近世節用集版権問題通覧

 −宝暦・明和間−    

*OASYS30-AX301 で作成した文書をDOS テキストに改めた関係で、若干の変更があります。 
 はじめに

 本稿は、宝暦・明和間(一七五二〜七一)における節用集の版権問題を通覧するもので、前稿(本誌前号)に接続するものである。
 今期はわずか二〇年間にすぎないが、三二件もの版権問題が見られる。先期は元禄七(一六九四)年から元文五(一七四〇)年の五〇年近いものだったが、一三件が認められたにすぎなかった。今期では、年数は四割に縮まり、件数は二・四倍になったので、問題発生の比率は六倍となった。飛躍的な増大、ひいては節用集をめぐる出版界の激動があったかに見える。
 たしかにそのように受けとることもできないではない。ただ、その一方で、資料の制約を考えておかなければならないだろう。先期のおもだった資料は京都の本屋仲間上組の記録であった。これは、京都仲間上組の利害に関わることがらを記すのが主であって、そうでないもの、たとえば同じ京都とはいえ他の組の問題すら網羅すべきいわれはないものである。一方、今期は、大坂本屋仲間の記録が充実しはじめる時期である。したがって、通覧のもととなる資料が実質的に増えるわけだから、件数もそれ相応に多くなるのである。
したがって、先期においても多くの問題が起こっていても、記録が現存しないためその存在が確認できず、少なく見えることも考えておかなければならない。したがって、稿末に先期との比較を試みているが、それも右のよう事情を承知したうえでのことである。
 一方ではまた、現存する本屋仲間記録が作成された期間中の問題でも、記載されなかったものもあろう。たとえば、本稿であつかう事例4344は大坂の記録に残されていたのでその存在を知りうるのだが、実は、双方とも別の書の記録に記されたものであって、その別件が問題化しなければ記載されなかったものなのである。そのようなことがなぜおこるかは場合によるのだろうが、右二例から推測するに、侵害したとされるもののなかに版権者と同じ仲間の構成員がいたり、侵害書が確実に廃棄されるなどして後顧の憂いがなかったり、あるいは版権への抵触が軽微であったりする場合などが考えられることになろうか。

 ともあれ、本屋仲間の記録は、当時の版権問題なり出版事情なりを知るうえで最有力の資料には違いないのだが、右のような限界のあることも心得ておく必要があろう。

版権問題諸例
 前稿でも記したが、念のため、凡例的なことがらを略記しておく。
 各事例には前稿からの通し番号を付し、事例名は、問題となった本の名をもってした。
その際、アステリスクを付したものは、記録にある書名をとったもので、現本への比定が必ずしも成功しなかったものである。なお、宝暦九年九月に『礼開節用集』の件があるが、節用集一般とは異なる書と思われるので除外した。
 各事例を次の八項目に分けて記した。
 A期間  原則として、記録上の日付の上限と下限を記す。
 B問題書とその刊行者  C被害書・被害者  D問題点  版権に抵触した要点を記す。
 E様態  問題のありよう。記載どおりに記すのを原則とする。
 F結果  侵害書および侵害者の処分・処遇を記す。
 G主資料 
 H考察・備考 なお、おもに参照したのは次のような資料である。
  京都関係   上組諸証文標目(「京都証文」と略記)   上組済帳標目(「京都済帳」と略記) ともに、宗政五十緒・朝倉治彦編『京都書林仲間記録』★★★・★★★★★(ゆまに書房 一九七七)により、弥吉光長『未刊史料による日本出版文化』第一・七巻(ゆまに書房 一九八八・一九九二)を参照。
江戸関係割印帳(「江戸割印帳」と表記) 『江戸本屋出版記録』上中下(ゆまに書房 一九八〇〜二)により、朝倉治彦・大和博幸編『享保以後 江戸出版書目 新訂版』(臨川書店 一九九三)を参照。
  大坂関係 出勤帳(「大坂出勤帳」と表記) 差定帳(「大坂差定帳」と表記) 鑑定録(「大坂鑑定録」と表記) 裁配帳(「大坂裁配帳」と表記) 備忘録(「大坂備忘録」と表記)  大阪府立中之島図書館編『大坂本屋仲間記録』第一・八・九・一〇巻(清文堂 一九七五・一九八一〜三)による。

14倭漢節用無双嚢
A宝暦二(一七五二)年正月より五月までに問題化。
B『倭漢節用無双嚢』、加賀屋卯兵衛(京都)。
C『倭節用悉改嚢』、同書相合連中(京都)。
D不明。割行表示ないし書名の類似か。Hを参照。
EF不明。
G京都済帳。
H『倭漢節用無双嚢』宝暦二年本未見のため、詳細不明。架蔵の天明四年本および他書を参看しても、これといった点に気づかない。のちに、『倭節用悉改嚢』の相合連中は、『都会節用百家通』の罫線入り割行表記を差構とするので、『倭漢節用無双嚢』宝暦二年本にはこれが採用されていたものか。
 あるいは書名の類似か。これには往来物ながら先例がある(大坂鑑定録)。享保一二(一七二七)年九月、菊屋七郎兵衛(京都)が『童習往来』を開板したところ、大坂の某書肆の『童子往来』に類似するので『万宝福寿往来』と改めさせられた件である。

15字典節用集
A宝暦二年六月に問題化。同年一〇月に終了。
B『字典節用集』、吉文字屋市兵衛・堺屋清兵衛(大坂)。
C『字考節用』*、長村半兵衛(京都)。『懐宝節用集綱目大全』、出雲寺和泉掾(京都)。H参照。
D『懐宝節用』は判型。おそらく『字考節用』も同様。
E「差構」。江戸での割印の延期も要請。
F内済。特に何事もなかったか。一〇月四日、長村方は留板をとって相済。出雲寺方は、「半紙二つ切」本と紛らわしくならないよう要請。
G大坂備忘録。江戸割印帳、京都済帳にも簡略な記載あり。
H大坂行司から京都行事・江戸行事への書簡(八月一九日付け)には、もともと吉文字屋たちが「袖珍節用集三つ切音字付」および「袖中節用集」の株を所持しているとし、「此度之字典節用ハ先板袖中節用とハ少々畦ヲ縮メ、半紙三つ切ニ仕候」(一〇月付け一札)もので、半切横本の『懐宝節用集綱目大全』には抵触しないと強調した。にもかかわらず、出雲寺がクレームを付けてきたのは、「此度之字典節用ハ本形畦共ニ袖中節用与ハ少々相替り居申候。左候へば、此後再板ニ成候節又々本形相替り、畦之上下広ク相成候へば、半紙二つ切ニ似寄候間」と、吉文字屋らが勝手に縮刷版を出したことから、次の再板では己の『懐宝節用集綱目大全』と同じ半紙二切本として出しかねないと警戒したためであった。それにしても、将来の版権抵触まで気をまわすのは少々過敏かと思われる。それだけに、判型、ことに小型本のそれが、いかに意識されていたかが知られるのである。
 『字考節用』については現本不明である。長村が加わったものに『掌中節用急字引』があり、尾書に「万倍字考」とあるが、刊行は寛政六(一七九四)年に下ってしまう。また同じく『万倍節用字便』の東京学芸大学望月文庫蔵本(享保一一〈一七二六〉年再板)の表紙中央には打ち付けで「字考節」と墨書されるが、これと何らかの関係があろうか。ともあれ、長村が小型本を持っていたことが確認される。
 大坂から江戸へ九月の段階で相済を知らせたが、江戸では九月二四日の寄合で割印するも、京都行事へ確認をとってから、吉文字屋次郎兵衛(江戸)に許可するよう決めている。緊密な連絡と江戸行事の慎重さが知られる。

16日本節用*
A宝暦二年九月より一二月まで。
B『日本節用』*、板元不明。H参照。
C『書札調法記』、吉野屋仁兵衛か。
D「再板口之入レ事」とあることから、巻頭の付録に書簡向きのことがらを入れたためか。
E差構か。
F不明。
G京都済帳。
H『日本節用』について。江戸割印帳には「宝暦二申孟秋 日本節用集  選者 芦田茂平  板元 梅村半兵衛」とある。また、東京学芸大学望月文庫蔵『頭書増補節用集大成』(宝暦二年刊、三切縦、板元不明)の末題に『日本節用集藻林大成』とある。跋は芦田茂平の手になるので、同一書かと思われる。

17袖玉節用*
A日付明記せず。宝暦二年九月から翌年一月までのうち。
B『袖玉節用』*、板元不明。
C『日本節用』*、板元不明(事例15参照)。『懐宝節用集綱目大全』、出雲寺和泉掾(京都)。『袖宝節用』*、板元不明。H参照。
D書名の「袖玉」「懐宝」「袖宝」などの字句や、『日本節用』が次例16のように三切縦本であったとすれば、判型に関することかと思われる。H参照。
E差構か。
F不明。
G京都済帳。
HCの『袖宝節用』は、『袖宝節用集』(寛延三〈一七五〇〉年、菱屋治兵衛刊。三切縦。亀田文庫本蔵)にあたろうか。とすれば、『日本節用』(『頭書増補節用集大成』だとして。前例参照)や『懐宝節用集綱目大全』も小本であることから、『袖玉節用』も小本だったために問題となったことが考えられる。
 その『袖玉節用』の現存は知られないが、『拾玉節用集』(安永八〈一七七九〉年刊)が注目される。刊記には刊年のほか「宝暦二申十一月御免」とあり、これは本件の時期のうちになる。また、三切縦本と小本である点でも類似する。書名の用字は「袖玉」ではないが、同様にシューギョクと読みうる。あるいは、判型だけでなく書名の類似を指摘され、改題したものか。なお、板元は、いずれも京都の河南四郎右衛門・武村嘉兵衛・梅村三郎兵衛・長村半兵衛・菱屋治兵衛・出雲寺文次郎である。このうち、『日本節用集』『懐宝節用集綱目大全』『袖宝節用集』の板元・縁者と思われるものを除く河南四郎右衛門・武村嘉兵衛・長村半兵衛の三人かもしくはそのなかに『拾玉節用集』(『袖玉節用』)の本来の板元がいるか。

18■■早引節用集
A日付明記せず。宝暦三年正月から五月までのうち。
B『■■早引節用集』、柏原屋与市・木屋伊兵衛(大坂)。
C書名不明、長村(半兵衛カ。京都)・菱屋(治兵衛カ。京都)。
D判型か。
E差構か。
F不明。特に問題とならなかったか。
G京都済帳。
H早引節用集初の版権問題だが、京都済帳には「早引節用ニ付、長村・菱屋出入之事」とあるだけで、詳細は知られない。『早引節用集』の判型が三切縦であること、前例のように長村・菱屋が小型本にかかわることから、判型に関することかと思われる。とすれば、のちに『■■早引節用集』(宝暦七年刊)として同体裁の早引節用集が再板されていくので、このときの問題は解決されたということになろう。
 早引節用集の版権問題といえば検索法に関わるものが比較的知られているが、初の問題が右のような判型の問題だったとすれば、早引節用集の展開を考えるうえで興味深い。つまり、早引節用集の出現直後における他の書肆の反応とは、検索法ではなく、判型に重きをおいたものだったことになるからである。もちろん、うがった見方をすれば、判型についての問題は表面上のものであって、実は、それを手掛かりに早引節用集の版権に食い込もうとの意図があったということも考えられないではない。が、これ以上の資料が得られないので、この点については可能性として考えられるにすぎない。そのうえ、後述のように、早引節用集に刺激を受けた書肆たちの反応とは、まず、イロハ二重引きの検索法の考案であり、ついで早引節用集の検索法の剽窃ないし改良へと移っていくものと認められる。したがって、宝暦三年の時点では、やはり小さい判型の新たな節用集というのが早引節用集に対する一つの代表的な見方であったと思われるのである。

19文会節用集*
A宝暦五年七月終了。
B『文会節用集大成』、堺屋清兵衛・吉文字屋市兵衛(大坂)。
C(大坂町奉行所)。
D『文会節用集大成』の板行免許の願い出に対し、奉行所から付録に「武鑑」が入っていることにつき、下問があったもののようである。
E禁忌に触れるおそれがあるためか。
F本屋仲間で再度内容を検討し、節用集に武鑑を入れるのは先例があることなどを述べ、再度、願い出る。
G大坂差定帳一番。

20大節用文字宝鑑
A宝暦六年六月に問題化。八月には小康か。ただし、京都済帳の宝暦八年正月から五月までの項に再度記載あり。この時期にふたたび問題化したか。
B『大節用文字宝鑑』、吉文字屋市兵衛・堺屋清兵衛(大坂)。
C『広益字尽重宝記綱目』、村上勘兵衛(京都)。
D検索法(合類型)と判型であろう。H参照。
E「差構」。
F不明。宝暦六年の場合は沙汰止みとなったか。八年のものについては京都済帳のほかに資料がなく不明。
G大坂備忘録。京都済帳。
H大坂行司から京都行事への書簡に「市兵衛方ニ三つ切り本ハ所持仕、字尽門部いろは分ケも所持仕居申候」とあり、判型と検索法が問題の要点と思われる。ただし、『広益字尽重宝記綱目』は二切であって、さまで抵触するとは思われない。
 なお、村上は、写本の段階でクレームをつけてきており、大坂本屋仲間に、一種の内通者がいたことを思わせる。佐藤「『合類節用集』『和漢音釈書言字考節用集』における版権問題」(『近代語研究』一〇、武蔵野書院、一九九五)を参照。

21女節用文字袋 
A宝暦六年九月。
B『女節用文字袋』、秋田屋市兵衛(大坂)。
C(大坂町奉行所)。
D禁忌に触れるおそれ。
E「紋尽」に葵の紋が入っていたのを除くよう申し渡される。
F葵の紋を削って板行。
G大坂裁配帳一番。
Hこれをうけて、他に一三本の節用集も葵の紋を削った。事例26参照。

22宝暦節用字海蔵
A日付明記せず。宝暦七年正月から五月のあいだに問題化、宝暦八年九月から翌年正月までのあいだに終了。
B『宝暦節用字海蔵』、吉文字屋市兵衛(大坂)。
C『倭節用悉改嚢』、同書相合連中(京都)。
D不明。罫線入り割行表記か。
E「指構」。
F不明。江戸へ売留の依頼あり。
G京都済帳。
H『倭節用悉改嚢』は、のちにも罫線入り割行表記をめぐってクレームをつけることがある。『宝暦節用字海蔵』(宝暦六刊)にもそのような表示法が取られているので、その点が問題となった可能性が考えられる。なお、『宝暦節用字海蔵』の再板は聞かない。あるいは、板木をつくり直しての再板をみとめない「板木一代限り」との内談でもあったものか。

23国字節用集  
A宝暦七年五月問題化。
B『国字節用集』*、吉文字屋市兵衛(大坂)。
C『新増節用無量蔵』、木村市郎兵衛(京都)。
Dイロハ二重検索。ただし、『新増節用無量蔵』は言語門のみだが、『国字節用集』は全体に及ぼしたものと思われる。
E「差構」。
F経過など不明ながら、開板されなかったものと思われる。
G大坂備忘録。京都済帳にもあり。
H全編にイロハ二重検索をほどこした最初の節用集。同趣の引様は五年後、『早字二重鑑』(江戸)・『安見節用集』(京都)などにも採られる。なお、本件は、早引節用集の板元・柏原屋与市が事前に木村に通報した点、興味がもたれる。佐藤「近世後期節用集における引様の多様化について」(『国語学』一六〇、一九九〇)、同「近世節用集の類板」(『岐阜大学国語国文学』二一、一九九三)参照。

24大大節用集万字海
A日付明記せず。宝暦七年正月より五月までに問題化し、終結か。
B『大大節用集万字海』、万屋作右衛門(京都)。
C『公家鑑』*、出雲寺文次郎(京都)か。
D付録として公家鑑をいれたことによる。
E差構であろう。
F不明。
G京都済帳。
H宝暦一二年板(東北大学附属図書館蔵)の刊記には出雲寺の名は見えず、出雲寺も版権の取得までは主張しなかったものか。

25岷江節用集* 
A日付明記せず。宝暦八年五月から九月までのあいだに問題化したか(京都済帳)。
B『岷江節用集』*、小川彦九郎・奥村治助・奥村喜兵衛(江戸)。
C書名不明、吉文字屋市兵衛(大坂)か。
D不明。
E「差構」。
F不明。
G京都済帳。大坂出勤帳。江戸割印帳。ただし、いずれも断片的な記述のみ。
H大坂側の記録では、「一岷江節用〔右書、差構出入ニ相成候ニ付、吉文字屋市兵衛方へ預り置候〕」(出勤帳一番明和五年正月二〇日)とあるのがもっとも詳しいものである。
もっとも早い記録は、江戸割印帳の宝暦七年一二月二五日、宝暦八年四月二四日割印分。
京都済帳には単に「泯江節用之事」とあるのみだが、済帳の性格からみて、おそらく、何らかの触れが大坂行司からまわったことを記したのであろう。
 なお、大坂記録などには、文化八(一八一一)年一一月のこととして、『岷江節用集大成』が『急要節用集』と改題したことが記されるが、書名のめずらしさからみて、本書のことと思われる。

26(葵紋所収の諸書)
A宝暦九年七月六日から同月中。
B『女節用文字袋』ほか。
C(大坂町奉行)。
D禁忌に触れるおそれ。
E「紋尽」に葵の紋を載せる書について下問があった。
F事例21の際に削除したもの一三本、古板木でまだ除いていないもの二本、除いてないが焼失したもの一四本を届け出る。
G大坂裁配帳一番。
H事例21参照。

27書札節用要字海
A日付明記せず。宝暦九年正月から五月までに問題化。なお、三月付けで伏見屋より証文をとったことが知られるので(京都諸証文)、このころか。
B『書札節用要字海』、伏見屋(植村)藤右衛門。
Cなし。
D付録について。H参照。
E付録に関する変更などを仲間行事に問いあわせたものであろう。
F伏見屋の申し出をそのまま受け入れる。
G京都済帳。
H原文は次の通りである。
 一書札節用之入レ事此度本文之首書ニ入申度旨被申出候伏見屋藤  右衛門より/勝手次第と申渡候事である。この文面だけをみれば、次のように解釈されよう。
 (ある人が)「『書札節用』の付録を(自分の新板に)頭書として入れたい」と申し出られた。伏見屋から「どうぞ御自由に」と言い渡したこと。(丸括弧は佐藤の補足) 文としての結構は整うかに見えるが、このような大事な事柄にもかかわらず、申し出た書肆の名や新板書の名が記されないのは不審である。また、この文面を記した行事の立場からすれば、伏見屋の回答という行為に「申渡候」と無敬語で遇するのも不自然で、「被申渡候」とあるべきところである。ただ、これについては担当行事が伏見屋であればありうる表現だが、当時、伏見屋が行事であったかどうかは不明である。
 右のような解は『書札節用要字海』が伏見屋の開板書であることを念頭におけば採用しがたく、次のようになろう。ただし、これでも不自然な点はのこる。
   『書札節用』の付録を、(これまでの体裁、あるいは予定の  体裁とは変えて)今度は頭書に回したい」と申し出られた。伏  見屋から。(行事である私は)「どうぞ御自由に」と言い渡し  たこと。
 無敬語であることについては自然なのだが、「伏見屋藤右衛門より」が倒置されるのは、この種の文書としては不審である。が、いま、この解の方がより不自然な点が少ないので採っておきたい。

28書札節用要字海
A日付明記せず。宝暦一〇年五月から九月のあいだに問題化。最終記事は、明和五年正月から五月のあいだ。
B『書札節用要字海』、伏見屋藤右衛門(京都)。
C書名不明、吉文字屋市兵衛(大坂)。
D不明。
E「差構」。ただし、口上書、明和五年正月から五月のあいだにでる。
F宝暦一一年九月より翌年正月までの記事に、大坂より売留の依頼が 京都仲間にあったことが知られる。
G京都済帳。大坂出勤帳は断片的記事。
H不明多く、記述不能。期間中、少なからぬ書簡の往復があることは知られる。それに付随して、『袖中節用集』のほか『宝暦節用』『文会節用』などの書名が散見する。『宝暦節用』が『宝暦節用字海蔵』(宝暦六年刊)、『文会節用』が『文会節用集大成』(同。
普通、文政二年本が知られるが、宝暦六年本現存。米谷隆史氏蔵)だとすれば、『袖中節用集』とともに吉文字屋の関わる書である。これらに抵触したものか。なお、『書札節用要字海』は半切横本で、頭書に分野別の「世宝用文章」を掲載するのが特徴である。
本件は、比較的長い時期にわたり、また、数本の節用集も関わるところから、実際にはいくつかの事例として分割できるのかもしれないが、いまのところ、一括しておく。

29文宝節用*
A宝暦一二年一〇月二六日から一一月B『文宝節用』*、吉文字屋市兵衛・堺屋清兵衛(大坂)。
C『大坂武鑑』、神崎屋清兵衛(大坂)。
D付録の武鑑に役付・諸大名付まで入っていたこと。
E「差構」。
F役付きの部分の増補を今後認めない。
G大坂裁配帳一番。
H行司一同は、『文宝節用』の武鑑は大坂に限らぬものなので、それ自体は差構としなかった。     大坂裁配帳 p.99

30安見節用集
A宝暦一二年一月から五月までに問題化。翌年一月一〇日(覚書)。
B『安見節用集』、額田正三郎ほか(京都)。
C『早引節用集』、柏原屋与市・木屋伊兵衛(大坂)。
D引様。
E類板。
F京都奉行所へ出訴するも吟味されず、板木買収となる。
G大坂差定帳一番。ただし、それ以前のことは京都済帳。
H早引節用集の板元が、イロハ二重引きの版権問題で表にたった点で、事例23と異なる。
詳細は佐藤(一九九〇・一九九三)参照。

31早字二重鑑
A宝暦一二年八月発覚。翌年一一月一一日、江戸評定所にて結審。
B『早字二重鑑』真字板・草字板、前川六左衛門(江戸)。
C「早引節用集」、柏原屋与市・木屋伊兵衛(大坂)。
D引様。
E類板(「重板同様之類板」)。
F江戸評定所に出訴。『早字二重鑑』真字板・草字板ともに絶板。
G大坂差定帳一番H例2331および本件でイロハ二重引きの開板の可能性は断たれた。詳細は佐藤(一九九〇・一九九三)および佐藤「イロハ二重検索節用集の受容」(『岐阜大学国語国文学』二〇、一九九一)に譲る。

32文翰節用集* 
A日付明記せず。宝暦一三年二月九日までに終了。
B『文翰節用通宝蔵』か。吉文字屋治郎兵衛(江戸)。
C『書札節用要字海』か。植村藤三郎(江戸)。
D書名の「文翰」からすれば手紙関係の付録に新味のあるものと思わ れる。その点では植村(伏見屋)の『書札節用要字海』などが想起 される。
E差構か。
F植村と対談あり、吉文字屋が板行中止を申し出た。
G江戸割印帳。
Hなお、江戸割印帳には、のちの明和七(一七七〇)年一二月二五日割印分に、板元を吉文字屋市兵衛(大坂)とし、売出しを吉文字屋次郎兵衛とする「文翰節用通宝蔵」が見える。判型の記載はなく、墨付きも八九丁であって、本件における江戸割印帳の記載−−「文翰節用集」 一一一丁−−と異なるが、改訂などを施した再板であろうか。

33万代節用*    
A宝暦一三年五月から九月のあいだに記事あり。
B『万代節用字林蔵』か。梅村市兵衛(京都)。
C〜F不明。
G京都済帳。
H「万代節用 梅村市兵衛一件」とあるばかりで、書名・人名は知られるが、問題がどのようなものであったのかは知られない。なお、「江戸割印帳」の明和三年一二月二三日の項に、「同三戌十二月      (まま)
万代節用字林宝蔵 全一冊 作者 芦田鈍永  板元 梅村市兵衛  売出 須原屋市兵衛  墨付二百八丁」とあるが、本書のことか。だとすれば、他に事例3637の件がある。


34早引大節用集 
A宝暦一四(明和元。一七六四)年五・六月以降発覚。同年一二月四日、仲間惣寄合にて決議。
B『早引大節用集』、柏原屋与市・木屋伊兵衛(大坂)。
C『千金要字節用大成』、吉文字屋市兵衛・堺屋清兵衛(大坂)。
D引様。および判型。H参照。
E「差構」。
F柏原屋らには小型本を、吉文字屋らには大型本を認める。
G大坂差定帳一番。
H検索法が関わる件で、早引節用集の板元が差構とされた唯一のものである。背後には複雑な事情もあるらしく、詳細は別稿に譲りたい。

35字彙節用集 
A明和二年一月より五月までに発覚・終了か。
B『字彙節用悉皆蔵』、藪田清左衛門(京都)
C不明。本屋清左衛門(大坂)。
H『字彙節用悉皆蔵』は、掲出漢字のもとに多数の和訓を施したところに特徴のあるもの。

36万代節用字林蔵
A明和四年一月から五月の間に発覚か。一一月二二日、結審。
B『万代節用字林蔵』、本屋市兵衛・山田屋三郎・津国屋嘉兵衛・菊屋長兵衛・加賀屋卯兵衛(いずれも京都)。 済標 290〜
C早引節用集、柏原屋与兵衛・木屋伊兵衛(大坂)。『千金要字節用大成』、吉文字屋市兵衛・堺屋清兵衛(大坂)。
D引様。判型もか。
E類板。
F一一月一三日、京都奉行所にて対決。同二二日、絶板に処せられる。一二月、京都の類板者、京都仲間追放処分になるが、一札をいれ、とどまる。
G大坂差定帳一番・鑑定録・出勤帳一番。
H後日譚として次例参照。

37万代節用字林蔵  
A明和五年正月より五月のうちから翌年一二月五日まで。
G大坂裁配帳一番。
H加賀屋卯兵衛ほか三人が『万代節用字林蔵』板木の願い下げを望んだもの。念のため、前例とは別に立てた。早引節用集の板元は、大坂奉行所に板木返還を出願し、仮名順に並べぬよう彫り替えたものの板行を認める一方、留板二枚をとった。これが諸所に現存する『万代節用字林蔵』と考えられる。

38早引節用集   A明和六年九月から翌年一月のあいだに発覚か。
B不明。
C早引節用集、柏原屋与左衛門・木屋伊兵衛(大坂)。
D重板。
EF不明。
G京都済帳。
H早引節用集の重板の初の件である。ただし、例によって詳細は知られず、あるいは事例40と一緒に扱うべきものか。

39早引大節用集
A明和七年五月より九月までに問題化。
B『早引大節用集』、柏原屋与左衛門・吉文字屋市兵衛ら(大坂)。
C〜F不明。
G京都済帳。大坂出勤帳二番。
H京都済帳から大坂と書状の往来のあったことが知られるが、詳細は不明である。あるいは事例45と同一のものか。

40早引節用集 
A明和七年一〇月重板。一一月発覚。翌年三月八日、結審。
B書名不明、和泉屋太助(京都)。
C『■■早引節用集』、柏原屋与左衛門・木屋伊兵衛(大坂)。
D重板。
E「重板」。
F出訴。板木取り上げ。太助は逐電したので、居所がわかり次第、申 し出るようにした。
G大坂差定帳二番・同四番・出勤帳二番。

41博物筌  
A明和七年八月七日、大坂仲間中に発覚を披露。
B『博物筌』、吉文字屋市兵衛・藤屋弥兵衛(大坂)。
C「合類節用集」*、村上勘兵衛(大坂)。ただし、当該資料の文意からみて「合類節用集」は『和漢音釈書言字考節用集』かと思われる。
D内容、一三門分けの組織など。
E「差構」。
F両者対談ののち、内済。板木五分の一を村上方へやることになる。
G河内屋新次郎写「博物筌株要用書」(弥吉光長『未刊史料による日本出版文化』第二巻〈−−に書房、一九八八〉所収)。大坂出勤帳二番。
H本文の内容・体裁が問題にされたことが明記されたもの。佐藤(一九九五)を参照。
 なお、本件の概要を伝えるのはGに掲げた「博物筌株要用書」である。これは、河内屋が『博物筌』の株を譲りうけるにあたって、京都の村上勘兵衛の所持する記録帳から写し取ったものである。版権問題に直接関わったものが、いかに詳細な記録を保存していたかが知られる。他の仲間においてもそうだが、ことに京都仲間の記録は現存分が少ないだけに、このような記録の発掘・収集が望まれるところである。

42早引大節用集   A明和七年一一月八日。
B『早引大節用集』、柏原屋与左衛門・鳥飼市兵衛ら。
C不明。敦賀屋九兵衛・和泉屋卯兵衛。
DE不明。
F話し合いがつき、敦賀屋・和泉屋が他の仲間に事情を話すように申 し出る。
G大坂出勤帳二番。
H問題となった点がどのようなことかは知られず、処理だけがFのように知られるもの。
この日の寄合では『早引大節用集』の開板手続きがなされたのであるが、それに関して何らかの議論が紛糾したもののようである。この記事の直前には「京都へ返書認、早引大節用并古文孝経国字解之事」とあるので、あるいは事例39と関わるところがあるか。

43広益好文節用集 
A不明。同書初板の刊記により、ここに配す。
B『広益好文節用集』、秋田屋伊兵衛(京都)。なお、東京大学文学部国語学研究室蔵本の刊記には、他に出雲寺和泉掾(江戸)・大野木(秋田屋)市兵衛(大坂)・出雲寺文次郎(京都)なども見える。
C早引節用集、柏原屋与左衛門・木屋伊兵衛(大坂)。
D引様であろう。『広益好文節用集』の検索法はイロハ引きの下を、語の仮名数の偶数奇数で分け、さらに意義分類したものである。仮名数への注目が抵触したのであろう。
E類板であろう。
F留板と一筆をとる。
G「偶奇仮名引節用集御公訴一件仮記録」(『大坂本屋仲間記録』第一〇巻所収)。
H文化元(一八〇四)年に、イロハ引きの下を偶数奇数の別で配列した『長半仮名引節用集』(別名・偶奇仮名引節用集)が銭屋長兵衛(京都)・播磨屋五兵衛(大坂)により開板された。が、これは、柏原屋らの『大全早引節用集』を剽窃したものであった(佐藤一九九三参照)。
 柏原屋らが版権の根拠を銭屋に尋ねたところ、『広益好文節用集』によるとの返答があったので、柏原屋らは同書についてすでに秋田屋より一筆と留板をとっていることを示したのである。

44■■早引節用集  
A明和八年二月までに終了。
B『■■早引節用集』、白木屋与兵衛(信州松本)。
C『■■早引節用集』、柏原屋与左衛門・木屋伊兵衛(大坂)。
D重板。
E重板。
F板木・摺本のすべてを譲渡することにより、内済。
G大坂差定帳二番。なおH参照。 蒔田136H本件は、江戸での売り広めを担当した山崎金兵衛からの通報によるもの。なお、重板書は亀田文庫に所蔵。
 本件の記録は、仙台での重板書『近道指南節用集』(安永三〈一七七四〉年)の処分方を仙台藩留守居役に依頼するに際し、重板・類板書の処分の先例の一つとして引かれたものである。『大坂本屋仲間記録』第八巻の七〇〜七一頁にあたるが、翻刻どおりでは書面の形式が整わず、文意もくみとれない。そこで、翻刻で三四丁・三五丁とした部分を入れ替えると無理なく読み取れることに気づいたので、大阪府立中之島図書館に問い合わせたところ、郷土資料室より回答があった。謝意を表する意味をこめて全文を示しておく。
『大坂本屋仲間記録』第八巻について お尋ねの箇所につきまして、原本を確認いたしました。原本の順序は、翻刻の通りでした。
 ご指摘の通り、原本の綴じまちがいを気付かず翻刻したようです。ただし、今回の翻刻の前後には、綴じ直しを致していませんので、かなり以前の綴じまちがいかと思われます。
    以上、おしらせ致します。
   一九九四年一月二一日 本件の記録は、翻刻本で三四丁と三六丁とした部分にまたがることになる。

45早引大節用集  
A明和八年九月以前に問題化、収拾。
B『早引大節用集』、柏原屋与左衛門・吉文字屋市兵衛ら(大坂)。
C書名不明。戸倉屋喜兵衛(江戸)か。
D頭書付録の「銘尽直段付」が抵触。
E差構であろう。
F増補はしないことを約する。
G江戸割印帳。
H詳細は不明である。

  まとめ

 検討に際して、前稿と同様に集計してみる。一つの事例であっても、複数の項目にかかる場合には、それぞれ計上することとした。また、比較の意味で、各項の末に先期の件数を同様に掲げた。
  a付録    該当事例1619212426272945 計九件  先期九件
  b本文        41         一     二  
  c検索法       20233031343643   七     一  
  d判型        151718323436    六     一  
  e版面        1422        二     一  
  f重板        384044       三     〇  
  g禁忌        26         一     〇
  hその他・不明    25283335373942    七     二
 aが多いのは先期に引き続く時期なので、自然な推移と言える。ただし、注目してよいのは、事例29が最終のものとなっているように、この点に関しての版権問題が少なくなりはじめたように見えることである。これにとってかわったのは、cdfということになるが、このうち、cdは数のうえでもaに拮抗するほどであり、また、先期にははなはだ少なかった事例である。このような争点の転換を今期の特徴としてよいであろう。
 論述の都合で、まずdからとりあげる。dの問題は小型版によるものである。近世節用集は、いわゆる大本・美濃判が主流であったが、はやく源太郎本(元和五〈一六一九〉年刊)や『二体節用集』(元和五〈一六一九〉年以降寛永三〈一六二六〉年以前刊)などの半切横本も現れ、延宝三年刊書籍目録には「同(節用集)古本  三切 四切」なども見え、判型上の工夫は比較的古くからあったことが知られる。今期において、いくぶんか熱心にあらそわれたということになろう。ただ、そもそも、判型の開拓の幅自体、さして広いものではなく、いずれ、かげりを見せはじめるものと考えられる。
 cでは、事例20が合類型のものなので先期と変わらないが、事例233031はイロハ二重引きなどの仮名順引きであり、343642は早引節用集の仮名数引きのものである。この変化は興味深い。イロハ二重引きなどは、おそらく早引節用集に刺激を受けた他の書肆が節用集に導入したものと思われるが、それが一段落すると早引節用集との類板問題が起き、ついでfがすべて早引節用集の重板として現れることにつながっていく。つまり、早引節用集の影響は、はじめ相応に創意のあるものとして新たな引様の導入・考案を招来したのだが、次第に早引節用集と同工異曲のものへ、さらに剽窃・重板へと、その手法を退歩させていったのである。一八世紀後半に新案された検索法が、一部の例外を除いて、その有用性を低下させる方向をとったことを指摘したことがあるが(佐藤一九九〇)、それと同じ傾向が認められることになる。その原因は、早引節用集の板元がイロハ二重検索をはじめとする仮名引きにまで、その版権を拡大解釈したからにほかならない。ともあれ、版権問題が、早引節用集をめぐるものへと推移しつつあることが、今期では明らかに認められるのである。
 なお、不明とした件も多くなっている。これは佐藤の力不足ということもあるのだが、京都記録のような標題だけのものがある一方、大坂出勤帳のように些細なことがらをメモとしてでも書き留めようとする傾向なども考えあわせられる。塚本学『都会と田舎』(平凡社、一九九一)では、一八世紀後半以降、多種多様な記録が作られる「文書依存のひろがり」という現象が認められるというが、本屋仲間の記録も軌を一にするものと見え、言語生活史の観点からみても興味深いものがある。



三階板について(前稿補記)  前稿の「5字林節用集」のH項において、柏原屋清右衛門らが三階板百人一首の版権を所有しており、それが元禄一三年ころにまでさかのぼる可能性を示唆した。現在までのところ、そのような三階板百人一首の存在は確認できていないが、大阪大学附属図書館に『三玉集』という三階板の存することを米谷隆史氏より御教示たまわった(一九九五年一〇月)。いつものことながら御厚意に感謝申し上げる。
 さて、本書は、各面を上中下三段にわかち、それぞれに「伊勢物語」「和歌奇妙談」「古今和歌集」を配するものである。刊記には「元禄十二年己卯年九月上旬」の年記と、柏原清右衛門・鳥飼市兵衛・隅谷源右衛門の名が見える。したがって、柏原屋らは元禄一二年には確実に三階板(の歌集)を開板していたことが知られ、柏原屋らと伊丹屋茂兵衛の係争に関しては前稿に記した三階板百人一首についての推測がより可能性のあるものとして認めることができるように思う。
 ただ、三階板については、節用集や百人一首以外の書籍でどのような状況であったかなど、広く確認してから再度検討する必要もあろうかと思う。たとえば、さきごろ入手した『庭訓往来』(万屋清兵衛・油屋与兵衛・村上〈以下剥落〉・雁金屋〈以下剥落〉・菊本賀保〈以下剥落〉刊行)は、上中下段に「御成敗式目」「庭訓往来絵抄」「庭訓往来」を配するもので、元禄八年と柏原屋らよりも早い刊行となるのである。
 しかしながら、三階板をめぐって手を広げることは、本稿の目的からはずれるものであり、筆者の微力ではおよばぬところでもある。とりあえず、これ以上の追究はひとまず控えておきたい。

『岐阜大学教育学部研究報告(人文科学)』44−2(1996)所収