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 毎日、いろんな本に出逢います。
 素通りする本、手にとって読む本、買うだけの本、一生の支えになる本...
 そんな本をすべて紹介することはできないけれど、想い出に残ったことを少し書こうと思います。
 書評などというかた苦しいものではありません。

 そういえば高校の時、有名なプロレタリア文学を夏休みの感想文の宿題に出されて、読んでいて暗くなって落ち込んで、結局、途中で放棄してしまったことを思い出します(「つまらなかったから他の本の感想文を書きます」って書いて出したけど、高校の先生はどう思ったかな?)。
 本は読みたいときに読んでこそ、心に沁みこんでいきます。 読みたくなるような紹介もなしで押しつけられてはかないません。

  ともあれ、ここでは単に個人的な思いをきわめて主観的に綴っていくものですので、そのつもりで読んでいただき、くれぐれも憤ったり反論したりということのないようお願いします。


介護学生のための三つの津軽ことば(横浜礼子著/路上社/2003)

 何気なく、丸善の新刊案内を見ていてこんな本を見つけ注文しました。 

 ことば、特に方言はその地域での生活に非常に密着したもの。
 であれば、地域での教育、医療、行政など、さまざまな場面で方言を知らなければ活動できないのもまた事実です。
 本書は教育、医療、福祉の現場で活躍されている著者がまとめられたものとして、あまり全国に例を見ないものだろうと興味を持ちました。

 届いてみてやっぱり面白い。
 実際にこんなことばを聞くことも、話すこともぼくにはないだろうけれど、機会があったら使ってみたいものです。

 医者のスラングまで載っています。値段は\800と格安。
 今なら地方小出版流通を通して買えるようですよ。

2003/04/21 

 

 


三面 記事で読むイタリア(内田洋子 シルヴィオ・ピエールサンティ著/光文社新書/2002)

 「イタリア」とタイトルにつく本はとりあえず手にとって、あまり高くなければ買うことも多いのですが、最後まで読む本はあまりおおくありません。
 そんななかでとても面白く読めた1冊がこの「イタリア」です。

 すでにイタリアから帰国して9年。ユーロなんか手に取ったこともなければ使ったこともない。
 そんなユーロの話から始まる本書は、もう知っているイタリアではなくなってしまったようです。
 でも北イタリアではユーロの紙幣が多く配られ、南イタリアではコインばかりが配られたなんて逸話はおもわずニヤッとしてしまいます。

 ぼくがいたころと変わらないのは女性が強いというよりも元気だということ。
 でも、その事実が最近のものであることと、あたかも時間軸を南北に並べたように南イタリアではそうではないということ。
 あらためて南と北の差を感じますね。

 日本でも今、femminismoが盛んに研究されていますが、ひとつのestremaな例が本書には盛り込まれています。
 どんな現象にしろ、そしてそれを取り上げる学問にしろ、視点は常に中立でなければならない。
 どうもイタリアではそれが逆に振れてしまっているようです。
 まあ、僕の知っている「日本通」のイタリア女性たちは、そうではない人が多かったようですが。

 最初に書いたように、最後まで読む本が少ない中でこの本を最後まで読んだ理由は、やはり裏付けがしっかりしていること。
 旅行者が何日か見て回っただけで書ける旅行記とは違い、非常に質量とも深いものがありました。
 イタリアの最新事情を知るにはいい本ですよ。

2002.12.23


美濃大垣方言辞典(杉崎好洋・植川千代著/美濃民俗文化の会/2002)

 敬愛する友人が長年の研究成果をまとめられました。

 形式としては辞書ですが、大垣に関するありとあらゆる文化的情報もふんだんに盛り込まれています。
 個人的には文法関係の記述が充実しているのが非常に嬉しい。使役と他動詞化接尾辞の「〜かす」についても、音節数と意味から、どのような場合にどのような形式につくかが細かく載っています。そのほか、敬語の記述も今までの「辞書」と名の付いたものに比べて格段に詳しいですよ。

 大垣に住む人なら誰もが持っていたい、また岐阜県内外の人にもぜひもってほしい一冊です。

 ご注文はこちらからとのこと。

2002.11.19


東北ことば(読売新聞地方部編/中公新書ラクレ/2002)

 東北地方のことばはいわゆる共通語からだいぶ離れているがゆえに、方言としての価値も高いよう。
 そんな環境でひとつひとつのことばが生き生きと使われている様子がこの本には描かれています。

 とかく方言の本というとその地方の特徴的な語彙を載せたものがおおいですね。
 または、その特徴的な語彙について、おもしろおかしく語ったものなども。
 それはそれでいいのだけれど、方言というか、ことばというのはもっと多様な可能性を持っているもの。
 DVDを作ったり、かなりまじめに質の高い方言辞典を作ったり、この本はさまざまな可能性を教えてくれる本です。

 岐阜というところは、なかなかその点中途半端なところかもしれません。
 名古屋の方言の亜流みたいに捉えられているし、その名古屋方言とて、東北方言ほどの強烈なインパクトは持っていない。
 だって、東北方言は分からなくても、どんなにベタな名古屋弁や岐阜弁だって、聞いて分からないってことないでしょ?
(それはあんたがその土地のじんやでやって? そうかもしれーへんね。)

 盛岡では公共施設に「おでってプラザ」とか方言が活かされているよう。
 そういえば、富山でも「コラーレ」っていうホールがありました。
 どちらも「おいで」という意味のよう。
 岐阜で 「長良川国際会議場」なんて言わずに名前を付けるとしても、そんな日本語じゃないような名前なんて付けられませんね。
 鵜飼に掛けて「鮎」の意味での「あいホール」とか?
 う〜ん、いまいちインパクトに欠けるなあ。

 数少ない映像の取り組みとしては可児市のケーブルテレビで行われた可児弁講座の取り組み。
 学生に見せたけれど、非常に好評でした。
 演技もなかなか。構成もよくしたもので、一度機会があったら見てみてください。
 こういうのをDVDにしてくれれば、岐阜にもこんなんがあるって威張れるのに。

 この本のひとつひとつの取り組みに、「岐阜でもこんなのできたらなあ」「金さえくれればいくらでも調べるのになあ」と思ってしまいました。
 でも、地域全体で盛り上がらないとこういううねりというか機運というかは生まれてきませんね。
 まあ、地道に一人でやりますか。
 明日も一人、調査にでかけます。

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2002. 6.12


エルクラノはなぜ殺されたのか(西野瑠美子/明石書店/1999)

 日本には外国人労働者がたくさんいます。
 そのことの是非はそれぞれの人の立場でそれぞれの捉え方がされるでしょうが、
  その外国人がなぜ家族を連れてきているのか、
 その人達が職に就くまでの間、どのような目に遭っているのか、
 職に就いてからもどのような待遇を受けているのか、
 そんなことのひとつひとつも僕たちはあまりにも知らなすぎるのかもしれません。

 本は愛知県で起きた非常に悲しい事件の一部始終を綴ったもの。
 事件については悲しくてここで語る気にはなりません。
 (勇気を持って一度この本を読んでみてください。)

 事件について語ると共に、この本は、僕たち、先生になりたい人を教えているものにとって、教育がどうあるべきかを教えてくれる本でもあります。

 いわゆる外国人児童生徒は日本語ができないために、学校での勉強についていけない。
 その結果として学校をやめたりして、閑居して不善を為すの言葉通りになっていく。
 僕にもそう思っているところがありました。

 しかし、教育現場にある先生達が、このような児童生徒を排除していることに僕は大きな衝撃を受けました。
 先生達が日本人との融和を計らないで、排除しようとする、
 外国人児童生徒の持つ文化の違いをきちんと理解しないで、排除しようとする、
 排除、排除で学校がなりたっていくとき、そこには「先生」と呼べる人たちでなくても教えられる空間しか残らない。
 僕たちが先生になっていくときには、どうやって多様性を保持していくかを考えなければなりません。

 国際交流が叫ばれながら、一方で学校は依然として「白い」交流しか望まない。交流でもなく、直流しか望まないこともある。
 う〜ん、悲しくてことばがでませんね。

 このような訴えが無駄にならないことを祈っています。

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2002. 4.12


お嬢さまことば速習講座(加藤ゑみ子/ディスカバー21/2002)

 2月、3月は本を読む暇もないほど忙しく、このコーナーに書き込むこともありませんでした。
 今日、久しぶりに生協で面白い本を見つけたので、それについて書こうと思います。

 世の中に敬語に関するマニュアル本はあまた存在するけれど、「お嬢さま」であるための言葉遣いを説いた本は希少です。
 この本は一般的な敬語マニュアル本の要素は持っているけれど、やはり「特化」していますね。

 中でも「存じます」の項は面白い。
 そうか、お嬢さまは「ありがとうございます」なんて言わないんだ。「ありがとう存じます」って言わなければならないんだ。
 実際、「ありがとう存じます」なんて言っている人にはあまりお目に掛かったことはないけれど(それは僕自身が「お嬢さま」なる人種の人たちと交流を持てるだけの社会に存在していない証なんでしょうね)、そうか、こうやって使うのかということがよく分かります。
 ただ、「ございます」が「ごぜえます」という下々のことばに通じるってのは、単なるジョークでないとすると、この野郎って思ってしまいますけどね。

 一番笑えたのは、「沈黙とほほえみの術」の章。
 困ったときにも少し間をおけばなんとかなるってこと。
 ま、ここはぜひ読んでみて。

  習い事についても「お琴を少々」なんて省略してはいけないんですね。
 「たしなんでおります」とか付けなければならないなんて、優雅で緩慢なお嬢さまならではの用法。
 ほんとにこんな社会があるのだろうか。

 かくいう僕自身もあまり話のスピードが速いとついていけない人種です。
 くるくると頭が回転する人はどちらかというと苦手(嫌いというわけではなく、単に速すぎる観覧車には乗れないのと同じ)。
 ゆっくりしたペースのお嬢さまと話してみたら、さぞ話も合うでしょうね。

 さて、この本にはお嬢さまの言葉遣いは書かれていますが、おぼっちゃまについては書かれていません。
 おぼっちゃまはどんな話し方をするのかなあ。でも、それじゃ、本として売れないだろうなあ。

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2002. 4.4


手話ということば(米川明彦/PHP新書/2002)

 筆者の米川さんは「若者ことば」で有名な方ですが、本当にやりたいのは手話のようですね。
 この本は手話に対する愛情と、ろう者が受けてきた待遇に対する怒りがあふれています。

 この本はいろんな誤解(偏見)を取り除いてくれます。
 ろう者が運転免許を取ることには1973年まで禁止されていたということです。その理由は「聞こえなくても安全なのか」。
 でも、この本を読めば「カーラジオを聴きながら」や「ケータイをかけながら」よりもよっぽど安全なことが分かります。
 それよりも免許を持てないことでの社会的不利益、自立の阻害の方が問題になることを、熱意を持って語っています。
 若葉マークや紅葉マークを作るんだったら、ろう者が安心して運転できるようなマークを作ってもいいんじゃないかと思います。

 今ではあたりまえに目にするようになった手話でさえ、否定されていた時代があったこと。
 そして今でも十分とは言えない状況にあることなどが語られています。

 でも、この本は手話について弱者としての視点からだけでなく、もっと積極的にその豊かさを説いています。
 一読すれば少し心豊かになれる、そんな一冊です。

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2002. 2.4


日本語に主語はいらない(金谷武洋/講談社選書メチエ/2002)

 ちょっと専門的になりますが、日本語には主語があるかないかということがときに議論の的になります。
 自己紹介するときなどでも「私は山田です」なんて、ほんとは言わない。立って「山田です」と言えばすむことであることは日本語教育では常識になっています。
 他にも「暑いですね」のような場合、英語のような It がありませんから、主語はないということになりますね。

 まあ、詳しい論争は当該の本に譲り、僕の意見としては、次のようなものです。

 日本語では構造としてガ格を取るものと、取らないものに分かれる。
 ガ格を取らないものには、前出の「暑い」など形容詞の他、「吹雪く」のような動詞もあるが、天候に関するものが多い。
 ガ格を取るものがないかというとそうではなく、「走る」といえば「誰が?」と聞かれるだろうから、やはりガ格はある。「山田です」と言っても、場合によっては「誰が?」ということになるから、やはり述語に対してそれを補完する名詞成分が必要な場合がある。

 ガ格名詞に「主語」という特殊なステータスを与えるとすれば、やはりこの本でも触れられているように、「自分」が何を指すかとか、尊敬語は誰に対してのものかということを証拠として考える他はない。しかし、その「主語」というものの意義は西欧語、特に英語のような主語が必須であり、かつ動詞によって他の名詞成分と分けられている言語と比べて、相対的に低い。

 その上で、ガ格を取るものは、場面や文脈に応じて、特にそれが言わなくても分かる場合には、言う方が「殊更」となり、それは特殊な談話上の機能、すなわち対比などを担う。

 「主語」なるものが省略される場合と、そもそもない場合がある。この本では、どうやらその点が混同されているようです。

  根本的な論点に対して意見は違いますが、西欧語の枠組みをそのまま日本語に当てはめて分析することの問題点を問いただすという点で、この本の趣旨には賛同できます。

 でも、国文法にも問題がありますね。「形容動詞」とか訳の分からない名前の品詞は、日本語学習者を惑わすばかりですが、国語を教える人はそれが絶対的であるかのように考えて疑わない。これでは鎖国政策と同じです。
 そもそもことばのしくみ自体が違うのだから同じことばで切り取るコトなんてできないけれど、なるべくなら似た概念で比べていきたい。対照言語学というのはそんなものですね。「走る」と「犬が」が 'run' と 'the dog' と類似した関係を持つならば、それを便宜的に主語と呼んでもいいのではないかと僕自身は思います。(そんなに目くじらたてて「主語はない!」と言ってみても、そんなに得することはないように思いますけどね。)

 日本語教科書でよくでてくる「あなた」という名詞についても、「あなたは社長ですか」と言っていけないのは、社長に対して、フランス語でもいきなり 'tu'で話しかけないのと同じこと。「主語」云々の問題とは違って、語に付与された待遇が運用上問題となるだけです。

 ま、ということで、この本は、「このような主張もある」という程度に読んだらいいのではないでしょうか。

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2002.1.21


ボクが教えるほんとのイタリア(アレッサンドロ・ジェレヴィーニ/新潮社/2001)

 2001年は日本におけるイタリア年。
 でも、その前から日本ではず〜〜っとイタリアブームのようですね。
 イタリアものの書籍は、それこそ毎月のように書店に並んでいます。

 でも、多くは安易なイタリア旅行記。
 読んでも、作者の自己満足でしかなく、「深み」が感じられないものが多いように思います。
 どこかのガイドブックを写しただけの説明なんて要らない(そういえば、この下↓の本もそういう説明が多かった)。
 そんなのは退屈なだけ。

 そんな中でイタリア人が書いたものを見かけるようになりました。
 とりあえず、どんなイタリア関係のエッセイでも手にとって見てみますが、イタリア人が書いているものはやはりそのままレジへってことが多いですね。

 本書はバイオリンで有名なクレモナ出身の若き(僕よりも4歳も)表象文化学者の著書です。
 これを「買おう」って思ったのは、ヌテッラのことが書いてあったから。
 ヌテッラは「液体でも固体でもない絶妙な具合のハシバミの実の入ったチョコレート・クリーム」と筆者は言っていますが、僕はノッチョーラ(nocciola)のペーストぐらいの印象で捉えていました( 「ハシバミ」なるものは日本では馴染みのないものですね)。

 日本でも売ってますよ。
 富山では今はなくなった(閉店)けどダイエーで売っていたので、それだけのためにたまにダイエーにも買い物に行っていました。(岐阜ではどこで売ってるんだろう)
 パンに付けて食べるんです。
 ちょうどアーモンドクリームを、ちょっと甘くなくした感じかな。

 イタリア独特の感覚の 'furbizia('furbo'のほうが馴染みがあるけど)'や、たまんなく面 白い隠語の数々。
 ちなみに僕がイタリアで面白いなと思ったのには、ヒーローのことを'eroe'というのですが、複数形は'eroi=エロイなんてのもありました。
 爆笑です。
 こういうのをイタリア語講座でやりたいなあ。

 これは絶対にお勧めです。

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2001.12.19


情熱と冷静のあいだ(Rosso e Blu)〜文庫版(辻 仁成・江國 香織/角川書店/2001)

 生協で買ってから長い間、書棚にほってあった本をやっと読みました(正確には「読み始めました」)。

 映画を先に見てしまったので、どうも感覚が違うって思いばかりが先に立ち素直に楽しめませんでした。
 「映画化」とか言っても、まったく原作通りではないから、別のものとして考えた方がいいですね。

 映画は、こういうのも恥ずかしいけれど素直に喜べたし、泣けるところは泣けました。
 ミラノの駅でのケリーチェンの表情はいいですね。
 鼻だけで喜びを表せるシーンなんてそうはないですよ。

 ミラノへは僕自身も3回行きましたけど、いずれもお仕事。
 12月の第一日曜日に催される日本語能力試験の設営に行きました。
 だから極寒の、石畳から上ってくる冷気ばかりが想い出に残っている冷たい町という印象があります。

 一方、フィレンツェは数えられないほど行きました。
 猥雑な花の都。
 あの画材屋はあの辺りかなとか、手に取るように分かります。

 今回、こういう思い入れがあったから余計にのめり込んで映画を見ることができたんでしょうね。
 おっと、本とはまったく関係ない話になってしまった。

 映画に比べると原作はなんか'tranquillo'。
 性的関係の描写が、「蝿」のように 時間を区切っていく感じで、それでいて、その関係が全体の中では重要なものとして位 置づけられているものでもなくて、存在の必然性が感じられない。

 決してつまらないというわけではありませんが、自分の中でのギャップが大きくて、結局、どちらも今、途中までしか読んでありません。

 本当は「同じ出来事でも2人の目から見たら、ヴォイスの表現や方向性を表す表現など、どのように出てくるだろう」なんて、研究材料として買ったので、そのような接点がほとんどない原作は、その意味でもちょっと当てがはずれたって感じでしょうか。

 僕の場合は映画を見てから原作を読んだので、こんな感想を持ってしまいました。
 原作から読んだ人はどうでした?

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2001.12.16

 やっとRossoの方を全部読みました。
 少し音のない猛暑の昼下がりの感じ。
 イタリアは、少なくとも町では喧噪と活気で、あのような雰囲気を味わったことはないですね。
 かなりイメージからかけ離れたイタリアが本の中にはありました。

 それにしても「やりすぎ」。
 これもけだるさの一因です。必要のない描写は作品を低く位置づけます。
 先に見たからかもしれませんが、映画の方が数段良かったというのが率直な感想です。
 ふつうは原作のイメージを壊されたという映画が多いのですが、こんなこともあるのですね。

 

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2001.12.27


プロカウンセラーの聞く技術 (東山紘久/創元社/2000)

 岐阜大学生協のあなたの・私の・おすすめ本・広場というのがあるのはご存じですか。
 ここにこの本の紹介があり、早速買って読んでみました。

 「聞き上手は話さない」とか、「教えるより教えてもらう態度で」とか、教員としても傾聴すべきことがいろいろと書かれていました。

 僕個人の体験ですが、ゼミ生として何人かの学生と接していて、大部分はまあ適当に学生同士で話して発散しているのですが、中にはどうしても話して発散できない学生もいるようです。
 また、友達同士の話では解決せずに何らか「プロ」の意見を求めているって人もたまにいます。

 教員はそれぞれの学問分野についてはプロですが、学生指導、しかも生活全般 に関わる悩みについては素人な面もあります。
 心にまで踏み込んで指導することは、実際、恐いし、僕自身に限って言えば、その技術もないと思っています。

 ある学生は強すぎる親に対して悩んでいて、結局、最後はコンタクトもないまま卒論だけ出して音信不通 になりました。
 女の子だっただけに、そしてまた家庭の問題が絡んでいたために、何もできなかった。ただ聞くだけだった。

 でも、聞いているだけでもよかったことをこの本は教えてくれました。
 ただ、この本のことを知っていたら、もっとうまく聞いてやれたかもしれないな。

 もうひとつ大事なこと。「listenせよ、askするな」。
 根がお節介なので、どうしてもいろいろ聞いちゃいますね。
 少し黙ってよっと。

 ところで岐大にも保健管理センター相談室で心身の悩みを聞いてくれるそうですね。
 その技術を盗みに一回相談に行って来ようかな。
 

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2001.11.14


ぼくらのなまえはぐりぐら (福音館書店母の友編集部編/福音館書店/2001)

 「ぐりぐら」って知ってます? 
 かわいいというか愛嬌のあるねずみ2匹の物語。
 現在までに「ぐりぐら」「ぐりぐらのおきゃくさま」「ぐりぐらのかいすいよく」「ぐりぐらのえんそく」「ぐりぐらとくるりくら」「ぐりぐらとすみれちゃん」「ぐりぐらの1ねんかん」の7冊が出ています。
 もちろん、僕の小さい頃にもありました。さいしょの「ぐりぐら」が出たのが1963年だそうです。

 そのメイキングから作者の思いなど、たくさん詰まった1冊がこの「ぼくらのなまえはぐりぐら」。
 これは絵本ではありません。

 何よりも気に入って買ったのは、各国語版での「ぐりぐら」が入っていること。
 しかも文字だけならそれほど驚きもしないのですが、各国語版での音声が集録されているんですねえ。すごいですねえ。
 今、それを聞きながら書いています。

 さらには「ぼくらのなまえはぐりぐら。このよでいちばんすきなのは、おりょうりすること、たべること。ぐりぐらぐりぐら。」って毎回出てくる、テーマソングが歌になっています。
 僕も適当に節を付けて子ども達に聞かせていますが、そうかこんなメロディで歌ってる人もいるんだ、なんて感動しました。

 とにかく買って読んでみてください。そして聴いてみてください。いい本ですよ〜。

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2001.11.8


フェルメールの世界 (小林頼子著/NHKブックス/1999)

 時代と共に僕自身が好きな画家も変わってきました。
 学生時代はひたすら印象派に憧れ、オルセー美術館は最高!って思っていました。

 印象派がいいのは今でも変わりませんが、ローマに住んでいた頃からフェルメールがどうしても好きでたまらなくなりました。
 ニューヨークのメトロポリタン美術館、アムステルダムの国立美術館、ハーグのマウリッツハイス美術館、ワシントンのナショナルギャラリーなど数少ないフェルメールのコレクションを持っているところは、少しずつ訪ね歩いています。
 当然ですがデルフトにも行きました。有名なデルフトの風景の場所に立ってみて、今も変わらない景色に感動したものです。

 それでよくフェルメールものの本を買います。この本もそんな一冊。
 いわゆる絵画の解説ではなく、フェルメールの時代の経済の本のような読み方もできます。
 しぶちんのプロテスタント教会からあまり注文がもらえなかったオランダの画家は苦しんでいたとか、画商を副業にしていた画家が多かったなど、おもしろく読めます。

 寡作の画家なので贋作事件も多く、ファン・メーヘレン事件というのが大きく取り上げられています。
 筆者曰く贋作を見て美術史家は「魔が差したように、作品の歴史性を無視してひたすら感動を告白した」とのこと。
 要するに、贋作は贋作でしかありえず、その内容がいくらよくても価値がないということなのでしょうか。

 素人の僕が言うのもなんですが、贋作であろうと完成度が高ければいいのにと思います。
 韓国でブランド品の偽物を買ったこともありますが、それはすぐに壊れたり、ようするに完成度は低かった。それ故偽物であり、愛すべき対象とはならなかった。
 でも、逆に「本物」ってだけで高い値段を付けているものにはあまり価値を見いだせないのも一方の事実。
 要するにものさえよければ、それを愛でようが感動を述べようがいいのではないかという思いですが、どうでしょうか。

 たとえば僕はとんぼ玉を作っていますが、いろんな有名な作家さんをまねようと最初はしてみます。
 それでできないものもあります。できないもの、それは技法として知らないものを使っているか、それとも違う材料を使っているか、そのいずれかであれば怖くはありません。それは単にプロセスとして前の段階にいるだけの話。
 でも、本当にすごい人は、そんな手法云々では語れない技術を持っている人。
 まねされちゃう人はそれだけのことなのではないのかなあ。

 フェルメールの本を読んだにも関わらず、どうも17世紀オランダ経済事情と、贋作論議ばかりが印象に残りました。

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2001.10.16


日本語学のしくみ (加藤重広著/研究社/2001)

 加藤さんは富山大学人文学部の言語学者です。
 すでにこのHPのリンク集にも載せてあるので、このreviewページを見てくれるようなヘビーな方にはおなじみかもしれません。
 そんな加藤さんの新刊が出ました。

 加藤さんの本は前書『みんなの日本語教室』もそうですが、語りかけてくれる口調で読みやすいのです。
 読みやすいけれど内容が濃い。これはものを書くものとして理想の形ですが、この本はまさに読みやすい+ためになるを実践しています。
 例も豊富だから、分かりやすい。NOVAじゃないけど、「これでも読めない」なんて言い訳は通 用しませんね。

 索引を見ると一目瞭然ですが、いろんな言語が出てきます。方言も一言語ですからそれも合わせるとすごい数の言語が出てきます。
 私も言語学科卒ですので、いろんな言語を学びましたし、少なくとも抵抗感なく接することはできます。でも、こんなにいろいろな言語に接してはいません。勉強になります。
 それにしても、このような一つの言語としての日本語の捉え方には非常に共感しています。やっぱり僕は「国語」学者ではなく「日本語」学者なんです(あるいは日本語に中心をおいた言語学者)。

 章末には問題も付いています。p183の「このお肉にちょっと切り込みをいれてあげると味がよくしみこむんですよ」の「てあげる」の用法は、個人的には事態が改善するという中で、美化語的な要素として使われているのだろうと思いますが、答えがついていない!
 前書きにも書いてありますが、「はっきり結果が出ていないようなことにもおもしろ事や楽しいことがありますし、まあ、作業にかかってもいない段階だけれども面 白そうなことだってあるのです」 ということなんでしょう。これからの議論の種になればいいですね。
 ちなみに上の問題は、「あげる」だけでなくて「いれてやると味がよくしみこむ」とも言えるので、美化的な要素だけではないと僕は思うのですが、どうでしょうか、加藤先生。

  巻末の参考文献には私も加わった本の紹介もあります。ありがとうございました。

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2001.10.15


日本の科学者最前線 (読売新聞科学部/中公新書ラクレ/2001)

 名古屋大学理学部教授の野依良治氏のノーベル化学賞受賞のニュースが飛び込んできたので、生協で買ってきた本。

 素人にも分かるレベルで解説されており難しい話は一切なし。 だからちょっと物足りない感じもします。
 たとえば、「ある調味料用の化学物質」とか言わないで、グルタミン酸だと書いた方が真実味が増すのになあ。
 それにグルタミン酸ぐらいなら、いろんな調味料に出てくる名前だし、分かると思うし。なんかひとつ物足りない。

 内容については不満もあるけど、自然科学の最前線を俯瞰するにはいい本です。
 生協にも山積みでした。

 昨年度のノーベル化学賞受賞者白川英樹氏も載っていました。

 「幼稚園から大学まで、とくに秀才だったわけではない」という白川に、科学への関心をはぐくんだのは(★筆者注:文法的には「育ませた」でしょ!)、小学校から高校まで過ごした岐阜県高山の豊かな自然だった。

 岐阜県人としては嬉しいですねえ。

 野依氏以外にも多くの科学者が名を連ねているが、誰一人として人と同じ事をやれなんて言ってませんね。
 野依氏の言を借りれば「異端者」であることこそ必要だということ。同感です。

 どんな学問でも、伝承と発展の部分がある。その後者のための人は一握りの人。
 天才的素質はみんな口には出さないけど、やっぱり必要だ。それを伸ばす努力。「コツコツやってきただけ」なんて嘘! 天才がコツコツやってこそじゃないのか。

 一応、研究者の端くれとして、命の終わる前にひとつぐらい「発明」をしてみたいものです。
 それにしたって自然科学だけが「科学」だけじゃないよ。人文科学だって「科学」なんですよ。
 それに言語学はむしろ自然科学なのに、こういうところには名前が挙がらないものですね。

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2001.10.11


ローマ教皇検死録 (小長谷正明/中公新書/2001)

 後期が始まって最初は忙しく、また風邪を引いてしまったこともあって本を読んでいませんでしたが、きょう生協で面 白い本を見つけました。
 この本はタイトルの通り、ローマ教皇(法王)、イタリア語で言うところのパパちゃんの死因のお話です。

 最初から余談ですが、自分自身、ローマには3年住んでいたこともあり、バチカンはよく行きました。
 家からはバスを1回乗り換えるだけで、うまく乗り継げれば20分もあればバチカンのあの荘厳な広場の真ん中に立つことができたんだよなあ。あのころは。良かったなあ。あ〜、もう一度、ローマに住みたい! 

 でも、考えてみればそのバチカンは同時に僕自身のキリスト教不信の教科書そのものだったんですね。
 あんなものが作れるってことは、どれだけの血と汗がながされなければならないのかって思ったから。
 また、身近に感じていろいろ調べれば調べるほど、中世の怪しげな教皇の話ばかりでうんざりしたのも事実。
 僕自身の宗教に対する考え方を決定づけた3年間でした。

 本の内容は、そんな教皇達の死因の解明が主なところ。
 なんか旅行記気分で書いているところは、あまり読んでておもしろくないけど、さすがは専門家。死因の話は詳しい。
 現教皇のヨハネ・パオロ(Giovanni Paolo)IIはパーキンソン病だったのか、(まだご存命中ですので不謹慎ですね。すみません)とか、
情婦の旦那に殺されたり、も、ほんとに何でこんなのが「神の代理人」っていうのがた〜くさん出てきます。

 それからこの本で改めて気付かされたのは女性の教皇がいないということでした。そういえばそうですね。
 21βハイドロオキシラーゼ欠損症という性ホルモン代謝異常による仮性半陰陽の人はいたらしいこともこの本に書いてあります。
 それで即位の時には教皇が男であることをラテン語で唱えてから正式に即位するようになったことも書いてあります。
 ..... まったく。日本では女性が天皇になったこともありますから、日本以上に男尊女卑が奥底にあるように思えます。

 ますますキリスト教不信が強まった一冊でした。

 それにしても、マラリアがイタリア半島のほとんど風土病みたいなものとは知らなかった。現地人はそこの風土病には強いらしい(エイズも風土病の時はそれほどの致死力でもなかったらしい)。
 そう考えてみると、あやしいところに住んでいたんだなあ。
 幸い、病気にはならなかったけれど。
 そういえばなっていたんだ。アルコール漬けの脂肪肝ってやつには。
 これがいちばんの風土病ですね。

 突然ですが、宗教は(自分だけでなく)人々が幸せになるためにあってほしいと思う今日この頃です。

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2001.10.9


丁寧なほどおそろしい「京ことば」の人間関係学 (大淵幸治/祥伝社/2000)

 先日行った京都の丸善で見つけ、帰りの電車の中で読みました。

 筆者のことばによれば京都人はほんとに恐ろしい人種らしい。あんなに「ぶぶ漬け」を勧めておきながら口にしたら「ほんまに食いよった」と言うなどの恐怖体験を綴っております。

 まあ、よく言われる京都の作法の話かと思えばそうでもない。
 会話のストラテジーを紐解こうとする姿勢が見られます。

 例えば京都人の
 「かやす(返す)のは、いつでもええよ。あんたの都合のつくときで、ええさかい....。」
というのは、「いつでもいいよ」と言われても「いつでもいいわけはない」。「わたしならそんなことはしない」から「相手もそうするべきだ」という理論を経て、「はやく返せ」ということになるのだそうだ。

 まあ、事の真偽は京都人に確かめなければならないし、真の京都人なら「そんなことはない」という返事のうらに「そんなことぐらい知っとかんかい」という意味を込めていうだろうから、確かめようがないんだろうなあ。

 筆者は富山県出身者。
 富山だったら最初から「ぶぶ漬け」みたいに勧めはしないだろうなあ。やっぱり距離を置いているって感じ。
 なんか富山関係の仕事を「旅のもん(よそもの)」がしたら「先を越された」って思うらしい(富山の出版社、桂書房の「桂通 信」にそんなことが書いてあった)。

 いずれにしてもそこの土地だけで通用する illocutionary force というものがある。
 ぼくなんか「寒いねえ」だけで窓を閉めることを依頼している方なんだけど、やっぱり通 じない。
 「窓を開けてくれる?」と恩恵の付与を尋ねることが依頼になるんだから、程度問題なんだけど、それが通 用する文化(文法として確立している)と通用しない文化(それを欠く)とがあるっていうこと(個人差ももちろん大きいけど)を考えさせられました。

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2001.10.1


謎の感染症が人類を襲う (藤田紘一郎/PHP新書/2001)

  「人類は自分自身が地球を宿主にしている一つのパラサイトにすぎない」

 「おわりに」にあるこのことばは今の人類のおごりに対して警鐘を鳴らすことばとして胸に響きます。
 清潔になること、そして快適になること。その代償に払ったものがいかに大きなものかを我々に訴えかける1冊でした。

 劇症型溶血性連鎖球菌感染症は以前、日本テレビ系の「特命リサーチ200X」でもやっていましたが、今でも時々ニュースで聞きます。
 番組の中では肝臓病を患っている人が、通常の溶連菌感染症から劇症に変わるといっていましたが、この本にはそうでもないこと、原因がよくわかっていないことが書かれていました。
 致死的な伝染病が流行している地帯でなくても、そのようなことが起きるわけですから、人類に安住の地などありませんね。

 幽霊の話もそうですけど、実感のない話としてしか伝わってきません。漠然とした恐怖を抱くのも一時。次の朝には違う世界のものとして忘れてしまうのが、この種の恐怖話です。
 塩素消毒がきかないクリプトスポリジウムにしても有名なO−157にしても、狂牛病の牛を食べて発症する新型ヤコブ病もそうですが、こんな話に毎日怯えていたら、それこそ杞の国の人と同じになってしまいます。
 結局、防ぎようがないなら今までと同じに生きるしかない。心配し始めたら何も食べられなくなる。また、何をやってもイタチゴッコなんだという無力感さえ感じてしまう。
 でも、空港の近くに住むのはやめよう。

 この本は、下の井上史雄氏の本を探しに行って買ったものです。本屋ってこういう楽しみがあるからいいですね。
 ネットでばかりものを買っていると、視野がますます狭くなります。

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2001.9.28


日本語は生き残れるか〜経済言語学の視点から 井上史雄/PHP新書/2001)

 言語は平等。どんな言語(方言も含めて)に貴賤はない。
 言語学の大原則に立ち向かう本書は、2世紀先の日本語を見据えたものとして興味深く読めました。

 確かに構造面ではどの言語も平等に難しいところと平易なところを持っています。その点で言語は平等です。
 難しいと言われる日本語やアラビア語でも、それは英語国民から見ればのことで絶対的な尺度で測ったものではないのです。

 一方で、世界では英語が絶対尺度のように大手を振っている。それは事実。
 確かに経済的な側面を見れば、英語以外の言語の劣勢は否定しようもない。
 だからといって日本語がなくなるなんて...

 本書の中にラテン語との比較がありました。
 ローマももともと異民族を平定して自分たちの言語であるラテン語を広めていった。
 だが、その異民族の特色は基層言語として現在のフランス語やスペイン語でも生きています。
 また、高尚なラテン語と同時に庶民のことばとしてのロマンス語があった。
 日本がまったくローマ時代のガリアやイベリアと同じ状況下かというとそうではないと思いますが、日本語は普遍的存在とはたして言い続けられるかは考えさせられました。

 でも、井上先生はおそらくS木T夫氏の持論の裏を表面的には述べながら、本質的には日本語の大切さ(主観的な言い方ですが)を訴えているのでしょうね。

 それにしてもこの本はだいぶ探しました。先月の新刊なのに生協にはないし、1軒目の本屋にもなかった。2軒目の本屋で見つけたけれど最後の1冊。欲しい本が手に入りにくくなったと感じる今日この頃です。

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2001.9.27


世界の文字 (中西亮/みずうみ書房/1975)

 この本は、タイトルの通り、世界の文字を集めた本です。下の黒田氏の本に中西氏の他の本(『文字に魅せられて』)の紹介が出ていましたので、久しぶりに手に取ってみました。
 ここでは世界のいろ〜んな文字が紹介されています。それもきちんと活字で。
 わかります? このすごさ。漢字のような表意文字はそうはありませんので、だいたいが表音文字です。
 音は有限ですからだいたい一つの言語に50ぐらいの音があり、それにあった文字があります。といってもビルマ語のように声調によって母音字が異なるものや、アフリカのカンナダ語(昔、この言語の話者にインタビューしたことがあります)や多くの言語のように、母音の長短によって文字が違うものもあり、さらに母音が添え文字のように子音字の上下に付けられたりして一つの文字みたいになっているものもありますから、その数はすごいです。

 マックを使っている理由に、1バイトの文字であればいろんな装飾を含めて簡単にフォントを打てたことがあります(今だったらウィンドウズでも可能?)。でも、この本に集録されている文字をすべて打ち出すことはできないようです。 それだけ情熱がなくてはできないことです。

 言語はその文化を背負っています。そしてそこにはその文化を創った人たちがいる。
 インターネットでどんどんローマ字ばかりになっていったら、効率的かもしれないけれど、それこそ薄っぺらい文化の星になってしまう。
 そんなことを教えてくれる一冊です。

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2001.9.26


羊皮紙に眠る文字たち〜スラブ言語文化入門 (黒田龍之介/現代書館/1998)

 こう見えても大学では一応、ロシア語も勉強しました。私の大学の言語学科はどちらかというとスラブ語学科だったので、辞書と相談しながらであればロシア語も何とか意味が取れる(こともある)のです。

 この本はそんな知識がなくても面白く読めます。とにかく肩肘張って辞書を横に置いていなくても読めるのです。

 悩まされた発音のこともわかりやすく書いてありますが、この本が重点を置いているのはやはり文字のこと。
 スラブといっても、ロシア語のようなキリールを使うところから、ローマ字を使うところまでいろいろ。ローマ字を使うところはやはりカトリックの影響があるようですね。
 ポーランドなんかやっぱりロシアに近いせいか、どっちかなあって思うことがありますが、宗教と共に覚えられるのであれば忘れないかも。

 それにしてもこの本は文字の表が多い。グラゴール文字なんて聞いたこともなかった文字まで出てくる。う〜ん、面 白い。
 久しぶりにロシア語も勉強してみようかなあ。僕が知っているのは「窓、開くの?」ぐらいだもんな。
(ロシア語で「窓」は OKHO[アクノ]という(はず))

 著者の黒田氏はNHKのロシア語講座の先生(2001年9月現在)です。

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2001.9.25


漢字って、もともと、そういう意味だったのか (志田唯史/角川oneテーマ21/2001)

 ワープロで打ってみて気付いたのですが、このタイトルってやたらと「、」が多いですね。
 この場合、なくてもいい気がするのですが、なんで入れたんでしょう。ま、どうでもいいことなんですが。

 漢字を教えるのは日本語教育でも国語教育でもたいへんなこと。
 昨日、講演があった藤原正彦氏は「漢字のような面白くないものは反抗しない小学生のうちにたたき込まなきゃダメだ」ってこと言われていましたが、ぼくだったらそれこそ「たたき込まれた」らまっさきに反抗しちゃうかもしれません。

 そんな漢字を教えるときになだめすかす方法として字源を語ると言うこと。
 昔、「金八先生(第1回の三年B組は同じ歳でした。またやるんですね。)」で「人」という字は「お互いに支え合ってうんぬ んかんぬん」という話をしていましたが、そんな話がいっぱい載っています。
 「イヒ!」って出てくる旭化成の宣伝までばっさりやられています。 ま、旭化成の「イヒ!」にけんかを売っても大人げないですが。
 その辺の解説が俗説ではなくていろんな説に基づいていて、しかも複数から引用もあるからある程度信頼してもいいのでしょう。

 最初の方こそそんな「人」とか「親」とかまじめな字を取り上げていますが、後半はかなり艶っぽい字源の話になっています。
 この辺は授業では使えないなあと思いながら興味深く読みました。

 それにしても571円(税別)は最近の新書のたぐいとしては安いですね。こんな値段でほいほい出してちゃんとリターンはあるのかな?

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2001.9.21


知っていそうで知らない台湾 (杉江弘充/平凡社新書/2001)

 来年度、台湾からの研究生の方をおひとり受け入れることになった。
 そのために多少なりとも知っておかなければと思っていたときに生協で見つけた新書。

 「台湾人は中国人とは違う」。もともと「中国人」と中華の周辺の部族との混淆によって成立した国家との意識が強いんだ、とか、
陳水扁総統は家康に学んだところがあるんだ、なんて「知らない(かった)」ことがたくさん書いてありました。

 政治の話は小難しくて、三年住んだイタリアの政治すらわからなかったのに、こんな本一冊で台湾の政治がわかるわけもない。
 筆者の杉江さんは政治のことを書きたかったんだろうけど、個人的に面白かったのは後半の日本に対する愛憎半々の気持ちを持つ台湾の人々の本音。

 日本のアイドルがもてたり、哈日(ハーリー)族などという若い人たちがいたり、
 それはそれで日本人としてはありがたいことなんだけど、日本はそれに見合った恩恵を台湾に与えているのかなあ。
 どうも日本はいまだにアメリカ、ヨーロッパ一辺倒ですね。世界的な片思い三角関係ってところなのでしょうか。
 そんなことをしていると思ってくれている人からもふられてしまいそうだなあ。

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2001.9.20


秋田大学ことばの調査 第2集 (日高水穂編/私家版/2001)

 やっとでました待望の調査報告書。
 僕が富山で作っていた『とやま・ことばの研究ノート』 はこの『秋田大学ことばの調査』のパクリのつもりだったのですが、号数だけは追い抜いてしまい、『秋田…』の続刊を待っていました。

 今回は編者自らが書き下ろした部分よりも様々な人の参加を得て書かれた部分が多く、それだけ多様な考察がされています。
 大人数ならではの広範囲に渡る調査など、それだけでも資料的な価値が高いものですが、方言文法に関するきちんとした考察のある数少ない報告書だと思います。

 後半は学生の卒業論文の抜粋になっています。
 学生はいい資料を作ってきますね。感心します。
 それがこういうふうに形になるとまたはりあいもでます。

 こういう地域の地道な資料の積み重ねがいつか花開くといいなと思っています。
 さ〜て、岐阜の方もがんばらなくては。

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2001.9.18


日本語大博物館 (紀田純一郎著/ちくま学芸文庫/2001)

 副題に「悪魔の文字と闘った人々」とあるように、文明国家になるためには漢字を廃してもっと書きやすい文字を採用すべしと奮闘した人々の話が全体を貫いている。

 が、まあ思想がかったことは抜きにしても、いろんな文字やその文字を印刷するための機械の資料集だと思って読んでも楽しめる。

 最後の方の章に挙げられている和文タイプライターは懐かしい。
 家には、おやじが中学校の教師をしていたこともあって、昔から和文タイプライターなるものが置いてあった。
 字の汚さを自負するぼくは、中学校の時からカセットのラベルをはじめいろんなものを和文タイプで打っていた。学校に出すいろんなものの申込用紙まで和文タイプで打っていた変な奴だった。

 日本語教育をやっている立場からすれば、非漢字圏の学生にとって漢字はかなりたいへんなしろもの。
 ただ英語を母語とする人にとっても、不規則な綴り字は漢字みたいなものじゃないのかな。だいたいthrough なんて見たときには驚いたものです。psychologyにしてもそうだけど、ギリシャ・ラテン系の語の綴りを覚えるのと漢字一文字を覚えるのとどっちがたいへんなんだろう。そう考えると、別 に漢字がなくたって一応音としては表記できるんだし、ただしく発音できればワープロが勝手に変換してくれるわけだから、漢字がそんなに悪魔には見えないってのは漢字に慣れ親しんできたからなんだろうか。

 それにしても活字で印刷した本はいいなあ。あのへこみがいいなあ。オフセットはベターっとしていてやだなあ。
 今、活字で名刺って作れるんだろうか。

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2001.9.16


日本語教育学を学ぶ人のために(青木直子、尾崎明人、土岐哲編/世界思想社/2001)

 そもそも僕が日本語教育の現場に立つことになったのは、この本の編者の一人である土岐先生にお声を掛けていただいたからです。その意味でこの本は僕の日本語教育に対する思いの原点を再確認できました。

 「はじめに」のところにあるように、日本語教師に限らず教師になるということは何年もかかることです。「教師になり続ける」こと(「なろうとし続ける」こと)が求められます。
 僕自身が日本語教育の道を選んだのは、教える・育てるという過程から、また自分が教わる・育つということを得られると思ったからなのですが、 まさにその思いを再確認できました。

 国語教育は伝統があるぶん無批判に追従することが容易です。 日本語教育という新しい分野から学ぶべきことは取り入れて、いろんな方法(選択肢)を増やしてみたい人にはぜひ読んでほしい一冊です。

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2001.9.9