近世節用集版権問題通覧
−享和・文化間−
*OASYS30-AX301 で作成した文書をDOS テキストに改めた関係で、若干の変更があります。
はじめに
本稿は、前稿(本誌前号)に引き続き、享和・文化間(一八〇一〜一八一七年)における節用集の版権問題を通覧するものである。その趣旨・方針は前稿までと同じである。
先期は、寛政の改革など幕府の意向が強くうちだされた時期であった。同趣の混乱は、のちの天保の改革によっても引き起こされるが、本期は、そのはざまの時期にあたっており、当局の強制などが一応は行われていない時期である。つまり、書肆による出版活動が江戸時代の本来の出版制度にもとづきつつ、正常に行われた時期なのである。
そのような時期にあって、どのような版権が侵されやすかったが如実に知られるはずであり、興味深い時期といえる。
用語について。本「近世節用集版権問題通覧」において「現本」なる語を用いてきたが、何の定義もしなかったのは佐藤の失態といわざるをえない。が、今後も用いるつもりの用語であり、ここで説明しておきたい。また、そのことで、本「通覧」において現存する節用集と記録類との関係や、佐藤のスタンスを明確にすることにもなるかと思う。
本「通覧」は、本屋仲間記録などの古文書類を主資料として、節用集をめぐる版権問題を浮き彫りにし、ひいては近世節用集の国語資料としての位置づけをきわめる資料とするという目的がある。その際、可能なかぎり、古文書類に現れた書名や体裁などをてがかりに、現存する諸本を比定・対照し、より確実で豊かな検討結果を得ようとするところに特色を求めてきた。が、比定されるべき本それ自体をさす適当な用語がないようなのである。
まず、「原本」を用いることが考えられるが、それでは影印や翻刻の底本とか、「原形本」などと交錯するおそれがある。そのうえ、「原本」には、なんらかの特徴を有する固有の一本にかぎるというニュアンスがともなう。しかし、本稿で扱う近世節用集は板行されたものであって、多数の複製本が存在する。そのようなものに対して、右のようなニュアンスをもつ「原本」を用いづらいということもあった。
もちろん、現実的には、板行の過程における濁点の欠落や事故的な欠画や摺りの善し悪し、さらに現存の過程における保存の状態などまで考慮すれば無限の異なりがあるわけで、厳密な意味での同一本ないし複製本はあり得ないことになる。が、ここで用いたい語はそのようなバリアントまで配慮したものではない。当時の書肆たちが同一本と認識しうる範囲のものである。それを、語弊を承知で具体的にいえば、同一の板木から摺りだされた本のすべてということになる。場合によっては、磨滅した部分だけを彫りなおしたものが含まれていても、内容や形式・体裁のうえで同じで、刊記も同じと見なせるのなら、同一本と認識することもあるものである。そのような存在の総体に対して「現本」という用語を使うことにした。もちろん、佐藤の実見したものという現実的な問題もあるので、「現本」という用語は、右のような総体のうち、佐藤の実見できたものということになる。
なお、「当該書・該書」などの用語を用いることも考えられる。実際、過去には使ったことがあるが、文脈によっては本屋仲間記録中の「その本」を表すにすぎず、現存諸本(中の一本)を表すには向かないと考え、使用を控えることとした。
版権問題諸例
前稿でも記したが、念のため、凡例的なことがらを略記しておく。
各事例には前稿からの通し番号を付し、事例名は、問題となった本
の名をもってした。その際、アステリスクを付したものは、記録にあ
る書名をとったもので、現本への比定が必ずしも成功しなかったもの
である。
各事例を次の八項目に分けて記した。
A期間 原則として、記録上の日付の上限と下限を記す。
B問題書とその刊行者
C被害書・被害者
D問題点 版権に抵触した要点を記す。
E様態 問題のありよう。記載どおりに記すのを原則とする。
F結果 侵害書および侵害者の処分・処遇を記す。
G主資料
H考察・備考
なお、おもに参照したのは次のような資料である。
京都関係
上組諸証文標目(「京都証文」と略記)
上組済帳標目(「京都済帳」と略記)
ともに、宗政五十緒・朝倉治彦編『京都書林仲間記録』★★★・★
★★★★(ゆまに書房 一九七七)により、弥吉光長『未刊史料によ
る日本出版文化』第一・七巻(ゆまに書房 一九八八・一九九二)を
参照。
江戸関係
割印帳(「江戸割印帳」と表記)
『江戸本屋出版記録』上中下(ゆまに書房 一九八〇〜二)により
、朝倉治彦・大和博幸編『享保以後 江戸出版書目新訂版』(臨川書
店 一九九三)を参照。
大坂関係
出勤帳(「大坂出勤帳」と表記)
差定帳(「大坂差定帳」と表記)
鑑定録(「大坂鑑定録」と表記)
裁配帳(「大坂裁配帳」と表記)
備忘録(「大坂備忘録」と表記)
大阪府立中之島図書館編『大坂本屋仲間記録』第一・八・
九・一〇巻(清文堂 一九七五・一九八一〜三)による。
63都会節用百家通
A享和元(寛政一三。一八〇一)年四月。
B『都会節用百家通』、吉文字屋市左衛門・和泉屋卯兵衛・塩屋平助
(大坂)。
C『倭節用集悉改嚢』、今井喜兵衛・額田正三郎・勝村次右衛門・小
川五兵衛(京都)。
D差構。本文で、行を割って見出しを配したことと、付録の類似。
E「差構」。
F『都会節用』側は『森羅節用』(『森羅万象要字海』か)を割行の
根拠としたが、いれられなかった。製本済みの『都会節用』七〇部
を京都方におくることで落着。
G大坂出勤帳一七番、大坂裁配帳二番、「開板御願書扣」(『大坂本
屋仲間記録』第一七巻)、京都済帳。
H七〇部を提供したのは、『倭節用』の書肆たちがそれを販売するこ
とで利益をあげてもらおうとの意図があるのだろう。再板時の制約
については、架蔵の文政二年本・天保七年本を見るかぎり、改めら
れてはいない。
付録に関して、『都会節用』は、はじめ寛政八年一〇月に開板を
願い出、翌月に免許された。が、その折りには開板せず、付録の武
鑑を彫り改めて寛政一二年一一月に再度願い出るという曲折があっ
た。『倭節用』の付録との類似は、それでも避けられないものだっ
たことになる。
この件は、例外的に早く収束したものと評しうるものである。大
坂出勤帳によるかぎり、四月二三日に本件のための別寄合を開いた
のがもっとも早い記事である。ついで二四日・二五日と寄合をもち
、二六日の寄合では内済にこぎつけるのである。これは、一応は、
京都と大坂という、地理的に近い本屋仲間間でのやりとりのため、
情報のやりとりがスムースに行われたためかと思われる。ただ、か
つていくつかの版権問題で当事者になってきた吉文字屋が『都会節
用』の板元であることを思えば、解決の速やさの背景に何事かが隠
されているようにも思われる。
いまだ試験調査の段階であって、詳細は別稿にゆずるほかないが
、『都会節用』には、二つの点で、先行書に抵触しかねない面があ
る。一つは先行書との収載語の一致である。『都会節用』の各部収
載語と先行諸本の収載語を対照してみると、おおむねは吉文字屋の
『大成正字通』などと一致する。この点は、同じ吉文字屋の開板書
となるので問題はない。しかし、言語門においては『和漢音釈書言
字考節用集』との一致が『大成正字通』との一致を大きく上回るの
である。したがって、本件が長引けば、『書言字考』の板元にもそ
の事実を知られかねないことになる。もう一つは『都会節用』の言
語門における収載語の配列が、仮名書き第二字の五十音横列順にな
るという特徴も認められる。もちろん、そのような旨の記述は一切
なく、本文中にも標目を掲出しているわけではない。が、発覚すれ
ば、宝暦末年以降、各種の仮名順引きへも版権の適用範囲を拡大し
た早引節用集に抵触することが考えられる。内容(本文の系統)と
検索法のうえからも、長いあいだ疑いの目でみられれば見破られる
可能性があったことになる。そのために、『倭節用』との件も早期
に収束させる必要があったと考えられるのである。さらに想像をた
くましくすれば、割行表示や付録の抵触について『倭節用』側と争
って潔白を示すよりも、むしろ、その疑いを甘んじて受けておくこ
とで、右に述べた内容や検索法への疑いの目を逸らせるという目的
もあったかもしれない。もちろん、これらの可能性が考えられるに
せよ、実際には、その種の版権問題が起こっていない以上、証左は
得られず、可能性として提示するしかない。
『都会節用』は、それまでの節用集とは規模・体裁のうえで異質
な点がある。当時の節用集の潮流は、検索法と判型に工夫を凝らし
たものを除けば、挿絵を中心にした日用・教養の付録に、一万数千
語ほどの本文を備えた、美濃判(現代のB5判に相当)のものであ
る。これらの体裁を『都会節用』もひきついでいるが、本文の収載
語数が三二〇〇〇語(推計)にもおよぶという規模のものである。
しかも、このようなコンセプトによる節用集は、その後、京都書肆
による『倭節用悉改嚢』(のちに『倭節用悉改大全』と改題)、大
坂書肆による『永代節用無尽蔵』、江戸書肆による『江戸大節用海
内蔵』の出現を招来し、一九世紀節用集の一大特色を形成するので
ある。また、『都会節用』の内容は、『大成正字通』や『書言字考
節用集』によるところが少なくないわけだが、相応に知的好奇心を
刺激することもあったようである。これについては、たとえば、佐
渡の在野の知識人で、のちに幕府の天文方に抜擢される柴田収蔵が
、『都会節用』を借用して連日書写にはげんだいう記録も存するの
である(田中圭一編『柴田収蔵日記』上下、新潟県佐渡郡小木町町
史刊行委員会、一九七一)。
ただし、本件、および本件に端を発した右の検討は、そうした新
規の節用集を何の問題もなく世に送りだすことが、いかに困難であ
るかを示すものといえよう。いずれ、これらの点を総合し別の機会
を捉えて、佐藤なりの『都会節用百家通』の位置づけを試みたい。
64不明の一本
A享和二年一〜五月。
B不明。
C早引節用集、柏原屋与左衛門、本屋武次郎(大坂)。
D類板のようである。
E「類書」。
F不明。
G京都済帳。京都証文。
H京都済帳に「早引節用 類書出版催候義ニ付、大坂行事より来状並
返書」とあるが、この時期の大坂方の記録には対応する記事を確認
できず、詳細は不明とするほかない。
ただ、「出版催」という文言からは、早引節用集に類似した節用
集の出版が計画された時点で、いち早く大坂方がその情報を得たと
読める。そのような点と書名などから推測すれば、『新板引方早字
節用集』(事例65)と『長半仮名引節用集』(事例66)が挙がろう
。ただし、『新板引方早字節用集』では書名以外は早引節用集に抵
触する点が考えられないので、『長半仮名引節用集』のことかと推
測される。が、いま、念のため、別に立てておくこととした。
65新板引方早字節用集
A享和三年一二月二〇日より文化元(一八一四)年一一月まで。
B『新板引方早字節用集』、銭屋長兵衛(京都)。なお、米谷氏所蔵
本の刊記には、他に「浪華 心斎橋 勝尾屋六兵衛/東都 日本橋
須原屋茂兵衛/尾張 名古屋 永楽屋東四郎」の名が見える。
C書名不詳、あるいは『万徳節用集』などか。吉文字屋市左衛門(大
坂)。H参照。
D不明。あるいは意義分類を和らげた点にあるか。H参照。
E「差構」。
F不明。
G大坂出勤帳二〇番・二一番、京都済帳。
H吉文字屋と銭屋の口上書が数度往復したことが知られるばかりであ
る。
『新板引方早字節用集』は従来型の節用集と同様にイロハ・意義
分類で検索するものである。新味といえば、「乾坤・時候」などの
漢語の門名をとらず、「てんち・山川・あめ・かぜ・ゆき・しも・
みや・いゑ・めいしやうの文字」と和らげた点にある。これは、早
く吉文字屋の『万徳節用集』などで「官位・人倫」を合したものを
「人のるい」としたり、「気形」を「いきもの」、「言辞」を「こ
とば」と和らげた例がある。吉文字屋は、このような点が版権に抵
触すると考えたのではないかと想像される。
右のような和らげをひきついだものに『早字節用集』(柱題)が
ある。架蔵書の刊記には
文政五年/壬午正月求板
同十二年/己丑正月再板
名古屋本町通七丁目/永楽屋東四郎
同 十一丁目/萬屋東平
同 十二丁目/勝村屋東助
と永楽屋が重なることもあって、事実上の後継書と目される。ただ
、亀田文庫本の刊記では次のように三都の書肆が加わっている。
京都 銭屋長兵衛
同 河南儀兵衛
大坂 柏原屋清右衛門
同 敦賀屋九兵衛
江戸 西村与八
同 鶴屋喜右衛門
同 須原屋茂兵衛
同 岡田屋嘉七
同 前川六左衛門
尾張 永楽屋東四郎
この背景には版権問題があったことが想像されるが、記録には記
されていないようである。
66長半仮名引節用集
A文化元年七月から文化二年三月まで。
B『長半仮名引節用集』、播磨屋五兵衛(大坂)・銭屋長兵衛(京都
)。
C『早引節用集』、柏原屋与左衛門・本屋武次郎(大坂)。
D類板。仮名数の偶数奇数の別で配し、さらに仮名数の順に語を並べ
たことによる。
E「重板同様之類板」。H参照。
F同年同月付けの証文が二組存する。「一札之事/返り一札之事」と
称する一対は、板木の六割を柏原屋らが支配する相合であって、再
刻時にはその割合の変更もありうる「板木一代限」のものである。
また、「別紙一札之事/別紙返り一札之事」と称する一対は、五割
ずつの相合とするもので、「挨拶本弐百部」が柏原屋らに渡された
ことになっている。また、再刻の場合は、やはりこの割合に限らず
、柏原屋らの方に主導権があるが、最低でも、播磨屋に五分の支配
を認めるくだりが付加する。
裁配帳二番には、後者があとに記されるので、それが最終的な合
意点だったように見えるが、「別紙」と但し書きのあることが気に
なる。この点、「偶奇仮名引節用集御公訴一件仮記録」では、柏原
屋が六割を支配することで調印がなされるところで終わり、その過
程で五割ずつの案は徹底して拒否していることが知られる。
なお、播磨屋は大坂仲間を集外(衆外。追放)されることになる
が、親戚をたてて詫びを入れ、まぬかれたようである。
G偶奇仮名引節用集御公訴一件仮記録(大阪府立中之島図書館編『大
坂本屋仲間記録』第十巻 清文堂 一九八三)、大坂裁配帳二番、
大坂出勤帳二〇番・二一番。
Hこの件には、日記風に記された「偶奇仮名引節用集御公訴一件仮記
録」という詳細な記録が存する。裁配帳にも相応の記録があるが、
重要な版権問題については、このように個別に書類を編んだものの
ようである。また、本件の詳細については拙稿「近世節用集の類板
その形態と紛議結果」(『岐阜大学国語国文学』第二一号
一九九三)にゆずる。
「重板同様之類板」の意味は、本件の場合、本文の剽窃ととって
よい。『長半仮名引節用集』は仮名数の偶数奇数分けという改編を
ほどこす点では類板だが、本文をほぼそのまま流用した点では「重
板同様」ということができるからである。
なお、この件に播磨屋五兵衛が関係したのは、銭屋長兵衛から板
木の一部を購入したことにはじまる(文化元年六月)。したがって
、もともとの首謀者は銭屋であるともいえる。前事例とともに、こ
の時期の、節用集をめぐる銭屋の動きが注目されよう。
67仮名字引大成*
A文化二年一〇月より一二月まで。
B『仮名字引大成』、北沢吉太郎(江戸)。
C『大全早引節用集』か、柏原屋与左衛門・本屋武次郎。
D差構。
E「差構」。
F柏原屋が江戸におもむき、出雲寺伊兵衛の仲介により、板木のすべ
てを江戸仲間行司立会いのもと削り捨て、摺り上がり本五〇冊のう
ち売り先不明の四五冊をのぞいた五冊を水腐とし、絶板とした。な
お、北沢は、素人(江戸本屋仲間の非構成員)であった。
G大坂鑑定録、出勤帳二一番。
H記録は簡略であり、『仮名字引大成』の現存本もなく、詳細は不明
である。ただ、体裁については「大紙三ツ切横本 全一冊」とある
。
組織・内容については「早引節用集同様之書」(鑑定録)とあっ
て、まず、早引節用集の諸本が考えられることになる。また、早引
節用集の版権の範囲は拡大しているので、イロハ二重引きなどの仮
名引きである可能性も考えられる。
このように、版権問題においてもっとも軽微な「差構」という名
に似合わず、Fのように徹底した処分を採ったのが興味深い。おそ
らくは、北沢が本屋仲間に加盟していない素人だったため、厳しく
対処したということかと思われる。
が、それはそれとしても、どのような場合にどの程度の処分を行
ったかについては、個々の件の背景にある種々の条件を考慮する必
要があるため、類例の検討から帰納できない面がある。
ただ、それを承知で佐藤の印象を述べれば、抵触した本の板木を
買収するか、それとも絶板という徹底した処分におよぶかは、その
板木がどのような利益をもたらすかに判断基準があるように思われ
る。たとえば、のちの事例77では、抵触書の板木もしくは出来本を
回収し、改めて自己の蔵板書として再板・販売した例であって、そ
れが可能な条件を整えている板木ならば回収におよんだことが考え
られるのである。また、先々期事例31でイロハ二重引きの『早字二
重鑑』を絶板にしたのは、別のイロハ二重引きの『安見節用集』を
買収したため、用のないものと判断したとも考えられるのである。
そのような必要性なり有用性なりの有無が処分の程度を判断する
可能性が高いとの前提に立って、考えうる条件をさぐりつつ個々の
件を検討するという必要はあるようにも思う。
68■■字引大全
A文化三年八月より一〇月まで。
B『字引大全』、伏見屋(植村)藤右衛門・丁子屋(小林カ)庄兵衛
(京都)ほか。なお、亀田文庫蔵本の刊記には、ほかに「村上勘兵
衛・長村半兵衛・風月荘左衛門・中川藤四郎・林伊兵衛・武村甚兵
衛」の名がある。
C書名不明。あるいは『蠡海節用集』『字典節用集』か。H参照。吉
文字屋市左衛門。
D詳細不明。あるいは各部を言語門からはじめることか。
E詳細不明。
F詳細不明。
G大坂出勤帳二二番、京都済帳。
H記録からは、口上書のやりとりが知られるだけで、版権への抵触事
項などは知られない。『字引大全』は各部を言語門からはじめるが
、それはすでに吉文字屋の『蠡海節用集』『字典節用集』などで採
るものであった。それを版権への抵触とみたものかと想像される。
69■■字引大全
A文化三年一〇月。
B『字引大全』、伏見屋藤右衛門・丁子屋庄兵衛ほか。
C『■■早引節用集』『大全早引節用集』、柏原屋与左衛門ほか。
D明確なことは知られないが、美濃半切横本における真草二行表示が
考えられる。H参照。
E「差構」。
F当事者同士の話し合いが付かず、両者とも京都行司に裁断方を一任
することとした。その後の扱いについて記した記録はないが『文化
九年改正板木総目録株帳』には京都方との相合の旨が記される。
G大坂裁配帳二番、大坂出勤帳二二番、京都済帳。
Hどのような点が早引節用集の版権に抵触したかは記されていない
。ただ、裁配帳二番の控えでは、いくつかある早引節用集のうち、
「早引節用真字付(『 早引節用集』の本屋仲間記録での通称)
并ニ早引大全(同じく『大全早引節用集』の通称)」と二種のみが
記されることから、手がかりが得られるように思う。
この二種の早引節用集に共通するのは、美濃半切横本で行草字の
左傍に真字を掲げることと、『 早引節用集』の本文と『大全早
引節用集』の「増字」と標出しない本文の系統が同系統であること
である。このいずれかが、本件での争点だと思われる。
このうち、本文の系統にかかわる点、たとえば『字引大全』が本
文を剽窃した可能性だが、現本を比較しても確かな類似点をみつけ
ることができなかった。そこで、美濃半切横本における真草二体表
示が問題となったのかもしれない。ただ、これについては、『懐宝
節用集綱目大全』のように一回り小振りの半紙半切本で真草二体を
とったものが京都で開版されている。わずかな判型の違いで、真草
二行体の版権を主張しえたかどうかが疑問となるのである。ただ、
先々期事例15で、『懐宝節用集綱目大全』の板元・出雲寺和泉掾は
わずかな判型の異なりについてかなりデリケートな反応を見せてい
る。したがって、本件でも、美濃半切横本の真草二行体という点で
版権に抵触した可能性は捨て去れないことになる。
そこで本件の結末をみれば、当事者双方の話し合いがつかず、京
都行司に一任するという、あまり例のないものとなった。そのよう
な結末になったのは、あまりに些細な問題で早引節用集の側が『字
引大全』の側に難題をつきつけてきたためではなかろうか。したが
って、『字引大全』の側も引き下がらなかったことが考えられそう
である。
70■■字引大全
A文化四年一月から五月までのうち。
B『字引大全』、伏見屋(植村)藤右衛門・丁子屋(小林カ)庄兵衛
(京都)ほか。
C『倭節用集悉改嚢』、額田正三郎(京都)ら。
D割行による見出し表示かと思われる。H参照。
E「差構」。
F不明。
G京都済帳。
H京都済帳に「字引大全へ倭節用より差構在之ニ付、出入ニ相成別会
被催取捌候事」とあるばかりで、詳細は知られない。事例63でも見
たように、『倭節用』の板元は、見出しの割行表示に神経をとがら
せているので、一部にそうした表示法を用いた『字引大全』が抵触
するとしたものと思われる。
71■■早引節用集
A文化七年二月より文化一〇年一月まで。
B『■■早引節用集』、桜井屋卯兵衛(大坂)・玉屋祐蔵(京都)。
C『■■早引節用集』、柏原屋与左衛門・河内屋太助(大坂)。
D『■■早引節用集』を重板したことによる。ただし、架蔵本によれ
ば、まったくのかぶせ彫りではなく、出入りがある。H参照。
E「重板」。
F京都東町奉行に出訴。玉屋は看板取り上げ・手錠、桜井屋は所持本
と売上金の没収。
G大坂差定帳四番、出勤帳二四〜二七番、京都済帳。
H本件は、諸国物産の売買免許(御朱印)をもっていた甲斐の商人・
朝比奈荻右衛門が、早引節用集の重板を玉屋に依頼したことに発す
る。この依頼は、御朱印を一種の治外法権と解してのことであろう
。玉屋は屋仲間にも届けずに開板し、桜井屋への借金の返済に重板
本をあてたりもした。これも、御朱印を楯にとってのことであろう
。
この件で、朝比奈は玉屋らに浄瑠璃正本の抜粋と『道中独案内』
の開板も依頼しており、これらの版権侵害が重なってFのような結
果となったのであろう。ただ、京都町奉行はなかなか処断しようと
しなかった。柏原屋らが重板・類板の定義などの初歩から、先例ま
でひいて熱心に説得して処断におよんだのである。また、幕府にと
って、本屋仲間の存在意義が思想統制や風紀糜爛の防止にあり、甲
斐国の商人に下された御朱印が武田氏以来の風を襲ったものにすぎ
ず、次元が異なると判断したこともあわせ考えるべきだろう。ただ
し、荻右衛門が処断されたかどうかは記録からは知られない。
荻右衛門がどの程度出版業に手を染めようとしたのかは明らかで
はないが、右の三書をまず手掛けたことは、当時の書物の需要をう
かがわせる面があるように思われ、興味ぶかい。つまり、売れそう
にない本の開板を依頼するとは考えにくく、逆に依頼した三書は相
応に売れ行きが保証されたものだったと考えられるのである。
なお、重板の底本について。『■■早引節用集』諸板は、おおむ
ね同一内容であるが、行ごとの収載語の配置などをみればいくつか
のグループに分けられる。そのうち、『■■早引節用集』の底本と
目されるのは『■■早引節用集』文化元年本である(拙稿「早引節
用集の系統について A類諸本間における」(『日本近代語
研究』2 一九九六))。ほかに同内容と見られるものに寛政一一
年・文化六年本があり、この三本のうち一本が底本であろう。それ
らと比較するに、少数ながら収載語や左傍訓などに出入りが認めら
れる。
72■■早引大節用集
A文化七年六月から七月まで。
B『■■早引大節用集』、菱屋利兵衛(名古屋)。なお、H参照。
C早引節用集、柏原屋与左衛門ら。
D体裁・規模は『■■早引節用集』に似るが、内容上は『大全早引節
用集』の抄録本である。記録からは詳細が知られない。
E「重板」。
F板木は回収された。
G大坂裁配帳五番、大坂出勤帳二四番、京都済帳。
HGの各記載とも簡略で詳細が不明な点がある。同じく、菱屋がどの
ような役割を演じていたかは、かならずしも明らかではない。が、
少なくとも菱屋が売買していたことは記録から知られる。
現存する『■■早引大節用集』は「文化六已巳年初春/尾陽乾山
之臣/柴田高峙蔵板」とあるもので、本稿でもこれによっている。
ただし、同書は、刊記もそのままに安政六(一八五九)年に開板さ
れ、版権問題を引き起こしている。したがって、本件でもちいた架
蔵本が、文化時のものか安政時のものか、判然としない。
73増補早見節用*
A文化八年八月より一一月まで。
D吉文字屋市兵衛と柏原屋与左衛門とが、『■語節用』*を『増補早
見節用』*と書名を変更して相合・開板する予定だったが、柏原屋
がそれを知らず、「御差構」にあたるとして書名の変更を認めなか
った。
F書名の変更は奉行所から認められることになった。
G大坂出勤帳二六番、差定帳四番。
HDに示すように他の版権問題とは事情を異にする件である。
『■語節用』は京都で開板免許を受けたとあるから、先々期事例25
において問題となった節用集であろう。それを吉文字屋らが買収し
、書名を変更して開板することになったのであろう。
「御差構」とあることから推測すれば、柏原屋は、みだりな書名
変更が奉行所の手を煩わせることを慮って反対したものと思われる
。ただ、最終的には別の『急要節用集』という名に落ちついたこと
からすれば、『増補早見節用』が「早引節用集」と紛らわしい名で
あるため、奉行所側に余計な負担をかけさせまいとする、後顧の憂
いをさきどりした配慮だったとも考えられる。
74不明の一本
A文化八年一二月。
B不明、会津における開板。
C『■■早引節用集』、柏原屋与左衛門●・万屋安兵衛●・河内屋太
助。
D重板と知られるだけで、詳細は不明。
E「重板」。
F不明。
G大坂出勤帳二七番。
H記録はわずかで、現本にも比定できないので詳細は不明である。
会津は、一七世紀からの会津暦の伝統や藩校・日新館の蔵板書な
どがあって、出版文化のある土地柄である。したがって、早引節用
集が重板されるのも時間の問題だったのかも知れない。
なお、他に会津板の節用集としては林良材校正・田中御蔭校合『
■■早字引大成』(秦森之、文政五年板。架蔵)があり、これは『
■■早引節用集』を少しく改編したものであった。
75■俗字早指南・■節用早指南Y Z
A文化九年八月。
B『俗字早指南』・『節用早指南』、鶴屋金助・英平吉・竹川藤兵衛
(江戸)。
C書名不明。あるいは『大節用文字宝鑑』(宝暦六〈一七五六〉年刊
)か、吉文字屋市右衛門。H参照。
D詳細不明だが、現本によるかぎり、意義分類・イロハ分け(言語門
のみ)の検索法が抵触したか。H参照。
E「差構」。
F売留を申し出た以外は不明。Y●●●株帳●●●Z
G大坂出勤帳二七番、京都済帳。
Hわずかな記録しかなく、詳細は不明。右の記述は、東北大学附属図
書館蔵の『■俗字早指南』(扉題は「俗字節用早指南」)に依拠し
たところが少なくない。この『俗字早指南』は、難語を集成したも
ので、意義分類をさきに、イロハ引きをあとにまわしたものである
。したがって、このような検索法が、たとえば吉文字屋の『大節用
文字宝鑑』のような意義分類・いろは引きの版権に抵触したことが
考えられる。
なお、『■節用早指南』は、山田忠雄『■節用集■目録』による
かぎり、イロハ・意義分類の通常の検索法だが、『■俗字早指南』
を合冊するという。右のような版権の抵触のおそれがある『俗字早
指南』を合冊したために、『節用早指南』までこの件に関係するこ
とになったものかと思われるが、未見の書のため、他の可能性があ
るのかもしれない。
76手引節用*
A文化一一年五月から九月までのうちに終了。
B『手引節用』*、書肆不明。H参照。
C書名不明、書肆不明。H参照。
D不明。
E不明。
F示談が成立し、京都仲間に預けられていた板木二枚がもどされた。
G京都済帳。
H京都済帳に「一 手引節用 対談相済候ニ付、出雲寺・植村より口
上書出候。依之先年仲間へ預り置候板木弐枚差戻し候」とあるばか
りで、詳細は不明である。あるいは、二名がそれぞれに示談の口上
書を提出したとも読めるので、京都内の出雲寺と植村とのあいだに
起こった版権問題であろうか。
なお、大坂出勤帳二九番に「象牙屋次郎兵衛・河内屋嘉助より、
手引節用集買板出銀持参、預り置」(文化一二年三月二〇日)とあ
るが、本件と何らかのかかわりがあろうか。象牙屋らが何らかの点
で版権に抵触した『手引節用』を買収したとも考えられるが、「買
板出銀」という用語は、正規の版権のそなわった板木を購入すると
きに使うことが普通であって、直接、本件と関わる可能性は少ない
ように思われる。
77■■早引節用集(救世堂板)
A文化一二年二月から五月までか。
B『■■早引節用集』、江戸での重板と知られるだけで詳細は不明。
C『■■早引節用集』、柏原屋与左衛門・河内屋太助
D重板だが、従来『■■早引節用集』は一面の行詰めが五行だった
が、救世堂板では六行に改めている。
E「重板」。
F売留を依頼した以外は不明。出来本・板木を回収したか。H参照。
G大坂出勤帳二九番、京都済帳。
H江戸仲間あるいは江戸での早引節用集の売広めをうけおった西村源
六との書状の往来で、いくつかの齟齬があったらしいことはうかが
われるが、具体的な内容は知られない。
柏原屋らは「文化十二年乙亥三月吉日」付けの六行本を刊行する
。これは、匡郭の切れの一致など同板の確証は得られないが、救世
堂板と字配りが同一である。したがって、本件の救世堂板の出来本
を回収して刊記などの体裁を改めたとか、あるいは、板木を回収し
て再板した可能性があることになる。
なお、蛇足ながら、柏原屋らは、この件の直前、文化一一年五月
に再板を願い出、七月に免許、八月には刊行している。が、これは
五行本であって、本件とはかかわりのないものである。
78早引節用集大全*
A文化一三年一〇月中に解決か。
B『早引節用集大全』*、江戸での重板と知られるばかりで詳細は不
明。
C早引節用集、柏原屋与左衛門・河内屋太助。
D
E「重板」。
F板木回収か。
G大坂出勤帳三一番。
H簡略な記載しかなく、詳細は不明である。
江戸で内済にこぎつけた件だが、江戸仲間行司から大坂行司に届
いた書状は、柏原屋らが承知していたものと大きく相違していたと
いう。そのことにつき、江戸行司へ返書がなされたが、それ以降の
消息は記録類からは知られない。
まとめ
前稿までの例によってまとめをおこなう。なお、一連の「近世節用
集版権問題通覧」のうち、最初のもの(本『報告』四四巻一号所収)
から第一期・第二期と次第した。これは単に順序をしめす便宜的なも
のであって、そのほかの意図があっての命名ではない。
第一期 第二期 第三期 本 期 該当事例
付録 九 九 一 一 63
本文 二 一 三 一 66
検索法 一 七 二(四) 四 66676875
判型 一 六 二 一 69
レイアウト 一 二 四 三 636970
重板 〇 三 三 五 7172747778
禁忌 〇 一 一 一 73
不明ほか 二 七 三 四 64657376
付録や判型による版権抵触の例が少ないのは第三期と同様である。
本期の特色としては検索法や重板が目立つということになるが、重板
の例はすべて早引節用集の例であって、検索法に含みうるものである
。とすれば、検索法の例が九例となって突出することになる。この時
期においては、早引節用集の版権問題が中心をなすようになるという
ことのようである。また、特に、重板というもっとも安易な版権侵害
が早引節用集にだけ起こるというのも興味深い。この時期にあっては
、重板する価値のある節用集とは早引節用集であったことになるから
である。もちろん、重板する価値とは、需要が多く、利益を生みやす
いということである。いずれも早引節用集の流布の一端をものがたる
事象と捉えられよう。
ひるがえって、類板という侵害が蔭をひそめたのも注目される。事
例66『長半仮名引節用集』がかろうじて類板と称しうるものだが、こ
れは「重板同様之類板」とあったように、早引節用集の改編にとどま
るものであった。宝暦〜天明期に見られたような新規の検索法を案出
したために、早引節用集の板元が「類板呼ばわり」をするといったた
ぐいの類板は見当たらないのである。すでに、本期にあっては、その
ような類板が起きる余地がないほどに、早引節用集の版権の拡大解釈
が行きわたってしまったことかと思われる。
一方では、重板の方法も、手の込んだものになる傾向があった。た
とえば、事例71『■■早引節用集』では、御朱印を所持する商人がか
かわった点にそのような特徴が見られる。また、同じようなことは、
『長半仮名引節用集』の場合にも認められるように思う。ただ、その
次元は異なる。そこでは、編集という次元において、『大全早引節用
集』の改編を、イロハ・偶数奇数引きというよそおいのもとに行った
ともみられるからである。
さて、右のような様相を見せる版権侵害書であるが、それぞれの特
徴に注目するとき、また新たな研究の視点が得られるように思う。
まず、本期での重板書の特徴を摘記してみる。事例66『長半仮名引
節用集』では各字のかたわらに意義分類表示が添えられている。事例
72『■■早引大節用集』では『大全早引節用集』の抄録ながら体裁を
『■■早引節用集』なみにとどめられた。事例71『■■早引節用集』
では若干の収載語を差し替え、仮名遣いも改めた部分がある。事例77
『■■早引節用集』(救世堂板)では『■■早引節用集』が一面五行
であったのを、六行に改めている。
これらはいずれも、従来の早引節用集にはなかった特徴を加えたり
、従来のままではあきたらない点に手を加えたものとみることができ
ないだろうか。つまり、これらの重板書にあってもそれなりの進歩の
跡が認められそうだということである。そしてそれは、早引節用集に
対する批判と捉えるべき点があるものと思われる。
つまり、筆者は、早引節用集を、従来おこなわれていたイロハ・意
義分類引き節用集に対するアンチ・テーゼとして位置づけうるものと
考えているが(拙稿「早引節用集の位置づけをめぐる諸問題」〈『岐
阜大学国語国文学』二二 一九九四〉)、そのような役を、早引節用
集に対してはその版権を侵害する書が引き受ける面があるのではない
かということである。
その点において、版権侵害書といえども看過すべきでなく、相応の
研究対象として正当な位置づけをおこなう必要があるということであ
る。そして、その周辺を追究することによって、辞書史の記述的研究
を豊かにする可能性があると考えたいのである。
『岐阜大学教育学部研究報告(人文科学)』45−2(1997)所収
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