案内
 現代の共通語がいかにして生まれて来たか、というテーマはなかなかに魅力的です。もちろん、東京の言語がその中心であることは動かないのですが、単語ごとにみるとき、かならずしもそうではない。逆に、そういった単語に注目することで、現代共通語の形成過程をきめ細かく、また豊かに説明することができるように思っています。
 ここでは、鱗をあらわす語形が、江戸時代後半以降の江戸・東京において、どのように動いていったかを考えてみました。


江戸の鱗   



佐藤 貴裕    
 キーワード:共通語 江戸語 西日本方言

 はじめに

 現代共通語形のウロコは東日本よりも西日本に広大な分布領域をもつ点で注目される。共通語の地理的背景として東京あるいは関東地方の位置が重要であることが明らかにされているわけだが、ウロコはその例外となるものである。そこで、方言上だけでなく、国語史的な観点からの検討・情報も必要かと思われる。この点に関して、以前、近世の江戸における使用状況を報告したことがあり、現在も調査を続けているところである。そのなかから、本稿では、東日本の語形であるコケ(ラ)とウロコとの交渉の一端を、問題となるいくつかの資料を中心に摘記することとした。

1 現代の鱗
 ウロコが現代共通語形であることは疑いようがない。しかし、さほど遠からぬ過去において、東京でもコケがさかんに用いられた。柴田武(1988。原版1965)に次の一節がある。

     東京で鱗を「コケ」というかどうかについては疑いをはさむ人がいるかもしれないが、現に、港区芝の魚屋さんは「コケとりましょうか?」といっている。また、2、3年前のこと、わたしの妻が近く(港区)のT寺を訪ねたときのことである。そこに古い池があって、大きな鯉が何匹もいる。ちょうど住職が鯉に餌をやるところで、水面に顔を出した大きな鯉をさして、「そら、大きなコケが生えてましょ」と住職が言う。彼女は、浦島太郎の亀のように、鯉の肌に「苔」が生えているのかと、薄気味悪く思っているうちに、その大きな鯉は濁った水のなかへ姿を消したという。

 昭和30年代当時、まだコケを使う人が東京にも多かったことが知られる。いつごろからウロコ専用になったのかはっきりしないが、たとえば、東京都教育委員会(1986)には、鱗の語形の調査結果が図のように示されている。老年層話者の平均生年は、単純に計算すると1911(明治44)年で、青年層は1965(昭和40)年である。青年層ではウロコしか回答されておらず、5・60年ほどですっかり様変わりしたことが知られる。さらにこの間を埋める資料が手元にはないが、宇都宮市で行った調査では次のようになるという。

宇都宮調査  高田誠(1985)にもとづき改作
┌───┬───┰───┬───┰───┬───┰───┬───┐
│   │ココウ┃女1905|■・■┃男1925|○・■┃男1943|■・・|
|性生年|ケケロ┃男1906|■・・┃男1926|■○・┃女1944|■・・|
│   |ラ コ┃女1908|■・■┃女1927|■・■┃女1945|・・■|
├───┼───┨女1909|■・・┃女1928|■・・┃女1946|○・■|
|男1878│○■・┃男1909|■・■┃男1928|・・・┃男1946|■・・|
|男1880|■・■┃男1911|■・・┃男1929|■・・┃男1947|○・■|
|女1881|■■・┃男1912|■・■┃男1932|◎・・┃女1948|○○■|
|男1892|■・・┃男1914|■・・┃女1933|■・・┃男1948|○・■|
|男1893|■・・┃男1915|■・・┃男1935|■・・┃男1949|■・・|
|男1895|■・・┃女1917|■・・┃男1936|○・■┃女1951|・・■|
|男1896|■・・┃男1918|■・・┃女1937|○・■┃男1951|・・■|
|女1897|■◆・┃男1921|■・・┃男1939|・・■┃男1952|◆・■|
|女1898|■・・┃女1923|■・・┃女1940|■・■┃女1953|・・■|
|女1901|■◆・┃男1923|■・・┃女1941|■・・┠───┴───┘
|男1902|■・・┃女1924|■○◆┃男1941|■・・|
|女1903|■・・┃男1924|■・・┃女1942|■○・|
└───┴───┸───┴───┸───┴───┘
■今も昔も使う ◆今使う(昔は使わない) 
◎昔使った(今は使わない) ○知っている(使わない) ・知らない


 戦後生まれの人にウロコ専用の傾向が見られる。それ以前に生まれた人にもウロコの使用者はいるが、戦後生まれほどではない。宇都宮と東京との地理的・文化的な様々の差は無視できないが、参考にはなろう。
 ともあれ、東京でのコケの勢力は強かったが、これを念頭においてウロコが共通語形になる要因を柴田(1988)では次のように推測した。

     東京共通語の「ウロコ」は、この分布図(鱗を意味する語形の全国分布図──佐藤注)から見て、明らかに、これは関西方言である。そして、それは、話し言葉として影響を受けたのではなく、文字言語から引きついだものだろうと思う。それには、「コケ」が「苔」をも意味するために、同音衝突を引きおこし、「コケ」を東京共通語には採用しなかったということがあるかもしれない。

 この、文字言語からの引きつぎについては近世の文献資料から裏付けがえられる。原則として、江戸人の手になる口語的資料にはコケが、文語的資料にはウロコが現れるからである(佐藤貴裕)。ただし、一方で、この原則にはずれる資料もある。それらは、原則をやぶるものというより、考察によってはウロコとコケの交渉史を豊かに示すものともなる。以下、そのような例外につき、検討をくわえておきたい。

2 文語的資料あるいは文章におけるコケの通史
筆者不詳『古今料理集』(1677以前刊)──コケ専用期── 右のように、現代の東京はウロコ専用の段階にあるが、それ以前はコケ・ウロコ併用の段階があり、さらにさかのぼれば、コケ専用の段階があると考えられる。そのコケ専用段階にあるかと思われる資料に『古今料理集』(吉井始子編『江戸時代料理本集成』(臨川書店)の影印・翻刻による)がある。本書では、コケ13例、ウロコ1例がみえるのである。いま、論述の都合から、コケの例のみを掲げる。句読点・濁点を適宜おぎなった。

    1けきりとは、こけもとらずして、右のごとくこけともにきる事なり(巻5)
    2▲鮒などの一つ切・二つぎりとは、こけ計とりて、はらもあけずして、包丁をたてゝあつさ1寸計にも丸切りにすること也(巻5)
    3▲頭付とは、そのまゝ腹の切れざるをこけ計さりて用る事也(巻5)
    4▲あゆはこけをよくこそげ、背はらのひれをすこしかりて背ごしに作べし(巻7)
    5▲口塩鱈 こけ瀬わた等 をよく洗て、塩を喰しほに出て用べし(巻5)
    6包丁にて尾の方へ背中腹のとをりを三べん水をなでおろし、又上へなで上げべし。これはこけのあるなきをしるべきためなり(巻5)

 ただし、本書は筆者不詳のため、このような使用状況を江戸のものとするには、資料性、ことに筆者の出身地を特定する手続きを経なければならない。この点、料理史の研究者から、序に「近年江戸におゐてためし書付侍る」とあるのを故意とみ、江戸人である可能性が薄いとし(吉井始子)、さらに京都の料理人である可能性が指摘された(原田信男)。一方、国語学からは、他の料理書と用語を比較して『古今料理集』に多くの東国語形が現れることから東国の人とする見解がある(余田弘実)。佐藤としては、双方の見解をともに満足させるような方向で考えたい。
 まず、ただ1例のウロコに手がかりを求めよう。

    7○集汁の事 并取合(略)▲くしこ わ切五分切四つわり一寸切 ▲くし蚫 大中さいいかだかく▲焼あゆ 二つ切三つ切 ▲うろこふきたい 大中さいふか切1もんし ▲同一塩上に同(巻3上。割行表記は1行に改めた)

 「うろこふきたい」は、『日葡辞書』(邦訳)の動詞フクの記述から「鱗を取った鯛」と解してよい。

    Fuqi,u,uita. フキ,ク,イタ(ふき,く,いた) 例,Vuo,l,vrocouo fuqu.(魚,または,鱗をふく)魚の鱗を落とす.¶Qeuo toru.(毛を取る)ある地方で(Alicubi),上の語と同義に用いる.

 同じくウロコの記述からは、ウロコヲフクというイディオムが京都ものであることが知られる。

    Vroco.ウロコ(鱗) 魚の鱗.¶Vrocouo toru,l,cosogu.(鱗を取る,または,刮ぐ)魚の鱗を除く.上(cami)では,Vrouo1) fuqu(鱗をふく)と言う.
     ※1)Fuqi,uの条には, vrocouo fuquとあるから, Vrocouo の誤植.

 結局、「うろこふきたい」は、西日本語形があらわれるだけでなく、より狭い京都のイディオムから派生したものとなる。京都人なら自然だが、東国人なら使う可能性までうすい表現なのである。もちろん、他の地方で同じ表現をとるかどうか確認する必要はあるが、17世紀において、7巻8冊・総丁数305丁という大部の料理書を、出版という形態で成立させるだけの実力があったのは、文化伝統を有する京都のほかには考えにくい。よって『古今料理集』の筆者は京都出身である可能性が高いのである。
 ならば、逆にコケなどの東国語形の頻出が問題になるが、執筆態度から説明がつきそうである。『古今料理集』では、例7のような書き方をする場合もあるが、実技を説明する部分ではかなり丁寧に記される。

    ○生魚 鯛るい 茂魚るい 煮方之事 ▲先味噌は、みたけや・高砂屋流の白味噌をかたすりに能すりて、かたこしにして、水道水半分・出し半分・食の取りゆ十分3、是にてよくすりのべ、二三べんもよくこして、さてそれをなべへ入て、こみそと中みそとの間のくらいに味噌かげんして前方に置べき也。但、こく候はゞ、水はかげんすべき也。さて「御客と一両人」などゝいふ時にそれ\/先へ入てよき道具を入て、ざは\/とに立、大あじならば袋出しを入てしんみとかろくあんばいして袋出しをあげて、さてなべをおろして、時分を見合せ申べし。さて「御客すきと御揃」などゝ云時、魚を入てよきほどに煮て又おろして見合せ、「御ぜん」と申ときにまたかけ、さは\/とに立、そのまゝ塩あんばい調て、諸白の酒をさして、其まゝおろし出すべき也(巻6)

 傍線部は、おそらく座敷の仲居からの指示で、それぞれ「客の来店・客の出揃い・出膳の指示」であろう。家庭向きのものなら煮え具合で示すタイミングを、『古今料理集』は客に供する現場のやりとりで示している。これは、筆者自身がそのような場にあったことはもちろん、序からも知られるように、料理を事とするものを第一の読者として前提にしていたことも影響しよう。

    近年江戸におゐてためし書付侍る、四季に有之魚鳥あをものゝ覚。是を以て仕らば此役等に不限、余の人、取あへずのふるまひ・もてなすといふとも、馳走らしき事も又献立の取あはせも仕安かるべきか。

 このように『古今料理集』の執筆態度には、徹底した現場主義があると見られる。それが言語面に及ぶとき、「江戸におゐてためし書付侍る」本書にコケが現れることはさして不自然とは思われないのである。
 ただ、そのような配慮のできる筆者がなぜ「うろこふきたい」を用いたかは、また問題となる。『古今料理集』の他の例すなわちコケではトル(8例)・サル(1例)・コソグ(1例)を用いるので、コケトリタイ(コケドリダイ)とでもした方が自然である。にもかかわらず「うろこふきたい」が現れたのは、筆者が、なかば熟合したこの形に慣れ親しんでいたからだと考えられる。逆にいえば、ウロコをコケと呼ぶような単純語レベルの言いかえならできるが、熟したコケトリタイを自然だと感じるほどには江戸の方言に親しんでいなかったということになろう。あるいは、例7は、「集汁」の食材を列挙するが、「うろこふきたい」にかぎらず、短い句で下ごしらえまで指定する例である。そのような条件下では、われわれも感じることだが、借り物の言語よりも母語・方言の方が意を尽くせるということも合わせ考えられよう。
 結局、『古今料理集』に多量のコケが現れるのは、当時の江戸でコケが盛んに用いられていたことを示していよう。その様は、ある条件下で京都方言を用いざるをえない程度にしか江戸方言に親しんでいないものにさえ、極力コケを使わせるほどであった。なお、『古今料理集』が文語脈で綴られることを考えれば、方言形コケの盛んなさまをより強く示すものと言えようか。

武井周作『魚鑑』(1831刊)──コケ・ウロコ併用期──
 『魚鑑』(東北大学狩野文庫蔵本)は啓蒙的な本草書である。筆者の武井周作は江戸で活躍した外科医だが、履歴の詳細は不明である(平野満)。本書の桂川鎮香の序に「武井の大人は、あきしこる市のちまたに居て、代々医を業とし」とあることから、江戸で成育したものであろう。本書にはウロコ23例・コケ9例が認められる。いずれかを例外とするには数が多い。したがって、この併用には、何らかの意義差のあることが予想されるが、次に示すようにとりたてて差があるものとは思われず、「ウロコなくコケあり」のような意義差の判然とする例もない。

    8いしもち (略)状ふなに類して、長 狭。色淡白なり。鰭長く鱗(うろこ)細かに
    9いたちうを (略)状 扁く身円くしてこけ細に、光りありて、尾に岐なく
    10いぼぜ 目上尖り、背に連りて、疣のごとし。故に名づく。鱗(うろこ)なく、白色にして
    11うきゝ (略)状あかゑひに似て、一二丈、鱗(こけ)なく白色なり

 一応、コケが下巻に集中し、使われだすと連続する気味がある。uはウロコ、kはコケを示す。

    uukuuuuuu(上巻)kuuuukukuukkuuukukkuuuu(下巻)

 しかし、これが言語上の意義があるものかどうかはにわかには判じがたい。『魚鑑』は魚名のイロハ順に記述されている。
したがって、草稿時にはアトランダムだったものが、清書の段階で改編されることも考えられるからである。なお、傍訓でない仮名書き例はウロコ1例・コケ5例であり、コケは口語語形らしく漢字を離れた表記がめだつことになるが、もとより、使い分けとは直接的にはかかわらないものである。ここでは、意義上の差は確認できないとするほかない。
例8〜11からも知られるように『魚鑑』は文語脈で綴られている。そのような資料にコケが用いられるのは、文語的資料にウロコが用いられるという原則に反する。その理由は、筆者の著述態度にあるものと思われる。自序には、

    記スルニ国字ヲ以テスルモノハ。人ノ暁(さと)リ易キニ取ル。掲グルニ華名ヲ以テスルモノハ。俗ノ雅称ニ暗キニ便ス。市井ノ徒。村野ノ輩。マタ得テ読ムベシ。固ヨリ之ヲ有識ニ示スニ非ズ。

と通俗への配慮がうかがわれ、それが用字・用語など言語面に及ぶことも知られる。このような啓蒙性が方言形コケを進出させたことが考えられる。その意味では、『古今料理集』の現場主義に通じるが、ウロコの例は比較にならないほど多い。その点についていえば、『古今料理集』がコケ専用に近かったのに対し、150年ほど下った本書ではウロコの進出が認められるという見方もありえよう。ウロコの進出かコケの進出か1概には決めがたく、今の段階では、コケ・ウロコ併用期の一つのありかたとして見ておきたい。

辰己浜子の料理書──コケ・ウロコ併用期の終焉──
 『魚鑑』のような混在は、近世だけではなく、近く戦後の文章にも認められる。佐藤が気づいたのは料理研究家・辰己浜子の著作におけるものである。

    12鱈はこけをよくひくことが大切です。鱈のこけは細かいものなので、魚屋さんはひいてくれませんが、このこけがついていると、鱈独特の生臭みが鼻にむっときて、とてもいたゞけません。一塩の鱈の背の方を節のまま求めて、うろこをよくひき、一人分一〇〇グラムの切り身を1切れあて用意するのがよいでしょう。(『手しおにかけた私の料理』婦人之友社 1960)

 辰己は、1904(明治37)年に神田錦町で生まれ5・6歳まで過ごし、12歳まで漢口で、それ以降は四谷・目黒で過ごしている。最終卒業校は香蘭女学校であった。東京都教育委員会(1986)の老年層話者とほぼ同じような生年であることが注目される。そのころまでに生まれた人は、文章でもコケを使う可能性があるということである。ただし、文章といっても、辰己のはデスマス体なので口語性が強いように思われ、そのために方言形コケが現れたことも考えられよう。ただ、別の著作で同じ内容を表したものとくらべると揺れが認められる。例13はコケだけが現れたもの、例14は1例以外をウロコにしたものである。

    13(鱈は──佐藤注)三枚におろしたものを、目方で売ってもらいたいものです。なぜと申すに、こけをひかなくては食べられないからです。気がつかないほどの、あの細かいこけが鱈の臭みなのです。試しにこけをひいてごらんなさい。淡ねずみ色の細かなこけがあらほんと! というほど出てきます。こけをひいてしまえば、鱈の臭みなんか少しもいたしません。(『料理歳時記』中公文庫 1977)
    14たらの持つ金気くさい、生臭味に閉口なさる方が多いようです。その原因はあの細かいうろこにあるように私は考えます。うろこが細かすぎる故か(略)気のつかないほどの細かいこけを包丁の先で丁ねいにひいてごらん下さい。ねずみ色の細かいうろこがおどろくほど沢山出てきます。このうろこを洗い流せば、鱈は臭味がとれて、さっぱりとおいしくなります。(『娘につたえる私の味』婦人之友社 1969)

 このような揺れは何を示しているのだろうか。まず、辰己のコケ・ウロコの使用状況を一覧しておこう。

                   コケ     ウロコ
    A手しおにかけた私の料理(1960) 3(鱈3)   4(鰊2 鱈2)
    B料理歳時記(1977)       6(鱈5 鰹1) 1(鯛1)
    C娘につたえる私の味(1969)   2(鱈2)   6(鱈4 鯛1 鮭1)
    D私の「風と共に去りぬ」(1978) 0      1(鮒1)  
    Eゆずりうけた母の味(1978)   0      1(鱈1)

 刊行順に並べたが、Bは、ウロコとコケについては『婦人公論』連載時(1962〜8)と異同がないのでこの位置にした。DEの例数が少ないのではっきりしないものの、ウロコ専用への傾きが認められそうである。また、ABから知られるようにコケと鱈の結びつきが強く、Cですべてウロコに切りかわらないのもその名残りと思われる(例14参照)。そこで、鱈の例を除いてみると、むしろウロコ専用に近くなる。これは、鱈の鱗は悪臭の源であって、他の鱗とは1線が引かれると辰己が強く認識していたためかもしれない。普通、鱗は取り去るが、柔らかいものならそのまま調理でき、辰己の著書にはないが甘鯛の若狭焼きは鱗ごと焼きあげて賞味し、近世では「赤みそにこけがういてゝ呑メる也」と歓迎されもした。そうした他の魚の鱗と鱈の鱗とを同じウロコでは表しがたかった、そのために在来のコケを鱈に用いがちだったとは考えられないか。ほろびゆく在来の語形が、このようなニュアンスの差を背景に残存するのはありそうなことである。しかし、その鱈の鱗もウロコにとってかわられつつあった。『魚鑑』から140年ほどくだった辰己の用例は、コケ・ウロコ併用期の終焉とウロコ専用期への幕開きをしめすものなのである。

3 口語的資料のウロコ
ウロコ(三角形など)──コケ存続の一因──
 ウロコ(鱗)は口語的資料には現れにくいが、「三角形」の意味ならばよく用いられた。なお、川柳などの例では拍数からウロコと認定したものがある。

    15「扨々おれハ珍らしひ火事に逢ふた。鱗形(うろこがた)の。「そりやだうして 「深川の三角やしきで(噺本『高笑ひ』1776序)
    16けいこ本のところ\/へ○や△(うろこや)、いろ\/な切かけをして覚たという奴だ(式亭三馬『浮世床』1811)
    17釣ルかやも鱗にのこる子の朝寝(『柳多留』100 1828)
    18時頼の出にも鱗の雪が降り(『柳多留』110 1830。三角形に切った紙の雪)
    19上ゲ板の穴ハ鱗の尻合せ(『柳多留』147 1838〜40)

 また、家紋などの三つ鱗や、三角形の連続模様も単にウロコ(ガタ)と呼ばれる。

    20鏡が淵近き@の勧化箱(『柳多留』93 1827 
    21焼飯うろこ 地 焦茶に染めてよし(山東京伝『小紋雅話』1790)

 この模様の衣装は、道成寺伝説などに取材した芸能・絵画で、蛇体への変化や狂女であることをあらわす。次例はこれを利用したものである。

    22下着をハうろことしらぬ美しさ(『柳多留拾遺』4 1801序)
    23鱗(うろこ)にも石にもならずらんと詠み(『柳多留』102 1828)

 酒・荒物・履物・畳などの職人・商人が用いた隠語にも「三」の意でウロコを用いたがこれも三角形とかかわろう。また、大曲駒村『川柳大辞典』(日文社)は次例を「客無き女三人で」の意とする。

    24ひまな晩うろこで寝なと鐘の下(『柳多留』92 1827)

 このほか、三つ鱗を商標とした書肆(鱗形屋孫左衛門)や酒もあり、元赤坂1丁目4番あたりにあった三角地をウロコダナ・ウロコヨコチョーと呼ぶなど、三角形やそれにちなんだものを表すウロコは、江戸人にとってなじみぶかい語であった。それほどにウロコ(三角形など)に親しんでいる以上、ウロコ(鱗)も使われそうだが、次の例からも口語ではコケを用いるのが普通だったと思われる。ウロコ(鱗)が常用されるのなら、傍線部は「鱗の形の鱗」という無内容の表現になってしまうからである。

    25りんきふかきむくひによりて心のおにとなり(略)せなかにはやきめしのやうなうろこがたのこけがしやうじ、はだはとりはだ立てとうもろこしのやうにござります(山東京伝『這奇的見勢物語』1801)

 さて、右のようなウロコ(三角形など)は、歴史的にみればウロコ(鱗)からの派生だが、江戸の口語では原義との関係が失われ、派生した「三角形など」の語義が別語として独立したものである。このようなウロコ(三角形など)の存在は興味ぶかい。一方では、のちにウロコ(鱗)が使われる素地としてはたらくことが考えられ、他方、同音衝突を回避するために別語ウロコ(鱗)を受けつけないことが考えられるからである。前節のようなコケの勢力を考慮すれば、後者である可能性が高いと考えられよう。

川柳のウロコ(鱗)──理解語として──
 が、一方では、口語的資料のなかにもウロコ(鱗)が使われることがある。いわゆる江戸戯作の散文には次のようなものが見いだされる。

    26ゑのしまの弁ざいてん、ほうぢやうの四郎ときまさに、三つうろこをへがしてさつけ給ひしより、あとのうろこもうごきがでゝ(恋川春町ほか『百福物語』1788)
    27そも\/この三つうろこは、北条の大殿様まだおわかい時分、江島の弁天の開帳の時、(略。弁天が)爪のかはりにこけをへがし、あたへ給ひし三つうろことかや(太田南畝『菊寿草』1781)

 これらは、いずれも『太平記』に見える鎌倉幕府の執権家・北条氏の家紋の由来譚に取材したものである。江戸人もなじんでいただろう「三つ鱗」の家紋が、彼らのいうコケに由来することを説くのだから、意味「鱗」と語形ウロコとを結び付けざるをえないものである。このような、なかば不可抗力的に説明する場合にウロコ(鱗)が現れることになるが、川柳ではより奔放にウロコ(鱗)が現れる。

    28おそろしいしうと三枚鱗はへ(『柳多留』65 1814カ)
    29鱗ほどひづめの残る佐野の門(『柳多留』22 1788)
    30鱗ある肌とは見へぬ白拍子(『柳多留』111 1830)
    31魚の名も有ルはづ山ハ鱗(うろこ)がた(『柳多留』103 1828)

 28は、北条時政の家紋由来譚に取材したもので、娘の政子をめとった源頼朝の側にたって「しうと」としたものである。「おそろしい」はのちに北条氏が頼朝の血筋を絶やし、鎌倉幕府の実権を掌握したことを背景にしていよう。29では「佐野」から謡曲「鉢木」が想起される。北条時頼の命により鎌倉へ馳せ参じたあとの佐野常世宅の門前を詠んだものであろう。時頼との関係を象徴するようにひづめの跡を「鱗」に見立てたのである。30は「鱗」と「白拍子」からウロコガタの衣装、つまり蛇体変化・狂女を連想させる。31は山容をウロコガタ(三角形)と見て、山名の由来を説いたものである。これらの例は、一見ウロコ(鱗)であるが、実は語形ウロコを媒介として「三つ鱗・三角模様・三角形」を引き出したり、関係づけたりする場合にかぎられるようである。このような作例は、コケにも認められる。

    32蛇のこけは二十七枚目にへげる(『柳多留』52 1811)
    33鍋釜のふたで蛇のこけおしつぶし(『やない筥』4 1786)
    34秀よしが出て小田原のこけをひき(『柳多留拾遺』5 1801序)
    35こけ\/とした惚れやうは道成寺(『柳多留』106 1829)

 32は北条氏の滅亡に取材する。9代目で滅亡したので、一代に一つの三ツ鱗をあてれば合計27枚になるということである。33も同様だが、家紋で詠んだものである。「蛇のこけ」は三つ鱗の北条氏、「鍋釜のふた」は一引両(丸に横線1本)・二引両(丸に横線2本)で、それぞれ鎌倉幕府をほろぼした新田義貞・足利尊氏の家紋である。34は、豊臣秀吉の後北条氏征伐に取材したもの。35は「道成寺」から三角模様ないし蛇体変化を念頭においたものである。これらの表現が可能なのは、「三つ鱗・三角形など」=ウロコ=「鱗」=コケという連鎖が意識されたためと考えられよう。
 以上のことから、川柳においてはウロコ=「鱗」という関係が明らかに意識されていたことが知られた。しかし、それがただちに日常的にウロコ(鱗)が使われていたことを意味するものとは考えられない。それは、右の諸例がウロコ(三角形など)を媒介にしなければ成立しない表現だからである。したがって、川柳においてウロコ(鱗)が奔放に表れるのは見かけ上のことになろう。逆に、このような制約の存在は、ウロコ(鱗)がまったく自由に使われる段階には達していないことをしめすのである。
 それにしても、口語的資料である川柳にウロコ(鱗)が表れるのは興味ぶかい。川柳とは、着眼の意外性を生命とする定型詩である。着眼を生かしたうえで定型をまもるには、個々の表現が日常的な用法から逸脱したり、日常的でない語を使ったりすることもあろう。少なくとも近世後期でのウロコ(鱗)はそのような形で利用されるような周縁的な語として存在していたのではなかろうか。そのように見るのは、右のような川柳の制約とともに、例25やコケの勢力を背景にしてのことである。しかし、作品として存在する以上、享受する側にもウロコ=「鱗」という関係は理解されていたであろう。したがって、ウロコ(鱗)は、いってみれば日常・口語レベルでの理解語のごとき位置にあったと考えられるのである。

 おわりに
 以上、主として近世の江戸という狭い範囲で、さらに、問題の存する資料に限定してみてきた。ために、資料の個別性が強くでた面もあるかと思う。ことに辰己の例は、興味つきないものだが、戦後の代表例とするのはむずかしいものと思われる。が、半面、コケ・ウロコ併用期の細部にまで目を通すことができたと思う。たとば、コケが長らく優勢だった一因にも触れられ、江戸でのウロコ(鱗)の位置をも証することができた。これらは、より大きな視点から、ウロコとコケの交渉史をみるうえでも資するところがあるものと思われる。
 現在、文献国語史学と言語地理学との対照研究が多くの語に及ぼされるようになってきた。が、確実な対照のためには、双方の領域においてより誤差の少なくなるような工夫、たとえば、現代から徐々にさかのぼることなどを考えなければならない段階にきているようにも思われる。その点で、近世資料などはもっと十分に活用されてよいように思われる。本稿は、まことにささやかだが、LAJにおいて都内に1地点、多摩地区に1地点回答されたウロコ(鱗)の、文献国語史からの近世・江戸資料の提示・検討という意味もあろうかと考える。

 注
1 小林好日『方言語彙学的研究』(岩波書店 1950)は、東京にコケ(苔)とコケラ(鱗)の使い分けがあるという。
 が、本稿で用いる文献資料ではコケラ(鱗)の例は認められなかったこともあって、以下ではコケとだけ記す。
2 東京都教育委員会(1986)では、1地点に複数のインフォーマントを配する場合がある。したがって、併用・専用などとして示されたものが、いつごろに生まれた方の回答なのか明確にできない場合がある。いま、そうした事情を無視して「言語地図話者一覧」のデータにより算出した。
3 ただし、18世紀後半以降の江戸できの資料にコケヲフクが見られることがあるが、江戸のイディオムとしてはコケヲヒクが優勢である。
4 「あきしこる」は、『万葉集』1264番歌「西の市にただひとり出でて眼ならべず買ひてし絹の商自許里かも」にのみ見えるアキジコリを再活用化したものであろう。語義は未詳ながら『時代別国語大辞典上代編』はじめ諸辞書等では「買いそこない・買いかぶり」など売買上の失敗とするのが通説化している。が、契沖『万葉代匠記』(1690)はじめ、契沖仮名遣いの末書にも「商ヲ頻リニ為ルヲ云フ」(『掌中古言梯』1808刊)、「商ヲ頻リニ為ル也」(『雅言仮字格』1807刊)などとある。国学者における契沖仮名遣いの権威を合わせ考えると、この解は比較的行われたものと思われ、桂川鎮香の例もその1つと思われる。通行の辞書等に紹介されない語義なので念のため注した。
5 なお、これ以降は、1939(昭和14)年から名古屋、1956年から鎌倉に住み、1977年に没した。以上、辰己芳子「母 浜子の小伝」(辰己浜子(1978)所収)による。
6 『柳多留』14(1779)。「赤みそ」から鯉こくなどの濃漿を詠んだものと思われる。なお、『料理物語』(1643)「鯉のゐいり汁」では「こいは3枚におろし、うろこともにきり入候。夏はうろこ入事あしく候」とある。
7 朝倉治彦編『合本 守貞漫稿』(東京堂出版 1988)による。
8 『角川日本地名大辞典13東京都』(1988)、『江戸切絵図赤坂今井辺絵図』(近江屋 1854。狩野文庫蔵)による。
 
 参考文献
 安達義雄(1964)「柳多留における紋章吟」『新潟大学教育学部紀要』6−1
 河西秀早子(1981)「標準語形の全国分布」『言語生活』1981−6
 柴田武(1959)「東京方言の位置」『言語生活』1959−9
 柴田武(1988)『生きている日本語』講談社学術文庫
 高田誠(1985)「1地点における年齢差と地理的分布」(国立国語研究所『方言の諸相』三省堂)
 東京都教育委員会(1986)『東京都言語地図』
 原田信男(1989)『江戸の料理史料理本と料理文化』中公新書
 平野満 (1978)『魚鑑(生活の古典叢書18)』八坂書房
 前田太郎(1922)「隠語の話」(南博・槌田満文編『近代庶民生活誌』第3巻(三一書房 1985))
 前田富祺(1985)『国語語彙史研究』明治書院
 吉井始子(1981)『翻刻江戸時代料理本集成』別巻 臨川書店
 吉田金彦(1959)「「しこる」「あきじこる」攷」『万葉』32
 余田弘実(1990)「近世料理書における方言語形の東西対立について」『待兼山論叢』24
 佐藤貴裕(1987)「非東京語出自の標準語形について」『日本方言研究会第45回研究発表会発表原稿集』

『言語学林』(三省堂 1998)所収