ちょっとしたエッセーのコーナーです。

僕は文章がうまいとはいえませんが、書き続けていることで少しずつ文章を考えるようになってきました。
ちょっとした練習だと思って書いていきます。

なお、このページの素材はこちらから使わせていただいております。


外部講師のいる授業

岐阜県内の大学を結んで単位互換をする試みの授業を、今年、やっています。
負担の多い授業ですが、中でも救いなのが外部講師の方のお話が聞けること。

最初にダニエルカールさんにきていただきました。
外国人から見た日本の方言と、アメリカの方言なんて、一般受けしそうな話題でお願いしました。
お話はたいへん興味深く、日本人がもっと郷土のものを大切にしなければならないという、こちらのねらい通りのことを話していただけたことも収穫でした。
ひとがらも穏和な方でした。

2人目は、NHKの連続テレビ小説「さくら」にご出演で、飛騨方言の指導もされていた荒木優騎さん。
飛騨方言は美濃方言とはかなり違います。
生で飛騨方言を聞かせていただき、また特徴もご教授いただきました。
役者さんらしく個性がはっきりしている反面、気配りのある方でした。

最後は、ABCのプロデューサー松本修さん。
大学院で関西に住んで以来見ている「探偵ナイトスクープ」のプロデュースをしているかたです。
古い番組ですが、「全国アホバカ分布図」の話は、映像もありおもしろく、授業では毎年使っているので、本人の口から語ってもらいました。
地図をいろいろ書いて持っていらっしゃいました。
図版化は個人でやろうとすれば、ソフトを買う金もかかるし時間もかかる。
テレビの力というのはすごいなあと感じました。

それぞれに個性のある方をお呼びして、私は面白かったけれど、学生のためにはなったのだろうか。それが、心配です。

2005.7.20


2回目の愛・地球博

職員旅行で2回目の愛・地球博(どうしても「愛知急迫」となりますね)に行きました。
梅雨の合間の土曜日ということで、過去最高の人出。
17万人を越える入場者となりました。

今度もインターネット予約を試みたのですが、1つも取れず、長男の楽しみにしていた企業パビリオンは1つも見られませんでした。
その分、いろんな国のパビリオンは見て回ることが出来、世界地理には多少、子どもたちも強くなったようです。

唯一予約できたのが「サツキとメイの家」
前回のリベンジが果たせました。
とはいっても、予約は4名まで。
子だくさんのうちでは、子どもたち3人が入れば、お父さんはおいてけぼりになります。
外で淋しくみんなが見ている姿を眺めておりました。

インターネット予約ができなかったのも、お父さんを入れて5人というのが、すべて「残席なし」となったため。
愛・地球博は、子だくさん家庭には冷たいということがよくわかりました。(少子化するわけだ〜。)
ひどい話ですね。

前回、帰り間際の大混雑で買えなかったおみやげを、朝一番でたんまり仕入れ、グッズだけはたまりました。
子どもたちのよい思い出も残ってくれるとうれしいですね。

2005.6.18


愛・地球博

隣県で開かれている愛・地球博へ、年休を取って行ってきました。
春休み最後の好天。きょうしかない!と、急遽行くことにしました。

朝、7時10分に家を出て、8時すぎには小牧の名古屋空港駐車場へ。
しかし、待っても待ってもシャトルバスは来ず、どんどん列だけが伸びていきました。
結局、1時間以上も待たされて、バスに乗れたのが9時7分。
朝イチで1つ見て... そんなもくろみは早くも打ち砕かれました。

シャトルバスは順調に会場に着きました。
そこからがまた大変。
バッグの中を完全に検めるわけではない(つまり、本当に危険物を持ち込もうとしている人を排除できるとは思えない)手荷物チェックのために30分。
とかく、子連れには試練だと言い聞かせて耐えるしかありません。

家を出てから早、3時間。ようやく入場できました。
ボランティアの方が、ベビーカーを貸して下さるとのこと。
ベビーカーは、下手をすると荷物になるだけの代物。
思案の結果、結局借りることにしました。

マンモスラボには、予約を入れておきました。
10時25分〜35分の予約に間に合うよう、走りに走りました。
まさか、岐阜市の家を出てから3時間半後の予約に、こんなに汗だくになるとは思いませんでした。

マンモスラボでは、やっぱりベビーカーをたためとのこと。
しかも、借りたベビーカーは壊れていたのか完全には折りたためず、抱えるはめになりました。
やっぱり子連れには試練を与える博覧会のようです。

映像はきれいでした。
でも、テレビ放送を業務にしているN○Kが、ほんとうに大画面で鮮明に写るだけの映像技術を開発しなければならないのでしょうか。
少なくとも、私の家にはあんな大画面がおけるスペースはありません。
受信料って、こんなところにも使われているんですねぇ。

月の石ともご対面。
大阪万博には行きましたが、見た記憶はありません。
正直、そこらへんにある石との区別はつきませんでした。
しかも、プラスチックかなにかで、ピラミッド状に固めてあったし。
警報機がならないよう、子どもたちを注意するだけでたいへんでした。

マンモスも見ました。
次の万博にも来るのかなあ。

のきなみ1時間以上待たなければならない、名古屋市や日本パビリオンを横目に、4人の子連れは比較的すいている外国パビリオンへ。
スペイン館、イタリア館を見て回りました。
イタリア館のパニーノ、おいしかったけれど、高かった(イタリアでの3倍ほど?)。

実はあまり期待していなかったけれどよかったのが、長久手愛知県館。
「地球タイヘン大講演会」は、名古屋弁での解説もご当地ものとしてはよかったし、演出もまずまずでした(映像は荒かったけれど)。
何より、テーマがまさに環境博らしいもので、きょう見られたパビリオンの中では、いちばん明確な環境への取り組みの真剣さを感じました。
でも、あの「アイスマン(なんで「相済まん」と変換するかな、ATOKは)」はほんものかなぁ。

ちょっと腹ごしらえをした後で、森林を歩いて、例の「五月」の家へ。
一生懸命、予約したのかオークションで買ったんだろうなあという「勝ち組」の人たちを横目に、遠くから拝見致しました。
とくに込んでいるわけでもないのに、もっとなんで多くの人に見られるようにしないんだろう。
先週も「ト○ロ」のビデオを見た子どもたちは、「何で見れないの?」。
何馬力かしらないけれど、少なくともここでは、夢を与えた子どもたちより「奪った」子どもたちのほうが多かったのでしょうね。
よく訓練された案内の若者たちの笑顔が冷ややかに見えました。

まあ、見られないものはしかたがない。
そのうち、「昭和村」にでも移築されることを祈りながら、山を下りました。

次男がなぜだかカナダ館へ行きたいと言い出しました。
きょうはカナダのナショナルデーだと、どこかで見たようです。
宣伝があるということは、それだけ込んでいるとのこと。
なんだかVIPまで来ていて、まさかここで何十分も待たされるとは思いませんでした。

カナダ館もそうだけど、映像と光の演出は、幼児を抱えた家族連れには要注意。
なんども1歳児には泣き出され、結局、あやすために外に出るはめに。

帰る時間も迫ってきたので、企業パビリオンに意を決して並びました。
「もしも月がなかったら」と「展覧車」に並びました。
まあ、こういう内容が平均値ですね。
待つ時間は、やはり数十分か覚悟しなければ。

食べるものは、会場内にたくさんあります。
確かに、小さな子連れには、ちょっと口に入れられるものを持っていると、並んでいるときになだめられたりしてよいかもしれません。
でも、それだけ食べているのも味気ないかな。
さきほどのパニーノのほか、韓国の焼き肉、北海の海の幸、焼きたてのメロンパン... 持って行った弁当が少なかったぶん、いろいろ食べられました。

おみやげは最後に買うもの、これは失敗しました。
大混雑の土産物屋に、最後に並んだって、買えるもんじゃありません。
ほしいものは、かさばらないものなら特に、早めにゲットですね。

帰りのシャトルバスは待ち時間0でスムーズでした。
朝7時に出て、夜9時帰着。
とにもかくにもへとへとになった1日でした。
日本国内各地と比較したアクセスの利便性を考えると、もう1回ぐらい... 
う〜ん、悩むところです。
子どもたちの「楽しかった。また行きたい。」 の声に応えるべきか...

2005.4.6


岐阜市内電車

世の中にはどうしようもないことがあるものだ。
岐阜市の市内電車がなくなったことも、どうしようもない時代の流れだったのかもしれない。
けど、さびしい。

3月のとある土曜日、子どもたちを連れて黒野から電車に乗ってみた。
線路沿い、郊外に建つ大きな工場には、満車の駐車場があった。
これじゃあ、つぶれるわけだなぁ。

大学生の頃、長良北町まで走っていた線路が廃止になった。
金華山の麓を走る線路がなくなったとき、今回の廃止もすでに運命として動き出していたいのかもしれない。
このままなくなっていいのかということを考えるチャンスだったのかもしれないが、結局、乗る人は減り続けていった。

イタリアに住んでいたとき、路面電車は確かに車のじゃまだった。
しょっちゅう運休して、バスが代行運転なんてこともあった。
お客もそんなに多いとは言えなかった。
そんなんでもいまだに走り続けている。
車が入れない中心部はもとより、郊外とを短時間で結ぶ便利さをも売り物にして。

岐阜市の電車はどうして廃止しか方法がなかったのだろうか。
産廃問題処理に巨額の費用が必要だから。
それはきっかけでしかない。
本当は、電車自体に価値がないと判断されてしまったからなのだろう。

では、どうしたら電車自体に価値をつけることができたのだろうか。
岐阜大学まで路線を延ばすなんてことは考えられなかったのだろうか。
病院が移転して駐車場や交通渋滞の問題がますますひどくなっていく今こそ、路面電車という選択肢はbetterだったに違いない。

もちろん、路線を新たに敷くのは相当な負担だろう。
でも、環境が売り物になる万博の影で、廃止されるというのは、「環境」に本気で取り組んでいないこの国の姿勢そのものに見えてしまう。
ほんとうに廃止は不可避なことだったのだろうか。
岐阜市という1つの地方公共団体だけが担わなくても、少し無理してでも、もう少し模索する手段はなかったのだろうか。

40年間、電車があるのが当たり前だと思ってきた1人の岐阜人として、心がほんとにしぼんでしまうむなしさを感じている。
ほんとうに、もう走らないんだ...

2005.4.1


テレビ出演

地元のN○Kのインタビュー番組に出ました。
きっかけはこれ

この4月から、この本のおかげで、新聞、ラジオ、テレビに取り上げてもらえました。
取り上げられるのは、個人的にも嬉しいですが、基本的に自分の活動と大学の広報のつもりでやっています。
教材作りは、教育学部としての使命でもあります。
地元の大学として僕のような専門を持つものができることといえば、そんなことだったというだけなのかもしれません。
まあ、正直言ってちょっと嬉しいけれど。

新聞はスペースも限られていますし、僕自身が直接語るわけでもない。
思ったこと、そして語ったことの半分も伝わったかわかりません。
事実、いちばん肝心な「教育関係の方に限っておわけしている」というところが伝わっていなくてたいへんでした。

ラジオの時はほとんどぶっつけ本番。
10分ほどの時間にパーソナリティの人からいろいろと質問されて、それに答えるだけでした。
顔も見えないから非常に気も楽といえば楽だけど、筋がない話になってしまいました。
お礼にともらったカセットテープ(出演料はこれだけですよ)を聞き直してみたら、なんかとりとめのない話になっていました。

テレビは、その点、違いますね。
まず、 アナウンサーの方からの電話でのアプローチがあり、そののち大学に取材に来てくださいました。
そこでゼミの風景を含め、2時間ほどの取材をしていかれ、後日、彼がインタビューの筋書きをまず考えてFAXで送ってきました。
それに対して正確さを欠くところ、表現を足したいところなどをこちらからFAXで返しました。

当日は2時間前にうち合わせ。
いわゆるカメリハというものもやりました。
録画と思っている人がいるかもしれませんが、基本的に生放送だそうです。

一番勉強になったのは、インタビュー番組はキーワードで進行するということ。
インタビュアーのほうが意図するキーワードがいくつかあり、それを中心に話が展開していきます。
シナリオがあるってわけです。
絶対に落とせないキーワードは、ぼくの答えとして引き出すような質問をインタビュアーの側からされます。
その 後で、それを僕の口から語らせて、その上でアナウンサーが繰り返す。
そうやって視聴者にきちんと伝えていくということを学びました。

テレビは5分間。
カメリハでちょっと長いということになり削った箇所もありましたが、10分ほどのラジオよりも充実感がありました。
それは、きちんと組み立てられていたからでしょう。

余談ですが事前にはほとんど誰にも出演のことをいいませんでした。
恥ずかしいし、あまり出しゃばったことをして打たれるのもいやですからね。
学生の方は、取材に来たので知っていたゼミの学生に箝口令を敷いてあったので、それを除けば見たのは80人中1人。
これじゃあ、ちょっと淋しいかな。

2003.5.21 back


Web日記

岐阜大学で自分のホームページを開設して以来、続けていた、Web日記 'agenda' のリンクをはるのをやめました。

日記というのは不思議なもの。
いろいろあったことを書き込むのは、その時点では、記録でしかないのかもしれません。
記録といっても非常に個人的なものですから、好き勝手書きたくなります。

時には、自分の中にたまっているフラストレーションを書き殴ることで発散したり、
逆に感謝をことばにすることで記憶にも強くとどめておくためにも日記というのは有効な手段です。
日記を書くことで自分の気持ちに整理を付けてきたのも事実です。

また、日記を書くことで文章の書き方も少しは上達したような気がします。
Webにはwebの書き方がある。
原稿用紙に書くときよりも頻繁に改行したり、一行開けたりしなければとっても読みにくい。
そんなことを意識しながら、自分なりのスタイルができてきたのは、このagendaのおかげかもしれません。

ただ、Web日記というのはふつうの日記とは違います。
人が見るのです。
実際、身近な人に「見てるよ」と言われることもよくあります。
個人的にはそうやって話しかけられるのは嬉しく思っておりました。

一方で人に見られて悪いことは書いてはいけません。
当然、悪口を面と向かって書いたなら、人を傷つけてしまいますし、それはネットでやってはいけないことだとわかっています。
だから憤ったときは、やんわりと、人を非難するのではなく、こういう感情を持ちました、と書いてきたつもりではあったのですが...
やはり、人の捉え方はいろいろ。
危ないぞ、という忠告を受けてしまいました。

ちょっとnervoso。

ただ、日記は未来から見れば、自分の記憶をたどるための有効な手段ともなり得ます。
今でも、実はひそかに同じスタイルで書き続けています。
ただ、リンクをはらないだけで...

そういえばagendaのリンクをはらなくなってから、この欄に書き込むことが多くなったかな。
結局、同じことになってここも閉鎖しなければならなくなっては困るんですけどね。

2003.4.8  back


機種依存文字

必要があっていろいろな大学のホームページをのぞきました。
気になるのは機種依存文字を使っているところが多いこと。

機種依存文字とはローマ数字、○つき数字、( )つき数字など、ウインドウズとマッキントッシュでは化けてしまう文字のこと。
こちらに詳しいのでご参照下さい。

機種依存文字ってのは、自分で使っているぶんには気づかないもの。
他の機種のコンピュータで見たときに初めてわかる。
だから、ウインドウズがはびこるこの世の中では、マッキントッシュのような少数派だけが文句を言う。

こうやって言う文句をどう聞くのか。
どこかの大国のように、小国のそんなゴミみたいな意見は聞けないし聞く必要はないと思うのか。
それとも単に悪意がなく使っているのか。

でも、大きな大学のホームページのような、不特定多数の人がみるようなところで、こういう文字を使うのは見識の問題のような気がします。
マイノリティへの配慮が、ホームページから垣間見られます。

2003.4.8 

 


Iくんのこと

急に友人が一人、逝ってしまいました。
先日、その「偲ぶ会」に行ってきたけれど、自分の思いは述べる機会がなかったので、ひそかにここに書いておこうと思います。

彼とは大学院で知り合いました。
愚鈍なぼくにはそのすごさの片鱗しかわかりませんが、それでもすごい奴だと思っていました。
でも、頭が切れるその反面、そのすごさだけで彼のことを思い出すことはほとんどありません。
大半は、彼の人なつっこく淋しがり屋な顔といっしょに思い出すのです。

大学院に入ってすぐの頃。
コンピュータぐらい買わないとこれからの研究はやっていけないということがわかり、買うことにしました。
自分にはマックが合っていると思い、彼とはいろいろとどの機種がいいとか話した覚えがあります。
彼がなんばで新しいコンピュータを買うとき、またそれを売り払うとき、ついていきました。
結局、かれはwindowsに変えちゃいましたけど、良くも悪くも聡いやつだと思いました。
悪口じゃなく、もっと世の中、うまく渡って行ける奴だと思っていました。

大阪での友人で麻雀をする人は多くなかったけれど、いっしょにつまんだこともありました。
麻雀は性格がよくわかります。
大勝ちしないけれど、地道に勝っている。
そんな人としての印象が残っています。
頭がいいやつなのに、人付き合いのいいやつでした。

昔取った杵柄。
ラテン語を勉強しようというときに、いっしょに隣の学部の先生にお願いに行ったのも彼でした。
日本語の道に転向してから、ロマンス語のことを話せる人は少なくなったけれど、その面 でもよき友人でした。
思考動詞がその内容の事実上の主語を対格に取ることなんて、阪大で話せるのは彼とぐらいのことだったんじゃないかな。
Vive ut cras moriturus.
ほんとに死んじゃったら、しゃれになんないよ。

ここにはとっても書けることじゃないけれど、毎年ある合宿で決まって同じ部屋になり、ワイ談で盛り上がれるのも、彼とぐらいでした。

亡くなる前日、ぼくは2つのことで彼を捜していました。
1つは最近、考えている起因を表す「で」のこと。
彼が考えていたことに深く結びついているところがあり、意見が聞きたかったのです。
もう1つはもっと下世話なこと。
息が詰まりそうな毎日だからこそ、人として彼と話したかったのです。

学会だから会えるかな。京都だから会えるだろう。
そう思って行ったその地で亡くなっていたなんて。
なんともやりきれない。

みんなは彼の死を無理やり自分たちの「生への義務」にしたがっているようだけれど、今の僕にはわからない。
それは「勝ち組」の理論でしかないような気がする。
彼に親近感を抱いていた部分がそんな勝ち組としての部分でなかった僕にとっては、そんな形では受け止められない。
やっぱり勝ち組になれなかったから、彼は逝ってしまったように思えてならない。
すくなくとも遠因にはなっていたんじゃないだろうか。

もうひとつ気になっているのは、ぼくがあることで彼の学問的な発展を間接的にでも妨げてしまったのではないかということ。

何をしたらいいのか、彼の死にぼくは未だに何も見つけられてはいない。

2003.3.24  back


たんぼのこと

僕が生まれたのは昭和40年。
周囲には家も少なく、集落の南はしにある我が家からは、数百メートル先の道沿いにあるバナナ屋さんまで何もありませんでした。

そのころ、うちには13反のたんぼがあったと聞いています。
それでも少なくなったとかで、祖母と叔母は農地改革について恨めしそうに話していたのを覚えています。
商売をやっていれば、あそこも取られなくてすんだとか、あそこにもうちの土地が残っていたとか...
近所の駄菓子屋さんに買いに行くと、僕にまで「土地を安く譲ってもらって」と言ってちょっとおまけをしてくれたりもしたものでした。

それが親戚の商売の失敗を機にどんどんなくなっていきました。
小学生の頃、田植えを手伝ったたんぼが、今年ひとつ、またひとつと手放されていったのを覚えています。
親戚の借金のかたに取られたというのはほとんどないのですが、祖母の金遣いがそれからどんどん荒くなったと聞いています。

とはいっても、株とか相場とかにつぎ込むとかではなく、ひとえに神社仏閣への寄付だったよう。
今でも近くの神社には一番でかい石に大きな字で祖母の名前が書いてありますし、
お寺でもそう、手すりみたいな石がありますね、そこに名前が あるようです。

信心深いことをべつに悪いとは思いませんが、たんぼを金としか見ない祖母には非常に反感を持ったものです。
失敗したうちの従兄弟にばかりお小遣いをやって、僕らはずっと貧乏な思いをしていたものだから余計です。
そのくせ税金だけは父が払っていたようです。
ボーナスの何倍もを固定資産税に払っていたとかで、いつもうちはカツカツでした。
だから僕は法事があっても祖母には手を合わせてやりませんでした。

でも、よく考えてみたら祖母のお陰でだいぶ固定資産税なるものは減ったようです。
農地であっても都市化の進んだ地域ではべらぼうな固定資産背がかかります。
とてもそこから上がる農産物の収入では払えないような税金を掛ける方もどうかしています。
いやけがさしてどんどん田んぼを手放す農家も近所に多くなってきました。

こうして昭和50年代から平成になる頃には回りの風景も一変。
昔は見えた長良川の花火も見えにくくなってしまいましたし、三重テレビも映らなくなりました。

たんぼがなくなった家には大きな車が見えるようになります。
その車が乗り付けるパチンコ屋が大繁盛。
農地改革の最終的な結果が、小作農家の一時的な繁栄と精神的な荒廃であったとしたら、虚しいものです。

バブルがはじけると同時に祖母がなくなり、その遺産相続で、またまた田んぼが少なくなりました。
祖母も悪いときに死んでくれたものです。バブルの頃っていちばん相続税も高かったようですから。
相続税を払うために手放し、親戚にも分けました。
田んぼの両側の土地が民家になってしまったところは、結局、作りにくいからと、アパートを建てたところもあります。

うちは家の裏の敷地で昭和30年代まで瓦を焼いていたそうで、今でも年輩の方からは「かわらや」という屋号で呼ばれます。
その家の裏の敷地にも大きな倉庫が建ちました。
僕がローマにいっていないすきに、大きな倉庫が建っていました。
「だって固定資産税を払うにはそうするしかなかったんだから」
母はそういいますが、幼い頃から柿をもいで食べた柿畑をつぶされた僕のショックは大きなものでした。
好きだった柿畑が灰色の倉庫になってしまう、これは「仕方がない」ことなのでしょうか。

「アパートに倉庫に土地もあって資産家ですね。」
そういう人もいるかもしれません。
盗みに入ろうかと思っている人もいるかもしれません。
でも、億単位で借金しているのです。
バブルの頃に建てたものは利息だってばかになりません。
それに倉庫だってアパートだって、いつまでも同じように借りてはくれません。
満期になった定期から借金を返して、結局、借金だけが残っています。

こうして生きてきた三十数年、なくなった田んぼと親しんだ風景。
その割には一向に楽になったと感じない生活。
この国の貧しい農業政策に嫌気もさしながら、週末、一日だけの農業を手伝っています。

2002.5.13  back


自転車

高校の頃は自転車で通っていました。
家から直線距離で約10km。道路は当然曲がっていますから、12kmぐらいあったでしょうか。
それを40分かけて通っていました。

だいたい、家は市内均一区間からはずれています。
僕の小学校校下(岐阜ではそのころは「校下」でした)に入ったとたん、
それまで200円なのが、300円、350円、400円、450円と停留所ごとに上がっていきます。
これも昔、市内ではなかったためと聞いています。

バスで通えば通学定期といえどもかなりの金が掛かります。
親もたいへん。僕も後ろ目痛し。
であれば、自転車で通うからその分、ういたお金をお小遣いに回してくれということで、折衝をしました。
ということで、一挙両得のその方法は高校の間、3年間続きました。

大学でも下宿していたとき、先輩から譲り受けた自転車で、名古屋を乗り回していました。
下宿は千種区。そこから栄はもちろん、名駅まで行ったこともあります。

その後、ローマに行ってからは自転車とは縁がなくなりました。
ローマではよっぽどのciclista(自転車乗り)じゃなければ、自転車なぞ見たこともない。
自転車は郊外をスポーツとして走る物で、市内を移動するときに使う物ではないという感じ。
これも、バスが安かった(たしか、一定時間内なら何回乗り換えても700リラ。当時のレートで70円)からかな。

大阪では電車に乗らなきゃ通学できない。
駅までの道も坂道なので、行きはよいけど、帰りはとても乗って帰れない。
ということでもっぱら歩きでした。

富山でも自転車を買ったことはいいけれど、歩いている方が好きになってしまったので、あまり乗りませんでした。
なぜ歩くか。それは目的地に行くまでのバス代がもったいないから。
健康のためとかいうよりも、大阪での無職で妻子を抱えて大学院に通っていたころの癖で、とにかく節約生活でした。

そのまま歩いていればよいのだけれど、岐阜に帰ってからはもっぱら自動車生活。
家が中途半端な田舎にあるので、用があるところへはとても歩いていけないのです。
それに歩かなくてもよくなってきましたからね(だいたい、ガソリンスタンドの洗車なぞするようになったのは、ここ1年ほど。それまではぜったい自分で水洗いしていました)。

ま、とにかく自転車も歩くことも金銭的な意義があったからやっていたので、 岐阜に戻ってからはしていませんでした。
でも、そんな「なまかわ(岐阜方言で「怠け」)をしていると太ってきます。
とりあえず自転車をと保健管理センターの先生にも言われていて、昨年からやろうやろうと思ってはいたのです。

でも、夏は暑い。ただでさえ汗っかきなのに、自転車に乗ってべとべとになったらたまらない。
秋は夕暮れが早い。
冬は寒い。とかなんとか言って、さぼっておりました。

さ〜て春。
何も言い訳できない。
ここでやらなきゃ一生やらないかも、と思い、自転車を買い、買った以上、乗るぞ〜と言ってきょう乗ってきました。

自動車とは違って堤防沿いの細い道をとろとろと走ってきます。
ゆっくりだと風景もよく見えますね。
こんなところにツツジがいっぱい。なんか儲けた気分。
途中、しんどければ(お、これは変換できるんだ。もしかしてもう標準語?)休むし、 通りすがりの人と「おはようございます」なんて。

いつもは15分で来る道を、40分かけて自転車で来て、汗だらだらになりながらも、楽しい朝でした。

でも、これって帰りもあるんだよなあ......

2002.4.26   back


外国暮らし

下にローマのことを書いたので、もう少しこのことを書きたいと思います。

僕は90年から93年まで国際交流基金の派遣専門家としてローマに行っていました。
国際交流基金というのは外務省の外郭団体で、文化事業などの交流をしているところです。
今はどうかわかりませんが、年間数十人の日本語教師を世界中に派遣していました。

交際協力事業団(JICA)も似たような仕事をしていますが、国際交流基金の方がお給料がいいとの話です。
だから、基金で行ってたという話をすると「もうかったでしょう?」 と必ず聞かれます。

答えはNo! 
お給料というのは当然の事ながら経歴によって違います。
年輩の方ならば高かったんだろうなあと思いますが、ぺーぺーで行った僕なんか、基本給は十数万。
しかもボーナスはなしだったんですよ。

大きいのは海外勤務手当。
これは国によって違うみたい。
ローマの場合、給料の2倍弱の海外勤務手当がついていたかな。

でも、イタリアはそのころ、物価が高かった。
ユーロ統合への前段階として、イタリアの経済に不相応なレートが付いていた。
具体的に言ってもいまさらわからないと思うけど、700リラが100円という感じだった。

それが2年間続いて、3年目からちょっとおかしくなってきた。
どんどんリラが下がってきたのです。
当然、リラで預金してあったもの(給料は基本的に海外送金のため)の価値は目減りしてしまいました。
いままでためてあったのは、どうしてくれるの?

最後の一年間は1300リラが100円って感じだったかな。
とにかく使い切れないほどのリラが入ってきたけど、それをためたって仕方がない。
最後は、暴落したリラを円に替えて、泣いて帰りました。

それから一番大きいのは、前後一年になんの保証もないということ。
7月から行って(実際にはイタリアで開かれたサッカーワールドカップのためにビザが遅れ9月に入国)7月に帰ってきて、
前の4月から7月までと帰ってきた後の半年間は給料もない。身分もない。

だからといってよくなかったわけでは全然ありません。
イタリアでの経験は何よりすばらしかったし、最後はやけになって使いまくったので、いろんなところへも行けました。
日本語教育をまじめに考えて大学院に入り直そうと決心できたのも、この経験があったからこそ。
それに国際交流基金のセンターにお誘いもいただいたので、アフターケアがなかったわけではありません。

ただ、よいことだけではなく、金銭的にはたいへんなことも多かったということなのです。
(もし、為替が逆に推移していたら、帰国時にはウハウハで実際の4倍になっていたんだろうなあ。)
いいたいのはそれだけ。

また、機会があったらイタリア、1ヶ月ぐらいなら行ってみたいなあ。
海外で教えるのもいいけれど、今の状況では無理ですね。

2002.4.11   back


ケータイ2

大阪には家内の父が建てた家があります。
仕事で行っていたローマから帰って大学院に入り直したとき、3年間住まわせてもらいました。
家賃はいらずなんとか3年間、無事大学院に通うことが出来ました。
この大阪の家がなかったら、大学院に妻子を抱えて入ることはできなかったかもしれません。

その父も今は亡くなり、空き家となっているので、大阪出張の時などときどき利用させてもらっています。
子供の春休み、僕の出張に合わせて、家族で久しぶりに大阪の家に行きました。
困っているのはもろもろの基本料金。
ガスと水道と電気はぼくが基本的には払っています。
さすがに電話までは置いておけないのでなかったのですが、今回、やっぱり必要かなと思い、ケータイを買いました。

「学生さんはお金がない」とか言ってますが、本当ですか?
学生さんのほうがいっぱいケータイ使っていますよね。
下にも書いたように、僕は月々3千円なんて払えません。
というわけで、プリペイド式のケータイを買いました。

各社ばらばらですが、○-フォンのは3000円のプリペイドカードを登録すると3ヶ月使えます。
90円/分ですから高いのは高いけど、ほとんどかけないので痛くありません。
毎月1000円の基本料金を払っていると思えばいいのですから。

ただ、不便なのはコインしか入らない公衆電話からは掛けられないこと。
出張で行った甲南大学の合宿所にはコイン式の電話しかなくて、結局、他の人のケータイを借りてしまいました。

というわけで持ってはいますが、使いませんねえ。やっぱり。

2002.4.11   back


ケータイ

学生さんには必需品の携帯電話ですが、教官の間ではあまりまだ普及はしていないようですね。
他の方は知りませんが、僕自身が持っていない理由は、だいたいそこまでして掛けることはないということに尽きます。
自宅には電話がありますし、研究室にもあります。
外へ出ても、掛ける相手は自宅がほとんどですので、公衆電話を探せば済むことと思っています。
いや、思っていました。

最近、ちょっと携帯電話の料金などが気になりだして調べるようになりました。
どんなときに使うのか。
上に書いたような理由で、こちらから掛けたりすることは、よっぽどの山奥に調査に行ったときでないとないような気もします。
確かに最近は公衆電話がなくなってきているので、必要なときもあるかもしれませんが、それでもしょっちゅう掛ける用事は今のところありません。

掛けるのではなく掛かってくるときのために必要かなと思いだしたのが、料金を調べるきっかけです。
旅芸人さんほど地方を回っているわけではありませんが、たまに出張などで家を空けます。
そんなときに家族からの電話が受けられれば安心かなって。
まあそんなところです。

今のところ、まだ真剣に考えてはいません。
めったに使わないと思っている段階で、基本料金三千円はやはり高いですね。
ちょっと悩んで、結局、使わないからってやめるのがいつものパターンなのです。


みなさんの地域では雪が降りますか?
岐阜はよく「雪国」というイメージを持たれます。「岐阜出身です」というと「よく雪が降るでしょう?」と訊かれることもしばしばです。
実際には飛騨と美濃はだいぶ違っていて、美濃地方でもさらに南の方、ほとんど愛知県に近い岐阜市辺りではそれほど雪というのは馴染みのないものです。
きょうはそんな雪に関することをいくつか。

岐阜では今年2002年は新年早々大雪になりました。 30cmほど積もったでしょうか、これは僕が生まれてから三十うん年、2度目ぐらいのことです。
去年まで住んでいた富山では12月に一回大雪がふり、30cmほど積もりましたから、慣れっこでしたけれど、やはり雪かきはつかれます。

富山と岐阜の雪の違い。それはなんといっても水分量ですね。
富山も重い雪と言われ、スキーヤーからは嫌われているようですが、岐阜市で降る雪はもっともっとびしょびしょです。
雪かきをしているそばから水になって流れていくような雪なので、かき集めてしまわなければだいたい2,3日で融けるところも多いようです。
ただ、今回はちょっと量が多かったので、なかなか融けずに残っていました。

雪が降らないことは雪に対する備えがないことからもよく分かります。
日記にも書きましたが、岐阜では雪が降ってもノーマルタイヤで走る車が多くて、逆にあぶなくてしかたがありません。
富山はだいたい12月になればみんなスタッドレスに履き替えます。
それに慣れていますから、スピードを出したりしないし、かなりの雪でも平気でした。

前の大学は山の中にありましたので、ちょっと恐い思いをしたことがあります。
夜暗くなってからも会議があったとき、すでに数十センチは積もっていて、車がどこにあるのかわかりにくかったこともあります。
そんな中を車で下りていくのですからこわいことはこわい。
でも、みんななんとか行っちゃうんですね。
僕も慣れてしまいました。
富山までの道中、飛騨の山間部もけっこう平気で走っていました。

雪はたしかに不便です。特に歩く人には不便です。
でも、それを除けばそんなに悪いものではありません。
適度に湿度を保ってくれるし、遊ぶこともできる。
今年から淋しいな、と思っていたので、親子共々大喜びの大雪でした。

2002.1.18   back


Iさんのこと

前の大学で教えていたとき、ひとりの女子学生がゼミ生になりました。
ゼミ登録の期限をすぎたある日、研究室のドアをノックし、少し覇気のない顔で入ってきたのはIさんでした。

登録が遅れたことはありましたが、その後、特に授業を休むわけでもなく、なんか元気のない子だなあと思っていたくらいでした。

ある日、何の用事だったか忘れましたが、研究室に来たIさんが、アパートのことで、親が大家ともめたということを言っていました。
思えばあれが親について初めて口にしたことだったように思います。

4年になって卒論のテーマを決める段になっても、なかなか彼女だけ決まりません。
最初は方言をやりたいと言っていたのですが、結局、それで調べようとする気配もなく、実家に帰った時に調べてきたらと言っても、特に何かしてくる気配ではなかったように覚えています。

4年の夏。どうも休みがちになってしまったので、心配して電話をしました。
最近の私立は2週間休んだら連絡するのなんてあたりまえとも聞いています。
最初、アパートに連絡したら留守電で、メッセージを入れておいたのですが返事はありませんでした。
結局、次の週、実家に電話してみてびっくり。
お母さんが、テレビの音をがんがんに鳴らして、電話で少し声を荒げていました。
何を話したか忘れましたが、僕は一生懸命謝っていた覚えがあります。

でも、この電話で彼女が覇気がない理由がわかった気がしました。

それから一度研究室に顔を出した彼女は、僕が気になって読み始めたアダルトチルドレン(AC)関係の本を見つけ、「これ私かも」とぽつりとつぶやきました。
僕が分からないなりにも、学生の「心」に興味を持ち始めたのはその時です。
広く言えば学習者の心理状態。
いくら頭が良くても心理状態がよくなければ勉強なんてできやしない。

卒業を間近に控えたある日、彼女は単位を落としそうといって研究室に訪れ、僕に相談してきました。
心理的な病気によって出席できなかったという理由を、各授業の担当教員に伝え、なんとか卒業させてやってほしいと頼みました。
卒論も何度かテーマを変えた上で、無難なものを出して卒業しました。

卒業式には顔を出さず、かけてみた電話もつながらず、かといって実家にかけてみるだけの理由もなく、「これで一生遭うこともないかな」という思いだけを持って前任地を去りました。

ふと掃除をしていたら授業を休むということを伝える彼女からのメッセージが出てきました。
自信なさげな文字で、授業を休むことを伝え、最後に「本当にすみません」と消え入りそうな小さな字で書いてあるメッセージ。

僕は彼女に何もしてやれなかったかもしれませんが、彼女は僕に大きなことを教えてくれました。
Iさん、あなたは幸せになる権利を持っています。
自分を否定しないで。

2001.12.19   back


何か食べているときに口の中をかむことはありませんか?
僕はもっぱら下唇の内側を(歯医者さん用語でいうところの)右側1番の歯でかみます。

ここをかむと当分、当然の事ながらしみます。
ひどいときにはここが膿んでニキビのようにふくれあがります。
そうすると薬を付けても何日かは盛り上がったままですから、またかみます。
そうして治癒が遅れていきます。

でも、なぜかむのでしょう。
僕だけなのでしょうか。
舌をかんでしまうことは話には聞きますが、僕自身はありません。

僕だけが下唇をかむのだとしたら、それは構造的な欠陥でしょうか。
下唇が以上に腫れているとか。
人の下唇の厚さを調べた事はありませんが、どうなんでしょう。

または出っ歯なのでしょうか。
鏡で見る限りではそんなに出ていないと思うのですが。

いずれにしてもきょうはかんでしまいました。
コーヒーのお茶請けもおいしくありません。

2001.12.16    back


商売柄、古本屋さんにはよくお世話になっています。
こんなにたくさん本を買えるようになったのはやはり就職してから。
それまでの学生時代はそんなにいっぱい本を買えたわけではありませんでしたが、いい本を安く手に入れられる古本屋さんにはずいぶんお世話になってきました。

古本屋を利用する同業者のみなさんには多いと思いますけど、結構、店主と仲良くなったりしますね。
とはいっても、向こうも商売。
仲良くなったからって、ものを安く売ってくれるわけでもありませんし、むしろ「○○探しといて」とか言ってしまうと、見つかったときにえらい高くても買わざるを得ないことになってしまいます。
ま、だいたい探求本なんてそんなに見つかりませんけどね。

地方周りを学会などでするときには、事前にその地の古本屋さんをチェックします。
昔は、全国の古本屋の載っている本なども持っていましたが、すぐにだめになる(移転したりつぶれたりも多い)ので、最近ではもっぱらインターネットでの検索をしていきます。
前回、福井ではよさそうな本をたくさんもっているところに、遠いところ言ってみたのですが、実際にはインターネット上で出している目録のものなんかは店舗には置いてないんですね。
それに営業時間も変更が多くて行ってがっかりということもたまにあります。

僕の場合、現代語をやっていますから、だいたい多くの場合は見つかります。
どんなに珍しい本でも値段さえ気にしなければ手に入ります。
手に入らないのは方言関係の書籍。
もともと地方でしか出版されてないものも多いですし、また、出版すらされていないガリ版刷りとか限定の私家版なんてのも多くあります(僕自身もそんなのを作ってますけど)。
それを手に入れるのは至難の業。
ある大学の研究会が作った方言誌を探しているのですが、ぜんぜん見つかりません。

富山では住んでいた4年間、結構、足繁く通って見つけた本もありました。
ついでに、足繁く通っていても、その間に入ってすぐに売れてしまった本もありました。
昔は必要かどうか考えてからと思っていましたけど、最近は見つけたらすぐに買ってしまうことがおおくなりました。

最近、京都の有名な古本屋で、国語学関係の本が大量に出ていました。
おや、誰か死んだのかな、と思いましたが、心当たりがない。
おそらく御退官のときにでも処分されたのでしょう。

あるエッセーで読んだことば。
「本を捨てることは知を捨てること、本を売ることは知を売ること」みたいなことばが書いてありました。
ただ、これは本が貴重だった時代のこと。
今は少し選別していかないと書棚がいくらあっても入り切りませんね。

僕もイタリアから持って帰ってきて一度も読んでない本がたくさんあります。
そろそろ捨てようかな。

2001.12.1  back


◆うちの長男(7歳)と次男(4歳)は最近、ゲームに夢中。
とはいっても、テレビを占領されると困るので、携帯用のゲームボーイだけしか買っていません。

みなさんは子どもがゲームばかりをやっていたらどう思います?
面倒なくていいと思っていると、非常に危ないように思います。思考力が硬直化しているように思いますし、ゲームの内容のせいでしょうか、発言も戦闘的だったりします。

うちでは1時間までと決めてやらせているのですが、なかなか終わりません。
昨日もいつまでたってもやっているし、そろそろやめなと言っても聞かないので、ゲーム機を取り上げることになりました。
次男は平謝りで様子をうかがっていましたが、長男の反抗的な態度にこちらも切れ、結局、とうぶんゲーム機は「旅に出る」ことにしてしまいました。

まあ、機会を見て出してやるつもりですが、もうひとつ困ったことがあります。

長男の友達が毎日のように遊びに来て、そのゲームをやるのです。
2年生から転入した長男にとっては数少ない友達と、こちらもなるべく大目に見てはいるのですが、それでも毎日来てゲームばかりやられては困ります。
天気のいい日は外で遊ばせ、家で遊ぶにしても寡黙にそれぞれゲームをやっているのではなく、もっと交流のある昔からあるゲームをやってほしいと思うのが親というものではないでしょうか。

ほんとにゲーム機をめぐってはいろいろと困ったことがいっぱいです。

2001.11.1 back


◆僕は、岐阜市内ではだいたいFM放送を聞いています。それも、京都のFM放送
え? 岐阜で京都のFMが入るの?
実は入るのです。

京都の放送局はどうも滋賀の方に向いて電波を出しているところが多いようですね。
その延長線上に岐阜はあるので、ところによっては地元放送局と同じぐらいの感度で入ります。

岐阜市内では西のはしにある環状線が好聴取エリアのNo.1です。
岐阜大学はちょっと弱い。
でも、家へ帰るときには環状線を通るので、約15分が私のラジオ聴取の時間です。

このFM京都。通称、アルファステーションは、とにかくおしゃれ。
ほんとにこれを聴いてしまうと、あとのいもくさーい放送は聴けなくなります。なんて、そんなことはないけど、抜群です。

いつも帰る時間にはTHE REQUEST SQUARE(DJ: ポール/久米村直子)というのをやっています。
ポールはときどき関西弁が入りますが基本的に英語オンリー。久米ちゃんは日本語だけ。
これがかみ合ってるんだなあ。こんな会話でいいんだなあ。というおもしろさです。

同時間帯の金曜日はCHUMMY TRAIN (DJ: 谷口キヨコ )。
これは嫌いな人は嫌いだろうけど、ぼくははまりました。
甲高い声のキヨピーこと谷口キヨコの声は、妙な感覚の世界に引っ張り込まれますね。

でも悩みは感度のいいカーステレオのラジオでしか聴けないこと。
自宅では聴けません。山間にあるので入りもしません。ぐすんです。

それから、天気にも左右されます。
西風が吹いている曇りの日は最高!
電波が風に乗って運ばれてくるし、雲に当たって反射するんだからだと勝手に思っています。
雨はだめです。電波を地面に落としやがる。
今日は、いい天気&北風が強い。う〜ん、どうだろう。

大阪に住んでいた頃からだから、かれこれ8年。間の富山時代の4年をのぞけば、僕のメインFM局です。

2001.10.23 back