節用集 せつようしゅう(せっちょうしゅう)

 室町時代なかごろから昭和初期まで行なわれた用字集・国語辞典の一種。語の配列は、語頭の仮名のイロハ順(部)で大別し、その下を十数の意義範疇(門)で細分するものが主だが、近世後期以降、門ではなく仮名字数で細分するものが現れ、漸次流布し主流となる。いわゆる語釈はほどこさないが、語義・異表記・出典・異名ほか、簡単な注を付すことがある。
【成立】
 祖本は、『下学集』の影響がうかがわれるので、その成立年とみられる文安元(1444)年以降、広本(文明本)に見えるもっとも早い年記の文明6(1474)年以前の成立と推測される。なお、門名には『聚分韻略』の影響が認められる。編者には諸説あるがいずれも根拠に乏しく、建仁寺の僧とする説が妥当なものとして受け入れられている。
【沿革】
 江戸時代初期までのものは古本節用集と呼ばれる。刊本に天正18年本・饅頭屋本・易林本などがあるが、写本が主である。本文の構成や付録など組織上の相違で3分され、これが冒頭語の相違にほぼ応ずるので、それを用いて伊勢本・印度本・乾本と称する。またこの順に枝分かれしたと考えられる。ただし、枳園本・天正17年本・辞林枝葉のように2類間の交渉が認められるものや、元和2年本のように3類別に属さないと目されるものもある。また、節用集以外の辞書との交流にも注意が向けられている。古本では楷書の見出し字に片仮名の傍訓をほどこすのが普通だが、のちに行草書見出し・平仮名傍訓とするものもあらわれる。編者の関心が反映されることが少なくなく、広本のように長文の引用を行うものや、慶長5年本のように多くの門を設けるものなどがあり、古本節用集としての性格は一概にくくれぬ面もある。
 近世前期(〜1750)では乾本系のものが刊本として行われた。見出し字を行草書で示し左傍に楷書を小書する真草2行の体裁は『節用集』(慶長16〈1611〉)にはじまるが、寛永年間(1624〜44)の諸本で定着、後続書に踏襲された。付録の増補は『頭書増補2行節用集』(寛文10〈1670〉)で本文上欄に用語解説を付すのが早く、元禄(1688〜1704)ころから日用の教養・作法など多方面に広がり、巻頭にも収録された。以上のような体裁をもち、美濃判(B5判ほど)で、のべ1万5千語内外を収載するのがこの時期の主流となった。一方、語を著しく多くした『合類節用集』(延宝8〈1680〉)・『和漢音釈書言字考節用集』(享保2〈1717〉)も現れた。ことに後者は、詳細な漢文注を有し、学術的な色彩の濃いものである。このほか『武家節用集』(延宝9)・『誹林節用集』(元禄13)・『男節用集如意宝珠大成』(享保元)・『女節用集罌栗嚢家宝大成』(寛保3〈1743〉)など、特定の用途をうたうものがあった。検索法では『新増節用無量蔵』(元文2〈1737〉)が言語門で仮名2字目でもイロハ分けを施し、『合類節用集』・『和漢音釈書言字考節用集』が意義分類を上位に配し、『万倍節用字便』(享保4)が意義分類の順を言語門からに改めるなど、従来型からの脱化が認められた。
 江戸時代後期(〜1868)では、前期に主流だったものが行われるが、付録の内容の拡大にともない「節用集の式作法」(世間妾気質4)などにみるように、18世紀後半には作法書・教養書と見る向きもあった。さらに19世紀にはより肥大して『都会節用百家通』(寛政13〈1801〉)・『永代節用無尽蔵』(天保2〈1831〉)などが現れるが、検索法はかわらず、辞書の機能面には正常な発展が認めにくい。これに対して小型本では、付録を極力少なくし、18世紀末までに検索法の新案が続出するなど、対照的な展開をみせる。早く『早引節用集』(宝暦2〈1752〉)が意義分類を廃して仮名字数順をとり、ついでイロハ2重検索が現れるが、50音・特殊仮名の有無・仮名字数の偶数奇数別・片仮名総画数をとるものが現れ、さらに語末の仮名に注目して引かせるものまで現れ、過熱化した。このうち、早引節用集が他を圧して流布するが、これは板元が他の検索法を模倣と決めつけ、版権を過剰に主張したためでもあった。なお、この時期の文芸作品には、節用集を単に辞書とのみ見るのではなく、多様化した付録のため、教養全書的な存在と捉える傾向が見えはじめ、次代に引きつがれていく。
 明治期以降は、早引節用集が全盛を迎え、時流から近代漢語の増補も行なわれるが、検索法や用字集としての位置などは不変であった。書名では「字引・字典」などを含むものが多くなるが、これは「節用(集)」が教養全書などに移るのと軌を一にするものと思われる。明治なかごろから出版量が下降しだすが、これは近代的な国語辞書が小型化する時期とおおむね一致するので、その影響と思われる。その後、漸次衰微し、『いろは字典』(昭和3〈1928〉)をもって終焉を迎えた。
【受容】
 古本節用集は60本近くが確認されており、写本を中心としながら、相応に行われた。ただし、その編纂目的は韻事にあるものと考えられ、上級の貴族・武士など教養層の利用に供されたと考えられる。近世節用集は『国書総目録』の「節用集」の項にみるような大量の刊本があり、500本ほどの現存が確認されている。相当の流布が想定されるが、具体的な使用法・使用者層・価格など不明な点も少なくない。当時の随筆や古文書などからある程度の記述を行うことができるが、言語生活史上の位置づけも含め、今後の研究にまつべき点が多い。なお、付録の増加にともないこの傾向は明治期には「節用集」の語義を教養書へと変容させるにいたる。
【国語学上の利用】
 まず、漢字表記・読み・字体・用字をはじめ、漢字の用法の種々相について知見が得られる。以下広本(文明本)に例をとれば、「張本(ちやうぼん)」など現代語との読みの異なりや、「憲法(けんぱう)[公道義用之]」など語義の相違が認められる例もある。また、「斗丶(とと)[国児女呼魚曰斗丶]」「咄笑(どつとわらふ)」「野人(ちやうにん)」など、俗語や当て字・世話字も認められる。また、同訓字・通用表記の掲出や、古典の用字を収載する例もある。また、「長板(ちやうはん)[長作打非]」(天正18年本)「湯桶(ゆとう)[酒器也日本ノ世話云2湯桶文章と1是也 一字をは云読(=訓読)一字をは云音 此類甚多 可笑]」などには当時の規範意識がうかがわれる。なお、近世の節用集では、『和漢音釈書言字考節用集』のように注解の詳しいものが以前から利用されてきた。また、付録の豊富なものでは、漢字だけでなく、広く生活様式などの考察に利用できることがある。
【研究】
 古本に関しては橋本進吉の業績をはじめ、分類・系統の解明を中心に早くから本格的に検討され、岡田希雄・亀田次郎・山田忠雄・安田章・大熊久子の業績がある。近年では資料性に関する研究もなされ、存在の本質に関わる見解が安田章の一連の論考により提出された。近世以降の節用集では、山田忠雄が諸本を分類して端緒が開かれた。俯瞰的な研究には、語彙からの前田富祺のものや、序・跋・凡例に注目した高梨信博のものがある。また、本屋仲間記録を援用して実態にせまろうとする佐藤貴裕のものや、光学的手法により使用者像にせまろうとする横山俊夫のものなどがあり、新たな展開を見せつつある。なお、成立をはじめ改編・流布に関しては出版機構の存在が無視できず、本屋仲間の記録類などを参看する必要がある。昨今では複製・影印が刊行され、利用の便が増したが、近世のものは特徴的な本に集中する傾向があり、研究の目的によっては当時通行の本を広く見る必要がある。
【参考文献】
○佐藤喜代治編『漢字講座』7(明治書院)
○佐藤喜代治編『国語学研究事典』(明治書院・昭和52年)
○国語学会編『国語学大辞典』(東京堂出版・昭和55年)
○『日本古典文学大辞典第3巻』(岩波書店・昭和59年)
○国会図書館編『亀田次郎旧蔵文庫目録』(昭和35年)
○山田忠雄『節用集目録』(昭和36年)
○上田萬年・橋本進吉『古本節用集の研究』(東京帝国大学文科大学紀要第2大正5年。復刻版勉誠社・昭和43年)
○川瀬一馬『日本書誌学之研究』(講談社・昭和18年)
○同『古辞書の研究』(講談社・昭和30年。増訂版、英雄松堂出版・昭和61年)
○『日本語の歴史5』(平凡社・昭和39年)
○山田忠雄『節用集・天正18年本類・の研究』(東洋文庫・昭和49年)
○同『近代国語辞書の歩み--その模倣と創意と』(三省堂・昭和56年)
○山田俊雄『日本語と辞書』(中央公論社・昭和53年)
○安田章『中世辞書論考』(清文堂・昭和58年)
○前田富祺『国語語彙史研究』(明治書院・昭和60年)
○山田忠雄「橋本博士以降の節用集研究」(『国語学』5・昭和26年)
○高梨信博「近世節用集の序・跋・凡例」1〜5(『国語学研究と資料』11〜15・昭和62〜平成3年)
〇佐藤貴裕「近世後期節用集における引様の多様化について」(『国語学』160 平成2年)
○横山俊夫「日用百科型節用集の使用様態の計量化分析法について」(『人文学報』66 平成2年)

*『漢字百科大辞典』「節用集」(佐藤執筆)より。一部改めた部分がある。