
| 目次 | 1.エネルギー事情 | 2.大気汚染 | 3.乗り切る | 4.温暖化 | 5.原子力・核融合 | 6.新エネルギー | 7.車技術 | 8.COP3 | 9.私たち | 10.文献,WebSite |
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1989年、オランダ政府(オランダは、スウェーデン同様、経済発展は環境保全を損なわずになされるべきであることを実践しようとしている数少ない国の一つ、そういう国がなぜそこまでしようとしているか、それは、オランダは海抜0m 以下が多く、温暖化が進むと大打撃を受けることも大きな要因かもしれない)の主催で開催された「大気汚染および気候変動に関する閣僚会議」にて、 1992年の地球サミット (ブラジルサミット) までには地球温暖化防止の枠組みとなる条約を採択すべきである (環境庁編、平成10年度環境白書 の訳から) と宣言しました。ところが、アメリカが重い腰を上げず、 先進国が西暦 2000年までに温室効果ガスの人為的な排出量を1990年レベルに戻すとの目的を持って政策・措置を講ずる (環境庁編、平成10年度環境白書の訳から) 程度の案で採択された。つまり、努力しようがしまいが、各国の勝手ということになってしまいました。アメリカがこれに消極的なのは、 1.石油も天然ガスも既にほとんど掘り・使い尽くしてしまった(それぞれ埋蔵量は 10年分程度 社団法人ガス協会版「ガス事業便覧」、世界エネルギー会議資料による)、2.原子力は今まで見てきたように消極的であり、建設中も計画も無し、そろそろ稼働中の原子炉も寿命に達する、3.石炭はまだまだ十分の埋蔵量があり(可採年数:280年、 世界エネルギー会議資料より)、現在石炭に相当依存しているが、単位エネルギーあたりの炭酸ガス排出量は化石燃料中で最悪のものであるから、炭素税などがかけられたらせっかく絶好調にある経済状態に水を差すどころかまた失速しかねない、4.エネルギー消費の相当の部分が輸送部門になっており、車王国の意識はまだまだ高く車離れはできない中で、ゼロエミッションカー構想もなかなか進まない、5. 憶測ですが、アメリカの実業家の多くは、1980年代に出されたアメリカ政府の報告書から相当強い影響を受けたと思われるが、その中には曖昧な表現が多く(当時のデータでより忠実に報告しようとすれば、当然のこと)、都合の良い解釈をしている、というあたりと思われます。
実に情けない結果ではないですか。
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このページは最初 98年すなわち、97年の京都での気候変動に関する国際会議が開催された次の年に書きました。それから何年も経過し、COP3と言われた京都会議から7年を経て、むしろ京都議定書に示された基準年('08-'12)の最初の年まであと4年ほどとなって来ました。
まず COP3 の COP とは何か、ですが、 Conference on Parties の略です。気候変動についての何もこの頭文字群には含まれていません。
本題に戻って、今まで見てきた結果、結局今対応を迫られているのは何かと言えば、化石燃料の燃やしすぎによる気候変動への懸念を払拭すること、それは結果としてもう一つの心配事である、エネルギー資源枯渇問題をもほぼ対処することになります。
さて、地球環境が温暖化すること、すなわち気候変動について世界的な対応をするために気候変動枠組み条約があり、日本はじめ先進国や市場経済移行国が加盟しています。
COP3 までの世界の動きは?
結局この不十分な宣言をもっと実のあるものにすべく、1995年の第1回締約国会議 (COP1、ベルリン)において、数値目標を掲げること、実施に当たっては法的拘束力を持たせるべきであることが定められた。COP2(ジュネーブ) は、その数値目標、法的拘束力を持たせるための準備会議であった。ところが、総論では賛成しながら具体的になるにつれ各国の事情が優先してなかなか統一見解が出ないこととなる。それが、COP3まで積み残されたままになったため、京都会議はさんざん時間を要し、時間延長をしてやっとまとまったのは皆さんご存じの通り。その数値目標が以下の表の通り。
1kWh は 20円と少しですから、その程度電力を利用したときに炭酸ガスがどれだけ出るかを見たもの。 12g で炭酸ガスにして 24g程度だからなんと、600W の電気釜を30分使ってご飯を炊いたとしたら、石炭火力なら炭酸ガスは 200gも吐き出すわけです。緑色部分は設備的なものですから、何年かかって償却するかによって値が変動します。その意味からすると、原子力発電所がいかにも少ないのが気になります。火力発電所と比べて、そんなに少ないはずがありません。LNG火力が中でも設備で高い値になっているのは、運搬時に液化するエネルギーが馬鹿にならないことが含まれているということなら納得できますが、原子力と比べてこんなに高いとは信じられませんね。もちろん、原子力発電所を建設するのに原子力発電エネルギーで賄える分はまかない、どうしても化石燃料や材料を使って炭酸ガスを発生させてしまう、という考えで計算しているならあり得るとは思います。
ほかの自然エネルギー利用発電が設備で高い値なのは、ひとえに設備で発生させる炭酸ガス量に比べて発生できるエネルギーが低いことに起因するものでしょう。
これを見ていただけば、たとえば太陽電池は自分を作るために、原発は燃料の加工のために炭酸ガスを火力並に出すという見解は否定されます。現在風力発電、太陽光発電などは1kWhあたり20円より相当高いものの、NEDO の補助を受けてやっと採算がとれているわけですが、だからと言って自前で発電した総エネルギーを使っても自らの発電設備を作ることができないというようなことは有るはずがありません。そういうことがあるなら、NEDO がそんなものに補助金を出すはずが無いし、補助金が無くなったら採算割れするようなものをメーカが供給するとも考えられません。
COP3 について、企業はどう考えているのですか?
エネルギーを使う立場から言うと、総エネルギー使用量のうち民生用として各家庭の占める割合が通産省のデータでは 14.2% で、運入部門のなかの旅客部門の占める割合が15.1%(このうち自家用乗用車は83%を占めています) ですから、国民が生活するために消費しているのが約30% になります。その残りが全て産業用と言えないかも知れませんが、ほぼそうでしょう。つまり 70% は企業が使っているのですが、その 100の企業の経営者の考えを '97年 COP3 が開催される少し前の日経新聞が調査した結果が 同年 11 月3日にまとめられて発表されています。
それによると、「従来と今後の経営において、利益以外に何を最も重視しましたか」という設問には15% が「今後は環境問題への取り組み」と回答しています。これは「従来環境問題に取り組んだ」のは 11% であったという回答より大幅に多くなっています。これは好ましいことといえば好ましいことです。でも、1997年の情況は 11月と言えどもまだ1998年ほど経済状況が悪くはなかった(同じ調査で、景気情勢をどうみていますかという設問に対し、回復基調が続いているという回答はゼロですが、回復のテンポが緩やかという回答が 2.8%あり、53%が足踏み状態(停滞感が強まっている)という回答、後退の可能性が出てきたが35.5%で、「すでに後退局面に入っている」という見方をしていたのは 8.4%しかありません。またそのころの日経調査の経済指標では、実質成長率が 7-9月は0.8%を示していたころで、この調査がなされたころの平均である、10-12月平均がマイナス0.4%になったので、不景気感は半年後の今('98-9月)よりかなり弱かったころと言えましょう。最近のデータはまだ示してありませんが、その後 '98年の 1-3月平均では相当悪くなって -1.3%を示していますから、このころだとそれらの企業の社長さんの回答も相当変わった可能性はあります。有効求人倍率も、'97-10月ころは0.7あたりですから良くは無かったのですが、94年あたりからそれほど変動していません、むしろ上昇気味になっていたころです。ところがその後12月ごろから急激に下がり始め、3月には0.58と0.6を割り、7月には0.50という状態になっています)ので、相当に楽観的観測だったとも言えます。
COP3 を控えていた当時、「これからの経営のあり方はどうあるべきか」という同じ調査の設問に「省エネ技術の開発などで、経済成長と温暖化ガス削減は両立できる」という回答がなんと 87.8%に上っています。温暖化ガスの削減というのがどこまでのことを意識しての回答かによりますが、楽観的と言えば楽観的、世論を意識してあまり刺激的な回答は世情を不安定化するという配慮かも知れません。「経済成長が最優先で、それを犠牲にしない範囲で削減すべき」という回答はわずかに8.4%。ましてや、「経済成長を低下させても温暖化ガスを削減すべきだ、地球環境を最優先すべきだ」という回答は1.9% の低率になっています。この数字にしても、アンケートだからこう回答されたのであって、向かい合った会議の席で挙手でという形だとこの数字が出たかどうか、疑問でもあります。
一方、温暖化ガス削減目標についてのアンケートには、半数の経営者達が 5%が妥当と回答しています。上述の87.8%の経営者の多くは、この5% 削減が上記方法で可能と思っての回答なのかもしれません。10%という回答も2割ほどあるものの、削減の必要なしもほぼ同数居ます。50%と応えた社長も4%居て、本当にそれができると考えて回答したか疑問でもあります。もちろん、この 4% の人は、上述の「経済成長を低下させても」という環境至上を唱えている経営者と合致しているとも言え(というのは、回答率が両者で違うので、人数で示すと 4%:2%といっても同じ数になる可能性があります)、非常に真剣に取り組んで居られる社長さんたちかもしれませんね。これらの平均的(単純平均ではありませんが)なところと考えると 6% あたりに落ち着きそうです。このデータをもとに政府が COP3である意味では安心して 6%をのんだという推測はたまたまの一致でしょうか。でも、たまたまであっても、最も協力をしてもらわなくてはならない企業の意見を入れたということでは説得力はありそうなデータになりそうです。あるいは、日経とは別にこのような調査を実施していたかもしれません。)
以上は想像が多い話ですが、ともかくデータとしてはなんとなく楽観的に見受けます。あるいは、日本は今まで相当頑張った、これからでもがんばれるという自信の現れかもしれません。
簡単に自転車への移行と言うけれど
話を政府のかかげる目標に戻しましょう。自転車利用を促進すべく、駐輪場、道路の整備、鉄道などへの自転車の持ち込みを可とする方策も立てることを目指すとしています。私も自転車が好きなので、天候などを見て通勤には自転車を利用します(荷物が少ない日とか、天候を気にしてしか利用しないところが私自身まだまだ温暖化に深刻さを感じていない典型的な贅沢指向派ということです)が、岐阜大学のように田舎の立地条件は以前は自転車に都合が良く通勤時間は片道 12分程度を要していたのが今は舗装は以前より圧倒的に良くなったものの車中心の信号に阻まれるため、15分で来るには相当危険な走りを覚悟しなくてはならなくなりました(年をとったことは、良い自転車を使っていることとキャンセルすると思っています)。
ということで、これほどまでに車中心に作られた道路を今から自転車も快適な走りができるように、など、無理な話でしょう。手直し程度で済む話ではありません。根本的に改造しなくては、自転車優先になるはずがありません。自転車が増えれば、自転車道(歩道と共通では済まなくなるし、十分な幅を用意しなくてはならない、自転車王国中国は自転車は車道を走るようになっていたが、これはもちろん自転車は危ないが、自転車は歩道を手押しで歩かなくてはならないので歩道はそれでなくても結構広いし、日本より安全であった)を作る必要があるし、交差点で横断歩道が歩道橋になるような馬鹿げた構造を車が地下を利用して立体交差するようにしなくてはならないだろうし、今でも駐輪場が無くて溢れているのだから何倍も大きな駐輪場を確保しなくてはならないなどなど。相当自転車が優遇された道路にならない限り、車に慣れた人が自転車に変わるとは思えません。
個人的には自転車への移行は実に好ましい選択だと賛成したい
政府の覚悟がどこまで本当に自転車用に道路を整備しようとしているか、不明ですが、個人的には是非早急にそういう環境にしてもらいたいと思います。自転車が車と対等または優先して走りやすい環境ができれば、女性、年輩者は5km 程度まで、元気の良い人は軽快車で 10km 程度の通勤は自転車で良いと思うのです。婦人で時速15km 程度 (マラソンのランナーは時速 18km から 19km) ですから、20〜30分程度、馬力のある人は、軽快車で時速 20km以上出せますから、やはり 10km で 20〜30分の通勤・通学時間です。
現状では、世間並みのプライドの持ち主は車に自分の流れが左右され過ぎてとても自転車には乗れない情況でしょう。そう言いながら結局は、自分が自転車の流れを妨げる車に乗ることになります。早急な自転車優先環境対策が待たれます。
またスウェーデンの話ですが、岐阜大学にはスウェーデンに ルンド大学 という交流協定校があります。ルンドの学生は自転車を愛好しています。岐阜大学よりずっと広いキャンパスを、多くの学生が軽快車で移動しています。日本に夏短期留学(2ヶ月)して来る学生は当然車通学は有りません。寄宿舎から7〜8km の道のりを、婦人用自転車で通います。女子学生も。それで、留学生にスウェーデンの学生の車事情を質問したところ、「どうして日本の学生はそんなに車を使うのか」と逆襲される始末、自転車の通学を全く不便と考えていないのです(これは今から5年ほど前の話で事情が変わっているかもしれませんが、多分そんなことは無いでしょう)。日本人学生は、わずか 1km 先のアパートに住んでいても、車通学を選びます(少なくとも、岐阜大学の学生にはそういう人が多い!!)。とんでもない話ですね。
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COP4(ブエノアイレス, 1998年)はどうなった?
この会議で話し合うべきことは
1. 森林の吸収の扱い
2. 排出権取引の扱い
3. 途上国の削減目標
でした。ところがどれもまともな議論が無いまま、11月 13日、閉幕。その経過を新聞記事から抜粋してみましょう(1998年6月以降。
1998年
一応それでも「ブエノスアイレス行動計画」というものをまとめることはできたようです。その要約を中日新聞から転載すると以下の通りです。
地球環境基金 (GEF) は以下の目的のため発展途上国に資金提供する
△ 温暖化影響への対応
△ 観測網への参加
△ 国別報告書の作成
△ 温暖化対応策の準備の研究
「技術移転」
先進国に次の項目を要請する
△ 途上国に対する環境によい技術の移転、融資などの促進
△ 途上国のエネルギー効率の改善、再生可能エネルギーの利用への支援
△ 途上国の温暖化影響対策措置の支援
「温暖化影響への補償」
1999年10月までに、必要な追加的措置を明確化する。
「共同実施活動の施行」
施行期間を継続、99年末までに、試行期間の評価活動の準備を開始する。
「国際制度」
2000年の COP6 会議で最終決定できるよう、国際制度に関する次の項目を決定する
△共同実施のガイドライン
△ クリーン開発メカニズムのプロジェクトの検証、監査、透明性を高めるための手続き。
△ 排出権取引の原則、形式、ルール、ガイドライン
△ 国際制度を利用した排出削減の上限設定の是非
「罰則規定」
2000年開催の COP6 会議までに規定を作成する作業計画を作る。
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COP5(ボン, 1999年)はどうなったの?
やはりまたまた情けないことになりました。京都はさすがにポーズを取るだけはやってくれたけれど、実際に動く話になると、相当抵抗が有りそうだとの予想は十分できたのです。その京都議定書につき、当の日本ですら原子力発電所を 20基も増設することを電力事業者に相談もなく決め、そのうえ排出権や森林の吸収はアメリカがなんとかうまくやってくれるだろうからそれにしたがって計算し、国民には自転車を勧め、サマータイムもうまく計算すればトータルでなんとか乗り切れる数字だけは出るという程度。そのアメリカが排出権を全面的に行使して、自国の排出分を他国の計算上の削減分で逃げようというから、ヨーロッパは納得できない。そういう国がいる以上、途上国がそういう横着な先進国と同様に規制されたのではたまらない、という利害が真っ向から対立している状況では理想は高くても合意は常にお国事情が優先する(委員は多分それではいけないと思っていると信じたいが、国の繁栄を考えると、理想ばかり言ってられないし例え言ってみたところですぐに更迭されて事態は変わらないというところ)。結局ボンもブエノスアイレスから何ら進展を見ない、相変わらず対立が激しく歩み寄りは相当困難ということを浮き彫りにしただけで終わりそうです。それらの経過をまたまた新聞ニュースで見てみましょう(本業が結構忙しく、サイドワークとしてのE&Eニュース&解説に費やす時間がかなり長期にわたって続いたため、以下の引用も少数になっています)。
1999年
またこのころの日本や世界の取り組みなどに関するニュースも見てみましょう()。
1999年
その閣僚級会合において、
を決めました。つまり、当初の 2002年発効目標は黄信号になったわけです。黄信号といえども、状況的には赤信号と判断した方が正しいでしょう。
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COP6(ハーグ,オランダ, 2000年)はどうなったの?
以下のようなニュースの進み方で、相変わらず各国の利害に絡んで応酬が続いたことを理解して下さい。これらを読むと、上記の赤信号になったという印象が一層強くなります。クリントン政権が末期となり、大統領選挙およびフロリダ州の得票の扱いですったもんだする期間とオーバーラップした COP6開期中、アメリカはまず批准しそうにない状況が2000年中は続き、ブッシュ氏が政権誕生したとたんの2001年3月には離脱表明をするという、なんとも人を食った(その食われた人の典型が日本人であり、米国が-7%など呑むはずがないから日本も -6%を呑まなくて済みそうという期待をしていたCOP3では、クリントン政権は足をすくうようにしてすんなり合意、日本は-6%をやむなく呑んだのに、今度は勝手に離脱、じゃ日本も離脱かというと、京都で開催され議長国であった日本としては日米という関係を超越した責任が有るのは当然だし、それが無くても米追従は米属国の印象を自ら宣伝することになりかねないという苦しい状況に追い込まれた)ような話になってます。そのほか排出権問題も難航しそうな状況にあります。 2002年までに批准をというのにそれができないとなると、2012年という目標達成最後の年まで 10年を切りますし、批准する年までは恐らく努力もなされず CO2 排出量も増え続けるでしょう。今でも 1990年から見れば10%以上増えている国が多く、とても 2002年以降、批准したからといって達成できるとは思えないわけです。そうなると、今批准しない国はペナルティーを払わなくてはならないことになっているので、どうせ払うんだからと努力目標も失いかねません(もちろんすべて 2000年のことです)。
以下をごらんいただくと、この問題がいかに新聞・マスコミをにぎわしているかよくわかります。COP5までと比較して、記事の数が全く違います。いよいよ大詰めでのどたばただからです。
なお、もしこれらのニュースを逐一見てみたいと言う方がおられる場合、この項目を一々クリックしてそれらのページに繰り返し戻られると、たとえ各ページがみなさまのキャッシュに貯えられたとしても、毎回html を解釈してページ仕立てする作業は必要なので、結構時間がかかります。非常に日程が込み入っているところは、そのページの中で順に追いかけられた方がずっと速いと思います。詰まっているところは次々と連続になっています。
これらは、各国の思惑のぶつけ合いであすが、日本やアメリカがそこでの取り決めを期待して動き始めている様子は以下の記事に示されています(2000年分)。とくに、森林の吸収については COP3 でも「含めることができる」とあり、どう含めるかが争点です。日本は当初森林全体で 3.7% と計算しており、それを固執しようとする政府と、 管理している森林に限る として3.2%を提案する環境庁がぶつかり合っています。アメリカは、炭酸ガス排出量に関し最も責任が重い国の一つですが、森林を入れたらそのほかの削減努力はほとんど不要となってしまうほど森林があります。これでは、一体 COP3は何であったのか、というほどにばかげた話だと思いませんか? こういうことをまともに提案してくる国なのだし、日本も変わらない国(ここでもアメリカの傘に入ろうとしている)なのだということに他なりません。
2000年
2001年
ここでブッシュ米大統領、ついに離脱表明!!
反対派 産業界支援団体マイザーノ氏 温暖化 科学で対応
賛成派 環境問題研究家ゲルブスパン氏 離脱 米経済に影響
(日経・夕) 京都議定書 日米、溝埋まらず 川口環境相、米高官と会談
これからしばらく、時間の余裕無く、記事がとぎれました。
この間に、米で同時多発テロ発生、米は京都議定書どころでは無くなったと言える
以下は、温暖化防止対策への企業などの取り組みの COP6中のニュース
2000年
2001年
この間に、米で同時多発テロ発生、米は京都議定書どころでは無くなったと言える
COP7(, 2001年)はどうなったの?
以上のように COP6開期前後が米大統領選の決着時期と重なり、クリントン政権で副大統領を務めたゴア氏がブッシュ氏に総得票数では上回ったものの、大統領の座を決める支持州の数では追いつかなかったこと、その僅差を巡って得票のカウント方式ですったもんだしたため、ブッシュ氏が大統領に就任するまでに例年より数ヶ月遅れを伴う事態となり、京都議定書問題も米国ではぼけていた印象が有ります。ブッシュ氏はその冷めた印象の中、就任直後から京都議定書に牙を剥き始めたかのような態度に出ました。京都議定書離脱を宣言し、ハーグ後の再会COP6ボン会議に至るまで、すったもんだがありました。日本もその経過の中で森内閣から小泉内閣に変わり、環境庁が環境省に変わったものの、幸い川口環境庁長官は環境相として継続になりました。しかし、温暖化問題は外交問題と言うこともあって、外相に田中氏が就任、その三者の間で激震地の米をどう説得するのか、複雑なやりとりがありました。そこへ経済界の意見、EUの意見、途上国の言い分が交錯し、さらに野党の小泉人気への反発という裏をちらつかせての攻めが有って、ともかく COP6延長会議に対応する3月末から7月中は、政治を楽しむことが趣味の人には、毎日が天国だったのではないでしょうか?。
このようにして、アメリカはというよりブッシュ政権は2001年3月京都議定書離脱を唐突に宣言しました。その理由は、温暖化原因について科学的根拠がはっきりしていない、やみくもに削減を達成しようとすれば産業界への打撃は大きく、不況下にある世界経済に悪影響を与える。途上国に削減義務が無いのは平等の原則からもおかしいが、先進国の削減を途上国が食ってしまうということ。そして、もっと理に叶った代替案を出すと表明しました。が、その代替案はほぼ一年出ませんでした。COP7までには出すつもりでいたのでしょうが、2001年9月11日には世界を震撼させたニューヨーク・旅客機を使った同時自爆テロの影響でそれどころではなかったということも言えなくは有りません。COP6の不幸は米大統領選と重なりさらに上述のように得票のカウント方式のごたごた。そしてCOP7の不幸は、直前のこのテロ事件と表面的には言えます。
2001年7月、COP6の延長会議が開かれ、世界はそこでブッシュ政権が代替案を出すと思っていたのに、出さずじまい。11月のCOP7でも出し渋り、ついに「代替案をいつまでに出すと表明したことはない」としらを切る態度にまで出たのです。それでも、一年を過ぎてはいくらなんでもまずいと思ったのか、2002年2月になってやっと代替案を示しました。それは、京都議定書と比較してとても効果があるとは思えないものとの評判です。そして、米政権の膝元でその案では90年比で米国の排出する温暖化ガスは 35%増えるという予測さえ出されたのです。
これらの動きは、大統領選のごたごた、テロ事件が有ったからだと言えるでしょうか? 表面的と書いたのは、こういう事実が米国民の視野から京都議定書・地球気候変動問題を遠ざけてしまった要因にはなっているものの、ブッシュ氏の政策はどういう状況でも、この結果を引き出したでしょう。ただ、やりやすかったかどうか、不幸な事件がブッシュ流のエネルギー・環境政策には有利に働いたということと解釈できます。それなら、カウント方式で逆転は十分ありえた無念のゴア氏が政権を執っていたらどうだったでしょう? 私は、結局共和党の反対にあって大変苦労した、あるいは、結局世界第一次世界大戦後の世界平和を実現するための国際連盟を発案しながら自ら離脱したとき同様、大統領の思惑とは反対に、議会決定で離脱しなくてはならなかった可能性も十分あり得ると思います。すなわち、もし2006年ごろの米国の立場が世界から非難されるような状況になっているなら、ゴア氏にとってむしろ、怪我が小さかった。なぜなら、もし僅差でゴア氏が政権を執っても結局議定書離脱で大統領のプライドを大きく傷つけられるより、今はブッシュ氏に離脱宣言させて世界から批判を浴びさせ、次の大統領選ではやはり米国は離脱すべきではなかったという空気の中、悠々とゴア大統領のお出ましというシナリオの方が、まだ若いゴア氏にとってはずっと居心地の良い座を射止めることが可能かも知れないのです。ゴア氏がそう思っているかどうかは、わかりませんし、そんな論調を私は新聞で見たことはありませんし。
さて、これに対して、日本の対応はどうであったでしょう。振り返って、01年3月のブッシュ政権京都議定書からの離脱宣言の後、日米首脳会談で小泉首相がブッシュ氏と会ったとき、米国の復帰を促すと意気込んで出立したのでしたが、効果は無し。ずるずると、復帰を促すという言い方で COP7まで来てしまってもあいかわらずブッシュ政権は復帰する態度を見せませんでした。そして、上記代替案を出したとき、日本政府はまず小泉首相や川口前環境相(このときは外相になっていた)は、「傾聴に値するところがある」、とすり寄るかの印象の答弁。あれだけ日本の森林による吸収の算定分についてねばり強く交渉したと評価された(私はそうは思わなかった)川口外相が、どうして米を非難しないのか、不思議なことでした。京都議定書を作成した COP3議長の大木環境長官(当時) が環境相に復帰していましたが、その大木大臣も当初は米に遠慮がちの評価、その直後に批判的な批評をしたに過ぎません。日本は、完全に米政権の属国という印象を強めました。一方、テロ報復戦争では、米と共同歩調を取った英国は、ブレア首相が米の代替案に真っ向から抗議しました。どうして日本はこれほどまでに、米国にものが言えないのでしょう。石原東京都知事ならどういうのか、知りたいですが、そういう報道記事を私は知りません。事情がわからないわけではありません。日本は米国との貿易ができなくなったら、あっという間に凋落です。だからと言って、もし米国の京都議定書離脱を横暴だと信ずるのなら、それはきちんと主張すべきではないでしょうか。このあたりの区別ができないと、いつまでたっても世界から信頼され、尊敬される国にはなれるわけがありません。国連の常任理事国になる、ということはそういうことができなければどうしようもないわけです。
ブッシュ政権誕生後1年、また小泉首相も二年目を迎え、ブッシュ氏はテロの対応のまずさが露呈されて困難に陥り、小泉首相は力づくの構造改革などがはっきりした効果が見えてこず、それでもなお強引に有事法などを提案しながら、ムネオ問題や防衛庁の個人情報問題など、続々と改革路線を止めるような不祥事が続出。小泉氏もやはり二年目は相当危ないという症状を示すに至っていますね。
上述の、ブッシュ大統領の離脱宣言の理由に、科学的根拠の希薄さが掲げられています。これについても、このCOP7前後にわたって、なんと、お膝元のブッシュ政権の組織から無いはずの根拠がきちんと出されています。ブッシュ氏にとってもっとも痛手となったであろうものは、EPA(米国環境保護局)の出したもので、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)3次レポートを追認(温暖化は人為的経済活動により排出される温暖化ガスによることなど)するどころか、米国での 2100年の気温の上昇量は IPCC3の予測値を大きく上回るものでした。ほかの政府機関の出した科学的根拠には沈黙を保っていたブッシュ氏も、これには黙っていられず「政府役人が作ったものだ」と相変わらず科学的ではないと評価する始末です。そのEPAも私には不可解なことをするもので、10日も経たないうちに今度は米産業界にすり寄るように、環境規制(エネルギー設備などからの排出ガスなどへの)を緩めることを決めています。これもアメリカ流の駆け引きかもしれません。こうすることで、科学的根拠を否定したブッシュ氏をやんわりと非難しているのかもしれません。でも、おそらくそれは当たっていないでしょう。もし、そうであるなら、それはそれで由々しきことで、結局のところ米国の駆け引き合戦に世界は翻弄されている証拠になりかねません。
さて、米国の対応はこのあたりとして、日本は批准することに決めました。決めるも何も、決めないことはできようはずもありません。日本が望んで COP3を京都で開催するよう立候補し、そこで日本が議長国となって議定書を作成しておきながら、批准しないとしたら、歴史の教科書で必ず出てくる「米国は国際連盟を提案しながら加わらなかった」ということと同列に並べて今後ずっと言われ続けることになるでしょう。しかも、温暖化は日本も米国も議定書を批准しなければつぶれることとなり、その結果温暖化がまさに進んで被害が出たとすれば、その原因はアメリカと日本だと名指しして非難されることになるわけです。せっかく世界が一丸となって取り組もうとしたのに、それらの経済大国が、その経済大国の地位保全を図って離脱し、議定書を反古にしたのだと。これを日本の子供に、日本の教師が教えなくてはならないことになります。それとも、歴史の教科書からある種の事実が抹殺されていると言われているように、この検定で抹殺されるのでしょうか?
そんなこと言っても、アメリカが離脱して経済活動を有利に進めることが明らかな状況で、日本の企業は太刀打ちできるのだろうか、という心配は当然おこるわけで、経済界は非常に心配しています。だからこそ、小泉政権はなんとしても、ブッシュ政権を離脱から復帰へと誘導しなくてはならなかったわけです。その迫力を感じなかったのは私だけでしょうか? アジア歴訪(日本>韓国>中国)で訪日するブッシュ大統領との日米首脳会談で、再度チャンスが来ましたが、議定書について、相変わらずどんな要求の仕方をしたのか、わかりませんが、全く効果は有りませんでした。
そういう次第で、日本は少なくとも 2012年まで、というよりとくに12年に近づくにつれて厳しい局面を迎えることになると予想しますが、それをどう進めるべきか、政府が再び温暖化防止大綱を作成しました。以下の通りです。
産業部門(7%減) 民生部門(2%減) 運輸部門(17%増) 省エネルギー
新エネルギー
燃料転換
原子力推進
(二酸化炭素に換算した削減見込み量・万d)
4-85
35-68
188-160
86
93
341-467
24-46
44-85
9-17
14-26
25-123
下の表では国民に考えて欲しい項目が並べられていますが、あまりに細かいですね。これをどうとるかですが、国民サイドからは「いちいち歯の磨き方まで指示されたくない」ということになりそうです。大綱を作成した側からすれば、「わずかこれだけの努力を怠るだけでこんなに温暖化ガスが増えてしまう」というアピールであって指示ではないということでしょう。が、それなら取り組もうと取り組まなかろうと、納得した人だけが取り組めば良いのかというと、削減量が数値で具体的に示して有る以上、1.2億人がこれだけの努力をすると、2%削減が可能ということであろうから、国民の自主性に任せていたのではとても達成はできそうにないのです。いや、この表が示されたのは、日経新聞であり、中日新聞は要約ででした。この大綱を一般国民はどうやって知ることができるのでしょうか?全ての新聞に掲載されたとしても、目にとまるかどうかがまず怪しいのです。興味が無ければとばしてしまうでしょう。さらに、たとえ目にとまっても、納得してこれを実際実行するかどうかは別問題です。大多数は実行しないと思うと、つい取り組もうという意識が薄れるのは否めません。ということで、効果のほどはなかなか期待しづらいわけです。実は、こういうことを言うのは私だけではありません。新聞記事にも、この大綱を作ったからと言って効果が出るとは考えられないという評価がなされています。また、多くは上にすでに示した 98年の旧大綱で示されています。それならそれらは既に実行に移されているのかというと、ほとんど移されていないのではないでしょうか。たとえば、両方に有るのがサマータイムの導入。この話題は98年は頻繁に新聞に出ていました。が、98年も後半にはいるとほとんど記事で見なくなり、99年以降はほとんど話題にならなかったと思います。戦後もポシャッたサマータイムなので、当初から実行に移すのは難しかろうという評価もあったのであり、結局はかけ声倒れになったものと思っていました。そしたら、今回再びサマータイム導入と取り上げられているので、あらあらという印象です。
さすがに、原発依存は無謀とも言える 5割20基増設という案は縮小され、3割 10-13基増設と控えめになりました。98年から02年3月までに起こった重大原発事故としては、敦賀2号機の熱交換器破断事故、敦賀1号機のシュラウド亀裂発生、JCO被ばく死亡事故、浜岡原発2号機緊急炉心冷却系統配管破断事故、同原子炉格納容器亀裂発生と続いており、国民の理解が進むと言うより減ってしまいました。その間、芦浜は30年にわたる誘致の是非について三重県北川知事が白紙撤回を宣言したり、新潟県巻町でも反対派町長が町の保有する立地場所の土地を電力会社以外に売却するなどの逆風が吹いています。電力は景気の低迷で余っているとさえ言われています。そんなときに電力自由化になり、電力会社の電気代が高いという印象が強くなってもいます。計算上は原発は発電単価が安い (5.9円/kW)とされていますが、建設には5000億円(100万`h級)程度が必要とされ火力発電所の数倍になり、電力会社としては減価償却するまで大変厳しいことになります。たとえば、上記敦賀2号機や浜岡1号機の停止期間中は 2億円/日の損失になるという。電力自由化で新規参入するグループは絶対に原発を作ることは無く火力になるでしょう。新エネルギーで参入するところももちろんあろうけれど、原発一基分を新エネルギーで賄おうとしても大変に無理が有ります(最大級の風力発電であっても、4000基ほどが必要となるのです)。例の米で破綻したエンロンは日本にも電力自由化をの状況下で多くの発電所を計画していました。火力については石炭が多かったのです。これは温暖化ガスを最もたくさんはき出す燃料です。一方、最も安上がりな発電所を作ることができるのです。炭素税でもかけない限り、新規参入組はそういうことになるのです。そういう安い発電をする新規参入組と、既存の電力会社は自由競争を行わなくてはなりません。そういう状況で、地元との交渉が 30年規模で必要となる原発を既存の電力会社が作りたいと思うかどうかでしょう。
さらに原発依存度が高くなると、夜需要が少ないときの発電量をどうするかという問題が顕在化します。今のところ、原発はベース電力を担い、需要変動分を火力で賄うという設計になっていますが、原発が多くなりすぎると負荷変動させられないばかりに、発電分を何かに貯えなくてはならなくなります。それが今のところ揚水式発電所で水の位置エネルギーとして貯えることになりますが、つい最近、中電は140万kW級の揚水式発電所計画を延期しました。理由は需要が無いからと。
こういう状況で単純に炭酸ガスの放出をする火力を減らし、原発を増やすという数あわせは意味がないことになります。電力会社ははいそうですか、と単純に了解できないのではないでしょうか。
産業界は、7%削減に大きく反発しています。日本の削減数値目標は-6%ですから、1%ぐらい産業部門としては太っ腹に引き受けたらどうだ、と思われるかもしれません。実は、-6%という数字のうち、-3.9%については森林の吸収でカウントできることが COP7で認められました。川口(当時)環境相の粘り腰のたまものと評価されているものです。ですから-2.1%が削減目標です。それを産業部門で-7%とは何事だというわけで、経団連会長は90年比0%でも良いと言っています。不足分は排出権取引でなんとかなるという言い分です。結局、これは運輸部門の不達成分を食わされていることになるのです。
その運輸部門はすでに相当増えてしまっています。自家用車部門ではなんと40%も増えてしまったのです。それを-2.1%にもってゆこうとしても、できようはずもないので、運輸部門はマイナスではなく +17%と設定したわけです。それを産業部門で吸収しろという風に写るわけです。なぜ、運輸部門には甘いのか、想像ですが日本が世界に売ることのできる技術はこのところ IT はかなり空洞化してきていて、ドル箱的になっているのは自動車部門です。その部門は貿易摩擦を少なくするためには内需も拡大させなくてはならないとすると、国内で乗用車なども売れなくてはいけないわけです。もし、自動車を使わないで、という政策を進めたら、日本経済への打撃は大い過ぎるという判断が働いているように思えます。旧大綱では「自転車利用を促進すべく、駐輪場、道路の整備、鉄道などへの自転車の持ち込みを可とする方策も立てることを目指す」という項目がありました。今回はありません。公共交通機関の利用という項目はありますが。自転車利用というのはあまりに車利用とのギャップが大きいし、自転車利用者は、欧米を見ても自転車が好きな人が乗るから、言っても言わなくても効果は同じという判断があると思います。やはり、自動車という日本経済の牽引車に打撃を与えたくないのでしょう。
この大綱が効果を現すかどうか、残された時間は6年なのです(目標達成は2008-2012年の平均)。
日米以外の批准状況はどうでしょう? EUが仕掛け人ですから、当然批准しています。でも、デンマークなどは一時危ういことが有りました。90年は特殊事情があって少なかったから、それを基準値に使われると厳しいというもの。が、その後その提案というか要求は引っ込め、批准しました。米国の隣のカナダは米国以上に一人あたりの排出量が多いのですが、北国だからしょうがないでしょう。そのカナダが米国が工業的競争力を問題にして離脱したのだから、カナダととしても、米に大して競争力を失うわけには行かないという理由で、批准をしないことにしました。オーストラリアも、米に追従しました。オーストラリアは、一人あたり温暖化ガス排出量は米並みに多いにもかかわらず、排出目標値は実は+8%と削減ではなく、増加さえ許されているのです。これについて、私は勉強不足で理由がわからないのですが、それにしても、そんな楽なオーストラリアが批准をしないというのは、あまりにわがままに思えます。下手な邪推をするなら、オーストラリアは石炭を大量に輸出しているので、石炭を天然ガスにシフトされると売れなくなり苦しい、ということを暗に態度表明しているのかもしれないとも思うのですが、一説にはハワード首相の環境冷遇姿勢というものも有ります。ブッシュ氏と同じ見方ができるというわけです。石炭説は、豪は天然ガスも算出しているという事実で、説得力が少なくなるかもしれませんが、石炭は貿易額で11%を記録しており、天然ガスはその何分の一程度ということで、石炭説もかなりの可能性の高い話とはおもいます。さて、大口のロシアがまだ批准していません。ここは、牛歩的になりました。米の離脱で、批准を急ぐ理由はないというのが、理由です。別に遅める理由も無いはずですが、なぜなのかわかりません。実施批准する意欲が失せたということは有りそうです。ロシアは 90年まではまだ共産政権崩壊まで至って居らず、軍需産業も十分機能していて、経済崩壊前で人々の生活レベルも高く、エネルギー消費も十分多かったのですが、90年後急に経済事情が悪化、温暖化ガス排出量も激減し、目標値の達成いはいともたやすく、何もしなくてもすでに十分すぎる余裕を持って達成できてしまっているのです。その余裕分は経済事情の悪化しているロシアとしては財源です。排出権として売ることができるわけです。その排出権を最も買ってくれそうだったのが米国だったと思われます。その大得意さんが、離脱してしまったわけで、思惑が大きくはずれたわけです。この想像が当たっているかどうか知りませんが、私が新聞記事への同様のコメントをした後、こういう論評が出たことがあるので、まんざらはずれたことを言っているわけではないと思います。ともかく、ロシアはこうして京都議定書で儲けるという旨味が消えてしまったわけです。ロシアとしてはいまさら急ぐ理由はないという状況もわからないでは無いのですが、待ったからと言って何か良いことがあるかというとそれも無いはずです。待つことで米国が戻るというなら、それは確かに良さそうですが、そういう兆しはありません。
それでは、以上のような流れを、以下に新聞記事の見出しで日付とともに追いかけてみます。
2001年
10/30 温暖化防止 テロ超え連携 COP7開幕 枠組み決着目指す
2002年 (COP7自体は2001年11月末で終わりましたが、以下はその後、京都議定書を巡る動きです)
以下は、産業界や外国がCOP7での決定にどう対処しようとしているかの動きです。
2001年
2002年
環境省 風力発電など効果検証
経産省 家電・自動車に目標値
COP7に続くのは、ヨハネスブルグサミットです。これは、1992年、リオデジャネイロで開催された地球サミットから10年目に開くことになっていたもので、COPx はそれまでに具体的に温暖化防止策を作ろうというものでした。その具体策である京都議定書にロシアが批准してくれていれば、数としてはそろい、発効できましたがそれは開会の90日前までに批准していなければ手続き上無理ということで、それは過ぎてしまいました。ロシアがいつ批准するかで発効する日が決まります。でも、発効する日程にかかわらず 2008-2012年の 5年間の平均で目標達成かどうかが測られるので、日本は走り出さなくてはなりません。
以下は、環境サミットに向けての動きです。
さぼっているうちに、ヨハネスブルグサミットも終わり、さらに一年経過してしまいました。2003年9月、ロシアで気候変動会議が催され、プーチン大統領はその前、この会議で批准することを発表するとほのめかしてきたし、大方はそう思って来ていました。ところが、なんとなんと、「ロシアは経済的利益が見込めない京都議定書に急いで批准する必要性を見いだせない。」として、いつ批准するのか、いつかはすると良いながら時期を曖昧にしてしまいました。あまり遅くなれば、各国の取り組み姿勢にかかわるので、日欧は、しきりにロシアに早期批准を促していますが、その影では笑いが隠しきれない人々も居るに違い有りませんね。
さて、そんな状況で、日本の出した数年前の温暖化対策大綱はやは、効果が期待しにくいということでさらに見直しがなされるようです。また環境税が導入される動きです。
中央環境審議会専門委の「温暖化対策税」案の骨子
課税対象 CO2を排出する化石燃料(石油、石炭、ガス等)を対象に、炭素含有量に対応して課税 税率の決定 2004年の「地球温暖化対策推進大綱」の評価・見直し後 納税義務者 輸入・最終業者(最上流課税)か製造業者(上流課税) 使途 温暖化対策 性質 「目的税」もしくは「一般財源」に繰り入れ 導入 大綱の見直しで「必要とされた場合」2005年以降早期 資産税率 「炭素・1dあたり3400円(ガソリン1gあたり約2円)
平均的家庭(車所有)の年間税負担額5500円。税収9500億円。
また、一家の排出する温暖化ガスの排出源は以下のように発表されています。
一世帯あたりのCO2排出源割合
電力
32%
ガソリン
31%
灯油
14%
都市ガス
7%
LPG
5%
軽油
4%
一般廃棄物
4%
水道
3%
以上は、03年9月2日の新聞記事からひろったものです。電力は生活基盤ですが、ガソリンは乗用車ですから、ある意味では無くても良いものです。その分、電力と軽油が増えることになるでしょうが、増え方が違います。日産は、一部とは言え、トラック輸送を鉄道輸送に変更するという案も出しています。鉄道の復権は一般に環境には良い方向に働きます。マイカー通勤も、鉄道や公共機関に変えられるなら、大いに効果的でしょう。
こうした対策が、自衛的・自発的にできるわけです。
以上、これまでの経過を示したが、それからさらに進んだことについては、時間をください。いずれ近いいつに示したいと思います。
世界・日本がなすべきことは?
さて、今まで種々の面から温暖化問題を調べてきましたが、結局以下のように要約されると思います。
温暖化は確実に起こっており、人類に与える影響は良い面もあるが悪影響の方が決定的に多いと懸念される
今後世界の人口はさらに増え続ける(50年後には下手すると100億人)
先進国並のエネルギー多消費型人口予備群は現状でも先進国人口の 3倍(45億人)に上る
温暖化の主たる原因は人類が化石燃料を燃焼させることによる炭酸ガスの放出である
自然(再生型)エネルギーは、60-100億人を養うには、薄くて主役になりえない(養えなくはないがそのためには新たな環境問題を引き起こす)
4. で排出される炭酸ガスの相当量を固定化する技術は見つかっていない (固定する技術が無いわけではないが、やはり新たな環境問題を引き起こしかねず、確実なものではない)
以上をもし認めるなら(認めないという人が居ても、認めない根拠がなければやはり)、人類としてどう対処することができるかを考えなくてはなりません。まえがきにも述べましたが、環境問題は、問題を発生する人の住んでいる空間および時間を超えて生じるものなので、とかく人ごとのように思いがちですが、今我々が原因を作っている以上、それを抑制する方法を考えておかなくてはならないのは当然のことです。
1. について、良い面だけを強調することができるように、国際的合意を諮るというのも机上ではできますが、歴史的な怨念で国際紛争が絶えない人類の現状を見ると、バングラデッシュの湿地帯に住むひと、オランダのみならず海抜ゼロメートル地帯に住む人々、島嶼諸国の人々、さらには多くの文明国に共通する海抜数十aにある大都会の民に対し、それらの土地を温暖化で失った後、もともと住んでいたとほとんど変わらないと思うことができる環境が北の方にできたとしても、その地方の民が気安く提供してくれるかどうか。北国の人たちは、今まで歴史的に気候的・土壌的には貧しい土地で、富んだ国の富んだ生活とは無縁に近い生活をしてきて、その富んでいた国が炭酸ガスを多量に排出したために温暖の地になったとき、それが肥沃になったのは温暖な地に住んだ人たちがせっせと温暖化ガスを出したからだという理由がたとえ本当だとしても、結果として自らが温暖化の犠牲になった人たちを含め土地を失った人たちに、だから肥沃になった土地を提供して下さいと交渉したところで、先祖代々がやっとの思いで維持してきた土地を、簡単に譲ってもらえるとは限りません。それらの国の人にとっては寒冷な土地で暮らす生活の知恵ができていて、むしろ温暖化したことにより住み難くなるかもしれないのです。よく有る例のように、またまた強者であるもと温暖な地方の民がこぞって結集して新しいルールを作り、北海道の土地持ちの人たちは収穫が増えたはずだし、だから相当分の土地を無償提供しなければならない法律ができましたから、快く譲って下さい、などと言って「はいはい、どうぞどうぞ、当然のことですよ」と言える人が居るでしょうか?戦争中の疎開のようなことが、疎開では弱者に限られていたものが、強者も含めて始まるわけです。インドでは、高温で疫病が発生しやすくなったので、暖かいシベリアに移動したい、と言っても無理な話でしょう。アメリカ南部でも、とても住めなくなったので、アラスカ州に移りたい、という場合は、これは可能かも知れないですね。同じアメリカのことですし、アラスカはもともとロシア領だったものをアメリカが信じられない値段で買い取った(悪いのはアメリカではなく、無知なロシアだったかもしれない)訳だから、住民の土地への愛着がそれほど無いかもしれないですから(全く無責任な想像です)。
ともかく、温暖化を認める合意を国際的に得て、温暖化の良い点を積極的に利用し、損失を被った諸国の補償をするなどの国際的政策をとる、というのは夢物語のように思います。今、国連は地域の紛争解決程度に機能しているのですが、それすら加盟各国の利害がからんで、ともすると決裂が多くなり、ましてや国連への上納金が滞っている大国すらある現状を考えると、これほど大きな対話は無理だと思われます。もしそのような国際取引が可能なら、京都会議での目標はいとも簡単に達成できているはずですね。が、 COP6 のハーグ会議ですらまだCOP3の枠組みについての批准ができず、そのまま失効してしまいそうな雲行きです。ましてや、途方もなく大きな利害が発生する人類の国境を越えた大移動問題が国際的に合意できるなど、あり得ないと思うのが自然です。少なくとも、そんな合意が得られるという幻想を抱いて、温暖化を抑制せず、経済活動を優先するなどあってはならないことです。
5. の炭酸ガス固定化技術は、それと比べれば大きな可能性が残っています。でも、閉じこめる炭酸ガスはせいぜい発電所のような大型燃焼施設に限られるでしょう。自家用車に炭酸ガス回収装置を搭載するなど考えられないことです。今、燃料電池が盛んに発電所に代わる発電設備になるとちやほやされていますが、車と同じことで、家庭用として備えられるなら回収装置を備えることは非常に苦しいことでしょう。備えただけでは駄目で、それを各家庭に回収に回る必要もあるのです。回収した炭酸ガスはまさにガス状ですから、固体または液体状態に保つか、高圧にしておくかの障害があります。もちろん、回収がうまく行き、海洋投棄などしても環境への影響が、温暖化で現れる影響より少ないとなれば、次善の策として取られる可能性は有ります。回収と固定化に必要な経済的負担も凌げないことは無いかもしれません。しかしです、そうなれば固定化する国としない国が現れ、国際的罰則を作ったとして誰が守らせるのか、守らない場合誰が罰するのか、やはり COP3の成り行きを思い出せば、これも早晩暗礁に乗り上げてしまうのは確実でしょう。
もちろん、私はそういう悲観的なことを望んでこう書いている訳ではありません。この暗い予測が外れることを望んでいます。ただ、楽観して悲劇を待つよりは、悲観的に考えた対処をした方が結果として楽を見ることができると信じているのです。
このまま持続的発展を望むなら、高速増殖炉だけって本当?
そうです。そう思います。リスクは覚悟の上、しかも今の原子力技術があまり進まない(高速増殖炉技術だけは進む)とすれば、将来原子力の恩恵を受けない末裔の世(数千年後、したがって天照大神以降の歴史以上の長きにわたって)まで、そのリスクを背負わせることになるのは、当然です。理不尽と思うでしょうが、そういうことなのです。原子力によるリスクは、人類の英知が生む技術でなんとかなるかもしれない。一方温暖化はほとんど既成の事実。だからリスクは高くても、安全に処理できる可能性も否定はできない。たとえば、原子炉の設計をうまくやれば放射性半減期の短い物質のみが残るようにできる可能性が試されています。そういう技術が確立される可能性が、温暖化により起こる悲劇より少ないと信ずる以外、この道をえらぶ理由はありません。そうしないかぎり、温暖化は避けられないと思います。
ともかく、50年後には地球人口は 100億人、その半数以上が今の先進国並のエネルギーを使っているかもしれない、途上国人口も今よりずっと多くなっている可能性が高いわけですから、全て合わせればエネルギー消費率は今の数倍になっています。エネルギーだけを考えた場合、その生活を約束できるのは、石炭だけです。メタンハイドレートが使える、あるいはうわさされているメタン層がシベリアの超深地層に隠れていた、などの状況変化が有れば、温暖化は石炭のみに依存した場合より鈍化するでしょうが、それとて人口増加と先進国の増加の予測の誤差範囲でしょう。化石燃料に頼っている限り、温暖化が大幅に加速されます。それを避けるには、今でも新エネルギーは力が圧倒的に低いのに、それら途上国人口が先進国に移ってきたら、新エネルギーの貢献度は一層下がりそうです。軽水炉も、現状の世界の原子力依存率が低い状況でウランの可採年数がせいぜい 70年(この数字は実は怪しいと思うのですが、確実なデータとしてはこの程度の数字しかないので信じるしか有りませんね)ですから、原子力依存体質に変わったらあっという間に枯渇するのです。そうなると、ウランの寿命を二桁延ばすことのできる増殖炉しか無いということになるのです(実は、現在世界のエネルギーの原子力依存度は 5%-7%程度ですから、すべてのエネルギーを原子力で賄おうとすれば 14-20倍に寿命が延びてやっと60年程度といわれるウラン資源が同じ年数だけ維持できます。ましてや先進国人口が現在の 5倍程度になり、その状態を200年以上維持しようとすれば、200倍〜300倍寿命が延びなければならないのです)。これは、好む好まざるに関わらずなのです。
核融合炉が有るではないか、という人も居るでしょう。第5章で、述べましたが当事者は50年先に実現ができるかもしれない、と言っている技術です。まだ工学レベルではなく、科学のレベルです。そこで何が起こっているのかというところです。したがって、人類に潤沢なエネルギーを供給できるかどうかわからない状態です。核分裂の持つリスクより大きな危険が待っている可能性も有ります。
常温核融合なら大丈夫ではないか、ということも無いわけではありません。言い過ぎかも知れませんが、科学技術について、遊び>科学>技術という道のりを考えると、遊びと科学の間ぐらいに位置すると思います。おしかりを受けるかもしれませんね、このような表現をすると。もちろん、ある日突然何かのブレークスルーで、一気に技術になる可能性も否定はできないでしょう。が、その確率は低いでしょう。
いやいや、技術革新により、エネルギー消費量を圧倒的に減らしながら、今の生活を謳歌できるという人も居るかもしれないですね。たとえばハイブリッド車が有るではないか、それは燃費が 2倍になったから、皆がハイブリッド車に乗れば燃料消費は半減するではないか、と。でも、半減までです。燃料電池車がこれより効率がかなり良くなるという話はありません。同じ程度か若干上かもしれない、というところです。 LCA 的に見たら、低い可能性も否定できないのです。住宅も徹底的な断熱構造にすれば、光熱費は相当削減できる、うまくやれば半減以下だという話もあります。しかし、民生部門のエネルギー消費量は全体の中の数分の一程度です。それが半減しても全体を押し下げる効果はわずかです。いや産業部門とて、省エネを進めれば良い、と言うかも知れませんね。しかし、日本の省エネ技術は世界一で、COP3でも、それまで削減努力をしなかったところと、がんばって削減してきているところとが、同じ削減率を適用されては困るというのが日本の主張だったのです。すでに相当のところまで来ているので、これを半減に、というような省エネルギーはもはやできないと言えます。諸外国は、「日本はバイオマスを使っていないではないか、風力を使っていないではないか」と言いますが、それらは上述のように薄いので、もともと日本ではあまり期待できないのです。いやいやコージェネが進んでいないからヨーロッパなどからやり玉に挙げられているのではないか、という意見も聞こえて来そうです。ヨーロッパは、イタリアでも日本に比較して相当北に位置する涼しい国。イギリス、フランス、ドイツなどはもう北海道以北に相当する。だから、一年を考えると、日本より寒いから暖房にお湯が使えるわけです。日本は前述のように家庭で使うエネルギーより産業用に使う(エネルギーを使って加工したものを輸出する国だからという面が大きい)ので、コージェネ効果はヨーロッパのようには期待できません(ガス冷凍式のクーラーが出てくると少々ヨーロッパに近づくかも?)。コージェネの熱は温度にして100度程度のお湯のこと。溶鉱炉の熱をコージェネの熱で、というわけには行かないのです。産業用の熱はほとんどが 100度では意味が無いと言いましたよね。
結局、エネルギー効率を今の数倍に上げて生活するという話は幻想になります。それに、エネルギーのリサイクル(再生)を唱えましたが、資源のリサイクルはこれからは必須です。たとえば銅の可採年数は、今のところ石油などと変わらないと言われています。石油はウランで代用できますが、銅は銀で代用とは行きません(常温超電導物質が安価に生産できれば、銅のリサイクル必要量は減るでしょう)。白金も触媒で使われるので消費がどんどん伸びており、可採年数が短くなって行くでしょう。すると、これもリサイクルとなるのですが、そのリサイクルにはエネルギーが必要です。掘るときのエネルギーとリサイクルのエネルギーを考えると、リサイクルの方が高いから今まで進んでいなかった(選別などの別の要因も大きいですが)わけで、これからリサイクルが必須になってくると、省エネ効果を食うことになりそうです(詳細なデータが有りませんから間違っているかもしれません)。
そんなこんなで、観念的な話に終始しているのですが、まず省エネなどを突き詰めても、100億の民の相当数が先進国として贅沢な生き方をするには、環境が悪化せざるを得ません。高い確率でそうなるでしょう。
贅沢とリスクを天秤に掛けて増殖炉を導入
それで、温暖化させないために化石燃料は大幅に使用料を減らしつつ、エネルギーだけの観点から解決しようとするなら、結局高速増殖炉しか無いということになります。5章でも述べたし、ところどころで述べたことを繰り返すことになりますが、今のところ高速増殖炉は発電単価が軽水炉の数倍と言われ、採算が見合わないので反対が多いですね。日本以外では最後の砦であったフランスは開発計画を止めてしまいました。ロシアはまだ動いているようですが、経済力から言って、これ以上の開発を進めるとは考えられません。残るは、日本で原子力円卓会議も認めた増殖炉の開発継続となるのです。問題はもちろん、多々有ります。リスクの高い問題です。それも、繰り返しますが受益者とリスクを背負う人は違うのです。地域的な違いというより、時間的すなわち世代的な違いです。それは、とくに子孫にリスクを押しつけるということになります。もしかすると200年か300年後には、人口は20億人程度になっているかもしれません。そうなれば、技術的に自然エネルギーだけで賄える文化的生活を送っているかもしれません。が、それまでは高速増殖炉で温暖化を防ぎつつ、経済発展を遂げるわけです。200-300年後の20億程度の民は、地の底のところどころではもしかすると放射性物質を閉じこめたはずのガラス固溶体が地震でひび割れて、まだまだ高レベル放射性を持つ物質がじわじわとしみだしてくる、という状況も否定できません。少なくとも、そういう不気味さを強要することにはなりますし、その危険が出始めたとなれば、嫌でも掘り出してさらに安全なところへ安全な方法で隔離する必要に迫られるわけです。恩恵を受けた(贅の限りを尽くした)のは 200年以上前のご先祖様ということなのに。
原発は間違った経済活動より安全という考えも
(私は、工学者であり、経済学音痴です。が、工学と経済学を抜きにして環境問題は全く語れません。その点、これから最後までの私の見解は多くの間違いを含むでしょう。また、データをもとにしたものではなく、直感をもとにした観念的な見解の域を出ません。一方、経済音痴であることは、経済学会の常道や制約を気にしない発想を含みうるとほのかに思っています。それを承知の上、読み進んでください。)
原発は、他の科学技術と比較されることが多いですね、安全性について。安全の定義が何かによるでしょうが、人の寿命が縮むことだと考えれば、一回事故が起これば世界の人間の平均寿命を縮めます。一方、OPEC が経済的優位を保つために世界を敵に回して(?) 生産抑制をしたとします。それで世界の投機家が暗躍し、石油価格をつり上げ、貧乏な人には石油ばかりか物価上昇により生活必需品が手に入らなくなり、寿命を縮めたとします。このとき影響を受ける人の数は圧倒的(貧乏な人の数は、とくにアメリカのように貧富の差が大きいところでは圧倒的に多いでしょう、もともと全体が貧乏な国はそれなりに物が無くても生きて行けるシステムですが、有る程度経済的に安定した状態に合わせて作られた社会で急にそれが不安定になると、貧しい民は直撃を食らい、立ち上がれません)ですから、原発で影響を受けた人の数を大幅に上回る可能性が有ります。1999年の OPEC減産政策に始まり2000年夏ピークに達した OPEC増産圧力騒ぎがこれを如実に物語っています。OPEC の経済活動が間違ったとここで非難しているわけではありません。OPEC が少々減産をしたからと言って、あっという間に価格が 3倍近くにもはねあがる経済構造が間違っているのです。人の不幸を利用してぼろ儲けができる構造が非難されず、リスクがあるからと原発だけが悪者扱いは理不尽だと言いたいのです。何度も言いますが、こういう経済活動を容認し、持続的発展を金科玉条のように掲げ続け、多くの人の不幸を見ぬ振りをして突き進み、結果として将来にかけての環境を壊すなら、原発、高速増殖炉で、安定化を図った方がより安全ではないかと言いたいのです。
そんなことをしてまで突き進む、せいぜいここ数世代のしかも全員ではない民が享受するための持続的発展の見返りに、それなら我々は将来の人に何か「これは」という有形でも無形でも良いですが「財産」らしきものを残すことができるでしょうか?それで申し訳にする、あるいは贅だけに浴していたのではない、将来のためにそのエネルギーを使ったのだ、と説明(弁解)できるものを。きっと、そんな将来のことはわからない、と誰もが答えるでしょう。でも、リスクを残すことだけは確実なのです。
そんな面倒なことを言うなら、温暖化を残して高レベル放射性廃棄物は残さないでおこうという考えに戻りそうですね。ちょっと怖いけれど想像をたくましくするならば、放射性物質で恨むのは自分の先祖ですが、温暖化で恨むのは他の国の先祖です。したがって、戦争が勃発する可能性を秘めるとするなら、放射性物質ではなく、温暖化です。
子孫にリスクを残したくないなら、贅沢は止めなくては
そうです。贅沢は、限りが有りません。戦後を考えましょう。私は戦後生まれですから。私の育った時代は、ものが無い時代で、麦飯当たり前(今はそれなりに麦飯も立派なグルメ?)、冷暖房も、テレビも、洗濯機も水洗トイレも無い時代です。ですから、それら文明(?)の利器が有る生活は贅沢なのです。生まれ育った環境が原点です。私の子供、すなわち今の大学生の年代は、そういうものが有る環境で育ったのです。ですから、洗濯機が無いなんて考えられないわけです。育った環境によっては、乾燥機すら無いという生活が考えられないかもしれません。
「お米をお釜で炊く」と言っても多分分からない人が多いでしょう。お米は電気あるいはガス炊飯器で炊く、という以外の方法が子供には考えられないことでしょう(ボーイスカウトに所属する人は別)。
今の小学生レベルになると、お年玉は若々しいおじいちゃんおばあちゃんに何万円ともらうのが当たり前、それで3次元グラフィックスのゲームで遊ぶのが当たり前となっています。8MHz の 8bit の CPU のマイコンを駆使したゲームなんて、見向きもしないでしょう。子供の頃から個室があってそれぞれ冷房付き、下手するとそこには、ゲーム用に個人のテレビも完備しているという状態です。それがスタンダードなのです。
そういうエネルギー、資源をふんだんに使い成り立つ生活を生まれたときから享受していると、それより不便な生活は生理的に拒否してしまいます。たとえば炎天下で体育をやれば、倒れる生徒が続出するのは当然です。そういう生活を続けたいし、かと言って、その子のまた子のそのまた子供の・・・という将来に、原子力発電の危険かも知れない残骸は決して残したくない、ということは現在の工業技術では不可能なのです。将来もかなり不可能と言って良いでしょう。ということは、可能かも知れないとも言っていることになるわけですから、贅沢を続けても良いのではと、ほのかに思う人も居るかもしれません。実はほとんどが、そう思っているはずです。絶対に不可能だとは誰も言いません。だから贅沢が止められないわけです。でも、それでは確率の低い方に将来の子供達を賭けることになるのです。
そんなこと言ったって、どうしたら贅沢が止められるんですか?
それでは、どうしたら良いのでしょうか? COP3 ははじめの一歩であり、それだけでは根本的解決にならないと言ったように、経済のゆっくりとした縮小も根本的解決にはならないけれどそれなりにはじめの一歩ではないかと思います。すなわち、経済には全く素人で音痴の私の考えでは間違いだらけかもしれませんが、経済学者が「持続的発展」と称しているものは、実は希望的発展でしかない、それもここ20年程度の話に限られているのを見るにつけ、素人でもそれよりは増しなことを言えそうな気がします。
思いつくままに記します。
資源(化石燃料・原子力燃料も)は有限であることを思い出そう
今までの話を理解していただいておれば、このことも充分理解していただいているはずですね。
そんなことは、百も承知!! 何が言いたいの?
ということですよね。一昔前ならいざ知らず、環境・エネルギー問題は誰でも知っていることだと。でも、知っていることと、問題意識を持っているということとは違いますね。どうすれば、解決するかを悩み、答えが出たら実践するか、知っているだけで他山(他山とは空間的問題ですが、いつも言うように、実際は将来)の石とするか。
人間の活動は無限に続く
人間の活動は無限に繰り返されます。人類の歴史分だけ。どこまで人類が生き延びるかわからないのですが、たとえば 1000年としても、石油の寿命と比較すれば無限と言っても充分です。その無限にある活動は資源で成り立っているのです。
先進国の労働評価は高すぎる
労働評価(こんな専門用語は無いでしょうが、若井の造語です)とは給料のことです。
これらは、いずれこうせざるを得ない時期が来ます。バブルの頃、どこかのメーカーがその経済力に媚びて、非常に大きな車を流行させました。その後、バブルが崩壊したにもかかわらず、SUV が猛威を振るいました。今それでも、車メーカは中型車、小型車、大衆車、軽へと重点を移動させ始めています。動機は実は排気規制に迎合するためかもしれません。でも、単にそれだけではないでしょう。その中型・小型車が実は温暖化には強烈な貢献をしてしまったということをドライバーが気づいたら、車メーカは一昔前とは言え、「人々の敵であった」となるのです。それを払拭し、温暖化を視野に入れ、自動車メーカの将来を確かにしなくてはならないのは経営者の責任です。単に大きいことは良いことだという幻想の時代は、20世紀とともに幕となるのです。それはわかっていても、誰もがそれを納得しいつ始めるか、が問題です。もちろん早ければ早いほど、温暖化抑制に効きます。
鉄道の復権必要論は私が言うまでもなく、他に報道されていることであり、また実際に始まろうとしていますね。市街を走る路面電車も復権が盛んです。岐阜はしかし地方ではどんどん失権です。撤廃が続きそうです。なぜなら、自動車用道路がどんどん整備されるからです。岐阜市内電車は岐阜未来博を機に主要部が撤廃されたままです。20年はこれで良かったけれど。高富までの昔の単線を複線にして便利にすれば、渋滞する車ででかける人より圧倒的に利用者が増えるはず。第二の高富街道を造っているが、これを高性能な通勤電車にすれば、ずっと効率的なはず。郊外は土地があるけれど、市街には無いという意見もあるだろうが、わずか3km程度のことなのでモノレールにすれば良い。もともと高架駅の私鉄、高架になった JR 駅にそのままモノレールで乗り付ければ良い。その南はやはり 1-2km で土地は裕福にあるから、地面の鉄道にすれば良い。市街地をモノレールにしても、もともと高層ビルの谷間なので日照権の問題は大きくはなかろうし。
ちょっと、岐阜にこだわりすぎましたが、この方向に進むと日本の車産業の地盤沈下になりかねないという心配も有るには有ります。が、将来を見越したら、これはやむを得ないこと。日本のような狭い国でこれほど車を使う必要があるかどうか、もともと大きな問題であったと反省すべきなのです。これは私の活動場所である、機械工学、さらにはエンジンを含む自動車技術の将来を否定することにも映りかねないので非難されそうですね。
今の世界主要国の経済政策は、自動車でいえばフル加速状態の連続
そうです。これからの脱却が最も大切です。すなわち、西洋の文化が入って以降、日本はフル加速状態で来ました。とくに戦後はそうでしょう。どの会社もフル加速を前提に設備投資し、人を雇って来たのです。一度、商品が浸透すると、新たな戦略を立てます。たとえば、自動車の 4年でモデルチェンジもその作戦の一環です。各家庭に行き渡ったら、たとえまだ使える車でも棄てさせて新車を購入させないと会社の経営が成り立たない。故障するのを待って修理したり買い換えをさせるいわば定常状態は想定していないのです。本来、商品が行き渡ったら、新たな価値を付加してあたかも古い車は使えない(日本の新しい物好きの心理を駆り立てて)という幻想を抱かせて、というのは言い過ぎでは無いでしょう。
話は戻って、戦後復興から一段落して建設業界は定常状態に陥った。これでは、じり貧しかない。それで現れたのが列島改造論。これで、息を吹き返ししばらく安泰という次第です。これも一段落すると、今度は大型建造物ラッシュを生んだ。四国への大橋群、青函トンネル(これらはしかし、列島改造論華やかなりしころ提案着工されたもの)、方々の国際空港、各地方公共団体の箱もの行政など、建設業界のフル加速を持続させるに十分な政策ですね。
家電も然り。洗濯機もいろいろ変わってきました。少々の改良が大きな変化のような宣伝。小さな変化も回数を重ねれば大きな変化に。確かに効率的になった。それが現れてから50年程度の間に随分変わりましたが、洗濯機は洗濯機。テレビも然り。ビデオを例に取れば、ベータや VSH の現れた直後からすでに 8mmサイズは研究され、相当早くから実用化されていた。にもかかわらず、ベータが VHS に破れるまで大々的に世に出ることはなかった。大きなサイズのものが行き渡ってから、大々的に販売する計画だったのだと疑いが出る。その8mm ではすでにディジタル化ができていた。にもかわらず、それが商品として現れて来ない。8mmが十分行き渡り、初期投資が回収できるまでは、販売に踏み切れない。ということでやっと最近ディジタルビデオが主流になってきた。短い期間に小出しにして、結局購買回数を増やす戦略。
この戦略の最たるものが、パソコンに。なんと日本の商法がアメリカ製に輸出されました。毎回のクロック周波数の高速化が1.2〜1.3倍程度であっても、古いものは陳腐だと思わせる戦略。実質、一般の人には感ずることのできない変化。ところが、ソフトウェアがこれに拍車をかける。本当にあのような大きなソフトが必要か、不思議なのですが、化け物のように大きななソフトになっている。それをインストールするにはそれなりのハードディスク容量を必要とする。それには処理速度も速いに超したことはない。最新のソフトを使う人のデータは古いソフトと下位互換は無い。インターネットがこれに拍車をかけ、添付ファイルなんぞが簡単にできるものだから、他人が使うファイルを読むことができるように自分のパソコンをセットアップしておかないとメールの交換も意味が無い。ということで結局最新のパソコンに買い替える必要が出てくる。これは日本発の商法ではなかったか?この方法はビジネス特許が取れたはずですが、今更遅い?
持続的経済発展=持続的全加速 >> 早晩世界は破滅
ともかく、定常状態には絶対にさせられないシステムなのです。常に工場をフル操業に、従業員を時間外労働までさせる仕事を作ってやらないといけないシステムなのです。全加速を持続しないとやって行けないシステムになっているのです。生産性が他より低いとなれば一層効率化に務めます。すると人が要らなくなる。それならばアメリカ流にレイオフ=リストラ断行となります。それをしないと、会社は潰れる社会構造になっています。リストラしても生産力は当然維持されるよう効率化されています。リストラされた人たちは、一方で生きて行くために直接かどうかは別として結果として新しい会社を作ることになります。つまり生産量は全体として増えます。新しい商品価値を持つ製品を開発することになります。この会社が成功しても失敗しても、経済的には活性化します。一部の人の借金という形が残るだけです。したがってエネルギーは消費されます。借金であっても、資源は使われるのです。すべてが、仮の姿の紙切れであるお金により動かされるのです。この大量消費を続ける戦略は当然日本におおいなる責任があるのです。当然、全加速をいつまでも続けていられるわけがありません。誰もが、このままではどうにもならないことを知っているはずですね。でも、どうしたら全加速を定常状態に戻すことができるのか、誰も知らないで突き進んでいるのです。止める術を知らないので、全加速のまましばらく様子見をしよう、というところです。でも、加速を続けるということは、資源のリサイクルがエネルギー的に只でできてもいつかは破滅です。
秀吉などの戦国時代が加速状態、江戸時代は定速走行状態
思い出せば、戦国時代は土地を褒美に使って戦わせていました。だから日本に褒美とすべき土地が無くなって、秀吉は朝鮮にその土地を求めて失敗しました。徳川幕府は、国を手に入れてからは戦争を止め、定速走行に徹しました。江戸時代が一般に、リサイクル=循環型社会だったと言われていますが、この土地を道具にした持続的発展の構図は、その徳川幕府には無いのです。持続的停滞だったと言えます。それは非常に賢明な策だったのです。世界に誇る策だったと言えましょう。今ならノーベル平和賞級、いやそれ以上に値するものでしょう。黒船の渡来により、加速せねばすぐにも世界の列強に潰される状況をやむなく悟り、明治になると再び持続的発展意欲が芽生え、日本はしばしば戦争で外へ活路を見い出そうとした歴史を刻みました。
さて、この経済活動について、数年前若井研のホームページを読んで経済学を専攻する博士課程の大学院学生が意見をくれました。私の言うことが正しいと。それで、是非どこまで経済活動をシュリンクさせることができるか、経済学の立場で答えを見いだすべきではないかと、促したのですが、彼は「今の経済学会は持続的・・でなければ通らない。縮退を認めたり奨励するような論文は価値が認められない、だから、自分もそういう論文を書いて、博士号をとったらできたらジャーナリストになってそういう仕事をしたいと思っている」という返事でした。一方、最近私の意見と全く同様の経済発展の末路を憂える本が発刊されました。これはアングロサクソンの進める経済政策について痛烈に批判しているアングロサクソン人と自称するビル・トッテン氏の著した 本です。涙が出るほど嬉い本でした。
この本は一言もエネルギー問題には触れていません。日本とアメリカおよびその歴史したがって、ヨーロッパについての経済とアングロサクソンという人種から来る性格の話に終始しています。それが、私がエネルギー・環境・地球温暖化問題から至った結論が同じと思われるのです。(ちなみに、この本にはそのように喜ばしいことばかりが書いてあるわけではありません。まじめにその説に従えば、日本は沈没せざるを得ないという結論にも至りかねないのです。)
日本は、率先して環境問題を論じるべき
アメリカ方式の経済活動に近づこうという努力が続いているように思われますが、あるいはアメリカの圧力で、日本の良い方式が相当歪められ、一見日本には良さそうに見える方式が実はアメリカの(一部の支配階級の)ためのシステムに変貌しつつあります。これはしかし、アメリカを含め、必ず破綻が待ち受けています。恐らく資源も乏しい日本が先に破綻しますが、アメリカは見捨てるでしょう。日本が破綻するころはアメリカも相当危うくなっていると直感で思います。ビル・トッテン氏流に言えば、アメリカ型大量消費、貧富の差の拡大奨励路線を歩めば、人間社会の存亡に関わる問題に発展するし、私の下地で見ればエネルギー環境の破壊につながるという次第です。だから、日本は日本独自の道を模索して歩み、アメリカを説得する気概が必要です。
単に、アメリカと日本だけの問題ではありません。日本は田畑を埋め、どんどん経済活動を活発にするための商店やマンションが続々と現れ、また壊されています。田畑が使えない分、当然陸で獲れるものを大陸から輸入しなくてはなりません。このとき、工業力に物言わせ、途上国から安く買いたたきます。合法的搾取に他なりません。(言い過ぎかも知れませんが。1970年までは、為替レート固定で 360円/jが続き、日本の労働力は極端に低く設定されていました。でも、日本人のほとんどは、アメリカが日本の労働力を搾取しているなど思わなかったでしょう。だから、現在の日本が当時のアメリカと同様の立場を途上国に対して取ったとしても、途上国の人々が搾取されているとは思っていないかもしれません。) どうして、勉強嫌いの学生が単に日本に生まれたからといって、授業時間以外にはコンビニのアルバイトで大事な時間を過ごし、途上国の民から見れば莫大なお金を手にすることが許されるのでしょう? そのあおりで授業は半分寝ていて成績が良いはずもないのに、先生もなんとなく何割程度以上は落とせないと潜在的に思っているためか、そういう学生であってもほとんどが4年生に達する。先輩だってそうやってなんとかなって来たのだから、自分だってと錯覚して就職活動に入り、一応大学卒業見込みなのだから、この程度の企業には就職できるはずだと高望みする。企業も、その大学のかなり昔の先輩の威光でなんとか採用はされる。学業の理解度が卒業にふさわしいわけではないのに、せっかく高望みの企業が合格したのだからと、卒論が中途半端でも無理矢理卒業させてもらうことになる。かなりの学生がこういう状態だと思うのですが、そういう人にどうして、途上国で大変な努力をして来た人より何倍も高い給料が払えるのでしょう? そういう人がどうして途上国で生産したものを、むちゃくちゃ安く買いたたくことができるのでしょう? これが搾取ではないと言えるでしょうか?大いなる矛盾です。(状況はしかし、どんどん変わっています。IT 技術の基盤のとくにソフト開発の主力が2000年の今、アメリカからインドに相当移っていると報道されていますが、給料の問題で同じ投資で得られる効果が圧倒的に違うところに原因があります。日本の企業も、できもしない日本の学生を雇うより、海外に進出してリスクがあるとしても、値段が安いけれど高い技術力と信頼性を備えてきた途上国の方が良いと判断するようになってきています、日本の学生諸君、がんばらないと、日本はフリーターばかりになりますよ! そのフリーター業も、従事者が増えれば今ほど高給で雇ってもらえるはずはない、しかも日本の地盤が沈下すれば、フリーターに払う余裕さえ無くなるのは当然のことです。脅しではなく、そうなるに決まっています。私を含む大学教官も、世界と競い合える能力の学生を卒業させられなくなっているという現状認識が、まだ相当甘いです、正直言って。)
そういう途上国から日本は資源を輸入し加工し売らなければ、つぶれます。ところが、資源を売る国とは比べものにならない贅沢三昧をしているではないですか。これが合法的略奪だと言って、間違っているでしょうか? そういう生活を日本はしているのです。唯一のよりどころは、上述のようにかつて日本も略奪され搾取されたことがあり、それがいやだからはい上がっただけのこと、という言い訳です。
こういう状態をずっと継続するためには、途上国に勝るものを持っていなくてはならないのです。技術力であり、創造力です(創造力についてはしかし、アメリカより相当劣るという一面も否定できないところがあります、いや中国に比べても。中国人のノーベル賞獲得数は日本よりずっと多いのです。もちろん一人当たりで見れば日本は中国より多くなるかも知れません。ところで、アメリカの創造力優位論に、私は大いなる異議があります。先述のように、徳川の為政者は、ノーベル平和賞級だった。如何にアメリカが創造力が有るとは言え、私の主張するように経済をうまく縮退させる経済理論をうち立てた人は居るのでしょうか? そういう論が出て、それが実践され、確かなものとなれば、そのときこそ100年分のノーベル経済学賞を与えても余りあるのではないでしょうか? それができない経済学賞なんて、小さい小さいと言いたいのです)。そして、定常状態は決してあってはならないのです。次々と新しい戦略を練らねばならないのです。アメリカは続々と繰り出しています。1980年代、車も電子回路素子についても日本がアメリカを上回ったとき、アメリカは必死に次なる戦略を練り、それまで優位に立っていた航空産業・宇宙産業を一層優位に導き、その技術を自動車に下ろす努力をしました。そして自動車産業、電子産業が復興しました。日本は自動車産業についてはまだ実力を発揮していますが、電子産業については先を越されてしまいました。その原因は、ソフトについて言えば、計算機の画期的 OS=トロンを日本が生み出しながら、日米貿易摩擦という名のもといわばやくざなごり押しに近い方法で葬り去られてしまいました。マイクロソフトがそんな中で一人勝ちの状況を作り出したのは、記憶に新しいところですね。このようにアメリカは、常に優位に立てる戦略(真の競争力であったり、ごり押しであったり。オリンピックのルール変更がその典型?)を練っています。その商品価値で先進国という名を不動のものとし、その国の給料は途上国の何倍であっても不思議ではないという構図をいとも簡単に作り上げているのです(実は、先進国の給料が高いというものの、ほんの一握りの人の富みに化けているとは、ビル・トッテン氏の分析。だから大半のアメリカ人は、アメリカの富のおこぼれにもあやかりそこなっているとのこと、いや、富裕層をさらに裕福にするために働いているとのこと)。常に途上国から合法的に資源を略奪し、合法的に労働力を買いたたいているのです。
最近の戦略は IT 革命です。沖縄サミットでもそれが確認されました。世界がこれで情報を分かち合えるとの宣伝文句は良いのですが、一体これで世界は平等に近づくことができるのでしょうか? アメリカは、貧富の差を拡大しないと今の栄華を棄てなくてはならない。日本も同様です。拡大はともかく、今の貧富の差が続くようにしないと栄華は保てない。政治家や政府の役人も経済学者も、それこそが使命と信じて行動し学説を唱えるでしょう。
「IT 革命で人々が世界中の情報を簡単に短時間に得ることが可能となり、コミュニケーションをはかることができるようになれば、貧しい国の人は富んだ国の人に近づこうとしてそれなりの行動を取り、富んだ国の人は貧しい国の状況を把握してなんとか自分たちの生活レベルに近づいてもらおうとするはず、だからいずれ皆平等の生活がやってくる」そう信ずる人が居るかも知れない。でも、今でも情報は氾濫し、取捨選択が難しくなっている。「IT革命だ」という情報が何を意味するのか、私もこの程度に解釈しているのですが、皆それぞれに十分理解できていない。情報が先に立ち、IT そのものの利用ではなく、「IT 革命という名称」としての情報をうまく利用する人に利益をもたらすようになる可能性が高いのです。考えてみれば、これだけマスメディアが行き渡って、とくに先進国では誰もが自由に短時間の内に世界中の情報を手に入れることができるようになっています。それで、貧富の差は縮まったのかというと、拡大したのです。一国の中で考えると、それはもしかしたら先進国ほどより拡大したのではないでしょうか?(この IT革命は環境負荷を高くするという考えは、それなりのデータをもとにして小沢徳太郎氏も述べています) ビル・トッテン氏によれば然りです。国と国との比較においては言うまでもありません。
アフリカに生きるか死ぬかの生活をしている国があっても、そこをどうにかしようという動きより、私たちは自分の乗っている車のニューモデルがどう変わったかの方に圧倒的に大きな興味があります。今日のテレビ欄の方が興味があるのです。芸能界のスキャンダルの方が心に残るのです。映像に映った飢えた人々の姿はほとんど私たちの手が全く届かない地球以外でのできごとであり、アクション映画の殺人シーンの方が余程リアルで身近に映るのです。どんなに情報が手に入っても、取捨選択するのはそれを利用するものであり、結局は知らなくても良いと思う情報は入手しないし、不幸で暗い話(若井研のこのホームページも実に暗い!)は切り捨て、活動的で明るい将来を約束してくれそうな情報は、簡単に受け入れるのです。
私の大学でも、直接調べたわけではないのですが、情報が多くて勉強をする時間が十分にとれない学生がほとんどだと思われます。一方では、今でもテレビを見ない生活を敢えて送る人が居ます。情報に溢れた生活から脱却し、そういう隠遁といわれそうな生活を選べば、他の学生とのコミュニケーションがうまく行かなくなるのでしょう。私自身も、このページを作るのに、大変な時間を費やしていて、大学教官の本来の任務である「教育・研究をおろそかにしているはずだ」と言われても反論できるはずがありません。情報に支配されているのです。もちろん、このページを結構の数の人が読んでくれていて(同じ人が繰り返しアクセスしてくれている可能性も大ですが)、全く無意味なことをやっているとは思っていません。私の教える学生のある程度の割合も読んでくれているでしょうから、教育研究に幅ができている、という言い分は、反論として使えそうです。でも、おろそかになった分と幅ができた分を天秤にかけてどちらが多いかと言われても明らかに後者だとは言い切れない。
とにもかくにも、産業革命以前の貧富の差は、実力でいわば非合法的に行われていました。いわば封建社会でした。が、産業革命以後、工学・技術の発達が進めば進むほど、当然マスメディアも発達し、封建社会は崩壊せざるを得なかったのですが、合法的に貧富の差が維持され拡大されたのです。日本はそんななかで、特異な存在であり、貧富の差は他の国と比較してむしろ減ったでしょう。敗戦という経験が、大きな働きをしたかもしれません。国を挙げて、皆平等の精神の元で「進駐軍の生活」にたどり着くことが本当の「皆平等の世界の実現」だという潜在意識がそうしたのかもしれません。そういう団結が、日本の活力となり、戦後復興、経済大国への道だったのかも。
韓国も結構貧富の差においては日本に似ているでしょう。こういう国は恐らく多くはないでしょう。たとえば、中国はどうかと言えば、都市部、しかも世界に近い都市である北京、上海や深川での生活と比べ、田舎は圧倒的に収入が少ないのです。一国の中で、数十年のギャップがあるでしょう。インドもそうです。共産国である中国は政府が世界との交流を制御しているのに比べインドは外国資本が入りやすいですから、その影響を受けるところは大きく飛躍し、受けないところは旧態然としています。10億の民を抱えるインドの中で、路上で赤子を生む生活をする大多数のグループと、大邸宅の暮らしをする少数のグループが有りながら、少数のグループがこれではインドはいつまで経っても途上国だと、かってのガンジーのように立ち上がる人が今のところ居ないのです。
ながながと書いていますが、とにもかくにも、人件費が余りに高く設定され、資源・エネルギーは只同然になっています。もらいすぎた給料で、不足しているわけではないが、何を買おうと物色してでも買わなければたまるばかり、金利が安いからためてもしようがなく、無理してでも買う、買えば置く場所に困るから、捨てる、勢い廃棄物処理場がパンクする、という悪循環です。炭酸ガス排出量について各国がバランス良くなるためには、先進国はここ数十年で数分の一以下にする必要があります。人件費を途上国並に下げるようにすることです。そうすれば、難なくエネルギー消費量が減るでしょう。人々の余暇が生まれるはずです。もしあなたが 50才以上なら、戦後の親たちは、今の親ほどあくせくしていなかったと思い出すでしょう。貧乏だったかも知れないですが。それなりに幸せだったでしょう。私に例をとりましょう。国立大学の教官として、昭和40年中頃に就職した頃は、昼休みにバレーボールなどスポーツを楽しむ余裕が有りました。職員のスポーツ大会、リクリエーションも一年に何度もありました。教授達も、それなりに昼休みをおおいに楽しんでいました。それが、今どうでしょう? 教授は教授で昼休みといえども忙しく動き回っている。夜は夜で、結構遅くまで仕事がある。一体、工学は何のために有ったのかと疑いたくなります。
先進国はおおいに生活のスローダウンを!!
もっと生活をスローダウンしなくては、地球も人間も疲れてしまいます。荒稼ぎをしないことです。そうすれば、温暖化ガスも減少します。COP3 程度の削減は容易に達成できます。これを長年続ければ、先は見えてくると思います。
週休4日も視野に入れて!!
人の値段が高すぎる、というなら、法律で人は一週間に3日以上働いてはいけない、と規制すれば良いのです。炭素税では結局お金が回るので、恐らくエネルギー消費は変わらない可能性が非常に高い。排出権購入にしても、お金が回る。お金を回さないためには、働かせないのが一番です。働かなくても、今までの工学・技術力ですでに十分普通の生活ができるように効率化されているはずです。余分な生産を抑制する、必要なものだけを生産する体制に持ってゆくべきです。国際的にこれをどうバランスするのかはもちろん、非常に難しいことです。 でも、それができて初めて世界的政治であり、世界的経済学なのではないでしょうか?一国が勝ち残るために政策、経済は確かに全てが途上国であった頃は必要だったろうけれど、21世紀はグルーバル化の時代というなら、こうせざるを得ないのではないでしょうか? IT革命などと先進国と自称する一部の国の一部の階級だけが踊っている時代では無いはずです。
エネルギー問題を離れて、ちょっと将来のつけを考えてみよう!!
ところで、私たち今の世代は、税金収入より多い国家予算、さらには種々の目的の国債でどんどんお金を使い、したがってエネルギー・資源を使っています。このお金は当然借金の形で残ります。一体誰が返すのでしょうか? 兌換券ですから返ってこなければならないですね。現金化できるはずですね、一定期限が過ぎたら。でも、誰も返してくれません。将来の子孫が返してくれるのでは? そんなことは有りません。上述のように、企業は全加速状態を続けるための策略を練って生き延びてきました。国もその通りです。旧国鉄の例を見るまでもなく、国は破綻することを承知で全加速状態です。全加速が破綻しないためには、加速先にさらなる市場が有ることです。税収が有ることです。2000年よりずっと昔はそれで良かったのです。戦争で少なくとも多くの人を亡くし、戦後人口が異常な速度で増え始めました。最悪の状況から這い上がるための国民一致の努力で生産性は向上しました。運良く朝鮮動乱の特需が入り、景気の好転させる条件は有りました。人も増え、経済的発展の根拠もあり、企業が会社を作る安い土地もまだ十分にあったのです。だから、税収は加速度的に増えました。だから銀行にお金を預けても、利子を払う余地は十分にあったのです。利子を高く維持できる根拠が有ったのです。
このとき、この銀行にお金を預けるということは何を意味しているのでしょう? 労働力を銀行に貸したということに他なりません。もちろん、銀行はそのお金を持っていても何にもならないので、優良と思う企業に貸し付けるから、実際は名も知らない企業のために働いたことになります。もし銀行が潰れたら、お金が戻らない、つまりそのお金を儲けるための労働は無駄になったわけです。だから、銀行にお金を預けるという段階では、銀行のために労働をしたわけです。どの企業に貸すかは銀行の裁量を信じてのことです。お金は仮りの姿です。労働力だけがお金の根拠かというと、勿論、それなりに高価な宝物などの物や不動産が有りますが、一般に労働者が稼ぐお金は労働に対する対価です。だから、労働者が預けるお金とは上述のように、実は労働力を銀行に預けたことになります。その労働力をいつ、返してもらうのか。返してもらうのはお金ですが、過去に働いた労働の対価を将来返してもらおうというわけですから、返してもらうときに、誰かが労働してくれなくてはならないです。年を取って自分が働けないとき、過去労働に対する賃金を一旦銀行に預け、将来の人に自分の生活ができるよう労働してもらうということで払いもしてもらうための契約が、貯金の形でなされているわけです。人がそれなりの数居るときは、その人たちが返してくれます。利子を付けてとなると、そのときの人口が増えていなければ、利子は払えませんが、今までは労働人口の増加が有ったから銀行もつじつま合わせが楽々できたのです。もちろん、機械化などにより、人口の増加以上に対価となる物を生産してくれることも有ります。それらが重畳していて、今まではうまく機能していたと言えましょう。
ところが、これからは労働人口が減ります。たとえば、日本の人口を1億人とします。労働人口がその2/3 と大ざっぱに見積もると、25年後それが総人口は 1億人は変わらず、高齢化のため労働人口が 1/2 に減ったとしましょう。1億人に今程度の贅沢をさせるために、その時代の労働者は今の労働者の 4/3倍だけ一生懸命働かなくては、いくら昔の人が銀行にお金を沢山預けていても、お金をいくら引き出しても買うものが無いのです。期待していた贅沢はできようはずがありません。つまり、1億人を 2/3の人が養うか、1億人を 1/2 の人が養うかは、貯金がどれだけあり、国債がどれだけ有るかには依存しません。一銭も貯金が無くても、養わなければならないことは同じなのです。
貯金はともかく現在の個人の労働力を銀行に貸すのであり、銀行はその労働力を企業に貸し、銀行はその労働力の対価を使って、新しい労働力を買うわけです。そして生産し、その労働力で得たものをもともとの労働者へ銀行を経由して返却する、このとき、企業は労働力を獲得する術が無いので、先に労働した人の対価を借りて新しい人を雇ったに過ぎません。借りた以上はそれ以上に返却する、そうでなければ先に労働した人は貸す意味がない。そのとき、信用が問題になり、銀行がその潤滑剤を務め、上前をはねる次第です。したがって、全てその時代の瞬時のできごとであって、労働力を労働年齢以上の長い将来に持ち越すことはできないのです。それ以上長くそのつけである貯金を維持し、その後その対価が帰って来るときには、時間差が有りますから、その時間差の間に労働力に差が発生したら、期待量より下ろすことのできる労働力は減っています。それは、インフレの形で顕在化します。貨幣価値が下がるのです。昔の労働が安く評価されるわけです。技術力が労働力をカバーしない限り、労働人口が下がれば今の貯金の価値が下がるのは当然です。その技術力を高めるために、今の労働力を投資ということで預ければ、貯金しないで技術力を高めないより良いということになります。もちろん、投資しなくても、技術力は高まります。貯金ではなく、国債とて同じ事ですね。国債は、只で労働力を買うことになります。その労働力は今出すわけで、その国債に相当する労働力が今有るということです。全加速していたのに仕事が無いから、労働力が余っている、それを国債という名で労働させるというだけのことです。その国債を将来、子孫が返すことができるか、というと、そんなことはあり得ません。まさか国債を只にすることはできませんね。国債を返すということは、その額に相当する労働力を、昔国債を購入した人に働いて返すわけですから、そんな額に相当するほど、人は余りません。つまり、国債を発行した時にその労働力と生産物とその生産によって得られた恩恵の関係はその時代の中で閉じているはずです。将来には何も伝わらないはずです。将来につけを残すという言葉は、このことをごまかす言葉なのです。つまり、国債を発行したり、貯金したりする行為を正当化するためなのです。
それなら、高齢化社会は絶望的なのでしょうか? それを絶望的にしないのが、工学、技術力です。工学・技術の原点は、人の労働力・運動能力を高めることに有ったはずです。最近は思考力も高めるようになっています。私たち、工学部で学ぶ学生諸君は、贅沢ではなく、すでに始まっている高齢化社会をも見据えて、考えて行って欲しいですね(私が高齢化したとき、私の貯金をちゃんと引き出せるために?)。
それなら、貯金は無駄か? となると、私は助言できません。経済学者に訊いて下さい。
持続的発展という言葉は、これ以後禁句にしよう!!
そして、
持続的発展という言葉は、2010年には死語にしよう!!
ではありませんか?
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