岐阜地元銀行発行・経済月報への投稿記事
4. 教育研究をしながら思うこと
この寄稿が、銀行発の機関誌に掲載されるということで、とくに述べたいことがある。それは、最初に述べたエネルギー・環境問題を扱っていて思うこと。それらは、経済活動と密接な関係にある。GDPとエネルギー消費は強い因果関係があること、エネルギー消費は現状化石燃料(石油、石炭、天然ガス)に強く依存しており、環境問題の中の最右翼である気候変動・地球温暖化の主因になっていることなどを考えれば自明のことであろう。にもかかわらず、それらが関係づけられて議論されることが少ない。とくに経済学者でそういう視点で物を言う人が少ないと見受ける。最近こそ、炭素税などを取り上げて環境問題に関与する経済学者が増えているが、それも経済発展が先にあり、それを持続させるためには炭素税が必要という視点である。最近出版されたエコ・エコノミー(レスターブラン著・家の光協会出版)でも、「経済のために環境が有り」との視点の経済学者は多くても、「環境=主、経済=従」という立場の経済学者の論は無いとしている。農学出身のその著者も、環境=主の立場を貫きながら経済発展を持続させることができると述べており、経済発展は人類として欠かせないこととの視点に立っているようである。本当に経済は発展しなくてはならないのだろうか?もしそれを是とするなら、永遠に発展することは可能なのだろうか?
私は何年も前から、経済をどこまで縮小できるかを調べることこそ、今の経済学者に求められていることだと考えてきた。'97年か'98年頃だったと思うが、私のホームページを読んだ有名文系大学の経済学部博士課程の学生がある質問をしてきたとき、返事で上述の提案をした。すると「あなたの考えに同感だが、持続的発展を否定するような論文は、残念ながら学会も指導教官も受け入れない。博士号を取るためには、そうした流れに沿った論文を書き、それが叶った後、フリージャーナリストになってそういう視点でものを書きたい」との返事だったのがその良い証拠である。また、マリル・ハート・マッカーティ著の「ノーベル経済学者に学ぶ現代経済思想」に目を通しても明らかであろう。受賞者の誰一人それを主題あるいは背景にしていない。
環境保全に積極的な力を手っ取り早く発揮できるのは、政治家である。00年、ブッシュ大統領が京都議定書離脱宣言した直後、NHK TVの党首討論会でそれが最大の争点になったとき、野党党首は口をそろえて日本は米に批准を説得すべきだと小泉首相に迫った。のらりくらりとする首相と野党党首とのやりとりは時間を食いつぶし、司会者は業を煮やして、話題をもう一つの大問題であった景気対策に切り替えた。すると、野党党首は「内需拡大」を一斉に唱えた。単純な内需拡大は、温暖化ガス排出量増加を招き、京都議定書批准姿勢とは相反するにもかかわらず、京都議定書には全く触れないまま内需拡大を迫ったのである。これは何も日本の政治家だけに言えることではない。97年暮れ、京都議定書のゴーサインが出たがその直後の98年初頭、吹き荒れていたアジア不況について欧米諸国は「原因は日本にある、内需拡大をせよ」と迫ったのであった。
こうした状況で、その後も不況は続き、国民の懐は固くなるばかり、貯金利子もあてにならないためタンス貯金が増えるがかりという。不景気打開のために内需拡大、そのためには資金が不足するので国債発行という政策がずっととられて来ている。今後も大なり小なりそうであろう。
不景気はどうして発生するのだろう?日本は資源の少ない国であるから、資源を輸入し加工して売ることで国民が豊かになってきた。明治以来、富国は工業を興すことで達成されてきた。私の専門は上述の通り、工学の中の機械工学である。とくに機械工学はものを作る(ものを作る機械も作る)のが基本である。ものづくりで稼ぐ製造業は、常にものを作っていないと破綻する。ものづくりを継続的に進める社会とは、1. 文化レベル・生活レベルの現状に満足できない社会、2. 人口が飛躍的に増加する社会、3. 作った製品寿命が短い社会であろう。
戦後の日本は、1, 2 の条件を満足させる努力を重ねて来た。3は工学的にはむしろ伸ばす努力をして来た。80年代、国内事情がそろそろ 1, 2 を満たすと、2 の延長として需要を平和的に海外に求める(非平和的な手段は、戦争である)ことになり、大躍進した。資源のない国に、これだけの数の人が高い生活レベルで住もうとするための宿命でもある。日本が進めた海外戦略は、そのころは主に先進国を対象に付加価値、質の高さを武器にしていたと言えよう。実は、上記項目3の合法的短縮化である。製品個々の物理的寿命は長いが、新製品の便利さ性能の高さに対しては陳腐化することで、利用者が感ずる心理的寿命を失う。日本の経済発展は、こうした背景で持続してきた面が多いと言えよう。この動きは日本ばかりではない。「アングロサクソンは人間を不幸にする」の著者でアングロサクソン人のビル・トッテン氏は、英のアングロサクソンはアメリカ大陸に進出し、米は北アメリカで飽きたらず世界に市場を求めて居る、そのために各国に市場開放を迫るのだと説いている。90年半ばに発生したアジア不況は、こうした先進国の需要が減ったことも一つの要因であろう。つまり先進国の民にとって、随分昔からあらたな物を手に入れなくても、普通に生きるためには困らなくなっている。一方の途上国には先進国が期待する購買力が育っていないところが多い。先進国にとって、途上国のほとんどについては、先進国並みになる発展を遂げてくれては困ると思っていよう。
エネルギーの視点からは、70年代の二回の中東戦争・石油ショックを受け 80年代以降はエネルギー消費を下げる努力が技術開発に求められ、資源の乏しい日本は世界でも優秀な省エネ国になった。京都議定書合意以降は消費者にもそれが求められている。京都議定書の目標値達成には生産抑制が最も効果的であるのは説明を要しない。
エネルギーをはじめとする資源を大量に消費している先進国は、食物などの日常的消耗品以外の物品の物理的寿命が来ない限り、新たなものを購買しなくても十分レベルの高い生活を維持することができ、生産抑制して環境も良くなるはずなのに、その逆をしなくては収入の道を閉ざされる労働者が続出するという社会構造は一体何に欠陥があるのであろうか?
それは経済システムに大きな原因があることには間違いないであろう。間違いの例を示してみよう。前述の国債について、これは子孫へのツケになるから大変だ、600兆円にも上る借金を残すことは忍びないと、子孫は借金地獄に追い回されると多くが語る。経済学者も含んで。本当に借金なのだろうか?本来、社会が正常に機能するためには、生産力が需要を満たすかどうかにかかる。需要はもちろん、人々の求める文化的生活レベルの高低に強く依存するから、絶対的な需要が存在するわけではない。江戸時代までの人々もそれなりに幸福であり生産力は需要を満たしていたことになるし、明治、大正、昭和とそれは変遷してきている。現在の生活レベルを満たすのに(特段の贅沢を求めなければ)、需要と生産力の結果としての供給はバランスしている。こうしたときの国債の発行は、実は労働力が余っていることを示している。本来、リストラなどで仕事が無い人の食い扶持は、他人が稼いでいてくれて、実は全体としての生産力は満たされている。困るのは、その仕事の無い人には購買力が無いので、仕事を与えて稼がせることになる。そうしないと、せっかくリストラを免れた人の生産品が十分売れない。リストラされた人に給料を払うために、国債を発行して仕事を作る。その国債が有効に働くために、銀行に購入してもらい現金化する。銀行はそれをリストラされなかった勝ち組みの貯金で賄う。お金は動くが、実体は、労働力、生産力である。この国債という虚体は、結局貯金した人が労働して得た対価を貯金という形で将来払い戻ししようとしたもので賄われたに過ぎない。この貯金がいくら有っても、たとえ国債に化けなくても、将来期待される形で払い戻しができるかどうかは不透明である。生産力が増加する世界では、払い戻しは利子付きで行われる。生産力が低下する世界では、負の利子付きとなるのは当然であろう。なぜなら、労働対価のツケ払いとしての貯金は自転車操業で成り立っているからである。実体として存在するのは生産力、資源そして環境である。いくら貯金を残して年をとっても、そのとき、子供達が生産力、資源、環境を持たなければ悲劇が訪れる。すべての製品は圧倒的に品薄の結果高価になり、購入できないのである。超インフレが待っているだけである。国債などいわゆる借金の場合はどうであろう。いくら借金を将来に残しても、そのとき生産力、資源があり環境が生産をゆるしてくれるなら、何の問題も無いことになる。
ただし、貯金または国債が有る場合、鎖国状態の国なら以上の考えがあてはまるが、貿易が行われていると、その分は子孫への明白な財産またはツケとして残る。幸い日本は貿易黒字なので、将来のツケは残らず何らかの財産が残ると期待できよう。
かくして600〜700兆円もの国債を発行している現在、それは将来へのツケだとする経済学者や政治家の意見に反して、実はそれらは国債を購入した人が労働の対価として得た現金を預けたことになり、ただ働きをしたことと変わらない。幸い、日本人は自分で使うことの下手な人種なので子孫への貯金として残そうとする。子孫は、親の貯金という財産を受け取ることができるかできないかということであって、借金にはならない。その財産を受け取ろうとするなら、その貯金の少なかった親を持つ子供が払うことになるが、トータルとしては生産能力が無い時代にお金がいくらあっても、インフレになるだけのことである。子孫全体としては、借金返済の責任も無ければ理由もなければ、方法もない。
そういう意味で、数ヶ月前、日本経団連の会長が段階的消費税の増額を提案したが、的を得ていると思う。国債という形であたかも子孫へのツケと称し、子供が増え経済が成長した時代はつじつま合わせができたものの、それができなくなり、経済縮小までも考えなくてはならない今後を見据えれば、国の歳入が必要分に達するよう、その時点での正当な収入で賄うべきであろう。そのとき、国債と増税とで何が違うかと言えば、前者はそれを購入した人の労働の対価を将来返すと言って吸い上げる(実は返すことはできないから)のであり、後者は国民に一定のルールを説得した上で吸い上げることである。国債が正しく理解されていない状況で発行されるなら、不健全なにおいが漂うが、税金は取ると明示して払わされるのだからむしろ健全である。
国債より税金が良いとしても、本来は国債を発行しなくて済むなら税金も上げる必要な無い。そもそも、ニューディール政策でダム建設に労働力を差し向けて成功した例は、実はその時点で生活に必要な労働をしたわけではない。将来への生産能力アップにつながったとは言えるが。つまり、そうした将来の生産能力への投資として国債が使われるなら、それは国債自体が自転車操業であっても、生産能力がそれを補う。もし、その国債がその時点で終結する生産力に振り向けられたなら、子孫は損も得もしない。逆に将来負担になるような生産がなされたなら、それこそ大きなツケになる。たとえば、寿命は短く、更新に大きな生産能力を要するような建造物などであり、環境への高い負荷を残すようなもの、あるいは巨大な航空システムなどの社会構造のように低い生産能力では維持できないようなシステムとして残す場合である。いずれシステムの維持ができずに変更するとき、大きな痛手を被る。
さて話を前に戻して、成熟した社会が不景気になるのは、作ったものが売れないからである。したがって、技術者は本来100年持つ製品開発能力が有っても、10年 5年で寿命を迎えるものを作らなくてはならない。あるいは、物理的寿命が残っていても、新製品が旧製品に対して便利さなどの付加価値で陳腐化することで寿命を失わせなくてはならない。これは、資源・環境負荷を高める。リサイクルすればというが、できないものもあるし、できてもエネルギー負荷を高める。いわゆる使い捨てさせる製品開発が技術者に求められている。その好例が、トラック業界であった。トラックの寿命は20年にも達する。十分普及したらトラック製造会社は不況になる。事実ここ数年、不況である。10年の寿命にすればこんな不景気は無かった。乗用車もしかりである。10年以上十分乗れる。が、4年のモデルチェンジで旧モデルは陳腐化し、買い換え需要で好調を維持している。上述のように、陳腐化でそれを迫ることもある。日本のそうした付加価値による戦略は、欧米も学んだことになる。パソコンが好例。少々の CPU の高速化は一般ユーザーには実感が無い。にもかかわらず、3-6ヶ月でモデルチェンジである。こういう製品開発を求められることは技術者には苦痛である。より良いものを作れば良いわけではないのである。唯一作って良いものは「人が買うもの」というのが現実の世界となる。工学の原点に立てば、工学とは、それはまさにスーパーマンの象徴である「より速く、より強く、より高く」という、人類に不足するそれらの能力を補って余りある機械を提供することにある。さらには、飽きもせず、間違いなく正確に人がいやがる仕事でも継続的に人の代わりに作業をしてくれる機械を提供することにある。その上に、そうした機械をより少ない資源とエネルギーで提供することも要求されることになった。
私ども工学を教育する者に最近 JABEE(Japan Accreditation Board for Engineering Education = 日本技術者教育認定機構)が普及し始め、その中で「技術者倫理」を教育することが求められている(政治家の倫理教育こそが先だという意見はここでは棚に上げよう)。知ってのとおり、一人前の大人で社会人であるにもかかわらず、一部の(?)企業人に倫理が欠けているから発生する問題が非常に多くなっていることが動機であるが、その動きをあざわらうかのように続々とそうした問題が新聞紙上をにぎわしてきているのも事実ではある。困ったことに、前述の例を噛み砕けば「より良いものを作ることは人を不幸にする可能性が高い」「資源の無駄になり環境負荷が高くなっても、人が欲するものを作らなくてはならない」という皮肉のような教育は、「倫理教育」と相容れない。教育側としては、大いに戸惑わざるを得ない。本来技術者は、多くの人の仕事を代替する装置の寿命をできるだけ長く伸ばすことに意義を感ずるはずである。技術開発の結果は、自分を含め、人々を労働から開放するはずだったし、本来それで人は幸せになるはずだったのであり、誰も困るはずは無い。なのに、リストラが断行される。そういう装置により同等装置は寿命が来るまで売れなくなるし、装置に代替された人手は不要になるからである。それなら、その装置を作った人にそれだけの報酬が行き渡るかというとそういう訳でもない。その人も次なる生産活動をしなければリストラされてしまう。
生産活動を減らしても良いという、本来有るべき姿に従うとしたらリストラではなく、どうすれば良いのだろうか。当然ワークシェアリングであろう。これまた上述の日本経団連会長がそれに就任する前に説いていた方法であり、私もそう言い出すリーダーがいつ現れるか待っていた。仕事と同時に、実は余暇を分かち合うことができるので意味がある。最初の方で述べたごとく、これが工学・技術開発者が本来求めてきたことのはずでもある。この方法はヨーロッパでは先行していた。ところが、企業の経営者は年金など社会保障が行き詰まるとして同意を渋る。が、その年金は、くどいほどに述べてきたように、今いくら働いても自分が働かなくなったときには、子孫がその分と同等に働いてくれなければ、返って来ない。自分が年老いたときの労働者の生産力で、支えてもらえるのであって、自分で働いた「労働」「生産」という無形の財産はお金、貯金というみかけ上有形物が残ったとしても、長年月蓄えが利くものではない。食料などは好例であろう。
年金まで否定されては、持ったところが無いと嘆くことはない。私は学生に、「戦後を考えると、日本人は必至にそのときどきの生活以上を求めて努力してきた。そのため、諸君は戦後ずっと低迷しても不思議はなかった日本なのに、幸せでそこそこに裕福な日本に生まれ育った。その世代は、一方で600兆円を超える借金を残すと言われている。詭弁を弄するために言うつもりはないが、それを君たちが返すことにはならない。借金が有ろうが貯金が有ろうが、若者の数以上の年寄りの面倒を見なくてはならないということでは、同じ事なのだ。まだ元気な私たちを含め、若い君たちが今から後に何をすべきかと言えば、その少ない労働人口で、多くの非労働人口を含む全人口の食い扶持、生活の糧を生産できる農業力、工業力を確立することが求められていることなのだ。」と講義している。