『小公子』全

『小公子』初出本文のHTML化について
○方針
1)原姿をとどめるように配慮した。このため、底本の誤字・誤植などもそのままとした 。一方で、HTML化にあたって、変更を余儀なくされた部分がある。
2)原則として新字旧仮名とした。また、新旧の対立のない字でも適宜現在通用のものに 直したものがある(例、歿→没 附→付 柄→手篇+丙)。ただし、この基準は今後変更する可能性がある。
3)底本では原則として段落分けのための改行・字下げはない。が、ブラウザでの読み取 り速度を上げるため、句点ごとに改行をいれた。
4)当分のあいだ、ルビを付さない本文のみを掲げることとし、準備が整い次第、ルビつ き本文を提供して行き たい。
○作業の流れ
1)荒い入力を佐藤が行い、プリントアウトした。
2)それに、古市久美子(96年3月卒業)が初出本文と校訂を行った。
3)佐藤と古市でHTML化した。

〇第三回での注意。4号にわたって掲載されるが、それぞれ「第三回」の「(上)」「(下)」「(中)」 「(下)」の順になる。


小公子       若松しづ子

第一回(上)

セドリツクには誰(たれ)も云ふて聞せる人が有ませんかつたから、何も知らないでゐた のでした。
おとつさんは、イギリス人だつたと云ふこと丈は、おつかさんに聞ゐて、知つてゐました が、おとつさんの没し たのは、極く少さいうちでしたから、よく記臆して居ませんで、たゞ大きな人で、眼が浅 黄色で、頬髯が長くつ て、時々肩へ乗せて坐敷中を連れ廻られたことの面白かつたこと丈しか、ハツキリとは記 臆てゐませんかつた。
おとつさんがおなくなりなさつてからは、おつかさんに余りおとつさんのことを云ぬ方が 好と云ことは子供ごヽ ろにも分りました。
おとつさんの御病気の時、セドリツクは他処へ遣られてゐて、帰つて来た時には、モウ何 も彼もおしまいになつ てゐて、大層お煩なすつたおつかさんも漸く窓の側の椅子に起き直つて入つしやる頃でし たが、其時おつかさん のお顔はまだ青ざめてゐて、奇麗なお顔の笑靨がスツカリなくなつて、お眼は大きく、悲 しそうで、そしておめ しは真ツ黒な喪服でした。

かあさま、とうさまはモウよくなつて?。

と、セドリツクが云ましたら、つかまつたおつかさんの腕が震へましたから、チゞレ髪の 頭を挙げて、おつかさ んのお顔を見ると、何だか泣度様な心持がして来升た、それからまた、

かあさま、おとうさまはモウよくおなんなすつたの?。

と同じことを云つて見ると、どういふ訳か、急におつかさんの頚に両手を廻して、幾度も \/キスをして、そし ておつかさんの頬に、自分の軟かな頬を推当て上なければ、ならなくなり升たから、その 通りして上ると、おつ かさんが、モウ\/決して離ないといふ様に、シツカリセドリツクをつかまへて、セドリ ツクの肩に自分の顔を 推当て、声を吝まずにお泣なさい升た。

ソウだよ、モウよくお成りなすつたよ、モウスツ‥‥スツカリよくおなりなのだよ、ダガ ネ、おまへとわたしは 、モウふたり切になつてしまつたのだよ、ふたり切で、モウ外に何人もいないのだよ。

と曇り声に云れて、セドリツクは幼な心の中に、アノ大きな、立派な、年若なおとつさん は、モウお帰りなさる ことがないのだといふことが、合点が行ました。
他のことでよく聞く通り、おとつさんはお死になすつたのだろうと分りはしたものヽ、ど ふいふ不思議な訳で、 こふ悲敷有様になつたのか、ハツキリと会得が出来ませんかつた、自分がおとつさんのこ とを云ひ出せば、おつ かさんはいつもお泣なさるから、コレハ余り度々云ないほうが好いのだろう、いふまゐと 内々心に定めて、そう して、暖室炉のまへや、窓の側に、ヂツト黙つて坐つて入つしやる様な時には、打遣つて 置てはいけないといふ ことも分りました。
おつかさんと自分の知人といふは、極く僅かなので、人に云せれば大層淋敷生涯を送てゐ たのですが、セドリツ クは、少し大きくなつて、なぜ人が尋ねて来ないといふ訳が分る迄は、淋敷ことも知りま せんかつた。
大きくなつてから、おつかさんは孤子で、おとつさんがお嫁にお貰なさるまでは、此広い 世界にタツタ一人で、 身寄も何もなかつたのだと始めて知りました。
おつかさんは、大層な御器量好しで其時分ある金持の婦人の介添になつて入つした処が、 其婦人といふが意地悪 な人で、ある日のこと、カプテン、ヱロルといつて、後にセドリツクのおとつさんになつ た人が、丁度その家へ 来合せてゐた時、何かことがあつた末、おつかさんが睫毛に露を持たせながら、急いで二 階へお上りなさる処を 、其お方が御覧なすつて、可愛らしく、あどけなく、痿れかへつた其姿を忘れることが出 来ず、色々不思議なこ とが有て、互に心を知合ひ、愛し合つて、とう\/婚姻をなさる様になつたのでした。
さて此婚姻に付ては、さま\゛/の人にわるく思われたのでしたが、其中で、一番に腹を たてたのはカプテン、 ヱロルの爺さまで、是は英国に住んでゐて、お金の沢山ある豪儀な華族さまでしたが、癇 癪持で、アメリカとア メリカ人が大のお嫌でした。
此方は、カプテン、ヱロルの上に、二人の息子をお持でしたが、英国の法律で、家に属す る爵位も財産も、何も 彼も、皆長男が受継で、若し長男が死ねば、次男が跡を譲り受ることに諚つて居り升たか ら、此お方は大家に生 れはしたものヽ、三男のことで、ひどく有福になる見込はありませんかつた。
然るに、カプテン、ヱロルは、二人の兄たちの生れ付ぬ天才美質を備て居升た、美麗なる 其容貌、屈強なる其姿 、生々したる其笑、華やかななる其音声、其大胆で、慈悲深きこと、人に接て柔順なる挙 動は、多くの者の敬愛 を一身に集ました。
さて二人の兄は、是に反して外貌も美しくなく、何の才も持ず、心に美質を備ても居ませ んかつた故、イヽトン なる邸内に在ても人に怡ばれす、大学に修学する折も、学問は大嫌で、其処に居間只時日 を無益に消費する計で 、朋友もろくに出来ませんかつた。
父なる侯爵殿は此二人の息子には非常に失望し、失望のみならず常々大層迷惑の体でした 。
自身の世を譲る嫡子は先祖の家名に光沢を添へぬ耳か、男らしく、凛然敷性質は一も備へ ず、只自身の欲を恣ま ヽにし、つかひ払ふことを知つてゐる計りで、世に何の益なき人物でした。
然るに産も位もなかるべき末子が、他の二人に欠て居る伎倆も、徳も、美貌も、兼備へて 居るとは、此人にとつ て如何にも残念千万のことどもでした。
時としては巍々たる其位爵、壮麗なる産業に付属す可き美質をば、他に与へずして独り占 したる此若年が、反つ て父の心には憎くなりました。
併しまた傲慢頑固なる其心の底には、此末子を大に寵愛せずに居られず、二つの情は互ひ に戦つて居ましたが、 或る時此忌々しさが癇癪となつてムカ\/と、外に発し俄かに三男を米国へ旅行に遣はし ました。
是は二人の放蕩不頼な息子の挙動に困じ果て、末子に比較しては腹を立てるから、末子を 暫く遠ざけて見よふと 思付たからでした。
然るに六月たヽぬ内にはや淋しさを感じ始めまして、密かに末子の顔が見たくなり、直ぐ 文通して帰国を命じま した。
其手紙と引違つて着したカプテン、ヱロルの書状に米国で出逢ふたある妙齢の婦人のこと と是と婚姻する決心を したことが書て有ました、侯爵殿が此手紙を読まれた時は夫こそ立腹でした。
生来癇癪持では有升たが、此時程其癇癪をひどく起したことは無い位ひでしたから手紙の 来た時丁度居合せた給 事が其時の様子を見て御前はヒヨツト卒中でもお発しはなさらぬかと心配した程でした。
凡そ一時間も猛虎の如くに哮り立ち、其あげくに、一通の端書をカプテン、ヱロルに認め 遣はし、以後邸に近寄 ることは一切ならぬ、又親兄弟にも文通を禁ずる、今後如何様なる暮しを為すとも何処に 果てやうとも、一向か まはぬ、ドリンコウトの家よりは永遠に切離したものと見做して、父の存命中は、何の補 助もせぬものと心得よ 、と申送りました。
カプテン、ヱロルは此手紙を一読して愁歎に堪ませんかつた。
此人は故郷も懐かしく、自身の生れた美麗な家も至つて恋しく、癇癪ある老父にも親しん で居つて、是まで父が 色々失望したことを気の毒におもふて居りましたが、此文通があつてからは最早親子の間 に何の好みもないとい ふことを泣々覚悟致しました。
始はどうしよふかと方向に迷ひ升た。
是迄の育ちが育でしたから働て活計を立ることには慣ず、事務上の経験も有ませんかつた が、併し勇気も決断力 も充分でしたから先陸軍士官の株を売却してしまい、様々の困丹の末漸くニユーヨウクの 都会で、勤め先を見つ け、間もなく婚姻を致し升た。
偖大英国某侯爵家の若殿とも云れる身分が、斯く落ぶれての生計は昔しに比らべて非常な 懸隔でしたが、併しま だ年は若く、世の中の面白みも多いのでしたから、勉励せば何事か成らざらんと、頻りに 前途を楽しんで居り升 た。
住居といふは物静かな町のちんまりした家で、そこで男子が一人生れてからは質素ながら 物事総べて珍らしく、 愉快でしたから、只余りの愛らしさに思ず思を寄せ、其人にも愛されて人の介添といふ身 分のものを妻にしたの を後悔したことはたゞの一度もありませんかつた。
此婦人といふは、如何にも愛らしい人物でしたから、生れた男子も両親によく似て居りま して、此通り偏卑な安 つぽい家居に生れたには似ず、其果報は誰にも劣らぬほどでした。
第一、此子は、いつも壮健でしたから誰にも面倒を掛ませんかつた。
第二に気立が柔和で誠に可愛らしい子でしたから、人毎に嬉しがられました。
第三に器量の好いことは画に書た様で、頭には赤子によくある禿の様なもの少しもなく、 生れた時から軟かくつ て細い金色の髪が沢山で、六ケ月たつ中にくる\/と可愛らしくちゞれました、眼は大き く茶色の方で、睫毛は 長く、顔は極く愛嬌ある質でした、筋骨は珍しく逞しい方で、八ケ月たつと、急に歩く様 になり升た。
其上大層人なつこく、小さい手車に乗つて、市街を運動して居る時分、誰でも近寄つてあ やす者があれば、例の 茶勝な眼で、ヂツトまじめに見つめるかと思ふと、直ぐ可愛らしく笑ひかけて、雑作もな くお近付になつてしま いました。
此通りゆえ、此物静な町の中で、此子を見て、あやすのを楽しみにせぬものとては、一人 もなく、向ふ角の万屋 の亭主で、世に癇癪持とはあの人と云はれる位の人まで、此子には眼がないのでした。
(以上、『女学雑誌』第二二七号)



小公子            若松しづ子

   第一回(下)

段々月日が経つに随つて、奇麗に可愛らしくなりましたが、稍成人して、短かい着物を着 、大きな帽子を冠り、 少さな車を引つぱつて、姆と外を歩いてゐる処は実に見物で、よく往来の人の足を止めま した。
姆が家へ帰つては、今日馬車へ乗つた貴婦人が、坊ッちやまを見るとつて、態々馬を止め させ、坊ッちやまに言 葉をおかけなさいましたよ、そうして、坊ッちやまが臆面なく、先ッからのお友だちかな んかの様にお話しを遊 ばすので、大層嬉しがつて行ましたよ、などとセドリツクの母に話すことは度々でした。
殆んど不思議と迄に思はるヽ程の、此子の愛矯は、多分、少しも恐気なく、極く気軽に人 に懐く処ろに在るので すが、これは生れ付、人を信ずる質で、人を思ひ遣る親切な心の中に自分も愉快に、人も 愉快にし度と思ふ天性 に起るものと、思はれます。
それで、人の気を見てとることが大層早い方でしたが、是は両親が互に相愛し、相思もひ 、相庇ひ、相譲る処を 見習つて、自然と其風に感染したものと見え升。
家に在つては、不親切らしい、無礼な言葉を一言も聞たことはなく、いつも寵愛され、柔 和く取扱かわれ升たか ら、其幼な心の中に、親切気と温和な情が充ち満ちて居り升た。
例へば、父親が母に対して、極物和らかな言葉を用ゐるのを自然と聞覚へて、自身にも其 真似をする様になり、 又父が母親を庇ひ、保護するのを見ては、自分も母の為に気遣ふ様になり升た。
それ故、父がモー帰らないことになつて、母がそれを悲しんでゐる塩梅を見てとると同時 に、サアこれからは、 自分が一処懸命に慰なければならないのだといふことを覚悟して、其心持になり升た。
まだ年は行ず、赤ん坊の様なものでしたが、母の膝へ攀登つて、キスをして、、ちゞれ頭 を母の頚へすり寄せる 時や、自分のおもちやや絵草紙を持つて来て見せたり、長い倚子の上に横になつてゐる母 の側へソツトゐ寄つて 、猫の様にまるくなる様な時でも、必ず其心持が有つたのでした。
年の行かぬ身には、為す術も知りませんかつたから、出来る丈のことをしてゐたのでした が、自分のおもふより は、結句充分の慰めが出来たのでした。
いつか母が、旧くからゐる雇女のメレといふのに、「アノ、メレや、あの子は、子供心に わたしを慰める積りで ゐるのだよ、キツトそふだろうよ、時々可愛いヽ、不審そうな顔付をして、気の毒そうに 、わたしを見て居ると 思ふと、側へ来て、わたしに甘へつくとか、何か見せるとかするもの、ほんとうに成人の 様な処があるから、今 度気を付て御覧よ」と云つたこともありました。
一つ宛年を重ねる中に、此子の如何にも可愛いヽ風采が大層に人を嬉しがらせました。
母にとつては、此上もない好いお合手で、母は外に朋友を求めぬ位でした。
それ故散歩するも、話しするも、遊ぶも、皆一処でした。
極く少さい時から、本を読むことを習つて、少し読める様になつてから、夜暖室炉の前の 毛皮の上に横になつて は、さま\゛/のものを声高に読々しました。
其読ものヽ中には、子供の悦ぶ談話もあり、時々は成人の読そうな書物も稀には新聞も有 ました。
そうして、さういふ折には大層妙なことをいふので、奥さまが面白そうにお笑ひなさる声 をメレが台所で聞々し ました。
それをまたメレが万やの亭主にこふ云つてはなしました、

ほんとうに、だれだつて笑はずにゐられやしませんよ、あんな愛くるしひ様子をして、妙 なことをお言なさるの だものを、マア聞ておくんなさい、此間大統領さまの撰挙があつた跡で、台処へ来て、両 手をポツケツトへ突つ 込んで、火の前へお立なすつた処は、丸で絵にでも書度様でしたがネ、何をおいひなさる かと思へば、マアこう なんですよ、メレや、僕は共和党だよ、かあさまもそうなんだよ、おまへもそうかへ?、 とおつしやるから、わ たしが、イヽへ\/、どふいたしまして、メレは民権党の堅まりですよ。といふと、それ は\/気の毒そうな顔 付をして、そうかへ、それは大変だよ、国が亡びるよ、民権党はいけないんだから。とい つてそれからといふも のは、わたしを共和党にするとつて、毎日の様に議論にお出なさるじやありませんか。

メレは此子が大好で、そうしていつも大自慢でした。
元セドリツクの誕生の頃から居るので、主人がなくなつてよりは、お三どんも、小間遣も 、児守も、何も彼も一 人で兼て居升た。
此女はセドリツクの文優で屈強な体つきと愛らしひ様子振が自慢なので、殊に額の辺に波 打つて、肩へ垂れかヽ つて、一層の愛嬌を添へる艶かな頭髪が大自慢でした。
それ故、朝は早く起き、夜は夜なべまでして、セドリツクの小裁の着物の仕立や、修繕を 手伝ました。

サウサ、あれが本当の品とでもいふのだらうよ、大家の坊様だつて、うちのの様な器量や 、推出しの好のは、ほ んとうにありやしない、奥さまの旧いおめしを直して、拵らへたのだけれど、アノ黒びろ うどの服を着て、外を 歩るいてゐらつしやろうもんなら、どんな男だつて、女だつて、子供だつて、ほんとうに 振り返つて見ないもん なんかないから、丸で華族様の若様の様だ。

と人に云々しました。
セドリツクは自分が若様のやうだか、様でないか知りませんかつた。
全体若さまといふものがどんなものかといふことさへ、知らないのでした。
自分の一番の友だちといふは、角の万やの亭主で、音に聞えた癇癪持でしたが、セドリツ ク丈には一度も怒つた ことがないといふ評判でした。
名はホッブスといひましたが、セドリツクは此人を大層尊敬してゐまして、彼の人は余程 の金持で、エライ人物 だと思つてゐました。
なぜかといふと、其人の店先には、杏子、無花菓、密柑、ビスケツトと、種々雑多の品物 が並べてある上に、馬 と荷車が置てあつたからです。
セドリツクは、牛乳やも、麺包やも、林檎やのおばあさんも好でしたが、中で此ホッブス といふ人ほど好な人は なく、例へば毎日逢に行つて、対ひ会つては、其時\/の事をいつまでも話てゐたといふ 丈でも、どの位懇意だ つたといふことが分ります。
二人が寄れば、いつも話しが尽なかつたといふことは、実に不思議な様でした。
先七月四日の独立祭の事などです、独立祭の話しが始まれば、実に切がない様でしたが、 ホッブスは英人といへ ば大の反対で、或る時革命の話をすつかりセドリツクにして聞せましたが、其中には、敵 の姦悪、身方の勇士の 功名などに付て、随分異様に聞える愛国的の談話が雑つてゐました、其の上独立の宣告文 まで言つて聞せました 。
セドリツクが此話を聞てゐる間は、眼が光り、頬が赤くなり、髪がビタ\/に汗になるほ ど、一処懸命でして、 家へ帰つて、母に話をするのを、御膳の済まで待てない位でした。
セドリツクが政事のことに注意する様になつたのは、全たく最初、ホッブスの仕込の故で あつたのでした。
さて、ホッブス氏は、新聞を読のが大好でしたから、ワシントン府にある事柄などは、い つも精しく話して聞か せました。
それでセドリツクはコウ\/で、大統領が義務を尽してゐることの、又コウだから義務を 尽さないのだといふ話 しをも、感服して聞てゐました。
一度撰挙があつたときなどは、セドリツクは大層夢中になり、何でも豪勢なもんだと思ひ 、自分とホッブス爺さ んがゐなければ随分国の安危にも関らうかといふ威勢でしたが、ホツブスがある時セドリ ツクを連れて、たいま つの行列を見に行ましたが、行列の人の中には、其時ガス灯の側に立つてゐる、肥つてヅ ングリとした人の肩車 に乗られた少さな奇麗な男子が大声に万歳を呼ながら高く帽子を振つてゐたことのあるの を記臆して居ましよう 、忘れないでしよう、夫がセドリツクです。
丁度此撰挙騒の直ぐ跡で、セドリツクの七歳と八歳の間の頃でしたが、此子の生涯に大変 動を起した一大事があ りました、然してまた丁度此日にホツブス氏が英国や、英国女王の話をしてゐて、米国に は例のない貴族といふ ものの講釈をして、大層烈敷ことを云ひ、殊に侯爵とか伯爵とかいふものに対して、非常 に憤ほつてゐましたが 、跡で思ひ合すれば、此日は実に不思議なことでした。
其日は朝から大層暑くつて、セドリツクが友だちと一処に兵隊の真似をして遊んでゐて、 恐ろしく熱しましたか ら休息しようと思つて、ホツブスの店へ這つて行きましたらホツブスは折節朝廷の儀式の 図のやうなものが這つ てゐるロンドンのある絵入新聞を読んで大そう、すさまじい顔をしてゐ升したが、

よしいまの中、さんざ高上りをして、下々の人を踏つけるが好い、今に見ろ、踏つけた人 たちに、イヤといふほ ど飛し挙られるから(是は暴徒、ダイナマイトの類を云ふ)わしのいふことに間違はない 、みんな眼を開て見て ゐろ。

と言ました。
セドリツクは此時いつもの通り、高い倚子にチヨンボリ腰かけて、ホツブスに敬礼を表す る為、帽子を後ろへ推 遣り、両手をポツケツトの中へ突込んでゐましたが、ホツブス氏に向ひて、かふ尋ねまし た、

おぢさんは、侯爵だの、伯爵だのといふ人、たんと知るノ?

ホツブスは少し腹立気味に、

そんな奴知つてゐてたまるものかよ、わしの店へでも這つて見るが好い、どうしてやるか 。
弱いものいぢめをする圧制貴族め、こヽらの明箱へなんぞ腰をかけさせてたまるものか? 。

と四方を睨へながら大威張に自説を陳て、汗でポツ\/と湯気だつ額を、拭てゐました。
セドリツクは訳は分ぬながら、どふか不仕合らしく聞る其侯伯たちが、ひどく気の毒にな り、

おぢさん、夫れは何にも知らないもんだから、侯爵なんぞになるんでせう?。

といひました。
スルト、ホッブスが、

どふして\/、大威張りなのさ、ナニ生れ付ての分らずやなんだ、不埒千万な奴等だ。

と話の真最中に、下女のメレが顔を出しました。
セドリツクはお砂糖でも買に来たのかと思ひましたが、そうでもなく、何かビツクリした といふ様子で、少し面 色が変つてゐました、
 坊ッちやま、お帰りなさいよ、かあさまが御用ですよ、と云ました。
セドリツクは彼の高い倚子から滑り降り、

ソウカへ、かあさんと一処にどつかへ行のかへ?

おぢさんさよなら、又来ますよ。
と云つてメレと一処に出かけ升たが、メレが肝がつぶれて、物がいへないといふ面付で、 自分をヂツト見てゐる のを、何故かと思ひ、引ッ切なしに首を振つてゐるのに不審をうちました。
 メレや、どふしたんだへ?あついのかへ?。と尋ました。

イヽへ、ですがね、どふも不思議なことになつて来たと思つてゐるんです。

 ナニカへ、かあさんがひなたへ出て、頭痛がなさるのかへ?と心配そうにきヽました。
併し、そうでもなかつたのでした。
うちへ帰つて見ると、戸の外に小馬車が留めてあつて、誰か小坐敷におつかさんと話しを してゐたものがありま した。
メレは二階へと自分を急がせて、白茶フラネルの余処行の着物に華なへコ帯を〆させて髪 のもつれを櫛て呉れま した。
メレは口の中で、

へン、華族だつて、上ッ方だつて、しよふがあるもんカ、侯爵だとへ、マアとんでもない ‥‥‥

とぶつ\/言つてゐました。
セドリツクは何だか不思儀でたまりませんが、母の処へ行つたら、何ごとも話して貰われ ると信じ、メレが頻り に不束らしく口小言を云つてゐるのを、黙つて聞てゐて、何も尋ねませんかつた。
さて仕度も済んで、下へ走り下り、坐敷へ這り升と、背の高い、優しげな、鋭敏らしい、 年とつた紳士が、安楽 倚子に腰かけてゐて、其側に母が是も少し面の色を変へて、坐つてゐましたが、見れば眼 には涙が溜つていた様 でした。

オヤ、セデーかへ‥‥‥

と声をたて、走り寄り、両方の腕で子供をかヽへ、キスをした様子が、何か驚いたことか 、心配なことでもあり そうでした。
丈の高い紳士は倚子を離れ、彼の鋭い眼で、セドリツクを眺め、眺めながら、痩せた頬を 骨つぽい手で撫てゐま したが、先づ満足せぬでもないといふ面付でした。
やがて緩々した調子で、
 サヤウカ、そんなら、これがフォントルロイ殿で御坐るか、と云ひました。
(以上、『女学雑誌』第二二八号)



  小公子
   第二回(上)         若松しづ子

これから後一週間の間といふものはセドリツクは驚く事許りで、万づ夢の様に感ぜられま した。
第一、おつかさんのいつて聞せて下さる事が皆な不思議でたまらず、二度も三度も聞直さ ない中は会得が出来ませんかつた。
そうしてホッブスおぢはマアなんと思ふだろうかと、自分にも想像しかねてゐました。
先第一に、華族といふことが其話しの始まりでした。
抑も自分のまだ見たことのないお祖父様が、侯爵の華族さまだそうで、それから其跡を継 で侯爵におなりなさる可きおほ伯父様といふが、落馬しておなくなりなさる。
其次には、二番目の伯父様が其爵位をお受なさる筈なのが、是も俄にロームといふ処で熱 病でお隠れになつて仕舞う。
サアこふなつてからは、若しセドリツクのおとつさまが存命ならば、其跡へお直りなさる 可を、みんな此世に入つしやらないで、セドリツク丈が残てゐるのだから、お祖父様のお 跡には、自分が侯爵になることだといふ話でした。
今の処ではドリンコート侯爵の跡を譲得く可き人の予じめ名のるてふフォントルロフ殿な る尊号は、とりも直さず自分の新敷名と云聞せられました。
セドリツクが始めて此話を聞ました時は、思はず顔の色を変へました。

かあさん、僕は侯爵になり度ないよ、ダツテ僕の友だちに侯爵なんかになるものは一人も ないんだもの、かあさん、侯爵にならなくつちやどうしてもいけないの?

といひました。
然るに此事は免かれられぬものと見えて、其晩、二人は表の窓から外の見すぼらしい町を 眺めながら、久敷間其話をしてゐました。
セドリツクは、毎の通り、両手を片膝の週囲へ廻して、低い椅子の上に坐つてゐましたが 、どうやら迷惑そうな其顔は詰めて考へた為かポツト赤らんでゐました。
必竟、お祖父様がセドリックを英国へ来る様にと、迎をおよこしなさつたので、おつかさ んが行なければいけまいと思ふとおつしやるのでした。
おつかさんが悲しそうな眼つきで窓から外を眺めながら、

セデーや、おとつさんが入つしつたら、矢つ張りそうさせ度と思召すだろうとわたしは思 ふのだよ。
おとつさんは大層おうちを恋しがつて入つしやる方だつたよ、そうして、おまへはまだ年 は行かず、分るまいが、そこには色々考へなければならぬ都合もあるのだからね、全体、 わたしがおまへを引留めて遣なければ大層我侭な母になるのだよ、おまへがやがて成人す れば何も彼もスツカリ分り升よ。

とおいひでした。
セドリックは気のなさそうに、頭を振つて、

僕はネ、ホッブスおぢさんに分れるのが嫌でしよふがないんです。
僕も淋しひだろうし、おぢさんだつて、さむしがるに違いないんだもの、それから、みん なと分れるのが大変嫌なんです。

といひました。
さて英国からフォントルロイ殿お迎にとて遣わされたドリンコート家付属の代言人ハヴィ シヤムといふ人が、翌日此家へ来ました時、セドリツクは尚種々の話を聞ました。
併し成人の後、滅法富祐な身分になり、此処、彼処に城郭を所有し、美麗なる花苑、広大 なる鉱山、立派なる借地、借家が皆、目分のものになると聞ても、それがセドリツクの慰 めにはならず、たゞホッブスおぢのこと斗りが気に掛つてゐました。
それ故朝飯を済ますと直ぐ、心配しい\/彼の店へと出掛ました。
ホッブスは丁度新聞を読んでゐた処でしたが、セドリツクはいつもになくまじめ顔に側へ 寄りました。
自分に斯様\/のことがあつたと唐突に申したら、さぞ肝をつぶすだろうから、どふかし ておだやかに其話しがし度とセドリツクは道々考へながら来たのでしたが、ホッブスは突 然、

イヤアー、お早う!

と声を掛ました。セドリツクの方でも、

お早う!

といひました。
今日は何故か、例の高い倚子には乗らず、そこに有る明箱の上へ坐つて膝をかヽへてヂツ トしてゐたことが、やヽ暫くでしたから、ホッブスはやがて不審顔に新聞の上から見上て 、

イヤアーどふだ?

と云ひました。
セドリツクは此時一生懸命に気を落着けて、こふ云ひ出しました、

おぢさん、きのふの朝、こヽで話しをしてゐたこと覚へてゐ升か?

ソウサ、イギリスのことだつけナ。

と答へました。

エー、それから、ソラ、丁度メレが這入つて来た時ネ?

ソウダ\/、ヴィクトリヤのことだの、華族のことナニカ話してゐたつけナ。

それからネ、ソラ‥‥‥ソラと(篭りながら)アノ、侯爵のことネ、覚へてゐないの?

ホンニ、さうだつたナア、あいつ等のこともちつと斗り話してたつけ、ソウダ\/。

セドリツクは額の辺にフサ\/してゐた髪の根本まで真赤になり、凡そ、一生涯にこれほ ど間がわるかつたことはないと自分は思ひ、ホッブスおぢもいくらか間がわるくはなかろ うかと気遣ひながら、

おぢさん、こヽらの明箱へ、侯爵なんかの腰はかけさせないとおつしやたネイ?

と又言葉をつぎ升た。ホッブスは少し威張りかげんに、

ソウトモ\/、こヽらへ腰でも掛やうもんなら、ひどいめに逢はせてやるは、

と答へました。

おぢさん、そういふけれども、此箱の上へ腰かけてゐるのが侯爵だよ!

と聞て、ホッブスは殆ど倚子から飛落そうな気色でした。

何を言ふんだナア!

とビツクリ声で云ました。
セドリツクは遠慮気味に、

エー、デモ僕が侯爵なんです、アノ、これからそれになるんです、嘘いひやしませんよ。

といひました、
ホッブスは、これハ大変だといふ顔付で、俄かに立上つて、寒暖計を見に行ました、振り 向て、ヂツトセドリツクの顔を見詰ながら、

暑気にチツトやられてるナ、今日はまたすてきに暑いからナア、全体、どんな気持がする んだ?
どつか痛いのか?
いつから、そんな心持になつたんだ?

と立続けにとひ掛けて、セドリツクの髪毛の中へ大きな手を突込みました。
処でます\/、間がわるく、臆せ気味に。
ホッブスハ此時椅子にドツカト直り、ハンケチで頻りに額を拭ひながら、

ナンデモ、どつちか霍乱でもするにちげいねいんだ。

ととんきやう声で云ました。

イヽへ、おぢさん、そんなことハないんですよ、ネイ、おぢさん、仕方がないから、二人 とも明らめなくつちやネ、ダツテ、ハヴィシヤムさんが、態々イギリスから其話しを聞か せに来たんで、僕のお祖父さんがよこしたんですと。

ホッブスハあつけにとられて、セドリツクのまじめなあどけない顔を見つめながら、

おまへのおぢいさんとハ、それハ一体、誰なんだへ?

と尋ねました。
セドリツクハポツケツトの中へ手を入れて、丸ッこい、子供ら敷手跡で、覚束なさそうに 書た紙切を取出して

僕ハよく覚へてゐられなかつたからネ、これへ書付けて置たんです、(といひながら迂論 な調子で)、ドリンコウト侯爵、ジョン、アーサ、モリノー、ヱロルと読上げ、それが僕 のお祖父さんの名なんです、そうして、お城に住んでゐるんですと。
ソウソウ二ッも三ッもお城があるんですと。
僕のとうさんネ、死んだ僕のとうさんハ一番の末子で、僕ハとうさんがおなくなりなさら なけれバ、侯爵にナンカ成りやしないんで、それから、とうさんの兄さんが二人おなくな りなさらなけりや、とうさんも侯爵にならない処だつたんだけれど、みんな無なつてしま つて、僕切り残つてゐて他に男の子がないからネ、僕がならなけりやいけないんですと、 ダカラ、僕のお祖父さんがイギリスへ来いつて、迎をおよこしなすつたんですよ。

ホッブスはます\/逆上あがつた様子で、額と頭の禿たおけしを絶間なく拭ひながら、頻 りに忙敷い息づかひをしてゐ升た。
何うやら不思議なことが実際あつたのだと云ことは少しづヽ呑込めては来ましたが、眼の 前にあどけない、気遣わしそうな貌付をしたセドリツクが明箱の上に腰かけてゐて、見れ ば、少しも以前と変つてはゐず、矢張り、きのふ見た時の紺の服に赤い頚飾をつけた器量 よしで、心易くつて、きつそうな童子に相違ないこと故、華族がどうして、こふしての話 しが中々チヨツト合点が行ませんかつた。
其上、セドリツクの話振が余りに無邪気で、さつぱりとしてゐて、自分には大したことと も一向気が付かずにゐる様子ゆゑ尚更仰天したのでした。

おまへの名はなん‥‥‥なんだつたつけナ?

と問ひ掛けました。

アノ、フオントルロイ殿、ヱロル、セドリツクといふんです、ハヴイシヤムさんがなんで もそういひましたつけ、僕がネ最初、坐敷へ這入つて行つたらネ、これがフオントルロイ 殿で御座るか、といひましたつけよ、

フーン、おらあ、あきれつちまつた!

ホツブスおぢのこの言葉はいつも非常に驚いたとか、気の揉めるとかいふ時によく出たの でした。
差当り、仰天の余り、他にいふことも思付きませんかつた。
セドリツクは矢張り是が相当な、差支ない嘆息の言葉と許り思つてゐました。
ホツブスを非常に敬愛してゐる処から総て其言葉までが、尤もに感じられて、いつも心服 してゐました。
未だ世間の交際も知らぬセドリツクにはホツブスの余り礼義正しい人物でないことは気が 付ませんかつたが固より自分のおつかさんと比べて見れば、ホツブスの違つてゐたことは 分りました、併しおつかさんは婦人のことゆゑ、婦人と男子とはどふしても違つてゐるも のと自身に道理をつけてゐました。
此時なにか物足りなそふにホツブスを見詰めてゐましたが、暫くして、

おぢさん、イギリスは大変遠いんだネ?

と尋ねました。

ソウサ、大西洋を渡つて向ふだよ、

と答へました。

僕はそれが嫌なんですよ、ヒヨツトスルトいつまでか逢れないネ、おぢさん、僕はそれを 考へると嫌になるよ。

親友も離れさるを得ずといふことがあるは。

とホツブスがいひました。

ソウ、おぢさんと僕は幾年か親友だつたんだネ。

ソウトモ、おまへが生れるからだわ、此町を抱かれて歩いたのはなんでも生れてから四十 日もたつてからだつけ。

セドリツクは溜息をつきながら、

アヽ\/、僕は其時分侯爵ナンカニならなけりやならないと思はなかつたつけ。

おまへ、よす訳にはいかないのかナ、

どふもそうは行ないようですよ、かあさんがネ、とふさんが入らつしやればキツトそうさ せ度つておつしやるつていひましたよ、ダガネ、僕はどうしても侯爵にならなくっちやい けないんなら、こふする積りですよ、ネイ、僕は極く好い侯爵になるんです、圧制家にな んかはならないんです、そうしても一度アメリカと戦争しよふナンテいわふもんなら、僕 が一生懸命で止めませう。

これからホツブスと久敷間子細ら敷話しをしてゐました、最初の不審が解けてからはホッ ブスは存外愚痴つぽくなく余議ないこととして観念した様うでした、セドリツクが暇を告 るまでにはさま\゛/なことを尋ねました。
セドリツクは思ふ様に返事が出来ませんかつたから、自分で自由に理屈を付けて、段々侯 爵、伯爵の談話に油が乗つて来てから、こふいふもんだ、あヽいふもんだの、講釈はハヴ ィシヤム氏にでも聞かせたらさぞ肝をつぶさせましたろう。(以上『女学雑誌』二二九号 )


    小公子           若松しづ子
     第二回(中)
併し、ハヴィシヤム氏の驚いたことはまだ外にいくらも有り升た。
是はイギリスに一生を送つて、米人と米国の風俗には少しも慣れて居らなかつた故でした 。
職務上ドリンコート家には四十年間も関係して居り升て、之に付属してゐる莫大の富も、 威光も好く知つてゐること故、自分は全体冷淡なたちで、職務上の外は容易に口を開ぬと いふ人物なるにも係わらす、遠からず、一切を受継で、ドリンコート侯爵の尊号を名乗る 可き此童児を流石に軽忽には見做しませんかつた。
此人はまた長男、次男が老侯の意に叶わなかつたことも、カプテン、エロルが米国婦人と 結婚したのを烈敷憤ほられたことも、其未亡人が忌み嫌はるヽこと今尚ほ以前に異ならず 、其人の話になれば毎も知らす、識らず、言葉を荒らげ玉ふことも承知して居り升た。
老侯はいつも此婦人こそ我子の侯爵家の子息たるを知り、手練を以て欺きたる卑劣なる人 物なれと断じて詈しり居られ升た。
ハヴィシヤム氏も、それ或は然らん位に半信半疑で居り升たが、其生涯の中には、随分勝 手気侭な人物にも、貪欲な人物にも出逢ふたことのある人でして、増して米国人をば余り 好く思ひませんかつたこと故、かく思ふも無理ならぬことでした。
御者の案内で、馬車がトある下賎らしき町へ這入り、安ツぽい、小さな家の前へ止まつた 時に実際ギヨツトした位でした。
苟しくもドリンコートの城主と呼ばる可きものが角に万屋らしき小店のある下賎な家に生 れて、生長したと云ふは、どふ思ふても余りに不相応なことと感じました。
生れし男児と云ふは如何なる人品、又母たるものヽ人柄はいかゞあらんと気遣ひつヽも、 心は一向進まず、有難くもなき対面と少し躊躇の気味でした。
自身がこれ迄久敷間其公務を引受けて居つた大家の事ゆへ、自然贔負も出来て見れば、亡 夫の古郷と、名家の尊巌などに考への及バぬ卑劣貪欲なる婦人と掛引せねばならぬ仕合は 迷惑千万に思はれたのでしたらう。
此老成なる代言人は生来冷淡、英敏なる事務家でしたが、高名なる此旧家に対しては容易 ならぬ尊敬心を懐いて居り升た。
メレの案内に連れて通ふつた座敷を見、批評的に眺め升たが、質素にしつらつてある中に も案外小ざつばりとして住み好さそうでした。
包囲には安ぽい虚飾置物や額は見えず、壁に掛つた多くもあらぬ額面は品好きもの耳で、 婦人の手に為つたろうと思ふ奇麗な飾付が外に少し斗り有りました。
先づこれ位ならば大して悪くはないが、カプテン、エロル殿の嗜好が好かつた為かも知れ ぬと心の中に思ひ升た。
併しエロル夫人が坐敷へ這入つて来たのを見ると同時にどうやら其人品が矢張り其包囲と 相応て居るといふことに気が付ました。
此人が若し沈着で、物に動ぜぬ老紳士でなかつたならば、夫人を見た時の驚きが必ず容貌 に露はれたに相違有ません。
其質素な黒い喪服が窈窕な姿をよくも装ふた処は七歳になる童児の母といわふよりは寧ろ まだうら若き処女と思へる様でした。
其若\/しい貌は奇麗に萎らしく、其大きやかな茶勝の眼には何処となく、優愛で、おぼ こ気な様子が有ました。
此一体に萎\/とした処は夫に離れて以来まだ全く、去り切らぬ様子振りでした。
セドリツクは此様子をよく見慣て居り升たが、一時其の憂はしさが消失せて、母の貌のさ え\/するのを見るのは、只だ自分が一処に遊ぶときとか、話しをしてゐる中に、何か思 はず妙なことをいふ時とか、又は新聞を読んで覚えたか、ホツブスの談話で聞た可笑なま せた言葉をつかつた時とかのことでした。
セドリツクは六ケ敷、長い言葉をつかふのが好でして、おつかさんのお気に入るらしいの は嬉しいけれど、自分は一生懸命で言ふのに、なぜ人々には可笑か知らんといつも思つて ゐました。
さすが代言人丈あつて、彼の人は人物を見るのは得意でしたから、セドリツクの母を一眼 見ると直ぐに老侯がエロル夫人をば下賎で、貪欲な人物と見做した判断の大誤で有つたこ との合点が行升た。
ハヴィシヤムといふ人は一生独身で送つた人で、恋といふことさへ知りませんかつたが、 此可愛らしい声の、萎らしい眼の若婦人がカプテン、エロルと結婚したのは、全く其優な 心を尽して其人を愛恋した故で、損益上、侯爵家の子息なることは考に這入つたこともな いといふことの推測が出来ずして、先、これなれば掛引の面倒もない、又若年のフォント ルロイ殿もドリンコート家にとつてさまでの厄介物でもあるまいかと思はれて来ました。
それから又カプテンは生来、美男子であつて、此婦人も美人なれば、其子は多分器量が悪 いことはあるまいと考へ升た。
最初、先エロル夫人に来意を告げました時、夫人は忽ち貌色を変へました。

オヤ、さ様ですか、さ様ならば、私はあの子を手離さねばならぬのでせうか?
マアーあの様によく懐て居り升に、只今まで此上もなく楽しみにいたして、出来る丈の注 意をして育てましたに、ソシテ他に何の楽しみもない私にとつてハ、他人には分らぬほど 大事な子で御座り升のに‥‥‥、

といふ声の震へた処は如何にも愛らしく、眼には涙を一杯に湛へてゐました。
彼の代言人はしわぶきしてかふいひ升た。

チト申悪い事ですが、老侯は尊夫人に対してエー、其‥‥‥ひどく打とけては居られぬの で、イヤ御承知の通り、老人と申者は兎角偏頗な者でナ、老侯も基偏頗心の甚はだ強い方 で、一度思ひ込だことは中\/解にくいのです、殊に米国といひ、米国人といへば、一途 に嫌な質で実は御子息の御結婚のことに付ては、イヤ大した立腹で御座つた、愚老も実以 て面白からぬ御沙汰の使者として推参するは迷惑な次第です、併し早い話しが老侯は貴夫 人とは断じて顔を合すまい、たゞフォントルロイ殿は手元へ引取り、自ら其教育の任を採 り度との御所存で御座る。
元来、老侯はドリンコート城には余程執心で、お住いは重も此城中で、炎症痛風の持病あ る為、都には余り御滞在はないのです。
それ故、フォントルロイ殿も矢張り重もドリンコート城に御住いになることで御座ろう。
貴夫人にはコート、ロツヂと申して、此城郭に遠からぬ、家屋を呈し、又是に加へて適宜 なる歳入も差上る御所存で御座る。
フォントルロイ殿がこヽに出入し母君の機嫌を伺はるヽことは自由にいたし置るヽ筈、只 差留置るヽは対面井に城郭への御出入のみで御座る。
只今申し上る通り故、先方の謂分もさほど無理とは存ぜられぬかと思ひ升テ。
殊に申迄もなく、かくなる上はフォントルロイ殿にとりては教育其他万事に如何程の御利 益か測られませぬこと故、篤と御勘考願升。

と述立て、さて婦人は兎角涙もろいもの、かふ聞て泣出されはせぬか、左様なこともあら ば苦々敷ことと心密かに其様子を窺ふて居り升たが、其様子もなく、たゞ窓際へ立寄て、 暫く顔を背向て居られたのは、心の動揺を静める為で有つたのでした。
幾ほどもなく、

カプテン、エロルもドリンコートを大層に慕ふて居られ升た。
お国のことと云へば何でもひどく慕はしく思召して、お家を離れて居らるヽが始終御苦労 の種で有つたのでして、お家のことも御家名のことも格別大切に思るヽ方でしたから、其 子に故郷の立派な処も見せ、殊には又未来に賜はるといふ位爵に対して相応な教育が受さ せ度と、若し御存命ならば、思召は必定で御座り升。
といひ乍ら、席へ戻り、ハヴィシヤム氏をしとやかに打見遣り、
夫が矢張り其通りに致し度と思ふだろうと存升上は私くしは他の考も御座りません。
仰の通り、子供の為には結構なことで御座りませう。
そして、アノ侯爵様はまさか子供が此母を嫌ふ様にはお仕付遊ばすこともあるまいかと存 じられ升。
万一さ様に仕付やうと思召たとて、子供の害にはなり升まいかと思ひ升。
誠に父によく似て、温和、忠実な方ですから。
仮令、長の年月顔を合せませんでも私をおもふことには変りは御座りますまい、増して折 節の対面をお許下さるとならば格別申し分も御座りません。

と何気ない言葉を聞て老人の心の中に、さては心得たる婦人、自分のこととては露ほども 思はぬと見えて、別段先方へ要求らしいことも申出ないのかと思ひ、

イヤ、貴夫人が只管、御子息の行末のためにと御配慮あるは此老人も実に感服に存じ升る 。
フヲ(小字)ントルロイ殿も御成人となりたる上如何ほど悦ばるヽか、斗れませぬ。
以来フヲ(小字)ントルロイ殿の御一身、御幸福の為には老侯にも充分御尽力ある御処存 なれば、其辺は御心易く思召して宜しかろうと存じ升。
キツト老侯には貴夫人に代つてどこまでも御保護、御掬育あることはおうけ合致して置ま す。

と聞いて優しい母心に少し思ひ迫つて、震へ声になり、

どふぞ侯爵さまにはセデーにお眼かけられて愛して下されば好うござい升が、あれは気立 が誠に人懐こい方で、これまで優しくされつけて居り升から。

といひ升た。
ハヴィシヤム氏は又少し拍子抜がした様に咽喉を払ひました。
心の中にどふも彼の持病持な、癇僻ある老侯が大して人を愛する様なことは間違つてもな いかと思はれました。
併し自分の後を継ぐ可きものを懐けて置くは利益で有つて見れば、先深切には扱ふであろ う、又人物が自分の気に叶へば、随分、人に対して自慢する程だろうかと思ひ升た。

フヲ(小字)ントルロイ殿はキツトお気楽には相違御座りません、必竟、貴夫人が近隣に 御住居なさる様、お取斗ひあつたと云もフヲ(小字)ントルロイ殿のお心の中を推測つて の御配慮で御坐る。

怜悧くも答ました。
ハヴィシヤム氏も流石侯爵殿の申された通りを其まヽ伝へるに忍びす、態と言葉を和げて 滑らかに聞へる様に注意致しました。
さてヱロル夫人がメレに子息を尋ねて連れ帰る様に申付けて、メレが其有家を申した時、 老紳士は又も一度ドツキリ致し升た。

へイ\/、雑作もなく見つかり升とも、又いつもの通り、今時分はホッブスさん処の帳場 のワキへお腰をかけて、政事の話しをして入つしやるか、ソウデなけりやあ、シヤボンや 、蝋燭や、馬鈴薯のあるなかで御機嫌で遊んで入つしやるにちげい御座いませんよ、エど ふもお悧巧で、おかうゑいらしいんですからネ。

とメレがいひ升た。
ヱロル夫人は其跡を継いで、

ハイ、アノホッブスと申す人はセデーが生れた時から御存じで、大層深切にして呉れるの で、セデーもよく懐いて居り升。(以上『女学雑誌』二三〇号)


   小公子        若松しづ子
    第二回(下)
自分が角を過つた時、チヨツト眼に這入つた馬鈴薯や林檎の箱、其他種々雑多の商物の散 乱してゐた小店のことを此時思出し升てハブィシヤム氏は又心に疑を生じ升た。
いかさま英国では苟くも紳士の家に生れたものは、万屋の亭主などヽ友誼を結ぶといふ様 なことは有ませんかつたから、今聞たことが余程不思議な所行に思はれ升た。
もし其子供が行儀賎しく、下卑た人の交際を好む様ならば、それこそ当惑なことと考へ升 た、老侯が何よりも不面目に感じられたことは、長男、次男の両人が、下賎の者の交際を 嗜んだことでしたから、此子が万一、質父の見識を受継ず、却つて伯父たちの悪癖を遺伝 しはせぬかと、少し気遣はしく思始め升た。
エロル夫人と談話の最中、此ことに付て心安からず思ふて居り升たが、其中戸が開ひて、 子供が坐敷へ這入つて来升た。
最初、戸が開き升た時、何故ともなく子供と顔を合るが嫌に思はれて、チヨツト躊躇升た 。
然るに手を広げて迎へる母の方へ走り寄る子供を見ると同時に、此老紳士の心の中に起つ た得も云はれぬ感情を、平素其実着、沈静な気象を見貫て居たものが知り升たら、余ほど 不思議なことに思ふことでしたろう。
さてかくまで非常にハ氏の心を動かしたものは、一種反動的の感情でした。
一見して其童児が嘗て見ことのないほどな秀逸ものと分りました。
殊に容貌の美いことは非常な者でした。
其体つきの倔強で撓やかな処、幼な顔の雄々しき処、子供らしき頭を抬げて進退する動作 の勇ましい処、一々亡父に似て居ることは、実にギヨツトする斗りでした。
髪の色は金色で、父に似、眼は母の茶勝な処にそつくりでしたが、其眼付には、悲しそう な処も、臆せ気味な処もなく、只あどけない中に、毅然とした処のあるは、一生涯、なに ヽも恐ぢたことなく、疑つたこともないといふ気配でした。
ハ氏は心の中に、是は又大した上品な、立派な童児だとおもひましたが、口へ出しては極 く淡泊に、「サヤウならばこれなるがフォントルロイ殿で御座るか」といひました。
此後、童児を見れば見るほど意表に出ることが多あり升た。
ハ氏は英国で見た子供の数の最も多中に、巌重、丁寧に抱への師匠に仕着けられた、気量 好の、立派な童男、童女も多くありました。
中には控めの質なのもあり、又中には騒々敷方のもありましたが、忸れ近づいて、子供と いふはどふいふものと気を留めて見たことは有りませんかつた。
尤もハ氏の如き四角張つた、巌整な老成代言人にとつては、子供などは別段面白いことは なかつたでせう。
然るに、セデー丈には、普段と違つて、よく注意したといふものは、此童児の運命は、自 分の利益に関係の多い処からで有つたのか、又はそうでないのか、兎に角知らず、識らず 、非常に注意を引起されてゐ升た。
セドリツクの方では自分の眼を着られて居るとも何んとも気がつかず、たゞ平生の通りの 挙動をして居り升た。
自分がハ氏に紹介された時、いつもの通り丁寧に握手して、ホッブスと応答すると替つた 調子もなく、問はるヽ毎に雑作もなく返事をしましたが其様子は恐気た風もなく、さりと て差出ケ間敷処も有ませんで、ハ氏が自分の母と話をしてゐた間、ヂツト聞いて居つた様 子は、ハ氏には丸で成人かと思われる位でした。

御子息は誠にお巧者の質に見受けられ升、

と母に向つて申し升た。

左様で御座い升ことによるとさうかと存じます。
物覚は極く宜しい方で、只今まで重に年上な人と計り居り升たから、聞覚や、読み覚の長 い言葉を遣ひ升たり、ませたことを申たりする僻が御座り升て、折々大笑をいたし升。
仰の通り、どちらかといへば、巧者なたちでせうが、又時としては矢張り、極々子供らし ふ御座り升。

此後ちハ氏が再たびセドリツクに出逢ひ升た時、母の申分を思ひ合せて、本に子供らしい 子といふことが分りました。
馬車が角を曲がると、一組の童児が眼に這入り升たが、見れば何か大層イキセキしてゐま した。
其二人は今しも走りくらべにかヽらうといふ処でしたが、二人の中の一人は未来の侯爵殿 で、朋輩に負けず、劣らずの騒をして居られました。
丁度今、合手の子供と並びたつてゐて、赤い靴足袋を穿た脛を向ふへ一歩踏み出してゐる 処でした、主唱者は大声に、

よろしいか?
一ッチデ始まり‥‥‥二ッデ確乎、三ッデやれ‥‥‥

と呼はわつてゐました。
ハ氏は知らず\/首を馬車窓の外へ出して、大層身を入れて勝負を眺めてゐました。
合図の言葉と共に跳出した若侯の立派な赤い脛が膝切ヅボンの後へ躍り挙り、殆ど宙を飛 かと思ふ様な塩梅は、未だ嘗て見たことのない壮観だと思ひ升た。
セドリツクは少さな両手をシツカリ握つて、風に逆つて走り升がた、きら\/した髪は浪 々と後ろへ吹流されて居升た。
朋輩の男児等は夢中になつて足踏をしながら、狂ひ声に呼たて、

セデー!
ヤツヽケローイ。
ビレー!
負けるナアイ。
ヤレイー!
ヤツヽケローイ!

ハ氏は独言に、

矢張りこちらが勝そうだ。

といつてゐ升た。
彼の赤脛の飛工合、朋輩等の高声、赤脚に少し後れてゐても、中々軽蔑の出来ぬビレの鳶 色の脛が夢中に競争するも、何れもハ氏の心をいらだてる原因でした。

どうぞして勝せて見度ものだと。

又我知らず独ごちて、あとで人もゐぬに間のわるそうにしわぶきしてゐ升た。
丁度此時跳上り、躍り廻つて居つた童児等が、一斉に鯨声を作つたと思と、未来のドリン コート侯爵は最後の大奮発の一飛で、角のガス灯の柱に達し升たが、これはビレが息を切 つて其柱へ飛掛つた二セコンドほど前のことでした。

ヤアやつたな、セデイ、エロル!
えらいぞッ。

と朋輩等が叫びました。
ハ氏は此時暫し馬車の窓から首を引こめて、にこ\/しながら後ろへ寄り掛りました。

フオントルロイ殿大でかしで有つた。

と又独言を云ました。
自分の馬車がヱ口ル夫人の家の前へ着た頃には勝負を終へた両人は、ガヤ\/ドヤ\/と 立騒ぐ一ト群の童児等に後を推されて参り升たが、セドリツクはビレと並んで歩いて居つ て、何かいつて居り升た。
其いらだつた顔は真赤で、ちゞれた其髪は熱して汗ばんだ額へくつヽいて居つて、其両手 は、ポツケツトの中へ這入つて居り升た。

ネー君、僕が勝つたのは僕のすねが君のより少し長いからだろうよ。
なんでもそれにちがひない。
ネー君、僕は君よりか三日早く生れたろう、だからそれが僕の得になつたのだ。
僕は三日丈、君の上なんだもの。

と勝負に不首尾な自分の競争者を慰める積りか、いつて居升た。
こふ思つて見ればビレも心わるくなく、段々白い歯を顕しかけ升た、そして其中に却つて 自分が勝でもしたかの様に少し威張り気味に成升た。
セデイ、エロルはどふいふものか人の不機嫌をなだめる法方を知つてゐました。
自分が勝利を得て心の浮\/してゐる時でも負かされた人は自分ほど愈快ではあるまい、 こうならば勝てたものと思はれヽば、幾分かの心遺りになるだらうと、人の心の中を推す る徳を持つてゐました。(以上『女学雑誌』二三一号)



小公子 第三回(上)若松しづ子

其日ハブシヤム氏は彼の走り競の大関と稍暫く話をしてゐる其間幾度か吝しそうな笑を傾 けながら骨つぽい手であとを撫てることが有升た。折しもエロル夫人は処用あつて暫時座 敷を離れ跡は代言人とセドリツク丈でしたが、 始にハ氏は何を云わふかと思案いたし升た。何れ祖父なる老侯と対面する心■もさせねば ならず、又、セドリツクの身分にとつて大変革のことも心得させて置ねばなるまいと思ひ 升たが、セドリツクはまだ着英の後どの様な物事に接するものか又どふいふ家に迎へられ るかといふことも一向夢中でゐた様子でした。
自分の母が自分と同じ家に住わぬのだといふことさへまだ知らずにゐたのでした。
是は驚かせることが余り多いので、先段々にいふて聞せる方が好いとはたで注意したから のことでした。
此時ハ氏は開た窓の方の安楽椅子に倚つて居り升たが、是と対して向ふにも一つそれより 大きな安楽椅子の有つたのにセドリツクは座を占て、ハ氏を見て居り升た。
此大椅子に深くチョンボリ腰を据へ、ちゞれ頭を布団の着た椅子の背へ寄せ掛け、脛を叉 の字にして、両手をポツケツトの中へズツト突込んだ様子はよくもホッブスに擬して居り 升た。
母が座敷に居る間からハ氏に頻りに眼を注いで居り升たが、母の席を立つた跡も矢張り、 仔細有気に其顔を見詰めて居り升た。
エロル夫人が外へ行かれた後は暫く談話が途絶へ升て、セドリツクはハ氏の様子を伺ひ、 ハ氏は又セドリツクの様子を考へて居りました。
ハ氏は自分の如き老成人が、走り競に勝つたり、又椅子に深入りもすれば足先が下へ届か ない位の脛へ短かい膝切ヅボンと赤の靴足袋を穿く年恰好の子供に、何を云つて好いもの か、一寸思付ませんかつた。
然るにセドリツクの方から急に話をしかけられ、漸くホツトしました。

おぢさん、僕は侯爵といふものはどんなものだか知らないんですが、おぢさんそれを知つ てゐ升たか?

サヤウか?

とハ氏に云れて、

ゑー、知らないんです、ですが、僕の様に侯爵になる人は知つてなくつちやいけませんの か?
どふでせう?

左様サ、マアそんなものでせう。

とハ氏が答へ升た。
セデーはいんぎんに、

おぢさん、僕にセイメイして下さいな、(折々長い言葉を遣ふ時は少し誤ること有り)全 躰誰に侯爵にされるんです?

ハ氏は此問に対して、

最初は王とか女王とかゞ其侯爵を授け玉ふので、大抵は何か主君に 対して勲功が有つたとか、大事業を起したとかの為に侯爵に挙げられるのです。

と答へましたら、

アヽヽそうですか?
そんなら大統領も同じものですね?

とセドリツクが申し升た。

左様か?
お国の大統領の撰挙されるのは全く左様な訳ですか?

エイ、大変な好い人で、色々なことを知つて居れば大統領に撰ばれるんです。
それから松火で行列をしたり楽隊が出たり、皆んなが演舌をしたりするんです。
僕も先にはヒヨツトスルト大統領になるかも知れないと思ていましたがね、侯爵ナンカに なるナンテ知らなかつたんです。
(此時侯爵になり度なかつたのだと思はせて、ハ氏の気を損じてはと心配して言葉忙しく いひ替て)アノ僕だつて侯爵といふもの知つてたら、なりたかつたかも知れませんよ、
ダケド知らなかつたからね。

といひ升た。

それは大統領になつたとは少し訳が違ひ升。

とハ氏が説明いたし升た。

そうですか?
ソンナラどんなに違うんです?
松明の行列なんかないんですか?

ハ氏は今度は自分の脛を叉の字‥‥‥右の手の指先を左の手の指先へ一本ヅヽ順にゆる\ /と合せ升て、さて此子供に委細の事訳を云聞せる時期が来たと思ひ、先づ説出してこふ 云升た。

第一、侯爵といふものは大した人物です。

と聞ゐて、セデーは話の鋒先を突込んで、

大統領もそうなんですよ、松明の行列は二里も続くんです、そうして花火を挙たり、楽隊 がなつたりするんです、ホッブスおぢさんが連れてつて見せて呉たんです。

ハ氏は説明の腰を折られて、少し手持不沙汰に感じつヽ、

侯爵といへば大抵は極く旧い門 閥なんです。

と跡をつゞけ升た。

エー、それは何のことです?

とセデーが問升た。

大層旧い家がらのことです、甚だ旧いのです。

と聞いて、セデーは両手を尚深くポツケツトの中へ突込みながら、

アヽ、そう、そんならアノ公園の側の林檎屋のお婆さんとおなじことですナ、あの人はキ ツトその旧いもん‥‥‥もんばつでせう。
ダツテどふも年をとつて\/どふして歩けるかと思ふ様です、キツトモウ百位いでせう。
ですけれど雨が降る時でもヤツパリ彼処へ出てゐるんです。
僕は大変可愛そうだと思ふんです、そうして僕の友だちも気の毒がるんです、先にネ、ビ レイが一円ほど金を持つてましたから、僕がネ、其お金がみんなになるまで毎日五銭づヽ 林檎を買つて遣り玉へつて云つたんです。
そうすると廿日になるんです、デスケド、一週間たつとビレが林檎が厭つちまつたんです 。
それでもその時は大変好い塩梅でネ、僕が丁度余処のおぢさんに五十銭貰つてネ、其代り に僕が買つたんです、だれだつてあんなに貧乏で、旧いもん‥‥‥もんばつの人は可愛そ うですはネ、其おばあさんのもんばつなんかは骨の中に這入つちまつたんだそうで、雨が 降れば尚わるくなるんです。

こヽに及んでハ氏は対坐してゐる合手のあどけない、まぢめ顔を眺めても、又手持不沙汰 で、暫く言葉を続ませんかつた。

あなたは此老人の云ふことがよく分らなかつたのでせう。
旧い門閥といへば、年をとつたといふことではないのです。
旧い門閥といへば、其家の名が昔から世の人に知られてゐるのです。
大抵何百年といふほど其名が人に知られ、国の歴史に乗つてゐるものヽことです。

それじや、ワシントンの様なんですな、僕なんか生れた時から聞て知つてゐ升。
そうして其前も先ッから人が知つてるんです。
ホッブスおぢさんがいつになつても人が忘れやしないつて云いました。
それはアノ独立宣告や何かのせいです、それから七月四日の祭りもあります、大変ヱライ 人なんですもの。

抑第一世ドリンコート侯爵は四百年の昔しに位爵を授けられたお人です。

とハ氏は巌格に又説き始めました。

オヤ\/それは大変な昔しのことですね。
おぢさんそれを僕のかあさんに話し升たか?
キツト面白がり升よ。
ダツテ珍敷もの聞くのが大好ですもの。
今にこつちへ来たら、二人で話して聞せませう。
侯爵は授けられてから、それからどふするんです。

其中で英国の政事をとつたものも多くあり升。
又は豪傑で、昔しの大戦争に出たのも有升。

僕もそふいふことがして見度んです。
僕のとうさんは戦人だつたんです。
そうして大変な豪傑だつたんです。
ワシントン見た様な豪傑なんでした。
ダカラ、死なヽければ侯爵になつたのかも知れませんね、僕は侯爵が豪傑なら大変嬉しひ んです。
豪傑では大層な利イキです。
僕は先はね、こわがつたんです。
暗い処なんかね‥‥‥ダケレド革命の時の戦のことや、ワシントンのことなんか考へたら 、モウ直つちまつたんです。

ハ氏は例のゆる\/した調子で、妙な顔付をして、鋭い眼をセデイに注ぎながら。

侯爵になればまだ他に利益が有り升。
侯爵は大抵は大金持です。

と云つて、此童児が金の勢力といふものを知つて居るか居らぬかと、眼を聳だて、様子を 伺ひみたのを、セドリツクは何気なく、

お金が有れば大変好ものですネ、僕もお金が沢山ある方が好です。

左様か?
それは又何故です?

とハ氏は態と問ひ升た。

ダツテ金が有れば色\/なことが出来升もの、あの林檎やのおばあさんに、僕が金が有れ ばあの露店を入れる天幕と火鉢を買つてやり、そうして雨が降る日には毎でも一円ヅヽ遣 り升ワ、そうすれば店を出さずと家にゐられ升もの、オツトそれから‥‥‥アノ腰掛一ツ 遣り升ワ、それがありさへすれば、骨がそんなに痛くはないんです。
アノネあのお婆アさんの骨は僕たちのとは違つて、動けば痛いんですからネ、骨がそんな にいたければ大変困るでせう、あなたや僕たちだつて。
僕がお金が有つて、それ丈みんなして遣れば骨がよくなるか知らんと思ふんです。

ハ氏は、

エヘン(と咳謦し)、それからお金が有ればまだ何をする積りです?

と問ひました。(以上、『女学雑誌』二三二号)
  小公子
     第三回(下)   若松しづ子

まだ\/色々なことをし升は。
第一かあさんに色々奇麗な物買つて上升。
お針ざしだの、扇だの、金むくの腕貫や指環だの、大字引だの、それから馬車だの買つて 上升。
自分の馬車が有れば乗合が来るの待てゐなくつても好ですもの。
それから桃色の絹の着物が好ならば買つて上るけれど黒のが一番好なんです。
それだから大きな店へつれて行つて、色々な物を見てかあさんの一番好なものなんでもお とんなさいつて云升。
それからヂツクネ‥‥‥

ヂツクとは誰のことです?

とハ氏が問ひ升た。

ヂツクといふのはネ、靴磨きで、そうして大変好い靴磨きなんです。
いつでも下町の角に立つてゐ升よ。
そうして僕はモウ幾年か前から知つてたんです。
先にネ、僕がまだ少さかつた時、僕がかあさんと一処に外あるいてゐてよ、かあさんが僕 にポン\/飛ぶ奇麗な鞠を買て下すつてネ、僕が持つて歩るいてたら、馬車だの馬だのゐ る通りの真中へ飛んでつちまつたでせう、ダモンダから僕が大変失望して泣てたんです‥ ‥‥僕、まだ少いさかつたもんですからネ、まだ女の子の着る着物なんか着てたんですも の。
其時に、ヂックが人の靴を磨いて居升たつけが「イヤアー」と云いながら、馬の歩てる中 へ駈け込んで其鞠を取つて来てネ、そうして自分の着物で拭いて「ソレ坊ちやん何んとも ないよ」つて僕に呉れたんです。
だもんだからかあさんが大変感心して、僕も感心して、それからつていふものは僕たちが 下町へ行くたんびにヂツクにものをいふんです。
ヂツクが「イヤアー、」つていふから、僕も「イヤアー、」つていつて、それから少し話 しをして、ヂックが商買がどふだつていふんですが、近頃は不景気だつていひ升たよ。

と若侯は面白い計画を熱心になつて述立て升た。

左様ならばあなたは其ヂックとやらに何かして遣り度と仰しやるのです?

と頤を撫でながら、片頬に笑を含みながらハ氏が問升た、

エー、僕は金でジェークの方を付けて仕舞ひ升。

ハヽア、其ジェークとは又誰のことです?

ジェークつていふのはね、ヂックの商買中間なんです。
そうしてどふも大変わるい中間なんです。
ヂックがそういふんです、チツトモ正直でなくつて、あヽいふ人がゐると商買の為にわる いつて。
よく人を欺かしては、ヂックを怒らせるんです。
あなただつて一生懸命に靴を磨いてゐて、始終キチヤウメンにしてゐて、あなたの中間が チツトダツテキチヤウメンでなくつてズルイ事斗りすりやあゝおこるでせう。
ヂックは人に好かれるんで、ジェークは嫌われるんです。
ダカラ二度とジェークの処へは来ないんです。
デスカラ僕がお金が有れば、お金を遣つてジェークの方をつけて、ヂックには眼だつ看板 を買つて遣り度んです、ヂックが看板があれば大変都合が好んだつて云升もの、それから 新しい着物と新しい掃を買つて遣つて、とりつかせて遣り度んです、ヂックが何んでも始 めのとりつきが出来さへすれば好つていつてるんです。

と聞覚へたヂックの鄙語を其まヽ堂々と雑へての若侯の話し振りは、誠にあどけなしとも 可愛らしとも申様のないほどでした。
其心の中には自分の老成な話し合手が、矢張自分と同じ様に其話しに身を入れるだろうと いふことに、一点の疑をも入れない様でした。
ハ氏は実際、其話しに身を入れて居つたことは居り升たが、どちらかといへば、ヂックや 林檎売のことよりも、友人を思ふ情の濃やかな此若侯が、己を忘れて、細々と人の為に謀 ることに、注意して居つたのでした。
やがて、

あなたは何か……………金持になつたらあなたは御自分の物に買度ものは有ませんか?

と尋ね升た。
フォントルロイ殿は早速に、

それは沢山有升、デスガそれよりメレの妹にお金を遣り升。
ダツテ子供が十二人有つて亭主が仕事がないんですもの。
いつでもこヽへ来ては泣んです。
そうしてかあさんが篭の中へ入れてなんか遣るとまた泣いてどふも奥さま、お礼は申切れ ません」つていふんです。
それからホツブスおぢさんに金の時計と鎖とミヤシヤム製の煙管を置士産に上度と思ふん です。
それから、こんどは僕が‥‥度ものが有るんです。

と云ふのを聞て、さてはとハ氏が、

それはまたどふいふことです。

僕はネ、共和党の時の様に行列がして見度んです。
僕の友だちみんなと僕の制服を拵らへて、そうして行列をして調練するんです。
僕が金持ならば、こういふことを一つ遣つて見度んです。

セドリツクがます\/イキセキと話をしてゐる所へ戸が開いて、エロル夫人が座敷へ這入 り升た。

拠ないことでひどく手間どりまして、誠に失礼いたしました
只今大層困窮をして居る女が逢度と申して参つたので、

と氏に会釈して申しました。

ハヽ左様で御座り升たか、イヤ只今御子息がさま\゛/御朋友のことや、金満家と為つた 上は朋友の為にこふ\/して遣ろうなどヽ、お話し最中の所でした。

矢張りセデーが友だちと申人で御座り升が、只今台所で夫の病気彼是で、ひどく困難いた す様に申升て。

此時セドリツクは彼の大倚子の上から滑り下り、

僕、ひとつ行つて、逢つて来ませう。
そうしてあの人の病気を尋ねて遣りませう。
病気でないときは、いくら好人だか。
いつか僕に木の刀を拵へて呉れましたよ。
大変な才子です。

いひながら、座敷を駈出し升た。
ハ氏は此時少し座を正して何かエロル夫人に改めて云出る様子でした。(以上『女学雑誌』二三三号)
    小公子
      第三回(中)(*回数はママ−−佐藤注)    若松しづ子
ハ氏は尚暫く躊躇して、エロル夫人の様子を窺ひ、さて申升に、

愚老がドリンコート城を出立致す前、老侯にお眼通り致して、取斗らひ方に付き種々御指 図を蒙りましたが、御嫡孫に於て此度英国へ御移住相成こと、并に初対面のことなども成 る可く歓んで御待うけ相成る様、注意いたせといふ仰で御座り升た、それ故、御一身上大 変動の起つたに付ては、幼者の悦ぶものは何に限らず整へて差上る様、又お望のものは何 に依らず御満足ある様致して、総べて老侯の賜ぞと申上る筈に御座り升れば、貧民を補助 するなどのことは或は老侯の御意中に無かつたこととは存升れど、是とてフオントルロイ 殿の御懇望とあれば、是非ないこと、矢張り、御満足ある様取斗らひ申さずば御勘気を蒙 るは必定で御座り升う。

此時にも老侯の言葉のまヽは憚つて述ませんかつた。
老侯がセドリツクの望のものを買与へよ、又金子もとらせよと命ぜられたは、全く純粋な 好意より出たものではなく、皆な為にする処が有つたのでしたから、若しセドリツクにし て優愛、温和なる性質を有つて居りませんかつたならば、多少人となりを害された事でせ う。
セドリツクの母も亦極めて温柔なたちでしたから、悪意が有りしなどとは努め推さず、只 子供を悉く失ふた心淋しい、不幸な考へがセデーに優しくして、其愛と信用を得やうとし て居るヽことヽ計り思ひ、今セデーが彼の貧困な母を救ひ助けることが出来るとは、何よ りのことと喜び、自分の息子に向いて来た不思議な好運が、人に慈善を施す手術になると は、誠に幸福なこととおもひ、今しも其奇麓な、若々敷顔ばせに嬉しさがホンノリと桜色 に顕はれて居り升た。

それは\/侯爵さまの御深切誠に有がたう御座り升。
セデーもさぞマア悦ぶことで御座りませう。
ブリジェツトと申す其女と、つれあひは、大層セデーの気に入りで御座りまして、一躰誠 に実直な好人たちなので御座り升。
私も始終モツト何か致して遣り度と思つて居り升が、兎角そうもなりませんで。
其つれあいと申は、乎常丈夫な時は誠に実貞に働く方で御座り升が、久敷間煩つて居り升 て、高価な薬や、温かい着物、又滋養物などもなくてならぬので、大層困難をして居るの です。
両人とも頂戴したものを麁末にいたすことは必ず御座り升まい。

と申し升た。
ハ氏は此時痩た手を胸のカクシへ入れて、大きな紙入を取出し升たが、其鋭敏な容貌には 、何とも一寸勘定のつかぬおもいれが現はれて居り升た。
其実ハ氏は心の中にフォントルロイ殿が先第一に処望されたことの趣は斯々と老侯へ言上 致したら、何と仰せらるヽだらう、生来癇癖ある、俗才に長けた、気随な老侯のおもはく は、如何あらうかと不審を抱いたのでした。
今エロル夫人に向ひ、

まだ御承知にはなり升まいが、ドリンコート侯爵は、至極御富祐で 、フォントルロイ殿の御処望とあらば、多少御気随な向も、決して躊躇せず、御満足ある 様取斗ふて差支は御座りません。
却て老侯のお気に叶ふことゆえ、只今フォントルロイ殿をおめし寄せ下さらば差むき五ポ ンド丈お話しの貧民救助としてお渡し申すで御座りましやう。

と聞く、エロル夫人は嬉しげに、

五ポンドと申せば廿五円に当り升、両人にとつては大金で御座り升。
思ひ掛ないことで、私までが夢の様に存られます。

氏は例の冷々としたる笑顔になりて、

イヤ、御子息の御生涯…‥は既に大変動が有つたので、今後大した権力をお握りなさるこ とで御座る。

そう仰つしやればホンニそうで御座り升。
まだあの通り頑是ない子で……誠に頑是ないので御座り升に私がマアなんとして其権力を よく用ゐ升やう教へたら宜しう御座りませう、私は子供の為に誠に気遣はしく御座り升。
アノ様にあどけないので御座り升もの!

流石、ハ氏の冷淡、世才的の心も夫人の茶勝な眼に溢れた優愛と気遣はしげの眼付とに動 かされた躰で、又少し咽喉を払ひ、

イヤ、今朝フォントルロイ殿にお眼通りして、お話いたしたことより愚考いたし升るに、 ドリンコート侯爵位に登らるヽ上も人を忘れて、己の為に謀るなどヽいふお挙動は夢ある まいかと存升。
只今はまだ御幼年では在らせられ升が、決して御心配には及ぶまいかと愚考いたし升。

(以上『女学雑誌』二三四号)     小公子
    第三回(下)(*回数はママ−−佐藤注)若松しづ子
此時夫人は、セドリツクを迎ひに行ふとして座を立ち、つれ帰る道すがら、セドリツクが 何か頻りに母と話をする声が、聞へました。

かあさん、アノきん‥‥‥きんさうリヤウマチだつてネ、大変なリヤウマチなんですよ、 それから家賃が払へないことなんか考へると、其きん‥‥きんさうが尚わるくなるんだつ て、ブリジェツトが言ひましたよ。
それから、パツト(息子の名なるべし)も着物さへ有れば、小僧に行れるつてネイ、かあ さん。

といふ声聞へて、さて坐敷へ這入つた時の面は、大層に心配らしく、頻りにブリジェツト を気の毒がつて、ハ氏に向ひ、

かあさんが、あなたが僕、呼んで入つしやるつていひ升た。
僕はアノブリジェツトと話しをしてゐたんです。

ハ氏は暫しセデーを見詰めてゐましたが、少し度を失なつた気味で、躊躇しながら、セデ ーの母が今も云つた通り、まだ\/何をいふも頑是ない子供であるよとおもひ、

ドリンコート侯が‥‥‥

と云ひかけて、跡はお頼み申すといはぬ許りに、エロル夫人の方に知らず\/眼を放ちま した。
母は我子の側に急にすり寄り、さも可愛といはぬ許りに両手でセデーを抱へ、

セデーや侯爵さまは、おまへのお祖父さまナノダヨ、おまへのとうさんのほんとうのおと つさまナノダヨ。
其お方は、大層御深切で、おまへの様な御自分のお子たちはみんなおなくなりなさつたも んだから、おまへを大変可愛く思召して、おまへがおぢいさんを敬愛する様に、又それか らおまへを楽しませ人を助けることも自由にさせて遣り度と思召て、御自分は大層お有福 で、おまへの欲しい物は何でも遣り度とつて、ハヴィシヤムさまにそう仰つて、おまへの に沢山お金をおよこしなすつたのだよ。
今其お金をいくらかブリジェツトに遣つても宜しいのだよ。
アノ家賃を払つたり、亭主に何もかも買つて遣られる丈。
セデーや、好だろう、嬉しいだろう、好いおぢいさまじやないか?。

と云つて、子供の丸\/した頬にキツスをしましたが、其頬は今おもひ掛なく聞ゐたこと に仰天して、逆上せたと見へて、ボツト赤らんでゐました。
母をヂツト見てゐた眼をハ氏の方へ外せ、いきなり、

今、頂戴な、僕、直ぐと遣つて来ても好いですか?
モウぢきに行つてしまい升もの。

ハ氏は件の金をセデーに渡し升たが、青色の新しい紙幣で、奇麗に揃へて捲いて有升たが セデーはそれを持つて坐敷を駆け出し升た。
イキセキ台所へ飛び込か飛込まぬに、聞へた声は、

ブリジェツトや、一寸お待ようサア、お金を遣るんだよ。
お前のだから家賃も払ふんだよ。
僕のおぢいさんが僕に下すつたんだよ。
おまへとマリイに遣れつて。

ブリジェツトは仰天声、

アレ、セデーさま、どふし升べイ。
廿五円ジヤ御座りましねいか?
奥さま、マアどこにゐさつしやるだんべイ。

これを聞ゐてヱロル夫人は坐を立ながら、

ドレ、私が一寸行つてよく訳を云て聞かせて参りませう。

跡には氏は独り残されて、窓ぎわへ立寄り、つく\゛/思案貌、外を眺めてゐました。
心の中に考がへて居つたは、今ごろドリンコート城中の壮麗を極めた書斎の中に、身は奢 侈と華美とに囲まれてこそ居れ、痼疾に患み、心より愛敬するものとては一人もなき彼の 淋しき老侯のことでした。
人に敬愛されぬといふは、元と自分がこれ迄に誰一人人に愛を施したといふことがない故 で、誠に気まヽで、傲慢で、性急な人物で有つたのでした。
一生涯ドリンコート侯爵なる己と己の楽しみのこと耳をおもふて、人の上を考へる遑なく 、己の富も権勢も、己の高名、尊位に基く一切の利益も、皆な己が恣に用ゐて安逸と歓楽 に供す可ときものと斗り考へて居り升たが、さて歓楽と放蕩を極めた結局は、今の老人と なつて、疾病に患み、癇僻はます\/募り、世を忌み、世に忌まるヽものになつたことで した。
斯く斗り栄耀ある尊位を占ながら、ドリンコート侯爵ほど人望のない、寂しさうな老人は ない位でした。
固より招待状を送つて城中喧きまでに来客を充満させることは、心のまヽで、立派な夜会 や、盛な遊猟の宴を催ふすことも自由でした。
然るに己れの招待に応ずる人々は、何れも心の中密かに己の余り愛想好からぬ面相と、嘲 弄、刺戟的の物いひとを忌み恐て居るてふことを承知して居り升た。
老侯は残忍な性質に酷薄なる物言を并せ用ゐて、人が神経質だとか、高慢だとか、怯懦だ とかいへば、好んで嘲笑して、不愉快にさせる僻が有り升た。
ハ氏は老侯の無情、残虐なる性質を見貫いて居り升て、今しも狭隘な、静かな町を眺めな がら、頻りに考がへて居つたことは、最前彼の大椅子に腰かけて、優に、無邪気に、打開 けて自分の友といふヂックや林檎売の話しをして居た、気軽な、器量よしな童児と老侯と の大懸隔のことでした。
それから深くポツケツトの中へ突込んだフォントルロイ殿の少さなポチヤ\/した手に追 つけ握らる可き莫大な歳入や、美麗、壮厳なる産業や、善にも悪にも用ゐらる可き権力の ことを思ふて、独り言に(イヤ大した変動だろう、大した変動になるに違ない)と申て居 り升た。
セドリツクと其母は間もなく座へ戻り升た。
セドリツクは大勢でした。
ハ氏と母との間の自分の椅子へ腰かけて、膝の上へ手を乗せて妙な位置になり、ブリジェ ツトを助けて悦こばせたといふ嬉しさを、満面に溢れさせてこふいひ升た。

マア、泣いてましたよ!
そうして嬉しくつて泣くんだつて云ひましたよ。
僕は嬉しくつて泣く人始めて見升たよ。
僕の祖父さんは大変な好い人なんですよ、僕はそんなに好い人だつて知らなかつたんです 。
それからネ、侯爵になるのはアノ……‥僕が思つたよりはよつぽど好もんですネイ。
僕は侯爵になるの…‥…アノ随分……‥大変嬉しくなつて来ましたよ。

(以上『女学雑誌』二三五号)



小公子

  第四回  (上)    若松しづ子



次の週間の内にセドリツクハ侯爵になる利益をます\/知始ましたが然し何事でも自分の望む通り殆ど叶へられぬことはないといふことは中\/セドリツクの心に呑込めぬ様子で。
併しハ氏と段々話をする中に、差当り自分の望むことは皆叶へられるといふこと丈はやう\/呑込めて来た様子でした。
又セドリツクの望の単純なことと其満足しての悦びを見ることとは、ハ氏に取つて余程の娯楽みでした。
英国へ向けて出帆する前の一週間には色\/珍ら敷ことが有り升たがある朝、ハ氏はセドリツクを同伴して彼のヂツクを訪問に下町へ出かけたこと、又同日の午後には彼の門閥家なる林檎売婆の露店先へ立つて天幕と、火鉢と肩掛と婆には莫大に思はれた金円とを遣るといふて肝をつぶさせたこと、是皆ハ氏が奇異の余りに久敷記臆て居つたことどもでした。
セドリツクは可愛らしく彼の女に事の様を説明していひ升た、

ダツテ僕はイギリスへ行つて華族になるんだもの、そうしてね、僕、雨が降る度んびにお婆さんの骨のこと考へるのは嫌だもの、僕の骨なんかはネ、ちつとも痛くはないのだよ、だから、僕はどんなに痛いんだか知らないけれど、僕はお婆さんが気の毒でネ、早くよくなれば好と思ふんだよ。

さて露店のあるじは余りのことに自分に思はぬ果報の向いて来たことは合点行ず、アツケにとられて開た口も閉がらぬ中に両人ははや立帰り升た。
セドリツクは、

アノ林檎やのお婆さんは大変好い人ですよ。
先にネ僕がころげて膝をすりむいた時、たゞで林檎を呉たんですもの、それから僕は始終アノお婆さんのこと覚へてゐ升よ。
誰だつて深切にしてくれた人忘れられませんネイ。

と云升たが、其正直、質朴なる心には人の深切を忘れるものが世には数多あることは思ひもよりませんかつた、ヂツクとの応接も亦中々面白いことでした。
ヂツクはジエークといふ朋輩と何かいさかひをした処で、気のなさそうな顔をして居り升たが、セドリツクが大した金子を出して後の禍を悉く追除て遣うと云のを聞ゐて、物も云へぬほど仰天し升た。
フォントルロイ殿が来意を述られた様子は誠に淡泊、無造作で側に聞てゐたハ氏は殊に感腹した塩梅でした。
ヂックは自分の朋友と思ふてゐた人が、何々殿といふ位に登つて、それから命さへあれば侯爵に飛登るのだといふ話しを聞ゐて、ヂックは眼をむき、ロを開いてギヨツトした拍子に、帽子を落して仕まいました、それを拾ひながら妙なことを云升たが、ハ氏には不思議に聞へ升た。
併しセドリツクには其意味が分つたのでした。

なんだ!
かつがふたつて知つてるよ!


若侯は是を聞いて正しく避易した様子でしたが、大胆にも気を取り直して、こふいふて説明いたし升た。

アノネ、誰だつて始めは本当じやないかと思ふんだよ。
ホッブスおぢさんなんかも僕が霍乱してるのかと思たんだよ。
僕も始めは嫌でたまらなかつたけれど、今はモウ慣れてよくなつたんだ。
今の侯爵様はネ、僕のお祖父さんで、何んでも僕がし度様にしろつて、大変深切な人で、そうして本当の侯爵なんだよ。
それからハヴィシヤムさんに預けて金をたんと僕によこして呉れたんだから、ジエークの方をつける様に君に少し持つて来てやつたんだネイ。

事の結局はヂックがジエークの方を附けて、一手に客をとる様になり、其上新しい刷や非常に眼にたつ看板と服が出来たことでした。
然るに彼の門閥家の林檎屋と同然で、一寸には自分の果報が真と信じられぬ様子で、夢の中に辿つてゐる人の様に、恩人なる若侯の顔をヂツト見詰めて、何時眼がさめるかと思ふてゐる塩梅でした。
そうして、セドリツクが暇乞をしやうとて手を出した迄は、丸で無感覚の様でした。

それならモウ失敬!。
これから繁昌したまへ。
僕は君と別れて行くのは嫌だけれど、僕が侯爵になつたら又た来るかも知れないよ。
君と僕は親友だから手紙をよこしてくれ玉へ。
これは手紙をよこす時の所書だよ。
そうして僕の名はセドリツク、エロルじやないよ。
フォントルロイ殿といふんだよ。
失敬!

と何気なく云わふとしても声が少し震へて、そうして例の大きい茶色の眼を妙に眼叩きさせてゐました。
ヂックも眼ばたきしてゐて、睫の辺が湿つぽい様でした。
此靴磨は教育のない子でして、自分の心に感じたことを云ひ現はすことが出来ませんので、云ひ現はそうともせず、たゞ眼をパチつかせて、咽喉へ上つて来た塊物を漸くに呑込んでゐました。
やがてカス\/した声で、

行つちまわなけりや好いナア、

と云つてハ氏に向ひ、会釈しながら、

旦那、どふも色々有難う。
逢に連れて来て下すつて有がたう。
どふも妙な子で、大変可愛くつて、ヘイ、エイ‥‥‥其威勢の好い奴で、エー‥‥‥エー‥‥‥妙な子で、

とロ篭りながら云ひ升た。
そうしてセドリツクの威勢の好い姿が、背高く、武張つたハ氏に伴つて行く跡を、立たまヽボツトして見てゐましたが、眼の中の曇りと咽喉の塊物はまだ去り兼ねてゐました。
さて出立の其日まで、若侯は間を見てはホッブスの店へ行つて居ました。
近頃ホッブスは兎角気鬱になり勝で、セドリツクが置形見の金時計と鎖を大勢で持つて来升た時などは、ろく\/挨拶も出来ぬ位でした。
其箱を自分の膝の上へ乗せたまヽで、幾度も\/烈しく鼻をかんでゐました。
セドリツクは、

おぢさん、なんか書いてあるよ、箱の中に、僕が、書いてくれつて頼だんです。
ネイ「ホッブス氏に呈す、旧友フォントルロイより」でせう、

ホッブスは又烈しく鼻をかみました。
そうしてヂックの様なカス\/した顔で、

わしは忘れやしないが、おまへも英国の貴族の中へ這入つて、わしを忘れちや困るよ。

僕、だれの中へ這入つたつておぢさんを忘れるものかね、僕はおぢさんとゐた時が一番嬉しい時だつたもの。
いつかおぢさん僕に逢ひに来て下さいな。
僕のお祖父さんはキツト大変嬉しがり升よ。
僕が行つておぢさんのこと話せば、おぢさんにお出なさいつて手紙をよこすかも知れませんよ。
おぢさん‥‥‥おぢさんアノ僕のお祖父さんが、侯爵なの、かまやしないネイ?
アノ若しお出なさいつて云つたら、侯爵だから嫌だなんて云やしないネイ?

ホッブスは寛大らしく、

よし\/、そうしたら逢に行ふ。

と云まして、そこで侯爵殿からドリンコート城に暫時来遊あれと鄭寧なる招待状の来ることがあれば、ホッブスが共和主義の僻見を捨て旅仕度をするといふ條約がこヽに出来ました。(以上、『女学雑誌』二三六号)





小公子
  第四回  (下)    若松しづ子
遂に、旅仕度も悉く整のひ、荷物を蒸気船へ運ぶ可き日も来り、其中馬車も戸口へ止り升たが、セドリツクは此時妙に淋しい心持になり升た。
暫らく自分の部屋に閉篭つて居つた母が、下へ降りて参り升た時、母の眼が大きく濡れて居つて、愛らしい口元は震へてゐ升た。
セドリツクは思はず側に寄り升て、母が屈んだ処へ抱き附いて、共にキスをしました。
何故とは分らねど、両人とも裏悲しひ心持になつてゐたのを、セドリツクは先づ承知して、萎らしひおもひを、口へ出してこふ云升た、

かあさん、ふたりとも此家好だつたんですネ?、
いつまでも好になつてゐませうネイ?。

母は低い優しい声で、

セデーやほんにそうだよ。

それから馬車に乗り移た時も、セデーは殊さらに近く母にすり寄り、母がなごり惜そうに馬車窓から振り返つて見てゐ升た時、セデーは母の顔を窺いて、そうして母の手を撫でながら、シツカリ握つてゐ升た、そうこうする中、間もなく、恐ろしひ混雑の中に蒸気船へ乗り移り升た。
客人を乗せた馬車は、頻りに往復して、其客人は荷物の遅くなるのに気をいらつてゐ升た、大きな櫃や箱を投げ出しては引づり廻る者が有れば、船頭たちは縄を解て、こヽかしこに奔走してゐ升た。
貴婦人や紳士、子供や守りは、追々と乗込んで来て、笑つて嬉しそうな貌つきの者が有れば、口を閉ぢて悲しそうな様子の人もあり、其中に二三人のひとは泣ながらハンケチで眼を拭つてゐました、セドリツクには何処を見ても面白くないものはなく、縄の積や、捲いた帆や、殆ど蒼い炎天を突かとおもふ程高い帆柱などを見るにつけ、船頭たちに話かけて海賊といふもののことを聞出そふといふ心算が、モウ心に浮びました。
最早出立の極く間際になつて、セドリツクが甲板の手欄に寄り掛りながら、船頭や波止場人足の騒動を面白く思ひ乍ら、最後の準備を見て居る時に、自分に遠からぬ一群の中に、何やら少し込み合ふ様子のあるに気がつき升た。
誰か其群集の中をくゞり抜けて自分の方へ来ると見れば、手に何か赤い物を持た男児であつて、よく\/眼をすへると、イキセキセドリツクの方へ近よるものは、まがひもないヂツクでした。

イヤア、駈つ通ふして来たんだよ、おまへに逢ふと思つて。
大変な繁昌でネ、昨日の儲で之を買つたんだ。
おまへヱライ人のとこへ行つたら持て、歩るくが好い。
下で上げねへちうもんだから、おれが騒ぐ内に、包み紙がどつかへ行つちまつたんだ。
ソラ、ハンケチだぞ。

とのべつに言つて、セドリツクが何とも返事の出来ぬうちに合図の鐘の鳴るのを聞いて、又一飛に駆て行つてしまいました。
行く前に息を切りながら、

さいなら!
エライ人のとこへ行つたら、持つて歩るきねへよ。

といふ声を残して影は見へなくなり升たが、間もなく、込み合ふ中をくぐりぬけて、下の甲板へ下り、波止場へ足をかけるかかけぬに、桟橋は船へ引上つて仕まいましたが、波止場に立ち止つて頻りに帽子を振つて居り升た。
此方にはセドリツクが、今貰つたハンケチを手に持つて、向ふを眺めて居り升たが、見れば、紫色の馬靴と馬の頭が飾に附いた、真赤な絹のハンケチでした。
其中一層ひどひ混雑の中に輾る音や引張る音が惨ましくなつて来まして、波止場に立つ人は、船の上の人を望んで叫び、般の上の人は送つて呉れた朋友に叫んで暇乞をする其声が、

さよなら!
皆さんさようなら!
忘れては嫌ですよ!
リヴアプールへ着たら、手紙をおよこしなさい!
さよなら!
さよなら!。

と誰云ふとも知らず、暫らく鳴りも止まずきこえました。
フォントルロイ殿は欄干へ寄つて、ずつと前へ身を伸しかヽり、大威勢に、

ヂツクや、さよなら、有難うよ、ヂツクや、さよなら!。

と呼はつて居ました。
スルト大きい蒸気船は静かに動き出し人々はまた大声に呼はり、セドリツクの母は覆面をことさらに眼の上へ垂らし、海岸では大した混雑でしたが、ヂツクはフオントルロイ殿のパツチリした可愛いらしい顔と、きら\/光つて、風に吹き流されてゐる頭の髪を、ながめて居つて、他は一向に夢中でした。
フオントルロイ殿は精一杯な幼な声で、

ヂックや、さよなら!。

と呼つて居ましたが、汽船の徐かな進行と共にフオントルロイ殿は故郷を離れて、まだ知らぬ先祖の国へ旅立いたしました。
此の船旅の間に、セドリツクの母は、自分の住居とセドリツクの住居とが、別々になるのだと云ふことを始めて云つてきかせました。
セドリツクがそれと漸く合点の行ました時、驚き歎くことが非常でしたから、ハ氏も母を切めて近い処に住まはせて、折々対面の出来る様にした、老侯の取斗らひに感服した位でした。
さもなくば、到底母と引別けることは為し難い様に思はれました。
併し母の慈愛を篭めた優しいなだめにより、左程に遠く離れるではなく、誠の離別ではないといふことが分つて、漸く少し慰めを得た様子でした。

セデーや、わたしの家といふのは、お城から大して遠いのではないよ、少ふし斗りしか離れてゐないから、おまへが毎日馳けて来て逢る位なのだよ、それからおまへが色々かあさんに話すことが出来るだろうし、いくら嬉しいか知れないよ、ネイ?
お城といふのは、一層美しい処だつて、とうさまがよくお話しをなすつたつけよ。
とうさんは、大層そこがお好だつたが、おまへもキツト好になるよ。

と其話が出る度に、かう申てはなだめました。
セドリツクは、大歎息で、此話を聞き、

ソウ、それでも、かあさんも一処なら尚ほ好になるは。

と云ました。
子供心に、母と自分とを別々の家に引別けるといふ不思儀な取斗らひが、どふいふ訳かと思ひ惑はずに居られませんかつた。
実は何故かういふ都合になつたかのこと訳は、セドリツクに知らせぬが却つて好かろうと母が思つたので、ハ氏に対つて此の通りに云ひました、

わたくしはどうも云つて聞かせぬ方が好かと思ひ升よ、聞かせました処ろで、よく分かりもし升まいし、却つて驚ろいて心持をわるくする斗りで御座いませうから。
それから又、お祖父様がわたくしをそれ迄にお嫌ひ遊ばすといふことを承知いたさぬ方が、そつくり其のまヽお懐つき申さうかと存じます。
セデーはこれまで、凡そ憎しみとか不人情とかいふことを、一切見聞いたしたことが御座りませんから、だれかわたくしを憎くむ者があるなどヽ申したら、それこそ大した驚ろきで御座りませう。
あの通り優さしい子でござい升のに、わたくしを思ふて呉れ升のが亦一通りならず深いので御座りますから。
どふしても、ズツト年をとり升までは、申して聞かせぬ方が、自分の為めのみか、侯爵さまのお為めにも、宜しかろうと存じられます。
若しさもなくば、セデーがあの通りな子でも、矢張りお祖父様との間に隔てが出来ようかと存じます。

(以上、『女学雑誌』二三七号)



小公子

第五回 (上)          若松しづ子

編者云はく、しづ子女史久しく病気の為め、続稿出でざりしが、近頃やゝ快ちよしとて、試みに一篇を物し、送り玉へり。則はち左に掲ぐ。第四回の下は、二百三十七号にあり。煩はしくとも、引合せて覧玉はんことを祈る。



それ故セドリツクは、自分が年をとるまでは分らない理由があつて、かふいふ都合になつてゐるので、大きくなれば、それが話して貰われることと思つてゐました。
尤とも不審に考へられることは考へられましたが、必竟何故に母と引別けられるといふ其訳が、此子供に左ほど気になるのではないのでしたから、母が丁寧に幾度も繰反して、色々といひきかせて慰め、なる丈楽しい方を思はせる様にいたします中に面白くない方は段々と消失る様になりました。
併し折々妙な風をして、海面を眺めながら、まぢめ貌に大層考へてゐる処を、ハヴイシヤム氏が見たことが有りました。
又そういふ時には、小供には似つかはしからぬ歎息の声が聞えました。
ある時ハ氏に例の尤もらしい様な振りで、談をしてゐまして、こふいひました、

僕はどふもそれが嫌なんです、どの位嫌だか、あなたが知らないほど嫌です。
ですが、世の中には色々苦労があるもので、誰でも辛抱しなければならないつてネ、メレもよくそういひ\/しましたし、ホツブスおぢさんもそういつたことが有ましたよ。
それから、かあさんがお祖父さまのお子がみんな死んでしまつたんで、それは大そう悲しいことだから、お祖父さまと御一処にゐるのが好にならなくつちやいけないつて、そういひましたよ。
ネイ誰だつて子供がみんな死んじまつたなんていへば、気の毒ですハネイ。
おまけに、一人は急に死んだんだつて。

此若侯と知己になつた人々をいつも悦こばせた者ごとは、何か談話に身が入つた時の調子づいた風采と、ませた物云で、殊にくり\/した幼な貌の、極あどけない処と、仔細らしい処に、言ふに云はれぬ興味があつたのでした。
実に眼のさめるほど奇麗なセドリツクが、可愛いヽ姿で、チヨツト腰をかけポチヤ\/した手で膝を抱へ事有り気に話をしてゐるのを珍重して、聞かぬ者は有りませんかつた。
追々ハ氏でさへが、セドリツクと同行するのを、内々大層楽しむ様になりました。
ある時、ハ氏が、

それなら、あなたは老侯が好になる様にして見やうと思し召すのですか?。

と云ひ升と、セドリツクが、

エー、だつてお祖父さまは僕の親類でせう。
誰だつて親類が好でなくつちやいけませんは、それから、お祖父さまは、僕に大変親切なんですもの。
人が色んなことして呉れて、何んでも好なもの遣るなんていへば、親類でなくつたつて、好になるでせう。
だけれど、親類でそんなにして呉れば、尚好になるじや有りませんか。

と云ふのを聞いてハ氏が試みに問いました、

どうでせう、お祖父さまは、あなたが好でせうか?
セドリツクは何気なく、

エー、好でせうよ、だつて僕は又お祖父さまの親類なんでせう。
それから僕はお祖父さまの息子の子供でせう。
だから好にきまつてるじやありませんか。
好でなきやあ、僕の欲しいものなんでも遣るなんて云ひやしませんだろう。
そうして、あなたを迎ひになんか、よこしやしませんじやないか?。

アヽ、なるほど、そういふ訳なのですか?。

エー、そうですとも、あなただつて、そうだと思ませんか?
孫の好でないお祖父さまなんか、ありやしませんでせう。

さて船酔で引篭つて居つた人々も、追々甲板の上へ出て来て、長椅子に寄つてゐて、いづれも船中の徒然を感じて居升たが、誰云ふとなく、フォントルロイ殿の小説めいた履歴は、一般に広まり、毎日船中をかけ廻つたり、母か又たは彼の痩せて背の高い、老成代言人と運動したり、水夫などヽ話をしてゐた彼童児に注意せぬものはない位でした。
セドリツクは誰にでも気に入られました。
行く処に近しい人が出来ました。
甲板を運動する紳士がセドリツクを呼んで、一処にと申しました時などは、凛然しく大またに踏み出しまして、冗談を云はれれば、矢張り其調子で、面白い返答をいたしました。
又セドリツクが、婦人たちと談話をする時分には、取囲んだ一群のなかにキツと大笑をして打興じることが有りました。
又セドリツクが同船の子供たちと遊べば、何か極\/珍らしい遊戯がないといふことは有ませんかつた。
水夫の中にも心易いものが大分出来まして、海賊や、破船や、無人島に漂泊したなどの得も云われぬ面白い話しを聞きました。
丁度自分が持つてゐたおもちやの舟で、帆を挙げることや、縄をつなぐことや、水夫どものつかふ外では聞なれぬ言葉なども、驚くほどよくおぼえまして、例の何気ない調子で、妙なことをいつては、紳士や貴婦人たちに笑われることが、まヽ有ました。
そして、笑われば何故かと、ビツクリする様子でした。
中にもよく話をして聞かせて呉る人はヂェレと云ふ水夫で、此爺の実験ばなしを聞て見ると、何でも二三千回も航海したかとおもわれる様で、其度々に人を殺して食べるといふ鬼の様な恐ろしひ人の住んでゐる島へ、漂着したそうで、又其話の続を聞いてゐると、ヂェレは身を切られて焼いて食われた事も度々で、頭の皮を剥れたことさへ十五回や二十回は有つたそうでした。
セドリツクは、母に此話をして聞かせて、こういひました。

それだから、あの人があんなに頭が禿てゐるんですよ、ダツテ幾度か頭の皮をむかれば、モウ髪がはへやしませんからネ、一番しまいに、パロマチヤウイーキン人の王が、ウオツプスレマンブスキイ人の酋長の髑髏で拵らえへた、庖丁でやられてからは、髪が生へませんかつたと。
此時ほど危ないめにあつたことはマアないんですと、其手に庖丁を振まわされた時は、大変とビツクラしたもんだから、かみの毛がチヨツキリおつ立つちまつて、どふしてもねませんかつたと、そうして其主が今其まんまでヂェレの皮を被つてゐて、丸でブラシの様ですと。
かあさん僕はヂェレおぢのした様なけんけいした人見たことがないんです。
それでホツブスおぢさんに、すつかり話してやり度つてたまらないんですよ。

時々天気がわるくつて、人々は甲板へ出られないで、下の座敷に閉ぢ込られてゐる時セドリツクに勧めてヂェレのけんけいばなしを話させました。
スルト、セドリツクは、大層得意な調子で、熱心に話しをしましたが、一同挙つて面白そうに聞いてゐる処を見れば、凡そ大西洋を渡つた人の中でこれほど人に珍重されたものが、あろうかと、おもうほどでした。
何んでも人の興になろうとおもへば、及ばぬながら、心よく自分の出来る丈けはして見ようといふ風で、あとけない中に、自分は決して角へ置かれぬ人物とおもふ様子が、尚ほか愛いヽのでした。
ヂェレの話しをし終つてから、母にかういひました。

アノネ、かあさん、みんなはヂエレの話しを大層面白そうに聞いてましたよ。
ダケレド、かあさん、アノ僕は‥‥‥ヒヨツトしたら、そんなこといふのは、わるいかも知れないが‥‥‥みんなほんとうじやないかも知ないとおもふ時が、あるんですよ、みんなヂェレが出逢つたことじやないかと、おもひ升よ。
デモみんな自分だつていひますね、どふも、妙ですネ、かあさん、アヽ、ヒヨツトしたら、少し忘れてまちがふのかも知れませんよ。
度々、頭の皮をはがれたから。
幾度も頭の皮をはがれヽば、忘れつぽくなるかも知れませんはネー。(以上、『女学雑誌』第二六六号)





小公子

第五回 (中)          若松しづ子

さてセドリツクが同行の人々とリヴァプールへ着しましたのは、彼のヂツクに別れてから十一日めでして、その翌夜、三人同車でステーシヨンから今後セドリツクの母の住居にならふといふコート、ロツヂと申す家の門に着きました。
最早暗がりで家の模様は分りませんかつたが門へ這入る時セドリツクの眼に止りましたのは、双方から覆ひかヽつて、アーチの様になつた大きな木の下に、馬車道のあることで、こヽへズツト乗り込むと戸が開いてゐて灯火がテカ\/戸外へさしてゐるのが直ぐ見えました。
さて、メレはセドリツクの母の侍女に成つて同行致しましたが、此時モウ先に此家へ着して居りまして、セドリツクが馬車から飛び降りました時、広いテカ\/した廊下に、他の婢僕と共にお出迎ひして居りました。
フォントルロイ殿は、いきなり彼の老婢に飛びついて、嬉しそうな調子で、言葉をかけました。

オヤ、メレや、お前モウ来て居たかへ?
かあさん、メレが来てますよ。

といひながら、メレの余り滑かならぬ赤ら顔に自分の顔をすりつけました。

メレや、わたしはお前がこヽに居て呉て嬉しいよ、おまへの顔を見た計りで、心が落着く様だよ、処慣れないで変なのが、おまへが居るのでよつぽど心やりになるよ。

と低い声で云つたのは、エロル夫人でしたが、メレは其言葉と共にさしのべられた小さな優しい手をシツカリと握り〆めまして、心の中に、母の身になつて、遠く我が国を離れた斗りに又一人子を見ず知らずの人手に渡すのはどの位つらかろうと切りに気毒に思ひました。
家付の英人の僕碑たちは、皆眼を丸くして、シケ\/と親子を見て居りました、両人については、早くもとり\/の流評を聞て居りまして、老侯の憤怒、エロル夫人を別居させる理由、若侯の将来受継ぐ可き莫大の産業、癇僻と酒風症とで殆ど野蛮に近い老侯の気質などの事を、皆な知りぬいて居りました故、

やつこどの、可愛そうに中\/楽は出来まいよ。

と、互にひそ\/話して居りました。
併し僕娩どもは今度お入になつた若侯のことは一切知らず、固より未来のドリンコート侯たる可き人の性質などは少しも分らずに居たのでした。
セドリツクは、普段人の手を待ちつけぬ質で、無雑作に外套を脱でしまいました。
それから先づあたりを見廻し升と、広い廊下の飾りつけには鹿の角やさま\゛/珍らしきものが有ました、平生の家にこふいふ飾りつけを見たことは是が始めてゆえ、セドリツクの眼には随分不思儀に見えました、

かあさん、これは大層きれいな家ですネイ?
かあさんがこれからこヽに入つしやるんだから、好いことネイ、そうして随分大きい家じや有ませんか?。


といひました。
なる程、ニユーヨークの彼の疲弊した町に有つた家と比らべては遥か奇麗で、爽快な住居でした。
メレの案内で、二階へ登れば、眼の覚める様な白紗の窓掛がさがつた寝間に、火が焼て有り、大きな雪の様な白いべルシヤ種の大猫が、真白な毛革の敷物の上で、気楽そうに寝て居り升した、メレは此を指ざして、

アノ奥様ア、此猫は御殿の奥の取締がよこしたんでございますよ、マア何んちう深切な人でんすか、そうして奥様がおいんなはるつて、何んていことなくみんな仕度をしたんだそうでんすよ。
わたしも一寸おめにかヽりましたが、アノなくなつた旦那さまを大層秘蔵にしたそうで、大へんに惜しいことをしたつてかたりましたよ。
それから猫でもゐたら、チツタアうちの様な気がするかしんねいつて、よこしなせいましたよ。
それからカプテン、エロルはお少せいツから、知つてゐたんだちいましつけが、推出しの好い、可愛いヽ子だつけ、そうして大きくなつても、ゑれい人にも眼下の人たちにも優しくつて、ほんとうに立派な人だつけつちいますつけ。
せいからわたしもこういひましたよ、こんだおいんなはる坊つちやまが、トントそんなでんすよ、わたしやあんな立派な子見たことが有ませんてネ。

さて此部屋で少しみなりをとり繕ひましてから、又下へ降りて、こんどは大きな立派な坐敷へ通りました。
此坐敷の天井は殊さらに少し低く、周囲の道具などは一躰にドツシリして美くしく彫刻して有りまして、椅子などは坐はり込みのふかい、寄り掛りの高くつて、ガツシリしたのでした。
花壇や違棚は大そう風雅で、その上には見事で、極く珍らしい置物がならべて有りました。
暖室炉の前には、大きな虎の皮が敷いて有つて、両側に安楽椅子が据へて有りました。
彼の巌めしひ白猫ははや、フォントルロイ殿に懐つき始めまして、跡について下へ降りましたが、今も革の敷物の上へ寝ころんだ側へすり寄つて、これからお親しく願ひますとでもいひそうな風つきでした。
セドリツクは嬉しく、自分の頭を猫の頭の側へよせて、手でおもちやにしながら横になつてゐまして、ハ氏と母とが、ヒソ\/咄してゐたことは耳に這入りませんかつた。
エロル夫人は少し顔の色がわるくつて、何か心に安からぬ思がある様子でした。

今夜は参なくとも宜うございませうね、切て、今晩丈は一処に居つても宜うございませう、あなたはどうお考へです。

と低い声でいひますと、ハ氏が又同じ様な調子で、

さ様で御坐るて、今晩はまづお入りにならずとも宜しかろうと存じます。
愚老が食事でも済ましませば、先づ参上いたして、御来着の趣を老侯へ通じるでござろう。

エロル夫人はセドリツクに眼を移しますと、彼の黄と黒の毛革の上にたあいのない中にしなやかな様子して、寝そべつて居りまして、少しポツトしたきりやう好の幼顔の上と、毛革の上とにフサ\/と乱脈に散広がつてゐた髪の毛は暖室炉の火を輝り反へして居りました。
彼の大猫はさも安楽そうに、ゴロ\/いひながら、寝むそうな顔してゐまして、セドリツクの優しい可愛い手で撫でられるが嬉しい様でした。
エロル夫人は、この様子を眺めて、我しらずホヽ笑みましたが、其ホホ笑が外へ現われるか現はれぬに、急にしほ\/とした顔付に変じまして、

侯爵さまは、わたくしがあれを手離ます苦の半分も御承知有ますまい。

といつて少し改つて、ハ氏に向ひ、こふいひました、

あなた、どふぞ、あの金子のことは私がお断り申たと、侯爵様へお伝へ下さひますまいか?。

金子!。
其金子とおつしやるは、老侯が歳入にしてお定めあらうといふものヽことでは御座りますまい。

と不審そうにいはれて、又何気なく、

さようでございます、そのことを申すので御座います、‥‥‥全体此家を頂戴するのも子供の側に居るに上都合と申す丈で、余儀なくおうけをいたしたので、其外は質素にさへいたしますれば、不自由はせぬほどの用意は御座いますから、金子のことは先お断りいたし度うこざいます。
侯爵さまが私をばさまでにお忌み遊ばす処ですから、若し金子を戴けば、どふやら、セドリツクを金に引返へる様で心よく御座いません、今セドリツクをお引渡しするといふのは、たゞあれの利益とおもひ升れば、母の情で自分のことは忘れて居りますのと、こうなることは、亡き父も望む所であろうと考へますからのことです。

それは甚だ不思儀なことです、老侯にもあなたのお心を汲みかねて、御立腹になることであろうと思われます。

侯爵さまも少しお考へなされば、お分りだろうと思ひます、わたくしは其金子がなければ困難いたす訳でもない処を思ひますれば、私をお憎み遊ばして、御自身の孫にあたるセドリツクを現在母とお引別になる其方の御給与なさるもので贅沢をいたさう心にはどふもなれません。

ハ氏は暫時黙考して居りましたが、ヤヽあつてから、

さようならば、お言葉通りに申上るといたしませう。(以上、『女学雑誌』第二六七号)





小公子

     第五回 (下)          若松しづ子
彼是する中に食事を持ちこみまして、一同食卓に着きましたが、彼の大猫もセドリツクの側の倚子の上へチヤント座を占まして、食事の最中大威張りにゴロ\/咽喉を鳴らして居り升た。
さてこれから間もなくハ氏がお屋敷へ伺ました時、直お目通を仰付られました。
老侯は此時暖室炉の側の贅沢を極めた安楽倚子によつて、彼の酒風症に悩んだ御足を足台の上に休めて居られましたが、フサ\/した眉の下の鋭どい眼はハ氏をキと睨まへて居りました。
そして外貌は沈着に見へても、心の中は密かにイラ\/してざわだつて居るといふことはハ氏もよく承知して居りました。

イヤ、ハヴィシヤム、帰つたかな?
どうで有つた?

御意に御座ります、フォントルロイ殿は母君と共にコートロツヂに入らせられます、御両人とも海上甚だ御無難で、御機嫌うるわしう御座り升。

老侯はこれを聞いて、なにか待ちどふで、気が急くといふ調子で、手をもぢ\/しながら、先づ鼻でフンー、といひ、

それは結構といふものだ、それはそれでよしと、ハヴィシヤムくつろぐが好い、一杯やつて、落着たら、其跡を聞う。

フォントルロイ殿は母君と彼の処に御一泊あつて、明朝は御同道いたしてお屋敷へ伺ふ筈で御座ります。

老侯は倚子の横に臂を休めて居られましたが、其手を挙げて眼にかざし、

フヽン、其跡はどふだ?
此件に付ては巨細を申送るに及ばぬといつて置たから、まだ何事も知らずに居るのだ、全躰どんな奴だな、其小息子といふは?
ナニお袋のことは聞ずとも好い、子供はどふだ。

ハ氏は手づからコツプへついだポウト酒を一ロ飲んで、また杯を手に持ち、ひかへめに、

御意に御座り升が、何分七歳といふ御弱年で御座り升から御性質を仰られましても、一寸、お答に苦しみ升て。

これを聞いて、老侯の疑惑、掛念はます\/熾んになり、早くも彼の眼光を、ハ氏の方に放つて、粗暴に、

ナニ、馬鹿か?
たゞし、不器量な犬つ子の様な奴か?、
腹がアメリカだといふ処が、現然と見えて居るのか?

イヤ、お腹がアメリカの御婦人で、此弊が有るといふ処は一向見へぬ様で御座り升。
愚老は子供のことは至つて疎い方で御座りますが、いづれかといへば、先立派な若君と勘定いたしました。

例の沈着、冷淡な調子で答へました。
ハ氏の物云ひは、全体、平常が落ついて、油の載らぬ方でしたが、此時は殊更普段より扣へめにしたといふものは、侯爵どのが余り委しく実際を御承知ない中、不意に孫息子に面会されて、自身に判断を下された方が、両方の為に宜かろうと、怜悧にも考たからでした。

どうだ?、
壮健で、よく伸た方かな?。

御意に御座り升、殊の外御壮健で、御発育も甚だ宜しい様見受ました。

侯爵どのは、一層急き込んで、

ナニカ、手足などもすらりとして、外見は好い質か?。

此時ハ氏は薄い唇の辺にそれとも分らぬほど幽かなほヽ笑を現はしましたが、コート、ロツヂで見て、今も眼の先に見える様なセドリツクの姿、さも楽しそうにしどけなく、虎の革の上に横になつた画に書度ほど見事な処、キウ\/した毛が革の上に乱れ散つて居た塩梅、桜色のパツチリした幼子顔のことなどおもひまして、

先づ一と通り立派な御人品の様見受ましたが、斯様なものは、愚老の判断甚だ覚束ないものと、御猶予願ます。
併し御前のお眼に止まりました本国生れの童児と、多少趣味の変つた処は、必ず御座りませう。

老侯は急に足部を襲つた酒風症の苦痛に、イキマキ荒く、

そうあろう\/、米国の子供といへば、礼儀作法も知らぬ乞食めらじやといふことは、いつも聞くことじや。

御意に御座りますが若君に限つて無作法なお振舞は決して御座りません。
只今本国の子供と違と申上ましたは判然とは申し悪う御座りますが、同年輩の者よりは、成人に交られた故かして、幼稚らしい処に、又成熱らしき処の混淆して居風采を申上たので御座ります。

イヤ、それが即ち米国風の無作法と申すのじや、兼て聞いて存じて居るは、キヤツ等は、それをば早熟とか快闊とか申して居るは、何れ、気色に障わるほど不行跡に違いあるまい。

ハ氏は又少しポート酒を飲みました。
此人は侯爵どのに対つて決して論弁を試みたことはありませんかつた。
別して御足の御持病に侵されて【火欣】衝して居る時などには、寄らず、触らずにあいしらうが上策でしたから、此時、数分間双方沈黙でした、其うちハ氏が、

エロル夫人より御前へ申上る伝言が御座ります。

老侯は又獅子の吼へる様な御声に、イキマイて、

伝言じやと、あれからならば聞度くもない、あの女のことは、なる丈聞せぬ様にして貰い度い。

御意には御座りますが、此伝言はチト大切な一条で御座ります、と申すは、夫人へ御恩賜あらうといふ年給を御断り申上る旨申出られた次第で‥‥‥。

侯爵どの、ギツクリ驚ろかれた様子にて、又大声に、

ナニ、なんと申す?、
それはなんじや?。

ハ氏は、前申した通りに、再たび陳じました。

夫人は決して其金子を頂戴する必要はない様に申されます。
増して御前との御交りも、御親密と申すではなし‥‥‥

此時老侯は烈火の如く怒り、さながら言葉を吐きだすが如く、

ナニ、親密でないと申すか?、
へヽン、親密どころでは有るまい。
あの女のことおもふても胸がわるいわ、チヨツ、舌長い、貪欲なアメリカ女め!、
見度もないわ。

御前様、恐ながら、夫人を貪欲と仰せられますは、チト愚老の胸に落入り兼ます。
一事の請求をなされた訳ではなし、只御恩賜の金子をお諦せぬと申丈では御座りませぬか?。』

それも是も策じやわと(跳ねつける様な調子に老侯どの)わしをひとつはめて、面会でもさそうといふのじやろう、只今の様に申すのも、必竟わしに精神を感服させて、一仕事と考へて居るのだろうが、そうは参らぬ、わしは一向感服致さぬて、それが米国風の出過といふものじや、此屋敷近い処に非人如き生活をされてはわしの迷惑じや、クォントルロイの母で有つて見れば、生活も相応な格にさせねばならぬと云ふものじや、兎に角金はとらするが好い。

たとひ、金子をお遣し有つても、お用ゐはあるまいと存じられます。

老侯は又クワツトして、

つかわうが遣ふまいが、それにかまいはない、どうでも遣わすこととせう、わしが何もして遣わさんから、非人の生活をせにやならぬなどヽ、世間へ触れられては大した迷惑じや、ハヽア、ひとつは子供にわしをわるく思わせうといふ手じやな、さもなくとも、わしの悪口は充分吹込んだのじやろう。

イヤ、左様なことは一切御座り升まい、夫人より伝言の御座りました処をお聞とりなされませば、左様なことは一向ないことが判然いたしませう。

老侯は憤怒と、性急と、痛症とにて、苦しげに太い息をつき、

左様なことは聞く耳持たぬわい!

と鳴せ玉ふも、かまわず、ハ氏は静に其伝言を述ました。

夫人が申し出られまするには、御前が自身を忌み給ふて、フォントルロイどのをお引別けになつたものといふことは、なる可くフォントルロイどのに知らせぬ様御注意を願度い、と申す訳は、フォントルロイどのが、深く自身を慕わるヽ処から、万一老侯に対して隔意を生じてはと、掛念されるので、到底真の理由は会得の出来ぬものと見做し升れば、若君が多少御前を憚つて、御前に対する情愛が薄くなるかも知れぬと申すことで御座りました。
若ぎみは、只今御幼稚で御会得は六ケ敷こと故、何れ御生長の後委細御承知になろうと申してあるそうで御座ります、初対面に隔意のない様といふのが、夫人の切に配慮致さるヽ処で御座ります。

御前はあほのけにドツカと倚子の背にもたれて、居られましたが、秀でた眉の下には、武しい、窪んだ老眼が人を射て居りました。
忙しい息遣ひはまだ治まらぬ様子で、

ナント申す?、
其ことはお袋が云うて聞せぬと申すのか?。
左様ではよもあるまい。

ハ氏は冷淡に、

イヤ、御前其ことは一言も申して御座りません、それ丈は保証いたします。
若ぎみは最も情愛深き御祖父様と信じて居られます、誠に完全無欠の御性質と確信いたされる其点に於て疑を引起すことなどは、一切お聞かせ申したものは御座りませぬ、況してニユーヨウクに於きましては、一々御指揮の通り取斗らひましたれば、御前をば非常な慈善、寛大の御方と思ふて居られ升。

それに相違ないか。

イヤ、其こと斗りは愚老幾重にも保証いたし置升。
さて、これから御対面で御座ります、舌長しとお叱りを蒙るかは存じませぬが、母きみのことは一切悪ざまに仰なき方が、御上策かと愚考いたし升。

へン、七才の子憎が、何を知るものか?。

御意には御坐り升が、其七年間始終母きみが御付添で御坐り升から、若ぎみが此上もなく親愛して居られます。(以上、『女学雑誌』第二六八号)



小公子

  第六回 (甲)         若松しづ子

さて翌日フォントルロイ殿とハ氏が乗つた馬車がドリンコート城へ行ふといふ長い並木を通りました時は正午も余程過ぎて居りました。
老侯の仰に、フォントルロイ殿を晩餐に間に合ふ様連れて参れと有りました。
又た何か特に思召が有たものと見えて、老侯が独り待ち受けられるお居間へ付添ひ手なく、たゞひとり遣はせといふお言葉でした。
馬車は彼の並木の間を轟音高く走しる中、フォントルロイ殿はユツクリと立派な羽布団に寄つて、四方の気色を余念なく、眺めて居られましたが、見る物聞くもの面白くないものは有ませんかつた。
きら\/した馬具の付いた、立派な大馬の引く馬車にも、見事な揃を着た背の高い御者や馬丁にも心を付られ、特に大門の扉に彫付て有た冠の摸形に眼が止りまして、どういふ理由のあるものか研究をするとて懇に馬丁と知己になりました。
それから、馬車がお庭の御門の前へ来ました時、入口の両側に有た石造の獅子をよく見ようとして、馬車窓から首を出しました。
此時蔦が青々と覆ひ被せた家を出で、御門を開いた者は頬の色の好い母らしい女でしたが、ニ人の子供が跡に続いて駆出して来まして、丸い、大きな眼をして馬車の中の若ぎみを眺めて居りました。
お袋らしい彼の女は、ホヽ笑みながら、腰を屈めました。
そうして子供等も、お袋に催促されて、頭をさげて辞儀をしました。
フォントルロイ殿は、

アノ女は僕を知つてるんでせうか?、
知つてると思ふんでせうね。

と云つて、黒天鵝絨の帽子を脱いで、こちらからも笑ひかけました、又例のさゑた調子で、

今日は!
御機嫌は如何?、

といひますと、女が嬉そうな顔つきをした様に、セドリツクには見ました。
始めからホヽ笑んだ口が、いよ\/広く開きまして、眼元にも親切相な処が現はれて来ました。

若様、よくお入りで御坐いました、マアお見事な若様で入つしやいますこと!、
御好運と御幸福を幾久しく祈り上ます。

と申ました。
フォントルロイ殿は帽子を振て、再び会釈し升た。
終に馬車は女の側を通つて、先へ進みました。

僕はあの女がなんだか好です、子供が好の様な顔して居すもの、僕は時々こヽへ来て、あの子供たちと遊び度もんですね、まだ外にも大勢子供が有りますかしら?。

ハ氏は門番の子供などと遊び朋輩になることは赦るされそうもないことヽおもひながら、あとでも申せることと、扣へてなんとも答へませんかつた。
さて馬車はズン\/進行いたしました。
此馬車道の両側に見事な大樹が生ひ繁つて居つて、双方から覆ひ、重つた大枝が、生きた緑門になつて有ましたが、セドリツクはこんな厳めしい立派な樹木を見たことが有りませんかつた。
ドリンコート城は大英国中の城廓で是に劣るといふものはなく、其庭の広いことと見事なことに於ては、指を折れる中で、殊に樹木と並木道は他に並ぶものヽない位といふことを、其時セドリツクは未だ知りませんかつた。
併し何も彼も美しいといふこと丈は、知つて居りました。
すさまじい大樹の間から、午後の光線が黄金の矛を差通ふしてゐる塩梅、四面声なく、沈々とした趣むき、風にユウ\/と殺いで居つた大枝の間からチラ\/見える樹苑の景色、一々セドリツクの心を悦こばして、眼を慰ませぬものは有ませんかつた。
時々は青々とした丈の高い格注が毛氈を敷詰めた様に生へた処を眺め、又処々には微風に靡いて居つた桔梗の薄色が、空と見擬ふ計りに咲き乱れて居つた処を通りました。
ある時は、青葉の下から不意に兎が跳出しました、短かい白い尾をチラリと後ろへ見せて、又何れへか走り去るのを見て、セドリツクは跳ね上つて大笑をいたしました。
一度は間近くから突然に雉子の一群が、羽敲して飛び出しまして、又飛び去りました。
此時セドリツクは大声を挙げ、手を拍つて、

ハヴイシャムさん。
どふも奇麗な処ですね?、
僕はこんな奇麗な処見たことがないです、アノニユーヨークの中央公園よりまだ奇麗ですネ。

行く途に大分暇どれたのを、少し不審におもつたと見えて、

全体門から入口までどの位あるんです?、

と問ひました。

左様、三英里か四英里も有りませうか、

ソウデスカ自分のうちの門からそんなに離れてるツて、大変ですね、

セドリツクは、ひとつ驚いて幾分も過ないに、また驚いて感服すべき新しいものに出逢ました。
一度は或は青草の上に横になつたり、或は馬車音に驚かされて、奇麗な角の生へた頭を並木道の方に向けて、ビツクリした顔で、立つて居る鹿を見付まして、まるで夢中でした。
セドリツクは声の色を変へて、

アヽ、こヽに見せ物でもあつたんですか、それともいつでもこヽに住んで居るんですか?、
一体誰のなんです?

と問われてハ氏は、

いつもこヽに居るのです、それは侯爵さま、即ちあなたのお祖父様のものです、

是から間もなくお城が見えて来ました、其眼の前に巍々として突立した処は、誠に見ことに錆て居りまして、数々の窓にはタ陽の光線が眩ゆく輝いて居りました。
井楼もあれば、凸字壁や、砲台も見える、其幾方の壁には、蔦桂がはひ纏ふて、古色を増して居りました。
お城の四方には観台や柴生や美麗な草木の植付けが有つて、今を盛りと咲き乱れて居るものさへ夥しくありました。
セドリツクのくり\/した顔は、嬉しさに逆上てポツト桜色になり、

どふも僕はこんな奇麗な処見たことがないんです、王様の御殿の様ですね、いつか御殿の画を画双紙で見たことが有ましたつけ、

といひました。
さて這入ろうとする玄関の扉は双方開いて有つて、召使どもは二列に居并んで、セドリツクを見て居る様でした。
セドリツクは何故にあの様に并んで立つて居るのかとおもひ、揃の服の見ことなに感心しました。
セドリツクは此召使たちが、程なく、此城郭と総て是に付属する者の主領となろうといふ此若君に敬礼を表して居たとは知ませんかつた、画双紙の宮殿めいた此荘麗な城郭も、立派な樹苑も、厳めしひ様な大樹木も、兎が遊ぶ草原も、柴生を寝床に起伏した、駁色な眼の大きい鹿も、みんな軈、セドリツクの所有になるのでしたが、思て見れば、馬鈴薯や鑵詰物の真中に、ホツプスおぢと腰かけて高い台から両足をブラ降て居たのは、ツイ二週前のことで、其時は尚さら、今でも、こんな立派な物に大した関係がある様には思れませんかつた。
召使の居并んだ頭の方に、眼立ぬながら立派な姿をした老成らしい婦人が居ましたが、セドリツクが這入ますと、外の者よりも間近く立て居て、何か言ひそうな顔付に見えました。
セドリツクの手を引いて居つたハ氏は鳥渡足を止めました、そして声をかけて、

メロン夫人、フオントルロイ殿で御座りますぞ。
若君、取締のメロンと申す婦人で御座ります。

セドリツクは眼つきに嬉しい情を現わし、握手の手を延て、

あなたでしたか、あの猫をよこして呉れたのは?、
どふも有がたう、

といひますと、メロン夫人は、門番の妻の顔ほど嬉しさうな顔になつて、ハ氏に迎ひ、

いづれでお眼通りいたしても若ぎみをまちがふことは有り升まい。
お顔も御様子もそつくりエロル様で御座ります。
あなた、今日は誠におめで度ことで御座ります。

といひましたが、セドリツクは何がおめで度のかと不審に思ひました。
デ、メロン夫人の顔を不思儀さうに見ますと、チヨツトの間、眼に涙が浮んで居た様でしたが、悲しそうでもなく、セドリツクを見つめて、につこりいたしました。

あの猫は見ごとな小猫を二ツこヽへ残して参りましたから、早速御居間へ差上げて置きませう、

といひました。
それから、ハ氏は何か低い声で二言、三言いひ升と、メロン夫人が答へて、

あなた書斎で御座ひますよ、若君をお独で、そこへ差上る筈で御座ります。(以上、『女学雑誌』第二六九号)




小公子。 

  第六回 (乙)         若松しづ子

それから暫時待合せる内に、矢張り揃の服を着た丈の高い給事が書斎の入口までセドリツクを案内して、戸を開け、殊更武張つた声で、「御前、フォントルロイ殿のお入りで御坐り升、と注進いたしました。
身は給事風情でこそあれ、当家の嫡孫が軈て受続ぎ玉ふ可き領地へ御到着有つて、老侯に初見参に入り玉ふ案内は、容易ならぬ栄誉と思つたことでせう。
セドリツクは続いて敷居を越へ、坐敷へ這入りました。
是はまた大して広い立派な坐敷で、置着けの道具は皆な豪儀な彫物のした品で、幾層と敷の知れぬほどの書棚に、書籍がギシ\/詰つて居ました。
置道具は総て黒色で、窓掛や、隔ての掛幕はいづれもドツシリして居て、菱形の玻璃窓は殊に間深で、室の隅から角までの隔りがいかにも遠いものでしたから、光線のうつりも薄く、一体の気色が朦朧と小気味わるい位でした。
セドリツクは始め一寸の間、誰も室にゐぬ様だと思ひましたが、暫くする内に大きな暖室炉の火の焼ひてある辺に、大きな安楽椅子が有つて、誰か其椅子に腰掛て居るのが見えました。
始めには此人物は未だセドリツクの方を見向きませんかつたが、他の一方にはセドリツクに眼をつけたものが有りました。
安楽倚子の側の床にすばらしい茶色のマスチフ種の大犬が寝て居りましたが、体も四足も獅子ほど有りました。
此の大の犬が凛然として静かに床を離れ、彼の小息子に向つて、ドシ\/足音させて歩いて参りました。
此時始めて彼の椅子の上の人物が声を発して、「これ、ダガル、こちらへ参れ」と命じなました。
併し若君の心には不深切もなければ、亦恐気もなく一体大胆な生れでしたから、誠に何気なく、此大犬の頚わの上に手を置きながら、犬と一処に徐々と進みました。
ダガルは歩みながら、頻りに鼻を動めかして臭を【口鼻】ぐ様子でした。
此時侯爵どのは始て、顔を挙げられましたが、先づセドリツクの眼に止た者は、頭髪も眉毛も白くフツサリして、窪い烈しい両眼の間の鼻のさながら鷲の嘴に似た、活服の大な老人でした。
侯爵どのヽ眼に止た者は、黒天鵞絨の服にレースの領飾の付いたのを着しとやかな子供の容姿で、尋常で、凛とした顔の辺には愛嬌毛が浪うつてゐて、何となく、親しげに自分を見て居りました。
此城郭を古し話しの御殿とすれば、セドリツクはソツクリ其中の若殿に見立度様でしたが、自分では少しも左様なことに気が付ませんかつた。
然るに老侯が斯まで屈強に見えた孫息子を見、大犬の領に手を載ながら、一向臆面なく自分に顔を合せる様子を察して、其烈しい御心の中に急に喜悦と高慢の情が燃て来ました。
セドリツクが犬にも自分にも懼ぢ恐れた様子の少しもないのが、ひどく武しい老侯の気に叶ふたのでした。
セドリツクは、門番の女や、取締を見たも同様な調子に、老侯を見て、ズツト側まで歩み寄りました。

あなたが侯爵さまですか?、
僕はハゥ゛イシヤムさんが連れて来た、あなたの孫ですよ、フォントルロイです、知つて入つしやるでせう?

と云つて、侯爵さまでも握手をするのが礼儀で適当なことに違ひないと思ひ、手を伸べながら又大層なれ\/しく

御機嫌は如何ですか、僕は今日あなたにお眼にかヽつて、大変嬉しいんです。

といひました。
侯爵どのは、妙に眼を光らせながら、握手の礼をしました。
一寸始めには少し呆れ気味で、言葉も出ませんかつたが、被せかヽつた様な眉毛の下から、画に書た様なセドリツクを見つめ、頭から足の先まで余す処なく観察を遂げられてから、

ヤツト、ソウカ、貴様はおれに逢つて嬉しいと云ふのか?。

ヱー、大変嬉しいんです。

セドリツクの側に倚子が有ましたが、先是へ腰をかけました。
これは寄り掛りの高い、丈の高い倚子でしたが、これへ腰を落着ますと、両足が下へ着ませんかつた。
併し矢張楽そうにチヤントしてゐて、厳めしいお祖父様のお顔を、少し扣めながら眼を離さず眺めて居りました。
其中、こふいひました、

僕はあなたがどんな人かと思つて、始終考へてましたよ、お船で床の上に寝てゐる時分、あなたがヒヨツト僕のとうさんに似て入つしやるか知らと、思つてましたよ。

フン、そうして似て居る様か?。

と尋ねられて、

左様さ、おとうさんがおなくなりなすつた時、僕は大変少さかつたから、顔をよく覚えて居ないのかも知れませんが、何だか似て入つしやらない様です。

それじやあ、貴様失望だろうな?。

イヽへ、ナニソリヤア誰だつて自分のおとうさんに似てゐれば好けれど、おとうさんの顔に似てないだつて、お祖父さんの顔ならば好ぢや有ませんか、あなたゞつて自分の親類なら、誰だつて好でせう?。

侯爵どのは後ろへ反り返つて、セドリツクを見詰めて居ました。
自分の親類に親しむ妙味は、侯爵どのにまだ分らぬ位でした。
なぜといふに是まで時につれ、折に触れては、随分親類共と烈しい喧嘩をしたり、出入を禁じたり、誹謗の名呼はりをしたことも有つて、親類どもは、眼の敵に憎んで居たのでした。
フォントルロイは、又言葉を続け、

そうして、誰だつて自分のお祖父さんは好に定まつてますは、
あなたみた様に親切なお祖父さんなら尚ですは。

老侯の眼は、又妙に光りまして、

ハヽア、そうか、おれは貴様に親切なのか?。

フォントルロイどのは、威勢づいて、

エーそうですとも、ブリヂェツトだの、林檎やだの、ヂツクだのに、どふも誠に有難う。

何を申て居る?、
ブリヂェツトに林檎売に、ヂツクじやと?。

エーそら、あの人だちに遣れつて、あんなにお金を下すつた人のことです、ソラ、僕が入れば遣れつて、ハゥ゛イシヤムさんにそうおいひなさつたでしやう?

ハヽア、あの事か、そうか?、
貴様の好につかへといつた金か、全体あれで何を買つた?、
聞かせるが好い。

此時侯爵どのは、少しく彼の秀いでし眉を潜めて、鋭どくセドリツクを見詰めました。
必竟此童児がどふいふことを楽しみにするかと、頻りに聞たくなつたのでした。

アヽ、そうでしたね、あなたは、ヂツクや林檎やのお婆さんや、ブリヂェツトのこと知らなかつたんでしたね、あなたがこんなに遠方に入つしたの僕忘れてましたよ、三人とも僕の親友なんです、それから、アノミケルが熱病でね‥‥‥。

ミケルとは又誰のことだ?。

ミケルといふのは、ブリヂェツトの亭主なんです、そして大変困てたんです、人が病気で、働ないで、十二人子供があれば随分大変でせう?、
ミケルと云のは、いつでも極かたい人なんです、そうしてブリヂェツトが僕の家へ来ては、泣くんです、それからハヴィシヤムさんが、僕の家へ来た晩なんかにや、食べる物がなんにもなくつて、家賃が払へないつて台処で泣てたんです、それから僕が逢に行つてたら、ハヴィシヤムさんが呼によこして、あなたが僕にお金を下すつたのを預かつて来たつて云つたんです、それから僕が台処へ急いで距けて行つて、ブリヂェツトに遣つたら、モウみんな大変よくなつちまつたんです、ブリヂェツトはあんまりビツクラして始はほんとにしないんですもの、だから僕があなたに有難いんです。

侯爵どのは例の沈んだ調子で、

ハヽア、貴様が好に金を遣つたといふのは、そういふ塩梅なのかナ、それから外に何をした?。(以上、『女学雑誌』第二七〇号)





小公子。           若松しづ子

  第六回 (丙)

彼の大犬のダガルは、セドリツクが席に着きました時、其側へ坐つてゐましたが、幾度かセドリツクを見挙げて、始終の話しに身が入つてゐるかと思ふ様な素振りをしてゐ升た。
ダガルといふのは、中々巌格な犬で、自分の犬柄に対しても、軽々しく世に処することは出来ぬとおもつてゐる様子があり升たが。此犬の平生を好く知つて居られた老侯は、それとはなしに注意して其の様子を見て居られ升た。
ダガルは中々粗忽に知己を拵へる様な犬では有ませんかつたから、セドリツクが撫でるのを何ともせずに静かに坐つて居つたのを見て、多少不審に思われました。
そして丁度此時ダガルは泰然と構へながら、フォントルロイ殿を熟思して、今度はすさまじい獅子の様な頭を黒びろうどの少さな膝の上へ態々載ました。
セドリツクは少な手で、新たに出来た友だちを撫ながら、問に答へて、

それからそら、ヂツクネ、あなたキツトヂツクが好ですよどふも大変キチヤウメンですもの。

侯爵どのは、流石此俗語は初耳と見えて、

全体それは、どういふ訳なのだ?。

フォントルロイは暫らく思案してゐました、自分でもキチヤウメンの意味が判然分つて居つたのではなく、たゞヂツクが好んで用ゐた言葉ですから、好いことに相違ないと信じて遣たのでした。

僕はヂツクが誰も欺したり、自分より少さな子を打たりしないで、人の靴を磨く時は出来る丈光る様にするといふ訳かと思ふんです、ヂツクは靴磨が職業なんです。

そうして、それが貴様の知己か?。

エー、僕の古い友だちです、ホツブスおぢさん程年をとつては居ないけれど、随分大きいんです、船が出帆する前に進物を呉れたんです。

此時セドリツクは、手をポツケツトの中へ入れて奇麗にたヽんだ赤い物を引出し、鼻高\/とこれを広げました。
それは、例の紫の馬の首や、馬の沓が織り出して有つた、赤い絹のハンケチでした。

これを呉れたんです、僕はいつまでも持つてるんです、ね頚へも巻けますし、ポツケツトへ入れて置いても好いでせう、僕がヂェークにお金を遺つて、ヂツクに新しひ刷毛を買つて遣つてから、儲かつたお金で直ぐと買つて呉れたんで、ヂツクの餞別なんです、ホツブスおぢさんに時計を遣る時、を見て僕を記念し玉へと書きましたが、僕はこれを見ればいつでもヂツクのことを思出すんです。

さて尊ときドリンコートの城主が、段々の話を聞かれて、心に起こされた感覚は、容易に明状することも出来ません。
随分世なれた老成貴人で、軽々しくは物に動じる様なことはないのでしたが、こん度といふ今度こそ、出逢たもの余り異様なのに呆れて、殆んど言葉も出ぬ程でした。
此おん方は、一体子供は嫌なのでした、自分の楽しみに屈托して、子供などに構ふ暇がないのでした。
御自分の子供らが幼少な時分、別段可愛いヽと思つたことは有ませんかつたが、たゞセドリツクの父丈を立派な、勇しい子と思たことのあるのを、時々思ひ出す位のことでした。
御自身が此迄万づ勝手気侭を通されて、人の互に相譲づる美しい処を見る暇さへ無かつたのでした。
心術の好い子供といふ者は、どの位優しく、信実で、愛の深い者か、あどけなく、無心な挙動の中にどの位清素、仁愛な情が篭つて居るかといふことは、丸で御承知なかつたのでした。
男児といふものは、極く厳しく限制しなければ、いつも我侭で、物ねだりしたり、騒々しくする至極く迷惑な動物と斗り思つて居られました。
この二人の息子どもは、絶へず師匠どもを困らせ、苦しめた様でした。
それに末の子に付いては余り苦情を聞ないで済んだのは、必竟余り大事な子でなかつた故と想像して居られ升た。
さて此度は、又孫息子が自分の気に叶わふかなどヽは、少しもおもつて居られた訳でなかつたので、只幾分かの名誉心に迫まられて、セドリツクを迎に遣つたのでした。
兎に角、其子供が未来には、自分の跡を継ぐので有つて見れば、教育もない下郎に家名を継がせて、人の物笑ひになつても、折角と想はれ、かつは米国で其侭成人させたらば、いよ\/下賎な者になり遂せるだらうと、たゞ掛念せられた丈の事で、セドリツクに対し、愛情などの有つた訳ではなかつたのでした。
なる可は、器量も見憎からぬ程で、外聞のわるいほど馬鹿でなければ好いと思つて居られたもの、年上の息子どもには失望を極はめ、末のカプテン、エロルには、米国人との結婚一件で、恐ろしく憤つて居られましたから、婚姻の結果として何もめで度いものが有ろうなどとは、努め考へず、給事がフオントルロイ殿のお入と忠進した時には、自分がかくあらうかと掛念してゐた快からぬことを、今面り見ることかと、子供に顔を合するが嫌で堪られぬ位でした。
いつそ失望す可きものならば、其失望を人に見らるヽが忍び難いといふ高慢心が有つて、必竟さし向ひの対面も命じられたのでした。
こふいふ処故、尚更、セドリツクが怖気なく手を大犬の領の上に置ながら、泰然と闊歩して進んで来た時には、倣慢、頑固な心も、飛立様でした。
思ひ直して極々高く望を持つた時でさへ、こんな孫息子が有ろうとは存じの外で、顔を合せるさへ憚りに思つた者、又自分があれまでに嫌た女の子が、これ程美麗で、品格が高いとは、余の僥倖で、夢かと思はれる程でした。
流石の老侯も、此驚きに対しては、厳格な居構さへ崩そうでした。
それから、対話になり升たが、なほ\/妙な感覚を生じ、益々不審が晴なくなり升た。
第一、自分の前へ来ては、大抵の人がこわそうで、何か間が悪そうに、モジ\/するのを見慣れて居られましたから、孫も矢張り恥づかしがつて臆せて居ることと諚めて居られました処が、セドリツクは犬を恐れない通り、又侯爵をこわがる様子も有ませんかつた。
決して出過といふではなく、たゞ無邪気に人懐こいので間をわるがるとか、恐れるとかの訳などが有ろうとは一向思なかつたのでした。
老侯はセドリツクが高い倚子へ腰をかけて、誠に何気なく話しをしてゐる処を御覧じると、自分を疑ふ処などは毫末もなく、見てもこわらしい様な大きな老人が、自分にはどこまでも深切と思ふより外の考もない様でした。
そうして此通りに面会して話をするのが嬉しく、どふぞお祖父様にお気に入て、お悦こばせ申度といふのが、頑是ない中によく見えて居ました。
老侯は固より癇癪持で、頑固で、世俗的の人物でしたが、さて此通りに信じられて見ると、自然心の中に一種新たな愉快の感じが起りました。
自分を狐疑することも、忌み憚かることもせす、自分の性質の嫌ふ可き処を、見現わした様にも見えず、清かな、よどまぬ眼で、ヂツト見れるのは、黒びろうどの服を着た小息子にでも、どうやら心持の悪いことは有ませんかつた。
それ故、老侯は、倚子に憑れてゐながら、セドリツクが自分のことをづん\/話せる様に問をかけました。
そうして、妙な眼つきで、頻りに其様子を見て居られました。
一方では、一々其問に対して、雑作もなく答へまして、例のなれ\/しい様な、子細らしい様な、調子で、引も切らすしやべり升た。
其話といふは、ヂツク、ヂエークのことや、林檎やのばヽのことや、ホツブス氏のことで、中にも国旗や、松火や、花火で賑かな独立祭の話が有ました。
此話になつて、まだ革命のことに熱心になろうといふ処で、何か、フト考へた様子で、急に話を止ました。

何事だ?、
なぜ其先を申さぬのだ?

とお祖父様がお咎めになりました。
フオントルロイは、椅子の上でモヂ\/して居まして、老侯は何か思出したことで、間がわるくなつたかと、気が付れました。

僕はネ、あなたがヒヨツト其話嫌かと思つたんですよ。
誰かあなたの親類かなんかゞ、あの時にゐたかも知ませんからネ、僕はあなたが英国の人だつたの忘つちまつたんですもの、

ナニ好い、ヅン\/話すが好い、おれの付属のものなどは、それに関係はないから、ダガ貴様は自分も英人だといふことを忘れて居るな。

セドリツクは、口ばやに、

イヽへ、僕はアメリカ人です。

老侯は苦々しいといふお顔で、

貴様は、矢張り英人だ、貴様の父が、英人じやもの。

老侯はこふいひながら、心の中に少しおかしく感じられましたが、セドリツクには少しもおかしいことでは有ませんかつた、こふいふことにならうとは前もつて思ひもふけぬことでしたから、頭髪の根本まで熱くなつた様な気がしまして、

僕はアメリカで生れたんでせう、アメリカで生れヽば、だれだつてアメリカ人にならなくつちやいけないじや有ませんか、(此時一層まぢめになつて、言葉丁寧に)どふもあなたのおつしやることと反対しまして御免なさい、デスガネ、ホツブスさんが、こんど戦が有れば、僕はアメリカ人にならなくつちや、いけないつていひましたもの。

此時老侯は苦々しい様な笑様をなさいました。
短かくつて、苦々しい様でしたが、矢張り笑は笑でした。

さ様か、アメリカ人になるのか?

とたゞ云われました。
米国も米人も大嫌な侯爵どのでしたが、此年若な愛国者の、かくまでまじめで熱心なのを面白く思われて、国を愛する米人ならば、成人の後は、矢張り国を愛する英人になるだらうと思われたのでした。(以上、『女学雑誌』第二七一号)




小公子。         若松しづ子

  第六回 (丁)
フォントルロイどのも少し遠慮気味で、彼の革命の話しに又深入りしない中に中餐の時刻となりました、セドリツクは席を離れ、お祖父さまのお側へ行つて、彼の痛処のあるおみ足を眺め、大層慇懃に、

お祖父さま、僕が少し手伝て上ませうか?
僕に寄り掛つて入つしやいな、先にネ、ホツブスさんが林檎の樽が転がつて、足をけがした時、僕に寄り掛つて歩るき升たよ。

お側に居合せた丈の高い給事は、思わずホヽ笑で、危うくしくじる処でした。
此者は上等な華族方のお邸に計り遣われて、殊に上品な給事で、決して殿方の御前などでホヽ笑むなどの失策はしたことのない方で、仮令何事か出来しようとも、自分の分限を忘れてホヽ笑といふ様な以ての外の振舞があれば、それこそ大層な恥辱と平常から覚悟いたして居りました、然るに此時こそ危うき処を漸く免かれましたのは、侯爵さまの御頭の丁度上当りに、甚だ醜い画像の有つたのを外眼もふらず見詰めたお蔭で有つたのでした。
侯爵どのは、大胆にも進んで用立うとした小息子を頭から足まで見下ろし、雑白に、

貴様出来るとおもふか?

マア、出来るだろうと思んです、僕、きついんですもの、モウ七歳なんですもの、あなた片ツ方は其杖をついて、片ツ方は僕にお寄かヽりなさいなネ、アノヂツクもそういつたんです、僕はたツた七ツにしちやあ随分骨があるつテ。

此時セドリツクは手を握り、肩の上まで持つていつて、ヂツクが賞めたといふ力瘤を侯爵どのにおめに掛けましたが、其顔が余りにまぢめで、一処懸命なので、彼の給事は又前の額面を一心不乱に見詰ました。

よし!
そんならやつて見い!

と云われて、セドリツクは先杖をお渡申し、それから侯爵さまの席をお立になるお手伝をし始めました。
平常は給事が此役を務めまして、御前のお痛処が普段より御困難の時分などには、随分烈しひお言葉を頂戴いたしました、侯爵さまは決して人の気分を損ねるなどを厭ふ方で有ませんかつた故、近侍の人々が御気色に依ては恐ろしさに内々震へる様なことが有ました、然るに此時は御足の痛の烈しいにも関はらず、一度も鳴らせ玉はなかつたのは、一ツセドリツクの力量だめしをしやうといふ企が有つたからのことでした。
先づ静かに坐つて勇ましく進めたセドリツクの小さな肩に、御手を置玉ふと共に、セドリツクは痛処のあるお足に触れぬ様注意して、自分の足を一歩前へ進めました、そして侯爵さまを慰めて威勢をつける積りか、

僕、静に歩き升からね、ズツト寄掛つて入つしやいよ

といひました。
侯爵どのは平常此通りに歩行し玉ふ時は、お側でお手を取る者の方に御体を寄かけて杖は態と軽くつき玉ふこと故此時も其通りにして、充分力量をためそうとなさいました故、随分セドリツクの為には重い荷で有たのでした。
数歩行く中にセドリツクの顔は大層熱して来る、胸はドキ\/しましたが、シツカリ踏占て、ヂツクに賞られた骨組のことを考へて、息を切り。

あなた、かまはず、僕に寄り掛つて入つしやいよ、アノ‥‥‥余んまり……あんまり長い途でなきやア、僕大丈夫ですよ。

食堂までは左程長い間では有ませんかつたが、セドリツクには、食卓の頭の倚子へ来る迄随分の途のりに思はれました、肩に載せられた手は一歩毎に重くなり、顔はます\/赤くます\/熱く、息はいよ\/忙はしくなつて来ましたが、止めやうとは決して思はず、首を挙げ、筋を張つてちんばの様に歩む中も老侯を頻りに慰めて居ました、

あなた、立つていらつしやる時、大変足が痛いですか?、
アノ湯に芥子を雑ぜた中へ入れて見たことがありますか?、
アーニカつていふ物は大変好いつてネ。

といひました。
彼の大犬もソロ\/側に歩るき、給事も跡に従つて参りましたが、小さな形のセドリツクが勢一杯の力を出して、心よく重荷を負ふて行くのを見て、妙な顔付をしてる、又侯爵さまも真ツ赤になつた小さな顔を流し眼に御覧ふじて、是も意味あり気なお顔でした。
食堂へ軈がて来て見ると、是も又立派な広間で、侯爵さまの御着座になろうといふ倚子の後ろに立つて居た給事は、ヂロ\/セドリツクを見て居りました。
それでよう\/倚子の処まで辿りつき、御手は漸く肩の上から下り、侯爵さまは無事に御着坐になりました。
セドリツクはヂツクのハンケチを出して額を拭ひました、

どふも熱い晩ですネ、あなたは足が痛くつてそれでアノ火が入るんでせうが、僕にやア少し熱いんです。

セドリツクは侯爵さまの周囲にある物で余計なものが有る様なことを申して、御機嫌を損てはと気遣ひました、

貴様は随分骨を折つたからだろう、

といふお言葉に対し、

ナニ、そんなに骨が折れやしませんかつたがネ、すこしあつくなつたんです、夏になればだれだつてあつくなりますは。

といひながら例のはでやかなハンケチで頻りに汗で湿れたちゞれ毛を拭ひました。
セドリツクの坐はお祖父様の真ん向ふで食卓の向ふの端でした。
其椅子は臂掛のあるセドリツクよりはズツト大きひ成人の掛ける椅子で、其外これまで眼に触れた一切のもの、天井の高い広間の数々を始めとして、置付の道具も給事どもも養犬も侯爵どのまでも実に柄の大きなもの計りで、セドリツクはます\/自分の小さなのを感じ升た。
併しそれが決して気になりはしませんかつた。
セドリツクは自分が大した人物とも、えらひ人とも思つたことが有ませんかつたから、コレはと少し臆せる位の物事にも自分から務めて慣れて見ようと思つて居ましたが、今食卓の一方の大椅子に坐つた処は実にこれ迄になく小さく見えました。
侯爵は一人住ひでこそあれ暮らしむき万端中々大したもので、殊に好食家の方でしたから、膳部の調方なども随分八ケま敷いものでした。
セドリツクは立派な玻璃器や皿鉢のきう\/して、慣れぬ眼には瞬ゆひ様な間から遥かに侯爵の方を見て居りました。
さて大広間に制服を着た丈の高い給事どもに侍づかれ、光り輝く数々の灯火や、輝めく玻璃や白銀の器具を列らねて、上座には武しひ老貴人が坐を占めて入つしやる、夐か下つて大椅子にチヨンボリ腰をかけた誠に小さなセドリツクを見るものは誰もおかしく思ひませう。
食事といへば、他に処在の少ない侯爵には中々容易ならぬことでした。
それのみか御前が普段より御機嫌が好くないとか、御食気が進まぬとかいふ時には、料理人までが色を失ふことがありました。
然るに此日は調理の風味塩梅の外に御心に掛させられることが有つた所為か、御食気も平常よりはいくらか好い様でした。
その思ふて入つしやるといふは、他ではない、即ち孫息子どのヽことで、始終眼を離さずセドリツクを眺めながら、自分では格別何も云はず、どふかこふかしてはセドリツクに話をさせる様に持かけて居られ升た。
是迄は子供に話をさせて心遣りにするなどとは思もよらぬことでしたが、さてセドリツク丈は合点の行ぬ様な処もあり、又面白い処もあり升たから、どの位の度胸と堪忍があるものか試ふ計りにおもひ切つて少さな肩に自分の身を寄せかけて見た処が、セドリツクの少しも狼狽しなかつたことと為始たことを止るといふ様な景色が一向に見えなかつたことを頻に思ては、満足に堪れませんかつた。
フォントルロイはいと丁寧に、

あなたは始終冠を被つて入しやらないんですか?。

老侯は例の渋ぶそふな笑を見せて、

イヤ、おれには似合はないから被つて居ないのだ。
アーホツブスさんが、いつでも被つて入つしやるんだといひましてネ、又考へ直して、イヤそうじやない、帽子を被ぶる時には脱ぐんだろうといひ升たつけよ。

その通りだ、時々脱ぐんだ。

と老侯がおつしやるとお側に居つた給事が急に脇を向いて、ロに手をあてながら、妙な咳嗽をしました。(以上、『女学雑誌』二七二号)



小公子。         若松しづ子

  第六回 (戊)

セドリツクは先づ食事を終りまして、椅子に憑れながらズツト坐敷を見廻し升て、

どふも立派なうちですね、
あなたこんなうちに居て、嬉しいでせう、
僕、こんな立派なうち見たことがないんです、
だけど、僕はまだ七ツにしかならないんで、たんと方々見たことがないんですからネ。

それで、おれが満足に思ふだらうといふのか?。

エー誰だつて満足ですは、僕だつてこんなうちが有ば、大威張ですは。
どふも何でも、かんでも奇麗なんだもの、アノお庭だの、木だのネ、どふも奇麗だつたこと、葉なんかが、ガサ\/音がして。

斯云つて、一寸口を閉ぢ、又何か云度そうに、向を見て居て、

たつた二人切りにやア余んまり大き過ぎ升ネ?、
どふでせう?。

二人の住ひにやア充分の様だが、大き過るとおもふのか?、

セドリツクは少し躊躇して、

僕はネ、考へてたんです、二人でも余んまり中の好くない人が一処に居るんだつたら、時々淋しいか知らんと考へたんです。

どふだ、おれは一処に住むには好い合手だろうか?。

エーそうでせうよ、だつて、ホツブスおぢさんと僕は大変中が好かつたんですもの、僕は一番好な人の次にやア、あの人と大中好でしたもの。

侯爵さまは、急に眉をひそめて、

一番好な人とは、誰だ?。

セドリツクは抵い静かな声で、

僕のかあさんのこつてす。

さて、いつも床に着く時は、近づき升し、それに二三日前からゴタ\/した所為で、少し疲労が出て来た様でした。
又疲労を感じると共に、今夜からは、自分と一番中が好いといつた優しい母さんが側に守つてゐて呉れて、いつもの所で寝るのでないと考へては、何となく妙に淋しい感じが起つて来ました。
セドリツクは、これ迄年若な母とは親子と云わふより寧ろ中の好い朋友の様でした。
此時も母のことが思われて、仕方がなく、母のことを思へば思ふ程、話が仕憎くなつて来て、食事が終る頃には、さえ\/してゐたセドリツクの顔に、薄く雲がかヽつた様なのを、侯爵も気がつかれ升た。
併し勇気は中々折けず、書斎へ帰る時にも、給仕が以前の一方へお付添ひ申しはし升たが、矢張片手はセドリツクの肩に載つて居ました。
たゞ最初ほど重くは有ませんかつた。
給仕が御用を済まして退つて仕まい、侯爵と二人になり升た時、セドリツクは、毛革の上にダガルの居る側へ坐りました。
暫時犬の耳を撫でながら、沈黙て暖炉の火を眺めて居ました。
侯爵は、眼をすへてセドリツクを御覧じると、何か物足なさそうなのが、眼付までに現われて、頻りに考へてゐて、一二度ソツト溜息をつきました。
侯爵は眼を離さず、ジツト見て居れて、軈て、

フォントルロイ、貴様、何を考へてゐるのだ?。

と被仰ると、フォントルロイは気を励して、漸くニツコリ笑ひ、

僕、かあさんのこと考へてたんです、僕‥‥‥何んだか変ですから、チツトあつちこつち歩いて見ませう。

といつて立上り、小さなポツケツトへ両手を突き込んで、あちらこちらと歩るき始めました。
セドリツクは眼を光らせ、唇を堅く結んで居りましたが、首を擡げて、シツカリ\/歩いて居ました。
ダガルは不安心といふ調子で、見て居ましたが、やがて立て、セドリツクの居る方へ歩み寄つて、何か落着ない様子で、セドリツクの行く方へついて行ました。
セドリツクは、片手をポツケツトから出て、犬の頭へ載ながら、

おまへ好犬だネ、僕の友だちだネ、僕の心持を知てるネ。

といひ升と侯爵が、

どんな心持がするんだ?。

此子供が始めて家を離れて、頻りに淋しがるのを見て、侯爵は快くは有ませんかつたが、併し又それを辛抱し遂せやうとしてきつくなつて居るのが、お気に叶つて、幼ながらの勇気を殊勝に思はれました。
侯爵は、セドリツクに向つて、

こヽへ来い。

セドリツクは、直ぐと側へ行つて、例の茶勝な眼に、困つたといふ思わくを現はして、

僕はネ、一度もまだ余処へ泊りに行つたことがないんです、始めて自分の家を出て、人のお城へ泊るなんていへば、誰だつて変でせう、ダケドかあさんは、そんなに遠方に居るんじやないんですからネ、かあさんが僕に、そのこと覚へておいでつて、そういひ升たもの、それからモウ僕は七ツになつたんだから‥‥‥、アノそれから、かあさんが下すつた写真を見て居られるんですからネ。

といつて、ポツケツトへ手を入れて、藤色びろうどの小さな箱を出し、

これですよ、ホラ此ばねをこう推すと、開き升よ、ソラ、中に居ましたろう!。

セドリツクはズツと椅子の側へ来て、其箱を取出す時は、臂掛からお祖父様の腕に、いつも寄掛りつけた様に心置もなく、寄掛つて居ました。
箱を開けながら、

ホラ、居るでせう、

といつてニツコリ笑つて上を向きました。
侯爵は眉を顰められました、兎に角其写真を見るのは嫌に思はれましたが、我知ずチラリと見ると、マア云ふに云はれぬ奇麗で若々した顔が、そこから覗いて居て、其顔がまた、自分の側に居る子供に、余り生写しの様に似て居たので、ビツクリされる程でした、

貴様はお袋を大層好だと思つて居るのだろうな、

フオントルロイは何気なく、優しい調子で、

エーさう思つてるんです、そうして僕本当に好なんだと思ふんです、あのホツブスおぢさんも、ヂツクも、ブリヂエツトも、メレも、ミケルも、みんな僕の友だちですけど、アノかあさんはマア僕の大変な親友なんです、そうして僕と二人はいつでも何でも話あいつこするんです、僕のとうさんが跡で僕に世話をしろつていつて入つしたんだから、僕は成人になると、働てかあさんのにお金を儲けるんです。

侯爵は、

何をして金を儲けるつもりだ。

セドリツクは辷下りて、元の毛革の上へ坐り、手に件の写真を持ちながら、まぢめに考へて居る様子で、暫くしてから、

僕はネ、ホツブスおぢさんと一処に商買をしようかと思てたんですがネ、どうかして大統領になり度とも思ふんです。

其代りに貴様を貴族院へ遣ろうは。

といふお祖父様の言葉を聞いて、

そふですネ、どうしても大統領になられないで、夫が好商買なら、夫でも好ですよ、万屋は時々不景気でいけませんよ。

セドリツクは心に今のことを考へ比らべて居たものか、それから大層静まつて、少しの間火を見て居た様でした。
侯爵も何も仰しやらず、椅子に憑れて、セドリツクを眺めて居られ升た。
其間種々雑多な妙な考へが老貴人の心に浮びました。
ダガルはズツト四足を伸ばして、前足の間へ顔を突き込んで、眠つて仕まいました。
暫らくの間、四方に音も有りませんかつた。
   +   +   +   +   +
半時間もすると、ハヴィシヤム氏は、案内につれられて、坐敷へ通て来ました。
大広間が殊に物静かで、侯爵はまだ椅子に倚掛つた侭で、居られました。
ハヴィシヤム氏が、お側へ近付うとすると、侯爵は手真似をして、何か気を付られましたが、夫が為ようとしての手真似ではなく、するとはなし、我知ずしたかの様でした。
ダガルはまだ寝つて居て、其大犬の直ぐ側に、ちゞれ頭を腕に憑れさせて、横になつてゐたのは、フオントルロイで、是も熟睡の体でした。(以上、『女学雑誌』第二七三号)


小公子。         若松しづ子

   第七回 (甲)

翌朝フオントルロイ殿が眼を覚まされると、(前夜寝処へ抱かれて連れられた時は眼が覚めなかつたので)直ぐ耳へ這入つたのは、暖室炉の火の燃へる音と、人が小声で話をしてゐるのでした。
誰れかこふいつて居ました、

ドウソンや、おまへ気を付けて其事は何んとも、申すのではないよ、 おつかさまが御一処でない訳は、一向に御存じないのだから、そつくり其まヽお知らせ申してはならないのだからネ

すると外の声で、

あなた御前の仰ならば、黙つても居ませう、
ですがネイわたくしの様なお婢でこんなことをあなたへ申し上てどんなもんですか存じませんが、あんなに奇麗で、若くつて、連添ふ方に別たお方を、今度は又血を別たお子様までも離しておしまいなさるつて、本当に情ないなされ様だつて、わたくし、なんぞは可愛そうで仕方が御座いませんよ、
ソレニマアどふでせう、お美麗こと、
どふ見ても殿様に生れついておいでなさるじや有ませんか、
ヂェームスどんや、タマスどんが夕部下へ退がつて来て、マア二人口を揃へて云ふんでござい升よ、アノ若様の様な若様生れてから見たことがないつて、
おまけにネイ、あなたの前でそう申しては何んですが、時よりはほんとうになされ方があんまりで、わたくしどもでさへ口惜しくつてごう腹で、こヽが煮へかへる様なことのある其お方とお食事を遊ばすのに、子守地蔵見た様なさも優しい人とでも入らつしやる様なあどけない調子で、行儀も好く、可愛らしかつたことつてネ、
それからネ、ヂェームスどんとわたくしとをお呼になつて、書斎からお二階までお連れ申して、参れつて仰しやるので、ヂェームスどんが其まヽお抱き申すと、あの可愛らしいお顔はポツト桜色になつてヂェームスどんの肩の処へおつむりを載せて、お髪のきら\/と奇麗に下つてゐた処の美麗くつて、可愛くつて、何んとも云へません様でしたこと、
あんなとこ、ほんとうに見度つて見られやしませんよ、
そうしてネ、御前だつてまんざらお眼がなかつた様でもないんですよ、
デモ、何んだか頻りに見て入つしって、ヂェームスどんに「気を付けて、眼を覚させぬ様にしろ」つておつしやるんですもの。

此時セドリツクは寝反りをして、眼を開けて見ました。
部屋の中には二人の婦人が居ました。
そうして花模様のはでな白紗の窓掛や幕がそろへて有つて、室は万事奇麗で、爽快に出来て居りました。
暖室炉には火がたいて有つて、蔦が一面に纏着た窓からは、朝日がさし込んで居りました。
間もなく二人が一処に側へ来るのを見ると、一人は取締のメロン夫人で、モウ一人は深切で、極く気立の優しそうな顔をした、見ても心持の好い様な中年増でした。
メロン夫人がセドリツクに言葉をかけて、

若様、お早う存じます、昨夜はよくお休みになり升たか?、

セドリツクは眼を磨つて、ニツコリ笑ひました、

お早う、僕ネ、こヽに居るの知りませんかつたよ。

といひ升た。
取締は、

其筈で御座い升、 うたヽ寝を遊ばした処を、ソツトお二階へお連れ申したので御座い升もの、 これが只今から若様のお寝間になるので、こヽに居り升のは、ドウソンと申して、これから若様のお世話を申すので御坐います。

セドリツクは床の上で起き直り、丁度侯爵さまに握手するとて手を伸べたと同じ調子に、ドウソンに手を出しました。

あなた御機嫌は如何?、
僕を世話しに来て呉れて、誠に有難う。

といひますと、取締が、ほヽ笑みながら、

若様、これから、御用の時はドウソンとお呼び遊しましよ、
ドウソンと呼ばれつけて居り升から、

といひますと、セドリツクが、

アノ、ミス(嬢の意)ドウソンといふんですか、ミセス(夫人の意)ドウソンといふんですか?、

と問ひますと、ドウソンハ、メロン夫人の口を開くのを待たず、顔一杯に笑ひを見せて、

マア、ミスもミセスも入つたこつちやございませんよ、勿体ない、
サア、お眼ざめならば、ドウソンがお召替へをおさせ申して、それからお居間で御膳をめし上ることに致しませうでは御坐いませんか?。

といひますと、セドリツクが答へて、

有難う、だつて、僕ハモウ幾年か前に自分で着物を着るのを習らひましたよ、
かあさんが教て呉れたんです、
メレ一人でするんでせう、(洗濯でも何でも、)
だから、そんなに世話やかせちやいけないんですもの、
僕は湯にだつて一人で這入れ升よ、随分よく洗へるんです、
あとで隅の方さへ少しあヽためてくれヽば、

ドウソンと取締は、何故か、此時顔を見合せて居ました、メロン夫人はまた、

若様、何んでも御用を仰しやれば、ドウソンが致しますよ。

といひ升と、ドウソンが慰める様な、人の好さそうな声で、

いたしますとも、\/、何んでもいたします、
若様お好なら、お一人でお召替へ遊しまし、
ドウソンはお側でお手伝をして宜い時は、いつでもいたしますから。

どふも有がたう、ボタンを掛ける時が、チツト六ケ敷ですからネ、その時は誰かに頼まなくつちやネ。

セドリツクはドウソンが大変深切な人だと思つて、湯浴と着物の着替が済まない中に、大層中好になつて、さま\゛/ドウソンの事を尋ね出しました。
ドウソンの亭主が兵卒で有つて本当の戦で討死したといふことと息子は船乗りで、久しい前から航海に行つて居るといふことと此人が海賊や、人食島や支那人や、土耳児人を見て来て珍らしい貝売や珊瑚のかけなどを採つて帰つて来てゐるといふこと、トウソンが自分の櫃の中に入れて持つて居るのが有るから、いつでも見せて呉れるといふこと、みんなセドリツクには面白い話でした。
ドウソンは昔しから子供の世話斗りして居たさうで矢張りこれまでも英国のある大家でウイニス、ヴオーンと云ふ可愛らしい姫君のお世話をして居たのだそうでした。
此話をして、ドウソンがいひますのに、

そうして、其ひいさまは、若様の御親類続で御座升から、いつかお逢になるかも知れませんよ。

そうですかネ、僕は女の子の友だちは持つたこと有ませんけれど、僕いつでも女の子見るのが好ですよ、奇麗だことネ。

さて朝飯を食する為に次の坐敷へ行まして、其大きいのに驚ろき、ドウソンに聞くと、まだそれに続いて坐敷が有つて、それも自分のと云ことを知りました時、自分のいかにも少さい者で、これほどの用意をして待たれるに相応しくないといふことを、又深く感じまして、膳立の奇麗にして有る処に腰をかけながら、ドウソンに向ひ、大層意気込んでこふ言ひました、

僕はこんなに少さい子だのに、こんな大きなお城の中に住んでゐて、大きな部屋をソウいくつも持つてゐるなんで、なんだか大変デスネ、

ドウソンは慰めて、

なんのマア、始は少し変なお心持がなさるかも知れませんが、直つきにお慣れ遊ばし升よ、
そうしてどんなに宜しうございませう、こんなに美しい処で御坐い升もの

セドリツクは少さい嘆息をついて、

それは奇麗な処だけれど、かあさんがこんなに恋しくさへなければ、よつぽど好いは、
ダツテ、僕、いつでも朝御膳を一処にたべたんですもの、
そうして、かあさんのお茶へ乳だの、砂糖だの入れて上たり、焼パンを上げたりしたんですもの、
そんなに中よくしてたんですもの。

ドウソンは、又慰めやうとして、

アヽそれに違ひ御座い升まいがネ、それでも毎日お眼にお掛りで御座いませう、
そうすれば、其時どんなにおつかさまにお話し遊ばすことが沢山で、どんなにお楽しみでせう、
それからまだ\/お楽しみなことが有ますよ、今に少し方々お歩ろい遊ばして、御覧じろ、
犬だの、お厩の中に沢山繋いで有るお馬だの、ソウ\/それから其中に若様がキツト御覧になり度のが、一匹をり升よ‥‥‥

セドリツクは、声をたてヽ、

オヤ、ソウ‥‥、僕は馬が大好です、
僕、ヂムつて云ふのが大好でした、
それはネ、ホツブスさんの荷車についてた馬でしたよ、
強情張らない時は、随分奇麗ナ馬でしたよ。

さ様で御座い升か、
兎も角、アノお厩に居るのを御覧遊ばせ、
それはそうと、マアどうしませう、まだお次の御座敷も御覧にならないじや有りませんか。

セドリツクは、

そこに何があるの?、

御膳をお済まし遊ばすと、御案内いたしますよ。

こふ聞いて、自然、何が有るかと頻りに見たくなり、勢出して、食事にかヽりました。
ドウソンが余り様子有気な、妙な顔をして居る処を見れば、キツト其坐敷には何か大した物があるに違ひないと思ひました。
暫らくしてから、椅子を辷下り

サア、モウおしまい、サアいつて見度もんですネ。

ドウソンは頭点いて、先へ立つて行ましたが、尚子細らしい様なとぼけた様な顔をして居ましたから、セドリツクはます\/一処懸命になりました。(以上、『女学雑誌』第二七四号)



小公子。         若松しづ子

   第七回 (乙)

ドウソンが戸を開けますと、セドリツクは敷井へ立つたまヽ、目を丸るくしながらビツクリして見廻わして居り升た、
まだ口も開き得ず、たゞ両手をポツケツトの中へ入れて、額まで赤くなつて、覗いて居り升た、并\/の子供でもこふいふ処ろを見れば、随分ビツクリし升から、セドリツクの驚いたも無理ならぬことでした。
此の坐敷は矢張大きい坐敷で、セドリツクには他の坐敷よりもまだ\/美敷見えた訳で有ました
此坐敷の中の道具はセドリツクが下で見た広間の道具の様にガツシリした、時代物らしいのでは有ませんかつた。
下幕や、敷物や、壁の塗は花やかで、眼の醒める様な色どりでした、
書棚には本が一杯詰めて有り、卓の上には数々の手遊びが有りましたが、何れも見事に巧を極めた物で、セドリツクが、ニユーヨークに居る時分、店の玻璃窓の中にあるのを見て楽しんだ不思議な物に似て居り升した。
暫らくしてから、溜息をついて、

誰れか男児の部屋の様ですが、全体誰のお部屋なんです。

ドウソンは、

マア中へお這入り遊して、よふく御覧遊ばせ、
若様ので御座い升から。

ヱー、僕のだつて!
本当に僕のですか!
なぜ僕のなんです?
誰が呉れたんでせう?

聞いたことが余りのことに信じられない様でも有つて、セドリツクは嬉しそうな声をたてながら、中へ飛込み升た、そうして、星の様に光つた眼をして、

お祖父様ですネ、お祖父様に掟まつて升はネ。

左様で御座い升よ、御前で御座い升、
そうしてネ、若様がおとなしく遊して、何かにつけてクヨ\/遊ばさずに、ある物をお楽み遊ばして、毎日お気楽に遊ばせば、何でも欲しいと仰つしやる物を下さい升と。

此の朝は中々気の揉める朝でした、
改めて見る物や、試みて見る物が余り沢山でしたから、眼新らしひ物が余り多つて、一ツ見始めると中々身が這入つて、容易には他へ移れず、気が急く程でした、
そうしてセドリツクは何も彼も自分の為に備へて有つたので、自分がまだニユーヨークを離れもしない前から自分が住む部屋といふのを飾りつけるとて、態々人がロンドンから来て、自分の気に叶ひそうな書物や手遊を仕度したことを聞いて、不審に堪へられませんかつた、
今ドウソンに向つて、

ドウソンはそんな深切なお祖父様持つてる子があると思ひ升か?

ドウソンは暫らく曖昧な顔付をして居ました。
此女は侯爵様を左程徳の高い方とは思つて居りませんかつた。
まだ自分は幾日も此お邸に居ないのでしたが、それにモウ下\/で御前の蔭事をとり沙汰するのを充分聞いて仕舞ひ升た。
彼の一番丈の高い給事が、

イヤ、わしがこれまでお仕着を頂戴した殿様で、いとゞ意地がわるくつて、がむしやらで、癇癪持だといふ奴をみんな並べたつても、イツカナ\/こいつにかなうこつちやねへよ、ドウシテ!

といひましたが、此のタマスといふ人物は又、セドリツクの来着に対して、件の準備を相談最中、御前がハヴィシヤム氏に対して申されたことを下へ退つてから朋輩に伝へたことも有ました。
御前のお言葉に、

なんでも勝手にさせて、部屋へ手遊でも一杯持つて来て置くが好かろう、
何か面白がりそうな物をあづけて置けば、お袋のことなどは雑作もなく忘れて仕舞うに諚まつて居は、
遊ばせて、気をまぎらせさへすれば、面倒なことはあるまい、
子供はみんなそれじやからな。

侯爵様は子供といふ者は皆、此通り容易くまぎらすことの出来る者と斗り思召して入つした処が、セドリツクの昨夜の様子では多少あてが違つて余りお心持の好いことは有りませんかつた。
そして、床に着れても充分お休にならなかつたので、翌朝はお寝間をお離れになりませんかつた、午になつて、食事を果されてから、セドリツクを迎ひに使を遣わされ升た。
フォントルロイは直と命に随ひ先づ、広い梯段を飛下りて来て、廊下を走つて参り升た、
侯爵様は其足音を聞いて居られると、間もなく、戸が開き升て、這入つて来たセドリツクの眼が光つて、頬は真赤でした。

僕、待つてましたよ、あなたがお呼なさるのを、モウ先アきから仕度して居たんです、
色々な物下すつて、誠に有難う、ほんとうに有がたう、
僕、朝つから持て遊んで升たよ。

アヽそうか、貴様はあヽいふものが好か?

好ですとも、どの位好だか云へない程好ですよ。

> とフォントルロィは嬉しさを満面に現はして、

アノ、あの中に、ベース、ボールに好く似たおもちやが有升よ、
僕、ドウソンに教へようと思ひ升たが、始めてだから、好く分らない様でしたよ、
婦の人だからべース、ボールなんかで遊んだことがないんでせう、
ネイ、それから、僕が教へて遣るのもそんなに上手でなかつたかも知れませんよ、
ダケド、あなたはよく知つて入つしやるでせう?

おれも知らない様だ、アメリカの遊びだろうな、
クリケツトに似て居るか?

僕はクリケツト見たことは有ませんよ、
ダケド、ホツブスさんがべース、ボールを見に幾度も連れてつて呉れたんです、
どうも面白いもんですこと、
みんな、どふも、一処懸命になつてネ、僕、行つてあの道具とつて来て、あなたに教へて上ませうか?
あなた面白くつて、足のこと忘れるかも知れませんよ、
今朝、あなたの足大変いたいですか?

余り有がたくない程痛むな、

セドリツクは心配そうに、

そうですか?
それじや忘れられないでせうネ、
そんなら、あの遊びのことなんか話されたら、うるさいでせう、
どうでせう面白いでせうか、うるさいでせうか?

侯爵さまは、

行つて持つてこい!

侯爵様にとつて、実にこれは事新らしい慰でした、遊びを教へやうといふ子供を合手にすることは。
併し、其事新らしいのが却てなぐさみになつたのでした。
彼の遊び道具の箱を腕に抱へながらセドリツクが坐敷へ帰つて来た時は老侯のお口の廻にどこかホヽ笑みがひそんで居る様でした、
そうしてセドリツクの顔には何か一処懸命に身が入つて居ることが現はれて居り升た、
セドリツクは、

僕、アノ小さな卓をあおたの倚子の側へ引ぱつて来ても好いですか?

老侯は、

ナニ、呼鈴を引て、タマスを呼べ、
どこへでも持つて来るから。

僕、独りで持つて来られ升よ、ダツテ、そんなに重くはない様ですもの。

お祖父様は「よし」と答へてセドリツクの色々仕度を整へるのを御覧じて入つしやると、セドリツクが余り熱心になつて居るので、顔のどこかに隠れてゐたホヽ笑みが段々外へ現はれて来升た、
先づ彼の小さい卓を前へ引き出して、老侯の倚子の側へ置き、おもちやを箱の中からとり出して、其上へ并らべ升た、それから説明にかヽつて、こふいひ升た。

あなた始めて見ると、中々面白いですよ、
ネイソラ、此黒い奴があなたの方で、此白いのが僕の方ですよ、
木で出来てるけれど人間の積なんですよ‥‥‥

とそれから何が外れで、何が勝だといふこと、この筋、あの筋が何々になるといふ委しい説明を致しまして、それから本当のべース、ボールではどうするのだといふこと、ホツブス氏と其勝負を見に行た時、どふいふ面白い景況であつたといふことを巨細に物がたるにつけて、自身に立つて、柳姿な少さな体を色々に働らかせて、其勝負を恰も見るが如くに演じ升たが聞く者は兎も角も、セドリツクが幼心の一筋に其遊戯を楽しむのを見るが快い様でした。
軈て説明も形容も終り升て、真剣勝負になり升た時も矢張り老侯には惓み玉わず、面白く思われ升た、一方では冗談処ではなく、一心不乱の勝負でした、
甘くあてた時の嬉しそうな笑と、一運して来た時の満足と、自分が勝つた時も向ふの相手が勝ちたる時も一向変らず同じ様によろこぶことは、どんな勝負ごとを誰としても随分愛嬌になりそうなことでした。
若し一週間前に誰かドリンコートの城主に向つて、御前はいつ\/、おみ足の病症も、御機分のわるいのもお忘れになつて、ちゞれ毛の小息子を相手に、色取りのした板の上で、黒白の木切をお玩弄なさることがありませうと申し上る者があつたら、どんなご不興を蒙つたか知れません、
然るに、暫くしてタマスが戸を開けて、客来を注進し升た時分は正しく己を忘れて居られ升た。(以上、『女学雑誌』第二七五号)



小公子。         若松しづ子

   第七回 (丙)

此時の来客といふのは黒羅紗の服を着た老成らしい紳士で、とりも直さず、此辺りを牧する宣教師でしたが、坐敷へ通つていきなり眼に這入つた有様に驚いたのが、余り甚だしかつたので、思はず二足、三足後ろへ退つて、すでのことに、案内に来たタマスに突当る処でした。
一体、モウドント教師は、其職務上の必要の事情でドリンコート城へ推参する時ほど、不愉快に感じることはありませんのでした。
城主は其都度、権柄に仕かせて、存分牧師を不愉快にさせてお帰へしになり升た。
此城主は概して教会とか、慈善とかいふことは大のお嫌ひで、小作人どもが貧窮に陥るとか、病痾に罹るとかして、救つて遣らねばならぬといふ時には、此小民どもが好んで、態々こふいふ境界に陥りでもしたかの様に恐ろしいお憤りでした、
酒風症のお痛が烈しい時でもあれば、聞苦しい貧困話しなどは耳障りで、煩はしいとて、遠慮もなく、其のまヽお突き戻しになり升たが、お煩がさ程でなく、お心が幾らか如らいでゐる時分ならば、聞くに堪へられぬほど心のまヽに教師をおいじめなさり、小作人一同の怠懦、柔弱なことをお詰りなさつた上句に、幾分か金円をお恵みになり升た。
併し御機嫌の好い悪るいに係はらず、意地のわるい、刺衝的のことを仰つて困しめなさらぬことはなく、流石のモドント教師も、折ふしは、宗教の則に違はずして差支のないことならば、何か重い物でも投げつけ度と思ふ位でした。
モドント教師がドリンコート城の領地を牧し始めてより今日に至るまで多年の間、城主が故意に人に親切をなされたとか、何事が出来しやうと自分を置て、他を顧みるといふ様な御処行が只の一度も有つたのを思ひ出されぬ位でした。
今日推参したといふのは別して困難な一條を陳述して、救済を請ふ為でしたが、二ツ程理由が有つて、今日の訪問を格別嫌におもひ升た。
第一、御前には数日前より持病に悩まれて、寄りつけぬ様な御不機嫌だとて城下で評判する程でした、これをは城の若いお女中の中で、城下に小店を出してゐる妹が有て、針、糸、駄菓子を商ふのに世間の噂話しを景物に添へるので、結構活計が立つといふ処へ持つて行つて、御様子を伝へたからのことでした。
お城の内幕や、百姓やの内情や、城下で何処に何がある、誰が何をしたの噂を此おかみさんが知らぬ程の事ならば、別段話しにならぬのだと人に思はれる位、世間が明るいのでした。
そしてお城のことは尚さら、自分の妹が奥づとめの女中で、それが又給事のタマスには別して懇意でしたから、何もかも承知して居つたのでした、帳場の向ふに坐つて居て、此おかみさんの云ひ升に、

ダツテ、マアお聞なさいよ、タマスどんがヂェーン(妹の名)にぢかにそういひましたと、この頃御前の癇癪とどなり方は恐れるつて、
そうしてツイ二日前のこつてすと
どふでせう、マア、焼パンを載せて有つた皿を、突然、タマスどんにぶつヽけたんですとさ、
デスケドネ、朋輩は好し、他のこつて填合せがついてるから好い様なもんの、さもなければ直とお暇をとるんだつていつたそうですよ。

教師の耳へもこの話が這入つたといふのは、どこへ行つても侯爵さま斗りは噂の種で、茶呑話しにはキツト噂が出ないことはなかつたからでした。
第二の理由といふのは近頃新たに起つたことで、未だに巷の風評が八釜しいといふ丈に一層難渋な様でした。
先づ世間にかくれもないといふことは、末息どのが米国婦人と結婚された時の老侯の憤りと、カプテンを逆待されたこと、続いて、御一族の中で、たつた一人名望の有つたといふ立派で、威勢の好かつた若人が、金もなく、勘当を受けたまヽで、他郷の鬼となつて仕まつたことで、それから其妻で有つたといふ罪もない若い婦人をば、可愛そうに老侯のお憎くみなさることは一通りでなく、引いて出来た子供までが憎く、対面は決して許されぬ積の所が、長男、次男が亡くなつて、儲嗣になる可者を一人も残さなかつたことも、孫息子をいよ\/迎へることになつて情愛があるでも無れば楽んで待たるヽ訳でもなく、米国生れで有つて見れば、定めし下賎で、不作法で、出過ぎもので、大家の名折れになるに相違ないと心に諚めて居られたことは誰一人知らぬものも有ませんかつた。
自慢と憤怒で胸を燃した老貴人は、心の情は一切人に漏れぬことと思はれて、自分の感じたことや、懸念したことを敢て推測した人があろうとか、況して噂にかける様なものがあるなどヽは少しも思ひよられぬのでした。
然るに耳や眼の俊い婢僕どもは御気色を読み、御不機嫌、御鬱憂の原因を察し升て、其解釈を下へ下つては相伝へ、相弁ずるもので、下々の奴原は充分遠ざけて、内情を蔽い尽したと安堵して居られる時分に、タマスはヂヱーンやコツクや、パン焼や、給事中間にこの通り自分の説を述べて居り升た、

イヤ、おや玉は今日は、余計八釜しい様だぜ、こんだ来るつていふ孫どのヽこと考げへてよ、
ナニあんまり外聞の好い方じやあるめいつて心配してるのさ、
ダガ、あたりめへだ、仕方があるもんか、矢つぱり、自分がわりいんだもの、
アメリカなんて、下司斗り生れる国で、不自由に育つた者がナニ好いものになろう、ナア?

そこで、モドント教師が並木の間を歩ゆみながら、考へられると、此いかゞな孫どのは丁度其前夜、来着になつた都合でした、
して見ると、十が九まで、老侯の気遣ひ通りであつたろうと推量して、さて訳もしらぬ小息子が老侯を失望させたとすれば、十が十までも今ごろは煮へかへるほど猛り立つて居られて、運わるく、一番に出逢つた人が憤りの先に当るので其人は多分自分であらうと思ひ升た、
此通り故、タマスが書斎の戸を開けるや否、嬉しそうな子供の笑ひ声が響渡るのを聞いて驚ろかれたことでした。
イキセキした可愛いヽ、さゑた声で、

ソラ、二ツ外れ升たよ!
ネイ二ツ外れでせう!

と叫んで居升た。
見ればそこに侯爵さまの椅子もあり足台も有つて痛処のあるおみ足はチアンとそこに載つて居り升た。
其外お側に少さな卓が置て有つて、其上に遊道具がのせて有て、ズツトお側へすり寄つて、現に侯爵の腕と健全な方のお膝に憑れて居るのは何か一心になつた処為か、眼は踊り、顔がポツト赤くなつた小息子でした。
此見知らぬ小息子が、ソラニツ外れたでせう!こんどはあなたの方が運がわるかつたんてすよ、」といつて、フト二人が同時に向ふを見ると、誰か這入つて来て居升た。
侯爵さまは例の癖で、眉を顰めながら、あたりを見廻しましたが、這入つて来た者が誰と分つた時は武しひお顔が尚武しくはならず、却つて少し和らいだのを見て、モドント氏の不審はます\/晴ませんかつた。
実に侯爵さまは此時計り、御自分の平常人に対して不愛相なことと、お心一ツでどの位人を困しめられたといふことをお忘れなさつた様でした。
此時お声こそ変らね、多少打とけたかの様に握手の手を伸べて、

イヤ、モドントか、お早う、
わしもこの通りチト新らしい職掌を見付たのだ。

といひながら左りの手をセドリツクの肩に載せ、少しく前へ進ませて、

アヽ、時にこれが今度のフォントルロイだ、
フォントルロイ、領内の牧師を務めるモドント氏だ。

と云われる中に喜悦の情がお目に現われて居り升た、
定めし世継たる可き立派な孫息子を紹介する心の底には充分高慢気が有つたことでせう、
フオントルロイは宣教師の服を着た紳士を見上げて、手を出し、ホツブス氏が新らしい花主と挨拶するロ誼を一二度聞たことがあるのを思出し、宣教師には別して慇懃にせねば済まぬものと覚悟して、

あなた、始めてお目に掛り升、何分よろしく

といひ升と、モドント氏は我知らず、ホヽ笑みつヽセドリツクの顔を眺めて、手を握つたまヽ離し得ずに居り升た。
モドント氏は見ると直ぐ、セドリツクに愛情が起り升た。
一体、誰でもセドリツクを愛したといふのは、其美麗なのと、風采とに最も感じたのではなく、此子息子の心の中に湧き出る泉の様な清素優愛があふれて妙に成人びたことをいふ時でもそれが何となく、心よく、信実らしく聞える故でした。
教師がセドリツクを眺めて居る内は侯爵のことはさつぱり忘れて仕舞い升たが、実に世の中に深切な心ほど強いものはありません、
そうして其深切のあつたのは誠に小さな子供の心でしたが。此暗い様な鬱陶敷様な広間の空気を払つて、明るく爽快にする様でした。
教師はフォントルロイに向つて

手前こそフォントルロイ殿の眼通りをいたして、誠に悦ばしう存じます、
大層長い旅をかけての御来着で御座り升たが、一同御安着を承つて悦ぶことでご座りませう。
エー、どふも中々長いでしたよ、だけど、かあさんが一処でしたからネ、僕、淋しくなかつたんです、
誰だつて自分のかあさんと一処ならば、淋しくはないですはネ、
そうしてどうも船が奇麗でしたこと。

侯爵は、

モドントマアかけるが好い。

モドント氏は腰かけて、フオントルロイ殿を見、亦侯爵を見て特に言葉に力を入れ、

御前、誠におめで度う存じ升。

といひ升たが、侯爵は心の情を人に見られるを厭ふものヽ様に態と言葉を粗暴にして、

イヤ、おやぢに似て居るは、併し行状は似て呉れねば好いがと思ふのだ、
ソレハさて置て今朝は何用だ。
誰が困つて居るといふ訳だ、(以上、『女学雑誌』第二七六号)




小公子。   (丁)      若松しづ子

   第七回 

こふ聞て、モドント氏は思つたより好都合と悦びながら、しばしロ篭つて、

ヒツギンスの一條で御座り升、
エツヂ、ファームのヒッギユスで御座り升が昨年の秋は自身に病み、又候、子供に熱病を患はれ、不運が引続いて、困難いたし居り升、極く締りの好い方とは申されませんが、不運の重なつた為、万づ、不手廻りになつて、只今の処、何分家賃を納め兼ねて居り升が、御差配のニユーウヰツクが早速納めぬとならば、立退く様に申聞け升たそうで御座り升、
然るに、目今、同人妻も病気で、立退くと申せば、家族一同にとつて、容易ならぬ難渋故、何卒暫らくの御猶予を手前より御前へ歎願する様に、申出升て御座り升、暫時御猶予を願ひさへ致せば、又どうにか、都合の致し様も有る、と申て居升る、

侯爵殿ハ、はやお顔の色を変へて、

フン、みんな同じ様なことを云ひ立てヽ居るな、

フオントルロイは少し前へ進み升て、始よりお祖父様と客人との間に立つて居つて、一処懸命に耳を傾けて居り升たが、直ぐヒツギンスのことが気になり出しました。
子供は幾人あるのだろう、そうして熱病のあとは大層弱つて居るのか知らと思ひ、モドント氏の段々との話しに一層身が這入つて、大きく開けた眼を離さず、モドント氏を見て居升た。
教師は又も一際願を強めやうとして、

ヒツギンスは正直な人物です、

御前は、

随分厄介な店子らしいナ、いつも不手廻りに斗りなる様にニユーウヰツクが申て居つた、

教師は又、

何様今の処、非常に難渋いたして居り升、
殊に同人も妻子をひどく不憫に思ふ様子で御座り升、
田地をお取り上げになると致せば、明日よりも饑喝に迫る場合で、増して熱病後衰弱いたし居る二人の子供に、医師の命じられた滋養物などは、思ひもよらぬことで御座りませう、

こふ聞いて、フォントルロイは一足前へ進み升た。
そうして突然、

ミケルも丁度其通りなんでしたよ、

此時、侯爵どの、ビツクリされ升た、

ナンダ、貴様が居たのだつけ、おれは慈善家のこヽに居るのはサツパリ忘れて居た、
其ミケルといふのは誰のことだ?

と仰つた老侯の凹んだ目に、是も一興といふ様な一種特別な思わくが現われ升た、
フォントルロイは答へて、

ミケルといふのはブリヂェツトの亭主で、熱病をわづらつた人なんです、
それで家賃も払へず、葡萄酒だの色んな物が買へなかつたんです、
ダカラ、お祖父さまが僕に助けて遣るお金を下さつたんじや有ませんか、?

老侯は異様な八の字を額におよせなさい升たが、一向こわらしい八の字では有りませんかつた、
そしてモドント氏に向つて、眼を放ち

どふだろう、こふいふのはどんな地主になるかな、
実はこれの欲しがる物はなんでも遣わす様にハヴイシヤムに申付けて遣つたのだ、
スルト、ねだつた物が乞丐にやるといふ銭ださうだ、アツハヽ

フォントルロイは熱心に、

アレ、乞丐じや有ませんよ、
ミケルは立派な煉瓦職人でしたよ、
それから、其他の人もみんなかせぎましたもの、

侯爵は、これはしくぢつたといふ調子で、

其通りだつたな、
そんな立派な瓦職人だの、靴磨だの、林檎やだのだつたな、

そふ仰つて、暫らくフオントルロイを見詰めて居られ升たが、フト新らしい考が心に浮び升た。
其考が極く高尚な情から起つたとは確言出来ませんが、悪るい考へでは有ませんかつた。
間もなくフイト、

こつちへ来い、

と仰つたのを聞いて、フォントルロイは進んで間近く差寄り、わるいおみ足丈には触れない様にして居升た。
御前は改めて

こふいふ時に貴様ならどうする?

この時モドント氏は心の中に妙な感覚を起し升た。
元来、極く考への深い方で、富めるも貧しきも、正直で、勤勉なるも、不正で、怠惰なるも、領内の小民を知り悉して居り升たから、今彼の茶勝な眼を大きく見張り、両手を深くポツケツトへ入れた何気ない小息が未来には善にも悪にも何れにも振ふ可き大権を握るのだと始めて心に判然悟り、さて、傲慢、放逸な老人の一時の娯楽の為に今から心のまヽを働く自由を与へられて、万一其子供が質朴、慈善的な質でなければ、啻に小民共の為已ならす、自分の為にどの位の憂を来たすか知れぬと考へ付き升た。
侯爵は又も言葉を推して、

どふだ、貴様なら、こふいふ時にはどうする?

といはれて、フォントルロイは少し差寄り、極く中の好い友だちにでもしそうに、御手を侯爵の膝の上へのせ、誠に心置のない調子で、

僕は少さくつて、何にも出来ないから仕方がないけれど、大変お金持ならば、追出さずに、貸といて遣て、それから、子供にいろんな物遣り升う、
だけど、僕、まだ少さいからしやうがないは、

といつて、一寸口を閉ぢると思ふと、急に顔がさえ\゛/して、

ダケド、お祖父さんは何でも出来るですネイ、

といひ升と、御前は其顔をヂツト見詰めて、

ムー、貴様はそう思つてゐるのか?

と仰つて、少しも御不機嫌の様では有ませんかつた。
フォントルロイは、

僕ネー、お祖父さんが誰にでも何でも好なもの遣れるつていふ積なんですよ、
ニユーウィツクつて誰です?

侯爵様は答へて、

それは差配人の名だ、小作人には嫌がられる奴だ、

お祖父さん、今ニユーウィツクに手紙をお書なさるの?、
僕、筆や墨持つて来ませうか、そうすれば、此卓の上のおもちや、とつちまい升わ。

そふいふ処を聞くと、人に嫌られる様なニユーウヰクが手ひどい事をするまヽに侯爵が捨て置れるとは一寸も考へなかつた様子でした、
侯爵はまだヂツト顔を見詰ながら、少し躊躇し、

貴様は手紙がかけるか?

エー、書けるけど、よくは出来ないんです、

それでは、卓の上の物を退けて、おれの机から筆と墨と紙を一枚持つて来い、

と命じられるのを聞いて、モドント氏は只管、注意して居り升と、フォントルロイは手早く、云ひつけられたことを致して、暫時の間に、紙と大きな墨つぼと筆の用意が出来ました。
フォントルロイは嬉しそうに、

サア、お書なさい、

といひ升と、侯爵さまは、

ナンダ、貴様が書んだ、

フォントルロイの額は急に紅色になり、驚いた様な声をたてヽ、

僕、書んですか?
僕が書たんでも間に合うんですか?
僕、字引がなくつて、誰にも聞なければ、綴字が好く出来ないんですもの、

侯爵は、

間に合ふとも、ヒツギンスは綴字が悪るいつて、苦情はいふまへ、
全体おれが慈善家なのではない、貴様なのだから、
マア筆に墨をつけろ、

フォントルロイは筆をとり、インキつぼに入れ、居住ひを直して卓に寄り、

サア、なんと書くんです?

侯爵は、

「当分、ヒツギンスを其まヽ差置く可し」、と書いて、下へフォントルロイと記るすが好い、

フォントルロイは又筆を墨壷へ入れて、尚居住を直して書始め升た。
さて中々丹精なのろい仕事でしたが、一心になつて、掛りましたから、暫らくすると、書付が出来上り升て、ニツコリ笑ふ中に、聊か気遣ひな様子を雑へて、お祖父様にそれを渡し升た、そうして

どふでせうか、それで好いでせうか?

といひ升と、侯爵は受とつて、書付を見、お口の周囲が少し斗り妙にモヂ\/する様でした、

好し、ヒツギンスは大満足に違ひない、

と仰つて、其まヽ、モドント氏にお渡しになり升た、
モドント氏が書たのを見と、宛名のニユーウヰツク、又ヒツギンス其他の綴りが妙に間違つて居て、ミストルのmが少さい字で書いて有つた外に、「差置く可」の上に「何卒」といふ意が添へて有り升た、
そうして終に、「フォントルロイ、敬白」と記して有り升た。

アノ、ホツブスおぢさんが始終、手紙の下へそう書き\/し升た、よ
それから、お祖父さんはそう仰らないけれど、「何卒」つて書く方が好いかと思つたんです、
「差置く可し」と書くのはそれで好いんですか?

侯爵は、

字引に有るのとは、チツト、違ふ様だナ

僕もそうか知らと思つて心配したんですよ、
僕聞けば好かつた、
何んでも六ケ敷字は字引で見なくつちや、そうすれば大丈夫ですネ、
僕、も一度書直しませう、

といつて、こんどは、注意して、一々侯爵様に綴字法を質問しながら、中々立派な写しを拵らへて、こふいひました、

どふも綴字つて変なもんですネ、考へて見てこうかしらと思ふのと大変違うんですもの、
僕pleaseと書のはp-l-e-e-sと綴るのかと思てたら、そうじやないんですものネ、
それからdearは聞て見ない中はd-e-r-e かと思へ升わネ、
僕、時々厭になつちまうんです。(以上、『女学雑誌』第二七七号)




小公子。         若松しづ子

   第七回 (戊)


さてモドント氏が暇を告げて帰り升時に其手紙を持つて行き升たが、まだ外に家へ土産に持ち帰つた物が有升た。
何かとなれば、是までドリンコート城へ推参して、帰途、彼の並木道を通ふる時分に、曽つて心に味つたことのなひ愉快と、希望とでした。
フォントルロイは戸口まで教師を見送つてから、お親父様のお側へ帰り、

サア、これから、かあさんの処へ行つても好いですか?
かあさん、僕の来るの、待つてるだろうと思ふんですから、

といひ升と、侯爵様は、暫らく黙つて入つしやい升た、そして、

其前に貴様が見度だろうと思ふ物が厩にあるが、どふだ?
呼鈴を引かうか?

フォントルロイは、急にポツト顔を赤くし、

お親父さん、誠に有がたう、
ダケド、僕、それは、明日見た方が好ですよ、
かあさん、僕が来るか\/と思つて、待つてるんですもの、

そふか、そんなら好い、馬車を云ひ付よう、

と仰つてから、又暫らくして、無雑作な調子で、

ナニ、小馬が居るんだ、

フォントルロイは長い息をつき、声をたてヽ

小馬!
誰の小馬なんです?

貴様のだ、

アレ、僕の?
二階の色んな物とおんなじに僕んですか?

そうさ、貴様、見度か、
見度ければ、こヽへ引出させようか?

フォントルロイの双の頬はます\/赤くなり升た、

僕、小馬なんか持ふと思ひませんかつたよ!
チツトモ、そんなこと、思はなかつたんです、
かあさん、どんなに、嬉しがるか知れませんよ、
お祖父さん、僕になんでも下さるのネ

侯爵は、また

貴様、見度か?

フォントルロイは又長い息をつき、

僕、見度なんて、僕、見度くつてしようがないけれど、暇がないかも、知れないんですもの、

貴様、どふしても、お袋の処へ、けふ行つて、逢はなければならんと云ふのか?
貴様、延ばす様には行ないのか?

エー、だつて、かあさんもけさつから、僕のこと考へてたんですし、僕も、かあさんのこと、考へたんですもの!

ハヽア、そういふ訳か、そんならば、呼鈴を鳴せ、

さて、同車で並木道の、蔽ひかヽつた木々の間を通る間、老侯は沈黙でしたが、フォントルロイは中\/そうでは有ませんかつた、
其小馬の話を頻にして居ました、
どんな色で、どの位大きいといふこと、其名はなんといつて、何が一番好といふこと、今いくつだといふこと、あしたの朝、何時に起たら、見られるといふことなどを尋ね升た、
話しの合間\/には「かあさん、どんなに嬉しがり升か」と頻りに云つて居升た、
それから又、

かあさん、お祖父さんがそんなに僕に深切にして下さるの、どんなに有がたがり升か、
僕小馬が大好なの、かあさん、よく知つてるけれど、僕だつて、かあさんだつて、僕が小馬持つだらうなんて、チツトモ思はなかつたんです、
アノ、五町目に小馬を持つてた子が有つたんです、
そうして毎朝乗つては歩いて居たんです、
それから、いつか、かあさんと僕、其人の家を通つて、居るか知らと思つて、見て見たんです、

それから、布団へよりかヽつて、頻に老侯のお顔を見守つて、暫らく、だまつ居升た、軈て、大層子細らしく、

僕、お祖父さんの様な人、どこにだつてないと思ふんです、
ダツテ、いつでも好いこと斗りして入つしやるんだもの、
そうして、他の人のこと考へて入つしやるんだもの、
かあさんが度々そういひ升たよ、自分のこと、考へないで、人のこと、考へるのが一番好いこつたつていひ升たよ、
デ、お祖父さんが丁度そんな人だと、僕思ひますよ。

御前は大層結構らしい人物に画き出されたので、流石に、気臆れがして、何といふ言葉も有ませんで、先、少し考へてから返答をしようと思つて居られ升た、
幼心の淡純な一ツで、自分の卑劣、勝手な目算を一々、善良、優愛的な趣意に推し違へられるのは亦、一種特別な経験でした。
フォントルロイは賞嘆の眼‥‥‥いかにも、パツチリした、涼しそうな、あどけない眼を離さずに又いひ升た、

お祖父さんは、どふも人を幾人も悦こばせたこと、ソラネ、勘定して見升よ、
ミケルとブリヂェツトと十人の子供でせうネ
それから、林檎やのおばあさんと、ヂツクと、ホツブスさんとヒツギンスさんと、ビギンスのおかみさんと、モドントさん、モドントさんだつて嬉しがつたに諚つて升からネ、
それから馬だのなんだの、いろんなことで僕とかあさんでせう、
ソラ、僕、今、だまつて指で勘定して見たら、お祖父さんの親切した人、丁度、二十七人有升よ、
大変じや有ませんか、
丁度二十七人です、

ハヽア、それじや、己が皆なに深切にしたといふ訳なのか?

エー、そうですとも、お祖父さんがみんなを悦こばせたんです、

こふいつて、少し遠慮気味に控へて、

アノ、お祖父さん、知つて升か、
人が侯爵のこと、知らないと、時々間違つて升よ、
ホツブスさんも、そうでしたよ、
僕、手紙を遣つて、よふく、話して遣ろうと思つたんです。

ブツブスさんは侯爵のことをどんなに考へてたんだ?

アノネ、こういふ訳なんです、
ホツブスさんは侯爵なんか、一人も知ないで、たゞ本で斗り、読んでたんでせう、そうしてこふ思てたんです、
‥‥‥お祖父さん、気に掛ちやいけませんよ、
アノ、血まみれな圧制家だと思てたんです、
だから、自分のお店へなんか足踏もさせないなんて、いつたんです、
それだけど、お祖父さん知つてたら、丸で、違つた考へになるに諚つて升よ、
だから、僕、あなたのこと話して遣るんです、

何んていつて、話すんだ?

フォントルロイは一心になり、

なんていふつて、僕、あなたの様な、深切な人、聞たことがないつて、そうして、いつでも他の人のこと斗り考へて居て、悦こばせて斗入つしやるつて話し升わ、
それからアノ、僕、大きくなつたら、丁度、お祖父さんの様になり度つていひ升わ。

御前はさえ\゛/した其顔を見詰めて、

ナニ、丁度おれの様になり度といふのか?

と仰つて、流石にかしけたお顔の面にそれとも分かぬほどボンヤリと赤みがさし升た、そして俄かに眼を外向けて、馬車窓から外面をお眺なさい升たが、大きな山毛欅の樹の艶\/した茶色の葉は、日影に輝り渡つて居り升た。
フォントルロイは恥かしそうに、

エー、丁ツ度、あなたの様になり度んです、

と云つて、亦跡から、

そうなれヽばです、
僕、そんなに好い人になれるかどふだか知れないけれど、マア遺つて見るんです、

さて馬車は木々の緑が影をなす合間\/に、黄金の光を漏してゐる壮厳なる並木道を轟つヽ、進行致し升た、
フォントルロイはしだが生繁り、桔梗の微風に招て、なびきなびいてゐる、美しい気色や、草深い処に立たり、寝たりしてゐて、馬車の音に驚かされ大なビツクリした眼をこちらへ向る鹿の群や、茶色の兎が跳ね通るのを見たことは前日の通りでした、
又野鶏の羽や、小鳥が囀り、呼び合ふ声を聞て、何も彼も、前日よりは一入見事の様におもひ、四方の美に囲まれてゐる心に、得も云われぬ愉快が満ち\/て居りました、
老侯も亦同じ様に目には外面を眺めて居られながら、見聞なされた物斗は是とは丸で違つて居り升た、
此時老侯の眼の前に、何か外事の様に段々と見えたものは慈善らしき業も、深切めいた思遺りも、皆無の長ひ生涯でした、
元来、春秋に冨み、健康で、財産にも権力にも不足のなかつた者が、日を過ごし、年を経るに随がつて、たゞ\/己れ一人を楽しませ、年月をつぶそふが為に、雄壮な精神も、富しも権力も悉く消費し尽して、さて、其果に春秋は行て再び呼戻す術なく、老衰の襲ひ来る時分に、有余る宝の中に坐りながら、シヨンボリ、真の朋友一人なく、自分を嫌ひ、恐るヽもの、或は追従し、諂ふ者は有ながら、自分の損得に係わらぬ限り、此老人が生存らへようと、死なふと意に介するものが一人もない、哀れな境界を廻想われ升た。
老侯は現在、遥かに、眼も及ばぬ田畑は、御目身の処有で、面積はどの位、価値にして、どの位、又是によつて、生活を立てヽ居る小民どもの数は、どの位といふことなどまだフォントルロイが知らぬことまでも、此時思廻はして居られました。
それに加へて、またフォントルロイの知らぬことで、此時、老侯の心に浮んだことは、さしも広い領地に棲活して居る小民どもの中で、上も下も、推なべて、老人の財産や、門閥や、権力を貪つて、出来れば、甘じて、自分等のものにしよふと思者こそあれ、此純潔な小供に做つて、仮にも、殿様を善良な人とか、その性質に似度などヽ思ふものは一人もないといふことでした。
さてまた、七十年の久しい年月の間、己を以つて足れりとして、自分の安逸か、さなくば、娯楽に関係せぬこととては、世間の人が自分を何と思わふと、一向に頓着せぬ厭世的な、世なれた老人でも、こふ考へては、流石に心地の好い事は有ませんかつた。
全体、こふいふことは一切考へ起さぬ様に、かまへて居られたのでしたが、一人の幼ない子供が、自分を善良な人と信じて、其足跡を踏み行ひ、其手本に習わふと云つたに付いて、実際、自分、人の手本になるに適当で有ろうかといふ、チト新奇しそうな疑問を、心に呼起されたのでした。
フォントルロイは老侯が園を眺めながら、眉を頻りに顰め玉ふのを見て、さては、おみ足の痛むことだろうと心得、幼稚にしては、珍らしいほどの斟酎をして、なる丈、邪魔にならぬ様に、沈黙に、外の気色を楽しんで居り升た。
そうこふする中に、馬車は門を過ぎ、暫く、緑の生垣の間を鳴渡らせてから、軈て止りました。
即ちコート、ロツヂに着したので、丈の高い給事が馬車の戸を開ける間も有らせず、下へ飛び下りました。
老侯は急に追想の夢を破られてビツクリし、

ナニ、もふ来たのか?

エー、サーお祖父さんの杖をあげますよ、
お下りなさる時僕にズツト寄つかヽつて入らつしやいよ、

御前は雑泊に、

おれは、下りはしないのだ、

フォントルロイは、さも驚いたといふ顔で、

アレ、……かあさんに逢に来ないんですか?

老侯は冷淡に、

イヤ、御免を蒙るのだ、 貴様行つて、新らしい小馬の見たさも、逢たさには代へられなかつたといふが好かろう、

かあさん、失望しますよ、
キツトお祖父さんに逢たがつて居升もの、

ナニ、そうでもあるまい、
帰りに又迎によるぞ、これ!
タマス、ヂェツフリーズに、モウ参れといへ、

タマスは馬車の戸を閉ぢ升た。
フォントルロイはまだ不審顔をして居ましたが、軈て家へ行く馬車道を駈け出しました。
此時、御前はハヴィシヤム氏が前に一度見たことがある、走て、殆ど地に着かぬ程速かで、屈強な双の足を眺める折を得られ升た。
其足の主は一分時も暇を惜しむ者であつたことが明白でした。
馬車は徐かに進行いたし升たが、御前は、暫らく、後ろへ馮らずに外を眺めて居られました。
植込の間から家の戸が見え升たが、其中、戸をズツト押開けるものがある。
こちらからは少さな人が一飛びに階段を上る、モ一人、是も柔かな、若そうな、黒の着物の人が、走り出して来ると見る中に、双方から飛んで来て、一所になつた様に、フォントルロイは母の腕に縋り、頭を抱て、其可憐な、若\/しい顔を処えらまず、キスのしつゞけをいたしました。(以上、『女学雑誌』第二七八号)


小公子。       若松しづ子

   第八回  (甲)

此次の日曜に、モドント氏の説教を聞ふとて、集ふた聴衆は平常よりも、余程、多数で、モドント氏は、礼拝堂に嘗て是程に群集したことの有つたのを、殆んど、記臆されなかつた位で、平常、教師の説教を聞に来たことの無い者まで、此日には席に臨んで居り升た。
それのみか、モドント氏の受持でない、隣村からまで、人が見えた程でした。
其群集中には、気の好さそうな、日に焼けた百姓もあれば、頼母しそうな、ドツシリして、頬の色の好ひ、おかみさんも居つて、何れも、けふを晴れと、仕まい置の衣裳を着て居り升た。
そうして、一家内に付て、平均、六人位は子供を連れて来てゐました。
お医者夫婦も来れば、仕立屋も来る、代診も来れば、薬種屋の丁稚も来る、少くとも一家族から一人はどうしても、見えた様でした。
前の一週の間といふものは、此領内にフォントルロイの評判のない処はない位で、殊に彼の城下の荒物屋のおかみさんの処へ、針を一本か、さなだ紐を一尺位買に来ては、其の話しを聞たがるので、店の戸につけてある鈴は、往来の烈しさに、殆ど、振り切れる様でした。
此おかみさんは、若様のお部屋はどふいふ飾り付がしてあるといふこと、新しく買つた結構なおもちやの直段がいくら\/といふこと、美事な、栗毛の小馬と、夫相応に形の少さい馬丁まで揃へて備へてあるといふ事、又其外に、銀製の馬具が着いた、少さな馬車も拵らへてあるといふことまで、一々委細に承知してゐて、若様の御到着の当夜、下部どもが一目見た処で、若様のことを、何と申したといふこと、又お婢たちは、あの可愛いヽお子を、おつかさまの手から離すとは、余り、むごたらしいことだと、一同気の毒がつたといふこと、又自分が本当に尤だと思ふといふこと、そうして、其お子がお祖父様が入つしやる書斎へ、タツタ、一人で遣られた時は、みんなが、冷\/した、なぜといへば、侯爵様がどんな取扱ひ様をなさるかしれぬ、平生から、子供はさて置いて、自分たちの様な、随分好い年をした者でさへも、こらへ切れぬほどひどい癇だから、といつて居といふことを一々聞伝へたまヽ、人毎に話して聞かせ升た。
荒物屋さんが二人来てゐた中、一人のおかみさんに向ひ、

一寸、ヂェンスのおかみさん、タマスどんがそういひ升たよ、
可愛そうに、あのお子は、何にも知ないで、御前を見て、ニコ\/して、生れ落た時から、心安くした人かなんぞの様に、御前にヅン\/お話をしたので、御前の方が却つて後れが来て、眉毛の下から、ヂツト、見詰めたまんまで、たゞ、其話を聞てお出でしたと、

といつて、忙がしそうに、又一人に向ひ、

それからネ、お聞なさいよ、ベーツのおかみさん、
タマスどんが、御前は心の底では、悦んで、自慢して入つした様だつた、
それも、尤だ、
今時の子供の様でこそないが、器量といひ、行儀といひ、あんな子、見たことがないからつていひ升たよ。

それから又、ヒツギンスの話も出たのでした、
モドントさんが家へ帰つて、食事の時に、家族の者に話して居た処を、小遣が聞て居て、台処で話すと、それから其噂が、野火ほど足速に四方へ広がり升た。
それから、市日になると、ヒツギンスが町へ出て来たので、四方、八方から、其事柄を尋ねる。
それから、どふいふ始末で有つたと質問されるので、ニユーウィツクも、二三人の人たちに、フォントルロイ殿の名の記してある手紙を出して見せ升た。
そこで、百姓どもは、渋茶を呑により合時も、買物に出掛る時分に、話をする種が沢山出来て、思ふ存分余す処なく、聞ては伝へ、聞ては伝へしたので、間もなく、其評判が領分一杯になり升た。
さて待まふけた日曜になれば、此女たちはいち早く、教会へ歩いて行くか、さもなければ、夫に勧めて、小馬車を駆て貰ひ升た。
又夫とても、追ては、大殿の跡を継いで、地主にならうといふ若君がどの様な人物かと、見度と思ふ心がなくも有ませんかつた。
侯爵は平常、教会へ出席なさるるなどは、極く稀でしたが、併し此時は殊更、フォントルロイを伴つて、ドリンコート家の定まつた席へお臨みになり升た。
此朝に限つて、人々は会堂へ直ぐ這入らず、会堂の裏や、通道にも、物待顔にブラ\/して居る者が大勢有升た、門にも、入口にも、あちらにも、こちらにも、一塊りづヽ、人が集つて居升て、大殿が御出席にならうか、なるまいかと頻りに評議して居升た。
其評議が最も熾んになつた時分、何か俄かに声をたてヽ、かう云つた女が有升た、

アレ\/、あれはキツトおつかさまだろうよ、
マア若くつて、器量の好いこと!

こふ聞た者は、誰も彼も一時に、振向いて、こちらへ歩いて来る、黒づくめの服装をした、柔和な姿に眼をつけ升た。
喪服についた顔蔽は、ズツト後へ跳て有て、眼鼻だちの美やかで、尋常な処も、小供のほど柔かで、艶かな髪が、黒い質素な帽子の下から見えて居升た。
エロル夫人は辺に集つて居る人々には気も付ず、頻にセドリツクのこと、セドリツクが自分に逢に来た時のことをおもふて、新しひ小馬を貰たのを嬉がり、ツイ其前日これ見てといはぬ斗の顔付をして、さも悦ばしそうに、戸口まで乗て来た時、鞍着も大層チヤンとして立派で有たことなど、考へ\/、歩いて来升たが、人々が自分に眼をつけて居て、自分が通ると見て、何やら、人気がさわだつて来る様なのに、フト気がつき升た。
最初、其事に気がついたのは、華美な上着を着た老母が、頻に自分に辞儀をした時で、それから又、モウ一人も顔を下て、「奥様の為に幾久く御幸福を祈り升」と祝てくれ升た。
それからといふものは、自分が通のを見て誰も彼も皆帽子を脱で礼をし升た。
暫時、何故かと、訳が分りませんかつたが、フォントルロイの母だといふ処で、敬礼を表して呉るのと心づいては、少し恥しく、顔の赤らむのを覚へツヽ、ニツコリ笑つて、自分も辞儀をし、祝つて呉れた老母に「有りがたう」と優しひ声で答へ升た。
是まで雑踏を極めた米国の都会に人知れず住んで居つたものが、この通り質朴に真心から礼儀を表されたは、大層物珍らしく、始めは少し間がわるい様でしたが、到底、人情の温かな処に感心して、自から其風俗をも好む様になり升た。
夫人が石造の入口を通つて、会堂へ這入るや杏、人々が待ち設けたに違わず、勇ましい馬や、揃の服の付添ひを従へた、お城の馬車が轟々の音を先にたてつヽ、角を曲り、緑りの生垣の間を通つて来ました、立並らんでゐる人々はロ々に、

ソラー、来たぞ!

といふ中に、はや、馬車は止つて、タマスは先づ馬車を下り、戸を開けると、黒天鳶鵞の服を着た少さな男の児が、フツサリして、キラ\/して居る髪を後ろへ波打せて、先に飛び下り升た。
スハと男も女も、小供も一同に瞳を据へて見て居升と、フオントルロイの父を見知つて居た者は申し合せた様に、

イヤ、カプテンを其まヽだ、
カプテンに丸で、生写しだ!。

といつて居升た。
フォントルロイは、タマスが殿を助けて馬車からお下ろし申す側らに、親しい大事な人の為に、さも気遣わしいといふ様子をして、ワザ\/日向に立つて居升た。
そうして、自分が役に立つ時分と思ふと、直ぐ、手を出し、肩を進めた処は、六尺の男子に凝して居り升た。
ソコデ見て居る人々は、他の者は兎も角、孫どの丈にはトリンコート侯爵も恐ろしがられて入つしやらないことを始めて悟り升た。
其孫どのは、こふいつて居升た、

お祖父さん、僕にヅツト、寄りかヽつて入つしやいよ、
みんながお祖父さんを見て、どうも嬉しがつてることネ、
そうして、誰でもお祖父さんを知つてる様だことネ!、

侯爵は、

フォントルロイ、貴様帽子を脱がないか、
貴様に辞儀をして居るではないか!、

ナニ、僕にですか、

と、フォントルロイは急いで、帽子を脱ぎ、パツチリした眼で不審そうに群集した人々の方を【目永】めて、一どきに、みんなに礼をしようとして、あせつて居升た。
前に夫人に物をいつた、よく頭を下げる、華美な上着を着た老母は又、

若様に神様の御祝福を祈り上升、
幾久しく、お栄へ遊ばせ

といひ升と、フォントルロイは、

おばあさん、有難とうよ!

と答へて、それから直ぐ礼拝堂へ這入つてからも、両側に人の居並らんだ間を通つて、褥や、掛け幕の立派に備へてある定席に着くまで、人の眼印るしになつて居升た、(以上、『女学雑誌』第二七九号)



小公子。       若松しづ子

   第八回  (乙)

さて、フォントルロイが、とう\/席に着升てから見たことで、二ッ嬉しいことが有升た。
一ッは、会堂の向ふの方で、自分の見て居られる処に母さんが坐つて入つして、自分を見て、ニツコリして下すつたこと。
モ一ッは、自分たちの腰かけてゐた、長椅子の奥の方の壁に、面白そうな石の彫物が有たことでした。
これは、二人の異様な人が、向き合つて、脆いて居る姿でした。
二人の間には、石造の経本を二ッ載せた、丸柱様の物が有つて両人とも祈念に凝つて居る処と見えて、双の手を合せて居升。
服装は余程古代の物らしく、下の碑に、書てある字を漸くに拾ひ読いたし升と、「第一世、ドリンコート侯爵、グレゴレ、アルサ并に夫人、アリソン、ヒルデガードの墳墓といふことが記して有升た、古文の事故、綴字は、今と多少、趣きが変つてゐて、たとへば、今、iを遣ふ処にyの遣つてあるのはhis,wifeなどがhys,wyfeと書いてある類で、又字の終りに、益にもたヽぬと見えるeの文字が付してあるのは、body,Earlとあるべきをbodye,Earleと書いてある類でした。
フォントルロイは、不審が晴たくて、堪らぬ様で、とう\/思切つて、老侯の耳に口をよせて、

お祖父さん、ソツト耳こすりしても好いですか?

何んだ?

アノ、此人たちは誰なんです?

あれか?
あれは貴様の御先祖で、幾百年も昔しの人なんだ。

フォントルロイは、今度は、勿体なさそうに、眺めて、

そうですか?
それじや、僕の綴字は、此人たちに似たのかも知れません、ネイ。

それからは、礼拝式の書物を開き升たが、音楽が始まり升と、起立して、ニコ\/しながら、母の方を眺めて居り升た。
フォントルロイは、唱歌が大好で、母と一処に、度\/歌つたことが有つたのでしたから、讃美の歌が一斉の時は、自分も人と同じ様に、歌ふて居り升たが、其声の清く、可愛いく、高い処は、宛がら鳥の歌ふ様に、冴渡つて居り升た。
自分も、其歌の楽しさに、己を忘れて居り升たが、侯爵さまも、掛幕の深みに居寄つたまヽ、孫に見惚れて、自分を忘れて居られ升た。
セドリツクは、手に、大きな讃美歌の本を持つて、勢一杯に歌ふて居り升たが、悦こばしげに少しく、顔を擡げた処へ、一條の光線がコツソリ、映じ入り升て、染玻璃の金色の者を斜に横切てフサ\/と幼な顔へ垂れかヽつた髪をきらめかせ升た。
此趣きを向ふから間視見た母は、愛情に迫て、身が震へる心地で、同時にいとも切なる、祈念を献げ升た。
それは、幼子の純潔、単一なる心の幸福が何卒、永遠に続く様にといふことと、不思議にも出逢ふた幸運が、人にも我にも禍を来さぬ様にといふことでした。
いとゞ優い母の心を、此頃又千々に砕く事許り有升た。
其前の夜も、我子を抱きしめて、暇を告げてゐながら、

アヽ、セデーや、セデーや、
わたしはおまへの為許りにでも、どふぞして発明になつて、色\/為になることが云て聞せて遣り度と思ふよ!
ダガネ、おまへ、心掛を好くし、正しい道を守り、いつも深切と信実とを尽しさへすれば、それで好ので、さうさへすれば、一生、人の害になることは決してなく、多く人を助けるといふ立派なことも出来るのだよ、
このかあさんの少い子が、生れた為に、広い世界の人が、いくらか、善なるかも知れないのだよ、
それでね、セデーや、
モー、それに越したことはないのだよ、
一人の人間が世に出て、其人の為に、世の中の人の少しでも、ほんの\/少し斗りでも善良くなつたといふのが、何より、かより、結構なものだよ。

謹んで教を承つたフォントルロイが、お城へ帰てから、お祖父様に其通をいつてお聞かせ申し、其上句に、こふ云ひ升た。

それからネ、かあさんが、そういつた時、僕、お祖父さんのこと考へたんですよ、
ダカラ、僕、云つたんです、
なんでも、お祖父さんが世の中へ入つしたんで、よつぽど、人がよくなつたにちがひないつて、
それから、僕も其真似をする積りだつて。

御前は、少し安からぬといふ様な面もちで、

そこで、お袋が、なんと答へた?

それは結構なこつたから、なんでも、人の好い処を探し出して一処懸命で、それに做はなくつちやいけないつて、いひ升たよ。

此の時、老侯は、赤幕の垂れ間から、眼光を放ちながら、前の事柄を考へて入つしたのかも知れません。
老侯は、多くの聴衆の頭を越へて、向ふに、我子の嫁が独り坐つて居つた方へ眼を放つて、勘当受けたまヽ没した人の愛した、美しい器量と、今、自分の側に坐つて居た、子供に好くも似た、眼付とに、気を留めて居られ升たが、心の中は矢張り、執念く、頭固で有つたか、或は少しは柔らいで居つたか、其辺は甚だ知り悪いことでした。
老侯の一行が会堂を出られると、礼拝式に預つた者の中で、多くお通りを待て、立つて居り升た。
門に近づいた頃に、手に帽子を持つて、立つて居る人が、一歩前へ進んで、尚躊躇して居り升た。
此人は、壮年過ぎた、百性らしい者で、浮世の苦労に面痩して居升た。
侯爵は、

早くも、どふだ、ヒツギンス?、

フォントルロイは、急に振り向いて、彼を見升た。
そうして、

アヽヽ此人がミストル、ヒツギンスですか?、

侯爵は、冷淡な調子で、

そうだ、大方、新しい地主様のお目通に出て来たのだろう。

ヒツギンスは、日に焼た顔を、赤らめつヽ、

御前、其通りで御ぜい升、
ニユークィツク様のお言葉に、若様が、此下郎のことをとりなして下さつした、といふことで、御ぜい升たから、御免の蒙つて、一度、御礼を申たいと存じて、ヘイ‥‥‥

思掛けなく、自分の大難を救つて呉れた者が、この通り誠に幼い子で、運に拙ない自分の子供と違つたこともなく、威張る処などは、少しも観へず、あどけない顔をして、自分を見て居られる様子に、少し驚ろいて、

フォントルロイに向ひ、若様、誠に、お礼の申様も御ぜいません、
誠に、有難う存じます、
アノ‥‥‥

フォントルロイは、其言葉を遮り、

ナニ、僕は、たゞ手紙を書いた斗ですよ、
それを為すつたのは、お祖父さまです、
ダケレド、お祖父さまは、いつでもなんですものネ、
誰にだつて、好いんだもの、
細君はモウ好くなり升たか?

ヒツギンスは、少し気後れがした様子でした。
此人も亦、大殿が美徳を積んだ、慈善的の人物の如くに称へられるのを聞いて、多少驚ろき升た。
いま答をしよふとして、少し訥りながら、

アノ、ナニ‥‥‥若様其通りで御ぜい升、
かヽも心配がなくなつて、大きに宜しくなり升た、
病よりも苦労の方で、弱つて居たもんで‥‥‥へイ。

それは、好かつたこと、
僕のお祖父さまも、あなたの子供が、腸チブスだつて、大変気の毒がつて、僕も気の毒でしたよ、
お祖父様も、子供が有つたんですからネ、
僕はお祖父さまの子の又子ですよ、
知つてませうネ?

こふ聞いて、ヒツギンスは、たまげて倒れそうになり升た。
併し、気を利かせて、侯爵さまのお顔をなる丈、見ない様にして居升た。
侯爵さまの、親子の間がらの疏いことは、年に二度位しか息子供にお会ひなさらぬ程で、又其折も、ヒヨツト子供の病気といふ様なことが有れば、医師や、看護人がうるさいとて、早速、ロンドンへお立退きになつて仕まい升たほど故、此事を知るヒツギンスは、気の毒さに堪へませんでした。
果して、侯爵は、其通で、他人が腸チブスを患ふのを、意に介することなどがあるかの様に云て、間が悪く例の太い眉の下から鋭い眼光が輝いて居升た。
侯爵は見事に、渋い笑顔を見て、

ヒツギンス、此通り、貴様だちはおれの人物を誤まつて居たんだ、
フォントルロイ丈は、おれを本当に見て居のだからおれの性質等に付て、確実な所が知りたくば、こヽへ来て尋問するが好いぞ、
サア、フオントルロイ、馬車へ乗れ。

フオントルロイは速ぐと、飛び込み升た。
そして、馬車は縁の生垣をゴロ\/と轟かせ、走り升たが、大道に出る所の角を屈つてからも、老侯の、渋そうな笑顔は、まだ失せませんかつた。
(以上、『女学雑誌』第二八〇号)


小公子。   若松しづ子
    第 九 回(甲)

日を経るに随がつて、ドリンコート城主は、彼渋そうな笑ひ顔をなさる折が幾度も有升た。
そして、孫息子と追々親まれる程、其笑顔をなさるのが度々になるので、遂には、其渋そうなのが殆んど失た時も有升た。
フォントルロイ殿が現はれ出る前には、老侯は己の淋しさと、酒風症と、七十才といふ齢とにいとゞ惓みはてヽ居られたことは疑ふ可くも有ませんかつた。
一生、歓楽と放逸を尽したるものが、壮麗を極めた坐敷の中に、片足を足台に支へながら、一人坐つて居て、癇癪を起し、ヲヂ\/して居る給事どもに怒鳴りつけるより外心遣りがないといふのでは、余り面白くは有ませんかつたでせう。
老侯は流石、愚かでない丈に、僕婢どもが自分を見ることさへ厭がるほど嫌つて居といふことを、能く知つて居られました。
又人によつては、物好に老侯の誰にも(甚+斗)酌のない刺衝的な、鋭どい物言を面白がる者も有升たが、大概、来客といへば、自分を愛して来るのでないといふことをも承知して居られ升た。
壮健で有つた間だは真の楽みは得られぬながら、人には遊興と見せて、此処、彼処と見物して歩かれ升たが、体に病を覚へ始めてからは、何事も懶くなつて、持病と、新聞紙と、書物とを合手に、ドリンコート城へ閉ぢ篭られる様になり升た。
併し読物するにも際限があり、段々物事がうるさく、厭になつて来升た。
昼夜のいかにも長々敷のに厭み果て我慢はます\/募り、癇癪はいよ\/烈敷なる斗りでした。
こふいふ処へ、フォントルロイが来たので、侯爵は一眼見る、直と気に入ました。
一体、高慢気のある老人に、かく非常に気に入たと云のは、此息子の為に何よりの幸福でした。
若しセドリツクの容色が醜かつた者ならば、他の事には其まヽで有ても、一途に嫌つてしまつて、其美質などは、一向心にお留にならなかつたかも計られません。
併し、老侯は、セドリツクを見るに付け、容姿の美しく精神の奇抜な所が、ドリンコートの血統と格式とにとつて殊更面目と思はれ、至極満足されたのでした。
それから又、子供の話す処を聞くと、自分の新たに得た格式の弁別などは一切ない様でも、心に持た品は又格別で、其あどけなさが却つて、可愛いく、これまで懶うく計り見へた世の中が、どふやら面白くも思われて来升た。
ヒツギンスの難を救ふことにさへ、態と子供に其権を与へたのは又一つの興味でした。
御前はヒツギンスの貧困な有り様に対して、惻隠の心をお発しなされたのではさら\/なく、こふいふことで孫息子が小民どもに評判され、子供の中から小作人どもの人望を得るで有うということが、一寸其お気に叶つたのでした。
それに又、セドリツクと同車で、礼拝堂へ行れた時分に、待設けた人々の騒と心入れを見て、一層満足に思われ升た。
老侯は群集の人々が、定めて、子供の容色のことから身体の倔強なこと、厳然とした風采のこと、目鼻立の尋常なこと、頭髪の美事なことなどに付て評し合であらふと想ふて居られましたが、果してある女が小声で「ほんとうに、頭から足の先まで、どつからどこまで、華族さまだ」と言ふのを小耳に挿まれました。
此ドリンコート城主は全体、傲慢な老人で、門閥や、格式が容易ならぬ誇の種でしたから、弥よドリンコート家に其尊厳なる爵位にふさわしい世継が出来たのを、世に公にするのが非常に愈快なのでした。
新らしい小馬を試した朝などは、老侯は殆ど持病の煩悶を忘れるほど悦こばれ升た。
馬丁が其美事な駿馬を旭の映す庭先へ引出し升たが馬は、艶々した栗色の頚を弓形にし、美しい頭を擡て居升た、老侯は書斎の窓の開た処へ坐て、フォントルロイが始ての馬術の稽古を、御覧じて入しやい升た。
子供が始て馬乗の稽古をする時分には、こわがるのが常でしたから、フォントルロイも卑怯な気質を見せるかと危んで居れ升た。
然るにフォントルロイは、大悦て、是に跨り抑も馬に乗つたは是が始めてゞしたから、大層熾な威勢でした。
馬丁のウヰルキンスは、馬の轡を採て書斎の窓の前を、幾度となく徃帰し升た。
稽古も終つて、厩に帰り升た時、ウィルキンスが、ニコ\/しながら、人にこふいつて話し升た、

中々威勢の好い奴よ、
ムー、子供だつて、あんなのヲ、乗せるなあ、わきやないわ、
成人だつて始めてなヽあ、鞍付なんかあんなもんよ、
奴がこふ云ふんだ、
ナアおれに、「ウィルキンスや、僕、これで真直ぐかへ、アノ、馬駆じや、みんな真直ぐに、シヤンと乗つてるからネ」つて云ふのよ、
それから、おれが、「若様、真直ですよ、矢の様に真直ぐに乗つて入つしやる」つていつて遣つたら、えらく、嬉しがつてナ、笑ひながら、「そうかい若し真直ぐでなかつたら、そういつておくれよ、ウィルキンス」ていふのよ。

併し、鞍の上で真直ぐだといふことと、手綱を採られて、あちらこちらと歩かせられる許りでは、もはや満足の出来ない様になつて、窓から眺めてゐるお祖父さんにこふ云ひ升た、

お祖父さんこんど一人で乗つちや、いけませんか?
そうして、モ少し早く歩かせても好ですか?、
 アノ五丁目の児は、トツ\/\/\/つと楽乗をしたり、それから、又ほんとうに駈させたりし升たもの。

貴様、モウさう出来ると思ふのか?。

僕、やつて見度んです。

御前は、ウィルキンスに、手真似で、何かお云ひ付なさると、ウィルキンスは心得て、自分の馬を引出し、是に乗つて、フオントルロイの小馬の手綱を持ち升た、
老侯は、

サア、楽乗を一ツ遣つて見い!。

これから、暫らくの間は、此小さい馬乗も一処懸命でした。
楽乗をするのは、たゞ静かに歩かせるとは違つて、中\/容易くは有ませんかつた。
そして、馬の足が早くなれば、早くなるほど、段々と六敷なつて来升た。
息を切\/ウィルキンスに、

ず‥‥‥ずい分‥‥‥ゆ‥‥‥ゆれることネイ、
そ‥‥‥そうじやないかへ?
お‥‥‥おまへはゆ‥‥‥ゆれやしないかへ?、

といひ升と、ウィルキンスが、

若様、ナニ直つき慣れつちまい升よ、
鐙へ足をシツカリ掛けて、チヤントしてゐて御覧なさい。

僕始、‥‥‥始終、そ‥‥‥そうやつてるんだよ。

フオントルロイは、ゆすぶられたり、上られたり、落されたりしながら余り、心地好さそうでもなく、もまれてゐ升た。
息は切れ、顔は赤くなり升たが、一処懸命に携まつて、なる丈、シヤンとする様にして居升た。
老侯は、遥か向ふから、其様子を実見して居られ升たが、両人の馬乗りが暫時、木隠れに見えなくなつて、そして又、声の達しる程間近へ帰つて来升た時、フォントルロイの帽子は無くなつて居て、頬は罌栗の花の様に真赤で、唇をキツト結んで居升たが、まだ元気よく、楽乗をつゞけて居升た。
お祖父さんは、

一寸、待て、貴様は帽子をどふした?

ウィルキンスは、自分の帽子に手をつけて、礼を表し、面白そうに、

先程落ましたが、手前が拾ひ挙げる暇もない程で、御座り升た、

老侯は冷淡に、

余りこわがる方ではない様だな、どふだ?。

御前、どふいたし升て、そんなこたあちつとも御存じない様です、
手前も、これまで随分若様方に馬乗のお稽古を申したことが有升が、此若様みた様にきつくつて、一処懸命なあ始めてです、

侯爵は、フォントルロイに向ひ、

どうだ、くたびれたか?、
モウ降り度か?。

若様は快濶に、有のまヽを、

アノ、中々思つたよりか、ゆすぶれるんです、
そうして、ちつとはくたびれるけど、まだ降り度くはないの、
僕、早くおぼへ度んですもの、
僕、息の切れるのが直ると、あの帽子を拾ひに行つて来升よ。

たとひ世に如才ないといふ如才ない人が、フォントルロイの挙動に抜目なく眼をつけて居られた老侯の気に入る様にと、フォントルロイに入智慧をした処が、迚もこふ甘く成効する策を授ることは出来なかつたでせう。
小馬が、再び早足に並木の方へ曲つて行升た時、猛しい老侯のお顔は、薄すら、赤なり、フツソリした眉の下の両眼は、世を味気なく観じた御前が復も心に覚やうとも思さなかつた愈快の為に、さえ\゛/として居升た。
扨、今か\/と待々れた蹄の音が、再び聞て、両人の顔が現れ升た時には、馬は前よりか余程足を早めて居升た。
フォントルロイは帽子を脱で居て、ウィルキンスが之を手に持て居升た。
其双の頬は、前よりも紅に、其頭髪は耳の辺に飛散て居升たが、馬を勢よく走らせて来升た。
手綱を扣へて、馬を下やうといふ時、フオントルロイはまだ、息を切つて、

ソラー僕とう\/駆させて来たでせう、
僕、アノ五丁目の児の様に、甘くはないけど、駆させたことはかけさせて、そうして、僕、おつこちやしなかつたもの。

(以上、『女学雑誌』第二八一号)


小公子    若松しつ子
   第 九 回(乙)
此後、フォントルロイは、ウィルキンスと極く仲が好くなり升て、大道や青葉の繁る小道を二人して、乗廻るのを、田舎の人が見ない日は一日もない位でした。
田舎屋の子供たちは、凛然若殿が、立派な小馬に、居住ひ正しく乗て入つしやる処を見よふとして、外面へかけ出せば、其若殿が、帽子を脱で振りながら、「イヤー、お早うー」と一々挨拶をなさる処は、殿様らしくはなくとも、優いお心は充分現はれて居升た。
時としては、馬を止て、子供たちと話を成い升たが、或日、ウィルキンスが、お城へ帰つての話に、フォントルロイ殿が、跛で、疲れて居た児を自分の馬に乗せて、家へ帰らせるとて、止めるのを聞かずに或る村内の学校の辺で、馬を下りたそうでした。
ウィルキンス、が厩で、其話しをしてこふいひ升た、

マア、なんちつたつて聞ねへのよ、
「ジヤア、わたくしが下りませう」つていつたら、「大きな馬じや、あの児が乗心が悪るいだろう」だとさ、
それから仕方がねへもんだから、其児が乗ちまうとナ、若どの、両方の手をポツケツトへ入れて、帽子を後ろの方へ滑らかして、平気でロ笛を吹たり、其児に話しかけたりして、傍を歩て行くじやないか、
それから、とふ\/其児の家まで来たア、
スルト、お袋が何がおつぱじまつたかと思つて、出て来る、
処で、どうだろう、若どの、帽子を脱いでナ、「おばさん、おばさんの子が足が痛いつて云つたから、連れて帰つて来升たよ、あの棒斗りじや、歩き悪いだろうから、僕のお祖父さまに頼んで、寄り掛りの付いた両杖を拵へさせて上よう」だとよ、
其調子ダモノ、其お袋だつて肝を消つちまわうじやないか、
尤もだあナ、ダガ、おらア、モウちつとで、吹出しつちまう処よ。

侯爵は此話しを聞かれて、ウィルキンスが気遣つたとは違つて、少しも怒られず、却つて、大笑に笑はれて、フォントルロイを態々呼んで、自分の口から一分始終を話させて置いて又お笑ひなさい升た、これから現に数日たつてから、ドリンコート城のお馬車が、此跛の児の住居のある小道に止り升た。
スルト、フォントルロイが中から飛び出して、丈夫で軽そうな新しい両杖を、鉄砲を担ぐ様に肩へ掛けて、戸の処まで行き、お袋に渡しながら。

お祖父さまが宜しくつて仰つて、そして、これをあの児に遣つて下さいつて、どふぞよくなれば好いつて、お祖父様も僕も思つてるんですよ、

馬車へ帰つてから、侯爵に向つて、

アノ、お祖父さん、そうおつしやらなかつたけど、お忘れなさつたんだと思つて、宜しくつてそういひ升たよ、
それで好いですか、エ?
好いでせう?

侯爵は又お笑ひなさつて、それは悪かつたとは仰られませんかつた。
実際、此祖孫の間は、一日増に親密になり行き、フォントルロイが御前の慈善と美徳とを信任することもいよ\/深くなり升た。
フォントルロイはお祖父様が最も気立の優しい、慈悲の深い老紳士だといふことは露ほども疑ひませんかつた。
中にも自分の望などは殆ど口へ出か、出ないに、モウ叶へられ升た、そうして上が上に与られた賜ものや備置れた、楽しみが余り夥しいので、時としては自分の所有品ながら、眼移りがする位でした。
凡よそ欲しひと思ふものは何でも調へられぬ物とてはなく、して見たいといふことにしてならぬことはない様でしたが、固より年の行かぬ子供を躾るに、こふいふ法方では決して好結果の有ろう筈が有ません。
たゞフオントルロイ丈は、不思議にも其の弊害を免かれ升た。
尤も、此子供の率直な性質も、左様な取扱ひでは、或は変じて、多少、我侭な風になつたかも知れませんが、コート、ロツヂに住へる、用心深く、優しい母、則はち、フオントルロイの最も仲の好い友が、始終側から注意しましたので、終に其害を蒙りませんかつた。
此の二人は逢ふ毎にいつも、山々の話しをいたし升て、母に暇を告て、別れる毎に、何かしら、心得になる様な分り易い、教訓の言葉を耳にとめて城へ帰らぬことは有りませんかつた。
一つ子供心に甚だ思ひ迷ふたことが有ました。
其不審を幾度か心の中に繰返し\/てゐた事は、誰も推量せぬ程でした。
母さへもそれほどまでに、思ひ沈む程になつてゐるのを知りませんかつたから、況して、老侯などハ久しい間、一向左様なことが有らうとも気付かれませんかつた。
然るに敏捷な此子供には、母と祖父が一度も対面したことのないのが、不思議に思はれてたまりませんかつた。
どうも顔を合せたことはない様子‥‥‥イヤ実際、一度の対面も無いに相違有ませんかつた。
ドリンコート城の馬車が、コート、ロツヂへ行升た時も、老侯は決して馬車をお下りなさつたことがなく、又時たま、老侯が礼拝堂へ御出席の時も、フオントルロイ一人丈残されて、母と戸口で、もの云ふか、さもなければ、家まで送ることをゆるされ升た。
そうかと思へば、毎日お城から、コート、ロツヂへお遣ひが立つて、室から珍らしい菓物や花などを送られ升た。
併し、遂に、セドリツクが理想の頂天へ祖父様を推し挙げたことは、始めての日曜にエロル夫人が、付添もなく歩いて家へ帰られた直あとで有つたことでした。
此日セドリツクが母を訪ひに行ふとした時、戸口へ来てゐたのは、いつもの二頭引の大馬車ではなく、美事な栗毛の馬の付た、奇麗な小馬車でした。
侯爵は唐突に、

それは、貴様からお袋へ行く進物だ、
田舎廻りは迚も歩いては出来まい、
馬車は是非無ければなるまい、
そして御者になつて居る奴が世話をすることにして置いた、
ヨシカ、貴様からお袋へ遣る進物なのだぞ。

フオントルロイは、中\/悦びを述べ尽すことも出来ませんかつた。
母の住居へ来るまでヂツトして居ることが六敷位でしたが、母は折しも、庭で薔薇の花を摘んで居升た。
見ると、突然、小馬車を下りて、母の側へとんで行き、

かあさん!、 ほんとですよ、嘘だと思つちや厭、
これはネかあさんのですよ、
僕からかあさんに上るんだつて、かあさんのだから、どこへでも、乗つて歩るけるんですよ!

フオントルロイハ、余りの嬉しさに、自分が何を云つてるか、夢中なほどでした。
母は自分を讎敵の様に思ふて居る人から来た物でも、受納めることを拒んで、子供の折角の大悦びを打消すに忍びず、拠なくも、薔薇花を手に持つたまヽ、其馬車へ乗り升てあちらこちらと引廻されるに任せ升た。
母と一処に乗つてゐるフオントルロイハ、お祖父様の慈善の事と優しい事などの話しをして母に聞せ升たが、其話といふは余りあどげないので、時には少し可笑なつて思はず、笑ふ様でした。
併し全体身方の少ない老人の賞可き処許り見ることが出来るのを嬉しく思つて、我子を抱いて、ズツト側へ引付け頬の辺へキツスを致し升た。
其翌日はフオントルロイ早速、ホツブス氏へ手紙を認め升た。
其書面は殊の外長文で、一旦草稿したのをお祖父様の処へ持て来て、添削を請ひ升た、

ダツテ、綴字があんまりいけなそうですもの、
お祖父さんが見て、間違つてる処、言つて下されば、僕モ一度書直し升う。

といひ升たが、書た文面は句頭もなく、のべつゞけで、綴字や用字などの過失は、ヒツギンス一件の手紙に類して居て、其趣意は、一寸こんな塩梅でした。

一筆啓上僕祖父さまのことお話し申し度候侯爵でもあんな侯爵はないと存じ候侯爵は圧制家だと申すも間ちがひに候祖父さまは少も圧制家でなく候おぢさまおつきあひなされば仲よくなると存候キツトそうだと存候お祖父さまの足にはしゆふうせうといふものありて大変いたいものに御ざ候併し大層辛棒づよい故僕毎日だん\/好になり候勿論だれで世の中の人に深切な侯爵ならば好きにならずに居られないと存候おぢさんあつて話しヽて御覧なされば好にと存候何でも僕聞こと知つて居る様で御座候併しまだべース、ボールは見たことないそふで御座候お祖父さまは僕に小馬も車も下され母さまには奇麗な馬車下され候僕は部屋三ツとおぢさんが驚くほどたくさんおもちやあり候お城も樹園もをぢさんが好そうだと存候お城は大変大きい故をぢさんなぞでもまい子になりそうで御座候ウィルキンスが申候ウィルキンスは僕の馬丁で御座候城の縁の下に牢があると申候樹園の中は何でも奇麗故をぢさん驚くだろうと存候大きな木や鹿や兎や野鶏なぞ沢山居り候お祖父さまは大層金もちで御座候併しをぢさんが侯爵といふものはどれでも高慢で威張つて居ると仰やつたけれどお祖父さまは少しもそうでなく候僕はお祖父さまと一処に歩くのが大好で御座候人々はみんなお祖父さまに叮嚀で親切で御座候みんな帽子をとつて礼をいたし候女の人はおぢぎをして時々祝して「神様のお恵を若様の為に祈り升」と申候僕今はモウ馬に乗ること上手になり候併し始め楽乗した時ゆすぶれ候貧究の人家賃を払ふこと出来ない時にお祖父さま逐出さずに置てやりなされ候そうしてメロンさんが病気の子供にぶどう酒や色\/の物持つて行つてやりなされ候僕はおぢさんに逢度と思候そうして母様もお城に一処に居られヽば好いと思候併大変こひしい時でなければいつも幸で御座候僕はお祖父さまが好で御座候だれでもそうで御座候をぢさん手紙を下され度存候
                  旧友
   ……月‥‥‥日     エロル、セドリツク拝
愛するホッツブス様
二白牢の中には誰も居らず候お祖父さまは牢の中へ人を入れて困しめたことないそうで御座候大層好い侯爵さまでをぢさんに似て居ると思候お祖父様は大変人望が御座候

侯爵は是を読み果てヽ、

貴様は大層お袋が恋しいか?

エー、僕、いつでも恋しいんです、

と答へて、フォントルロイは侯爵に近寄つて、顔を見ながら、お膝の上へ手を載せ升た。
そして、

お祖父さんは恋しくはないんですネ

といひ升と、老侯は少し面倒なといふ調子で、

おれは知らないのだ、

僕、そうなの、知てるんですよ、
ダカラ、僕、不思議でしようがないんですよ、
かあさん、僕に何にか聞だてするんじやないつていつたから‥‥‥ダカラ聞きやしないけれど、僕、時々考へずに居られないんですよ、
ネイ、ソレデ不思議で\/仕方がなくなるんです、
ダカラ、僕、恋しくつてしようがない時は、毎晩僕につて、かあさんが灯火を点て置て呉れる処を窓から見てるんです、
大変向ふの方だけれど、かあさんが暗くなると、直ぐ窓んとこへ置いといて呉れるから、木の間から遠くの方でピカ\/\/\/してるのが見えると、アノ灯火がこふいふんだナと思つてるんです。

御前は、

それが何んと云つてるんだ?

アノネ、「セデーヤ、お休みよ、神様が今夜も、一晩中守つて居て下さるよ」つて一処に居た時、仰しやつたとおんなじことです、
夜になれば、毎晩そういつて、朝になれば、「今日も一日中神さまがお守り下さるよ」つて仰しやつたから、僕はいつでも、始終大丈夫なんですよ、ネイ、ぬ

御前は冷淡に、

ウヽン、大丈夫に違ひなかろう、

と仰つて、彼の秀でた眉をズツト下へさげ、稍久しく、ヂツト、フォントルロイを見詰めて居られ升たから、子供心に何を考へて入つしやるのかと思ひ升た。
(以上、『女学雑誌』第二八二号)


小公子     若松しづ子
   第十回(甲)
当時、ドリンコート侯爵は曽て心に思ふたことのないさま\/のことを考へられ升たが、其考といふは、何れの道、孫息子に関係して居り升た。
此老人の性質の中で、最も強い処は、其傲慢気でしたが、孫息子は一から十まで其傲慢気を満足させて居り升た、そして、此性質のある為に、世の中が急に面白くなつて来升た、第一、己れの世継たるべきものを世の人に示すが快楽の基となつたと云ふのは、世間一般、侯爵が息子たちに失望されたことを承知して居り升たから、人を失望させる気違ひのない新なるフォントルロイを公然、世の人に紹介する時、一層鼻が高く、愈快な感じが有升た。
一ツには孫息子にも己れの権勢の及ぶ処、格式の厳めしい処が心得させ度、又世間の人にも充分弁へさせ度思われて、頻に前途の計画を致され升た。
時として、心の中、密に己が過去の履歴を追想しては自分の世渡りがモ少し道にかなつて居て、純潔な子供心に一分始終を知られても、忌み憚かれることが、実際切めて少なければと、我知らず思ふ時も有升た。
現在、此お祖父さまが、ドリンコート侯のわると悪名されて居たことがあると、何かの拍子で、其子供の耳に這入ることが有つたら、其美事な、あどけない顔がどんなになるだろうと思へば、何となく、快く有りませんかつた。
此事を考へると、どふやら、薄気味わるい様になつて来て、何はさて置き、子供に其事を知らせない様にと決心し升た。
時としては此新たな屈托が出来た為に、持病さへも忘れることが有つて、暫らくする中に、体の具合も余程よくなつて来て、出入の医者さへ、意外のこととて、驚く位でした。
侯爵の御気分の快方に向れたのは、近頃に体屈なさることが少く、他に考へることが出来て、自然苦痛を紛らしたからの故でせう。
ある朝、人々がフォントルロイ殿が例の通り、馬でおでましの処を見ると、同伴はいつものウィルキンスでないのを見て、殊の外。驚ろき升た。
此新たな同伴者はねづみ毛の立派な大馬にまたがつた、紛ひもない、侯爵どのでした。
実は此事を思ひ立つたのはフォントルロイで、ある時、自分が馬に乗らうとして、お祖父様に向ひ、少し残念さうに、

僕、お祖父さんも一処に入つしやるんだと好けどネイ、
僕、あつちへ行つちまへば、お祖父さんは独りで、此大きいお城に入つしやるんだもの、
僕、そのこと考へると、自分も淋しくなつちまいますよ、
ダカラお祖父さんも馬に乗れると好ことネイ、

それから急に、御乗馬のスィーリムをば、殿がお召しに付て、仕度をするのだといふ下指が出たので、厩などでは大騒動でした。
この後といふものは、スィーリムに鞍を着くことが毎日の様で、そうして人々は、形の少さいフォントルロイを乗せた小馬の側に、丈高く立派ながら、猛しく、鷲の様な容貌の、白髪老人を乗せた、大馬を見ることに慣てしまい升た。
それから、この通り二人して、青葉繁る小道や、景色の好い田舎道を乗り廻る中に、段々と親しく、隔意なくなり升て、老侯は聞ともなしに、かあさんのこと、かあさんの日々の仕業などに付てさま\゛/の話を聞れ升た。
フォントルロイが彼の大馬に尾て楽乗をして行中には、何くれとなく、調子に乗て、しやべり升た。
一体、性質が軽く、悦ばしいたちでしたから、人のお合手には持て来いといふので、話しをするのは大抵自分斗りで、殿の方は口を開かずに、たゞ嬉しそうな、さえ\/した其顔を眺めながら、話しに聞惚れて居られ升た。
時としては孫に命じて小馬に鞭をあてヽ、一走りさせ、フオントルロイが異議もなく一とび、駆出して一向に恐ける気色なく、シャント跨がつて居る様子を後ろから見て、余程鼻を高くし、機嫌が好い様でした。
かく、一走りしてのちに、フオントルロイが、笑ひ声に呼はつて、帽子を振つヽ、元の処へ帰つて来升時などには、何だか殊さら、お祖父さまと中が好い様な心持がし升た。
侯爵が早くも見出されたことは、嫁が中々怠惰な生活をしては居らないといふことでした。
到着の日から幾程も経ない中に、貧民どもがよく夫人に懐いて来たことにお目が止り升た。
どこかに病人があるとか、悲しい人があるとか、貧に迫つて居る者が有とかいへば、諦つた様に其家の戸口に夫人の馬車が止つて居升た。
フォントルロイがある時、お祖父さまに、

アノネ、お祖父さん、みんなが、かあさんを見さへすると、「神さまの御祝福を祈上升」つていひ升よ、
さうして、子供なんかは、みんな嬉しがり升よ、
それから裁縫ををそはりに、家へ来る人も有るんですよ、
かあさんはネ、大変お金持になつた様な心持がするから、貧乏な人が助け度つてしよふがないつて云ひ升たよ。

侯爵どのは、世とりの母に当る人が、若\/しくつて、器量も勝れてゐゝさうして何々侯爵の御息所と云はれて、少しも恥しからぬ品格が有るといふことを承知して、決して機嫌のわるいことは有ませんかつた。
それから又、其人が人望が多く、貧民どに敬愛せられるといふことも、一方から見て心持の悪るいことも有ませんかつた。
併し又フォントルロイが子供心に一番に慕ふて居て、誰よりも親しい人と、すがり付いて居る様子を見れば、嫉ましさと、憎くさが、一時胸を刺すことを免れませんかつた。
老人には競争者などなく、独り占に子供の愛が得度く思はれたのでした。
丁度其朝、二人馬を揃へて、乗り廻つた広野のとある小高見へ登つて、遥かに眼も及ばぬほどの所領地を鞭を振り挙て、指し示し、フォントルロイに向ひ、

貴様、この地面が一切、おれのだが、知つてるか?

サウですか 一人でそんなに持つてるつて、大変ですね、
そうして、大変、美麗だこと!

いつか、みんな貴様のものになるんだが、知つてるか?

フォントルロイは、どふやら、毒気を抜かれたといふ様子で、

アレ、僕のですか?
いつ?

おれが死ねば、直ぐだ、

ジヤ、僕、欲しかないです、
ダツテワ、お祖父さんはいつまでも、生きて入つしやる方が好いもの、

侯爵は例の冷淡な調子で、

中\/深切なことをいふな、
ダガナ、兎に角、貴様のになる時が来るは‥‥‥
貴様はいつかしら、ドリンコート城主になるのだ、

フォントルロイは暫時黙つて、静かにして居升た。
其間頻りに、広い野や、青々とした田舎美事な木立や、其間の百姓屋、城下の奇麗な所や、巍々として、年錆た、城郭の物見が樹木の向ふに見えて居る所を眺て居り升たが、軈て、妙な嘆嗅をし升た、

貴様、何を考へて居るのだ?

僕は、僕が大変小さな子だと思つて、
それから、かあさんのいつたこと、考へてたんです、

なんといつたんだ

(以上、『女学雑誌』第二八三号)


小公子      若松しづ子
   第 十 回(乙)

アノ、かあさんがネ、さういつたんです、大変金持になるのは、そう、容易ことじやなかろうつて、
自分が始終、いろんなものが沢山あれば、外の人はそんなに運が好くないつていふ事、時々忘れるだろうつて、
ダカラ、お金のある人はいつでも気を付けて、人のこと考へなくつちや、いけないつて。
僕はお祖父さんが大変、人に深切だつて話してたら、それは結構なこつたつといひ升たよ。
デモ、侯爵なんていふものは、大変な権力があるんだから、自分の楽みのこと計り介つて、領分に住つて居る人のこと考へなければ、其人たちが困つて、自分が助けられることでも、知らずにしまうだろうつて。
ダケレド、人が大変大勢居るし、随分六ケ敷こつたろうと思つてるんです。
僕、今あそこいらに沢山ある家見て、僕が侯爵になつたら、あの人たちのこと、知れる様によく尋ねなくつちやいけないつて考へてたんです。
お祖父さんは、どうして、みんなのこと知れたんです?

侯爵が小作人どもを知つて御坐るといつても、誰々が年貢を滞なく納め、誰々が納めぬといふこと丈に止まつて、納めぬ者は早速、引立るといふ都合になつて居升たから、此問には容易に答へられませんかつた。
それ故、ニユーウィツクが探報するのだ」と仰つて、白毛の八字髯を引張つて、心わるそうに、質問した小さな小供を見詰めて入つしやい升た。
それから又、「サア、モウ家へ帰ろう、そうして、貴様が侯爵になつたら、をれよりも上等のにならんじやいかんよ」、と仰しやい升た。
侯爵は帰り途にも沈黙でした。
生涯に誰をも心を尽して愛したことのないのが、今はさまでに此小息子に執着するとはと、自分ながら、不思議に思はれる様でした。
最初は先づ、セドリツクの容色の好い処と、凛然とした風采が気に入り、人に対して誇る丈でしたが、今となれば、どうやらそれ斗りでなく、外の情が雑つて居つた様でした。
よく\/考へて見れば、自分はいつでも此子を側へ引付けて置き度く、其声を聞くのが何よりの楽しみで、他愛ない子供と知りつヽも、頻りに其心が得たく、好く思はれ度のが胸に一杯でしたが、かふ思ふ度に、我と我心が可笑くなり、人知れず、彼の渋さうな微笑を傾けて居られ升た。
心の中に、「おれもよく\/年をとつて子供がへりがしてしまつたので、他に考へることがなくなつたから、必竟かふもなるのだろう」と思ふて見て、復まんざら、さうでもないと考へ直され升たが、モ一層、心に立入つて考へて見升たらば、其子供の性質の中で、一番に気に適つて、我知らず、引つけられる様な心持のするのは、自分には嘗て持つたことのない徳、即ち取繕ひなく、優しい真心のある処と、人を信じ愛して、決して其悪しきを思はぬ処だといふことが分り升たでせう。
これから丁度一週間ほど後のことでしたろう、セドリツクは、ある日、母を訪問して帰つて来て、困つて思ひ沈んだといふ顔付をして、書斎へ這入つて来升た。
始め此城へ到着した時、腰をかけた、彼脊の高い椅子に寄つて、暫らくはたゞ暖室炉の中の火を眺めて居升た。
侯爵は何事かと思ひつヽも、また物を言ずに、其顔を眺めて居られ升た。
セドリツクは何事か深く考へて居たといふ丈は明かでしたが、やがて、顔を挙て、

アノ、ニユーウヰツクは、皆んなのこと好知つてるんですか?

侯爵さまは、

さうだ、それがあれの職掌なのだ、何か怠つて居ることがあるのか?

此小息子が管轄の小民どものことに注意して、彼是労はる様なことほど、不思議に侯爵さまのお気に適ひ、又実際お為になつたことはないのでした。
自身にはさういふことに注意なされたことは少しも有りませんでしたが、セドリツクが他愛なく、幼な遊びに屈托して、余念もなさヽうに打興じて居る中に、亦かふいふ真じめな考へが、其ちゞれ頭の中に働いてゐるとは、これも亦一興と思はれたのでした。
フォントルロイは、大きく眼を見張り、恐ろしくてたまらぬといふ顔付で、

アノネ、村の向ふツの外れに大変な処があるんですと、
かあさん見て来升たと、
家なんかどふも、くつヽいてヽ、丸で倒れさうで、息がつかれない様ですと、
それから人がみんな貧乏で\/、大変ですと、
熱病なんか度々あつて、そうして子供が死ぬんですと、
それから人がそんなに貧乏で、苦んでると、段々悪い人になるんですと、
ミチェルだのブリヂェツトだのよりか、尚わるいんですと、
そうして屋根から雨がドツドツト漏るんですと、
かあさんがそこに居る貧乏なおばあさん、見舞に行つたんです、
僕、行つてたら、自分が帰つて来て、着物をみんな着替へるまで側へ来させないんですもの、
それから、その話しヽて居た時、かあさん、ポロ\/泪流してるんですもの、

フォントルロイは今此話しをしながら、自分も泪ぐんで居升たが、泪の中に又ホヽ笑んで居升た。

僕ネ、おぢいさん知つて入つしやらないんだから、行つて話して上るつて言つて来たんです、

と言ひながら、飛び下りて、侯爵さまの椅子に寄り掛り升た。
そして、

おぢいさん、みんなよく出来るのネ、アノヒツギンスのこと、よくして下すつた様にネ、
いつでも誰でものことみんな好くしておやりなさるんだもの、ダカラ、僕、かあさんにさう言つたんです、
デ、ニユーウィツクがキツトおぢいさんに話すの忘れたんだらうつて言つて来たんです。

侯爵さまは自分の膝の上に載つた手を御覧じ升た。
ニユーウィツクは実際其話しを申し上るのを忘れた訳では有りませんかつた。
今フォントルロイの話しの村外に、俗にエールス、コートといふ処の如何にも廃頽して居る有様のことを申陳ずる為に、一度ならず、足を運び升たのでした。
それ故、傾むいて、見る影もない長屋のことも、打捨てある下水溝のことも、湿気でジミ\/した壁や、窓の破れて居る所も、屋根の漏ることも、貧困極まることも、熱病のことも、一切の難渋を知り尽して居られ升た。
モドント教師は、言葉を尽して、其情況を陳じ訴へたことが有つた時に、老公は亦それに対して、乱暴極まる断言を成され升た。
そして殊に御持病の悶煩の烈しい頃には、其エールス、コートの人民どもがみんな死に絶へて、地の下へ填まつた方が結句世話なしで好いなどと放言されたことさへ有ました。
然るに今、膝の上の少さな手を見、それから、まじめで、正直で、眼に天真な処を現はした顔を眺めるに付て、どふやら其エールス、コートのこと、又自分のことが、恥かしくなつて来升た。

ナンダ?、 貴様は、おれに人の見て雛形にする様な貸家を建させようといふのか?

と言ながら、今迄になく、子供の手の上へ自分の手を載て、おもちやにして居られ升た。
フォントルロイは、大層熱心に、

今の家はみんな倒してしまはなくつちやネ、かあさんもさう言ひ升たよ、
アヽ、おぢいさん、あした、二人で行つてみんな崩させてしまいませう、ネイ?、
みんなおぢいさんが行けば、どんなに悦び升か!、
ダツテ、おぢいさんが助けに入つしたんだと思ひ升もの!

と言ひながら、話しに身が入つた故か、眼が丸で星の様に輝き升た。
侯爵は倚子を離れて、子供の肩の上に手を載せ、「ムフヽヽツ」と一声笑ひながら、

サア二人で外へ行つて廊下を散歩しよふ、
そこでスツカリ話しをつけるとしよう。

それから、天気の好い時は連れ立つていつもこヽで散歩する、例に随つて、広い石造の榔下をあちら、こちらと往来する中に、二三回もお笑ひなさい升たけれど、何か気に適はなくもないお考へをなさつてゐる様子でした。
そして、矢張り、少さな合手の肩の上へ手を載せて入つしやい升た。
(以上、『女学雑誌』第二八四号)



小公子     若松しづ子
   第十一回(甲)

フオントルロイが、老侯と共に広野の方から見ては、如何にも画に書いた様な景色と思つた小村の中へ、近く立入つて、貧民どもの有様を視察したエロル夫人は、見ること、聞くことに哀れを感じることが多く有升た。
どの様なものでも、近くで見れば、遠方で見たほど全備しては居らぬもので、此村内にも、人々が其業務に勉めば、自然、衣食住も満ち足る可きに、万事に鈍く、怠惰に陥つた結果には、貧困者が多く見当り升た。
暫くする中に、此エールボロといふ村は其近辺で最とも疲弊した評判の村といふことが分りました。
夫人は内情の困難なことと救済の道の殆んど絶へて居つたことを、モドント教師からも聞き、自分にも発明し升た。
村長を撰挙するにも、侯爵のお気に入りさうなのを撰らんだので、小民どもの貧困に堕落した有様を矯正するものは、一向に有ませんかつた。
況して軒は傾ぶき、住民は意気地なく、宛がら半病人の如き者斗り居るエールス、コートの哀れな有様は、侯爵家にとつても、外聞な程でした。
夫人が始めてこヽへ行つた時などは、実に戦栗する様でした。
場処の醜猥なことと人々の遣り放しなることと極貧のことなどは、田舎は都より又一層甚しい様に思われ升た。
ソコデ都は兎に角、田舎ではかふいふことは仕方のつけ様がある筈と思ふにつけ、罪悪の中に畜生ほど、投げやりに育つ穢らしい子供を見、壮麗な城内に王子の如くに保護られ、侍かれて、布望とて叶へられぬことはなく、富裕、安楽、美麗でないことは見聞もせぬほどの境界にある我子を思ふて居る中に、恰悧に優しい母心の中に、フト勇毅た目論見が起り升た。
さて子供にとつては大幸にも、不思議なほど侯爵のお気に入つたことは、人も見、又母にも段々分つて来升た。
さうして、子供の望む処は、何ことでも侯爵の拒み玉ふことは、殆んどないと云ことも分つて来升た。
それ故、モドント教師に、

侯爵さまは、セデーの気随な望みまでも叶へてお遣なさらぬことは御座りませんものを、そのお与へなさる自由を、他人の為に用ゐたとて、何の障りが御座りませうか、
この事は是非、手前がひとつ心配いたして見ませう。

優しい幼な心を知りぬいてゐる母は、エールス、コートの話しを篤として聞かせなば、申さずともセデーは、祖父に其話を持つて言つて伝へるは必定、さうすれば、望み通りの結果があるだらうと待つて居升た。
然るに、思つた通り、好結果の有つたことは、人々が怪しむほどでした。
侯爵を動すに預つて大に力あるものは、孫息子が自分に対する心置なき信任でした‥‥‥即ち、セドリツクが、お祖父さまは、いつも、仁義のある処をお行なさるといふことを堅く信じて居つたことでした。
侯爵さまは、自分の心には、人に対して慈善を施し度心持は一切なく、善悪などに係はらず、いつでも自分の思い通りにし度のだといふ内実を、介わず孫息子に悟れる気にはどふもなれませんかつた。
人類にとつての大恩ある人、又は総べて高尚なるもの理想の如くに崇られて居る心に得る楽しみは、格別な者故、優愛に満ちた茶勝な眼で、ヂツト見詰られながら、「おれは勝手、乱暴な不埒な者で、一生涯、人に慈善を施たことの覚もない老人、エールス、コートも、貧民も、介ふものではない」と明さまに言とも、矢張そういふと同一な結果になることを言て快しいとはどふしても思ませんかつた。
金色の愛嬌毛を房つかせて居る小息子の可愛さには、例に戻つて、たま\/は慈善的なことをしても仕方がないと断める様にもなり升た。
それ故、自分で、自分が可笑い様でしたが、少し考へたあとで、ニウーヰツクを呼びに遣わし、コートのことを長\/と談議し、必竟、彼のボロ\/長屋を取り崩して、新たなのを建築することに諦観りました。
例の淡泊な調子で、

ナニ、実はフォントルロイの建議で、是非にと主張するのだ、始終は為に好しいといつてナ、
店子どもにもフォントルロイの発議だといつて聞かせるが好かろう。

言ひながら、毛革の上に横になつて、ダガルと遊んで居る若侯を見下ろして居られ升た。
例の大犬は、此小供の始終の友達で、歩行の時は、厳然として威儀正しくて闊歩して跡に随ひ、馬や、馬車の上ならば、凛然其後ろを追ふて走り升た。
田舎の人も、町の人も、借屋改築の噂を早くも伝へ知り升て、始めはそれを事実と信ぜぬものが多くあり升た。
併し、一と揃ひの職人が来着して、踉いてゐる様な見すぼらしい借家を引倒し始め升た時に人々はまたもフォントルロイどののお蔭で、こふいふ結構なことにな頑是ない執成でエールス、コートの醜聞も消へることと漸くに分り升た。
フォントルロイは此人々が行く処に自分の噂をなし色々に賞めたて、生立の上は成し遂げるだろうといふ、大したことの預言を聞升たならば、嘸驚くことでしたろう。
併し自分はこふいふことがあらうとはサツパり知りませんかつた。
矢張り、相変らず淡泊で、気軽るな子供らしい生涯を送り升た。
樹苑に跳ね廻つたり、兎を追廻して穴へ追ひ詰たり、柴生の木影に横たわつて見たり、書斎の毛革の上へ寝て見たり、珍奇しい書物を読んで、お祖父さまにも又母へも其話しをしたり、ヂツクやホツブスに長い手紙を書いて、それ相応な返事を貰つたり、お祖父さまと一所か、又はウィルキンスを供に連れて、馬に乗つてあるいたりして居升た、
人が市に集まる町を通る時分に、人々は振り反つて見ては脱帽して礼をする時大層悦ばしさうなのに、気が付き升たが。これは全く、お祖父さまと一処だから、みんなが、悦こぶのだと思ひ升た。
一度は例のさえ\゛/した、笑ひ顔で、御前のお顔を見ながら、

どふも、みんながお祖父さま好だことネ、
お祖父さまみると、あんなに嬉しがつてゐるの御覧なさいよ、
こんだ、僕もあんなに好になつて呉れると好けどネイ、
一人なし皆んなに好がられヽば大変好でせうネ、

といつて、左程に珍重され、愛せられる人の孫だと思へば、大威張りだと考へ升た。
貸家を建て始め升た時分には、フオントルロイはお祖父さまと一処に見に行\/し升て、フォントルロイは大層熱心でした。
自分の小馬を降りて、職人と知己になりに行升て、建築のことや煉瓦の並べ方に付て、色々質問したり、米国でのことを話して聞せたりし升た。
二三度もかふいふ話しをしてから、家に帰へる道すがら、煉瓦置の秘訣を侯爵に教へることが出来る位でした。
そうして、後でこう言ひ升た。

僕はかふいふことが聞いて知つて居度んですよ、
ダツテ人はいつどんなになるか知れないつてネ。

(以上、『女学雑誌』第二八五号)


小公子     若松しづ子
    第十一回(乙)

フォントルロイが行つてしまい升と、職人たちの仲間で噂さをしては、妙なあどけない言葉を笑ひ\/し升た。
此人たちも、フォントルロイが好で、手をポツチツトの中へ入れ、帽子をチゞレ髪の下つてゐる後ろの方へ推し遣り、幼な顔を仔細らしくして、立ながらの話しを聞くことが大好でした。
さうして互に、

あんなヽアめつたにねへナア、
それにハキ\/物をいつて、心持が好ワ、
いけねへ奴等(貴族を指す)の種ダタア思へねへやうだナア。

といひ\/しましたが、それから又家へ帰つて、其話しを女房どもにして聞せる。
女房どもは亦他の女たちに話しをして聞かせるので、フォントルロイの若君がどふして、かふしての話しを、何かしら聞いて知つてゐない者はない位になり升た。
さうして、追々には、侯爵どのヽわるがとう\/可愛がるものが出来たといふこと、頑固、隠嶮な老人の心情を動かし、暖ためるものが漸くに見付かつたといふことを、誰も知らぬものヽない様になり升た。
併し其心がどの位暖まつたかといふと、此老人が生涯に始めて信用されて見て其子供に心の覊が日に\/堅く結びつけられるのを御自分でも、それ程と、分らぬ位といふことを、とくと知るものは有りませんかつた。
侯爵はセドリツクが美事成人して血気盛んな若者となり、前途の望が遥か向ふにある時分を追想して見て、今に異ならぬ優愛な心を持つて、人に望を属されたらば、どの様な手柄をたてるであらう、自分についた資力、権力をどの様に働かせるだらうかと、頻りに想像され升た。
子供が暖室炉の前へ横になつて、何か大きな書に眼をさらして、余念もない処へ、光線が映じ入つて、風情を添へてゐるのを御覧じてゐて、お眼はさゑ\゛/とし、お顔の色が、いつもになく色づくことが有ました。
さういふ時分には、心の中に、

この子ならば、何をさせても出来る、出来ないことといふはあるまい。

といつて居られ升た。
併し、セドリツクに対する自分の情愛のことなどに付ては、口へ出して何とも人に仰つたことは有ませんかつた。
何かの拍子で、人にセドリツクのことをいふことが有れば、態と例の渋さうなホヽ笑みを見せて居られ升た。
然るに、フォントルロイはお祖父さまが自分を愛して下さつて、いつも、側に居るのをお好みなさるといふこと、例へば、書斎に居れば、お祖父さまのお席近く、食卓に着てならば、お祖父さまのまん向ふに、馬や、馬車に乗るとか、手広い物見で晩景、逍遥するとかの時には、お側近くゐるのがお好きといふことを直きに知る様になり升た。
ある時、セドリツクが彼の毛革に横になりながら、見て居た書物から眼を挙げて、

お祖父さん、僕が来た始めての晩、二人仲が好くなきやアつて、いつたの覚へて入つしやるの?
お祖父さんと僕ほど仲の好い人はどこへ行たつて有りやアしませんわネ、

サウサ、随分仲の好い方だらうな、
一寸、こヽへ来い。

フォントルロイは掻たくる様に側へ寄升た。
スルト侯爵様が、

貴様、まだ何か不足があるか、ないもので、欲しいものが?

此時、子供は彼の茶勝な眼を大きく開け、言度て、言兼るといふ塩梅に、お祖父様を見詰め升た。
そして、

アノ、たつた、ひとつ有るんです、

それは又何んだ?

フォントルロイは又暫時躊躇ひ升た。
そして独り屡思屈して居た故で、余程仔細の有さうな様子でした。
侯爵は復び、催促して、

何んだ、\/

フォントルロイは、漸くに、

アノかあさんです、

老侯は少しくたゆたつて、

ダガ、貴様、毎日の様にお袋に逢ふじやないか、それでも、まだ足りないのか。

デモ、先には、いつでもかあさん見てゐ升たもの、
夜る寝る時「お休み」いひに行けば、キスして呉れたし、朝起きて見れば、いつでも、そこに居たし、それから、取置ずに、何んでも、話しつこ出来たんですもの、

此時両方沈黙で眼と眼とを見合せ、侯爵の方では、稍眉を顰められました、そして、

貴様、そんなら、お袋のを忘れたことは一切(言葉に力を入れ)ないのか?

エー、決してないんです、さうして、かあさんも、僕決して忘れないんです、
ダツテ僕、お祖父さんと一処に居なくなつたつて、矢つ張り忘れやしないじや有ませんか、ネイ?
僕なほ、お祖父さんのこと考へ升ワ、

老侯は、猶暫らく、ヂツト考へて、

イヤ、こりやアさうだらう、さうに違ひあるまいナ、

全体フォントルロイが、母を慕ふことに付ては、多少羨ま敷思われて居られる処、かう聞いて、一層其感じが強くなつた様でした、
これは固より老人が子供を寵愛されることが、いよ\/深くなつた故でした。
然るに、幾程もたヽぬ内に、まだ\/忍び憎い心痛の事件が起り升て、暫らくは、嫁が憎いといふことさへ忘れる程でした。
さて其事の起りといふは、亦至つて不思議なことで、実にこれらが青天の雷電とでも、いひさうな事柄でした。
エールス、コートが落成する前、ある夜、ドリンコート城に大宴会が有升た。
かふいふ会合は、此城にも近年稀な位のでした。
其数日前には又、サア、ロリデールが、夫人ども\゛/此城へ来遊され升たが、此夫人といふは老侯の一粉の姉妹で、此時の来遊は、怪有のことで、市中などでは、殊に大評判で、例の荒物やの呼鈴が夢中にガラ\/と鳴りも止まなかつた訳はロリデール夫人は三十五年といふ昔し結婚して此来、ドリンコート城へ只一度の外は絶へて訪問されたことがないからでした。
此婦人は白髪がよくも風采を装ほふて、頬には愛嬌の笑窪と桃色の去りやらぬ立派な老夫人で、人品も中々好い方でしたが、兄弟の欠点を非難することに於ては、世の人と異つたこともなく、それ已ならず、確乎とした説を立てヽ、遠慮なく之を主張する性質てしたから、自然、老侯と屡々論することもあり、随て多年疎遠になつて居り升た。
この通り、兄妹の間が隔離つて居る中に、夫人は侯爵に付て快からぬ風説を聞くことも度\/でした。
第一妻に対して、優しくないこと、続いて同人が不幸な生涯を終つたこと、侯爵が子供に付て無頓着なこと、総領、次男が人好のせぬ上に、荏弱、無頼で、為に父にも家にも名折だといふこと、此二人に取つて此夫人は叔母ながら、一度も対面したことがないのでした。
然るにある時、十八歳斗りの丈高く、歴気とした、立派な壮年が邸へ尋ねて来て、夫人の姪セドリツク、エロルと名乗り、母の話しに聞いた叔母さまに、一度おめに掛り度さに、近隣を通つた幸ひ、お尋ね申すと云ひ升た。
ロリデール夫人は、此若人を見て、いとゞ、懐かしさに、万づを忘れ、強ひて一週間程引止め、こよなき者の如くに寵愛し、饗応して帰へし升た。
此若人は気立も優しく、快濶で、其上有為の気象が見えて居るので、帰つた其後も頻に顔が見度く思つて居り升た。
然るに其後は、打絶へて茲を訪ふたことのないといふ訳は、エロルが帰城した時、折あしく、父君が不機嫌で、ロリデール、パアグへ再び足踏みすることを固く禁じられたからでした。
併しロリデール夫人はエロルを思ひ出す度に、心に優しい情を起し、米国の結婚は向ふ見ずな処業と思ひはしても、父が断じて家から切り離して、何処の果に、どの様な暮らしをしてゐるか分らぬと聞いた時、怪しからぬ次末と、ひどく慍り升た。
其中死去した噂を聞込み、続いて、不思議に他の二人も卒去したので、米国生れの子供を尋ね出して、新なるフォントルロイ殿として、迎へるのだといふことが又聞こえ升た。
其時夫人は、夫に向つて、かふいひ升た。

大方、他の子供と同然、怪しからぬ人間にされてしまふのでせうよ、
それとも、お袋が立派な人物で、正当な教育が出来る丈の確乎した処が有れば好う御座い升が。

然るに、其母をば子供と引別けるのだと聞いた時は、又も言葉もない程に残念に思い升た。
そして、かふいつて歎き升た

どふも怪からん、一寸、あなた考へて御覧ん遊ばせ、
そんな年の行ない小供をお袋の手を離して、私の兄弟の様な人間の合手に致すつて、マア飛でもない事じや御座いませんか?
それこそ、子供をみぢめに扱ふか、さもなければ、途方もないもて余し者にする迄に吾侭放だいをさせ升よ、手紙でも遣つて忠告して詮が有ればですが‥‥‥

さうするとサア、ロリデールが、

ナニ、おまへそんなことが益に立つものか?

エー、どうも無益でせうよ、
ドリンコート侯はそれが益に立つ様な人物ならば結構ですが、
併し、どふ考へても、無法な処置ですよ。

(以上、『女学雑誌』第二八六号)


小公子     若松しづ子
   第十一回(丙)
小フォントルロイの噂をした者は、貧民や、百姓たち斗りでなく、まだ外にも伝へ聞いたものが有升た。
其評判する者が多く、又其容色の好いこと、気立の優しいこと、人望のあること、侯爵を左右する権力のあつたことなどに付て一口話の世間に流布まつてゐることが多いので、其噂が田舎住ひの紳士の耳へまで這入り升て、其名の遠く及んだことは、英国中の一郡一郷に限られませんかつた。
宴会の席には人々が其話をし合ひ、婦人たちは其母を憫然と労わり、其子が評判ほど容色が好かなどヽ心配し、男子たちの方で侯爵の平常を知つてゐる者は、其息子が御前の慈善心を信じ切つて居る話をしては、抱腹しました。
ある時、アツシヤウ、ホールのサア、タマス、アツシといふ貴族が、エールボロを通ふり掛つて、フト侯爵が孫息子とも\/馬に乗つて居らるヽに出逢ひ、乗物を止めて、挨拶をして御血色の打て変つて好くなつたこと、酒気症の平癒をしたことを悦びに申し升た。
あとで此人が其時の話しを人に語つて、

イヤ、其時、御老人も余程天狗になつて御座つた。
併し、さうあらう筈ですよ、孫どのがあの容色と品格じやア。
僕などもあヽいふのはとんと見た覚へは御座らんからネ、
骨柄の立派なこと、そして小馬に跨がつた塩梅は、丸で、騎馬武者かなんぞの威勢でネ、

この通り故、ロリデール夫人も追\/に其子供の話を聞込み升た。
其話しの内には、彼のヒツギンスのことや、跛の息子のこと、エールス、コートのこと、其外に尚さま\゛/有升た。
それ故、どふかして、其子供を一度見度と思つて居た処へ、突然、城主から、良人とも\゛/ドリンコートへ御来遊あれといふ書状を得て、並\/の驚きでは有ませんかつた。

誠に夢の様ですこと、あの小息子がとんと魔法でも遣つたかの様に物事も変へたといふ話しでしたが、これを見ると本当かと思ふ様ですネ。
私の兄弟は子供に夢中で、少の中も見ずに居られない程だと人が申し升よ、
さうして、余程の自慢ださうですから、矢張り、私どもにも見て貰度のでせうよ。

といつて、早速招待に応ずる旨を申送り升た。
さて夫と共にドリンコート城へ達し升た時は、はやタ日が西に入る頃でしたから、直ぐ用意の間へ通り、兄弟に逢はぬ中に、装服を繕ひ、客間へ這入り升と、暖室炉の前には侯爵の厳しい姿が見え升た。
其側に黒天鵞絨の服に、立派なレースの襟飾りを着けた小さな児が坐つて居升た。
この小息子の丸いさえ\゛/した顔が殊に見事で、夫人に向けた眼がいかにもあどけなく、美しかつたので、驚ろきと嬉しさで、思はず声をたて升した。
それから、侯爵と握手する時分に、ともに子供であつた時分から、絶へて用ゐたことのない幼な名を呼び升した。

オヤ、モリノーさん、あれがお話しの子ですか?

イヤ、カンスタンシヤか、その通りだ、
これ、フォントルロイ、貴様の大伯母のロリデール夫人だぞ。

すると、フォントルロイが、

サウ、大伯母さん、御機嫌はいかゞ?

いひ升と、ロリデール夫人は、其肩へ手を載せ、暫時上へ擡げた顔を眺めてから、大層可愛いといわぬ計にキスをし升た、

わたしは、おまへのカンスタンシヤをばだよ、
おまへのおとうさまは、わたしの秘蔵だつたが、おまへは亦大層よふ似ておいでだよ、

僕、とうさんに似てるつて、いわれるの大好ですよ、
ダツテ、みんなとうさんが好だつた様ですもの、
かあさんとおんなじこつてすよ、みんなに好かれて、丸でかあさんの通りですネ‥‥‥
カンスタンシヤをばさん、(と少しロ篭つて)

ロリデール夫人は大悦びでした。
又も一度下を向いて、キスをし升て、その時からは、両人が誠に親くなり升た。
あとで、兄に向つて、人知れず、かふいひ升た、

マア、モリノーさん、こちらで注文したつて、これに越したことはありませんネ、

侯爵は、いつもの浮かぬ調子で、

おまへのいふ通りだ、
中々見処のある奴で、大分おれとは仲よしだ、
おれを此上もない気の好い、慈善家だと思つて居のさ、
それはさうと、カンスタンシヤ、おれが言ずと、キツト知ることだから、先へ白状して置が、実はおれも、あれにかけては、いくらか、子供返りのした老翁になりさうなんだ、

ロリデール夫人は例の卒直な調子で、

それで、あのお袋はあなたをなんと思つて居り升。

侯爵少しく顔を顰めながら、

まだそんなことは、尋ねて見たことはなしだ。

さうですか、先遠慮のない処を始めつから申上て置升がネわたくしは、どうもあなたの御処置に不同意ですよ。
デ、わたくしは早速エロル夫人を訪問する積りですから、若しあなた御異存があるなら、おつしやつて頂戴したう御座い升よ。
どうも評判を聞升と、子供の人となりも全くあの婦人の教育ひとつで、あの通りだと思はれる様ですし、御領内の民たちも神様か何かの様に尊敬してゐるといふ噂が、ロリデール、パークに居てさへ聞え升もの。

侯爵は腮でフォントルロイの居た処を指し示して、

ナニ、此れを崇拝してるのだ、
併しエロル夫人も一寸美人で、其容色を子供に遺伝した丈は忝く思つて居るのだ、
おまへいつて逢ふなら、差支の有る筈もない。
たゞコート、ロツヂに引込んで居つて呉れて、おれが対面することさへ、御免蒙れば、それで構ひはないのだ。

と仰つて、また少し眉を顰められ升た。
夫に向つて此後かふいひ升た。

併しネ、先ほどはあの婦人を憎んで居ない様ですよ、
わたくしにそれ丈は分つて居り升。
そしてネ、あの人も多少変つて居り升よ、
そして、不思儀な様でも、あのあどけない、人懐こい小息子のお蔭で、どふかかふか、人間ら敷されて行く様だと思ひ升よ、
マア、あの子が亦た虚の様に懐いて居るのですよ、
坐つてる倚子のそばだの、膝だのへ(馮+几)れ掛つたりしましてさ。
兄の子供たちなぞは、虎のそばへ寄添ふ心持でなければ、あんなことは、出来ませんでしたらうよ。

其翌日は早速、エロル婦人を訪問に行ました。
帰つてから、兄にかういひ升た。

モリノーさん、マアあの夫人の様な様姿の好のに、私しは逢つたことが御座いませんよ。
声といつたら、銀の鈴の様にさえ\゛/してゐて、そして、あの子をあれまでにしたのはあの婦人の功名ですよ、
余つぽどお礼を仰しやらなくちや。
あなたが仰しやる様に容色の好い処を譲つた位なことじや有ませんよ。
そして、あなた、勧めてこヽへ入れて、何かの取締をしてお貰ひなさらないのは、大間違ひですよ。
私はロリデールへ呼とらうかと思ひ升ワ。

あのこを離れて、どこへ行くものか。

そんならば、あの子も一処に連れて行なかつちやなり升まいよ。

とロリデール夫人が、笑ひながら言ひ升たが、併しフオントルロイは、中々自分に預けられることなもなとないことは、充分承知してゐて、祖孫の間がいかにも睦まじく、殆ど離し難いこと、傲慢、頑固な老紳士の将来の希望も、愛情も、一に其子供一身に集つて居て無邪気、優愛なる此子供が此上もない信任と忠実を以て其慈愛に報ひて居つたことと日に\/承知し升た。
その外、今度宴会を催されたのも、自分の孫なり、跡取なりを世の人に示して、兼て人の評判に罹つた其子供が、噂に勝る人品と人々に知らせ度が最大目的といふことも承知して居り升た。

ビーヴィスや、モーリス(侯爵の子息)は、いかにも外聞のわるい子供でしたからネ、誰も知らぬ者は無いのでしたもの、
可愛がる処ではなく、親ながら憎くヽなつた様子でした、
それに此度は又、大威張りに威張れるといふのですから、

と夫に申し升た。
此宴会に招待を受けた人の中で、フォントルロイ殿を見度く思ひ、此宴会に出席するだらうか如何だらうと思ひつヽ来ない人はない位でした、侯爵は此時に、

行儀はよし、人の邪魔なることなどはあるまい、
子供といふは全体馬鹿でなければ、うるさいものだ、おれのなどは両方だつた、
併しあれ丈は人に物を言れヽば、返答もし、さもなければ、黙つて居るから好い、
人の気障りには必ずならん奴だ。

と仰いました。
(以上、『女学雑誌』第二八七五号)


小公子     若松しづ子
   第十一回(丁)
併し、フォントルロイは久しく口を開かずに居られませんかつた。
みんなが何かしら言葉を掛けては、話しをさせたがり升た。
婦人たちは可愛がつて頻りに、色々なことを問ひかけ、紳士たちも話しかけたり、冗談を言つたりすることは、地中海を渡た時分と同じ塩梅でした。
フォントルロイは自分が返事をする度に人々が笑ふ様なのを不思議に思ひ升たが、又考へて見れば、自分の真面目な時に人が面白がることは度々あるので、格別気に掛けはしませんかつた。
そして其晩は始めから終りまで、誠に愉快なことだと思つて居升た。
いとゞ壮麗を尽した、広間が、此晩は数知れぬ灯でキラ\/してゐ、花は多く、人は皆浮々してゐる、婦人たちは身に珍らしい美事な着物を着、頭や脛には燦びやかな飾を付けて居りました。
さてロンドンに交際社会の賑き季を過ごして来た若い婦人が有つて、余り美麗な婦人なので、人が目を離すことが出来ない位でした。
此婦人といふは、一寸丈高く、凛として高尚な風采が有つて、髪は柔らかく、真黒で、其さえ\゛/した眼は、紫の蝶花の色に似、頬や唇の色は薔薇に似て居り升た。
着物は美事に純白で、頚には真珠の飾が有ました。
此嬢君に付ては、ひとつ不思議なことが有升た。
紳士たちが幾人も側へ立つて居て、其機嫌をとらうとして心配してゐる様子でしたから、フォントルロイはお姫さまの様な人かと思ひ、自分も頻りに引寄せられる様な心地がして、我知らず、段々側へ近づき升た。
スルト、とう\/此婦人が振り向いて、言葉を掛け升た。
可愛らしくホヽ笑みつヽ。

フォントルロイの若様、一寸こちらへ入らつしやいましな、
そして、あなたがそんなにヂツト私を見て入して、何を考へて入つしやるか伺ませう、

若様は一向臆面なく、

僕、あなたがどふも奇麗な人だなと、考へてたんです、

といふのを聞いて、紳士たちは一同抱腹し、彼の嬢君も少し笑つて、ホンノリとした顔の色が一層紅になつた様でした。
そして、一番高笑ひをした紳士の中で一人が、

イヤ、フォントルロイ、今の中、言ひ度事を沢山いふが好い、
今に、成人すると、それ丈のことをいふ勇気がなくなるから。

フォントルロイはます\/、無邪気に、

ダツテ、誰だつてさう言はずに居られないでせう、あなたなんか言はずに居られ升か?
あなた(力を入れ)あの方奇麗だと思ひませんか?

スルト、其紳士が、

僕たちはネ、思ふことを言ふのも禁じられてるのだ、

と云ふと、外の者はいよ\/高笑ひに笑ひ升た。
然るに、ヴィヴィアン、へルベルトといふ其美人は手を出して、セドリツクを自分の方へ引寄せ升た。
そして、なほ\/奇麗に見え升た。

フォントルロイ様は、何んでも思しめすことを自由に仰つて下さいまし、
そして、あなたのお言葉は何事もお心のまヽと存升から、誠に有難く頂戴致しますよ。

といつて、頬にキスをし升た。
フォントルロイは感歎に余るといふ、無邪気な眼で、嬢君を見詰め、

僕はネ、かあさんを除ければ、あなたの様な奇麗な人見たことがないと思ふんです、
ダケド、マアかあさんほど奇麗な人有りやしませんからネ、
僕、かあさんは世界中で、一番の美人と思つてるんです。

それはさうに違ひ御座いますまいよ。

とヴィヴィアン嬢がいつて、又笑つて、頬へキスをし升た。
彼の嬢君は其夜宴会の終り頃迄フォントルロイを側へ引つけて置き升たから、両人を中心にしたる一群は誠に賑やかなことでした。
フォントルロイは、自分でも、どふうしてさうなつたか訳が分りませんかつたが、つひ知らぬ中に、アメリカのこと、共和党の集会のこと、ホツブス、ヂツクのことを話す様になり、しまいに、鼻高\/とポツケツトから出して見せた物は、ヂツクの餞別で、即ち赤い絹のハンケチでした。
そして、

今夜はネ、宴会だつたから、ポツケツトの中へ入れたんですよ、
ヂツクが宴会なんかへ持つて出れば、嬉しがるだらふと思つたんです。

そして火の付た様な色の、大きな形のある其品は、いかにも無風流におかしくとも、あまり真面目で、懐かしさうに、かふいひ升たから、聞いてゐる人たちは笑ふことも出来ませんかつた。

ヂツクは僕の朋友なんでせう、ダカラ、僕これが好なんです。

といひ升た。
此通り始終話しかけられ升たが、侯爵の仰つた通り、誰の邪魔にもなりませんかつた。
人の話しをする中は静かに聞いてゐることが出来升たから、うるさいと思ふ人は有りませんかつた、時々お祖父さまの倚子に近く行つて、立つてゐたり、間近に有る足台へ腰を掛たりして、頻に其顔を打守つたり、其お口から出る言葉を聞惚れてゐるかの様に一言\/熱心に耳を立てヽゐるのを見る人の中に、意味有りげにホヽ笑む人がいくらも有り升た。
一度などはお祖父様の倚子の臂掛へ寄係つてゐて、自分の頬がお肩へつく位になり升た時に一同ニツコリしたと気がついた侯爵は、御自分も少し笑われました。
御自分でも傍観者たちが何の心でホヽ笑むかといふことを御承知で、御自分に付て世間一般の考と同じ考へをしても決して不審のない此小息子とー左程迄仲の好のを人に見せるのが愉快な様でした。
ハヴィシヤム氏は午後に来着の筈でしたが、不思議なことに、此夜は少し遅刻しました。
此人物がドリンコート城へ出入りを始めて以来かふいふことは、曽て無かつたことでした。
余り遅いので、客たちは侍たず食卓に着ふとして居り升た所へ漸く来着し升た。
先づ侯爵に会釈しやうとして、近き升た時、侯爵は其顔を打守つて驚かれた様子でした
といふは、氏は平常の沈着と打つて変つて、何かヤキ\/したものか、さもなくば心が沢立つて居るかの様で、艶気のない、俊卒な其老顔は、既に青ざめて居升た。
そして低い声で侯爵にかふいひ升た。

思はず、遅刻いたし升た、
非常な事件が起り升て、

物に動じるなどヽいふは、此厳格、老成な代言人に至つて稀な事でしたが、此時は余ほど非常な出来事と見え升た。
食卓に着升ても、食物が咽を通らぬかの様で、二三度人に話かけられた時も、よく\/放心して居て、ドツキリ驚き升た、食事も中半過ぎて、フォントルロイが坐敷へ出升た時には、何か安からぬ様子振りで、モヂ\/して見詰て居たことが一度ならず有升た。
フォントルロイも其顔を見て、不思議だと思ひ升た。
自分とハ氏は全体、仲が好いので、顔を見合せさへすれば、互にニツコリするのでしたが、ハ氏は此晩に限つてホヽ笑むのまで忘れてしまつた様でした。
実は、其夜の中に、是非老侯の耳に入れねばならぬと決した不思議な凶報の外、何事でも忘れて居つたのでした。
其報告といふは、実に奇有の大事で、万事の体面を変じることと承知して居つたのでしたが、壮麗な広間や、華美な集会を見るにつけ、他のことはさて置き、此美事な若君を見様が為計りに、かく賑々しく集まつて居る処を眺めるにつけ、傲慢な老貴人を見、其側にニコ\/してゐるフォントルロイを見るにつけ、自分が世なれて、情に負けることを知らぬ代言人で有るにも係らず、非常に心を痛め升た。
自分が今報ぜんとする事一ツデ、将に引起さうとする驚歎の恐ろしさよと思つて居升た。
実に山海の珍味を尽して、長\/と引延びた宴会に侍つた、ハ氏は、其始め終りが、どの様で有つたか、夢に辿る者の如く、一向夢中でしたが、たゞ侯爵が不審顔に自分を打守つて居られるのに、フト気がつき升た。
さて会食も終り、紳士婦人は食堂を離れて客窒に移りました。
其折にフォントルロイは近来ロンドンの交際社会で大評判の美人ヴィヴィアン、へルベルト嬢と共に腰かけて居る処でした。
両人は何か画本の様なものを見て居た様子で、フォントルロイは嬢君にこれを見せて呉た礼を言て居た処へ戸が開升た。

僕に深切にして下すつて有がたう、
僕はネ、まだ宴会なんかに行つて見たことがないんです、
ダカラ、僕大変面白かつたんです。

余り面白かつた処為か、紳士たちが又\/へルベルト嬢の周囲に集まつて、話しをし始めたのを聞いて居て、笑ひながらいふことを聞きとつて、意味を解さふとしてゐる中に、まぶたが少しづヽ重げに垂れ始め升た。
殆んど眼が閉ぢてしまふ時分には、ヘルベルト嬢の低い可憐な笑ひ声で呼び醒され\/して、又二セコンド程も眼を開いて居り升た。
自分は決して眠るまいと決心しても、頭は後ろにあつた大きな黄繻子の布団に沈づむ様に収まり、まぶたもとう\/垂れ切りに垂れてしまひ升た。
久しく過てからの様に思われ升たが、誰か来て、其頬に軽くキスをした時でさへ、眼が全くは開きませんかつた。
其人といふは、とりも直さず、へルベルト嬢で、帰りがけに、低い調子で、捨言葉をして行ました。

フォントルロイの若様、御ゆつくりお休み遊ばせ、
御機嫌よう。

自分が此時眼を開けやうとして、口のうちで、モガ\/。

お休なさい‥‥‥僕‥‥‥あなたにあ‥‥‥あつて嬉しいんです、
あなたは大変‥‥‥奇麗‥‥‥

といつたのも、朝になつては知りませんかつた。
たゞ此時紳士たちが又何か大笑ひをして、自分では、何事か知らと思つたのを朦朧覚へて居り升た。
(以上、『女学雑誌』第二八八号)


小公子      若松しづ子
   第十二回(戊)   (実は第十一回(戊))

さて客人が一人残らず立去つた後で、ハ氏は火の側を離れ、長倚子へ近寄つて、そこに寝て居る若殿の姿を立つたまヽ眺めて居升た。
フォントルロイは、ゆつくり休息して居りました。
両足は叉の字になつて、長倚子の端に懸り、片手はつむりの上へ投げ出した様に廻り、其静かな顔には、ボツト紅色がさして居て、宛も健康で、気楽な幼子の安眠を画に書いた様でした。
キラ\/と光る髪のもつれが、濡子の布団の上にさまよつて居る塩梅などは、実に画にしても、美事な画でした。
ハ氏は此姿を眺めつヽ、手を挙げて、ツル\/した腮を撫でながら、当惑極まる顔をして居り升た。
突然、後ろに老侯の粗暴な声で、

イヤ、ハヴィシヤム、何事だ?
何か新らしく起つたのだナ、
容易ならぬ一條と申たのは、なにか、いつて聞せるが好い。

ハ氏はまだ腮を頻りに撫でながら、長倚子に後ろを向けて、

御前、凶報で御座り升、
非常な凶報で、手前も誠に申上憎う御座り升。

侯爵は、最前からハ氏のたゞならぬ様子振りを見て、安からぬ思をして居られたのでしたが、此お人は、心に安からぬことが有れば、必ず不機嫌なのでした。
此時も、心中のいらだちを声に現はして、

ハヴィシヤム、なぜ又其子供を左様に眺めて居るのだ?。
全体最前から眼を離さず見て居るのは‥‥‥
コレハヴィシヤム蛇が小鳥を見込んだ様に、子供を眺めてゐる理由を申さぬのか?、
第一、其凶報がフォントルロイと何の関係があるのだ?。

御前、極く手短かに申上ませう、
此凶報と申したのは、一切フォントルロイ殿の関係で御座り升。
其一條を仮に真と致し升れば、彼処に御寝遊ばすのは、フォントルロイ殿ではなく、カプテン、エロルの御子息と申丈に止りますので、
実のフォントルロイ殿は、御嫡子ビーヴィス君の御子息で、現在、ロンドンなる下宿屋に投宿されて居る御方で御座り升。

侯爵は此時両手に青筋が太\゛/と見える迄に椅子の臂掛を握り〆られ、額にも同様の物が顕はれて、其烈しい老顔は、殆んど赤黒くなり升た。
そこで大声にイキマイて、

貴様は何を申す?、
乱心でも致したか?、
さもなくば、誰の欺に乗つたのだ?。

先づ偽と致しましても、誠に実際に類した話で御座り升。
イヤ、いかにも苦\/敷いことで、実は今朝一人の婦人が拙宅を訪ひ升て、六年以前に御嫡子、ビーヴイス君が結婚遊ばされた人と申立て、結婚証明状を持参いたしまして御座升。
其人の申立に、婚姻の一年程後、御両人の間に何か口論が有つた末、とう\/若干の金子を頂戴して、お別れ申すことになり升たのださうで御座り升。
処が、五才斗りの男子を連れて居るので御座り升。
其人と申すは、極く下等の米国人で、先づ無学な方で、昨今までも、其子供が申受けらる可き特権のことも存じ寄なかつた次第で御座り升。
然るに代言人と語り合升して。我が子が正しくフォントルロイ殿で、追つて、ドリンコート城主たる可き者と承知した由で、そこで、手もなく、其権利を主張いたすので御座り升。

此時、黄襦子の上なるチゞレ頭が一寸動き升て、寝むさうで長い歎息が開いた唇からソウツト出升て、寝帰りをいたし升たが、少しもモヂ\/したり、心地のわるさうな処は有ませんかつた。
自分が瞞着者で、フォントルロイでもなければ、ドリンコート城主などに登ることは決してないといふ証拠が挙つて、それが安眠の邪魔になる様子は一向有ませんかつた。
たゞ、厳粛に其顔を眺めて居つた老人に、其さうび色の顔を尚よく見せるかの様に向け升た。
老侯の立派な渋ぶいお顔は、見るも気味わるい様になり、それで、極く冷たく、毒気のある嘲笑が見えて居り升た。

イヤ卑劣、破廉恥極まる其処業が、ビーヴィスに有りさうなことでなければ、一言半句も今の話しを真とは信ぜぬが、ビーヴィスにはさも有りさうなことだ、あれは不名誉極まる奴で有つた、
イヤおれの嫡子ビーヴィスほど荏弱で、不正直で、卑劣なことの好きな人非人はないワ、其婦も無学で賎しい者と申すか。

申すも憚では御座り升が、無教育なことは御自分の姓名を記るすさへ漸くで、それで、憚処なく金銭を見込んで此申立をするので御座り升、金銭の外に目指ことも無い様で御座り升。
容貌丈は下品ながら美麗では御座り升が……

嗜好の六ケ敷い老成人は、此時口を鉗み、思出したことが有つたと見えて、身震ひいたし升た。
老侯の額の青筋は、紫の打紐の如くに太\/と現れ、感憤極まつて、冷たき汗の滴りさへ見えて居升た。
今、ハンケチを取出してそれを拭ひ、其冷笑はます\/毒気を帯びて、

然るにおれはモ一人の女を憚つて居たのだ、
アレ‥‥‥あの子供のお袋を、おれはあれさへ嫁と認めなんだのだ。
姓名を記す位は差支のない方を憎くんだが、これが其応報でも有らう。

かふいつて、突然倚子から眺ね挙り、室内をあちら、こちらと歩るき始め、猛烈極まる言葉が其お口から湧出るかの様に発し升た。
憤怒と、憎悪と、非常な落胆が集つて、暴風が木を振るふが如くに、老侯の一身を振ひ動かし升た。
老侯の心の乱脈は見るも恐ろしい様でしたが、さりとて、猛り立つて、最も恐ろ敷い時も、彼の黄繻子の上に寝むる姿を忘れる様子はなく、それを覚す丈の声をも出されなかつたことは、ハ氏も気がつき升た。

イヤ、さもあらう、あいつら(小供たちのこと)は生れた其始からおれの外聞であつたのだ。
おれも、あいつらは大嫌で、あいつらもおれを憎くんだのだ。
其内ビーヴィスは一層わるい奴で有つた。
併し此事はまだ全く信用を置ぬから、こちらも充分探索し通してやらう。
ダガ、考へて見ればビーヴィスには有りさうなことだナア、どふもその位のことは有つたことだらう。

かふいつて又憤激し、頻りに其婦人のこと又証拠物のことなどに付て委細に尋問し、室をあちらこちらと歩みながら憤激の情を抑へやうとしても、顔色は青くなつたり紫色になつたりし升た。
終に一分始終を聞終つて、そして、極く心配になる廉々を了知しました時、ハ氏も老侯の為に気遣つて、お顔を見た位でした。
此時は最早顔色は丸で、青ざめて、落胆極まる様子でした。
老侯は憤怒を発し玉ふ度に、多少身に疲労を覚へられ升たが、此度は又純粋の憤怒でなく、他に情が加り升たから、尚さらガツカリ弱られたのでした。
終に長椅子の側へ帰り、立ちながら、低いよろめいた様な、カス\/した声で、

たとひ人が予めおれに子供を寵愛なさることが有らうなどと申たとて、容易に信じる処ではなかつたが、おれは全体子供は大嫌で、中にも自分のは厭に思つたが、おれは此子丈は誠に可愛く思ふのだ、あれも亦よく懐ついて居るのだ。
(といつて苦々しいといふホヽ笑を口元に見せ)おれは、人望はないのだ、始めから人望はないのだが、此子丈はおれが好だ、おれをこわがりもせず、いつもおれを信じて居るのだ。
此一條がなければ、おれのあとは、余程の勝れ者が城主になつて、先祖の家名を起すことと、おれもよく承知して居つたのだ。

此時腰を屈めて、可愛いヽ寝顔を見詰め、彼のフサ\/した眉を恐ろしく顰められ升たが、少しも容貌に烈しい所は有ませんかつた。
それから手で子供の額からキラ\/した髪を払ひ除け、軈て、振り向いて呼鈴を鳴らされ升た。
彼の丈高き給事がお召によつて立現はれ升た時、老侯は長椅子に指ざし、

ソレ(といつて、少し調子を変へ)フォントルロイを寝間へ連れて参れ。

(以上、『女学雑誌』第二八九号)



小公子     若松しづ子

   第十二回(甲)
ホツブス氏は子供ながら朋友と思つた人が、袂を分つて、ドリンコート城へ乗り込み、フォントルロイの称号を取り、さほど親しき交りをした人と己れとの間をば、大西洋が隔てヽ居ると判然了解する暇がある時分には、よく\/淋しく感じ始め升た。
実はホ氏といふは才識のある人でも、怜悧な人でもありませんで、一口に申せば、先づ遅鈍な質故、知己とても多くはなく、殊に自分の慰みを趣向する丈の技倆も有ませんでしたから、先づ新聞を読とか、勘定をして見とかして、精一杯の楽にして居升た。
勘定調さへも、此の人にとつては容易ならぬことで、チヤント合せるまでは余程暇どるので石盤と指との兼用で、かなり加法位出来て来た、フォントルロイの居つた時分には、一寸ホ氏の手伝にもなつたことが有升た。
それで全体、人の言葉に身を入れて聞くたちのフォントルロイ故、新聞紙上の事柄を大層面白がり、革命とか、英人とか、撰挙とか、共和党とかいへば両人の談話がいつも長くなるのでしたから、その去つたあとは万屋の店が物足なくなつたのは尤もなことです。
ホ氏はセドリツクが遠方へ出立した心持には中々なれず、どふしても又帰るだらふと思つて居升た。
そして、新聞紙を読んでゐると、フト向ふに例の白い服に赤の靴下を穿き、麦藁帽子を頭の後ろへ滑らかして、戸口へ来て立つてゐる処を見ることがいつかあるだらう、そして、気軽な調子で、「イヤアー、をぢさん、けふはよつぽど暑いネ、」といふであらうと思ふ様な心地がして居り升た。
然るに、段々と月日がたち、かふいふことは一向ないので、ホ氏も余程ボンヤリして、つまらなく感じて来升た。
古しの様には新聞紙さへ楽しまぬ様になり、一枚読んでしまふと、膝の上へ置き、自分の側の彼の丈高き倚子をヂツト眺めてゐることも度々有り升た。
其倚子の足に見覚へのある瑕[足艮]を見ては、鬱憂に堪られなかつたのでしたが。これこそ、取も直さず、未来にはドリンコート侯爵たる可き人が其倚子に坐つて、話しながら両足をブラつかせた時分の紀念でした。
侯爵にならふとする人でも、腰かけてゐる倚子の足を蹴る僻のあるもので、たとひ、血統は尊く、門閥は立派でも、かふいふことなどには異がないと見升た。
此瑕を暫らく見てから、例の金の時計を取り出し、蓋を開けて、「ホツブス様へ、旧友フォントルロイより、是れを見て僕を記臆し玉へ、」と書いてあるのを見、又暫らく詠めてから、パチンと音をさせて、蓋を閉ぢ、大嘆息をして、それから、席にも堪へぬかの様に、立て戸口の林檎の箱と馬鈴薯の樽の間にたヽずんで、通りを当途もなく見て居りました。
夜に入つて店を閉ぢれば、吸付煙管を啣へ、敷石のしてある通りを気のなさヽうな歩るき方をして、旧来セドリツクが住まつて居た家の前へ来て、相変らず「かし家」と張札のある側へつヽ立つて、よく\/之を詠め、頭を振り、煙管をスパ\/と吸まくり、暫らくするとは又不勝\゛/に家路をさして帰りました。
セドリツクの出立後二三週間もこの通りにして居て、何も新しい考へは起りませんでした。
元来遅鈍な質故、新しい考へを出すまでには中々長くかヽつたのでした。
そして一体新らしいことは嫌ひで、旧いことの方を取る風でした。
併し二三週間もたつ中に、段々淋しさも弥増して、為すことに身が這入らなくなる時分、ソロ\/新たな工風を致しましたが、これが又此人にとつては、容易ならぬ思付で有つたのでした。
その事は別段でもない只ヂツクに逢ひに行かふといふことでした。
此決着に至るまで吸売を驚ろくほどいくつも拵らへ、そして漸に、それと決着が出来たのでした。
「さうだ\/、ヂツクに逢に行かふ、セドリツクの話しに委しく聞いてゐるヂツクに、」と考へて、其目的はと問へば、古しを咄し合ふたら、ヂツクに逢ふも結句、心遣りにならうといふことでした。
そこで、ある日のこと、ヂツクが花客の靴を精出して磨いて居り升た時、顔はドンヨリ、頭はピカ\/、丈の低い、ヅングリした人が敷石の上に佇んで、ヂツクの看板を二三分間もシケ\/見て居り升た。
余り長く佇んで居るので、ヂツクの方も大方客であらう、ウツカリ出来ぬと見て、ある花客の靴を磨終るや否、

旦那、一ツやりませうか、

といひ升と、其ヅングリした人がポク\/近よつて来て、足台へ片足載せました。

アヽ遣つておくれ、

といつて、ヂツクがすかさず仕事を始めると、其ヅングリが、ヂツクを見ては看板を見、看板を見ては、ヂツクを見升て、軈て、

おめへあれはどふしたんだ

あれですか、あれはネ、ともだちに貰つたんです、
小さい息子に、みんな揃へて貰つたんです、
あんな子なんてあるもんか、
今イギリスに居んです、
華族になりに行たんでサア。

此時ホツブス氏は例のドンヨリした調子で、

何か、ソレ、アノ‥‥フォ‥‥‥ムー‥‥‥フォ‥‥フォントルロイ殿つて言つて、あとで、ドリンコート侯になるのじやねへかナ?

ヂツクはかふ聞いて、刷毛を落しそくないました。

なんでい、旦那も知つてるんか?

ホ氏は暑くなつて来て、額を撫でながら、

おれなんかあれが生るときから知つてるんだ。
終生の朋友なんだ、あれとおれは。

この話しをするにどふやら、心がどきつく様でしたが、ホ氏はポツケツトから彼の立派な金時計を出し、之を開いて、ヂツクにかぶせ蓋の中を見せました。

ナア、ソラ、これを見て、僕を記臆し玉へとあるだらう」
それがあれからおれへ呉れた置形見なんだ。
「僕を忘れちや厭ですよ、」なんていつたつけが、なに、おれは何ひとつ呉ねへつて、あとは影も形も見ることがねへつて忘れるどこじやねへんだ
「といつて頭を振り」誰だつてあんな奴忘れられねへワ。

スルト、ヂツクが、

旦那、わたしもあんな好い奴見たことがねいんです。
せいから、よつぽど豪気のある奴でス、おらア、あんな、少ちゑい子にあんなに豪骨のあるの見たことがねへんです。
わたしも大変と好で、両方から中が好かつたんです。
あの少せいのとおらと、始めつからだつたんです。
一度ネ、馬車の下から鞠を取つて遣つたんです。
それをいつまでか、忘れねへでネ、お袋ろだの、守だのと、こけい来ちや、どなるんだ、「イヤー、ヂツクかへ」つて、丸で成人の様にさ、膝からいくらもなくつて、女の着るもん着てゐた時分さ、
ていげい威勢の好い奴で、何かゞ甘くいかねへ時分にや、何か言葉でもかけられると、気色が直る様でネ。

それよ。
それに違ひねへんだ。
あんなの、侯爵にするなんて、勿体ねへ話しよ。
万屋か、干物屋でもさせて見ねへ、どんなに立派なもんになつたか知れねへワ。
とんでもねへ立派な者によ、

といひながら、遺憾千万といふ調子で又頭を振り升た。
(以上、『女学雑誌』第二九〇号)


小公子      若松しづ子
  第十二回(乙)
両人が話し合つて見れば見るほど、話しが尽ない様で、迚も一度には六ケ敷処から、イツソ明日の晩、ヂツクがホ氏の店へ出掛けるといふことになり升た。
ヂツクは大悦びでした。
此児生れ落ると直から、あちらこちらと流浪して歩るき升ても、悪るいことはしたことがなく、モ少し上等な生活がして見度と心の中に始終願つて居升た。
自分が独立の職業に就てから、野宿丈は止めて屋根の下に雨露を凌ぐ丈になり升たが、モ一層生活の度を進め度と思ひ始めて居た処でした。
それ故、角店の主人で、其上に馬と荷車を置た一廉の商人に招待さるといへば容易ならぬ名誉の様に思ひ升た。
ホ氏が此時、

おめへは、侯爵だの、城だのといふこと何か知てるか?、
おれはモツト委しいことが知りたいと思ふんだ。

ナニ「一銭小説」ツていふ新聞に、そんな話しが出て来て、わしらの仲間で買つて読んでる人があり升ゼ、中々おもしろいでさア。

フン、さうか、おめへ来る時、持つて来ネイ、おれが代を払ふから、
侯爵のことが書いてあるんなら、どれでもみんな持つて来るが好ゼ。
侯爵のが無けりやア、伯でも、子でも好や。
ダガ、あれは伯だの子だのツていつたことはねへ様だつけよ。
いつかふたりで冠の話をしたつけが、あひ悪く、又おれが一度も見たことがねへもんだから。
こけいらにやア丸でねいもんの様だナ。

大店なんかにアありさうなものんですがネ、ダガ、わたしらア、見たつて知れねいだらうと思ふネ。

ホ氏は自身にもどふも見てそれと見分がつくまいとは明言しませんかつたが、たゞ様子有げに又も頭を振り升た。

たんと、人が買ねいんだらう、

といつて、其話しはそれ切りになり升た。
これが縁となつて、此二人は続懇の朋友となり升た。
ヂツクが彼の店へ来升時は、ホ氏はいつも、歓んで迎へ升て、林檎樽のある辺の戸の傍に寄せかけてある椅子へ、招じ、ヂツクが腰をかけた時分に、煙管を持た手で仲の林檎へ指しをして

おめへ、勝手に食ふが好いよ。

と愛想し升た。
それから例の小説新聞を読み、あとは英国の華族の話しをするのに、ホ氏は頻りに煙草を吹かし、頭を振り升た。
格別、深い因縁の瑕を足に持つた高い椅子を指す時などには、最もひどく振り升た。
そこで、言葉に力瘤を入れて

ソレ、あそこにあるのが、あれの蹴た跡だワ、
まがひもねいあれの靴の跡なんだ。
わしはボンヤリいつまでも詠て居ることがあるんだ。
なる程、世の中の浮沈といふが、そこへ坐つて、箱の中から菓子パンを出て食ひ、又樽の中から林檎を出して食て、心を外へ投た者が、今となれば、華族で、お城住ひだなんてナ、シテミルト、あれも華族様の足の跡だゼ。
追つては侯爵さまの蹴跡になるんだ。
色\/独り考へてナ、「たまげはつたこつたつて」言つてるのよ。

この通り繰り返し\/昔しを語つゞけて居て、ヂツクが尋ねて来るのが何よりの慰らしいのでした。
ヂツクを宿へ帰す前に、後ろの少さな室で共に食事をするに付て、店から菓子バンや鑵詰物を運び升て、ヂツクにも馳走をし升た。
終りにホ氏は生姜の沸騰水を二瓶持つて来て、忝しくこれを開らき、コツプ二ツへあけ升て、

サア、これであれを祝はふ。
それでどうかしてあれが行つた為に、侯だの伯だのといふ奴たちをすつかり、改良すれば好いナア。

其夜は先づそれ切で袂を分ち升たが其後も、両人はしば\/出逢ひ升て、ホ氏も淋しさを減じて、慰めを得ました。
二人して一銭小説や、外に面白い物を読み、貴人、華族たちの風俗を知る様になり升た。
併し其風俗といふものは、この通り軽蔑された人々が若し聞知れば驚ろく程法外な話しでした。
ある日ホ氏は書物を買うとて、わざ\/下町の本屋へと出かけ升た。
さて帳場へ坐つて居る番頭に向ひ、

もし侯爵のことの書いてある本が欲しいんだ、

といふと番頭が不審さうに

なんです?

ナニ、侯爵のことが書いてある本が欲しいんだ。

番頭は妙な顔をして、

お気のどくさまですが、さういふ物はおあい悪くです。

スルト、ホ氏が、心配さうに、

さうか、そんなら伯でも、子でも好いワ。

どうも、さういふ本は存じませんナ、

ホ氏はこヽに至つて、余程心痛いたし升た。
先下を見、又上を見て、

それじや、女の侯爵のこつても好いが、それもないのか?

番頭は可笑さをこらへて、

どふもおあいにくですナ。

おいらアたまげつちまつた。

と此時ホ氏が言つて、ドシ\/店を出ようとした時、番頭が一寸と呼びとめて、華族が重立つた人物になつてる小説で間に合ふかと尋ねました。
ホ氏は推つ通し侯爵のことが書いてあるのが無いとならば、それでも間に合せるといひ升たに付て、エーンスウオスといふ人の書いた「ロンドン府の物見」といふ小説を一冊売り升て、ホ氏は先づこれを持ち帰り升た。
そこで、ヂツクが来升た時、それを読始め升た。
これは珍らしく極く面白い本で、血塗れメレと仇名された英国の女王の名高き治世中の話しでした。
そして、ホ氏がメレ王が槙を割ほど無雑作に人の首を刎ね、或は人を強問に掛け、又は生き乍ら焼いたことなどの所業を聞ては、非常に心配し始め升た。
先づ絶へず口にあつた煙管を出してヂツクの顔を呆気にとられて見詰めて居り升た。
それから顔から流れる汗を拭ふとて赤いハンケチをポツケツトから出し升た。

それじや、あれも危ねへじやねいか。
剣呑\/、女なんどが位に坐つても、そんな指図をするんじや、今どんなことになつてるか知れやしないゼ。
大丈夫どこじやねへワ。
そこに書いてある女の様なのが怒り出した日にやア、誰れだつて、危なくねへ者はねいゾ。

ヂツクも多少心配らしい顔をしながら、

ダガネ、今切り廻をしてるナア、この女じやないんですゼ。
ホレ、今のはヴィクトレとかいふんで、此本にある奴ア、メレちい升たらうが。

ホ氏はまた額を頻りに擦りながら、

さうだつけナ、さう\/。
強問だの、焼殺だのつていふことは新聞にもねい様だナ‥‥‥それでも、そんな、へんてこれんな奴らと一所になつてれば、なんだか、あれも剣呑の様だナ。
ナント聞ねい、七月四日祭せい守らねい様な奴らださうだゼ。

此後ち、数日間、ホ氏は心中誠に安からぬ思をして居り升た。
そして、フォントルロイから来た手紙を幾度か自分にも読み、又ヂツクにも読み聞かせ、同時にヂツクに来たのを読むまでは、容易に心が落着ませんかつた。
(以上、『女学雑誌』第二九一号)


小公子    若松しづ子
   第十二回(丙)
併し両人とも貰つた手紙を、何より珍重し、二人して繰返し\/是を読み、一字\/が楽しみの様でした。
そして自分たちの送る返事も幾日もかヽつて書まして、貰つた手紙ほど幾度も読み直し升た。
ヂツクが返事を書のは中\/容易なことでは有ませんかつた。
自分が読み書を覚へたのは、自分の兄と同居してゐて、夜学に通つた数月間に習ふた丈でしたが、英敏い子でしたから、其暫時に得た智識を利用して、新聞紙を拾ひ読みしたり、敷石や塀や、垣根へ白墨の切れで手習ひをし升た。
それでヂツクは自分の履歴話しをホ氏に委細話したことが有升たが自分のまだ少さい中に母が没して、其後は兄が随分深切に保護してくれたのでした。
尤も父は其先になくなつてしまつたのでした。
兄の名はべンといひ升て、ヂツクが稍成長して、新聞売りになるまで相応な世話をして居り升たが、追々成人になつて、役に立つ様になる中に、ベンも可なりな生計を営むやうになり、一寸した店に奉公住みする程までに立身致し升た。
この話しをして来て、こヽになると、ヂツクが愛相の尽きたといふ顔付をして、

それから、旦那、することに事を代へて、嫁なんか貰うじや有ませんか
なんだか、女にのろけて、馬鹿見た様になつてネ、それで、とう\/嫁に貰つちまつて、裏屋で世帯を持つちまつたんです。
其女つていふのはまたしよふがない奴で、丸で暴れ猫みた様なんでネ、機嫌の悪るい時なんぞにや、何でもビリ\/引つさいてネ、そうして、いつだつて、おこつて居ない時はねいんでさア。
丁度又自分の通りな赤んぼうが有升たつたつけよ‥‥‥夜昼鵝鳴つ通してネ、それで、わたしに守をさせてネ、鵝鳴るたア、わしに何んでもとつて放りつけるんでさア。
一度なんか皿アぶつヽけると、丁度赤んぼうに当つちまつて‥‥‥腮へ瑕拵らへちまつたんです、医者がなんでも死ぬまで癒るまいつて言ひ升たつけゼ、イヤア、とんだお袋だつたんでさア。
家兄とわしと其小坊主と三人して、イヤ大騒ぎをやらかしましたつけよ。
全体、其女は家兄が早く金を拵れいねいつて、怒るんだ。
それだもんだから、牧畜をやるだつて、合手を拵らへて、西国の方へ出てつちまつたんです。
スルト一週間もたヽねいに、ある晩、わしが新聞売つて帰つて来る、見ると戸に錠が降ろして有つて、中は空つぽになつてる、隣のおばあがおミナは行つちまつたつていふんです。
逃亡したんです。
誰だつけか、子供のある奥様に付いて、海を渡つて遠国へ行つちまつたんだつて言ひましたつけ。
それからつていふものは音信不通さ、家兄にだつて、一向音沙汰なしなんでサア。
わしなら、心配なんかしてやりもしねいが流石家兄もたんとしねい様だつたんです。
ダガ、始は丸で首つ丈で丸で、夢中になつてたつけ。
ダガ、着物でも着けいて、怒つて居ねい時なんかは、余つぽど奇麗な女でしたつけ。
眼つてば、真黒で、でつかくつて、頭髪つてば、矢つ張り、真つ黒で、膝んとこまでもあるんだ、なんでも、編めば男の腕ぐれい太くなつてネ、それを頭中グル\/捲いんたつけ、眼なんてはなんかの珠玉の様にテカ\/してたつけ。
なんでも、半分はイタリヤ種だなんて、いふ人が有ましたつけ……お袋とか爺とかがあつちの方から来んで。
それで妙な所が有るんだなんてネ。
どふも、そんなもんか知れないと今じや思つてるんです。

時々此女と自分の兄のことの話しをホ氏にし升たが、兄が西国へ行つてからも一二度は手紙も来た様に言ひ升た。
べンも中々好い運に有つかず、此所、彼所と徘徊廻り升た。
併しヂツクがホ氏と知己になつた当時には、カリフオルニア州の牧畜場へ這入つて働いて居升た。

家兄もあの女にすつかり、骨を抜かれつちまつた様なもんで、時々わたしも可愛さうになつて来たんです。

此時二人は、相変らず、戸口に坐つて居て、ホ氏は煙管に煙草をつめて居升た。
それで、マツチ箱を取るとて、立ちながら重\/しい調子で、

全体、嫁なんぞ貰はなければ好んだい。
女なんぞ。
わしなんぞは、あんなものはどこが好いんだかさつぱり分らねいナ。

さて箱を開けて、マチ一本出さうとするはづみに、足を止めて、帳場を見ると。

ヤア、手紙が来てゐるの、ちつとも、知らないでゐた、
わしが気がつかん時に配達が置てつたらうか、
それとも、新聞が今まで載つかつて居たんだらう。

さて手にとつて篤とこれを見、ビツクリ声に、

イヤ、あれから来たんだ、ちげひねへんだ。

そこで、スツカリ煙管のことは忘れて、イキセキしながら、元の倚子に帰り、懐中ナイフを取り出して、封簡を開き、

こんだは何の便りだかナ?

といつて、開らいて読んだ手紙は此の通りでした、

大急ぎで一筆したヽめ候
それは大変珍らしひことができてをぢさん聞なされば驚ろきなさると思ふからに候
先からのことはみんなまちがひで僕華族ではなく侯爵にならずとも好いのに候
僕の伯父さまでビーヴィスといふ人の嫁になつた婦人が小ども一人持つて居り候
そして其児がフォントルロイで御座候
英国では侯爵のそうりやうのむすこがいつでも侯爵になるので御座候
みんな死ねばで御座候とうさまやぢひさまが死ねばで御座候
僕のおぢいさまは死なヽいけれどをぢさまは死んだので御座候
それ故をぢさまの児がフォントルロイで僕はさうでなく候
それは僕のとうさまは末のむすこであつたからで候
僕の名はニユーヨークに居た時と同じでエロル、セドリツクと申のにて候
そしてなんでもみんな其児の物になるのに候
始めは僕の車や小馬もやらなければならないのかと思ひ候
併しおぢいさまは遣らずとも好いと仰しやり候
僕のおぢいさまは大変こまつてお出なさり候
そして其婦人が好でない様だと思ひ侯
併し僕が侯爵になられないから僕と僕のかあさんが厭だろうと思つて入つしやるのかも知れす候
僕は始め思つたよりか今侯爵になりたく候
此のお城は大変奇麗で僕みんなが大変好だからで候
そして大層金があれば色々のことができるからで候
併し僕はモウ金持ではなく候
なぜといへばとうさまが末の息子ならば誰でも金持ではなく候
僕母さまを世話できる様に働らく積りで御座候
僕ウィルキンスに馬丁の仕事のこと尋ね候
僕馬丁か御者になるかも知れす候

あの婦人は子供をつれてお城へ参りおぢいさまとハヴィシヤムさまとが逢て話しなさり候
あの婦人は怒つたのだらうと存じ候
大きな声で話しをいたし候
僕のおぢいさんも怒りなされ候
僕おぢいさまの怒つたの始めて見たのに御座候
みんながあんなに怒なければ好いと存じ候
僕はをぢさまとヂツクに直ぐ話さうと思ひ候
其訳はあなた達が聞度だらうと思つたからに候
この手紙はこれ切りでやめ申候
          旧友
           エロル、セドリツク、
            (フォントルロイではなし)
  愛する
   ホツブス様

ホツブス氏は椅子へドツカと[馮+几]れ、其手紙は膝の上へ落ち、懐中ナイフは床の上へ滑り、封筒も同じく下へ落ちました。

フーン、おらあ呆れけいつた!

と鉄炮を放す様に言ひ升た。
余り動じ様がひどいので、歎息の声まで平常とは違つて居升た。
ヂツクは側から、

そんなら総破烈なんですネ、

イヤ、大破裂だ、
ダガ、わしはあの子が米国人だといふので、権理を奪ふつていふんで、何んでも英国の貴族めらが仕組んだこつたらうと思ふんだ。
あの革明以来わしらの国へ対して怨みがあつてたまらん処だから、今あの子に意趣がへしをするんだらうゼ。
わしがなんでもあれが剣呑だつていつたが、そら見さつせい。
ヒヨツトしたら、政府がみんなかヽつて、法律の上であの子のと締つた物を取らふといふのかも知れねいゼ。

ホ氏は大層心痛の体でした。
最初にはセドリツクの境遇の変わるのがふ賛成でしたが、近来は追々思ひ直す処も出来、殊にセドリツクの手紙が来てからは、自分の旧友と思ふ者の出世を内々自慢に思ふ位になつたのでした。
全体侯爵といふ者は相変らず、嫌ひでしたらうが、米国にても金といふものはかなり調法なものでしたから、財産や段々聞伝へた豪勢なことが爵位に伴つて行くものならば、其の爵位のなくなるのは多少の迷惑だらうと思つたのでした。

なんでも、あの子につくものをうばわふとしてゐるにちがいねへ、
金のある人がチツト世話やいてくれヽば好にナア。

そして、其夜はヂツクを遅くなるまで引とめて置き、帰る時には角まで送つて行升た。
そして帰る途には例の空家の前へ立ちどまり、非常に心配しい\/煙草をふかして「かし家」の札を稍暫らく眺めて居升た。
(以上、『女学雑誌』第二九二号)


 小公子        若松しづ子

第十三回(甲)

ドリンコート城で彼の宴会が有つて幾日も経ぬに英国中凡そ新聞紙を読む人で、此お城に新らたに起つた小説めいた話しを知らぬ者は有ませんかつた。
実に此一條を其まヽ巨細に話せば、随分面白味のある小説になり升た。
第一、フォントルロイ殿として英国へ迎へられた米国生れの小息子のことが有り升たが、これは容色も人品も尋常でない様に評判されてゐて、はや人の望が一般是に帰して居り升た。
第二に、儲嗣に付ては大自慢の老侯が有り。
又第三には、カプテン、エロルと結婚した為に受けた不興が未に解けぬ彼の若い美人の母のことが有り升た。
其上今は世にない先のフォントルロイ殿なるビーヴィス君の始めて現われた結婚のこと、誰も見知らぬ其夫人が急に子供を連れて立あらわれ、我子こそ真のフォントルロイ殿ぞと権理を主張するといふのですから、段々との事件をしやべりたて、書たて升て、世間では一方ならぬ騒動をして居升た。
さうかうする中に、ドリンコート城主が此度起つた事件と其成行に頗る不満で、言立に対して法律上控訴されるに付ては、一大公事になるかも知ぬといふ風評が続で聞へ升た。
エールスボロの村のある郡中に曽つてこれ程の騒動の起つた例は有ませんかつた。
市日などには、成行はどうであらふ、こうであらふの話をする人々が群をなして居り升た。
百姓のかみさんたちは、聞いたこと、思ふこと、又人が思つてゐると推することまでも互ひにしやべりくらべして、楽しまふが為に態々茶呑みに朋友を招きだてする位でした。
侯爵の憤怒の事、新たなるフォントルロイをそれと認まいの強情に付て、原告の母なる婦人に対しての憎悪なとに付ては、さま\゛/珍奇しい噂話をいたし升た。
併し話しの最も多いのは矢張り、彼の荒物やのおかみさんで、以前より又一層繁昌いたし升た。
彼の婦人の言葉に、

イヤハヤ、飛んでもないことになりさうですよ、そうしてそんなことは大きな声じや言へませんがネ、あんな可愛らしい人を意地わるく、子供まで取り上げてしまつた罰ですよ。
デモ、おまへさん、其子が又可愛いくつて\/、秘蔵で\/自慢で\/しよふがないもんだから、こんどのこつて、丸で、狂気の様ですと。
それにネイ、おまへさん、こんどのは先の若様のお袋さんとは大違ひで、お品も何もない女ですと。
何んだか。
シヤアツクで、眼玉の黒い変なんですと。
だもんですから、制服を着て務める位の身分の者が、あんなもんに遣われるのは外聞がわるいつてネ、それで、お邸へ這入るつていふのなら、おれは直と退くなんていつて升たよ。
それに、こんどの子つていふのは先のと較べれば、月と鼈といわふか、マア迚も比較べ様もない様なんですと。
そこで、おしまいにはどんな騒動がおつぱじまるか、いつ方がつくこつたか分りませんよ。
わたしつてバネ、ヂェーンが来て、其話しをする時なんか、肝が潰れて、さわつても倒れさうでしたよ。

城中でも上から下まで騒ぎでない処はない位でした。
侯爵とハ氏とが協議して居られた書斎にも、タマスやパン焼や、他の僕婢たちが引も切らず噂をしては囁き合ふ僕婢の部屋にも、ウィルキンスが鬱憂極まる顔色で仕事をしてゐる厩にも同様でした。
ウィルキンスは例の茶色の小馬をとり別け、丁寧に世話をし、御者に向つて萎\/と、

おらあ、あんなに雑作もなく憤れツちまつて、あんなに威勢の好のに馬術、をせいたこたアねへんだ。
あヽいふんなら後ろから供をしてつても、心持が好いや。

といひ升た。
然し此大騒動の真最中に、極く静かにして、一向狼狽もせぬ人が有升た、其人といふは、最早フォントルロイ殿でもなんでもない様に思われて来た、フォントルロイで、始めに事情を明細に説き聞かされた時は、少しく心配にも、又当惑の様でも有りましたが、併しこれとても、出世の大望が外れた為では決して有ませんかつた。
侯爵が彼の一條を話し聞かせられてゐる間は、膝を抱へ乍ら低い台へ腰かけてゐ升たが、これは精神の這入たことを聞く時分いつもする僻で有つたのでした。
其話の終る頃には平常にないまじめになり升た。
そして、

僕、なんだか変な心持がし升よ。
なんだか‥…変です。

といひ升た。
侯爵は沈黙に子供を見て居られ升た。
御自身のお心持も変でしたが、実際生涯にかふいふ変な心地がした例がない位でした。
そして、いつも、さも嬉しげな可愛いヽ顔がけふに限つて当惑さうなのを見て、尚さら変に感じられ升た
此時セドリツクは少し震へた様な心配さうな声で、

あの人たちがかあさんの家だの、アノ‥‥‥馬車だの、とつてつてしまうでせうか?、

ナニ、そんなこと、(と侯爵さまが声高に)何もとつて行くことは出来んのだ、

セドリツクは先づ一と安心といふ調子で、

アヽさう?
とつてけないんですか?

さういつて、お祖父様のお顔を仰向いて見詰め、少し掛念する事がある様子で大きな、眼を潤ませながら、言ひかけて尚こわ\/に、

アノあつちの子ネ、お祖父さま、アノ‥‥‥子がこんどつから‥‥‥お親父さまの‥‥‥アノお祖父様の子にならなくつちやならないんでせう‥‥‥アノ今までの僕見た様に。

ナニ、そんなことがあらふ!

と仰つた侯爵のお声が余り武しく、大きかつたので、セドリツクは飛び上るほどビツクリし升た。

アレさうでもないの!(と不審さうに)さうならないんですか、僕、さうかと思つたんですよ。

といつて、急に腰かけを離れ、

僕、侯爵にならなくつても、矢つ張り、お祖父さまの子なんですか?
先の通りにお祖父さまの子?

といつた顔が紅で、そこに、返事を待つ一心が現われて居升た。
どふもこの時の老侯が、頭から足の先まで、セドリツクを御覧なさり様といへば、実に非常でした。
彼のフツサリした眉の寄せ塩梅といひ、其下の窪い眼の光り様といひ、実に平常と違つて居り升た。

おれの子かなんて、おれの息のある中は貴様はいつまでもおれの子だ。
それに貴様の様におれの子だと思つたのは他に誰もない気がするんだ。

と仰つた声いろが非常に、震つた様で、チギレ\/の様で、枯燥た様で前よりも殊さら一層きつさうに物を仰つても、侯爵らしい処は有ませんかつた。
セドリツクの顔は頭髪の根まで赤くなりました。
心の落着と嬉しさとで赤くなつたのでした。
そこで両方の腕を深かくポツケツトの中へ突き込み、お祖父さまのお顔を、此度は一向恐気なく見挙げて、

お祖父さま、ほんとうにそんな心持がするんですか?、
ジヤ、僕、侯爵だの何んだのつて、そんなこと、どふでも好いですよ。
僕、侯爵になんかならなくつても好いです。
僕ネ、かふ思つたんです。
アノ、侯爵になる子の方がお祖父さまの子にもなるのかと思つたんです。
ネイ?さうすれば、僕さうじやないんだナつて思つたんです。
だから、僕、変だつたんです、ネイ?

侯爵はお手を其肩の上へ載せて、自分の方へズツト引きよせ、太い息をつきながら、

おれの力の及ぶ丈は、何も彼も抑へて、取らせはせん。
おれはまだ信ぜん。
あいつらが貴様の物に手をつけることが出来やうとは信ぜん。
どうしても、貴様には此位が備わつてゐるのだ。
それで矢つ張り、貴様のになるかも知れん。
ダガナ、何事が有らうと、おれの力にいきさへすれば、何もかも、貴様に遣るぞ、一切遣るぞ。

かふ仰しやるお声とお顔に非常な決心が現われてゐまして、丸で子供に物を言つて居られるとは思へない様でした。
我と我が心に誓約をされるかの様に聞え升た。
そして実際さうで有つたかも知れません。
今が今まで、どれ程までに、子供を寵愛し、どの位自慢で有つたか、御自分でも御承知がなかつかの様で、其の屈強な処も、美質のある処も、容色の立派さも、これ程とはと、今さら詠められる様でした。
其頑固極まる性質にとつては、左程堅く心に諦めたことをやめるといふことは殆どなし難い、一体左様なことはない筈としか思へませんかつた。
それ故、よし権理を人手に渡すにしても、充分遣合ふてからでなければと、断然決心されたのでした。
ハ氏に面会した数日後に、フォントルロイ夫人と言ひ立た婦人がお城へと推参して、彼子供を引連れて居り升た。
併し早速に追ひ返され升た。
取継に出た給事が侯爵さまは面会お断りで、出入りの代言人に委細取斗らわせるで有らうと申伝へ升た、上からのお取継をしたのは、彼タマスで、あとで、僕婢の部屋で滔々と此婦人に付ての考へを陳述し升た。
タマスの言葉に、

わしも華族方のお邸で制服勤めを長らくした、お蔭には、此婦人がどの位に品のある位か知れないでたまるもんか。
それで、あの女が貴婦人だといふなら、わしの女を見る眼は腐つて居るツていふん。

といつて、一層自慢らしく、

憚りながら、あのロツヂに居る方は、ソリヤ、アメリカ生だらうが、さうでなからうが、あれこそ、本当の品のある方よ。
片眼しか開いてないだつて、その位はこちとらにやア知れらア、それだから、あそこへ始めて行つた時、直ぐとへンレにさういつたんだ。

(以上、『女学雑誌』第二九三号)


 小公子      若松しづ子

   第十三回(乙)

女は拠なく、引返し升た。
容色こそ好けれ、下卑た其顔をこわ\゛/ながら恐ろしい権幕にして。
ハ氏は段々と度々面会する内に、此女が非常な疳癪で、行儀は粗暴に卑野計り有つても、談判は中々器用に行かず、又存外度胸も坐つて居ないといふことを発見し升た。
時としては、自分ながら大層な請求をし始めたと我ながら気おくれのする気味があつて。どの道、これほど攻撃を受けやうとは夢にも知なかつた様子でした。
ハ氏がエロル夫人に此女の話をして、かふ言ひ升た。

其の婦人といふは正しく、下等社会の人間で御坐り升。
何事にも、教育とか、躾とかいふものは皆無の様子で御坐り升から、われ\/どもと相対して、同等の交際をする術さへ知らず、自分も途方にくれる塩梅が見えており升。
お城へ推参しても、余程毒気を抜かれたものと見え升テ。
イヤ恐ろしい権幕で腹はたてヽも、余ほど毒気を抜かれて居るのです。
侯爵は面会はお断りになり升たが、手前がお勧め申して、投宿して居る宿へお連れ申したのです。
先づ侯爵がお入りになるのを見ると、肝を消し升てナ、真青になつたと思ふと、俄に猛り立ちまして息もつかず赫して見たり、請求をしたり、イヤハヤ、大騒動で御座り升た。

此時の実況を申さば、侯爵が先づ厳めしい貴族的の豪の者の如くに、ツカ\/と大股に室へ踏み込み、突立つたまヽ秀でた眉の下からヂツト女を見詰めながら、敢て一言も仰つしやらなかつた塩梅は、何か、極く忌はしい物ながら、珍奇らしさに、見る眼を離されぬといふ調子で、只頭から足の先まで、と見かふ見して居られ升た。
そして、自分は一向口を開かず其女が疲れ果てるまでしやべらせた後で、

貴様はおれの長男の女房ださうだ。
真つこと、貴様のいふ通りで、証拠が慥かならば、是も非もなく、法律上貴様の方が勝利だ。
万一さうとすれば、貴様の生んだ子がフォントルロイに違ひはないが、事実は土底まで確かめる覚悟で居るから、さう思ふが好いぞ。
貴様の申立が其通となれば、正当丈のことはして遺はさうが、それにしても、おれの息のある中は、貴様も、貴様の生だ子も一切眼に触て貰ふまい。
おれが眼を眠つてからは、貴様ふぜいに、あの城を手もなく蹂躪されるのだが、それは拠ないのだ。
全体おれの長男なら、丁度貴様たちの様な者に拘らふ奴だと断念めて居るのだ。

と仰り残して、其まヽ立つて、ツカ\/と来られた時と同じ調子に又立去られ升た。
これより数日後に、小坐敷で書物をして居たエロル夫人へ下女が客来を報じ升た。
下女は取り続をして、何かドギマギした様子で、眼を丸くして居り升た。
そしてまだ年若で、ものなれぬ処から、奥様の為に非常に気遣つて居る体でした。
それで、何か恐ろしくて、ビク\/して居るといふ声で。

奥様、マア‥‥‥あの侯爵さまで御座い升よ。

エロル夫人が客間へ這入升た時、丈高く、凛然とした老人が虎の革の敷物の上に立て居られ升た。
其立派な老顔には、どことなく渋味があり、横顔は鷲の顔を見るの趣味が有り、長く延した八字髯は真白で、容貌は一ロに頑固といふ方でした。
先言葉をかけて、

エロルの妻であらうな?

左様で御座り升。

おれはドリンコートだ。

と言れて、自分の顔を何気なく、見挙た顔に、我知らず一寸眼を止めると、数月以来、一日に幾度となく、自分と見かはす、げんきな、愛くるしい、幼ない眼に生写しなので、妙な心持になり、唐突に、

あの子供は、よくも貴様に似て居るナ。

御意で御座り升、左様に申すものも沢山御座り升が、矢張父に似て居る様にも考へ升て、楽みに致し升ので。

ロリデール夫人が嘗つていつた通り、エロル夫人の声は真に涼やかで、其風采はいかにも淡純に、上品でした。
夫人は侯爵の思ひよらぬ御入来を、聊か迷惑に思つた様子は有ませんかつた。
そこで侯爵も、

さうだ、おれの‥‥‥子にも‥‥‥似て居る、

と仰しやつて、手持なさに、彼の八字髯を遺恨でも有りさうに、頻りに引張りながら、

貴様、おれがけふこヽへ来た訳を知つてるか?

アノ、ハヴィシヤムさまにお眼に掛り升たら、今度云々の言立をする人が御座り升さうで‥‥‥

それで、力の及ぶ限り攻撃する積だ。
それでは法律上差支の無い限り、保護する心だから、そのことを言ひに来たのだ。
子供の権理は‥‥‥

夫人は優しい声で押とゞめ、

たとひ法律がゆるし升ても、正義にかけて所有権のないものならば、決しておとらせ下さりません様に願ひます。

イヤ、法律上で子供のものになりさへすれば結構だが、それさへ出来さうもないのだ。
彼無法千万の女親子が‥‥‥

夫人は再びしとやかに、老侯の言葉を遮り、

併し御前様、其婦人にいたしても、手前がセドリツクに対すると同じ情愛を持つて居ることで御座りませう。
それで、其婦人が正しくお世とりで有らせられた方の夫人とならば、其お子がフォントルロイ殿で、手前のは左様でないことは極く明白で御座り升。

かふいふ様子の素直で一向恐気のない処は、よくもセドリツクに似居て、自分を見る顔付も亦セドリツクの通りでした。
それで、一生涯人を圧制しあぐんだ身には、却て、心の中に愉快を感じられ升た。
何と言ふと、侯爵に反対をいふ人は極く稀でしたから、物珍らしくも、面白く思はれたのです。
そこで、態と少し眉を顰めて、

貴様は全体子供がドリンコート侯にならぬ方が勝手と申すのだらう。

此時夫人は、花やかな其顔を紅らめ、

どふいたし升て、ドリンコート侯爵と申せば、大した格式で御座り升。
併し手前は子供が何はさて置き、第一に父に傚ひ升て、万事に雄々しく、正義を守る様致し度ので御座り升。

老侯はかふ聞いて、少し嫌味に、

ハヽア、祖父とはなる可く、正反対に有らせ度といふのだらうナ。

憚ながら御祖父様にはお知己が御座りませんので、何とも申上られません。
併し子供は誠によく信‥‥‥(言さして、暫し口を鉗み、静かに侯爵のお顔を打守り)セドリツクが御前様にお懐き申て居ることは、よふく承知致して居り升。

侯爵は極く味気なく、

どふだらう、貴様を城へ迎へない訳を知らせても、矢張りおれに懐いたらうかナ?。

どふもさうは参りませんでしたらう。
それ故、手前が是非知らせ度ないと存じたので。

御前は唐突に、

ダガ、それを言はない位の女は、たんとないナ。

と仰つて、益々八字髯を引張りながら、座敷をあちらこちらと濶歩し、

さうだ。
あれはおれを好きな様だし、おれもあれを愛してるのだ。
おれは全体、誰も好いた覚へがないのだが、あれ丈はどふも可愛いヽのだ。
始めから、気に入つてしまつたのだ。
おれも年をとつて生活が懶くなつて居た処だつたが、あれが来て、長生のし加斐が出来たといふものだ。
それで、人にも自慢して、おれのない後は、あれが家の首領になるのを満足に思つて居たのだ。

といつて、夫人の坐つて居た前へ来て、突つ立ち、雑粕にかふいはれ升た、

おれは不愈快極まるのだ。

御様子を窺へば、なる程、さこそと思はれる様でした。
平常我慢なたちも、手と声の震へをとゞめることが出来ない位でした。
一寸其時には、凹い武しいお眼が涙で潤んでゐたかの様に見え升した。
眼を見張つて、言ふがまだ少し残念さうに、

おれは非常に不愈快な処為で、貴様の処へ来る気にもなつたのだ。
一体おれは貴様を憎い奴と思つてたのだ。
それから又貴様のことをやつかんだことも有つたのが、今度不名誉極る事件が起つて見ると、万事の体面が変つて来た。
おれの長男の女房と名乗るアノ嘔吐い女を見てから、貴様と顔を合せれば、却つて気色が直るかと思つて来たのだ。
おれもよつぽど頑固な老ぼれで、貴様に対しては、済まぬこともあらふ。
ところで貴様はあの子に似てゐるが、あの子の為におれも生きてゐる様なものだから、今度の事件で不愈快極まる処から、あの子に似て居る貴様にも逢ひ、あの子を思ふ処が貴様もおれも同一だから、それで、必竟、こヽへ来る気になつたのだ。
貴様も子供に免じて、おれをひどく悪く思つて呉れるな。

かふいはれた声は左程優しくはなく、いづれかといへば粗暴な様でしたが、兎に角余り落胆されてゐる様子振りに、エロル夫人は気の毒さが心に溢れ、立つて、安楽倚子を少し前へ進め、極く優しく、可愛らしく、同感の情を篭めた調子で、

マア、兎に角、おくつろぎ遊しましナ。
頃日御苦労の多いので、余ほど御被労遊してゞす。
存分お厭ひ遊ばしませんでは。

率直に自分の言つたことを反対されるが珍らしければ、優しく、飾りけなく物をいはれたり、真心から介抱られるのも亦老侯にとつて珍らしいのでした。
又しても、セドリツクによく似た処よと思ひつヽ、言れるまヽに座に着かれ升た。
かく落胆し、かく不愈快を感じられたことは、老侯にとって、屈強な懲戒で有つたのでしたらう、不幸な遇境に陥なければ、相変らず、夫人を憎くんで居られたかも知れません。
併し、今の処では対面が結句心遣りになつたのでした。
それに、フォントルロイ夫人に面会された当坐は、何事も比較的に愉快と見たことでしたらうが、況てエロル夫人は誰が見ても、容貌や声が可愛らしく、進退も誠にしとやかでした。
暫らくする中に、静かに、温かな週囲の空気に同化されて、心地が漸くすが\/しくなつた処で、また、少し言葉を続けられました。

何事が有らうとも、子供の為には適当の用意はして置くぞ
今も未来にもおれが必ず、不自由はさせぬ。

といふて、立かけて、座敷を見廻し。

どふだ?、此家は気に入つたか?

誠に結構で御座り升。

中々小ざつぱりした座敷だナ、又時々に来て、話しても差支ないかナ?

御意に叶ひ升たら、いつ何ん時でもお入り遊しませ。

そこで、馬車に乗つて、お立帰りになり升たが、タマスやへンレなどは、今度のなり行の異様なのに胆を消して、物も言へぬ位でした。
(以上、『女学雑誌』第二九四号)


小公子        若松しづ子

第十四回(甲)

フォントルロイ殿一條で、ドリンコート城に騒動が起ると共に英国新聞は探訪の届く丈詳細に書き立て、間もなく米国新聞にも伝説致ました。
此一件は中々軽く看過す可からざる程面白味のある新聞種でしたから、世評がとり\/に騒がしいことでした。
それ耳か、諸新聞に出た雑報が区\/に異つて居て、一々買ひ集めて伝説の比較をしたら、余程の興味有うと思われる様でした。
ホ氏などは、気が煩乱するまであらゆる雑報を読み尽し升た。
一ッの新聞には、セドリツクを乳呑子の如くに申し、モ一ッは、オツクスフォルド大学に於て、才学の聞え高く、ギリキ語の詩作で、名の現われた壮年の如くに書き立て、外の一ッは「さる、華族の令嬢と結婚の約束が宛かも調ふた折から」などヽ訛伝し、又モ一ツは、最早結婚の式を挙られたと述べ升た。
併し、チゞレ頭で、体格の屈強な、七才と八才の間の小息子といふ実際をいふものは一ツも有りませんかつた。
それ耳か、一ツの新聞には、先にフォントルロイと名乗り出たものは、ドリンコート侯には一向因縁のないもので、米国まで儲嗣を尋ねに送られた代言人をば其お袋が瞞着し遂せたまでは、ニユーヨークの市中をごろついた不懶漢だと申伝へ升た。
それから又新らしいフォントルロイと其母との伝説になり升た。
一説は其お袋をヂツプセと言つて、隊を組み人の物を掠などして、覚束ぬ日を送る舶来乞食の中間とし、又一説には女俳優とあり、又た一説には美貌あるイスパニヤ婦人と有り升た。
併し、ドリンコート侯が之を敵視して、力の有らん限り、攻撃し、構へて其息子を儲嗣と認められぬといふ一事丈に於ては、諸新聞が同説の様でした。
それで、其婦人が所持した証拠物書類に聊か不審の廉が有つて、此度法廷へ持ち出されるに付ては、裁判は余程長引で有らふ、又これまでにない面白い事件で有らふといふ評判でした。
ホ氏は頭悩に取止のなくなるまで新聞を読みつゞけ、日が暮れヽば、ヂツクと其話をスツカリし直しました。
さうする中には、ドリンコート侯といへば、どの位の格のあるもの、財産はどの位有つて、所有地は幾ケ所、現在住居される、城郭がどれ程壮麗といふことなどを追々と知り始め升た。
そして、詳細が分れば分るほど、両人が気を操み出しました。
そこで、ホ氏が

ナア、さうじやねへか、おいらみた様に侯爵でねいツテ、そんな大した物をムザ\/人にせしめられてたまる者かナア。

併し実際何と言も、自分たちが助立のし様もなさに、たゞ二人して音信を通じて、友誼の変らぬことと、同感の情とを申送り升た。
彼の報を得るや否や、早速其手紙を認て、互に見せ合ひ升た。
ヂツクの手紙をホ氏の読んだのは、左の通りでした。

ホツブス旦那のとこへもわしところへもおめへの手紙がとゞひた。
おめへも運のまあり合せがわりくなつて気の毒だ。
なんでもしつかりふんばつてゐねい。
人にいヽかげんのことされちやいけねい。
よつぽどふんどしい堅く〆てゐねいと、どろぼう根性のものにいヽようにされるぞ。
かふいふのもおめへがこつちに居るじぶん恩になつたことを忘れねいからだ。
だから外にしかたがなけりやこつちへ来てわしといつしよにやるがいヽ。
この頃は大分繁昌してる、それでおれがおめへの世話して困らねいやうにしてやるワ。
どんなやろうが来たつてわしが居れば大丈夫だ。
こんどはこれ丈にして置かふ。        ヂツクより

ホ氏の手紙で、ヂツクが読んだのはかふいふのでした。

御書状拝見容易ならぬ一條で御座候と奉存候
何でも拵へごとで仕組んだ奴は其侭にしては置けないと奉存候
二ケ條の申進じ奉候
私もキツト此事一ツ調べ申し奉候事貴殿内々にして置て被下候
其内私代言人と相談いたし候て尽力いたし奉り候
そこで甘く行かず侯爵のやつらにまけ候はゞ貴殿成長被成候上万やの株半分差上奉る可く候
私貴殿を引取り世話奉り申す可く候也     再拝頓首
                サイラス、ホツブス拝

それでホ氏が

あれが侯爵にならねいつて、かふして置きや、二人で差支のねい様に世話が出来るワナ。

スルト、ヂツクが、

さうとも。
わしはどこまでも加勢する気なんです。
あんな好いた様な子はなかつたから。

其翌朝ヂツクの花主の一人が驚いたことが有升た。
此花主といふは、開業した計りの若代言人で、若代言人の例として、極く金はないのでしたが、怜悧、活溌な若者で、鋭敏で、気質も優しい方でした。
丁度ヂツクの店を出す側に見すぼらしい事務所を持つて居て、ヂツクが毎朝、其靴を磨き升た。
其靴といふのも折ふし水の通らない限でも有ませんかつたが、ヂツクにいつも深切に言をかけるか、冗談を云かして行き升た。
其朝台の上へ足を載せる時に、手に一枚の新聞紙を持つてゐ升た。
其新聞紙といふは、近頃大景気のあるので、人物や、物品の挿画もあり升た。
今丁度それを読み通したと見へ、両方の靴も軈て磨き終るのを待てヂツクに是を渡し、

ソレ、新聞を遣ろう。
おまへ朝飯を食ひに行く時分見るが好いぜ。
英国の城の図も、侯爵華族の嫁様の画像もあるぞ。
これ一人で、中々ゑらい騒動を起したんだが、頭髪なんどの沢山ある立派な女だワ。
おまへも貴族華族もいくらか知つて居ないといけないよ。
先づ畏くも、ドリンニート侯爵さまとフオントルロイ令夫人にお近づきするが好(と言つてヂツクの様子振りに気がつき)イヤー、これはしたりどふしたんだ?。

(以上、『女学雑誌』第二九五号)


小公子        若松しづ子

     第十四回(乙)

其若人の話しの画といふは、新聞の表に有り升て、それをヂツト、眺めて居たヂツクの眼と口は、大きく開いて、其驚ろいた顔は青くなつて居升た。
そこで、不審に思ふた其人が又、

これはしたり、ヂツク、どふしたのだ?、
なんでそんなに胆を潰してるんだ?

ヂツクは容易ならぬ一大事が出来したといふ顔つきをして居升た。
さうして、主張者の母、フォントルロイ夫人と下に記るした画を指し升たが、その画といふは黒々とした頭髪を太く編んだのが、グル\/と頭に捲いてある、眼の大きい一寸立派な女でした。

この女なら、おらあ、旦那知つてるより、好く知つてるんだ。

彼の紳士は笑ひ出し升た。

ヂツク、おまへどこで出逢つたんだ?
ヱーニユーポートへ避暑に出かけた時か、それとも、パリへ見物に行つた時でも有つたか?

さふいわれても、ヂツクは笑ふことさへ忘れた様でした。
それで一寸もさし置けぬ大事が起つて、当分家業も打捨てるのかと思われる様子で、刷毛其外の物を片づけ始め升た。

マア、どふでも好いが、知つてることは知つてるんだ。
今朝は、仕事も何もおしまいだ。

と捨言葉をしてそして五分も経ぬ中に、彼のホ氏の角店指して一走りに行升た。
帳場の向ふに坐つて居つたホ氏も相変らず手には新聞紙を持つて駈込むヂツクを見てビツクリし升した。
余り急いで走つた故、ヂツクは息をきつて居升た。
それで新聞を帳場の机の上へ投げました切り、暫らく、ロもきけぬ程でした。
ホ氏は、

ヤアー、何を持つて来たんだ?

マア、見ねい、此の画の女を見ねい、これが華族なんかでたまるもんかヨウ(とさも見下げたといふ声で)華族のかみさんなんかであるもんか、これがおミナでなけりやあ、おらあ旦那に食われつちまたつて介ねい。
おミナよ、おミナに締つてらア。
どこに居たつて、知れらア、べン兄だつて過ぐ分らア、嘘なら聞いて見ねい。

ホ氏は、腰を抜かした様でした。

ダカラ、わしが言ねいこつちやねい、仕組んだ狂言に違ねいツテだ。
あれがアメリカ生れだつていふんではめたにちげいねいんだ。

ヂツクは、呆れ声で

ナニテツキリ此女さ、此女が拵らへた狂言とおらあ思ふんだ。
ダツテ、いつでも悪戯斗りして居やがつたもの、デネ、此画を見ると直ぐと心に浮んだことがあるんだ、ソラネ、こないだ読だ新聞に、其女の連れて来た子のことネ、ソウ、顋んとこに傷の跡があるつて書いて有つたらう、ナア、それとこれと一処にして見ねい、其傷ツテいふナア、こいつの拵らへたのよ。
ダカラ、そいつの連れて来た児つていふナア、華族処か、あれが華族ならおれも華族だ。
そりや、ベン兄の児よ、ソラおれに玉ア投げつけた時あてた児よ。

ヂツクは全体鋭敏児で、大い都でもまれ\/して尚一層鋭敏になつたのでした。
いつでも目端を利かせ、いつも頓智を廻して居升たが、此時発見した一大事に付て、気を[火焦]て騒ぐのは結句面白半分の様でした。
其朝、若しフォントルロイが其店を覗うことが出来たならば、たとひ自分には関係なく他の児の運定めになる相談や、計画であつたにしろ、余ほど興あることに思つたでせう。
ホ氏は此一條につけて新たに起つた自分の大責任に圧倒されて殆んど夢中の体でした。
そして、ヂツクの威勢もイザ討ち出さうといふ塩梅でした。
先づべンへ向けて手紙を書き始め、彼の画を切り抜いて封入し升た。
ホ氏も亦、セドリツクへ一通、侯爵へ一通手紙を認め升た。
両人が手紙を認める真最中に、ヂツクが急に思ひ出したものが有り升た。

ネイ、あの新聞をわしに呉れた人ネイ、あれは代言人だがこヽでどふしたもんか、一つ尋て見よふじやねいか、
代言人なんかなら、知つてるに諦つてるだらう。

かふ聞いて、ホ氏はヂツクの思ひつき、ヂツクの如才ないことに大感服に感服し升た。

さうよ、さうだつけ。
かふいふことにや、なんでも代言人が入用んだ。

そこで、店を手代りに頼んで、外套も大急ぎに引つ掛け、ヂツクと下町へ出かけ、彼のハリソンといふ代言人に小説めいた話を持つて行き升た処が、彼の紳士も一方ならず驚き升た。
此若紳士は余程名を起さうといふ心掛が有つて、充分手を開いて居つたから好し、さもなければ、此二人の申立を容易に取り上げなかつたかも知れません。
なぜといふに、其話といふは、いかにも、とつて着けた様に奇妙不思議に聞こえ升た。
併し差し当り、仕事はなく、ヂツクの人となりを略察し、又運よくヂツクの話し様も閑略で、尤もらしく聞こえ升た。
そしてホ氏の言葉に、

おまへさん、一時間いくらといふのでもかまわねいから、よく調べて貰いていんだ。
わしが一切呑み込んでるから。
ブランク町の角の万屋ホツブスといふんだ、宜しふがすか。

スルト、ハリソン氏が、

左様さ、これが思ひ通りにいけば、大したことになります。
フォントルロイ殿は固より、僕にとつても非常な運定めになり升。
それで兎に角事実の探索にとり掛つて、差支は有りません。
新聞で見ると引連て来た児のことに少し曖昧が有つた様子です、其女が其年齢の話しになつて、前後揃わぬことを言つたとかで既に疑惑を起してるんです。
そこで、第一ヂツクの児と、ドリンコート家の抱の代言士に手紙を出ませう。

そこで、其日の晩方までに二通の大事な書面が投函になり升た。
一通はニユーヨークの港から便船で、英国へと走り、モ一通は、客や手紙を載せて、カリフオルニアに通ずる汽車を飛ばせて行き升た。
一通は「ハヴイシヤム殿」、も一通はべンジヤミン、チプトンと表面に書いて有り升た。
其夜は店を閉めると、ホ氏ヂツクの両人は奥に夜半まで話しつゞけて居升た。
(以上、『女学雑誌』第二九六号)


小公子        若松しづ子

第十五回

時としては、極く僅かの時の間に不思議なことがあるもので、曽てはホ氏の店先の高い椅子から赤い脛をブラ下げて居た小息子の運命が、本の数分時間に一変して、今まで物静かな町に質素といふ質素な生活をして居たものが侯爵といふ泣階に添ひて、広大な所有を受継ぐ身分に早変りして仕舞升た。
さふかと思へば又英国の華族のうちに数へられた者が、現在、己がものとして、楽しんで居る栄華に対して毫末の権理もない一文なしの瞞着者とまで落されるのも僅か数分時間の様でした。
スルト又此度は万づの体面を再び飜へし既に失ふ斗りで有つたものを元通りに恢復するは幾程も経ぬ内で有つたといふは実に不思議千万なことです。
此事体が案外早く方づいたといふものは、己れをフォントルロイ夫人と主張した女が、仕組んだことの悪るいに比較しては、存外、巧ならぬ処が有つた故で、其結婚と子供については段々詰問される内に、一言、二言、云ひ誤りをして、疑惑を引起し升た処から、度を失ない、果は疳癪を起して尚一層内幕を見現はされたのでした。
女の言違ひましたといふは必竟子供に関して斗りの様でした。
先のフォントルロイ殿と結婚し、争論の末、手切金を取つて、別れたといふ事実には相違なかつた様でした。
併し其子供がロンドンのある処に生れたといふ話しは偽で有つたといふことは、ハ氏が発見し升た。
そして丁度其発見に付て、起つた騒動の真最中に、ニユーヨークの代言人とホ氏等からの書状が着したのでした。
此二通の手紙が到着し升て、侯爵とハ氏が書斎の中で処置法に付て協議された時は亦大層な騒ぎでした。
ハ氏の言葉に、

手前が婦人に面会いたして三回に及び升頃、余程心に疑を生じて参り升た。
第一見る処で其子供の年齢が申立よりは多い様に見受けられ升た。
其中に、出生の月日を尋ねられたはづみに、一寸、ロを滑らせたことが有升た。
尤も直ぐ其場はつくろひ升たが、此二通の書中にある趣が手前の心の疑惑によくも符合いたし升。
ソコデ、極く望のある法方と申は極く秘密に此チプトン兄弟を電報で呼びよせ、突然引合せるといふので御座り升。
彼の婦人も斯は仕組んでも、至極不奇用な方で御座り升から、手前の考へでは、直ぐ其場でギツクり度を失ふはづみに、後尾を現わすは必定と存じるので。

と申し升たが、其計画が思ひ通りの結果を奏し升た。
其女には一向何も知らさず、疑を起さぬ為にハ氏は其申立を取り調中と唱へて、折々対面をして居り升た。
そこで描いた狂言も図星を外さず、万願成就の期も近きにあると思ひ込み、女もおい\/応柄な調子になつて来たとは、さも有りさうなことでした。
然るに或る好天気の朝、ことの成つた上にはどふ、かふと、宿屋の座敷で結構極まる目算をしてゐる最中、ハ氏の来訪を告げる者が有升た。
通ふる処を見ると、後ろへゾロ\/続いて這入る人が三人有升た。
第一に機敏らしひ小息子、第二に、丈の高い壮年、第三には例の侯爵さまでした。
此時其女は思わず飛上つて、万事これまでといふ様な大声を立て升た。
不意のこととて、そ知らぬ顔にとぼけることも出来ませんかつた。
今眼のまへ。見えた中で二人のことなどは久しく思ひ出す暇もなくつて居り升たが、万一思ひだすことが有つても、数千里の遠きに有るものとも考へて居り升た。
それ故一坐に顔を合せることなどが有うふと思ふて居りませんかつた。
流石にヂツクは其顔を見てニタ\/と笑ひ升た。
そして、

イヤ! おミナさんか?

といひ升た。
べンなる丈の高い壮年は、暫らく沈黙で顔を見て居り升た。
ハ氏は二人の顔を交\/見て、

どふですお二人とも、同人を知つて御座るのか?

といひ升と、ベンが、

知つて居升とも、わしも、此女を知つて居れば、此女もわしに見覚えが有るんです。

といつて、一向平気で女に後ろを向け、顔を見るも厭といふ調子で、窓際に立つて、外表を脉めて居り升た。
スルト、其女が狂言のうらをかヽれ、悪事露見と知つてか、狂ふが如くに猛り廻り升たが、これはべンやヂツクが毎々見慣れて居たことでした。
其様子を見、さま\゛/自分たちの名呼わりをするのを聞いて、ヂツクハ尚一層ニタ\/と大口に笑つて居升たが、ベンは振反つて見もしませんかつた。
それで、ハ氏に向ひ、

旦那、どこへ出ても、この女が慥にそれといふ証拠はキツト立て升し、まだ外に証拠人がお入り用なら幾人でも出しませう、尤も此の女の爺といふは、賎しい家業こそしても実直人間です、此のお袋といふのは、矢つ張り、これによく似てゐた奴でしたが、これは没なつて、爺丈は生てゐるんです。
イヤ現在親が此の女にかけちや、外聞をわるがつてる位なんです。
其の爺を引出せば、此の女が何者だか、わしのかヽあになつたことがあるか、ないかゞ直ぐと分かりまさア。

といつて、急にロ惜さうに、拳を振つて、女に向ひ、

これ、あの子供はどこへやつた?
モウおれが連れてつて仕まふから、あれも貴様と親子の縁は切るし、おれもモウ貴様に用はないぞ、

といつて居る中に、隔ての伏間が少し開いて次の間から男の子が顔を出して覗き升たが、これは、最前からの高話しを何ことかと思つて出て来たらしいのでした。
此小息子といふは別段容色の好いことは有ませんかつたが、一寸小奇麗な顔付で、誰が見てもべンに好く似て居て、其顋には、三角の傷痕が有升た。
べンは其児の側へ寄つて、其手を採り升たが自分の手はブル\/して居り升た。

此児もたしかです、出る処へ出て、云ひ立てヽも好うがす、
サアトムやおれは貴様の爺で、けふは貴様を連れに来たのだが貴様の帽子はどこだ?

其子供は帽子が椅子の上に有つた処を指し、目分が余処へ行くのだと聞いて機嫌でした。
近頃自分の一身に起つた不思議千万なことに慣れてゐて。見知らぬ人におれは貴様の爺だといわれてもさほど驚きませんかつた。
実は数年前に自分が赤子の時から居た処へ一人の女が来て、突然けに御前の母と名乗つた其人を何となく、厭に思つて居ましたから、モ一度かわつて外へ行くのを何とも思ひませんかつた。
べンは件の帽子を持つて、戸外へ出で行升た。
そして、ハ氏が、

又御用が有つたら御承知の処へお便を願い升。

といつて、女を振り反つても見ず、其子供の手を引て行つてしまい升た。
女は一層烈しく狂ひ廻つて居升たが、侯爵は眼鏡を鷲の嘴に似た貴族的のお鼻の上に悠々と載せ、泰然と其動止を睨んで居られ升た。
スルト、ハ氏が

コレ御婦人、怪しからぬ始末ではないか?
暗い処へ入れられるが厭なら、少し謹しむが好からう。

いつた調子が中\/馬鹿に出来ぬ処が有つたので、この場合になつては身を退くが上分別と思つたか、恐ろしい顔色で一眼ハ氏を睨まへ、裾を蹴立てヽ、次の間へ這入り、ピツシヤリ戸を閉ぢ升た。
ハ氏は、

モウ、これで面倒は御坐り升まい。

と申升たが、其言葉の通り、其夜過ぐと宿屋を出立し、ロンドン行の汽車に乗り込み、影を匿し升て、今後近辺に姿を見せませんでした。
侯爵が此立合を済まして、馬車へ乗られると、トマスに、

コート、ロツヂへ参れ。

と下指され升た。
スルト、タマスが御者の居る馬車前へ登りつヽ、

コート、ロツヂと仰るゼ、
とつぴやうしもないことになつて来さうだナ、どうも奇妙だナ。

馬車がコート、ロツヂに止まり升た時には、セドリツクは母と共に客室に居り升た。
侯爵は案内もなく、通られ升たが、近来の苦労で曲りさうな腰も延びて丈も先頃よりは一二寸高く見え、幾年かお齢さへ若くなられたかの様でした。
窪い其お眼も艶\/して居升た。
突然

フォントルロイはどこだ?

と言われ升た。
ヱロル夫人は顔を赤かめて、前へ進み、

アノ矢張り、フォントルロイで御坐り升か、本当で御坐り升か?

といひ升と、侯爵が手を出して、シツカリ握手なさり升た。
そして、

矢張りさうだ。

と仰つて、片手をセドリツクの肩へ載せ、例の唐突な武張つた調子で!

フオントル口イ、貴様、おつかさんが城へ引移つて呉れるか尋ねてみい。

と仰ると、フォントルロイは母の脛へ抱へつき。

かあさん、これから僕たちと一処に居て呉るんですよ。
いつまでか一処に居るんですよ。

此時侯爵はエロル夫人の顔を御覧、エロル夫人は侯爵の顔を窺き升と、御前は全く真面目になつて居られた様でした。
此斗らひも、なる可く、取急ぐ方が好いと心つかれ、ながら、母と知己になるがまづ好都合と考られてから、言ひ出されたのでした。
エロル夫人は、しとやかにニツコリし。

手前が参る方がキツト御都合に宜しひのですか?

と問ひ升と、侯爵が又雑泊に、

さうとも、実は始つから、其方が好かつたのだが、ついそれと知らなかつたのだ。
どうぞ都合して来て貰ひ度いものだ。

(以上、『女学雑誌』二九七号)


小公子        若松しづ子

第十六回(甲)

それでべンは早速子供を引連れて、カリフオルニヤ州なる牧場へ帰り升たが、此度の事件の為に却て好運が向いて来升た。
出立前にハ氏が当人に面会して、ドリンコート城主が既でのことにフオントルロイ殿となるので有つたべンの実子の為に何かして遣り度と特別の思召が有るに付ては、御自身が牧畜の株を購はれて、ベンに其監督をさせ、当人の報酬も充分有り、且つ子供の未来の用意にもなる様にするが上策と決定された趣を伝へ升た。
それ故、ベンがカリフオルニヤ州へ立帰り升た時には、到底自分の所有の様なり、又追つては現に己がものになる可き牧場の主任者となつて行つたのでした。
此牧場は数年間に正しくべンの物になり升た、そしてトムは成長して立派な壮年になり升た。
此児は非常に父を慕ひ升て、父子とも\/誠に睦しい月日を送り升たから、過去の困難は一切トム一人の為にとり返しがついたとべンが言\/し升した。
さて此度の事件のなり行を見ようとして、態々出て参つたホ氏もヂツクも、之と異て暫らく帰国を見合せて居り升た。
侯爵がヂツクの世話をなされて、相応な教育を受けるまで資金を遣はされたといふことは最処から諦められたことでした。
そして、ホ氏の方は店を実直な手代に任かせて来たに付ては、フオントルロイの八才の誕生を記念する時に催される宴会を見てから帰らふと決定して居升た。
当日は領内の小民を悉く招き集め、樹園の中で会食、歌舞遊戯等を催し夜に入つては、花火、仕掛花火など打挙げるといふことでした。
此話しの時にフオントルロイがかふいひ升た。

丁度、七月四日の祝日の様にするんですよ。
僕の誕生日が七月四日だとネイ、好かつたけれど、さうすれば、両方一処に守れたつけもの。

最初はホ氏と侯爵との間の交際は極て懇ろいふ程で有ませんかつたが、これは英国の華族一同にとつて、或は不利で有つたかも分りません。
実際、侯爵は万屋の主人といふ様な人と知已が少なく、ホ氏も侯爵に懇意が多く有ませんかつた。
それ故、稀に面会される時も、談話の途切れることが多いのでした。
其外、フオントルロイが務めて見せて呉れた立派な物事に、流石のホ氏も余程気を抜かれて居升た。
第一、入口の門と石の獅子、並木道などが大にホ氏を歓する程になり升たが、現に城郭、花苑、花卉室、物見台、孔雀、城内の牢獄、武具、大階、厩、制服の僕婢どもを面り見升た時は余程気後れがし升た。
併し最感佩に堪へなかつた一事は先祖代々の画像の連らねて有つた広間でした。
ホ氏がこの美事な広間へ這入るとフオントルロイに。

これは博物館といふ様なものかナ?

と問ひ升た。
フオントルロイは少しく胡乱さうに、

イヽーへ、博物館じやないでせう。
僕のお祖父さまはみんな僕の祖先の画像だつて仰るんです。

スルト、ホ氏が、

なんだ、祖先とは何のこつた?

といつて、非常に不審がり升たが、フオントルロイは漸くの事で自分の先見ある丈訳を説き聞かせ升た。
それで、メロン夫人を呼び寄せて誰が其の画像をいつ\/書いたといふこと、又た画に書いた其の人物が、何れも爵位のある人たちで、其方に付てはどふいふ珍らしい履歴が付いてゐたといふことを一々話させました。
ホ氏は漸くの事で、祖先の意儀を解し、其人々に関して世にも面白い話しを聞く中に、何事も結構尽しと思われて来、特に画像陳列処が気に入つた様でした。
そして市の宿やから毎日の様にお城へ出掛て来ては、半時間も、もつとも此広間を逍遥して、画姿の殿や奥方を眺め、眺められて、頻りに頭を振つて居升た。

これらアみんな侯爵とかなんとかいふ様なもんださうだ。
あれもいつかかふいふのになつて、みんな自分の物にすたるんださうだ。

内々は侯爵や、其生活向の事に付て曽て思ふた程厭でなくなり、城郭のこと、祖先其他の事を段々委しく聞くに随つて、兼ての共和主義も厳然元の通りで有つたか、どふかといふ点に於ては少しく疑しひことです。
兎も角或日非常に、思ひ掛けぬ感じを口に出して申したことが有升た。

おれなんども侯爵になつたつて、たんとわるくなかつた。

といひ升たが、これは実に此人にしては非常な寛大な申分でした。
フォントルロイ殿の誕辰を祝ふ当日は亦豪義なことでした。
そして若君は殊に大嬉びでした。
樹園に群がる人々はけふを晴れと着飾り、城の屋根や張幔から飜めくフラホの賑々しく、美事でしたこと。
けふこヽに来る都合の出来る限り一人も来会せぬ人は有ませんかつた。
なぜといふに小フォントルロイ殿が依然元のフォントルロイ殿で追つて、万事を総轄なさるといふことを悦ばぬ者は有ませんかつた。
誰もかれもフォントルロイ殿と非常に人望の出来たお袋さまにお眼通りがし度く思ひ升た、それ巳ならず、若君が左ほど侯爵を信じ、懐いて居られるといふことと、母君とも近来親まれ、丁寧に扱かはれるといふので、侯爵様に対しての感情も自然和ぎ、多少好く思ふ様にさへなつて来ました。
それ巳ならず、侯爵はお袋さまをもお気に入つて来た様にかあいられ、若君とお袋さまとのお蔭計りで、侯爵さまも追々善に化せられるに付ては一同の繁盛と仕合せになるかも知れぬといふ評判が専らでした。
(以上、『女学雑誌』第二九八号)


小公子        若松しづ子

   第十六回(乙)回

さて当日となつて木の下や天幕の中、又柴生の上などに群集した人の数々は夥しいことでした。
これらは皆百姓どもと、晴着を着たおかみさんたち、若いものや、娘たち、戯れて互に逐ひ廻はす子供たち、好い折と噂話を楽しむ老婆どもでしたが、お城の中には、亦賑はしさを見たり侯爵に祝を述たり、エロル夫人を見やうとして来た紳士貴婦人が別に一群を為して居り升た。
其中にはロリデール夫婦、サア、タマス、アツシ氏と令嬢たち、ハヴイシヤム氏などは勿論、ヴィヴィアン、ヘルベルト嬢といふ、かの美人が美事に際立衣裳姿にレースの日傘をして居られ升たが、相変らず紳士たちが側に付き纏とふて居升た。
併し此婦人は亦紳士たちより誰よりフオントルロイが一番に好な様でした。
そして、フオントルロイが嬢を見て側へかけよつて、其頚に抱きつくと、嬢は自分の秘蔵の弟にでもしさうに、接吻して、そして、

フオントルロイの可愛いヽお子!
此度は結構なことでしたこと私は大層嬉しう御座い升よ、

そして此あとで、一処に庭を廻歩て、フオントルロイが何くれと指して見せるに任せ升た。
それでホ氏とヂツクとが居る処へ行升た時、フオントルロイが二人に紹介して

ミス、ヘルベルト、これはネ、僕の旧い\/朋友のホブスさんです。
それからこれがモ一人の旧い友だちで、ヂツクといふんです。
僕があなたが大変奇麗な人だから誕生日に来れば、見られるつて、いつて置いたんですよ。

嬢は二人に一々握手し立止つて例のしとやかな調子に言葉をかけ、米国のこと、船旅のこと、英国へ来てからのことなどを尋ね升た。
其間フオントルロイは側に立つて居て、ホ氏にもヂツクにも嬢が気に入た様だと思ひ、讃嘆の眼を離さず守つて居て頬は嬉さに真赤になつて居升た。
ヂツクがあとで極まぢめで

ありや、よつぽど奇麗な人だナア、花の様だナア、丸で‥‥‥マア花だ、ちげいねいんだ。

誰れもかも、此嬢君の通る跡を見、又フオントルロイのあとを見升た。
そして天気は晴朗に、フラホは飜り人々は遊び戯れ、悦び跳りなぞして一同歓楽を尽しまして、祝日も終までには、若君も実に嬉しさが心一杯になつた様でした。
全世界が此小供には美しく見えました。
まだ其外にも悦んだ者が有ました、それは生涯、富と貴とを我がものにして居ても、無邪気に物ことを楽しめなかつた一人の老人でしたが心が幾分か楽しくなつたといふのは、幾分か心が善良なつたからのことでせうと思はれ升。
固よりフォントルロイが想像した通りに善くなられた訳では有ませんが、兎に角、ひとつ愛する者が出来升て、幼子の無邪気深切な心に思ひ起てお勧め申た慈善的なことをする中に一種の楽を覚へたことが屡あつてそれが先づ一心の変る始めなのでした。
それに又一つ増に嫁が気に入る様になり升た。から人々がエロル夫人さへ御寵愛なさる様になつたといふも空言では有ませんかつた。
其可愛いヽ声を聞き、其可愛いヽ顔を見て、どうやら好になり、御自分は安楽椅子に坐りながら母が子に物を言ふ様子振りを窺ひ、其声色に耳を澄して居られ升た。
そして自分には極く耳新しい慈愛を篭めた優しい言葉を聞くに付て、始めて悟られたことは、ニユーヨーク都会の片外れに住ひをして、万屋と知己で、靴磨と親敷したといふ者が、なに故この通り品よく、雄々しくつて、運の廻り合せで、英国に城郭を構へた侯爵の尊位を相続す可きものとなつても、誰の外聞にもならぬ其理由でした。
必竟、甚だ分り易い事柄でした。
斯いふ心の親切の優なお人の側に成長して、いつも人のことを親切に考へ、己れをあとにする様に躾け、教へられたからでした。
これ丈のことは誠に瑣細なことでも有ませうが、何よりも立派なことです。
此小息子は侯爵がどの位格のあるものお城が如何なるものといふことは一向弁へず、武張つたことも、華\/敷ものも夢中でした。
併し自分が質朴で、人を愛することを知つて居升たから、いつでも人に愛せられ升た。
人間と生れて、これ丈のことさへあれば、王の家に生れたも同然です。
ドリンコート侯爵が此日フオントルロイの群集の中をあちらこちらと歩み、見知の者に言葉をかけたり、人に拶挨されれば、手早く辞儀をしたり、ヂツクやホ氏を饗応したり、母やへルベルト嬢の側に立つて、其話しを聞いて居る処を御覧じて、至極孫息子に付て満足を感しられ升た。
そして、フォントルロイと同伴で、ドリンコーと領内の小民どもの中でも先上席につく可き人々が会食の饗応を受けてゐた一番に大きな天幕へ行升た時ほど満足に感じたことは有ませんかつた。
此人々は侯爵の御齢を寿きて杯を挙げて居り升たが、これまで御名を唱へて祝詞を申した時とは余程異つて、言葉も一層誠実、熱心を篭めて有た様でした。
第二はフォントルロイに対する御祝詞を述べ升た。
そして若君の人望如何に付て万一疑を容る者が有つたとし升れば此時にこそ全く氷解てしまわぬことはよも有ますまい。
喝采の声は杯を当てる音と同時にドツト挙て八釜しい程で、人々の情愛の深いこと、若君を思ふことが非常な処から御奥の方様が臨席になつて居るのも一向憚からぬ様子でした。
一時にワツトどよめいた声がなくなり升と、一二の優しさうな女がお袋様と侯爵様との間に立つて居られた若君を望んで、眼に涙を湛へ、互に

お可愛らしい若様に天慶を祈りませう。

といひ升た。
小フォントルロイはます\/興に入り升た。
ニコ\/ながら立つて居て、嬉しさに髪の根本まで真赤になり、頻りに人々に会釈して居り升た、そうして母に、

かあさん、みんなが僕好だからですかネ?
さう、かあさん?
僕嬉しくつて。

といひ升た。
スルト侯爵が子供の肩へ手を載せて、

フォントルロイ、貴様は一同の親切に対して礼をいつたら好からう。

フォントルロイは先お祖父さまのお顔を見、それからお袋の顔を見升た。
それで、少しく臆せる気味に、

かあさん、しなくつちや、いけませんかネ、

といい升と、母は只ニツコリして、側のへルベルト嬢も同じ様にニツコリし升た。
それで二人が点頭くのを見て、一足前へ進め升と、一同が眼を注いで見て居り升た。
そこへ出た処いかにも美事に、無邪気な小息子で、其容貌といへばいかにも雄々しく、又愛らしくも有つて、天下に敵なしといふ気配が有りました。
さて一段声を高め幼な声清朗に申したことは、

僕、みんなに有がたしツていひ度んです。
僕は今日の誕生日が大変面白かつたから、みんなも面白かツたと好いと思ふんです。
それから……僕、侯爵になるの嬉しいんです。
僕始めは侯爵になるの嬉しいなんて思はなかつたけど、モウ嬉しくなつたんです。
僕はこヽも大好です、どふも奇麗だと思つてますの‥‥‥夫から‥‥‥僕侯爵に成たら、一生懸命で、僕のお祖父さんの様に好い人になる積りです。

   8  8  8  8  8  8  8  8  8  8  8  8

さうして一同の拍手喝采が鳴り止まぬ中に、先づ役済みといふ調子で一寸溜息をつきながら又一足退がり、侯爵の手につかまり、ニコ\/しながら、近く寄り添つて居升た。
こヽで此説話も終りになる処ですが、其前に一寸一言不思議なことをお知らせ申して置ねばなりません。
といふは、ホ氏が非常に貴族的の生活に深酔し且、旧友と袂を別つが厭さに、とふ\/ニユーヨークの角店を売つて、エールスボロの市へ落着き、小店を開いたといふ一條です。
此小店はお城の贔負を受ける処から大繁盛になり升て、そしてホ氏と侯爵とは別段懇意にはなりませんでしたが、一珍事といふは、ホ氏は侯爵より誰より貴族的になり、毎朝官報を読むまでになつて貴族院の様子なども委しく知つて居たといふ事です。
そして十年程過ぎてヂツクが卒業をして、カリフオニア洲なる兄の許に尋ねよふといふ時、万屋さんに米国へ帰り度ないかと問い升と、まぢめになつて頭を振り、

どふして\/、あつちへ落つくことなんどはまつぴらだ。
わしはこれでもあれの側に居て、一寸後ろ見をして居る積なんだ、若い、働きのあるものには結構な国だらうが、矢つ張り、得失処もあるな。
全体、祖先なんといふことさへないし、侯爵といふものはなほのことだといひ升た。
(以上、『女学雑誌』第二九九号)