案内
 佐藤の仕事として、ともかく、近世の節用集の全貌を捉え、かつ、提示したいという思いがあります。捉えるのはいいのですが、それを提示するのが難しいですね。また、節用集がどのように生み出されたかという点にも、並々ならぬ関心があります。
 そこで、現在確認できる当時の本屋仲間(株仲間の一つ)の記録から、節用集にかかわる係争事を総ざらいして、今後の研究の足掛かりにしようと思いました。それが「近世節用集版権問題通覧」のシリーズです。


近世節用集版権問題通覧

 −元禄・元文間−    

*OASYS30-AX301 で作成した文書をDOS テキストに改めた関係で、若干の変更があります。 
はじめに

 本稿は、近世節用集の諸相・沿革の記述的研究の一環として、版権問題上の実態を明らかにするための基礎的研究である。
 節用集は、近世にはいって、出版というメディアを介して流布する。そのため、利用者あるいは購買者の拡大と社会階層の下部への浸透をもたらし、ついに庶民性を獲得するにいたる。したがって、近世節用集を国語学の立場から総体として捉えようとするとき、室町時代の古本節用集への視点とはおのずから異なる場合のあることはあきらかである。たとえば、ここに改めていうまでもないことだが、古本節用集と近世節用集のあいだに、流布の方途のうえで書写と出版の差が、使用者のうえで貴紳と庶民の差が、生産目的のうえで教養と営利の差があるのである。したがって、このような近世節用集の特性を自覚・把握し、それにふさわしい視点を持つことが必要になるはずである。もちろん、このことは古本節用集で試みられてきた方法をすべて廃すということを意味しない。彼此の差の自覚ということにつきる。
 しかしながら、辞書史学を擁する国語学において近世節用集を見るとき、出版を中心にとりあげ、そのうえに通史として記述を試みたものは皆無と言ってよい。出版自体を念頭におかないものもあり、触れるものがまれにあっても断片的な扱いに終わってしまっていた。そのようななかで山田忠雄編『開版節用集分類目録』(一九六一)は、国会図書館蔵亀田次郎旧蔵書と山田氏自身の蔵書という大規模な蒐集を中心に書誌上の整理ほどこした労作だが、国語学者の手になったという点に固有の意義があるものと思う。その利用価値は大きく、参看されることも少なくない。反面、出版と節用集との関わりに注目・深化させた研究はまことに少なく、この方面での蓄積が切望されるところである。そのような現状にかんがみ、本稿では、版権問題に焦点をあて、そのありようを通覧し、節用集史における出版の役割を叙述する基礎を開こうとするものである。

視点・資料など

 単に近世の出版を問題としようとするとき、いわゆる書誌学上の情報の集積が主となることが多い。筆者もその重要性は認識しているつもりである。その一方で、出版にかかわる人間が、節用集の開板にあたってどのような視点・立場をもち、どのようにそれが節用集の成立・内容に反映するのかを見ていきたいと思う。このような見方は、節用集をはじめ、辞書というものの存在価値が、他の資料とは異なった点に求められるからにほかならない。近く安田章氏『中世辞書論考』(清文堂 一九八三)が節用集をはじめとする中世辞書において強調したように、辞書は言語生活に資するために編まれたものである。したがって、言語生活のなかに辞書を位置づけるという視点なくしてその本質を把握することは困難であろう。また、その視点は、編者・利用者と節用集との関わりを検討する際によく適応するものだが、近世節用集では新たな関係者として出版者が加わる。つまり、出版者と節用集との関わりも軽からぬ検討課題として視野に入れることになるのである。
 その方面の検討にあっては版権問題に注目することが考えられよう。版権問題では、出版者と節用集との関係の種々相が露呈しやすく、またそのために、もっとも的確に効率よく検討が進められるからである。一方で、そのような面での史的展開を記述することは、一見、裏面史の色彩を帯びるものと、あるいは、国語学の埒外のものとの印象を与えるかもしれない。しかし、繰り返しになるが、言語生活の中で近世節用集を捉えるのであれば、むしろ、節用集対編者・対利用者の関係性の把握とともに重要な意義を有するはずのものである。

 本稿でとりあげる版権問題は、本屋仲間の記録などに記載されたものとした。もちろん、記録によらなくとも、版権問題のあったことが知られる場合がないわけではない。たとえば、『鼇頭節用集大全』(貞享五〈一六八八〉年刊)や『三才全書誹林節用集』(元禄一三〈一七〇〇〉年刊)などは、村上勘兵衛刊『合類節用集』(延宝八〈一六八〇〉年)からの改編・流用が顕著なものだが、記録類からは両書と『合類節用集』のあいだに問題があったことは知られない。しかし、『鼇頭節用集大全』については、『合類節用無尽海』(天明三〈一七八三〉年刊)と改題・再板された折り、その刊記には村上勘兵衛の名が加わる。また、『三才全書誹林節用集』については、初板が何度か増刷される過程で村上の名が加わるのである(小川武彦氏『青木鷺水集 別巻研究篇』ゆまに書房 一九九一)。このように村上の名が加わった背景には、やはり版権上の問題があり、その解決として村上が幾分かの利権を獲得したためと考えられよう。が、一方では、このように刊記の異同から版権問題の存在を察知できるのは『合類節用集』の検索法や掲出字が特徴的だからであって、他の節用集では必ずしも容易ではない。刊記における板元の追加・変更は、相合板(共同出版)の出資者として名が加わることもあり、売り渡したために名義が変わることもあって、必ずしも版権上の問題だけで起こるわけではないからである。もちろん、そのようなものなかから版権問題を探り出して、さらに豊かな記述をこころがけることは必要であり、後述のように、本屋仲間の記録から版権問題のすべての事例を知ることはできない以上、不可欠のアプローチだとも言えよう。が、本稿の段階ではそこまでおよぼすことは避け、版権問題として確実視できるものに限る意味で、本屋仲間の記録類などに依るのである。

 本稿では、元禄(一六八八〜一七〇三)から元文(一七三六〜四〇)までをあつかう。
元禄からはじめるのは、版権問題が文書に記録される上限であることによる。元文までとしたのは時代上の区切りのよさによる。現存の本屋仲間記録によるかぎり、寛保・延享・寛延に問題化した例はなく、宝暦二(一七五二)年の件まで下ることになる。ところが、この年は、近世節用集史において画期的な存在となった早引節用集の開板される年であり、国語史上で近世後期を宝暦からとする見解とも合致する。したがって、宝暦以降については続稿にまわすこととした。
 本期の記述に用いた資料は次の通りである。
 京都関係  上組諸証文標目(「京都証文」と略記)  上組済帳標目(「京都済帳」と略記)     ともに、影印である宗政五十緒・朝倉治彦編『京都書林仲間記録』★★★・★★★★★(ゆまに書房 一九七七)により、かたわら、弥吉光長『未刊史料による日本出版文化』第一・七巻(ゆまに書房 一九八八・一九九二)におさめる翻刻を参照した。
江戸関係割印帳(「江戸割印帳」と表記) 影印である『江戸本屋出版記録』上中下(ゆまに書房 一九八〇〜二)により、かたわら、翻刻である朝倉治彦・大和博幸編『享保以後 江戸出版書目 新訂版』(臨川書店一九九三)を参照した。
大坂関係出勤帳(「大坂出勤帳」と表記)差定帳(「大坂差定帳」と表記)鑑定録(「大坂鑑定録」と表記)裁配帳(「大坂裁配帳」と表記)備忘録(「大坂備忘録」と表記) 大阪府立中之島図書館編『大坂本屋仲間記録』第一・八・九・一〇巻(清文堂 一九七五・一九八一〜三)によった。
 資料の性格から、考察が十分にできないことがある。三都の記録とも近世前期の記述が手薄であり、また、残存するものも少ない。また、江戸のは、販売に際しての許可を発行するためのもので、版権問題の記録を目的とするものではない。京都のは、版権問題そのものの記録という点でこの種の考察に不可欠だが、本体の記録は失われていて各件の要点を記した目録が残るにすぎない。また、上組のものであるだけに、京都仲間の他の組がかかわる件については、かなり手薄かと思われる。これらの点では、大坂のものは充実しているが、やはり、原則として大坂本屋仲間内部のものと、対外的なものが中心であって、京都・江戸内部での件は原則として記録されないのである。このような制約のうえでの記述であることをあらかじめお断りしておく。

版権問題諸例

 以下、個別例の記述にあたって、次のような方針でおこなうこととした。
 版権問題の各々の呼称は特に設けず、問題となった書物の名を掲げることとした。この際、可能なかぎり、問題書の現本の内題を掲げることにしたが、それができなかったものについては書名の末にアステリスクを付した。なお、書名に冠した数字は個別例の通し番号である。
 個別例の内容は、次のA〜Hにしたがって示した。
 A期間  原則として、記録に記された日付でもっとも早いものと、もっとも遅いものを掲げる。ただし、版権問題は、発覚から正式な抗議にいたり、正式な収束をむかえ、事後処理に終わる。記録によっては、主要な部分だけを書きとどめ、発覚と事後処理との時期が知られない場合もある。
B問題書とその刊行者 C被害書・被害者 D問題点  どのような点が版権に抵触したかを記す。
E様態  どの程度の問題として扱われたかを記す。程度の軽いものから順に「差構(指構・構)・類板・重板」などと記す。ただし、「差構」は「類板・重板」なども含めた広義のものとして、版権侵害一般をさすことがある。ここでは、記録のままに記すこととした。
F結果  侵害書および侵害者の処遇について記す。
G主資料H考察・備考  佐藤の考察やA〜Gで述べきれないことがら、注意点・参照事項などを記した。


1広益字尽重宝記綱目
A日付明記されず。元禄六(一六九四)年一一月から翌年五月までに 終了。H参照。
B『広益字尽重宝記綱目』、秋田屋庄兵衛・同彦兵衛。
C『合類節用集』、村上勘兵衛。
D明記されず。本文ないし検索法か。
E「指構」。
F板株の三分の一を村上へ譲渡する。
G京都済帳。
H本件の上限を元禄六年一一月としたのは、架蔵初板本の「元禄六癸酉暦霜月七日」の刊記によるものである。
 記録された版権問題のうち、もっとも古いもの。問題の要点は記されない。両書比較するに、本文の剽窃が目立ち、検索法も同種である。佐藤「『合類節用集』『和漢音釈書言字考節用集』の版権問題」(近代語学会編『近代語研究』一〇 武蔵野書院 一九九五)を参照。
 元禄一一年までは、法律上の版権保護はなされなかったから、版権侵害に対処するためには相応の自衛力が必要だった。集団を作ることでその自衛力を獲得するのだが、それが本屋仲間である。その活動時期が明確に知られる例として引用されるのが本件を含む元禄七年五月までの記録である。さらに、京都済帳の元禄九年から一三年までの項に「貞享二(一六八五)年講初り已来」とあり、蒔田稲城『京阪書籍商史』(高尾書店 一九六八再刊)も永田調兵衛家の記録に「貞享二年十月二十日 伊勢講初会」との記事を発見している。あるいはこのころまで版権確立(正確には版権意識の自覚とでもいうべきか)の時期をさかのぼらせることができるかもしれない。それにしても、『合類節用集』は延宝八(一六八〇)年の刊行であって、さらにさかのぼる可能性も考えられる。ただ、この伝でいけば、事例4の『江戸料理集』『料理切方秘伝』により、延宝二年あるいは万治二(一六五九)年以前にまでさかのぼらせることになる。あるいは、元禄七年の時点で、それ以前の刊行書のなかで、時期的な線引きがなされたか、版権登録できる書籍などが指定されたことも考えられる。このように版権の確立時期が明確でないこともあって、それ以前の書物について、事例38など、どこまで版権をおよぼすかが問題となる件もでてくる。

2新板節用集*
A元禄一三年九月二六日。
B『新板節用集』*、鍵屋善兵衛。ただし、この書名、一般称か。
C『年代記絵抄』*、伊賀屋久兵衛。
D頭書付録として「年代記絵抄」を付したため。
E「構」。
F抵触した部分の六割を削除する。
G京都済帳。
H付録が問題化した最初のもの。六割を削るだけで済んだ点は注目してよかろう。すなわち、他からの流用も五割未満であれば許容される場合のあったことが知られるからである。
 一方で、のちの事例4では他書の内容の過半をとりいれたため、その部分をすべて削ることになっている。詳細が知られないので明確なことは言えないが、個々の件によって問題の解決法に差異があり、ある件での解決(法)がそのまま他の件の解決(法)として採られるとは限らなかったことに注意したい。もちろん、今後の検討や資料の発見などにより、当該事例をめぐる諸事情が明らかになれば、一見ケース・バイ・ケースのように見える対処法にもある一定の原則がはたらいており、まちまちに見えるのはそれぞれの事例の特殊事情によるといったことが明らかになるかもしれない。が、現段階では、一応、右のように見ておくこととしたい。

3節用集*
A元禄一六年九月。
B『節用集』*、鍵屋善兵衛。この書名、一般称か。
C『江戸鑑』*、藤屋長兵衛(大坂)。
D付録として「江戸鑑景(系カ)図入」を加えた。
E京都行事は藤屋に「古来より有〓之由、申遣」ったが、藤屋は鍵屋に注意するよう要請した。が、鍵屋も「互ノ事ニ候へは了簡致仕」よう述べ、費用なども藤屋から出すよう要請した。
F大坂より沙汰なく、立ち消え。
G京都済帳。
H「古来より有〓之由」とは、版権制度が成立する以前からあるとの意で、特定の者に独占権がないことを述べたものである。そうした書物の扱いについて見解が徹底していなかったことが知られる例であろう。なお、事例1参照。

4万年節用字鑑大成*
A日付明記されず。宝永五(一七〇八)年一一月から同七年九月までのうち。
B『万年節用字鑑大成』*、吉文字屋市兵衛。
C「魚鳥切形」*、村上(勘兵衛カ)。「料理献立」*、鈴木(太兵衛カ)。H参照。
D付録としてC二書の過半を入れる。
E「構」。
F吉文字屋が抵触部分のすべてを板木から削る。
G京都済帳。
Hこれも付録の出入り。元禄初年以降、節用集には種々の付録が入るようになるが、そのために、他書との版権問題が見られるということなのであろう。江戸・京都にくらべて出発の遅かったといわれる大坂書林の弱みが、このような形で露呈したものか。
 「村上」の「魚鳥切形」について。諸目録などによれば、本件以前のもので、村上姓のものの開板した「魚鳥切形」は見当たらないようである。そこで、「魚鳥切形」の名に見合う内容を有するものに範囲をひろげれば、『料理切方秘伝抄』が候補にあがる。吉井始子氏は本書の開板時期を寛永一九(一六四二)年から万治二(一六五九)年までのあいだと推定し、『増益書籍目録』(元禄九〈一六九六〉年刊)により板元を村上勘兵衛とされている。したがって本件の「魚鳥切形」も『料理切方秘伝抄』である可能性が高いものと思われる。「料理献立」も同様に、「四季献立」を有する鈴木太兵衛開板の『江戸料理集』(延宝二〈一六七四〉年刊)が候補としてあがってこよう。参考、吉井氏編『江戸時代料理本集成』別巻(臨川書店 一九八一)。

5字林節用集*
A宝永六年四月二日終了。
B『字林節用集』*、吉文字屋市兵衛・柏原屋清右衛門・敦賀屋九兵衛。
C『節用集』*、伊丹屋茂兵衛。ただし、この書名は一般称か。三階板のもの(なお、三階板とは現在の用語では三段組にあたる。ただし、上中下段それぞれに配される記事は異なっており、各段ごとに記事が展開していくので、厳密には三段組とは異なる)。
D本文を三階板としたこと。
E内済。ただし、「御公儀様御帳面ニ御留被下相済申候」とある。
F三階板の節用集は伊丹屋茂兵衛の株とする。ただし、『字林節用集』も板木が磨滅するまでは認められた。
G大坂裁配帳一番。大坂鑑定録。
HGの記載は、結果を中心に記しており、どのような経緯・経過があったのか、必ずしも明らかではない。伊丹屋が千載集・百人一首を三階板で彫刻したことが発端だったことが知られるばかりである。
 三階板の節用集に関しては、伊丹屋はすでに『■■大広益節用集』(元禄六〈一六九三〉年刊。玉川大学図書館蔵。ただし、伊丹屋太郎右衛門として)を開板しており、優先権があることになる。本件で三階板節用集の版権が伊丹屋に保証されたのはこのためであろう。また、この版権の派生・展開として、三階板の千載集・百人一首の開板を企画したのであろう。
 一方、三階板の百人一首については、柏原屋の板株が保証されたことになったが、逆にそのことから柏原屋に優先権があったことが推測される。跡見学園短期大学図書館編『百人一首目録稿』三(一九八七)に『万宝百人一首大成』(宝永四年刊)が記載されており、わずか二年ながら本件に先立つものである。解説の〔内容〕欄に「○頭注 上段三十六歌仙 下段七夕他」とあって頭書が二段組であることが知られ、巻頭の図版からも確認できる。また、〔内容〕欄に「歌人名(下に「元禄十三年迄千四十七年ニ成」とそれぞれの年数を付記)」とあって、それとおぼしい文字が図版でも確認できる。このことから、跡見本は再板であって、元禄一三年ころの初板があった可能性が考えられる。もちろん、初板本が柏原屋のものかどうか、確認の要はある。柏原屋の側にはこのような『万宝百人一首大成』があったため、それに基づいて三階板『字林節用集』の開板を企画したのであろう。
 このように三階板について、伊丹屋・柏原屋それぞれに優先権を主張する根拠があることになる。そして、本件までは、双方ともに互いの三階板について、かたや節用集かたや百人一首と分け合っていたため、クレームをつけることがなかったのであろう。しかし、このような状況は、ともすれば、三階板というレイアウトが版権の埒外にあるとの印象を醸成することがあったのではなかろうか。そのように拡大解釈されれば、それぞれの節用集・百人一首にとどまらず、他へもあてはめても差し支えないという論も成り立たないではない。そのような事情から、本件の解決は意外に手間取ったのではないだろうか。本件では、罫線がなくとも三階板に見えそうなものや四階板・五階板を作らないことが取決められるが、神経質とも思える。さらに、合議結果の記載を奉行所に願い出ている。これらは、ふたたび同様の紛議を起こさぬために禍根をたった措置だと考えられるわけだが、一方では、本件の争いの激しさを伝えるようにも思われる。
 なお、本件の結果からすると、節用集・百人一首でなければ、他の書肆が三階板を開板できた可能性があるが、そのような書物があるのかどうか、現段階では何とも言えない。
この点で注目されるのが、植村藤右衛門(京都)・浅野弥兵衛(大坂)開板の『太平節用福寿往来』(寛政四〈一七九二〉年刊。米谷隆史氏蔵)である。頭書に『節用福聚海』、下部に『日用文章筆牘』を配すが、後者は別途頭書を設けて語注をほどこしており三階板となっている。植村(伏見屋)といい浅野(藤屋)といい、歴とした書肆の開板だけに、あるいはと思わせる。が、山田氏の目録の『節用福聚海』(文政五〈一八二二〉年刊)の項によれば、「「文章筆牘」ト合綴シテ「■■増補早引大節用集」ト題ス」とあり、柱題も「太平節用」であって、『太平節用福寿往来』の改題再板本と思われる。が、この板元は伊丹屋善兵衛・河内屋長兵衛・河内屋源七郎であって、結局、伊丹屋の手に帰したことが知られるのである。
 また、『節用集大系』第三〇巻(大空社 一九九五)の『森羅万象要字海』(元文五〈一七四〇〉年刊)の解説に「本書外題角書に『三階新版』とあり、版元の堂号を『三階堂』と称する点は、この種の体裁が伊丹屋独特のものであったことをうかがわせる」とあり、したがうべきかと思うが、その背景には本件のような問題があったことを忘れてはならない。

6字引大全*
A日付明記されず。正徳二(一七一二)年八月から一二月までのうち。
B『字引大全』*、柏屋四郎兵衛。
C書名不明、藤屋長兵衛(大坂)。
D明記されず。本文に関することか。
E「構」。『字引大全』は「京大坂之申合より已前買得之板にて少々類焼之分彫足し」たものと藤屋に言い渡す。
F沙汰なく、立ち消え。
G京都済帳。
H本書、節用集であるかどうか不明。念のため、記載する。「京大坂之申合」とは、おそらく元禄一一年に京都・大坂の書肆がそれぞれの町奉行所に重板・類板の禁令を願い出たことを言うのであろう。同時期のことゆえ、蒔田稲城も「京都及大阪両都の本屋仲間に何等かの連絡があつたものゝ如く思はれる」と見ている。そして、それ以前に入手したものには版権が適用されないということであろう。なお、事例3と同様の経過で、大坂から藤屋が言いはじめた点も似る。事例1も参照されたい。

7福寿千字文*
A享保一一(一七二六)年一一月一一日終了。
B『福寿千字文』*、大津屋与右衛門。
C『福寿節用集』*、村上清三郎。
D記録には「百寿之内十四字入有之候。然所ニ百寿は村上清三郎殿方福寿節用集ニ入有之候」とある。それを除くように要請した。H参照。
E差構であろう。
Fすでに『福寿千字文』の写本が完成していることにより、一字も増補しないことを約して、認める。
G大坂裁配帳一番。
H後年のものながら、『太平節用福寿往来』(前掲)では「百福寿之図」と称して種々の書法を紹介する。本件の「百寿」ものそのようなものであるらしく、そのうちの一四字が抵触したということであろう。

8和玉節用集*・書翰節用集*・万金節用永代通鑑
A享保一三年一一月以降に問題化。翌年七月六日終了。
B『和玉節用集』*、柏原屋清右衛門(板木購入)。『書翰節用集』*、仲屋久次郎(板木購入)。『万金節用集』*、河内屋茂兵衛・誉田屋久兵衛(板木購入)。H参照。
C書名不明、伊丹屋茂兵衛。あるいは『大広益節用集』か。H参照。
DBの四肆が津田藤右衛門(京都)の節用集の古板木を購入したが、それらが何らかの点で伊丹屋の節用集に抵触したもの。『和玉節用集』は和玉篇の合刻かと思われる。H参照。『書翰節用集』は不明。
『万金節用集』は付録挿絵に「鑓印」があることによる。節用集にかぎらず、伊丹屋の開板書のうちに槍印を載せたものがあったものか。
E「差構」。ただし、奉行所にも訴え出、対決・吟味があった。途中より、同業の藤屋弥兵衛・大津屋与右衛門が仲介し、落着する。
F『和玉節用集』は伊丹屋が購入、『書翰節用集』は京都へ差戻し、『万金節用集』は一代限り認められる。再板の際には槍印を削るとの条件が付される。
G大坂裁配帳一番。
H『万金節用永代通鑑』(宝永七〈一七一〇〉年以降刊、亀田文庫蔵)の頭書に、武鑑と国尽と里程記を合わせたような「南膽部州大日本国海陸如手引記」という記事がある。そこには槍印が見えるので、『万金節用集』は本書のことと考えられる。
 『和玉節用集』は現本不明。書名から推して和玉篇と節用集を合刻ないし合冊したものと思われる。合刻の例は伊丹屋の三階板『大広益節用集』(元禄六年刊)にあり、上段に『増補倭玉篇』、中段に挿絵入りの語注、下段に節用集本文を配する。したがって、和玉篇が差構の要点と考えられる。山田氏は、『大広益節用集』以前の合刻の例として寛永一六(一六三九)年正月板を紹介する(「漢和辞典の成立」『国語学』三九 一九五九)。
これはさらに聚分韻略も合刻したもので、大谷大学国文学会編『倭玉篇展観書目録』(一九三二)に記載されるが、国会図書館の亀田次郎旧蔵書には引き継がれなかったとのことである(『近代国語辞書の歩み』三省堂 一九八一)。本件の『和玉節用集』が「京都」からの「古板木」だということから、寛永一六年本と同一書である可能性も考えられないではない。なお、山田氏の目録によれば、藪田板『頭書増補節用集綱目』五行本の題簽に『鼇頭節玉用編』とあるという。書名からすると、節用集と(和)玉篇との交渉が想像されるが、合刻・合冊などの注記はない。ただ、「真ノ附訓ハ両側〔右ひらがな−−音/左カタカナ−−訓(二・三ノ場合モアリ)〕」との注記から推して、節用集ながら和玉篇のように複数の訓を掲出するものなのであろう。書名中の「節玉用編」もそのような渾然とした体裁を反映するものと思われる。なお、複数訓の掲出は、のちの『早字二重鑑』(宝暦一二〈一七六二〉年、江戸・前川六左衛門刊)にも見え、一層徹底させたものに『字彙節用悉皆蔵』(宝暦一三年刊)がある。後者は、藪田の開板なので、『頭書増補節用集綱目』五行本のアイディアが宝暦にいたっても藪田のものであったことを知る。そのことから、本件の『和玉節用集』とは関係ないものと考えておく。
 さて、本件は、伊丹屋の買い取り、京都への返却、板木一代限りの板行として落着したが、それぞれに異なる点が注目される。このような結果が、はじめから伊丹屋が望んでいたものかどうかは分からない。おそらく、調停案そのものかと思われる。
 部分観として事後はさておき、本件だけをみれば、実は伊丹屋が損害を受けたことになる。用のない板木を買い、付録の抵触にも板木一代限りとはいえ目をつぶらねばならなかった。これに対して他の四肆はほとんど何の影響もなく、むしろ、少利を得た場合もある。
『和玉節用集』は伊丹屋が「元銀」で買ってくれることになり、『万金節用集』は一代限りながら板行できた。『書翰節用集』の場合は返却なので、なにがしかの手数料を引かれた分しか返金されないだろうが、あるいは、憶測だが、利益の見込める『万金節用集』の板元が、その売上げで補填することも考えられる。逆に、それを見越して『万金節用集』にだけ板行を認めたのかもしれない。そのように考えられれば、四肆側は、古板木を刊行して得るはずの利益は失ったが、古板木の購入をめぐっては損害にならない。つまり本件の眼目の一つには、購入するまえの状態にもどすことがあったと考えられる。もちろん、このような結果は、後のことを考慮にいれると、伊丹屋にとっても、版権を侵害されるおそれがなくなる点で利があるのである。
 本件は、仲間内で解決を見ずに町奉行にまで持ち込まれたものである。このことから、同じ仲間内とはいえ、古板木とその板株の扱いについて、統一的な見解が用意されていなかったことを示すもののようである。

9悉皆世話字彙墨宝
A享保一九年五月。
B『悉皆世話字彙墨宝』、伏見屋藤二郎。
C『合類節用集』『広益字尽重宝記綱目』、村上勘兵衛。
D本文の類似によるものか。
E「構」ながら、奉行所に訴え出、行事へ差し戻される。
F板株の「三分通り」を村上へ譲渡。
G京都済帳。
H侵害の要件の詳細は不明だが、意義分類や収載される用字などに類似が認められそうである。佐藤(一九九五。前掲)参照。

10蠡海節用集
A元文五(一七四〇)年六月二九日落着。
B『蠡海節用集』、吉文字屋市兵衛・仲屋嘉七。
C『年暦図鑑』*、富士屋長兵衛。
D付録として「年暦六十図」を入れたことによる。
E「差構」。
F「年暦」を「年代」と書き改めることで相済。
G大坂裁配帳一番。   「法書」≒法律・制度の書(日国)H「六十図之くり様・年代之繰様ハ法書ニ有之候故、申分ニ相立不申候」とあって、富士屋側の言い分はほとんど容れられなかった。ただし、『蠡海節用集』に「年代六十図」があることを根拠に、年号だけ引き出すような本の刊行は吉文字屋側には認められず、富士屋の板株であると確認された。

11蠡海節用集
A日付明記せず。元文五年七月から一〇月までに問題化、同一二月までのうちに相済。
B『蠡海節用集』、吉文字屋市兵衛(大坂)C書名不明、長村半兵衛。
D明記されず。判型か。あるいは、門の順序の可能性もあるか。H参照。
E不明。
F内済。
G京都済帳。
H長村は、袖珍本の『万倍節用字便』(享保四〈一七一九〉年刊。米谷隆史氏蔵)などを持ち、のちに『字典節用集』『早引節用集』とも出入りを持つ。『蠡海節用集』も『字典節用集』『早引節用集』と同様小型判ゆえ、判型に関することかと思われる。とすれば、本件は、判型が問題になった最初のものとなる。
 なお、『蠡海節用集』は各部を言語門からはじめるが、『万倍節用字便』も同様である。この点が問題点となったことも考えられるが、その後、『蠡海節用集』『字典節用集』ともに再板されていくので、この点は大きな問題とはならなかったと見るべきか。

12森羅万象要字海
A日付明記せず。元文五年七月から九月までに問題化。
B『森羅万象要字海』、伊丹屋茂兵衛(大坂)。
C『公家鑑』*、出雲寺文次郎。
D明記されず。付録の「公家鑑」が抵触したものであろう。
E差構か。
F不明。
G京都済帳。
H同じ時期の記録として次の事例13があるが、その内容から、ここで別件としてあつかうこととした。

13森羅万象要字海
A日付明記せず。元文五年一〇月から一二月までに問題化。
B『森羅万象要字海』、伊丹屋茂兵衛(大坂)。
C不明。京都行事か。H参照。
D付録であろう。H参照。
E不明。
F不明。
G京都済帳。
H京都済帳には、「森羅万象之内、御規式之類有之候ニ付、証文之事並大坂へ書状 同返事之事」とあるばかりである。おそらく、京都行事が、公儀関係の内容が危険とみ、売り広め許可をめぐって大坂とのやりとりがあったことを示すものであろう。亀田文庫本によれば、「禁裏諸式・仙洞御法諸式・官位の大概・将軍家諸式并ニ言葉遣」などが見えるが、多く、用語の言い換え集である。大事をとったということか。安永二(一七七三)年頃の再板本(米谷隆史氏蔵)でもほぼ同様であった。とりたてて何事もなかったのであろう。

まとめ

 本期における版権問題を要点ごとにまとめると次のようになる。これまでに見たことからも知られるように、問題の要点が明記されないものも少なくないが、推測も含めて分類・計上してみた。なお、a〜eのうち、複数にまたがる件はそれぞれに一件として記した。
  a付録     該当事例234788101213  計九件
  b本文         19          二   
  c検索法        1           一    
  d判型         11           一    
  e版面         5           一    
  fその他・不明     68          二    
 本期ではaが突出しており、特徴的である。bcは『合類節用集』をめぐるもので、すでに佐藤(一九九五)にも述べた部分がある。dは次期での特徴の一つとなるので続稿にまわしたい。eも一件だけのことであり、すでにやや詳細に述べた。したがって、以下、aについて私見を記し、まとめとしたい。
 節用集では、元禄初年ころから日用・教養的な記事を付録として併載するようになる。
右の結果には、そのような状況が反映されていよう。付録の増補がエスカレートしていく過程で版権問題にまで発展したものがあるということである。ことに、本来、かならずしも節用集と直接的な関係がなかったはずの年代記・年暦図鑑・料理書・江戸鑑・武鑑・公家鑑とのあいだで問題となっているのが興味深い。やがて、ある節用集に特定の付録が定着するようになると、事例8の『和玉節用集』『万金節用集』のように、節用集間で付録記事の版権問題が起こる段階になるが、本期ではその前段階の例が多かったのである。いいかえれば、節用集がそれらの書物を取り込むにあたって、他書の版権との擦り合わせをしてきた対外交渉の過程だったということである。交渉の結果、例24のように併載をあきらめざるを得ない場合もあったが、逆に、相合板として版権所有者を新たに参加させることも考えられよう。版権問題のあった節用集が、そののちにも板行される場合にはしばしば見られるものであるが、本期の場合ではそれが付録をめぐっておこなわれたことも考えられたのではなかろうか。山田氏の目録に『倭節用悉改嚢』(元文六〈一七四一〉年刊)の項があるが、その板元には中野宗左衛門から梅村弥右衛門にいたる六肆の名が認められるという。このような相合板には、販売による経費回収時のリスクを低くめる意味もあったろうが、異なる版権を有するものが共同するとの側面もあったのではなかろうか。その意味では、節用集を版権のパッチワークとして見ておくことも必要かと思われる。
 近世節用集は、一八世紀後半にいたって教養書・作法書として人々に認識されることもしばしばあったわけだが、それは元禄以降の付録の増加という傾向によるものであった(佐藤「書くための辞書・節用集の展開」『月刊しにか』一九九三−四、「早引節用集の位置づけをめぐる諸問題」『岐阜大学国語国文学』二二 一九九四)。本期は、それにふさわしい過渡期的な現象が多く見られるということになろう。

『岐阜大学教育学部研究報告(人文科学)』44−1(1995)所収