海 民 と 節 用 集
佐 藤  貴 裕  


 節用集とは、一五世紀なかごろに編まれたイロハ・意味分類引き辞書である。中世の「古本節用集」だけでも五〇種近くが現存し、近世には需要が増大して営利出版され、五〇〇種を越える現存書が確認される(注1)。明治以降も引き続き行われ、『言海』などの近代的国語辞書の縮刷版が現れると急速におとろえるが、実に昭和初年まで刊行され続けるのである(佐藤一九九三)。
 このように長く広く行われた節用集なら、言語生活にも影響を与えたと思われ、その使用実態を知りたく思う。古本節用集については使用者が貴紳に限られることもあって、実務書というより文事韻事の書として定位されるが(安田一九八三)、近世の節用集では識字層の拡大につれて利用者が多様化するため、使用実態の全体像が把握しにくく、節用集も多様化するのでさらに困難になっている。
 が、これは一方で、どのような節用集がどのような使用者にどのように使用されたかを見極めるという、魅力的なテーマが設定できるということでもある。節用集に工夫をこらした書肆の思惑は図にあたったのか、言語生活者は真に有用な節用集を手にできたのか、多様化したすべての節用集が人々に受け入れられたのか等々、知りたいことは多い。そうしたことを追究することで使用実態の主要部が明らかになろうが、実態を知らせてくれる資料が少ないのは致命的で、当面は、少しでも関係がありそうな資料の収集に腐心するほかないという状況である。
 幸い、多様化した節用集諸本の性格が明らかになりつつあり、節用集の内容・構成からどのような使用者を想定して作られたのか、おおよその見当がつくようになってきた。したがって、手持ちの事例だけでもラフスケッチ程度には近世節用集の使用実態を描くことができる段階にある。本稿は、そうしたラフスケッチの一つを示して研究の現状をお知らせしつつ、御批正を得ようとし、かつは、これを契機に資料の御教示などお寄せいただけたら幸いである。

典型的な使用例

 近世節用集の使用実態の全体像は、あまりに茫漠としていて直接の研究対象とはしがたい。が、不特定多数の使用実態の集合体とみれば、検討しやすい特定少数での使用実態に取りくみ、それを蓄積・総合することで全体像に近づけそうである。そうした目論見のもと、佐藤(二〇〇三)では農民の使用例によるラフスケッチを示したので、本稿では海民の例を中心に検討しようと思う。
 まず、柴田収蔵の日記を例にとる。佐渡・宿根木の村役人の家に生まれた収蔵は、幼少より好奇心が強く、青壮年期に数度江戸に出て地理・篆刻・医学修行をし、のちに幕府の蕃書調所に登用された、いわゆる在村の知識人である。彼の日記には多くの書物とともに節用集が現れ、それが村人との親密な交流とともに描かれるのが参考になる。

 勘二郎より前年貸置たる早引節用集返却有之(注2)(弘化三年一一月三日。田中一九九六)
 小藤田甚左衛門に被頼早引節用を綴して遣す(嘉永元年八月一日)

 早引節用集は、中世からの意味分類を廃してイロハ・仮名数引きで検索するもので、「鎧」ならヨではじまる仮名三文字語の部を引けばよかった。従来の検索法なら、ヨ部の下の衣食門(衣服食物)をみるか器財門(器物財宝)かで迷わされるところである。つまり、意味分野の性質を把握するという、知的に高度な負担を強いるのである。
 早引節用集が宝暦二年に開版されるや売れ行きも好調で、重版(無断複製)・類版(意匠盗用)が相次ぎ、他の書肆たちも追随して種々の検索法を考案するなど、一八世紀後半の出版界に変革をもたらした(注3)。近世後期以降の代表格でありつづけ、節用集の寿命を伸ばした立役者であった。
 収蔵の日記からは、こうした早引節用集が、知識人の収蔵にも村人にも所持され、綴じ直さねばならぬほど頻用されたことが知られる。一九世紀中頃の使用実態として、あってしかるべき事例であろう。
 ただ、当時の早引節用集には複数の異本があった。一八世紀後半でも、行書で漢字をしめす小型縦本、楷書を併記した中型横本、それを増補した中型横本、挿絵入りの日用教養記事を付録した大型縦本があり、化政期には名古屋の書肆から特徴的な異本も追加された。右の引用では、そうした異本の特定にまでいたらないのは残念ではある。

 甚四郎様長半節用の表紙を付而同人様方へ持参(天保一四年七月一五日)

「長半節用」は、『長半仮名引節用集』(文化元)であろう。『大全早引節用集』(寛政八)の改編であるため、早引節用集の版元から類版とされた。再板回数も少なく、販売数も少なかったかと推測するが、開版地の上方から遠い佐渡にまで至っていたことが知られ、興味深い。
 改編ぶりも面白い。基本的に仮名数引きなのだが、紙面の上半に仮名偶数字語を、下半に奇数字語を配し、さらに「貝葉原本の蟹字法」(サンスクリットの横書き)にならって、同じ仮名字数の語を横に並べたという(凡例)(注4)。内容にも工夫があり、その語の所属する意味分野を小字で記したり、圏点の有無で音訓の別をしめすなど、早引節用集よりも丁寧な作りではある。収蔵が「甚四郎様」と記すほどの人物の節用集として見合っているのかもしれない。

 おいち先日手紙に而頼み遣したる南苑子より書状に添而名乗字引人名録持参被呉。外に合類節用田中屋行の分予に届の儀相頼み遣す。則おいちへ相頼田中屋へ遣す(天保一四年閏九月七日)

 この時期の資料に「合類節用」とあれば、延宝八年に刊行されただけの『合類節用集』(外題)によりも、外題に「合類大節用集」等と記される『和漢音釈書言字考節用集』(内題)と見てよかろう。享保二年の初版ののち数回再版され、入手も比較的容易だったはずである。
 節用集は手軽に漢字を知るための用字集なので、語釈が原則としてなかった。注が付いても「桴小 筏大」のような漢字の使い分けをしめすものが主で、ほかには序数詞の使い方や名数の内容などが記される程度である。ところが、『書言字考』では主要な語に詳細な漢文注を付しており、このため現代の『広辞苑』のように諸書に引用されるなど、十巻十三冊の威容とあいまって他の節用集とは一線を画す、権威ある存在だった。
 それを、右の引用中の田中屋は所持していたか購入したのでもあろう。おそらく、相当に知的関心の旺盛な人であり、また安価ではなかったろうから、金銭的な余裕もある家だったかと推測されるのである。

 勝蔵来る。同人より都会節用を借る。彦国来り相川田中秋太郎とのよりの書状返書認め頼む。都会節用抜書す。歓喜院に遊ふ……坪井様にて伝二等と飲む。夜都会節用抄書す。(嘉永元年一〇月一日) 都会節用抄書終る。……勝蔵に都会節用返済す(同二六日)

「都会節用」は『都会節用百家通』(寛政一三)で、イロハ・意味分類の辞書本文に、挿絵入りの日用教養記事が巻頭・頭書(辞書本文上欄)・巻末に付録されたものである。この種のものは一七世紀末には現れたが、『都会節用』は収載語数約三〇〇〇〇語、総丁数三六〇丁と大幅に増補された頂点的存在であった。一九世紀には、早引節用集に対抗するかのように大規模な節用集が刊行されたが、その背後には、直前になって刊行を断念したもの、写本や計画段階で終わったもの、外形のみ大型化したものなどまで現れた(佐藤二〇〇五)。右の引用に『都会節用』が現われるのは、そうした時代相に見合うものと考えられる。
 価格も高かったのであろう、収蔵もおいそれとは購入できず、村人から借りたようである。それにしても一と月近くものあいだ、寸暇を惜しんで、時には酔眼のまま「抄書」に励むのが印象的である。駆りたてたのは、飛行船のイラストもみえる「世界万国之図」等の地図か、「本朝画印譜」などかと注意されるが、絞りきれない。もどかしいが、『都会節用』の情報量あってのことと大まかに捉えておくしかなく、節用集を書写するという他に見いだしがたい例を提供してくれるのを尊重するばかりである。なお、日記には、節用集以外にも「正字通・字彙・干禄字書・蝦夷人言葉早引・蝦夷語訳箋」などを利用・書写したことが記されており、収蔵が、豊かな言語生活・辞書生活を営んでいたことが知られる。『都会節用』の抄書も、そうした高度な辞書使用が背景にあってのことなのであろう。
 以上、『柴田収蔵日記』に見られる使用例は、一九世紀中ごろのものとして納得のいくものの多い、自然体の資料となっており、利用価値の高いものと思われる。

付録記事への注目

 収蔵の日記は効率よく近世節用集を見せてくれた。類別すると知識重視型(書言字考)・簡易検索型(早引節用集)・付録充実型(都会節用)の三種類で、いずれも一八世紀以降のものである。これに一七世紀の、教養記事付録のない基本型を加えれば近世節用集のほとんどが覆える(注5)
 ただ、このような類別は俯瞰には役立つが、細部を捨象するので重要な差異を見逃すこともある。購買者によってはその差こそ節用集を購入する要因になろう。そこでその種の例を紹介して、購買者・使用者の嗜好の多様さと、近世節用集のバリエーションの豊かさを再確認したい。
 寛政六年、奥州名取郡の廻船・大乗丸が安南(ベトナム)に漂着した。船頭の清蔵は客死したが、帰還した船員に取材した漂流記が、彼らの辞書生活を伝えてくれている。

 右舟頭去年国に有し時、新敷節用二冊〔一冊は和漢節用無双袋、一冊は大々節用の万字海〕買求め、いつも廻船に入、昼夜詠ありしが……王城の旅宿にても、国詞しれざる内は、いつも両人づゝかかり、二冊の本にて文字を見出し認め候せつなどは、官人・通辞までも珍敷存じ、本をかしくれ候様申、くりかへし/\詠め悦びけり。其内にも和漢節用の奥にある男女相性の図にて、我国の女の風俗をみて、甚だ笑ひを催せり。又は口にある所の武者の百将伝などにては、大きに我折、或は文字一つを二様に用ひ、音声(=音と訓)の替ることを皆感心せり(『南瓢記』寛政一〇。加藤一九九〇)

 安南の人々は、音訓併用の巧みさもそうだが、二冊の節用集から紡ぎだされる表現が理解できることにも驚いただろう。あるいは、節用集を、自動翻訳機でもあるかのように見ていたのかもしれない。付録の挿絵を見ては笑ったり意気消沈したりする反応ぶりも微笑ましい。清蔵たちにとっては、漂流先で生きぬくための必死の意思疎通だったろうが、小さな文化交流にまで昇華しているのが嬉しい。
 魅力的な例だけに架空の話かとも疑わせるが、後述のように、大型廻船の上級船員には相応の識字力があり、節用集を所持していた可能性も高いので、漂流先が漢字文化圏なら節用集を使わないはずはないから、右のような例も十分事実としてありえたと考えたい。
 さて、清蔵の二冊の節用集だが、それぞれ『倭漢節用無双嚢』(宝暦二)と『大大節用集万字海』(宝暦七)である。両書とも付録充実型だが、『都会節用』の三分の一ほどの規模であり、これが一八世紀中ごろの標準であった。両書の辞書本文もほとんど共通する。となると、清蔵が二冊も購入した動機は付録に求めることになりそうである。
 ただその付録も、占い・暦日・礼法・趣味・行事・武鑑など共通するものがある。が、さらに詳しく見ると『倭漢節用』では図版を重視しているのに気づく。たとえば「鍾馗大臣故事・蟷螂向車故事・牡丹花睡猫故事」のような逸話にも達者な挿絵が備わる。また、上方の人気絵師・下河辺拾水を起用するのはもちろん、すべての丁に刻工名を記すのも図版重視の傾向とかかわるのかもしれない。
 書名にあるごとく和漢の文物の対比も目立つ。目録から拾えば「中華音楽の起・本朝神楽の始・和漢楽器之図・倭漢射法の始・和漢御之始」などがそうだが、さらに「天竺并韃靼の文字・阿蘭陀并朝鮮文字」や、見開き二面で示される「長崎風景図」には「ほくちうふね・シヤム舟・南京船・おらんだ船」が見られる。鎖国下であることを思えば相当に刺激的だが、これらを巻頭に付録するのは、特色を明示して購買者の関心を引く意図があるのだろう。これに対して、『大大節用』は、大振りな図版の「武具馬具之図」などが目を引く程度で、他はいたって穏当である。
 こうした差のために、清蔵は二冊の節用集を購入することになったのだろう。おそらくは、『大大節用』を先に購入していたために、『和漢節用』を追加購入したのでもあろう。「いつも廻船に入、昼夜詠め」たように、航海が順調であればかなり暇を持てあましそうである。異国への好奇心をかきたてる節用集は、船頭である清蔵の目には最良のなぐさみと映ったことであろう。
 以上のように、節用集を購入するのに、付録の内容が決め手となることが考えられた。船頭・清蔵の例は、節用集を文字使用のための補助具とばかり捉えるので掬いとれない場合のあることを教えてくれるのである。

識字力と節用集

 清蔵の大乗丸は南部慶次郎の廻米二六〇〇俵を積む千石船であった。こうした大型廻船には相応に読み書きのできるものが乗り組んでいた。賄い・知工などと呼ばれる会計・経理担当者がまずそうで、船頭にも賄いあがりのものが多かったという(石井一九九五)。文化六年一二月に遭難、台湾に漂流した一四〇〇石積み菱垣廻船・天徳丸でもそうした人が乗り込んでいた。

 追付彼男硯箱ヲさし出し、何国人そ、なにゆへに来候哉と文字ヲ真(=漢字あるいは楷書)にて書見せ候ニ付、此方より船子芸州の善蔵義、我日本人悪風に出逢此所へ流来ルと真にて書見せ候(『漂民帰郷録』。石井一九七三)

 善蔵は、後にしめすように節用集を所持しており、本稿のためには好都合な人物だが、少々経歴が変わっていて船員一般の例からはやや外れることがあるかもしれない。

 此善蔵、船之勤メハ近頃之事故、船中にて此甚難キ勤なれども、以前は禅僧にて有之由、夫故今度漂流して、国々にて対応之節、書読なとも分り候故歟甚都合よろしきよし也(『芸州豊田郡生口島瀬戸田町向島屋善蔵異国漂流略記』。村上一九八一)

 そこで補いとして、また、漁師との差を記したものとしてもう一例みてみる。嘉永三年一月、紀州の九五〇石積み廻船・天寿丸は千島に漂流、船頭・虎吉らは米国捕鯨船に救助された。操業の都合でハワイ・香港・上海とわたるあいだにジョン万次郎・音吉(にっぽん音吉)らに遭遇し、浙江省の乍浦では五島列島からの漂民六人に出会った。

 此人々、皆無筆にて猟師なり。虎吉船の漂人五人は、相応読書するを甚五郎羨みて、各は読書慥成る故、異人の饗応も又格別なり。我々は幼少より魚漁のみして手習せざれば字をしらず……此国に来りし以来、恥をかき当惑せし事度々なりと後悔いたし候。此処にて十一月迄逗留中、虎吉等にいろはの仮名手本を乞て、一心不乱に手習致候由。扨又此天寿丸の漂人五人は、五畿内国尽し位の事は相応に読書出来候事故、何方にてもさのみ不自由成事なかりし様子なり。尤乍甫にて郡官よりして貰ひたる詩に、日本諸君子有詩稿□谷書なんといへる詩成れども、それは沙汰の外なり。(『紀州船米国漂流記』。加藤一九九〇)

 虎吉たちは漢詩を理解するには至らなかったが、実用的な読み書きはできたという。が、漁師たちはそれすらままならかった。また、引用部分から外れるが、虎吉たちがハワイで出会った漁師たちも無筆の不利不明を嘆じていた。こうした位相に応じるような識字傾向がどこまで一般化できるかは分からないが、大型廻船の船員なのか漁師であるかは一つの目安になりそうである。
 さて、漢詩文の味読まで行かずとも、幕末の北前船船頭・川渡甚太夫(師岡一九九五)や、さらには廻船問屋・笹井伊助(佐藤利夫一九九一)のように、詳細な日誌だけでなく、俳諧・狂歌をたしなんだり、自伝・戯作まで綴るのも立派に創造的な生活である。彼らが節用集を使ったことは確認できないが、使わなかったとしたら不自然なほど豊かな言語生活を営んでいたのである。
 以上、海民の例を見てきたが、識字レベルと節用集を関連づける方向で整理したのが次表である。節用集を利用したことが確認できないものは丸括弧で包んだ。なお、佐藤(二〇〇三)の農民の事例も添えたみた。各人・各家の詳細は同論文を御参照ねがいたい。
┌─┬──────────────────────┐
│ │創造的レベル   実用的レベル 無文字レベル│
├─┼──────────────────────┤
│民│柴田収蔵 甚四郎 善蔵           │
│ │(笹井伊助)      清蔵  (五島漁師)│
│海│ (川渡甚太夫)   (虎吉)       │
├─┼──────────────────────┤
│民│庄屋・村松標左衛門             │
│ │   船津伝次平 美濃古田家        │
│農│   槇藤左衛門   中農・山城易蔵    │
├─┼──────────────────────┤
│ │高度な節用集   通常の節用集       │
└─┴──────────────────────┘
 創造的レベルには『書言字考』『都会節用』などの高度で充実したものが、実用的レベルには早引節用集や『和漢節用』など簡便なものが対応することがほぼ確認できる。無文字レベルには、あるいは挿絵の豊富な付録充実型節用集を対応させられるのかもしれない。挿絵ならば、日本語の通じない外国人も楽しめ、子どもに与えて書物になじませる役にも立ったからで(佐藤二〇〇二)、利用価値がまったくないとはいえないからである。
 右の表は叩き台であって、今後はさらに精密にすることや、ファクターを増やして立体的な把握を目指すことも、あるいはまったく廃して新たに作りなおすことも考えなければならない。そのためにも一つでも多くの節用集の使用例に出会いたく思う。御教示を切に願う次第だが、では、ここまでに採りあげたような資料のほかに、どのようなものが利用できるのか、次節でまとめておきたい。

使用例の種類

 節用集の使用例には、書名や使用者の位相・人となりなど詳細な情報が備わっていてほしいが、多少欠けていてもそれなりの検討が可能であろう。また荒唐無稽な例すら利用価値がないわけではない。たとえば、節用集を枕にするならまだしも、横面を張って夜驚症を治すのに使うという例があるが(佐藤二〇〇二)、そうした道具に成りさがるほど卑近な存在であることを教えてくれるのである。
 先に引いた天徳丸の善蔵も、台湾の役人の尋問に、節用集を使って冗談のような返答をしたという。

 日本天子の御名尋候得共何レも存不申旨、再応報候得共、答申候。然共知らぬ事ハ有間敷与弥尋様子ニ付、何れも申合、何とニ而も答可申哉と申合、船子芸州善蔵節用集を持参、人皇八十一代 安徳天皇与答申候……天子の御名ヲ存候者将軍之名を不存事有間敷与申候付、又々申合、何とニても答可申、二度参候所ニ而ハ無之、虚言ニ而も不苦与申合、小松内大臣清盛与答申候。又船子共銘々之官ハ何与申官名ぞと尋候ニ付、官ハなき者ニ御座候与答候所、天子・将軍之名を知候者官なきものニてハ有間敷与申候ニ付、何れも無官大夫敦盛与答申候。(『漂民帰郷録』。石井一九七三)

「二度と来るところでなし、嘘でもよかろう」と思いついたのは他の船員かもしれないが、真にうけた善蔵も善蔵で、当時の天皇・将軍の名を問われたのに、おそらく付録の年代記や武将伝を参照して、安徳天皇・平清盛らの名を答えたのである。身の安全の保証されない漂流先であることを思えばあきれるばかりだが、非常識なまでの剛胆さや才気は、深谷克己(一九七八)の「強か者」という人物類型を想起させ、善蔵の性格がうかがわれるように思う。
 ところで、本稿で日記・漂流記などの文献によったのは偶然のことで、佐藤自身は形式には拘泥せず、使えるものは何でも使わざるを得ない段階だと思っている。たとえば、佐藤(二〇〇二)では、六・七歳と一四歳の子どもが節用集に書き込んだ署名まで援用したことであった。
 資料の種類という点では、文明史の観点から日用教養記事に注目する横山俊夫のアプローチも興味深い。まず、『都会節用』のような大形の節用集を所蔵する旧家におもむき、扱われ方などを直接尋ねて成果あげている。たとえば、生活の指針となったと目される易占・暦日系の付録の存在義を踏まえて、次のような見解を引きだしている。

 節用集に従わぬことは、タブーを犯したばあいに覚悟しなくてはならないような宗教的苦痛を、時として感じさせたと見てよい。……大冊本節用集がそれぞれの所蔵家でしばしば「門外不出」や「他家貸出無用」の扱いを受け(京都府下での聞き取り)、さらには、墓石と並ぶほど重要なものと考えられたばあいがあること(福島県下での聞き取り)からも、推定されるところである。(横山一九九〇)

 さらに、現存書から直接に所蔵者の使用様態にせまるべく、小口に付いた手垢汚れにも注目するのである。

 条痕が濃くついている丁に盛られた知識とは、その節用集の使用者が、ややもすれば曖昧になり、崩れてしまいがちなその分野の自分の礼法をしばしば保とうと努めた、いわば当人の文明化の周縁部分を構成する知識であったと考えられるのである。(同)

 魅力的なアプローチだが、節用集の状態によっては検討できないこともあろう(注6)。しかし、横山ほか(一九九八)では、光学的・計量的処理と聞き取り調査を併用して成果をあげており、今後の進展が期待されるのである。
 このように様々な資料によって近世節用集の使用実態に迫りうるのだか、さらに近代以降の使用例も援用できようか。文献の量も種類も豊富なので使用実態にかかわる記述も多く詳しくなるのが何よりである。たとえば、中野重治の自伝的小説『梨の花』にも貴重な一節がある。

 良平の家にも字引はあつた。「いろは引き」と「カク(=画)引き」と二つある。日本紙の厚ぼつたい綴じがまだしつかりしていて、箱か木枕みたように見えるが、印刷した紙の面は綿毛のようなものが出てぼそぼそになつていた。……中学校の入学願書さえおじさんは自分では書かなかつた。そんなことをてんで気にしない。それに比べて、何もかもわきで気をつけていて、「カナザワのジリン」なんかというものを子供に買つてやるといつた家庭が福井の町にはあるのだな、それも一軒だけじやないのだなということが良平に不思議になる。(筑摩書房版『中野重治全集』六)

 大正の前半、節用集終焉期のエピソードとして興味深い。こうした例が直接に近世節用集の使用実態の解明に結びつけばよいのだが、必ずしもそうではなかろう。しかし、この例の新旧辞書の対比が保護者の教育熱を象徴していると読めれば、同趣のことが近世でもあったかどうか、嵩じては節用集がステイタス・シンボル化した例や、さらに形骸化して一種のフェティシズムにおちいった例がないかどうかなど、検討のチェック項目を増やすことができる。資料に対しては虚心坦懐に向かうことが必要だが、一方では種々の事態・事例を想定してのぞむことで効率があげられることもたしかである。その想定例を、近代の使用例が教えてくれる面があるものと思うのである。

おわりに

 最近の近世史学では、切実な学的要請を背景に、文字機能の再発見から読書・出版等へ新たな視座を切りひらき、言語生活の諸相を明らかにしつつある。これに対して国語学では、言語生活史という分野が設定されながらも、ことに近世の庶民層のそれについては顕著な進展を見ないまま現在にいたってしまった。これは言語生活研究が他分野との提携なくして成しえないにもかかわらず、国語学が学としての自立をはかるために他分野への安易な依存を拒否したことが曲解され、提携までも拒みがちな体質になったことと無関係ではなかろう。
 時枝誠記(一九五五)は早く次のように言い切っていた。

 全生活との関連において、更に、言語生活の体系との関連において、一言にして云ふならば、言語生活の実態に即して辞書を定位することが、辞書研究の第一義的な問題にならなければならない。

順序が逆になるようだが、言語生活中での節用集の位置を過不足ない形で知ろうと思えば、言語生活を明らかにするほかない。つまり、辞書研究からの要請として言語生活研究を活性化することがあってよいように思うのである。もちろん、先行する歴史学諸分野から多くを学ぶ必要があるわけだが、本稿をはじめ節用集と言語生活との関連を見た一連の拙稿は、そうした研究の真似ごとをしたようなものだと思っている。言語生活研究の再生へのささやかな一歩となることを念じつつ、まとまりを欠く本稿を閉じることとする。



(1) 再板本も一種と数えたもので、刊年の明らかな節用集の書名を一覧した佐藤(一九九六a。補訂稿を準備中)に基づく。なお、現存状況は、古い調査だが『国書総目録』の「節用集」の項で一応知ることができる。
(2) 引用に際して句読点や段落の切り方を、読みやすさを考慮して私に改めることがある。節用集の刊年も初版の刊年のみを記すにとどめることとした。
(3) 早引節用集の版元は、後続の有用な検索法を絶版・版木買収などで対処して早引節用集の興隆を招来したが、検索法の発達を阻害することともなった(佐藤一九九〇)。
(4) 早引節用集が引き起こした検索法の開発競争は、可能なかぎり自由な発想をゆるし、それを容易に製品化してしまう空気を醸成したようである(佐藤一九九〇)。
(5) 佐藤(一九九六b)では一〇の類型に分け、類型間の盛衰・併存の原理を述べてみた。
(6) たとえば綴じの都合でわずかに突出した丁には手垢が付きやすく、使用様態を正確に反映しないこともあろう。

参考文献
石井謙治(一九七三)「天徳丸台湾漂流記」『海事史研究』二一
────(一九九五)『和船T』法政大学出版局
加藤 貴(一九九〇)『叢書江戸文庫 一』国書刊行会
佐藤貴裕(一九九〇)「近世後期節用集における引様の多様化について」『国語学』一六〇
────(一九九三)「書くための辞書・節用集の展開」『しにか』四月号
────(一九九六a)「近世節用集書名変遷考」『岐阜大学教育学部研究報告 人文科学』四四−二
────(一九九六b)「近世節用集の記述研究への視点」『国語語彙史の研究 一五』和泉書院
────(二〇〇二)「子どもと節用集」『国語語彙史の研究 二一』和泉書院
────(二〇〇三)「村の節用集──農村の文字生活との連関試論」『岐阜大学国語国文学』三〇
────(二〇〇五)「一九世紀近世節用集における大型化傾向」『国語語彙史の研究 二四』和泉書院
佐藤利夫(一九九一)『海陸道順達日記』法政大学出版局
田中圭一(一九九六)『柴田収蔵日記 1・2』平凡社
時枝誠記(一九五五)『国語学原論 続編』岩波書店
深谷克己(一九七八)『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社
村上 貢(一九八一)「史料紹介 台湾漂流記二編」『弓削商船高等専門学校紀要』三
師岡祐行(一九九五)『川渡甚太夫一代記』平凡社
安田 章(一九八三)『中世辞書論考』清文堂
横山俊夫(一九九〇)「日用百科型節用集の使用態様の計量化分析法について」『人文学報』六六
横山俊夫ほか(一九九八)『日用百科型節用集の使われ方──地小口手沢相の電算画像処理による使用類型析出の試み──』京都大学人文科学研究所

『歴史評論』664号(2005年8月)所収