e3 岡田寿彦『論文って,どんなもんだい』(駿台文庫、1991年)より

=====================================================

 

e3/11 論文とは、「問い」に対する「答」としての、自分の「考え」を述べ、その「考え」が読者によくわかるように「説明」を加えた文章である。

 

e3/11 「説明」とは、現実の他者あるいは想定された他者からの「問い」に対する「答」である。

 

e3/12 【「論文構造分析表」の一例(「論文構造設計表」は91ページの例がよい。)】

 

e3/14 父:論文を書く練習をするには、自分が関心を持ちやすい「主題」についての「問い」、それも「賛成か反対か」といった、答えやすい形の「問い」から始めるのがいい。

 

e3/14 娘:「心に浮かんだこと」をそのまま書いちゃいけないの?

父:論文を書くのでなければ、それでもいっこうにかまわない。だが、論文を書くとなると、話は違ってくる。

 

e3/14 娘:「心に浮かんだこと」が「考え」になっていない場合って、どんな場合?

父:「心に浮かんだこと」が「問い」に対する「答」になっていない場合さ。

 

e3/25 父:「問題」を「悪」と同一視する人は、「考える」ことをしたくないんだ。「問題が起こるから反対だ」「問題を起こさないでくれ」とか言うのはそういう人だ。

 

e3/25 父:……だれかが「問題が起こる」とか「それは問題だ」とか言ったとしても、その人がほんとうに何かを「問題」に「する」ことをしているとは限らない。

 

e3/42 父:【文の最後に「……と私は考える」をつけて】「……と考える」と言っても、おかしい感じがしないのは、それが、きちんとした「考え」になっているから、つまり、きちんとした「問い」に対する「答」になっているからだよ。

 

e3/58 父:書くのによさそうなことが心に浮かんでくるのを待っていてはだめだ。……自分で自分に「問い」を向けなければ、「意見」は生まれて来ない。自分の意見を書けない根本の原因は、自分に向ける「問い」を自分で「つくる」力が弱いということだ。

 

e3/65 娘:じゃ、相手が述べている「主張」を、そのまま繰り返せば、それで「賛成意見」を述べたことになるんじゃない?

父:なるよ。……。

娘:でも、それは自分の「意見」ではない……

父:と、他人が言うことはできない。

 

e3/65 父:……「賛成意見」は、「考える」ことをしなくても述べられる。相手が述べていることを、ただ繰り返すだけでいいんだ。

 

e3/65 父:「賛成意見」そのものは相手の「意見」の繰り返しでしかない。述べられなければならないのは「賛成理由」だよ。

 

e3/78 娘:【環境問題についての自分の論文について】……こういう答案は、自分でも、つまらないと思っちゃうわ。

父:どうしてだろう?

娘:自分の「考え」を書いてるって気がしないもの。「問い」に対する「答」を書いているには違いないけど、その「答」は、「自分の考え」じゃなくて「知識」にすぎないんだわ。

 

e3/78 父:「知識」でしかない、と君が言うのは、それが自分で「考える」ことをしながら身につけた「知識」じゃないからだろ?

 

e3/82 【「創造すること」について考えを述べよ、という問題で、「問い」を設定するための一覧表】

創造することは、……であるか。

創造することは、……するか。

創造することは、……を……するか。

創造することは、……によって……されるか。

【創造することは……に似ているか、という問いもおれなら付け加えるだろう。】

 

e3/86 父:……。関心があれば、知識も蓄積されていくものだ。〈問い2〉に対する君の「答」についての質問は、このあたりで終わりにしよう。これから先は、だれかが言ってることの受け売り的な「答」しか期待できないからだ。

 

e3/89 父:……。君はその知識を答案の中で述べると気が引ける?

娘:べつに。

父:気が引けることがないのは、その知識が「自分のもの」になってるからだよ。

 

e3/91-92 【「論文構造設計表」とそれに基づく答案の実例として最適。】

 

e3/91 【論文構造設計表の一部】

[問い]創造することが学ぶことによって促されるとは限らず、かえって妨げられる場合があるのは、なぜか。

[答]他人の創造の過程を学ぶことによって、自分もまた創造したいという意欲が生じることは多いが、創造の過程とは切り離された形で創造の成果だけが学ばれる場合には、創造の意欲も能力も低下していくからだ。

[問い]それは、具体的には、例えば、どんな場合か。

[答]問題について自分で考え抜かないうちに他人の答だけを学ぶ場合だ。

 

e3/125 父:……。自分の「感想」を述べ、それについて「説明」している文章が「感想文」だ。「説明」は、想定された「問い」に対する「答」だっから、「考え」であると言っていい。したがって、「感想文」にも「考え」は述べられている。

 

e3/125 父:……。しかし、中心になっているのは「感想」であって、この「感想」は、「問い」に対する「答」としてではなく、「問い」抜きで心に浮かんできたものだ。

 

e3/127 娘:そこまで「考える」ってのは、やっぱり相当しつこいわね。

父:しつこくなけりゃ、きちんと「考える」ことはできないよ。

 

e3/128 父:ここで筆者が「問題」にしている【ように見える】のは、「奥さん」の「考え」ではなくて「奥さん」の「気持」なんだということになる。

 

e3/129 父:筆者は「問い」をつくってはいない。だから、筆者は相手の「気持」を「問題」にしてるんじゃない。「気」にしてるだけだ。

 

e3/132 娘:「日本人に何が欠けているの?」

父:「問い」を自分に向け、その「問い」に自分で「答」を出そうとする態度、つまり自分で「考える」態度だ。

 

e3/132 父:……。……「問い」をきちんと自分に向けていないのは、それが自分でつくった「問い」、自分が「考える」ための「問い」ではないからだ。

娘:すると、それは何のための「問い」なの?

父:他人に見せるための「問い」だね。自分はこういうことも考えているんだということを他人に示すために、いや、それ以前に、自分にそう思い込ませるために、あちこちから出来合いの「問い」を仕入れてくる人が多いんだ。

 

e3/134 父:論文答案は、「知識」を述べるものではなく、自分の「考え」を述べるものだが、自分の「考え」を述べるのに「知識」が必要だというわけだ。

 

e3/138 父:……。自分の「考え」を構成する要素として「知識」が含まれており、したがって、自分の「考え」を示すことが「知識」を示すことにもなるのだ……。

 

e3/139 娘:でも、受け売りではあっても、「問い」に対する「答」には違いないんだから、それも「考え」だということになるんじゃないの?

父:いや、受け売りの「答」は、ほんとうは「答」になっていないんだ。

 

e3/139 父:受け売りの「答」は、「……と、ある人が述べている」ということでしかない。これは「なぜか」という「問い」に対する「答」にはならないだろ?

 

e3/140 娘:……【突っ込んだ「問い」を「つくる」ためには】「予備知識」が必要よ。

父:「予備知識」以前に必要なものがある。

娘:それは何?

父:「興味」や「関心」だよ。「問い」とは、「知りたい」という欲求の表現だ。この欲求が「問い」を「つくる」原動力になるんだ。