近世節用集版権問題通覧
−安永・寛政間−
*OASYS30-AX301 で作成した文書をDOS テキストに改めた関係で、若干の変更があります。
はじめに
本稿は、前稿(本誌前号)に引き続き、安永・寛政間(一七七二〜一八〇〇年)における節用集の版権問題を通覧するものである。その趣旨・方針については前稿までと変わるところはない。
本期でも、先期と同様、大坂本屋仲間の記録が充実しており、多く援用することとなった。そのため、同じく大坂記録を援用した蒔田稲城『京阪書籍商史』(高尾書店〈一九二八〉。高尾彦四郎書店復刻〈一九六八〉)の扱う事例と重なる部分が少なくなく、本稿などは、屋上屋を架すのたぐいと言えなくはない。が、『京阪書籍商史』に参照された記録は、差定帳・裁配帳・鑑定録など、大坂本屋仲間記録のエッセンスというべきものに限られるようである。そのような蒔田の見解は、大阪府立中之島図書館の翻刻・影印によって出勤帳はじめすべての記録が容易に参照でき、諸先学の研究等もある現在では、修正する必要もでてきている。また、本研究では、近世節用集の関わったすべての版権問題を網羅・一覧しようとする。のちにみるように、網羅してはじめて考えるべき問題が浮かび上がることがある。また、本稿の特色は、記録だけによらず、可能なかぎり節用集現本と突き合わ せて該当事例を詳細に把握する点にある。あえて本研究をすすめるゆえんである。
なお、本期において『合類節用集』(延宝八年刊)の剽窃書『合類節用無尽海』の見本が大坂仲間一同に披露されるという記録があるが(出勤帳七番、天明三年一一月一三日)、これは単なる開板・再板時の通常の手続きであり、このほかに版権問題として記録されていないので記述しない。
版権問題諸例
前稿でも記したが、念のため、凡例的なことがらを略記しておく。 各事例には前稿からの通し番号を付し、事例名は、問題となった本の名をもってした。その際、アステリスクを付したものは、記録にある書名をとったもので、現本への比定が必ずしも成功しなかったものである。
各事例を次の八項目に分けて記した。
A期間 原則として、記録上の日付の上限と下限を記す。
B問題書とその刊行者
C被害書・被害者
D問題点 版権に抵触した要点を記す。
E様態 問題のありよう。記載どおりに記すのを原則とする。
F結果 侵害書および侵害者の処分・処遇を記す。
G主資料
H考察・備考 なお、おもに参照したのは次のような資料である。
京都関係 上組諸証文標目(「京都証文」と略記)・上組済帳標目(「京都済帳」と略記) ともに、宗政五十緒・朝倉治彦編『京都書林仲間記録』★★★・★★★★★(ゆまに書房 一九七七)により、弥吉光長『未刊史料による日本出版文化』第一・七巻(ゆまに書房 一九八八・一九九二)を参照。
江戸関係 割印帳(「江戸割印帳」と表記) 『江戸本屋出版記録』上中下(ゆまに書房 一九八〇〜二)により、朝倉治彦・大和博幸編『享保以後 江戸出版書目新訂版』(臨川書店 一九九三)を参照。
大坂関係 出勤帳(「大坂出勤帳」と表記) 差定帳(「大坂差定帳」と表記) 鑑定録(「大坂鑑定録」と表記) 裁配帳(「大坂裁配帳」と表記) 備忘録(「大坂備忘録」と表記) 大阪府立中之島図書館編『大坂本屋仲間記録』第一・八・九・一〇巻(清文堂 一九七五・一九八一〜三)による。
46近道指南節用集*
A安永三(一七七四)年三月二〇日から六月六日まで。
B『近道指南節用集』*、柳川屋庄兵衛(仙台)。
C『早引節用集』、柏原屋与左衛門・木屋伊兵衛(大坂)。
D重板。
E「重板」。
F早引節用集の江戸販売を担当した山崎金兵衛と大坂から派遣された代理人・柏原屋佐兵衛が、仙台藩留守居役に処分方を申し入れた。仙台にて板木を破棄して内済。
G大坂差定帳二番。
H先期でみた信州の事例44とともに、早引節用集開板後三〇年を経ないうちに地方でも重板が行われたことを示す。それだけに、早引節用集の需要を物語るものといえよう。また、江戸での売り広めをうけおったものが内済まで担当したことも信州の事例に共通する。
47新増早引節用集*
A安永四年五月九日から八月二八日まで。
B『新増早引節用集』*、丸屋源六・鱗形屋手代藤八(江戸)。
C『早引節用集』、柏原屋与左衛門・木屋伊兵衛。
D重板。
E「重板」。
F出訴するも、須原屋市兵衛の仲介により、板木七一枚・摺込本二八〇〇冊を差し出させて内済。
G大坂差定帳二番。
H出訴にかかわる板元と重板人のやりとりの経過がよく知られる事例である。なお、こののち、鱗形屋の関係者が再び重板する。事例49参照。また、佐藤「節用集の版権問題」(『月刊日本語論』一九九四−四)を参照。
柏原屋らに引き渡された摺上がり本は二八〇〇冊だったが、総数は、売り払った六〇〇冊を加えた三四〇〇冊だったという。おそらく、短期間に一気に彫りあげ印刷した、組織的な重板だったのであろう。それにしても、江戸では古株の鱗形屋をして重板せしめるほど、早引節用集は利益率の高いものだったということであろうか。
本件の『新増早引節用集』も現存本への比定ができていない。ただ、筆者は、内題を『新増早引節用集』とする三切薄様横本を蔵する。刊記には書林として「伏見京町五丁目/中西屋善右衛門」が記されるが、刊年はない。さて、本件の「重板」の語義を、いわゆるかぶせ彫りに限定するならば、判型が異なるので架蔵書は何ら関わりのないものとなる。
が、かぶせ彫りではないが明らかに早引節用集の本文を盗用したものと広義に解せば、何らかの関わりがあることも考えられる。もちろん、刊行書肆が京都なので、その点でも本件から離れるが、裏表紙見返しの刊記には、中西屋のほかにもう一軒か二軒の書肆名を刻しうる空白が存しており、もとは、複数の書肆が記されていたかと疑わせ、関わっていた書肆が京都以外にもあったことが考えられないではない。また、架蔵書は、序・凡例一丁、本文二七〇丁を要し、表見返しに丁付合文、裏見返しに十干十二支・刊記を配するので、総丁数二七三丁となる。一方、本件では七一枚の板木が柏原屋らに引き渡されたが、一枚につき四丁を彫ったとすれば二八四丁分の板木ということになり、架蔵書と相近い数字が得られる。このように、架蔵書が本件と結びつく可能性はないではないが、より一層の証左が必要であることは言うまでもない。
48万代節用字林蔵
A安永五(一七七六)年九月から。
B『万代節用字林蔵』、加賀屋卯兵衛(京都)ほか。
C『早引節用集』、柏原屋与左衛門・木屋伊兵衛。『千金要字節用大成』、吉文字屋市兵衛・堺屋清兵衛(大坂)。
D(類板)。
E類板書の体裁を改めての開板に関して。
G京都済帳。
H先期の事例37で、類板書『万代節用字林蔵』は、語を仮名順に並べないとの条件で開板が認められたが、柏原屋らは留板二枚をとり、河内屋茂兵衛があずかることとなった。ここで、あらたな『万代節用字林蔵』が開板されるにおよび、京都行司の要請により留板分を刷って京都へ送ることになった。本件はその折りの記事である。
49早引節用集*
A安永六年五月から安永七年一月一四日まで。
B『早引節用集』*、徳兵衛・鱗形屋孫兵衛(江戸)。
C『早引節用集』、柏原屋与左衛門・木屋伊兵衛。
D重板。
E「重板」。
F出訴。重板人徳兵衛は家財闕所・十里四方追放、売主鱗形屋孫兵衛は過料鳥目二〇貫文、鱗形屋手代与兵衛・次兵衛は手錠、板木屋市郎右衛門も同(ただし一〇〇日のみ)。
G大坂差定帳二番。
H事例47に引き続いて鱗形屋関係者の重板。再度の重板につき、徹底した措置をもって臨んだのであろう。
それにしても、鱗形屋の関係者が安永四・六年と引き続いて早引節用集にかかわる重板を行ったというのは理解に苦しむ。周知のように安永四年には、大当たりをとった黄表紙の嚆矢『金々先生栄華夢』を開板しており、これに引き続いて多くの黄表紙を手掛けていたはずだからである。黄表紙といえば、文化史・文学史的な位置は軽からぬものの、商品としては片々たる小冊子であって、そう利益の見込めるものではなかったということであろうか。
50拾玉節用集
A安永八年六月八日から天明二年一月までか。H参照。
B『拾玉節用集』、武村嘉兵衛・河南四郎右衛門・梅村三郎兵衛・菱屋治兵衛・長村半兵衛・出雲寺文治郎(京都)。
C『字典節用集』か。吉文字屋市兵衛。
D何らかの点で『拾玉節用集』が吉文字屋市兵衛の開板書に抵触したのであろう。あるいは判型と真草二行表示か。H参照。
E「差構」。
F不明。H参照。
G大坂出勤帳五番。
H Aについて、大坂行司の申し送り事項として天明二年一月まで記載されるので右のように記した。
この件は、吉文字屋より大坂仲間に口上書が出されたのち、書翰の往復があることは知られるが、詳細は不明。『拾玉節用集』は三切縦本で真草二行を示すもので、吉文字屋には三切横本でやはり真草二行を示す『字典節用集』がある。縦本と横本とで異なるものの、判型と真字付きが問題となったのであろうか。なお、『拾玉節用集』については先期事例17も参照。
「板木総目録株帳」(寛政二年改正)には、『拾玉節用集』の名も見え、「十軒之三軒半」分が大坂に帰したことが知られる。ただし、所持者は「河新」(河内屋新次郎か)となっており、吉文字屋の名は見えない。また、「板木総目録株帳」の影印本によるかぎり吉文字屋の名があったのを消して「河新」と記したのでもない。この記載は別件で「河新」が入手したことを示すのかもしれない。
51文会節用集大成
A安永九年五月以降。
B『文会節用集大成』、吉文字屋市兵衛。
C不明。
D不明。あるいは付録中の武鑑に不都合があったか。H参照。
E「差構」。
G大坂新板願出印形帳第五。
HGに付箋して「願出シ候筈之所、少々差構之義有之、依而此節願上除之」とあるばかりで、具体的な要件などは不明である。初板願い出時には、付録中の武鑑につき、大坂町奉行所より下問があったようである(先期事例19参照)。その折りはそのままに開板したようだが、これにかかわるところがあるか。
『文会節用集大成』については他に先期事例28などがある。
52万代節用字林蔵
A安永一〇(天明元)年三月より、天明二年九月までのうち。
B『万代節用字林蔵』、加賀屋卯兵衛ほか。
C『早引節用集』、柏原屋与左衛門・木屋伊兵衛。『千金要字節用大成』、吉文字屋市兵衛・堺屋清兵衛。
D(類板)。
E改板につき、留板分も改めることに関してのやりとり。
G大坂出勤帳五番、京都済帳。
H事例48に関連するものだが、年を経るので別にたてた。留板の運用が知られるのが興味深い。なお、京都済帳に「万代節用 相合四人衆中借金皆済之事」(天明二年五月から九月までの項)とあって、本件と何らかのかかわりがあるかと思われるが不明である。
53安見節用集*ほか
A天明元年九月一九日までに終了。
B『二字引節用集』*、不明。『五音引節用集』*、不明。『安見節用集』*、額田正三郎ほか(京都)。
C『早引節用集』、柏原屋与左衛門・木屋伊兵衛。
D検索法に関して。H参照。
E「類板」。
F板木を買い取り、京都・江戸の仲間にも今後類似書を開板しないよう依頼した。
G大坂裁配帳一番、鑑定録。
H『二字引節用集』はイロハ二重検索をとるものだが、第一のイロハ分けを語頭の仮名により、第二のイロハ分けを語末の仮名によるものである。『五音引節用集』は語頭のイロハ分けと、語末の五十音分けを併用するものである。両書とも、安永末年から天明元年にかけて柏原屋らが買収したものである。『安見節用集』は、裁配帳における検索法の記述からして、先期事例30と同書と思われる。はやくに収束したはずの件だが、念を入れたのであろう。ただ、それならば同じイロハ二重検索の『早字二重鑑』(事例31)もあってよいはずである。が、これは絶板という決定的な処分をうけたので、記すに及ばなかったのであろう。
事例30の折り、柏原屋らは、次のような経緯で『安見節用集』を開板できなかった。
此度、京師ニ出来候安見節用集之板木、他所へ遣シ候而ハ、本形ハ懐宝節用ニ差構候、草字一行ハ字考節用ニ構候、本文之趣向ハ新増節用ニ構候。依之此度大坂柏原屋与市・本屋伊兵衛両人へ、右板木丸板ニ而銀四〆三百匁ニ而売渡候得共、大坂ニおゐて本壱部も摺被出候義、かたく相不成候趣之相対ニ而、内済仕候事(差定帳一番)
本件では、同工の『二字引節用集』『五音引節用集』も「意味合有之」(大坂鑑定録)として開板・売買しないことになった。この「意味合」の内容を具体的に記した記録はないが、やはり『安見節用集』の場合と同様に、京都各書肆の版権への抵触を配慮したことがひとまず考えられよう。
ただ、開板しないと明言したにもかかわらず、柏原屋らの行為には不審な点がある。説明のつきやすいものからあげれば、天明元年以降の早引節用集再板本に、本件三書の書名と検索法を記した広告を付したことである。広告ならば、開板の予告か取扱書の目録であり、本件三書の販売をおこなうかに見える。が、それらは柏原屋らが開板・売買しないと明言し、また、そのとおり、開板した形跡は認められず、現存も確認できない。したがって、この広告は、販売を前提とした通常の広告とは別の意味を持つものと考える必要があろう。どのような広告も、販売書・取扱書を掲げるのが通例だが、広告を出した書肆はその書の版権を所有しているのが前提となるはずである。これは、いわば、広告を出すための必要条件である。そのうえで、販売促進を期待してなされるのが広告であろう。このように広告の持つ性格を条件と機能にわけて考えれば、柏原屋の出した右三書の広告は、必要条件の方を強調するのが第一義となるものだったと考えられないか。右三書のような検索法が柏原屋らの版権に帰することを強調し、類似書の新規開板を抑止・牽制することを目的としたものだったということである。広告にこのような版権自衛のはたらきを認めようとするのは、一見奇異ではあるが、先期事例3031などで類板呼わりとも見える版権自衛に出た柏原屋だけに十分に可能性のある推測かと思われる。
不審の二つめは、柏原屋らの買収そのものである。買収には、類似書を他から販売させないことで己の利益をまもる側面と、買収した類似書を販売して利をえる側面とがあるが、開板できないとなればうまみは半減することになるからである。なぜ、柏原屋らはそのような買収に応じたのだろうか。
そもそも、本件で、柏原屋らが買収することになった背景には、宝暦年間の『早字二重鑑』『安見節用集』を、早引節用集の類似書とすることに成功したことにある。本件についてもそこまでさかのぼって、あるいは、含めて考えてよいだろう。これら四書のとった仮名二重引きが、言語門に再度イロハ引きを施した『新増節用』(『新蔵節用無量蔵』。
京都・木村市郎兵衛刊)に近いことは明らかである。したがって、『早字二重鑑』ほかと早引節用集との関係が類板なのであれば、『新増節用集無量蔵』と早引節用集との関係も類板となって何らおかしくはない。しかし、後者の関係が版権上の紛議に発展したことは確認できない。つまり、ほぼ同じ関係にある対の一方を版権侵害とし、他方を問題化しなかったという無理があることになる。このようないびつな関係の背景には、柏原屋と木村市郎兵衛とのあいだに何らかの了解があったことを想定せざるをえない。このことは、たとえばイロハ二重引きと推測される『国宝節用集』(先期事例23)が大坂で企画されたことを柏原屋が木村市郎兵衛にいちはやく通告するなどの件があることからみて(佐藤「近世節用集の類板紛議」(『岐阜大学国語国文学』二一 一九九三)、ありうる推測と考えられる。そしてその了解が、「意味合」の内容そのものであるか、少なくとも重要な部分を占めるものと考えられるのである。
仮に、木村が版権を主張して侵害書のすべてを買収し、仮名二重引きの諸書を開板・販売したらどうであろう。以前みたように仮名二重引きは早引節用集の仮名数引きよりも数段すぐれたものであった(佐藤「近世後期節用集における引様の多様化について」『国語学』一六〇 一九九〇)。したがって、仮名二重引きの節用集はかならずや早引節用集を圧倒し去ったに違いない。柏原屋らにとって、そのような事態は、回避しなければならなかったはずである。そのためには、木村に仮名二重引きの版権を買収させてはならなかった。そのもっとも簡単な方法は、柏原屋ら自身が買収にあたることであろう。これが、柏原屋らがうまみが半減しても仮名二重引きの節用集を買収せざるを得ない理由だと考えられるのである。
ただし、買収書を柏原屋らが開板・販売したのでは木村の版権を侵害することになる。
先述のように、木村の『新増節用無量蔵』の方が仮名二重引きに近い検索法であり、しかも早引節用集よりも早く開板されたのだから、版権は確固としたものだからである。これでは、仮に、版権紛議となったとしても、柏原屋らの不利は動かない。ならば、買収書を開板・販売しないに越したことはないのである。
以上のことから、木村と柏原屋らのあいだにあったと想定した約定について、おぼろげながらも具体的な姿を描くことができるように思う。それは、名目上、仮名二重引きの版権を早引節用集の仮名数引きに抵触するものとし、それらの買収には柏原屋らがあたるが、買収書の開板・販売を行わないとするものである。そしておそらくは、見返りとして、木村たちは、仮名二重引きの開板・販売を、言語門に再度イロハ引きをほどこした『新増節用無量蔵』にとどめるということも加わっていたであろう。このことは、木村が他に仮名二重引きの節用集を開板した形跡が認められないことからも、確かなものと思われる。
このような約定が、柏原屋らと木村のいずれに有利なものだったのだろうか。一見、買収専従の柏原屋らが不利に、買収資金を提供しない木村が有利とうつる。しかし、柏原屋らにとっては、仮名二重引きをどの書肆からも開板させないことに成功したという絶大な効果をもつものであった。しかも、ひとたび、仮名二重引きの版権をおのれのものとしてしまえば、それに類似するすべての検索法に対して先例となり、次々に版権抵触書とすることができるのである。やはり、柏原屋らに有利な約定だったと考えられよう。
54画引節用集大成*
A天明四年五月一一日より天明五年一月までか。
B『画引節用集大成』*。書肆は江戸のものというだけで不明。寛政四(一七九二)年の再板時に吉文字屋次郎兵衛と前川六左衛門の名が見えるので(江戸割印帳)、あるいは彼らか。
C『早引節用集』か。柏原屋与左衛門・木屋伊兵衛。
D明記されないが、片仮名総画数引きを取り入れたためと思われる。
E差構であろう。
F特に変事はなかったようである。
G大坂出勤帳七番。
H柏原屋らが口上書を提出、これを受けて行司が江戸仲間へ書状をだしたことが知られるばかりである。天明五年一月の行司申し送り事項に見えるので、これをとりあえずの下限とした。
『画引節用集大成』の現存は知られないが、早稲田大学図書館蔵『俳諧若木賊』などの広告中にその検索法を記したものがあるという(高梨信博「近世刊本付載蔵版目録中の節用集」『東洋短期大学紀要』二二 一九九〇)。それによれば、意義分類・イロハ引き・片仮名総画数引きの三重検索とのことである。片仮名総画数引きは、語の検索に「数」の概念をとりいれた点でイロハ二重検索などよりも早引節用集の仮名字数引きに近いものと言わば言えよう。したがって、柏原屋らが注目するのもうなづけ、それだけに彼らが本件にあってどのような措置をとったのか知りたいところである。
しかしながら、本件ののち、寛政四年に『画引節用集大成』が江戸より刊行されるので、何事もなかったかと思われる。また、早稲田大学図書館蔵『青とくさ』付載の『懐宝早字引』の広告は、『俳諧若木賊』付載の『画引節用集』の広告と「同じ板木を用いて書名の部分のみを新ためたもの」という(前掲高梨論文)。この「懐宝早字引」への改題は、享和元(一八〇一)年に塩屋平助が願い出たものであるから(大坂出勤帳一八番)、やはり、柏原屋らの申し出にもかかわらず、仮名総画数引きについては変更がなかったと考えられる。
このような事態は、イロハ・五十音などの仮名二重引きを早引節用集の類板とした先期事例3031および本期事例53に照らして明らかに不自然であり、今後、解明しなければならない。本期事例52で見たような柏原屋らと木村市郎兵衛とのあいだにあったような了解が本件でもあったかと思われ、柏原屋らと江戸の書肆某の関係が究明される必要がある。その江戸の書肆が寛政再板時と同じ前川六左衛門・吉文字屋(結崎)次郎兵衛だとすれば、後者の本店である大坂・吉文字屋との関係も考える必要があることになろう。なお、いま挙げた書肆たちは、いずれも節用集の検索法で柏原屋らと争ったことのあるものたちである(前川が先期事例31、吉文字屋が先期事例34。なお、後者は間接的には先期事例23も)。これらの先行の事例も勘案していく必要があろう。
55文藻行潦
A天明四年七月より天明五年一月まで。
B『文藻行潦』、西村源六(江戸)。
C『名物六帖』、瀬尾源兵衛(京都)。『学語編』、瀬尾源兵衛・浅井庄右衛門・河南四郎右衛門(京都)。『合類節用集』、村上勘兵衛(京都)。H参照。
D唐話語を多く取り入れたことによろう。
E「差構」。
F相合。H参照。
G京都済帳。大坂出勤帳七番。
H『文藻行潦』(天明二年刊)は、その内容や『名物六帖』『学語編』の版権所有者よりクレームがつけられていることから唐話辞書であることが明らかだが、『合類節用集』の名もあるのでとりあげた。なお、佐藤「『合類節用集』『和漢音釈書言字考節用集』の版権問題」(『近代語研究』一〇 武蔵野書院 一九九六〈未刊〉)を参照。
紛議の結果を相合としたのは、現存する『文藻行潦』のなかに、右にあげた京都の書肆名を載せたものが認められるからである。架蔵する奚疑塾蔵無叙本および青藜閣蔵金峩井純卿安永八年叙本の二本ともに、京都書肆として浅井庄右衛門・瀬尾源兵衛・村上勘兵衛・小川多左衛門が見えるのである。河南四郎右衛門の名がない理由は明らかにできないが、本件にかかわっていたことは京都済帳に「文藻行潦 相済候義、瀬尾源兵衛殿・河南四郎右衛門殿・浅井庄右衛門殿、被相届候事」(天明五年九月から翌年一月までの項)とあることから明らかである。一方、小川多左衛門(茨木とも。柳枝軒)が加わったのは、彼の開板書に唐話辞書の一つと目される『漢字和訓』(享保三〈一七一八〉刊)があり、それを版権の根拠として関与した可能性が考えられる。ただ、これも単純ではなく、中村幸彦「名物六帖の成立と刊行」(『ビブリア』一七 一九六〇)では、『漢字和訓』が『名物六帖』(正確には『応氏六帖』)より抜粋したものとする見解を紹介しつつ、逆に『名物六帖』が『漢字和訓』を参看した可能性も述べられるのである。
なお、本件にかかわる書の板元は他にも異同が多く、注意が必要である。たとえば『文藻行潦』の江戸板元は、奚疑塾蔵本で須原文介・北沢伊八・西村源六だが、青藜閣蔵では改刻して須原屋伊八だけがあげられる。また、『学語編』では、『唐話辞書類聚』第一六巻(汲古書院 一九七四)所収本はCに掲げたものと同様だが、架蔵本では脇坂仙二郎・浅井庄右衛門・小林庄兵衛である。このように諸本が存するものの、記録があるために適した諸本にあたることができたのである。また、『名物六帖』も寛政四年七月には脇坂仙次郎が瀬尾源兵衛より購入することになるが(前掲中村論文)、これも同様に伊藤家に存する記録によったものである。書誌的な調査とあいまって記録類のさらなる発見と公開が期待されるところである。
56無名の一本
A天明八年九月から一月のあいだに発覚。
B書名不明。大坂の書肆。
C『続合類節用』*、村上勘兵衛。
D不明。
E「構」(差構)。
F不明。
G京都済帳。
H京都済帳に「続合類節用ニ構書之事ニ付、大坂懸合之事」とあるばかりで詳細は不明である。なお、「続合類節用」とは『和漢音釈書言字考節用集』のことであろう。佐藤(一九九六。前掲)参照。
57増補真草二行節用集*
A寛政七(一七九五)年二月一一日に問題化。同年五月一八日に終了。B『増補真草二行節用集』*、奈良屋長兵衛(大坂)・藪田専介(京都)。
C『袖中節用集』、吉文字屋市左衛門・堺屋清兵衛(大坂)。
D判型(三切)および漢字の掲出法(真草二行)。
E「差支」。
F藪田専介に『増補真草二行節用集』の所有権のないことを認めるよう勧告があった。
G大坂裁配帳二番、同出勤帳一三番。
H奈良屋長兵衛が藪田専介より『増補真草二行節用集』大紙三切本の焼株を購入した。「焼株」とは、板木は焼失したものの、その書の開板・売買ができるという権利である。『増補真草二行節用集』の版権の要点は三切本の真草二行表示なのだが、同じ権利はすでに吉文字屋・堺屋が『袖中節用集』として所有するものだった。が、寛政三年の大坂大火のおりに、吉文字屋の所有する板木は焼失していたという。すなわち、本件は、焼株という板木の存しない版権の根拠を確実に示せるかどうかが焦点になるのである。
『増補真草二行節用集』の方は、「京地蔵板目録ニも無之、聢与致候証拠も無之」という状況で、奈良屋が購入したときにも証文に京都行司の割印がないなど不備があった。『袖中節用集』は、堺屋所有分の板木は残っており、さらに元文年間(一七三六〜四〇)に長村半兵衛(京都)と判型で争ったときにも(事例11。なお本稿末補記参照)、吉文字屋らの権利の根拠として提出されたという。おそらく、当時にあっては京都・大坂の仲間内の記録や当事者たちの控えなども残っていたことだろう。このように、多くの版権所有の証拠を提示できた吉文字屋らが本件を有利に進めることができたものと考えられる。
58万華節用*
A寛政九年一〇月二二日、大坂仲間内にて評議。
B『万華節用』*、大坂の書肆か。H参照。
C不明。大坂の書肆。
D不明。
E「差構」。
F不明。
G大坂出勤帳一四番。
H「万華節用之差構、評議之事」とあるだけで、詳細は知られない。なお、大坂仲間の「板木総目録株帳」(寛政二年改正)に「万花節用群玉打出槌」と見えるのが『万華節用』であろうか。とすれば、その下には、相合板として敦九(敦賀屋九兵衛)以下大坂書肆が名を連ねる。また、他地の仲間との相合ならばその旨を注するが、ここには認められないので、本件は、大坂内部で起こり、処理されたものであろう。
59書札節用要字海
A寛政九年一〇月二二日から。最終記事は寛政一〇年一月二〇日の大坂出勤帳の次行司への申し送り。
B『書札節用要字海』、朝倉義助・中西卯兵衛(京都)。
C『字貫節用集』、敦賀屋九兵衛・河内屋喜兵衛・吉文字屋市左衛門(大坂)。
D美濃半切横本における頭書表示か。あるいは、先期事例28と関わりがあるか。
E「差構」。
F『書札節用要字海』は、大坂仲間の寛政二年改正「株帳」になく、文化九年改正のものに認められる。書肆名は単に「河新」(河内屋新次郎)とだけあって、京都との相合の旨も記されない。したがって、本件のあと、河内屋に版権が移行したものと考えられる。
G大坂出勤帳一四番。京都済帳。
H両書の類似点は、美濃半切横本であることと、紙面を上下二段に分け、下段に節用集本文を配したことである。したがって、類似点は美濃半切横本における頭書表示と考えてよかろう。なお、上段は、『書札節用要字海』が『世宝用文章』などの付録で、『字貫節用集』が『増補画引玉篇』である。
『書札節用要字海』はすでに宝暦一一年の初板本があり、ついで本件で問題となった「寛政九年丁巳歳青陽良辰」の刊記を有する再板本がある。これに対し、『字貫節用集』は「寛政八年丙辰九月刻成」の刊記を有するので、『書札節用要字海』初板に遅れ、再板よりわずかに早いという位置にある。
しかし、本件は、一〇月二二日、敦賀屋らからの『書札節用要字海』差構の口上書が大坂仲間行司に示されたのにはじまり、一二月一四日、中西らからの返答書が京都行司に提出されるとともに『字貫節用集』の売留の口上書がだされるという順序である。双方ともに、他を差構などとして措置をとったわけだが、現存の記録類によるかぎり、開板の遅い『字貫節用集』の側から紛議を起こした点が注目される。つまり、『書札節用要字海』初板はすでに先期事例28として問題になったが、そのおりの結末が本件の背景にあるらしいということである。
その事例28の結末は、前稿に記したとおり知られないが、本件の先後齟齬した発端を考えれば、吉文字屋市兵衛の側に有利なものであったことが想像される。たとえば、吉文字屋が留板を取っていたとか、板木一代限りで再板しない約定があったとかなど、『書札節用要字海』再板に対する何らかの制限事項が課せられたのではなかったかということである。にもかかわらず、京都方が無断で再板したため、大坂方からクレームがつけられたのではなかろうか。
右のように『書札節用要字海』再板に関して何らかの制約事項があったとすれば、京都方はあまりに不用意であった。この点については理解に苦しむところだが、初板本と再板本を比較すると、注意すべき点がある。まず、初板本の刊記には植村藤右衛門・植村藤次郎(以上京都)・植村藤三郎(江戸)の三人の名が見えるが、再板本では植村一統のうち植村藤右衛門だけが最終丁表に見え、その裏に須原平助(江戸)・吉田善蔵(大坂)・風月孫助(名古屋)・朝倉義助・中西卯兵衛の名が挙げられている。本件で実務を担当したのは朝倉・中西なので、再板の段階で版権の主導権が植村らから移されていたことが考えられる。また、これと関わるものか、再板本の巻末には次のような記事がある。
先板天明戊申の災に亡失して後、旧本しば\/世に乏しくなれり。茲に於て索捜の人少からず。故に今是を求め、再度訂正をくわへ、字は謬誤を革め、精彫せしめ、以て諸人の需に応じ、猶更四方に流布せしむるもの也。(架蔵本。私に句読点を施す)
いわば、本件は、事例57と同様に焼け株の書をめぐるものとなる。版権の移行にともなって、初板時の制約事項が十分には伝えられなかったのであろう。
60字貫節用集
A寛政九年一二月一四日から。最終記事は寛政一〇年一月二〇日の大坂出勤帳の次行司への申し送り。
B『字貫節用集』、敦賀屋九兵衛・河内屋喜兵衛・吉文字屋市左衛門。C『書札節用要字海』、朝倉義助・中西卯兵衛。
D美濃半切横本における頭書表示か。
E「差構」。
F前事例参照。
G大坂出勤帳一四番、京都済帳。
H前事例で大坂方が『書札節用要字海』を差構としたので、京都方から『書札節用要字海』初板を楯に『字貫節用集』を差構とし、対抗したものであろう。
61諸通文鑑*
A寛政一二年三月五日の記録のみ存。
B『諸通文鑑』*、秋一(秋田屋市兵衛か。大坂)。
C『太平節用』*ほか。藤屋弥兵衛(大坂)。
D不明。
E「差構」。
F藤屋は差構との口上書を提出したが、その言い分も不当な点があるようなので、行司は吉文字屋市左衛門に助言方を依頼した。
G大坂出勤帳一六番。
H『諸通文鑑』は現本未見だが、その名からして実用書簡文例集かと思われる。一方、『太平節用』も『太平節用福寿往来』だとすれば、ともに、ほぼ同じジャンルのものであって、節用集とは一線を画されるもののようにも思われ、本稿で扱うべきではないのかもしれない。しかし、『太平節用福寿往来』は、すでに前々稿事例5でも触れたように、頭書に『■■節用福聚海』という辞書を掲げるものである。実用書簡集の頭書に辞書を掲げるのは他にも例があるが、それらはおおむね行書のみ示した簡便なものである。が、『節用福聚海』は、角書にも現れているように真草二体を示し、語数も相応にそなわるなど、本格的な節用集である点で異彩を放っているのである。そのような点が本件とかかわることも考えられるので、念のために記すこととした。
62無双節用錦嚢車*
A寛政一二年五月から九月のあいだに発覚。寛政一三年一月一八日に終了か。
B『無双節用錦嚢車』*、近江屋庄右衛門(京都)。
C不明。村上勘兵衛。
D不明。
E「差構」。
F村上勘兵衛に版権が移る。大坂へも写本の売買をしないよう依頼する。
G京都済帳。大坂出勤帳一七番。
H佐藤(一九九六。前掲)参照。
まとめ
前稿までの例によって本期の事例を集計してみる。なお、可能性のあるものはa〜gに振り分けるようにした。また、事例4852は、先期事例37の事後処理としての性格が強いので、括弧で包んで示した。
先々期 先期 本期 該当事例
a付録 九 九 一 51
b本文 二 一 三 555662
c検索法 一 七 二(四)(4852)5354
d判型 一 六 二 5057
eレイアウト 一 二 四 50575960
f重板 〇 三 三 464749
g禁忌 〇 一 一 51
h不明ほか 二 七 三 515861
右のように本期では、各項目にばらけていて、これといった特徴は認められない。先期では付録・検索法に関わるものが多かったが、それも本期では顕著には認められないので、一応の落ちつきを見せたと考えるべきであろうか。また、各項にわたること自体を本期の特徴として認めることはできようが、それがどのようなことに由来し、また、節用集史上においてどのように位置づけるべきかは、今後、検討していかなければならない。
別に、本稿各事例を係争期間の上限の年でまとめると次表のようになるが、
+−−−−−−−+−−−−−−−−+−−−−−−−−−−−−+
|安永 |天明 |寛政 |
|3456789|元2345678|元23456789101112|
+−−−−−−−+−−−−−−−−+−−−−−−−−−−−−+
|46474849 5051|52 54 56| 57 58 61|
| |53 55 | 59 62|
| | | 60 |
+−−−−−−−+−−−−−−−−+−−−−−−−−−−−−+
ここから知られるのは、寛政年間の前半で版権問題が認められないことである。このことについて検討するには、いわゆる寛政の改革、ことにその出版統制令を念頭におく必要があるようである。統 制令の第一項は次のようであり、これを遵守したため、寛政年間の前半に版権問題が見られないと考えられそうなのである。
一書物類古来より有来通ニて事済候間、自今新規ニ作出申間敷候。 若無拠儀ニ候ハ、奉行所え相伺、可受差図候。(高柳真三・石井良助編『御触書天保集成』下 岩波書店〈一九四一〉。適宜、句読点を改めた)
このような考えを筆者が妥当だとみるのは、単に、改革の時期と版権問題の空白期とが符合するというだけでなく、この触れへの遵法精神をあおることに当局が成功しているためである。寛政元年には、改革に取材した黄表紙『黒白水鏡』の件で作者・石部琴好が江戸払い、画工・北尾政演(山東京伝)が過料を申し渡された。同じく黄表紙作家の恋川春町が当局に召喚された。これは、病気を理由に辞したものの、これが心因となったのであろう、ほぼその直後に没するのである。こうした状況を考慮してか、佐竹藩士であった朋誠堂喜三二は主命により断筆するにいたった。これらは、民衆にわかりやすいメディアであった戯作への弾圧・統制と見られるが、寛政二年には、いわゆる物の本をあつかう本屋仲間にも触手が広げられた。二月に各地の本屋仲間に書物目録書の提出を求めたうえで、五月に件の出版統制令を発するのである。まず、改革の断行性を強調するかのような戯作者の処分があって、ついで出版書のすべてを掌握し、そのうえで統制令を発するという次第である。見事な手順というほかない。もちろん、この順序が偶然であることも十分考えられるわけだが、偶然・必然の別を問わず、出版界に改革の意向を熟知させるだけの雰囲気は十分に作られたことに代わりはなかろう。なお、十月には、再度、風紀糜爛への戒めを主とした出版統制令が出されるのである。
このような状況のなかでは、新規の開板などは無用の嫌疑をかけられかねない。したがって、節用集においても版権問題を引き起こしそうな開板が控えられたと考えられるのである。
なお、寛政も後半になってふたたび版権問題が現れるが、これは、洒落本などでも同様だったらしい。
寛政四年(一七九二)から五年にかけては、洒落本の新作はほとんど市場に姿を見せなくなった。定信が退陣した寛政六年ごろからようやく新板が現れるものの、寛政八、九年ごろには、行司の許可を得ず秘密に出版された四二部の洒落本が絶板を命じられた、という。(前田愛「寛政の改革と江戸文壇・概説」『近世の文学(下)〈日本文学史5〉』〈有斐閣 一九七七〉)
改革の主要幕閣は残るものの、松平定信の老中退任を機に、ある程度断行色が衰える。これに乗ずるように新板が現れるというのだが、節用集においても同様に考えてよいかと思われる。
版権問題の一時的鎮静化は、右のように寛政の出版統制令に由来するものと考えられた。節用集史上で、これと同じ動きをとったものとして、新たな検索法の考案の終息が挙げられるように思う。
以前、宝暦から寛政初年の三〇数年間を、新たな検索法が集中した時期とし、その契機を早引節用集の開板(宝暦二年)にもとめたことがあった。が、その終息については新たな検索法のアイディアがつきたためと内因を推測するにとどまった(佐藤一九九〇、前掲)。が、このことについても、出版統制令が新板無用を打ち出している以上、外因としてあずかっていた可能性は疑いがたいと思われるのである。
版権問題の鎮静化と新規検索法の考案の終息と、いずれも節用集史の記述的研究にあっては重要な課題であるが、ともに寛政の出版統制令との関係が考えられたわけである。このことは、近世の節用集が、出版という形態で担われていたために、いかに社会的な存在となっていたかを改めて示すものと考えられる。また、このような検討結果が得られたのは、事例の網羅につとめて版権問題の起こらない期間を描きだすことによるのである。版権問題通覧という全数調査を行うことの意義がここにも認められるのである。
補記一 前々稿では、事例11について、単なる紹介にとどまった。が、事例57の記録の一部は、事例11の検討に援用できると考え、次のように改めたい。
11蠡海節用集 元文5 判型
A日付明記せず。元文五年七月から一〇月までに問題化、同一二月までに相済。
B書名不明、長村半兵衛(京都)。三切真草二行体の書であろう。あるいは、言語門を各部の最初に配するものか。H参照。
C『蠡海節用集』、吉文字屋市兵衛(大坂)。
D大坂出勤帳一三番の記述から推して三切本における真草二行体であろう。あるいは、門の順序の可能性もあるか。H参照。
E差構であろう。
F内済。大坂出勤帳一三番の記述から推して、吉文字屋の側の主張が通ったものと思われるが、詳細は不明。なお、事例57を参照。
G京都済帳。大坂出勤帳一三番。
H長村は、袖珍本の『万倍節用字便』(享保四〈一七一九〉年刊。米谷隆史氏蔵)などを持ち、のちに『字典節用集』(事例15)・『早引節用集』(事例18)など小型の節用集と出入りを持つ。『蠡海節用集』三切横本もやはり小型なので、本件の要点は判型をめぐることかと推測される。とすれば、本件は判型が問題になった最初のものとなる。
のちの事例57では、三切真草二行体が吉文字屋らの『袖中節用集』に備わるものと認められた。その当時、『袖中節用集』は、吉文字屋分の板木が焼失しており、相合の堺屋清兵衛分しかなかったが、本件での結果も合わせて、吉文字屋らが主張を通すことができたのである。このことから、本件においては、『袖中節用集』の版権が認められ、吉文字屋か有利に事を運んだものと思われる。
なお、『蠡海節用集』は各部を言語門からはじめるが、『万倍節用字便』も同様である。この点が問題点となったことも考えられよう。
補記二 先期事例29「文宝節用*」に関して。米谷隆史氏(大阪大学文学部助手)より、内題は『蠡海節用集』のままながら、題簽を『文宝節用集』とし、巻頭に付録を増補、これに応じて凡例・丁付・丁付合文を改めたものを所持するとの御教示をたまわった(一九九六年五月)。記して謝意を表する次第である。なお、同本の刊記は「宝暦十二壬午年初秋/摂陽書林 鳥飼市兵衛/仝 高田清兵衛/東都書林 結崎次郎兵衛」である。
『岐阜大学教育学部研究報告(人文科学)』45−1(1996)所収