最後の大学

  いや、あの、あと3ヶ月半あるのでしばらくは詰めの仕事とか後片付けとか編集の仕事とか、色々と忙しいのですが、退職記念誌を作る都合でこの雑記は今月で 打ち止めにしようと思いまして、こんなタイトルで始めました。このあとは、ブログとかFBで続けていきます。

  世間的には、私の年の1年上の人たちまでが団塊の世代と呼ばれているはずですが、私たちの世代はその意味で団塊の世代の「尻拭い世代」とも言えます。すき まの世代、繋ぎの世代。何かと損をしてきたと感じることの多い世代でありました。それでも自分としては大学では結構好きなことをさせてもらえて、やりたいこと をある程度やったと言える感覚も持てていますので、ベルエポック、すべて良き時代だったと言えるほどではないと思いますが、10年ぐらい前までは(岐阜大に来 て5,6年経ったぐらいまでは)大学でやるべきことができていた、という時代感覚を持っています。その感覚が変わったのは、今から思えば大学が国立大学法人化 した2004年あたりからでしょうか。日本の科学技術分野の論文生産性が低下し始めたのは2004年頃からだと言われていますが(元三重大学長豊田先生の分 析)、自分の感覚的にも2006年頃から論文を書きたいという意欲が減少してきたように思います。(岐阜大学全体レベルでもFactBookによればH21と H26の総論文数はほぼ同じで、伸びていません)
 なぜかは、まだ分析できていませんが(単なるエイジング老化では ない)、その間も日常的に実験 研究は続けてきておりデータも出ていたのですが、共同研究の報告書ぐらいは義務的に出しても、誰よりも早く原著論文として国際的ジャーナルに発表したいという 意欲が萎えていたと思います。2006~07年頃から、学内でも学科長や教務委員や色んな学内活動が増えてきて、実験研究の気分がだいぶ削がれていたのではな い か、とかいくつか言い訳も思い付きますが、一人でやる研究の限界みたいなものだったのかもしれません(もちろん全国的には一人でもたくさん論文を出し続けている研究者も ある程度いるのは知っていますので、単なる自分の言い訳です)。
 自分の気分的な問題以外に、7,8年ぐらいまえから大学に対する「要望」が多くなっているよう です。やれ、地域貢献だ、やれ、グローバルだ、といった身の丈に合わないのではないかと思われる過分な期待、というか。背景には、日本の産業・経済がうまくいかないのは国 立大学が ちゃんと応えていないからだ、そんな大学は減らしちまえ、といった過激な「期待」があるのでは、と思えてなりません。産業界・経済界が自分たちの構 造的欠陥を棚に上げて、大学 が良い人材を育てていないのが悪いというような、そんな分析・方針こそがうまくいかない根本理 由なのではないかと個人的には思っていますが。「下町ロケット」の佃製作所を見習いたまえ、と言いたい気分です。
 でもやっている大学当事者は、過分な期待であってもやらないことには潰される、という危機的意識をもって自転車操業的にやっているので、とても研究教育を楽 しんで やっていくことは不可能でしょう。楽しめなければ、面白い研究などできやしない。面白くならなければ、論文などの生産性も上がるわけがない。

 自分の経験で言えば、昔から大学はユニバーサルなことをやるところだ (誕生したときから University ですから)、あらゆることをやる、そして人のあまりやらないようなことをやる(カミオカンデなどもその一つ)、という意識はあたりまえでした。地域の下町企業と共同で 新しい装置や道具を作って世界的な 業績を上げたり、アメリカやヨーロッパの大学にたくさん留学し様々な国際的な交流があるのはあたりまえでした。改めて、ローカルだとか、グローカルだとか、グローバルだと か唱える 必要は ないくらい、あたりまえにやっていたことでした。学生の英語力は今の学生の方が昔の学生よりあるのかもしれませんが、留学して海外で実践的に活動すれば英語な ど直ぐ身に付きます(はずです)。これまでの大学の活動が不十分だったとすれば、本来持っているユニバーシティの力をうまく引き出せてこなかった、というとこ ろにそのうまくいかなくなった原因の一端がある のかもしれません。

 さてさて、そんな想いを抱きながら、あと3ヶ月大学の仕事をしたあと、大学を去り、普通の社会の中で生活していくことになります。気分は卒業する学生と一緒 かも知 れません。
 今までの研究へのこだわりはあまりないので、新鮮なテーマを自分に課し、何らかの活動をしていき、なるべく暇じゃない生活を、あまり金を掛けずにしていきた いと思っています。少し前から抱いている思考テーマの一つが、人類学です。やはりテーマの一つは、ヒト ということになりますので、今までの自分の研究の延長 上にはあるのかもしれ ません。特に、この岐阜にも縄文遺跡がありますが、縄文時代の1万年以上を「縄文人」はいかに生き続け、どのように次の弥生時代に移行していけたのか、という点で す。現代人に、今の状態を千年以上維持して生きていけるか、と問うたら、そんなのとても無理と考えるでしょう。江戸時代だって300年しか続かなかったんで すから。また、あのエジプト文明でも2千年ももたなかったんですから。人間の肉体的には縄文人も現代人も、さほど違いはなかったはずなのに、です。縄文時代は 今よりも温暖化率がだ いぶ高かったし、そのせいで多分感染症なども増えていたはずなのに、また寿命もだいぶ短かったはずなのに、です。考えるほど に縄文時代の謎は深まる、そんなテーマなのです。簡単に証明できない、というところも良いところです。

とりあえず、おしまい。どんど晴れ。
 
(2015.12.18)