案内
 久し振りに読み返した梶井基次郎『檸檬』。どうも受け取り方が異なっているような気がしました。



『檸檬』「結果した肺尖カタル」私解   

佐藤 貴裕    



はじめに

 六年ほどまえ、梶井基次郎『檸檬』を読みかえす機会をえた。ついでいくらか研究者の論考にも接したが、少々驚いたのは、冒頭の「結果した肺尖カタルや神経衰弱」の読みが、佐藤のと異なるものが多いことである。
   えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧へつけてゐた。焦躁と云はうか、嫌悪と云はうか――酒を飲
  んだあとに宿酔があるやうに、酒を毎日飲んでゐると宿酔に相当した時期がやつて来る。それが来たのだ。
  これはちよつといけなかつた。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くやうな
  借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、ど
  んな美しい詩の一節も辛抱がならなくなつた。蓄音器を聴かせて貰ひにわざわざ出かけて行つても、最初の
  二三小節で不意に立ち上つてしまひたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を
  浮浪し続けてゐた。(日本近代文学館複製版により新字旧仮名で表記)
 短文の連続は歯切れよく、簡潔明快な印象を与える。もちろん、「不吉な塊」は難解で説明にも停滞があるが、そうしたことも明瞭に伝わってくる。それだけに誰しも同じ読みをしそうなのだが、実際はそうではない。
 以下では、動詞〈結果する〉の用法を中心とする佐藤の読みとその有効性を検証しようと思う。



一 従来の読み

 まず、「結果した肺尖カタルや神経衰弱」を〈何ものかが、もたらした肺尖カタルや神経衰弱〉と読み、その〈何ものか〉を生活の荒廃などとする読みがある。生理的異常の原因を、生活というやはり生理的・物理的次元での営みに求めるのは発想しやすく理解もされやすい。多くの研究者がしたがうのもうなずける。
   荒んだ生活、過度の飲酒の結果もたらされた借金や病気。主人公はこうした結果におちいることをうすう
  す承知しつつ、放蕩の巷をさまよっている節がある。(柏倉康夫一九九五)
  《結果した肺炎カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くやうな借金などがいけないのではな
  い。いけないのはその不吉な塊だ》という箇所で、肺炎カタルや神経衰弱やひどい借金などを結果としても
  たらした《不検束》(「城のある町にて」中のことば)な主人公の生活の実態を、小説の直接の舞台から意
  識して追い落してしまう。(相馬庸郎一九六五)
   彼は、その「えたいの知れない不吉な塊」の中身については、過度の飲酒の結果の「肺尖カタルや神経衰
  弱」、また「背を焼くやうな借金」がそこに影を落としているかにほのめかしてはいるものの(下略。加藤
  典洋一九八一)
 一方、精神発病論とでもいうべきものがある。「病は気から」とすれば、納得もえやすいかもしれない。
   梶井は、「結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけな
  いのではない。いけないのはその不吉な塊だ」と書いている。(中略)梶井が断わっているところから見る
  と肺尖カタルは、その不吉な塊、倦怠が原因である。(小島信夫一九五九)
   ひとが焦燥に駆られるときは生の不安を覚えているからであり、嫌悪を覚えるのはニヒリズムに陥ってい
  るからではなかろうか。つまり「えたいの知れない不吉な塊」は、「私」を捉える生の不安と絶望を物化し
  た表現なのである。そうした不安や絶望に重苦しく捉えられた結果、肺尖カタルを患い神経衰弱になり、借
  金を重ねたのであって(内田照子一九九三)
 神経衰弱ならまだしも、生理的な肺尖カタルの発症まで「不吉な塊」という心理的・精神的な何物かに直結するのはいかがか。せめて、心理・精神の状態から生理・物理の事態へと橋渡しする何かを示してほしい。次例では、それを「荒れた生活」としており、先にあげた相馬や柏倉につながる解釈になっている。
   生活や身体の条件よりも、気持が一番の大事という構えは、志賀直哉の短編集『夜の光』に収められた作  品、とりわけ「范の犯罪」などに色濃い傾向だ。それを語るうちに、「私」が酒を毎日飲むような人物であ
  り、荒れた生活の結果、肺尖カタルや神経衰弱に陥り、〈背を焼くやうな借金〉を抱えていることが、「見
  せ消ち」のようにして示される。それらは問題ではない、問題なのは胸を重く圧す憂鬱の塊だけなのだ、と。
  (鈴木貞美二〇〇一。鈴木一九九六も同旨)
 このように「結果した肺尖カタル」を〈生活の荒廃などがもたらした肺尖カタル〉と解する向きが多く、事態の推移や因果関係からも妥当のように思える。たしかに一般論としてはそうであろう。が、『檸檬』の一節の読みとしては、実は、不自然で、成立する見込みが小さいのではないだろうか。
 一体、冒頭部に肺尖カタル等の要因になるものが示されているのだろうか。愚直に検討するにしても精神的な「不吉な塊・心・焦燥・嫌悪」は除けよう。「私」も「私がもたらした肺尖カタル……」では、無内容である。残る「酒・宿酔(に相当した時期)」は「不吉な塊」を比喩した一節中の語である。比喩であれば主人公が一滴の酒すら飲めなくともよいが、百歩ゆずっても酒飲みが皆肺尖カタルになるとは限らないだろう。あるいは、宿酔の比喩が出るほどだから、実際にも過度の飲酒やそれから連想される生活の荒廃があるのだと読むのだろうか。が、さすがにそれは深読みであろう。過度の飲酒でも肺尖カタルなどの要因とするには線が細いようである。結局、冒頭部には、肺尖カタルや神経衰弱をもらたしたものは存在しないことになるのである。
 にもかかわらず、〈生活の荒廃が招いた肺尖カタル〉と読もうとする向きが多いのはなぜか。その背景の一つに草稿『瀬山の話』があるのであろう。古閑章(一九八四)は次のような研究事情を明らかにしている。
  「檸檬」が「瀬山の話」の一挿話であったという成立事情が、「不吉な塊」の実体を「瀬山の話」にまで遡
  行して追尋する読みを生んだのである。むろんその場合、後者の主人公に存在する生活の要素が前者のそれ
  に欠落している事実に多くの評家が注目したことは言うまでもない。その結果、その負の事情は、「檸檬」
  が「瀬山の話」の内容面の呪縛から完全に自由でありえないという認識を生んだのである。
 『瀬山の話』には、主人公・瀬山の所業と悲惨な生活が、印象深く具体的かつ豊富に語られている。確かに、極度に荒れた生活はさまざまな弊害をもたらすだろう。それをそのまま『檸檬』理解のために流用すれば分かりやすく効率もよい。が、そうした慣行は『檸檬』の表現への注視を弱め、「結果した肺尖カタル」の読みにも死角を作ることになってはいないだろうか。



二 私解

 国立国語研究所(一九七〇)等も指摘するように、サ変動詞には自動詞としても他動詞としても用いられるものが比較的多く、〈結果する〉もそうである。他動詞文(例、花子が太郎を起こす)で表される事態は、その目的格を主格とする自動詞文(太郎が起きる)として言い換えられるが、〈結果する〉でも「その暴言が議会の解散を結果した」「(その暴言により)議会の解散が結果した」のように成立するのである。
 このような他動詞用法が、梶井に前後する時代で、ことに先んじる時代で使われていれば、彼が使用したとしても不自然ではない。十分な調査ではないが、さいわい明治三〇年代以降の用例が確認される。
   露国に死亡者甚だ多きは、人民の生活関係困難なるを示し匈牙利は富の分配不均衡なるに基き、大不列顛
  は独逸にも優る工業国なれども、死亡者の少きを見れば、工業と死者との関係は、従来思惟せられたるが如
  く、多数の死亡を結果すと断言する能はず。(「世界紀聞」『太陽』一九〇一年三月。国立国語研究所『太
  陽コーパス』による)
   責任内閣の制度が十分に貫かれて居るとは云へないにしても、今日議会の不信任投票は必ず内閣の総辞職
  を結果せねばならぬと云ふ確信は凡ての人に懐かれて居るやうだ。(吉野作造「憲政の本義を説いて其有終
  美を済すの途を論ず」『近代日本思想大系』一七による。初出年は大正五年)
   生命の向上は思想の変化を結果する。思想の変化は主張の変化を予想する。(有島武郎『惜みなく愛は奪
  ふ』二六。大正九年)
   科学の発達が技術の発達を結果するのか、それとも技術の発達が科学の発達を結果するのか、どっちであ
  るかというような問題は、そのままの提出の仕方ではあまり意味があるとは思われない。(戸坂潤「技術的
  精神とは何か」『戸坂潤全集』一。昭和一二年)
 それでは「結果した肺尖カタルや神経衰弱」に他動詞用法を適用してみよう。述定・装定の順にしめす。
   〈為手〉が  肺尖カタルや神経衰弱を 結果した。→〈為手〉が 結果した 肺尖カタルや神経衰弱
   肺尖カタルや神経衰弱が 〈到達点〉を 結果した。→〈到達点〉を 結果した 肺尖カタルや神経衰弱
 前者は従来の読みと同じ結果になるので採るにおよばない。後者の、「肺尖カタルや神経衰弱」が何ごとか(到達点)をもたらした、というのが新たに検討すべき解釈ということになる。
 では、その〈到達点〉とは何か。冒頭から順に検討すれば、到達しようのない「私・心・酒」は除外され、残る「不吉な塊・焦躁・嫌悪・宿酔に相当した時期・これ」のうち、「焦躁」以下は「不吉な塊」の言い換えや比喩だから、実質上「不吉な塊」しか残らない。ならば「結果した肺尖カタルや神経衰弱」は、〈不吉な塊を結果した肺尖カタルや神経衰弱〉と読むことになる。まったく不都合のない、自然な読みが得られるのである。
 少しく補足しよう。「肺尖カタル」は当時の死病・肺結核に発展するものとして恐怖をもよおそう。「神経衰弱」は神経症ゆえに心理的・精神的な存在である「不吉な塊」の生成に直接関与しよう。「背を焼くやうな借金など」も、「肺尖カタルや神経衰弱」と同様「いけないのではない」と叙述されるので、同格のものとして「不吉な塊」の生成にあずかるのであろう。結局、「肺尖カタル・神経衰弱・背を焼くやうな借金など」が「不吉な塊」を生成したと解することになるのである。
 『檸檬』のテクストが「不吉な塊を結果した肺尖カタル」と補完された形で書かれていれば、論理関係で迷いは生じなかったのに、梶井は「不吉な塊を」を省略した。これは最初の文からのテーマなので、重出不要と判断したためなのであろう。省略しなければ、文章は停滞し、簡明さも失われる。「それを」で代用してもまだくどい。実際、省略しない方が日本語の文脈として不自然なのである。「不吉な塊を」は略されるべくして略された。そのために、他動詞用法であることが明示されず、研究者にも気づかれることなくすぎたのであろう。



三 傍証

 「結果した肺尖カタル」を〈不吉な塊を結果した肺尖カタル〉と読むのは、「不吉な塊」の生成要因が『檸檬』冒頭部にあるとする立場でもある。これに対して従来の読みは、要因の提示の有無にこだわらない、問題視しないようであった。そこで、生成要因が冒頭部に記されていること、そう考えた方がより合理的であることが示せれば、私解を側面から支えてくれることになる。その可能性を検討しよう。
 まず、『瀬山の話』中の挿話「檸檬」と『檸檬』とを比較してみる。
   恐ろしいことには私の心のなかの得体の知れない嫌厭といはうか、焦燥といはうか、不吉な塊が──重く
  るしく私を圧してゐて、私にはもうどんな美しい音楽も 美しい詩の一節も辛抱出来ないのが其頃の有様だ
  つた。/全く辛抱出来なかつたのだ、──蓄音機をきかせて貰ひにわざ/\出かけても──最初の二三小節
  で不意に立ち上ってしまひ度くなる。/それで四常(始終)私は街から街へ彷徨を続けてゐたのだ。(筑摩
  書房版『梶井基次郎全集』第二巻(一九九九)による)
 『檸檬』とは異なり「不吉な塊」の説明の多くを欠いている。『瀬山の話』では挿話以外の行文に瀬山の生活・不行跡の数々が描かれるため、改めて触れなかったのだろう。逆に、挿話が『檸檬』へと独立するには、『瀬山の話』に依存しないのだから、「不吉な塊」の説明が不可欠になるはずである。第一「えたいの知れない不吉な塊」などという事態はとても常人が理解できるものではないから、様々な角度から説明が必要である。その中で、生成要因が触れられていてもおかしくないし、むしろ、触れなければならないだろう。
 「不吉な塊」の説明では、焦燥や嫌悪に換言・比定したり、「以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も」以下では現象を紹介したり、宿酔いの比喩では発生過程をなぞらえたりしている。つまり、説明への意欲がある、少なくともそう見せてくれている。したがって、生成過程をたとえた宿酔の比喩あたりで「不吉な塊」の要因に触れていそうである。そう見込んで探せば、前節で検討した「肺尖カタル・神経衰弱・背を焼くやうな借金など」が挙がってこよう。やはり、『檸檬』の構成上、「不吉な塊」の生成要因は冒頭部に存すると考えられるのである。
 一方、そうだとするなら、この「不吉な塊」への説明は、興味深い表現法を採っているように見える。
 二重否定で叙述される「結果した肺尖カタルや神経衰弱」「背を焼くやうな借金など」は、否定されるのだから「不吉な塊」とは無関係だとする向きがある。が、これは、「不吉な塊」を「ちよつといけなかつた」といい、「いけないのはその不吉な塊だ」で「いけない」というのに対応している。病気や借金はもちろん歓迎したくはないだろうが、それらが単体であるうちは対処でき、そのかぎりにおいては甘受するという諦め・許容の意をくむところだろう。ただ、それらが複合し、何かの拍子で「不吉な塊」が生成されると手を焼くわけである。
 それにしても、この二重否定は興味ぶかい。「不吉な塊」の内包を説明するための、焦燥や嫌悪への言い換えは不首尾だった。そこで、外延を規定する形で「不吉な塊」に相当しない部分を否定表現で排除していくのだが、三方向からだけでは、まだまだ区分けが足りないほど広い概念なのか、逆にその程度で事足りるほど狭いものなのか判断に迷う。なまじ外延が示されたばかりに捉えどころがなくなるのである。方向性は示しても、決して説明し切らない。となればこれは、言語化以前の存在──誰もが概念化しえないような存在──に近いものとして読者にぶちまけることになる。「えたいの知れな」さは大きく増幅されることになるのである。
 とすると、挿話にあった「恐ろしいことには」「重苦るしく」という直接的な心情表現が『檸檬』で採られないのも、『檸檬』で「何かが私を居堪らずさせるのだ」のように「何か」と朧化されるのも、そうした意図に沿うものと見えてくる。また、すでに挿話段階からある表現だが、心理的・精神的な存在に違いないのに物質を想起しやすい「塊」と仮称するのも、右のような意図に通ずるはぐらかしなのかもしれない。そのうえでの〈結果する〉の使用も効果的である。この語は、二つの事態が因果関係にあることを簡潔に表現するが、前節で引用したように、結果側の事態が重大である場合に使われやすいようだからである。
 梶井は、こうした仕掛けを駆使することで「不吉な塊」の「えたいの知れな」さを、わずかな行数のなかで増幅して見せようとした。これは、挿話との比較からすれば、『瀬山の話』に縷々語られた惨状をそのまま記せない分の補償だったと考えられないか。挿話を『檸檬』へと独立させるには、「不吉な塊」を生成した生活の惨状を盛り込まなければならない。かといって『瀬山の話』のように長々しく記すことはできない。簡潔な文体を崩しかねないし、冒頭部は後の展開を用意するといっても、それ以降に語りたい内容があるのは明らかだから、説明でもたつくわけにもいかない。そうした要請を承知したうえでの「不吉な塊」の説明だったのではないか。



四 類似解

 類似する解釈とくらべることで、差を明確にしたり、傍証をえようと思う。
 磯貝英夫(一九六七)は、『檸檬』冒頭の表現の重みをよく把握しており、傾聴すべきである。また、私解の援護に回ってくれそうな見解も含んでいるのだが、〈結果する〉の用法を解してのものではない。
   二十歳前後の旧制高校生にとしてまったく乱脈な生活に重なる、当時としてはたいへん重大な肺疾患、そ
  の上での神経衰弱と、この「不吉な塊」と別々のものであるわけはなく、客観的にいえば、どちらが先かな
  どということは無意味な問いにすぎない。
   つまり、この作品は、生活の乱れと肺疾患とを直接の要因とする神経衰弱・病的感覚の上に成立している
  作品で、この異常に突出した感覚の背後に、生活・肉体・精神にまたがる、大きな混乱のあることが、この
  冒頭段落によってわかるのである。
 読みの裏付けが常識に頼っていることは「あるわけはなく」という口吻からもうかがえる。後段落でも常識的な判断がかったのだろう、肺疾患が神経衰弱の要因になってしまった。神経衰弱は「不吉な塊」と同様に精神的なものだから、同じく肺疾患を要因とするものに据えたいのだろう。が、少なくともテクスト上は、「肺尖カタル」と「神経衰弱」は因果関係にあるのではなく、同格のものとして「不吉な塊」の要因となるものであった。
 ただ、作家は読者の常識をあてにして書き、常識を想定したうえで意表をつく。したがって、作品を解釈するにも常識がなくては始まらないが、テクスト上に十分な情報があるなら、常識の発動を抑制する見識も必要であろう。もちろん、適用の仕方によっては、常識からの読みでもよい結果が得られることがある。次の例は、高等学校の国語科指導書のものだが、単語・表現の読みまで私解とほぼ同じであって、少なからず驚かされた。
   この「不吉な塊」は、肺尖カタルや神経衰弱、借金、深酒の習慣などに根ざすものであったが、(『精選
  現代文 指導資料』(東京書籍 一九九九)「教材の研究 檸檬 梶井基次郎」より「主題」)
   肺尖カタル、神経衰弱、借金などが、「いけないのではない」と否定されているが、これが「えたいの知
  れない不吉な塊」の原因となっていることは言うまでもない。(同「語句・表現の研究」)
 それもそのはずで、第二節での検証と同じことが、教室での発問・回答例として示されているのである。
  [問]「えたいの知れない不吉な塊」の原因として考えられるものをすべて挙げよ。
  [答]肺尖カタル・神経衰弱・借金。本文では「結果した……いけないのではない。」(p.一九〇・3)と
  否定しているが、明らかにこれが大きな原因になっていることはまちがいない。(「指導の展開例」)
 「不吉な塊」という難解な句がある、これをまず何とかしなければならない、その手っとり早い方法としての発問なのであろう。佐藤は、〈結果する〉の他動詞用法を適用できるかどうかの検証として用いたが、この指導書では第一目的となっているのである。得られた結果は正しいので問題ないように見えるが、〈結果する〉の用法に触れないのだから、読みを裏づける説明論理を欠くことになる。つまり、常識だけが判断材料となるので「明らかに……まちがいない」「言うまでもない」などの強要的な表現も出てくるのであろう。
 以上、類似解二例をみたが、常識による検討過程には不満が残るものの、結論自体は歓迎すべきかもしれない。前節で見たように、冒頭部に「不吉な塊」の生成要因が記されているという立場を補強するからである。
 最後に宮内豊(一九六九)を見ておこう。『檸檬』中に散在する、主人公が「不吉な塊」にさいなまれる描写を検討して、「不吉な塊」(=〈不安〉)の生成要因をつぎのように結論づけた。
   梶井基次郎はその〈不安〉の種が何であるかに気づかない振りをしているけれども、これまでに引用した
  箇所に着目するならば、どんな読者ももう騙されることはないであろう。そうなのである! 主人公は『え
  たいの知れない不吉な塊』というがごとき、それこそえたいの知れないフィクションに悩まされているので
  はなく、度かさなる飲酒放蕩、放擲した学業、堆積する借金といったまったく現実的かつ具体的な問題に由
  来する〈不安〉に苦しんでいるのである。
〈不安〉の由来を「度かさなる飲酒放蕩、放擲した学業、堆積する借金」に求めるのは、佐藤が「不吉な塊」の要因を肺尖カタル等に求めるのと似ている。細かくいえば、宮内は「飲酒放蕩、放擲した学業」を掲げ、病気に言及しないという差がある。が、これは立脚点が相補的だからであろう。宮内は冒頭の「えたいのしれない不吉な塊」では「単なる暗喩にすぎ」ないので実体が捉えにくいとし、「作品中に展開される具体的事件」から抽象することにしたのである。方法上の要請からあえて冒頭部を避けたわけだが、佐藤は冒頭部に注目し、〈結果する〉の他動詞用法を軸とした表現上の問題として検討したのであった。いくつかの点で対照的でありながら同趣の結論に至っていることから、宮内論文は、私解への強力な検算の役を果たすものと考えられる。
 『檸檬』研究史のなかで宮内論文は一定の評価を得ている。鷺只雄(一九九九)によれば、『檸檬』を論ずる切り口として「不吉な塊」の実体解明があり、「生の不安・社会的不安・時代的不安・青春の鬱屈憂悶・倦怠・病的(肺結核)不安・世紀末的デカダンス等々」の諸説があるが、これらは「具体性を欠き、現実性が曖昧なまま雰囲気あるいはムードとして提出され」る欠点があるという。それを鋭く指摘し、排したのが宮内の論であり、「まさに出るべくして出たレモンジュースの如き爽快さ」と評価するのである。
 ただ、大きな遠回りをしたとも思う。〈結果する〉の他動詞用法に気づけば、誰しも容易に「不吉な塊」の生成要因に思いいたり、宮内論文の登場を待つ必要はなかったからである。しかし、第一節でもみたように、宮内以降の論説でも「結果した肺尖カタル」を〈不吉な塊を生成した肺尖カタル〉のように読むことは稀であったわけで、それだけに問題の根深さが知られることになる。



五 頻度と分野

 〈結果する〉の他動詞用法に気づきにくいのは、やはり使用頻度が低いからであろう。ちなみに小学館『日本大百科全書』では他動詞のある項目数は一六、自動詞は一二。平凡社『世界大百科事典』では他動詞一四、自動詞一七であった。〈結果する〉は学術的な表現にふさわしい動詞であろうが、百科事典にあっても一巻に一例あるかどうかという数なのである。さらに分野もかたよる。『日本大百科全書』では社会・思想に、『世界大百科事典』では歴史・思想に多いが、この差はともかくとして、広く社会学系項目に多いことになる。
 『日本大百科全書』(/まで他動詞、以降を自動詞)【社会】オグバーン・公共料金・社会的適応・少年犯罪
  ・部分社会・老人問題/AFL・刑事政策・犯罪学・非行少年 【思想】カトリック教会・実存哲学/因果
  関係・観想・デカルト・プラグマティズム 【歴史】大航海時代・徳川家光・ルイ(一二世)/征服王朝
  【経済】地代/利子付き資本・利潤率の傾向的低下の法則 【政治】構造改革論・社会民主党/ 【文学】
  ウスペンスキー/悲劇 【心理】癖・試行錯誤/
 『世界大百科事典』 【歴史】国民会議派・米・田沼意次・文明開化・最上義光/御手伝普請・魏晋南北朝時
  代・五胡十六国・コシャマインの戦・三国時代・徳川幕府 【思想】コミュナリズム・マルクス主義/排中
  律命題・煩悩・パラドックス・プラグマティズム 【政治】私的自治の原則・広義国防・イスラム・ポーラ
  ンド/リーダーシップ 【社会】フランス/雑誌・寄宿舎 【文学】大衆文学/アフリカ文学 【経済】/
  恐慌・経営参加 【心理】ヒステリー/ 【地理】/地形
 なお、『日本大百科全書』の「少年犯罪・刑事政策・犯罪学・非行少年」は須々木主一の、「利子付き資本・利潤率の傾向的低下の法則」は海道勝稔の執筆であり、『世界大百科事典』の「魏晋南北朝時代・五胡十六国・三国時代」は谷川道雄の執筆になる。〈結果する〉を好んで使う向きのあることが知られる。
 ただ、使用頻度が低く、使用範囲も狭いというのは、佐藤にとってあまり喜ばしいことではない。目にしがたいような単語・用法を、梶井がどこから供給したかを示さなければ、私解が成立しないからである。
 使用範囲が狭いとはいえ、ほぼ社会学全般に見られ、さらに文学・心理などまで加わわるとなると、これほど多方面に波及した学的衝撃といえば、梶井の時代でならまずマルキシズム、あるいは共産主義・唯物論などに注目することになろう。実際、戸坂潤(唯物論者、一九〇〇〜四五)では一七四例の〈結果する〉が認められ、全六巻の全集で一巻平均三〇例弱という愛用ぶりである。また、宮本百合子(一八九九〜一九五一)でも他動詞一六例、自動詞五例を確認している。三木清(一八九七〜一九四五。他動詞三/自動詞六)や有島武郎(一八七八〜一九二三。他動詞七)がこれにつぐ。
 こうなるとマルキシズム等に近い人たちが〈結果する〉を使っており、一種の位相語・専門用語であったようにも思えてくる。が、そうした思考傾向が顕著でない人でも、例数は少ないながら、西田幾多郎(一八七〇〜一九四五)・石原純(理論物理学者、一八八一〜一九四七)・倉田百三(一八九一〜一九四三)・久米正雄(一八九一〜一九五二)らの用例を確認している。今後、全集などで徹底した調査をすれば用例数が増えないともかぎらないから、一応、進歩的な知識人たちが〈結果する〉を使うと見ておくのが穏当であろうか。ただ、それにしても、戸坂・宮本・三木・有島らの多用に目が引かれてしまうというのが正直なところである。
 そこで、梶井がどれだけ進歩的な思想を摂取していたか、ことにマルキシズム等との関係が注意されることになる。佐藤勝(一九七四)によれば、書簡などでプロレタリア文学への関心が確認できるのは昭和以降らしく、大正一四年一月の『青空』に掲載された『檸檬』には間に合わないが、それ以前から知識人たる大学生の常識として、新しい知的興奮に敏感な若人の常として、進歩的な思想に触れていたことは容易に想像される。



おわりに

 『檸檬』の「結果した肺尖カタル」の解釈をめぐって述べてきた。私解と同様の読みをする向きが少ないので、ここまで論じてきても少しばかり心配ではある。批判にせよ賛同にせよ、教示があれば幸いと思う。
 今後の課題としては、〈結果する〉の、さまざまな側面についての記述が必要だと思っている。たとえば、前節でも触れた〈結果する〉を使いやすい分野や人物像の特定など、言語外の側面での把握も進めたい。また、語自体の性格も解明できればと思う。他動詞用法が感じさせる翻訳語臭も気になるし、主格・目的格(到達格)に立つ名詞(句)にもある種の制限がありそうで、下接する助動詞にもかなりの狭さがありそうである。
 そうした事柄を深めることで、ふたたび『檸檬』に立ちかえったときに読みが深められることを願うが、それはそれとして、純粋に言語学的な課題として興味深いものも出てきそうである。
 〈結果する〉は、他動詞・自動詞とも現代の一般的な日本語使用者には知られていない。これに対して〈発生する〉は、自動詞は一般的に使われるが、他動詞はある限られた分野以外ではまず使われない。
  一次宇宙線は地球大気と衝突して二次宇宙線を発生する(『日本大百科全書』「宇宙線」)
  クロレラは(中略)光合成を行って酸素を発生するなどの作用がある(同「クロレラ」)
  遺言は本人の死亡によって法律効果を発生するが(同「遺言」)
 こうした差がどのような要因によるのかが気になるところである。また、位相語・専門用語研究や、サ変動詞語彙・自他同形動詞語彙といったくくりでの問題に発展することも考えられ、興味はつきない。



 注
1 初出では「不吉な塊」は「不吉な魂」。小島(一九六六)により「塊」に改める。単なる誤植であろうが、あるいは、『檸檬』の初出『青空』創刊号(大正一四年一月)での誤植を尊重したものか。
2 ただし、小島の場合、引用部分の直後には「病気と倦怠とのいずれが原因、いずれが結果であるにせよ、彼が逃れようとしたのは、『不吉な塊』、『倦怠』からであることはまちがいない」と記しており、「不吉な塊」の生成原因については関心がないようでもある。
3 「解・解釈」というが、テクストの読解レベル、鑑賞レベルのものをいう。「不吉な塊」の生成要因や実体について、時代状況・世相まで考慮するのが文学研究での解釈であろうが、そこまでは踏みこまない。
4 「それ」は「宿酔に相当した時期」をさすので排除できる。「これ」も「宿酔に相当した時期」をさすと読めるので排除できるが、より的確には「宿酔に相当した時期がやつて来タコト」をさすだろう。
5 この例では一種のねじれがあるようで、「工業と死者との関係」が正当な主格ないし為手なのではなく、「工業(が盛んであること)」などが正しいのであろう。
6 自動詞用法でも「肺尖カタルのために(によって)不吉な塊が結果した」のように表現できる。が、これを『檸檬』でのような装定形にすると「不吉な塊が結果した肺尖カタル」となり「不吉な塊」が為手(現実レベルでの動作主。言語レベルで主語になるとは限らない)のように読めてしまう。これは、井上和子(一九七五)によれば、装定形式で被修飾語となりうる可能性は、述定形式での要素でいえば「主語∨直接目的語∨間接目的語∨位置格(に)∨位置格(を)∨目標格(へ)∨位置格(で)∨助格(で)∨基準格(で)∨奪格(から)∨所有格∨起点格∨随格(と)」の順となることと関係しよう。序列の上位のものほど、装定形の被修飾語になりやすいのである。そこで、「肺尖カタル」がより上位の格を占める用法を求めることが必要になる。さらに従来の読みにないものを探すなら、「肺尖カタル」が主格となる他動詞用法を検討することになる。が、自動詞用法にとどまりたい向きは、「肺尖カタル」が動作主となる自動詞構文を想定されれば得られる結論は同じである。
7 梶井の草稿では、上字を「檬」、下字を木偏に〈孟〉を添えた字を用いる。便宜上「檸檬」と記す。
8 この「いけないのではない」の解釈が浅いことについては、第三節のなかほどを参照。
9 電子ブック版初版(一九九六)による。〈結果〉に活用語尾を付した形と語幹中止形「を結果、」のみを全文検索した。中止形については、ヲ格と語幹〈結果〉のあいだに他語が介在するものは拾っていないが、〈結果する〉の全数から考えてまず存在しないか、あっても無視しうる数にとどまるものと思われる。
10 日立デジタル平凡社(一九九八)CDROM版による。検索法は前注に同じ。
11 以下の分類は、項目によっては截然と区分できない場合があり、誤りもあるかと思う。なお、執筆者の専攻分野などにより按配したものもある。
12 戸坂潤文庫(http://www.geocities.jp/pfeiles)所掲の電子テキストによる。
13 青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)を検索サービスgoogleにより「結果する・結果した・結果し・を結果」で検索したもの。全集・選集で確認すればさらに多くの用例が得られよう。
14 『近代日本思想大系』二七(筑摩書房)のみのもので、全集で調査すればより多くの用例が得られよう。有島武郎も『惜しみなく愛は奪ふ』『或る女』のみによる。



 参考文献
磯貝英夫(一九六七)「『檸檬』」『国語教材研究講座 高等学校現代国語』有精堂。鈴木(二〇〇二)再録
井上和子(一九七五)「構造と生成」『国語学』一〇一
内田照子(一九九三)『評伝評論 梶井基次郎』牧野出版。鈴木(二〇〇二)再録
柏倉康夫(一九九五)「『檸檬』誕生」。同氏『梶井基次郎の青春』(丸善)所収
加藤典洋(一九八七)「梶井基次郎 ──玩物喪志の道」、同氏『批評へ』(弓立社)。鈴木(二〇〇二)再録
河出書房新社(一九七七)『文芸読本 梶井基次郎』
(一九九四)『梶井基次郎研究』おうふう
古閑 章(一九八四)「美的自己慰安の文学『檸檬』」『方位』八。鈴木(二〇〇二)再録
────(一九九四)『梶井基次郎研究』おうふう
────(一九九九)「『檸檬』の語りの構造」、田中実・須貝千里編『〈新しい作品論〉へ、〈新しい教材論〉
          へ3』右文書院
国立国語研究所編(宮島達夫)(一九七〇)『動詞の意味・用法の記述的研究』秀英出版
小島信夫(一九五九)「病者の心理と健康の文学」、福永(一九五九)所収。「梶井基次郎──精神の昂揚」と
          改題改訂して『小島信夫文学論集』(晶文社 一九六六)に再録
鷺 只雄(一九九九)「『檸檬』」『国文学 解釈と鑑賞』六四─六
佐藤 勝(一九七四)「梶井基次郎 マルクス主義の問題」『国文学 解釈と教材の研究』一九─七
鈴木貞美(一九九六)「作家の誕生」。同氏『梶井基次郎 表現する魂』(新潮社)所収
────(二〇〇一)『梶井基次郎の世界』作品社
────編(二〇〇二)『近代文学作品論集成K梶井基次郎『檸檬』作品論集』クレス出版
相馬庸郎(一九六五)「梶井基次郎『檸檬』」『日本文学』一四─一
中島国彦(一九七四)「『檸檬』」『国文学 解釈と教材の研究』一九─七。鈴木(二〇〇二)再録
濱川勝彦(一九八一)「『檸檬』をめぐって」『女子大国文』八九。鈴木(二〇〇二)再録
福永武彦編(一九五九)『近代文学鑑賞講座』一八 角川書店
宮内 豊(一九六九)「檸檬と爆弾」『早稲田文学(第七次)』一─八。同氏『檸檬と爆弾』小沢書店(一九
          七三)再録

『国語語彙史の研究』2006年3月刊所収(予定)