植物分子生理学研究室
Lab for Plant Molecular Physiology, Fac Appl Biol Sci, Gifu University
有名研究者思い出話(随時更新)
Highly Cited Researchers of Gifu University
私もそろそろ定年退職が近づいてきたので消えてしまう前に昔話をしたいと思った。過去交流があった研究者についての思い出話をここにまとめておく。読む人のことを考えて有名人重視(若手現役は軽視)にしたが、偉人列伝ということでもなくて、、、単なる私の体験談である。この欄もHPも定年退職時の2031年4月には閉じる予定。
目次:高木信夫 百町満朗 Hans Mohr (Ralf Oelmüller Gerhard Link Albrecht von Arnim) 近藤孝男 日高敏隆 杉浦昌弘 篠崎一雄 中井謙太 鈴木穣 Achim Trebst.
高木信夫(1989-94, 北大遺伝子)
ここには、私が尊敬する人その1の辻英夫先生(京大理、学部生時代のボス)と小保方潤一先生(北大遺伝子、大学院時代のボス=師匠)の話を書かねばならない、と思っているのだが、なんとなく気が重い。ので、もう少し気軽に書けそうな高木先生の話題を出してみる。
高木先生はマウスのメスではX染色体が不活化されることを発見した(教科書には必ず載るレベルの大発見)動物遺伝学の研究者。院生時代に所属していた北大遺伝子実験施設の施設長をされていたときのおつきあいがある(1989−1994)。痩せ型でひょうひょうとした、ときに剽軽な雰囲気の方である。
国際学会で海外出張されてもかならず帰国翌朝には定時に出勤されており、見習うべし、と皆から賞賛されていた。私の場合、海外出張から帰った翌日は時差やフライトの疲れでくたくたで、「仕事行くの昼からにしようかな」とか弱気になる。そうすると、「これが高木先生なら」とか昔のことを思い出すのではあるが、思い出して懐かしむだけで終わってしまうのは不思議なことである。高木先生になるのは難しい。
<書きかけ> 北大遺伝子実験施設 各研究室には行きつけの居酒屋 朝まで飲んで¥1,500 バカな子ほどかわいい説 中島登 多田高 木村宏
百町満朗(2009-, 岐阜大応用生物)
百町先生は植物病理学の研究者で、2013年には日本植物病理学会の会長をされていた。2015年に定年退職され、今は自由に過ごしておられる。専門は微生物を用いた作物の耐病性促進と成長促進であり、昨今は有機農業や持続可能農業の視点から注目されているが、 百町先生はその開拓者ということになる。有用菌、植物、病原菌、の3種が作用しあうので生物学のなかでは最も複雑な解析系になるかも知れない。
私との関わりは、定年前に院生の受け入れができなくなったとき私の研究室で受け入れたことと、一緒に渓流(源流)釣りに行く仲になったこと、がある。
定年された後は毎年初夏の頃一緒に北海道へイワナ釣りに出かけている。熊よけと先生が捻挫したときのレスキュー役としてリクルートされたのだが、今ではすっかり私も釣りにハマってしまった。
さて、北海道へ釣りに行くときには名古屋港からフェリーで行く。2泊3日の船旅のあいだに先生から貴重な昔話をよく聞いた。調べてみると1973年に北大農学部農業生物学科を卒業されており(とすると入学は1969年)、学園紛争の時代にあたっているはずだが、そんな話は一切出ない(だぶん興味がないのだ)。お話では当時の学生定員は現在と比べると相当少なく、学生は将来国を担うエリートという扱いをされる。農学部の教授陣に森樊須(ハンス、森鴎外の孫で森茉莉の、、、甥)がいた。あとはミシガン州立大に留学されたときの話とか(1986−7)。
前述の通り日本植物病理学会の会長という農学の中心におられた先生ではあるが、 日頃接していて感じるのは根っからの狩猟採集系のヒトであり、おそらくは種まいて手間暇かけで栽培してという農業には全く興味がない。研究が好きなので研究者になりました、という人は農学系では珍しいかも知れない。
2025.10.14
Hans Mohr(独フライブルグ大)
植物生理学の大研究者(注1)と辻英夫先生から聞いたことがある。定番の太い教科書(理論派でやや筋っぽい)を執筆された(Mohr & Schopfer, “Pflanzenphysiologie,” 1969~, 英訳和訳本あり)のと、photomorphogenesis(光形態形成)とskotomorphogenesis(暗形態形成)という用語を作られた(〜1970)ことが後世的には有名。私は直接お会いしたことはないのだが、研究室の出身者に知人がいる。
1)Ralf Oelmüller(独イエナ大)
私が大学院生のときの研究室のテーマはタバコ光化学系Iの核遺伝子のクローニングだった(1989〜)。タンパク質を精製して、N末端アミノ酸配列をプロテインシークエンサーで同定、その情報をもとにDNAシンセサイザーを操作して合成オリゴDNAを作成し(ウォブルポジションの配列は分散させる)cDNA・ゲノムライブラリからスクリーニングし該当クローンを探し出す。クローンの塩基配列を決定すれば、該当タンパク質の全アミノ酸配列がわかる。タンパク質の精製とN末端アミノ酸配列の決定が終わっているとすると、それ以降の行程は全部で2〜3年かかる。DNAシンセサイザーの操作は共同研究者の林田信明さん(名大遺伝子>筑波理研)の担当だったが、後に小保方研(というか北大遺伝子)にもマシンが納入された。湿度が高いと合成がうまくいかなくなるのでドライな札幌は条件がよい、という話だった。クローンのスクリーニングとシークエンシングには放射線同位元素を用いる。
一方、ミュンヘン大のReinhold Herrmannのラボはホウレンソウの光化学系Iの遺伝子クローニングを進めており、該当研究のサブチームを率いていたのがラルフさんである。つまりは競合相手だった。名古屋で行われた国際光合成会議(1992)で初めてお会いしたときには、競合相手ではあるが光合成研究分野の中でも希少な同業者というデリケートな関係だった。
その5年後くらいにはこちらのボス(小保方潤一先生)とラルフさんの歩み寄りの結果、長期的な共同研究者という友好的な関係になっていた(2002年から共著あり)。私は1992年当時はただの院生であり、1994年にラボを離れたので、共同研究者として関係構築する際の詳細は不明。私自身は彼が書いた葉緑体シグナルについてのレビュー(注2)をとても気に入っていたのでそのことを言うと喜んでくれた。
その後は学会(国際細胞共生学会)で定期的にお会いしたり、 イエナ大へ遊びにいったり、 こちらの学生(日恵野綾香・現岐阜大助教)を数ヶ月面倒みてもらったり、京都の観光案内をしたり、と友好的な関係になる。私の兄に雰囲気が似ているのでもしかすると過剰に信頼しているのかも知れないが、それでも暖かく迎え入れてもらっている。よいヒトである。ヘルマン先生も身内になってみればとても暖かいヒトだった(研究競合時には国際Faxで相手ラボを威嚇したりしていたのだが、、、)。
ラルフさんのアメリカ留学はスタンフォード大のArthur Grossmanがホストラボだったのだが、そこで当時出始めのPCRのキー酵素である耐熱性Taq酵素を発現する大腸菌クローンを入手したそうで、「おかげで3つくらいのドイツの有名大学からポジションのオファーが来た」とのこと。結局はかのゲーテ大先生から始まる植物学講座の後任教授としてイエナ大に就職を決めたそうな(注3)。
ラルフさん繋がりで知り合いになったインド人研究者がふたりいる。Sudhir K. Soporyさんはインド植物科学界の超偉い人だが、それとは別にラルフ/ヘルマン研の論文に名前があったので学生のときから名前だけは知っていた。直接お会いしたのは2016年にインドのニューデリーへ大学業務で行ったとき。訪問先のInternational Centre for Genetic Engineering and Biotechnology (ICGEB)という研究所におられた。
このときのインド出張の行程は岐阜大のオーガナイザーの先生がダンドリしていたので、誰とお会いするかは知らなかった。私はぼーっとついていくだけだったのだが(時々セミナーしろとか急に言われるので、その準備だけしておけばよい)、研究所の部門長的な方にご挨拶に伺った際、相手の名前を見てヘルマン/ラルフ研でホウレンソウの光化学系Iの研究をしていたひとだとわかった。ので初対面ながら話は弾んだ(比較的)。ついでに隣接する植物ゲノム系の研究所に私の米ポスドク時代の知人(Sudip Chattopadhyay)が直近までいたのでその話題も弾んだ(比較的)。
インド植物ゲノム界の大御所で政府にも顔が効き、痩せ型で温和な雰囲気のSaporyさんを指して 、オーガナイザーの先生が「インドの篠崎一雄」と端的に形容されていたのはちょっと面白かった。日本人にはとてもわかりやすい表現である。
Soporyさんはディレクター的なポストにつかれてからも植物科学の動向をチェックされており、論文の一枚目(タイトル、著者、要旨が書いてある)だけをプリントして空き時間に読んでおられるとのこと。有名人なのでウィキペディアに記載がある。それによると、確かに1991−2年にヘルマン研のあるミュンヘン大に留学されている。
もうひとりはBaishnab C. Tripathyさんで、Jawaharlal Nehru Universityの副学長(インドでは実質的な学長)をされていた方。なのだが、実はクロロフィル生合成の研究者。言ってはなんだが我が植物生理学分野は産業界とはちょっと距離のある清貧の学問分野なので、学長職につく(つける)人はめずらしい。最初にお会いしたときにはイエナ大にサバティカルで滞在されており、ラルフ家に食事に呼ばれた際に御一緒した(2013)。Soporyさんとは仲がよいようで、インドでの学会でお見かけした際にはふたりで話し込んでおられた。
2) Gerhard Link (独ボーフム大)
米ゴードン会議(ニューハンプシャー)に参加した際にたまたま食堂のビュッフェの列で隣になって話をしたのが知り合いになったきっかけ。ボーフム大のラボへ遊びにいった(文字通りとらないように)のは2004年なのでおそらくその前年。葉緑体遺伝子の転写制御の研究が御専門で、「日本の論文ばかりレビューが回ってくる」とかおっしゃっておられた(注4)。
2004年にボーフム大を訪問した際にはリンクさんは急遽入院中とのことで、奥様が日本人で若干日本語ができるドイツ人の先生を私のホスト役に指名しておられた。さらに、(おそらく)私が見舞いに来ないように入院先をラボの学生にも隠したまま、しかしその不明の入院先から電話で学生に客の世話を細かく指示してくるのであった。後で聞けば本人は心臓発作で入院して手術の予定がたっていた、という本来なら客どころではない状況だったらしい。後日先生の論文の別刷を頂いた。署名とコメントがあったが、別刷に直接書かれておらずに挟んだしおりに記入されている、という繊細な気配りが現れていた。(このあたり再録)
そういえば、このときのセミナーが私のヨーロッパデビューで、前日の夜とても緊張していたのを覚えている(ホテルでひとり真夜中にプレゼン練習したりして、、、、38歳なので全然若くはなかったのだが)。セミナー後、タチの悪いおじいさん(Achim Trebst)にからかわれた話は本ページの下の方にある。
3)Albrecht von Arnim (米テネシー大)
アメリカYale大のXing-Wang Deng研でポスドクしていたとき(1994〜7)の先輩として知り合った。彼がフライブルグ大Mohr研出身ということを知ったのは知り合って15年くらいたってから、横浜での国際シロイヌナズナ会議の後、一緒に鎌倉を観光しているときだった(2010)。さらに、「Mohr研には伝説のOBが二人いてね」とか言い出すので名前を聞いてみるとRalf OelmullerとGerhard Linkだったので、ちょっとびっくりした。「両方知ってる」。Albrechtさん自身もCellに論文を出した有名人だとは思うのだが(注5)、そういうことは自分からは言わないのが教養のあるヨーロッパ人なのであった。
私が岐阜大に就職した時(2009)には学内に親しい知り合いはひとりもいなかったので、研究の話はもっぱら遠方の知人と電子メールでしていた。Albrechtさんには投稿前の論文について意見を求めたことがある。そのときのメールのやりとりが以下。
Albrecht:確率値の算出はポワソンモデルを使うのかい?
私:ポワソンじゃなくてフィッシャーの検定を使った。。。。。。。!
ポワソンもフィッシャーも統計学者の名前ではあるが、普通名詞でポワソンというとフランス語の魚であり、フィッシャーは英語の漁師である。という偶然ながらなかなか気の利いた二語が並んだことになり、フランス語もそこそこの知識がある我々は(なんかすいません)この偶然を楽しんだのであった。
ボーフムのリンク研を訪問した2004年にはコンスタンツ大にも遊びにいった(文字通りとらないように)。コンスタンツに着いた初日に街を歩いているとAlbrechtという名前の地ビールのブルワリーを見つけた。名前に親近感があるのでそこで食事したのだが、よい店だった。翌日訪問した大学の先生(Iwona Adamska)が夕食に連れて行ってくれたのもこのAlbrechtだったのはちょっと面白かった。この話を本人にしたことがあったが、話の流れでドイツのビールは種類が多いという話題に変わり、「それは発酵する場所が水面か下の方かで味が変わって、」とか言い出すので、ドイツのヒトはここまでビールに詳しいのか、と 感心したことがある。
(注1)ここは「歴史に名を残した大魔法使い」的なイメージで
(注2)Oelmuller R, Levitan I, Bergfeld R, Rajasekhar VK, Mohr H. Expression of nuclear genes as affected by treatments acting on the plastids. Planta 168: 482-492, 1986.
(注3) 初めてイエナ大に行ったとき(2004)には現植物生理学講座のセミナー室に歴代教授の肖像画が並んでおり、左端にあったのがかの大ゲーテであり大変インプレッシブだったのだが、その並びの右端にちゃっかり自分(ラルフ)の顔写真を並べていたのも忘れられない。次に行ったときにはゲーテの肖像画は学内の博物館に持って行かれたようで植物生理学セミナー室から消えていたのは植物科学関係者としては残念なことである。
それはそうとして、彼の就活は私のとはだいぶ違う。 私の終身雇用のポジションが決まったのは42歳のときで、 オファーなんてひとつも来なかった。 それ以前の理研での就活時代にはなかなか就職が決まらず「就活は私のライフワークです」とか言ってやさぐれていた。
(注4)当時の状況から考えると小林裕和さん(名大>静岡県立大)と田中寛さん(東大>千葉大>東工大)の論文だと思う。お二人は競合していたので「同じような内容の論文がまた日本から」という印象になりそう。
(注5)von Arnim AG, Deng X-W. Light inactivation of arabidopsis photomorphogenic repressor COP1 involves a cell-specific regulation of its nucleocytoplasmic partitioning. Cell 79: 1035-1045, 1994.
2025.10.13
近藤孝男(1997, 名大理)
大学院生のときからやりたかった研究テーマがあったのだが、院生時代は所属ラボの研究、アメリカでのポスドク時代も所属ラボのテーマで研究をしていたため、手をつけることができなかった。帰国して理化学研究所に入所して(辞めるときは出所)、扱える研究テーマに自由度がでてきたので、初めて自前の研究テーマである「強光ストレスに対する転写応答」を進めることが可能になった。
まずはホタルルシフェラーゼ遺伝子に強光応答性プロモーター(推定)を繋いでシロイヌナズナへ導入しトランスジェニック系統を確立する。ルシフェラーゼの非破壊計測による強光応答性の計測はつくば農水生物研の山本直樹先生のところで行い、確立した系統が強光ストレス応答の解析に使えることを確認。さて、次は研究室内にルシフェラーゼ計測のための機器類をセットアップしなければならない(注1)。 ルシフェラーゼの発光測定はちょっと特殊な世界でノウハウが必要。そこでバクテリアの発光遺伝子を用いて研究を進めておられる近藤孝男先生(名大理)を訪問した。
近藤研を訪問して驚いたのは、1)マガジンラックに「トランジスタ技術」がある、2)測定機器類は自作か業者に特注したものが多い、3)液体培養の藻類を、サンプリング>>濃縮>>マイナス80度で凍結、までタイマーで動かせる全自動の装置も自作(注2)、4)データ解析のためのプログラムも自作、という工学自作マニア仕様になっていたこと。後で聞いた話だが、彼が最初の科研費で買ったのは卓上据置型の電気ドリル(金属板に穴をあける機械である)だったとか。
近藤先生はもともとは植物生理学をバックグラウンドとする植物の概日リズムの研究者であり、分子生物学が専門の石浦正寛先生(後に名大遺伝子)との出会いで研究がブレイクした。最初のブレイクは概日リズムを支配する遺伝子の同定(KaiABC, Science, 1998)。その後もいくつも大きな発見をされているが、そのなかに、同定した遺伝子産物であるタンパク質を試験管内で放っておいたら、24時間周期でリン酸化ー脱リン酸化の振動を始めた、というのがある(Science, 2005 <link>)。
これは、実は私にとっては人生で最も驚いた論文になる。驚いた、というのは想定外の大現象が発見された、ということである。分子生物学の分野においては、予想(=仮説を組むこと)して、実験を組み立てて、出てきた結果から証明に至る、という手順で研究が進む。試験管内での24時間周期のリン酸化ー脱リン酸化の発見をするためには、まずそれを予想する必要があるのだが、この予想は、はっきり言って常識のある研究者には出来ない芸当である。共著者の岩崎秀雄さんがなにかのシンポで「クレイジーな実験」と表現されていたのは覚えている。それを、当の近藤先生は「ちょっといたずらしてみた(だったかな?)」みたいな表現でさらりと説明してしまうところが恐ろしい。
2011年ごろに立派な振り子時計をこずかいで購入され、その動画を撮って自慢げに見せて頂いたことがある。振り子の振動は減衰していくが、バネの力を足していつまでも振動を続けるようになっている。その、バネの力を振り子に伝える装置(ガンギ車とかいう)の拡大動画を私に見せつつ、「ここの仕組みがわからないのですよ」とかおっしゃる。かなり何をおっしゃっておられるのかわからなかった。内心は「ATP以外に何かあるの???」と思っていたのではあるが、、、そもそも見えている景色が違っており会話になっていなかったのかも知れない。
2009年の3月に名大で植物生理学会が開催され、そのときに学会50周年の記念マグカップが作成された。私はちょうど名大から岐阜大へ引越しの時期で学会参加できなかった。4月に入ってから記念マグカップ欲しさにわざわざ名大まで足を運び理学部の廊下を「誰かいないかな?」とうろうろしていた。すると、近藤先生に呼び止められ、先生のオフィスで私の最近の研究紹介などしているうちに、「ウチの近藤トロン(大型ルシフェラーゼ発光測定器、高価なフォトマルチプライヤー(光量子をカウントできるセンサー)が6x4=24個のアレイになっているというゴージャスな機械)、倉庫に眠っているのを使いませんか?」と言われ、そのまま御厚意に甘えて拝借することになった。近藤トロンはいくつか違う型のものがあるのだが、お借りすることになったのは近藤先生の研究初期に開発された大型機のなかでは1号機、元祖近藤トロンである。これはその後譲渡の手続きをして頂き、今もウチの研究室にある。近藤先生は2023年に亡くなられ、近藤トロンは先生の形見みたいになってしまった。
私には尊敬する人というのは二人しかいない(注3)が、そのうちのひとりが近藤先生である。
(注1)結局理研でのセットアップは浜松ホトニクスのマクロ発光検出カメラシステム(既製品)と本来はRI計測用のシンチレーションカウンター(パッカード社TopCountという96穴マイクロタイタープレートを積み上げて繰り返し測定できる既製品、これは米Scrips研のSteve Kayのラボへ遊びにいったときに仕入れた情報をもとにした)になった。が、後日岐阜大で再び 発光計測のセットアップをする際にはミニ近藤トロン(センサー2つとかの小型版)を近藤研指定の業者に作ってもらった。
(注2)攪拌器の入った培養コルベンの液体培地にチューブが挿さり、一定時間ごとに懸濁培養液がポンプで抜かれて、そのままステンレスのカセットに入ったメンブレンフィルターで濾され、培養液から分離されたラン藻のみがカセット内のフィルターに張りつき、それが下に落ちると、ステンレスカセットの重みで開く弁状の入り口から超低温フリーザーに落ち込む、という仕組み。
(注3)アニメの登場人物を入れていいなら3人目は未来少年コナン(近藤先生とコナンが似ているという話ではなくて)。4人目はいない。
2025.10.10
日高敏隆(1988, 京大理)
日高敏隆は動物行動学の研究者であるが、一般向けの著作やマスコミへの露出もあり有名人。たしか私が修士課程を修了した年の学部長だったので卒業証書(修了証?)は先生の名前で発行されている(ちょっとうれしい)。
私が学部学生に上がり(3年生)、植物生理学の辻英夫研に所属が決まった頃、新人歓迎会が学部のあちこちで行われた。辻研は日高研と合同で歓迎会を行なったので、私は新人として岩倉にある日高邸へ出向いた。
パーティはバーベキューがメインで、日高先生が自ら仕込んでおいた羊の塊肉(香草つき)を日高研の先輩方が焼いたりしていた。その合間に大学近辺の飲み屋(注1)で習ったとかいう明太バターを捏ねておられたのを今も覚えている。いろいろ作業しておられたのだが、その間ずーっと喋りっぱなしである。ホスト精神に富む先生なのか、ただのおしゃべりなのか。。。
さて、日高先生の軽口とそれに対する辻先生の上品かつ機智に富む返しは隣で聞いていて大変おもしろかった(聞いているだけ、当時は内気な私は貝になっていた)。
さて、私の研究室の行事として、毎年秋に広い芝生があるキャンプ場でバーベキューを催し、ラムやカモ(近所に良い入手先がある)、豚、等々を嬉々として焼いているが、そういえばこれも新人歓迎会なのであった。私のノスタルジーの産物なのか、歴史が繰り返されているのか、、、
(注1)店名はポストコイタスとかいった。アダルトなラテン語である。が、日高先生は違和感を感じて「正しくはポストコイタムなのではないか」と店の人に言うと、「私はMよりSの方が好きなので」と苦しい返しがあったとのこと。旧制高校出身者はラテン語の知識もあるのだ( ラテン語では一般名詞にも格があるらしい)。
岐阜に「バル・バロッサ」というスペイン料理を出すバーががある。私は名前の区切りかたが気になり「バルバ・ロッサ」ではないのか、と店の人に言うと、「バルなので」という返事があった。バルバ・ロッサは赤ひげの意味で(イタリア語)、ドイツの山中に眠り復活の時を待つフリードリッヒ(イタリアではフェデリコ)一世を指す。のだが、それにしても学者というものは全体的にオトナゲがないようである。
2025.10.10.
杉浦昌弘 (1998頃, 名大遺伝子)
私の師匠(=学生時代の指導教員)小保方潤一先生が若い頃ポスドクをしていたのが杉浦研、という関係。杉浦先生から見ると私は孫弟子にあたる。
杉浦先生は言わずと知れた植物分子生物学と植物ゲノム研究の創始者で、メンデルメダル(ドイツアカデミー)、みどりの学術賞、文化功労者、瑞宝重光章等々を受賞しておられる。経歴については御自身で書かれているものがあるのでそちらをご覧頂きたい。関係者にはノーベル賞クラスの方々がおられ、分子生物学黎明期の雰囲気が味わえる。
(JT生命誌研究館サイト https://brh.co.jp/s_library/interview/82/)
ラジオアイソトープを使ったサンガー法のシークエンシングで、タバコ葉緑体ゲノム配列1150kbpを決定したのが主要な業績(1986)。 当時は「機能のわからない遺伝子や遺伝子間の配列を決めて何の役に立つ?」といった批判もあったらしい。そんなこんなで、研究費の申請書は「他人より半歩先」を目指しなさい、というのが杉浦先生の教え。「一歩先だと理解してもらえないから」とのこと。
最終講義では過去の業績でmRNAの1塩基と2塩基目半分を同定してNatureから出版された、という話を紹介され、ゲノムプロジェクト紹介のマクラにされていた。「昔は一塩基半の同定で褒めてもらえました」みたいな。たしか放射標識された特定のRNAを精製して加水分解後TLCで展開、で塩基の同定をするのだったと思う(ワンダリングスポット法とか言ったような、、、)。BC時代の話(BC=Before Cloning、ちなみにその後はAD時代という(=After DNA))。
タバコの次にイネ葉緑体のゲノム解読を行ったが、材料は吟味の上地元愛知県農試が開発した日本晴を用いた。その後世界のイネ分子生物学研究は日本晴を用いる流れになったが、モトは杉浦研の葉緑体ゲノム解読である。
これは師匠経由の又聞きの話(1980年代)。名大遺伝子は世界の植物分子生物学のハブのような存在だったので、外国からの訪問客は多かった。留学生もそこそこ参画していたらしい。インドから来た学生の机の上が片付いておらず見苦しかったのである日杉浦先生が注意したところ、その学生は机の上のゴミをざーっと床に落として「先生片付けました」と言ったそうな。
日本人なら血液が逆流しそうな話だが、インド人的には常識的な行動になるらしい。当時はインドで大学まで行けるのはカーストの一番上の階級だけで、家に使用人が多数いることも珍しくない。床の掃除をするのは特定の使用人の担当なので家人はその仕事を奪ってはいけない、と小さい頃から教育されるのだとか。こんな逸話も、「留学生の面倒を見るのは大変です」とさらりと結語されるところがとても先生らしい。
私の理研研究員時代に名大遺伝子を訪問した際(師匠が名大遺伝子の助教授だった、 これが1998年頃)、キャンパス内で帰宅途中の杉浦先生にお会いした。先生はマスクをされていたので「風邪ですか?」と聞いてみたら(世間話のつもり、季節は冬)、「風邪を引かないようにマスクをしているのだよ、山本君」と返ってきた。先生は地下鉄を警戒しておられたのだ。偉大な先生は日常生活からして心構えが違った、という話。
性格は中部地方のヒトらしく(岡崎出身)フランクで実直、華美を嫌うようなところが見られた。が、接待は重厚。
杉浦研出身者は私が知っているだけでも錚々たるメンバーである:小保方潤一(北大、名大、他) 篠崎一雄(科技庁理研) 高木(大目)優(経産省産総研, 埼玉大学, 台湾成功大;やしきたかじん似) 高岩文雄(農水省) 林田信明(理研, 信州大) 杉田護(名大) 島田浩章(東京理科大) 山田恭司(富山大) 加藤明(農水省北農試) 若杉達也(富山大) 広瀬哲郎(産総研、北大、阪大) 湯川泰(名市大) 宮本徹也(テキサスA&M大) 中村崇裕(九大) (順不同です)
2024.2.23
篠崎一雄 (1990, 理研)
師匠(小保方潤一)の名大杉浦研時代の上司。
篠崎先生は言わずと知れた植物科学研究の第一人者であり、文化功労者、国際生物学賞、日本学士院賞、瑞宝重光章、 ASPB功労賞、トムソンロイター引用最高栄誉賞、等々を受賞されておられる。米国科学アカデミー国際会員。
先生の経歴は私の知っている限りでいうと、学生時代の所属は名大岡崎令治研(ラボには小原雄治(遺伝研)もいた)、名大遺伝子の杉浦研では杉浦先生の元で助教授としてタバコ葉緑体ゲノム解読を牽引され、その後筑波理研で独立され現在に至る、というもの。今調べてみると、名大の次は遺伝研におられたようなのでそのころから杉浦先生と御一緒されていたのかも(詳細は不明)。学位取得(1979)前に遺伝研研究員(1978ー)をされておられるようである。有名人なのでWikipediaに情報が出ている。
最初にお会いしたのは理研で独立されて1〜2年した頃だったと思う。私は北大小保方研の学生だったが、共同研究者の林田信明さんが新しく出来た篠崎研の研究員になっており、学会のついでにつくば理研まで遊びにいった。今調べてみると1990年に植物生理学会が東大駒場であったので、このときではないかと思う。当時TXはまだなかったので、東京駅八重洲口から直行バスで行った。バイオハザードP4の実験施設を見せてもらった。北大遺伝子にはP3施設がありなじみはあったのだが、初めてみるP4はさらにSF色が強かった(未知の宇宙生物を扱うような雰囲気)。当時は篠崎夫妻は揃ってラボにおられて、小さなお子さんがピペットマンで遊んでいた。
当時、葉緑体遺伝子については御本人の研究ですべて同定できたが、核遺伝子についてはほぼ手付かずという状態であり、分子生物学者として植物学に切り込んで行く際のテーマは選び放題だった。その中で、篠崎先生が選ばれた研究テーマが農学の超重要事項の「植物の乾燥ストレス耐性の分子機構」だったのは今考えてもすばらしい。それまでの葉緑体ゲノムの研究とはギャップがあるのでよく考えられた上での選択だと思われる。ただ、当時理学部修士課程の学生だった私にはその重要性をあまり理解できていなかった(地味?、とか思っていた)。
それから10年ほど後、私が理研ゲノムセンターの研究員だったとき(2000-2003)所属研究室(松井南研)の姉妹ラボが篠崎研になった。その縁で数回合同セミナーを行った。つくば理研でセミナーを行ったので松井研は大型バスを借りて和光理研から移動する、という大騒ぎだったが、篠崎研にはその数倍の人数がいた。ゼミでの新年度の篠崎先生のスピーチはマイクを使うという噂だった(ということは100人規模)。当時太地さんは修士くらいの学生だったが光る発表をされておられたのを記憶している(今は東京農大教授)。
合同セミナーでの私の発表はLUCのジーントラップラインを作るというプロジェクトの紹介だったが、「単コピー挿入系統の選抜をPCRで行う」という前例がなかった戦略に対して「そんなこと出来る訳がない」と参加者から批判されたのは覚えている。保守的なのである。後日その方法論が無事完成して論文になったのだが(つまり、頂いた批判はサスペンドしてそのままプロジェクトをプロシードしてしまった、ということになる)、そうすると今度は「できて当然」と同じ人から言われてしまう。ま、世の中そんなものである。
当時私がやっていたプロジェクトはホタルルシフェラーゼ遺伝子を用いた遺伝子トラップ系の開発だった。詳細は省略するが、新規に開発したギミックを駆使して理論上最もトラップ効率の高いベクターを開発しトラップ系統の作出に励んでいた。しかし、遺伝子間に刺さったベクターが発現してしまう、という点を慎重派の篠崎先生はアーティファクトと捉えたため、ゲノム飽和までトラップ系統を作出する前にプロジェクト終了してしまった(論文はPlant J, 2003、雑誌の表紙になった)。従ってこのプロジェクトはアカデミアには大して貢献できていない。その後5年程たって、名大遺伝子の師匠のラボで別の研究をしていた結果、遺伝子間に数十万単位で活性のあるプロモーターが散在していることを発見し( オーファンプロモーターと名付けた、論文はPlant J, 2009)、遺伝子トラップの結果はアーティファクトではなかった、ということが判明したのではあるが、そこから2003年へ戻ってプロジェクトをやり直せる訳でもないので、この話はこれで終わりになる。危なそうな橋は渡らないのが篠崎先生なのであった。
先生はおそらく無駄がとてもお嫌いな方なのだと思う。なので研究で冒険はしないというスタイルである。国から頂いた研究費は確実に研究成果に昇華させていく、という意味でもあり、大型予算を預ける側(=文科省)から見ると非常に安心感があるのだと思う。
2001年ごろ、当時出始めのマイクロアレイを姉妹ラボのよしみでいち早く使わせて頂いた。篠崎研が収集してきた完全長cDNAを利用してのオリジナル開発品である。論文は2003年に出版されよく引用された。なんといっても頼りになるのは大ラボである。
杉浦先生同様、篠崎先生も温和で優しい方である。が、仕事の進捗に敏感な方でもある。優しい性格と凄腕マネージャーが両立しているというのはある意味奇跡。魔法でも使っているのかも知れない(詳細不明)。
大変高名な方なので先生と接するときは身内といえども緊張する。以下は先生が現場を離れられて「マネージャー業」を自称されておられた頃の話:
篠崎先生:「バイオインフォマティクスは最近どうかね?」
部下櫻井:「はっ、みんながんばってます!」
篠崎研出身者は多すぎて把握できてない。中の人でも全貌はよくわからないのだとか。林田信明(信州大) 井内聖(理研) 関原明(理研) 太地輝昭(東京農大) 清末知宏(学習院大) 櫻井哲也(高知大) 佐久間洋(愛媛大) 本橋令子(静岡大) 吉田理一郎(東北大) 能年義輝(岡山大) 中島一雄(農水省国際農研) 藤田泰成(国際農研) 圓山恭之進(国際農研)(順不同、誰かWikipediaにまとめて下さい)
2024.2.23
中井謙太 (2007, 東大医科研)
名大研究員時代のある年分子生物学会の年会(横浜)でポスター発表してると、「私の研究室でセミナーをしてほしい」と声を掛けられた。それまで全く面識はなかったが、彼の学生時代の業績(PSORTである)は分子生物学の分野では知らない人はいないくらい有名だったので光栄に思い、後日いそいそと白金の研究所を訪問した。後に、理研時代の上司松井南の後輩平山隆志(岡山大)と同級生であることを知る(宇治つながり)。
足がお悪いので不便な車イス生活(車の運転はできるらしい)なのだが、科学界では「車イス=ホーキング=天才」の連想が働くので後光が射して見える。
2024.2.23
鈴木穣 (2007, 東大医科研)
当時のボスは菅野純夫、所内の中井研とはタイトに共同研究を行なっていたようだ。ポスドクとして名大小保方研に在籍していた2007年頃、科研費プロジェクトゲノム特定の菅野さんが「すごいシークエンサー(楽器にあらず)が入ったんだよ」と小保方先生に話されていたのを横で聞いていた。当時はSolexaと呼ばれていたNGS(Next Generation Sequencer)の日本への1台目が医科研に納入された頃だった(その後のIlluminaである)。
私が最初にNGSを論文に使ったのはかのシドニーブレンナー開発のMPSSというひとつ前の型(使用は2006、論文は2009)。名大時代に菅野研のSolexaを使わせて頂いたことはなかったが、2009年に岐阜大に移ってから鈴木さんにNGS解析をお願いした(菅野研なのでOligo-cap、論文は大分遅れて2017)。
転写開始点を決めるためには完全長cDNAを作成してその5’末端部分を調製する必要があるのだが、これにはOligo-Cap(東大菅野研)とCap-Trapper(理研林崎研)というふたつのやり方があった。どちらも日本発なので(Cap構造の発見も日本)日本人的にはめでたい話ではあるが、菅野研と林崎研は国から大型プロジェクトを奪い合う競合関係にありとても仲が悪かった。両者重量級のビッグラボであり、対立にも迫力があった。私は「龍虎の戦い」と密かに呼んでいた。山本研は医学系大型プロジェクトとは無縁の植物系であり、両派の勢力図に影響しない圏外ラボなので、どちらからも警戒されることなくお付き合いすることができた。両方のメソッドで論文を書いているのは世界で私だけではないかと思う。
鈴木先生というのは、頭の良い人が馬車馬のように働くと(馬力もあるのだ)こんなことになるのだな、というレアな実例、別のことばでいえば奇跡である。質、量ともに恐ろしい程の業績を産出し続けている。HPによると2022年の論文は27報でCell Rep, Sci Signal, Nat Commun がある。前年の2021年は53報(!)で、Genome Biol, PLoS Genetics, Stem Cells, 等々々 (リスト長くて最後まで見てません、勘弁して下さい。ちなみに山本研の場合50報出すのに最低10年は欲しいです)。
覚えているのは遺伝研ワークショップ(2011)での発表で、例えて言うならNature Genetics一報、EMBO 三報、NAR 二報の内容をまとめて20分で紹介する、というくらいの怒涛のプレゼンであった。これでは次の演者はどうがんばっても見劣りしてしまって大変だな、と会場の誰もが思うところであるが、悲しいことに次の演者は私なのであった。仕方がないので「すいません、次は私の地味な研究を紹介させて頂きます」みたいな入り方をした(たぶんした)。今思い出したが、このときワタクシの晴れ舞台を見せるべく岐阜から有志学生数名を連れて来ていたのだった。いやはや。
東北の震災(2011)の際には東京エリアは計画停電下にあり、自由に実験できる状況ではなかったが、鈴木さんは発電機を購入して停電時も次世代シークエンサーをガンガン回していた。震災が来ようがパンデミック(コロナウイルス , 2020-3)が来ようが関係なしである。
2024.2.23
Achim Trebst(2004, ボーフム大)
(再録です)
Trebst博士といえば泣く子も黙る光合成阻害剤研究の大御所である。除草剤を用いて光合成の研究をするという時代を作った人であり、彼が1980年に書いた光合成阻害剤の作用機作に関するレビュー(Methods Enzymol)は光合成研究者には必読だった。
さて、2004年に初めてドイツを訪問した際、最初の予定がボーフム大学でのセミナーだった。当時の研究テーマは植物の光ストレス応答だったのでその紹介。今考えて見ると当時は38歳でもう若手とは言えないようなトシになっていたはずなのだが、初ヨーロッパの単独行ということもありそれなりに緊張していた。持参したパソコンはIBM大和製ThinkPad s30ピアノブラックという名機(なつかしい)。
さて、紹介したデータのなかにDCMUとDBMIB(いずれも光合成阻害剤)を用いたものがあった。データは光ストレス応答とステートトランジションが同じような特徴を持つことを示唆していた(つまりはちょっとしっくりこないデータであった)。
セミナー後の質問タイムで聴衆の一人がDBMIB処理で光ストレス応答が活性化されるのはどういうことか、カロテノイド合成阻害剤と同じ効果を与えているようだが、という質問をした。私の答えは「DBMIBは光合成のこれこれのところの反応を止めるので、DCMUの結果と合わせて型どおりの解釈をするならばこれこれということになる。ちょっと腑に落ちないのですけどね。カロテノイドについては、、、」とフランクなものであった(いつもこんなんです)。
質問タイムが終わると先ほどの質問者の6~70代くらいの小柄な人がつかつかと私のところへやってきて、ちょっと自分の研究室へ来るといい、と言うのである。すたすたと先導する老人について大学内をしばらく歩くと彼は立ち止まって、「ここが私の部屋だ」と部屋の入り口のネームプレートを指さした。指の先には何と ”Prof. Dr. Archim Trebst” と書いてあるではないか!私は知らなかったがTrebst先生はまだ現役だったのである。突然の大先生の出現に私は少々動揺してしまった。 そういえばセミナー室を出る際周りの先生方が何故かにやにやしていたような。
つまり、、、Trebst先生は客の驚く顔が見たくてそれまで自己紹介もせずに学内を連れ回してきたのである。そして、仰々しく自分の名前を指し示したのである。口頭で自分の名前を言うより活字を見せた方がビッグサプライズであると見当をつけていたのだ。とても初犯とは思えない手際のよさなのであった。
そのあと親切にいろいろとお話しして頂いたので、バツの悪さは薄らぎはしたものの、、、、、、、ま、Trebst大先生にDBMIBの作用機作を説明したのは世界広しといえども私くらいのものだと思う。世に言うように「無知は力なり」である。
ドイツ訪問の後半でコンスタンツ大に行ったとき、Trebst先生に師事したことがあるというIwona Adamska先生とお会いした。上記のエピソードは格好の酒の肴になったので、個人的には「モトは取った」と思うことにしている。
注)2017年に亡くなられたようでPhotosynth Resにobituaryのリンク集がある <link>。
2006頃
ーーーー以下執筆予定ーーーー
辻英夫(1987 京大理) 資料の山 辻イラズ、干杏事件 N88 Basic vs. アセンブラ >岡田清隆
佐藤公行(1987, 岡山大理) 河道屋
村田源(1986 京大理) うるしおが屑事件
京大理植物学教室 Natureの記事 加藤哲也 中山卓也-CSHL 岩渕雅樹研
小保方潤一(1988, 北大遺伝子) 手動PCR 猟師の皮剥ぎ TATA-lessプロモーター 名大遺伝子実験施設 迷宮の理学部F館、地下室の住人
谷藤茂行(1989, 北大理)
Xing-Wang Deng (1994, イェール大、北京大) お祝い受取拒否 50歳誕生パーティー Peter H. Qail Joanne Chory
Stephen Dellaporta(1994, イェール大)Barbara McClitockの最後の弟子
Richard E. Kendrick(1997, 理研フロンティア) 頻繁にパーティー Maarten Koornneef 長谷あきら>松井南
William Martin(デュッセルドルフ大)ウミウシ
井上頼直(理研) 所長時代 秘書二人
バックナンバー