬が起こるのは、吉文字屋が焼け株になったことを報告していなかったか、板木は実際に存在するが、何らかの意図があってか、あるいは記憶違いのためか吉文字屋が焼け株と称したことが考えられる。が、いずれにしても吉文字屋に落ち度ということになろう。
 本件といい前事例といい、この時期の吉文字屋は版権管理をめぐるミスが続く。

97早字節用集
A天保三年九月より一〇月まで。
B『早字節用集』、河内屋太助(売り広め、大坂)・永楽屋東四郎(板元、尾張)D収載語につき、さしさわるものが一か所あったことを、北組惣会所より指摘された。
F修正して惣会所へ提出。
G大坂出勤帳四四番。
H大坂での売り広め手続きを願い出た際のものである。のちの事例106では「東照宮」について同様の指摘があった。『早字節用集』(文政一二年板、半切横本。架蔵)でも「東照宮」が収載されているので、それが指摘されたのかもしれない。ちなみに、米谷隆史氏(大阪大学助手)の蔵書(刊年不記の七行本)では、「東照宮」のあるべき位置が「頓宮」となっているとの御教示をえた。刊年が知られないので明確になことはいえないけれども、やはり「東照宮」が問題となった可能性が考えられる。

98永代節用無尽蔵
A天保三年一一月より天保四年五月までか。
B『永代節用無尽蔵』、勝村治右衛門(京都)ほか。
C『都会節用百家通』、河内屋木兵衛(大坂)ほか。『倭節用集悉改大全』、秋田屋太右衛門・河内屋茂兵衛(大坂)ほか。
D詳細は不明。
E「差構」。
F問題を解決するまで売留を依頼した。それ以降の詳細は不明。
G大坂出勤帳四四番、京都済帳。
H次件とともに、京都には済帳しかなかく、大坂の記述も出勤帳しかないので詳細は不明である。
 『永代節用無尽蔵』『都会節用百家通』『倭節用集悉改大全』とも一九世紀を代表する大部の節用集で、収載語と付録を大幅に増補するという行き方も同様である。そのような中で、『永代節用無尽蔵』が先行の二本に抵触することがあったということであろう。

99いろは節用集*
A天保四年七月。
B『いろは節用集』*。あるいは『いろは節用集大成』(文化一二年序)か。
C早引節用集、柏原屋与左衛門・柏原屋源兵衛・河内屋太助。
D検索法の類似であろう。
E類板。
F売留を依頼する。
G大坂出勤帳四五番。
H売留については「再触」とあるので、これ以前に売留を依頼したことがあることになり、書名からすれば事例89にあたる。

100真草二行節用集*
A天保五年四月。
B『真草二行節用集』*、秋田屋源兵衛。
D秋田屋が、京都の長村半兵衛から『真草二行節用集』(大紙三切)の焼株を購入し、売上証文をもとに名義変更を行司に依頼した。
F行司たちが種々調べるうちに、「不分明」になったので、その旨を秋田屋に伝えた。H参照。
G大坂出勤帳四六番。
H記録が簡略なので、細部については不明である。ただ、京都の「大紙三切」の『真草二行節用集』で焼株といえば、事例57(「近世節用集版権問題通覧−−安永・寛政間−−」本紀要四五巻一号)がある。また、事例11(「同−−元禄・元文間」本紀要四四巻二号、「同−−安永・寛政間−−」本紀要四五巻一号に改稿)についてもその可能性があった。事例11にしても57にしても、三切本の版権は大坂の吉文字屋に帰したと推測された。したがって、長村から購入した版権も、吉文字屋の版権と抵触することになるので、秋田屋の要求した名義変更も認められなかったのではないかと考えられる。
 なお、事例11の相手方は、京都の長村半兵衛であった。したがって、本件の焼株とは事例11とかかわる可能性も考えられる。

101いろは節用集大成ほか
A天保八年七月より天保一一年三月まで。
B『いろは節用集大成』『早引小本』*『同大節用集』*『■■懐宝節用集』、尾張書肆某。
C早引節用集、柏原屋与左衛門ら。
D名古屋での早引節用集類の無断刊行。
E「重板」「差構」。
F板木回収。
G大坂出勤帳四九・五一番、京都済帳。
H名古屋での大規模な重板・類板の事例。当時の書籍流通の常識を知らなかったのか、尾張徳川家の威光を背景に故意に無視したのかは不明だが、早引節用集の重板・類板が大胆になされたものである。
 ただし、すでに触れた事例8999などとも関連するようであり、一時に開板されたのではなく、徐々にバリエーションを増やしていった ものと思われる。
 Bで書名を記録のままに掲げたもののうち、『早引小本』は『■■早引節用集』の重板書であろう。『同(=早引)大節用集』は、先期事例72で扱った『■■早引大節用集』であろうか。そうだとすれば、この一連の重板・類板は商品としての体系的な見通しがしっかりしたものだったことになる。
 たとえば『早引小本』*は、柏原屋の小型携帯判ともいえる『■■早引節用集』を襲ったものであり、『懐宝節用集』は収載語は『■■早引節用集』を襲いながら、三切横本として小型化したものである。さらに、『早引大節用集』は、大きさを『■■早引節用集』並に抑えているが、収載語は『大全早引節用集』から取捨したものになっている。つまり、携帯性を重視しながらも、内容的には遜色のないものを編纂しようとした跡が伺われるものなのである。そのような傾向をもっとも表しているのが、『いろは節用集大成』である。これは、『和漢音釈書言字考節用集』を粉本としつつ、早引節用集のイロハ・仮名数引きに改編し、かつ意義分類を追加したものである(拙稿「早引節用集の一展開」『国語学研究』三一、一九九二)。『大全早引節用集』よりも一・五倍の丁数となったが、半切横本におさめている。いわば、『書言字考節用集』の早引・携帯版である。もとより柏原屋らのバリエーションにはない。
 類板とはいえ、このような改良がほどこされている点で、近世節用集の記述的研究においては、逸することのできない事例と思われる。

102字典節用集
A天保九年四月。
B『字典節用集』、網屋茂兵衛。
D網屋が吉文字屋から購入した『字典節用集』の再板を願い出た。
E名義変更ということであろう。
Fもとの版権所有者の吉文字屋市兵衛がすでに文政一二年に願い出ているため、名義の変更手続きとなったようである。
G大坂出勤帳五〇番。

103懐宝節用集*
A天保一〇年四月より九月まで。
B『懐宝節用集』*、秋田屋彦助・敦賀屋為七(ともに売留書売買)。
C早引節用集、柏原屋与左衛門・木屋伊兵衛ら。
D柏原屋らが売留にした名古屋板『懐宝節用集』*を秋田屋・敦賀屋が売買したため。
F両人とも衆外(仲間追放)となるが、のち、復帰を許される。
G大坂出勤帳五一番、裁配帳四番。
H本件は、事例101で売留となった書籍を売買したことによる付随的なものだが、売留違反者の処分としても興味ぶかいものがあるので別に立てることとした。
 版権侵害書あるいはその疑いのある書について、版権所有者がまずとった手段は当該書の売買の一時停止(売留)である。本件はそれに他の仲間構成員が違反した場合の処遇が知られる例である。何らかのペナルティが課されるのは当然としても、仲間追放(衆外)というのは、なかなか厳しい処分ともみえる。もちろん、版権を侵害された板元にとっては実質的な損害をこうむるわけであり、それを見逃していては本屋仲間の設立・加入の意味がなくなってしまうので、衆外も妥当な措置だったのかもしれない。
 七月一九日、秋田屋・敦賀屋を衆外とすることに評議一決し、七月二一日、仲間構成員の証である株札を提出させ、京都仲間へも二名衆外の旨を知らせている(同日)。ところが、八月五日、柏原屋らは、二名の衆外免除の口上書を提出している。これは、秋田屋・    下(ママ 詫カ) 敦賀屋らが、「願人方へ度々心得違不重法之段相咤」たことによるものである。ただ何度も詫びただけでなく、なにがしかの権利譲渡や違約金のようなものを払ったのかどうか、詫び方の詳細までは知られないが、効を奏するだけのことはしたものと推測される。これをうけて九月五日には仲間復帰が許されている。
 右のような過程から、売留書売買による衆外の措置は、多分に形式的なもののようである。少なくとも、版権侵害を受けた側から衆 外免除の願いを出せば復帰を考慮されるようなものであったことが知られる。また、たとえ衆外のままでも、致命的な損害をこうむることはなかったらしい。このことについては次例を参照されたい。

104懐宝節用集
A天保一〇年七月より天保一二年四月まで。
B『懐宝節用集』*、菱屋治兵衛・夷子屋市右衛門(ともに京都。売留書売買)。
C早引節用集、柏原屋与左衛門ら。
D柏原屋らが売留にした名古屋板『懐宝節用集』を菱屋・夷子屋が売買したため。
F菱屋らに過料三貫文出させる。
G大坂出勤帳五一番、裁配帳四番、京都済帳。
H前事と同趣の件で、異なるのは京都の書肆による売買だったということだけである。
 京都仲間では、Fのように過料をださせることに決したが、大坂仲間の意向はこれとは異なっていた。裁配帳の記録には、過料による解決は不本意ながら特例として受け入れること、また、今後、同趣の件があっても過料にはよらないこと、さらに、この件を先例としないことなどを京都側に伝えている。このことから逆に大坂側の意向を推測すれば、金銭上での解決をしないのであるから、不文・成文をとわず、京都の仲間規約に照らして売留違反に対処すべきとの判断があったのであろう。具体的にいえば、事例103と同様に、衆外から板元への謝罪、そして衆外復帰という過程をとるのが妥当と考えていたものと思われる。このことは、衆外のとりあつかいをめぐって、京都側と大坂側とで何度か書翰がやりとりされていることからも、大きくはずれない推測であろう。
 さて、その衆外に対する問い合わせについて、大坂行司の大野木(秋田屋)は、個人の見解として、衆外のために「素人」となっても版権は残り、仲間構成員に依頼すれば支障なく開板できると返答している。この見解は、大坂の他の行司からも了承を得たものであった。したがって、衆外とはいっても、開板依頼に際してなにがしかの出費はあるのだろうが、実質的な権利や利益については致命的な損害を受けるものではなかったようである。

105書名不明の一本
A天保一〇年一二月より翌年五月まで。
B書名不明、甲州の書肆某。
C『■■早引節用集』、柏原屋与左衛門ら。
D重板。
E「重板」。
F板木回収。
G大坂出勤帳五一番。
H甲州での重板書が江戸で出回っていたため、江戸行司が板木を回収し、重板人から一筆とって済ませた。この費用を柏原屋・木屋が捻出したことまでは知られるが、重板人の氏名や重板書の書名・内容などの詳細は知られない。

106いろは節用集大成
A天保一一年六月。
B『いろは節用集大成』、柏原屋清右衛門。
C『和漢音釈書言字考節用集』か。村上勘兵衛(京都)。
D『いろは節用集大成』に類板のおそれがあるということか。
F添章(販売許可証)を京都仲間分はあとにし、江戸仲間分のみ、発行することにする。
G大坂出勤帳五一番。
Hこの件も事例101からの派生である。ただし、回収した類板書を販売もしくは再板するという、柏原屋らの新たな行為なので、別に立てた。
 この件の記録では、類板書『いろは節用集大成』の再販売・再板において、柏原屋が「十三門部分節用株式」への抵触を懸念していたことが知られる。そして、『いろは節用集大成』が『書言字考節用集』の改編本であることから、以前、柏原屋の念頭に『書言字考節用集』があったものと推測した(項末参照)。Cの記載もそれによる。ただし、単に、半切横本における一三門分類の節用集一般とみることも可能ではある。
 本件については拙稿「『合類節用集』『和漢音釈書言字考節用集』における版権問題」でも言及したので、こちらも参照されたい。
 これは近代語学会編『近代語研究』第一〇集(武蔵野書院)に掲載 されるが、刊行されるまで佐藤の運営するホームページ(http://w ww.gifu-u.ac.jp/satopy/syogen.htm )にて公開中である。

107大全早字引(いろは節用集大成)
A天保一二年八月。
B『大全早字引』(外題『いろは節用集大成』)、柏原屋清右衛門。
D本屋仲間行司、天満組惣年寄の薩摩屋仁兵衛より、『以呂波節用』と之部に「東照宮」とあることについて先例を尋ねられる。
F柏原屋より、『征翰偉略』『大全正字通』などに先例があること告げる。ただし、現本は修正されている。
G大坂出勤帳五二番。大坂開板御願書扣三〇。
H天保一一年五月、柏原屋らは、事例101で入手した『いろは節用集大成』の板木をもとに開版を願い出た。徳川家に属するものを軽々に扱うことはできなかった当時、神格化された徳川家康にかかわることがらが記されていたため、惣年寄から問い合わせがあったのである。記録からは、天保一三年正月になって東奉行所より認可がでたことが知られるが、その間にどのようなやりとりがあったのか、F以上の記述はえられない。
 そこで、現本を比較するに、もととなった尾張類板書『いろは節用集大成』では、たしかに〔と六・神ー〕(ト部六声神祇門。八五オ)に「東照宮〔野州日光山〕」とあるのが、柏原屋らの『大全早字引』の同じ箇所では「道陸神〔十一月〕」に置き換えられている。したがって、柏原屋らは問題の箇所を改めたことになる。
それにしても、半切横本とはいえ、五〇〇丁の本文を有する『大全早字引』から「東照宮」を探しあてたのだから、当局(この場合は惣年寄)の検閲も入念なものだったことが知られる。このことといい、改刻といい、幕府に対する意識と節用集の編集・開板との関わりが知られる件である。
 なお、本件のように徳川家とのかかわりで当局から下問があったものに、葵紋の記載が問題となった事例2126があった。

まとめ
 前稿までと同様に本期のまとめをおこなう。なお、各期の名称は、つぎのものを表す。これは単に順序をしめす便宜的なものであって、そのほかに意図はない。
  I 元禄〜元文 本『報告』四四巻一号にて言及  II 宝暦〜明和 本『報告』四四巻二号にて言及  III 安永〜寛政 本『報告』四五巻一号にて言及  IV 享和〜文化 本『報告』四五巻二号にて言及 本期の事例79〜107を左の「付録」以下九類に分けた。本期では、開版手続きや版権管理にまつわる事例が多くなったので、新たに「管理」の項を設けた。なお、前稿までと同様に、一つの事例が複数の項に分類されることがある。また、不明の項を少なくするため、ある程度の可能性があるものは、他の項にわりふっている。

        I II  III   IV 本期  該当事例
  付録    九 九  一   一  四  81858891
  本文    二 一  三   一  一  106
  検索法   一 七 二(四) 四  四  899299101
  判型    一 六  二   一  〇
  レイアウト 一 二  四   三  二  8493
  重板    〇 三  三   五  六  79809094101105
  禁忌    〇 一  一   一  四  838697107
  管理                八  83879596100102103104
  不明ほか  二 七  三   四  二  8298

 まず、直前のIV期との類似を見てみる。重板・検索法の項が比較的多いのが共通しよう。これらは、いずれも早引節用集にかかわるものなので、やはりIV期同様、早引節用集がどのような位置づけをとっていたかがうかがわれる結果となっている。
 眼を引くのは管理の項であろう。本期になってこのように多くの事例があることについては、いくつか考えられることはあるが、にわかに判断がつかない。
 一つには、記録の記載がより丁寧になっていることが考えられる。すなわち、管理の項のような事例については、以前なら明記されなかったようなものが、記録されるようになった可能性である。ちなみに、大坂出勤帳を資料に、期別の執筆量と一年における平均執筆率をくらべてみよう。なお、出勤帳は明和元年から作成されるので、I期の全部とII期の前半部は対象とならない。単位は大坂府立中之島図書館の翻刻によるページ数とした。
+−−−−−+−−−−−+−−−−−+−−−−−+−−−−−+
|     | II 期 | III 期 | IV 期 | 本 期 |
+−−−−−+−−−−−+−−−−−+−−−−−+−−−−−+
| 執筆総量| 七四 頁| 五一六 | 六四七 |一〇〇五 |
+−−−−−+−−−−−+−−−−−+−−−−−+−−−−−+
| 期間年数|  八 年|  二九 |  一七 |  二六 |
+−−−−−+−−−−−+−−−−−+−−−−−+−−−−−+
|年間執筆率| 九・三頁| 一七・八| 三八・一| 三八・七|
+−−−−−+−−−−−+−−−−−+−−−−−+−−−−−+
 この表によるかぎり、漸増の傾向はあきらかに認められるのだが、IV期と本期はほとんど変わっていない。したがって、かならずしも、
記録密度の増加にともなって管理的な事例の記載が増えたとは言えないことになる。
 となると、管理の項に属するような事例の記載が強化されるような内的・質的な変化があったことを考えておく必要がある。そのような
点で注目されるのは、IV期に属する文化八年四月のことであるが、本屋仲間が奉行所に対して、役威向上のため、奉行所の御椽側への出頭許可を申請し、許可されたこと(大阪府立中之島図書館『大坂本屋仲間記録』第一〇巻「後記」)が関係するかもしれない。このような地位向上を行った背景には、仲間構成員の増加にともなう統制力の減退があったようである。願書の一節を引いておく。


 近年本屋仲間多人数ニ相成、右之内ニは如何之書本取扱候者出来仕、多人数之義年行司共相制し候得共、其内ニは不行届不埒之書本差出し候者在之、御吟味ニ相成奉恐入候、制し方不行届之義は、年行司共身柄軽く候故、取調軽く相成、下々之不弁者共用兼、我侭之利欲ニ迷ひ、不埒之書本差出し候様相成候儀二而、往古廿四軒之仲間拾ケ年程已前迄は百軒余ニ相成、当時は凡四百軒斗御座候故、多人数ニ而諸事取扱之義行届兼候儀ニ付、色々考弁仕候処、全年行司共身柄軽キ故之儀ニ御座候間、以来年行司之者御役所江罷出候節、御椽側江罷出候儀御赦免被為成下候様奉願上候(『大坂本屋仲間記録』第一〇巻「御椽側一件」)


 そしておそらくはこれと軌を一にしたものと思われるのが、「行司当役帳」「帳合仕法書」という行司役マニュアルの作成である。それぞれ文化八年五月と同年一一月である。
 管理に属する事例が本期に登場しはじめた背景には、右のような一連の行司役威向上策がIV期の末近くに行われたことを考える必要があろう。すなわち、その実効が本期において現れはじめ、その結果の一つとして管理の事例の増加が認められたということである。