*学術的なオリジナリティはありませんが、言葉の世界を知ってもらうために書きました。



マセンデシタのいびつさから   
佐藤 貴裕    

 私たちは、丁寧・打消・過去の表現として「重大なミスはありませんでした」のようにマセンデシタを使っています。ごくごく自然に口をついてでてきますが、ちょっと考えると不思議な言い回しだと気がつきます。
 たとえば、「ありませんでした」からタをはずして「ありませんです」とした途端に、違和感が生じます。なんとも丁寧すぎて、卑屈な響きすら感じられます。これは、マスのほかにデスまで使うからですが、同じようにマス・デスを併用したマセンデシタも妙な表現ということになりそうです。
 江戸にはもともとマシ(セ)ナンダという表現がありました。幕末になると、断定・過去のダッタを流用したマセンダッタも現れますが、丁寧の意味が伝わりにくい形なので、敬体に直したマセンデシタが生まれました。継ぎはぎを細工して目立たなくしたような表現ですが、明治二〇年前後には東京語として普通の言い方になったとのことです。
 が、そのさなか、マセンカッタという表現をさかんに使う人がいました。F・バーネット作“Little Lord Fauntleroy”(小公子)の本邦初訳者、若松賤子(元治元〜明治二九)です。賤子訳『小公子』は、まず『女学雑誌』に連載されましたが、その冒頭にもマセンカッタが現れます。

     セドリツクには誰も云ふて聞せる人が有ませんかつたから、何も知らないでゐたのでした。おとつさんは、(中略)大きな人で、眼が浅黄色で、頬髯が長くつて、時々肩へ乗せて坐敷中を連れ廻られたことの面白かつたこと丈しか、ハツキリとは記臆(おぼえ)てゐませんかつた。(『女学雑誌』二二七号より)

 このマセンカッタは、マセンに、打消・過去のナカッタの下部をつなげたもので、明治初期の日本語会話学習書に見えるものです。若松賤子は、明治四年以降、横浜のミス・キダの学校でアメリカ式の教育を受けるので、外国人宣教師たちの会話からマセンカッタを聞き知ったのだろうと推測されています。
 ただ、「知っている」と「使う」は別のことです。マセンデシタ隆盛のなか、しかも多くの人が読む雑誌でマセンカッタを使うには、相応の条件が必要だったでしょう。
 賤子が活躍したのは、先に記したような経過ののち、マセンデシタがやっと定着した時代です。他の表現を使ってきた人もまだまだ多くいたことでしょう。マセンデシタ一辺倒の現代とはことなり、他の表現を受容する余地はまだまだあったと思われます。
 が、それでも優勢なマセンデシタを使った方が無難です。それをおしてマセンカッタを使ったところに賎子の意志を感じます。彼女は翻訳家であり母校の英語教師でもあったので、語感も鋭かったでしょう。その彼女が、マセンデシタに、先にみたようないびつさを感じた。これが、彼女の「意志」の源ではなかったか。さらにいえば、マセンカッタを使ったのはマセンデシタへの異議申し立てではなかったか、となるのですが、ここまで来るとうがちすぎというものでしょうか。
 憶測はともかく、マセンデシタが勢力を拡大するにつれ、多くの人々が、使いなれた表現を捨てたことでしょう。マセンデシタのいびつさにわだかまりを抱きつつ、一方で、その伸長の勢いにとまどい、気押されて。そうした、言葉の交替劇に見られる人々の心の葛藤の象徴として、若松賤子のマセンカッタを見る可能性はあるように思っています。

小学館『国語展望』106 2000年6月