1967 繊維工学科




 59, 61, 65年につづいて、67年の航空写真。宮崎写真館は、この写真をどうやって撮ったのだろう。何年かおきに、こうしたサービスを提供する会社に依頼していたのだろうか。我々にとっては、貴重なデータである。失礼ながら、岐阜弁まるだしの宮崎さんの先見性に敬服。きっと、「写真屋ならあたりめーのことやがね」とめがねの奥でしわだらけで笑って居られる顔が瞼に浮かぶ。
 さて、毎回アングルが変わるが、今回は凛真寮も含まれ、そのため北は苧ヶ瀬街道まで含まれた広域がカバーされている。すでに、その苧ヶ瀬街道の北にあった山が削られ始めているのがわかる。田中角栄の「日本列島改造」の那加版?脈々と流れる境川は、桜並木の成長という自然の景観を備えはじめながら、一方では上流から汚染物質が流され、雨が降り空気がよどむころには、大学西の方ではきもちわるいにおいが漂った。那加キャンパスの学生会館前を南北に走る道路はキャンパスを東西に仕切り、その東は市水が使われ、西側は自家水道だったという。その自家水道は地下水を汲み上げたものであり、臭うだけでなく、飲めば下痢の可能性もあった。これは地下水のせいなのか、水道鉄管の錆びなどによるものかは定かではないが、いずれにしても、住環境は良くなかった。遷都にならって、こうした老化した建物に決別する必要が有ったとも言える。
 65年にはまだ短期大学部の建物が未完成であったが、ここでは完成し、そびえている。
 再び北に目を向けると、このあと、数年後には電子工学科の設置が認められ、農場の一角にプレハブで建物が造られることになる。電子工学科の教官・学生は遠く離れていたことで大変苦労された。
 昭和40年後半に、その裏に産業道路あるいは 16m道路が作られたが、まだこのときにはその姿は無い。北東角には、馬場が有るが、これも少しするとキャンパスが狭くなり、建物が建てられることになり馬場はその産業道路沿いの一角に移された。境川が大学横から北に位置する小学校にかけてゆるやかに東へカーブし、大学から800mほどして再びゆるやかに北向きに方向を修正したあたりに橋が有る。この橋がおそらくその産業道路。
 その馬場には、今学校が建てられている。またその道路の反対には、岐阜県保健環境研究所がそびえている。  


このページに関するお問い合わせは、tel:058-293-2381 まで、
メールによるお問い合わせは 同窓会事務宛てにお願いいたします。