*学術的なオリジナリティは小さいですが、言葉の世界を知ってもらうために書きました。


名乗り字   

佐藤 貴裕    


 公家・武家の成人男子の実名を名乗りという。大石内蔵之助良雄なら〈内蔵之くらのすけ〉は通称で、〈良雄よしお(よしたか)〉が名乗りとなる。普通、好字二字で表し、訓読みする。この名乗りに用いる漢字を名乗り字といい、古く名字とも言った。〈経・雄〉をツネ・タカと読むなど独自の訓読みを持つ場合がある。字の選び方にも特徴的な場合があり、清和源氏(新田氏・足利氏も)の〈義〉、徳川氏の〈家〉など血縁によって同一字を含むのが知られている(通字)。藤原道長の子孫の頼通・師実・師通・忠実・忠通・基実・基通のように上字は二代続け、下字は交互に同一字を用いる規則的な例や、嵯峨源氏の信・融のように例外的に一字名のものもある。また、元服のおり、烏帽子親の一字を与えることもあった。
 名乗り・名乗り字が諸特徴を備える過程では、まず平安初期の命名法の変化が注目される。平城天皇(51代。774-824)の皇子たちは高岳(高丘)・巨勢・阿保のごとく乳母の姓にちなむようだが(『文徳実録』巻一)、弟の嵯峨天皇(52代。786-842)の皇子は秀良・正良(仁明天皇)・業良・基良・忠良と好字二字になるのである(『神皇正統記』)。兄弟名で一字を共通させるのは中国的通字で、実名の二字化も中国・六朝(229-589)ごろに始まり固定したというから、書・詩文など大陸文化に親しんだ嵯峨天皇が中国風を導入したものかと思われる。同じ時期の貴族も同様で、たとえば藤原冬嗣(775-826)の子は長良・良房・良相・良門・良仁・良世と命名されている。これ以降、中国的通字は比較的短命だったが、実名を好字二字とすることは定着していくのである。
 平安時代末期の『色葉字類抄』(1144-81ごろ成立)には「名字」として名乗り字が類聚されるので、この頃までには他の漢字とは異質なものと意識されていたのであろう。これ以降、鎌倉時代の『拾芥抄』『二中歴』、室町時代以降の『節用集』各書付録などの類聚があり、江戸時代には各種専書も刊行され、黒川春村『名乗指南』のような充実したものも現れた。一方、名乗り字の反切帰字による吉凶判断や、五行説による相性占いが盛んになり、識者の眉をひそめさせた。現代では、漢字と訓の対応が特殊なものは避けられるようだが、音読み・訓読みを部分的に切り出して読ませるなど、かえって奔放になっている面もある。なお、戸籍法は、人名用の漢字は制限しても、その読みは制限していない。  名乗り・名乗り字も含めた名前は、人間と言語との最も緊密な接点の一つである。また、大陸の制度との関係、通字の存在、姓名判断の流行などをみても、研究上、まずは言語生活史の視点から捉えることになる。であれば、地名の好字二字化の詔(713)、漢風諡号の一括撰進(762-4)、和気清麻呂の別部穢麻呂への強制改名(769)なども興味深い参考事項となろう。こうした視点を確保しつつ、名乗り字として特別視する意識および特殊訓の発生、字形の類似による訓の伝染など種々検討されることが期待される。 (佐藤貴裕)
(参考文献)『古事類苑』姓名部(神宮司庁、1913)。岡井慎吾『日本漢字学史』(明治書院、1934)。「名」「名乗字」(『国史大辞典』10、吉川弘文館、1989)。

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