岐阜大学大学院医学系研究科組織・器官形成分野

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医学部における研究活動 間近に迫る危機(2009年6月,2010年1月改訂)

以下の論考は本サイトの運営責任者國貞隆弘の情報分析に基づく個人的な見解であり、 岐阜大学や岐阜大学医学部の公式見解ではなく、 組織器官形成分野としての責任を伴う意見表明でもありません。

我が国の医学部における研究の現状

臨床で今までのように研究を続けることが難しくなった、医局に人がいない、科研費の獲得額が伸び悩んでいる、以前掲載された雑誌に投稿してもなかなか受け付けてもらえない、診療が忙しくて研究に時間が割けない・・・・・このような会話は岐阜大学医学部に限らず全国の医学部・大学病院で交わされているはずである。私は岐阜大学医学部の教員・研究者としてこのような現状を漠然と何とかしようと思い、微力ながら個人的な努力も続けてきた。最近ではしかし、個人の努力では不可能ではないか、たとえ私ひとりが幸運にも私個人の周辺の研究環境を変え得たとしてもこの全体的な趨勢を変えることはできず、このままではそこかしこで語られている“医学部における研究の崩壊”は現実になるのではないか、と思うようになった。

全国医学部長会議での山形大学の嘉山医学部長の大変直截な言によれば、LINKこれは、清水(孝雄)東大医学部長から頂いたものですが、あの東大ですら、昨年(2007年)基礎系に行ったのは1人です。その前(06年)はゼロですよ。 先程、田原(克志)さん(厚労省医政局医事課医師臨床研修推進室長)が来てましたけれども、「卒後研修制度が…」なんて言ってましたけれども、わたしはもう、医療の崩壊どころじゃなくて、日本の医学、医療すべてが崩壊するんじゃないかと、非常に危機感を持っています。なぜならば、大学に(研修医が)戻らないからですね。

同様の危機感はきわめて感情的・定性的にではあるが(基礎医学・生命科学研究者が昨今の研究環境をデータに基づいて議論した文献を私は探すことができなかった)、九州大学生体防御医学研究所分子発現制御学分野/中山敬一教授によっておそらく戦略的にやや過大に語られている。LINK 現在のような状態がつづけばどうなるだろうか。事実上日本の理系頭脳のトップを占めている医学部から、もっとも創造性の要求される基礎研究にまったく人材が行かなくなるという可能性が出てくる。畢竟、基礎部門における人材の数と質の低下は避けられず、当然研究能力も低落するであろう。・・・・・基礎医学部門の凋落は、実は医学部崩壊の序章にすぎない。臨床部門においてもその影響はかなり早期に現れるだろう。・・・・・早晩、臨床研究能力の低下はやってくるはずだ。実験のイロハをまったく知らない多忙な医師にどのような研究ができると言うのか。 今まで彼らが基礎研究で学んでいたものは、決して実験手法とかテクニックといったものだけではない。・・・・・。科学としての医学を肌で実感することがその最大の恩恵だったのだ。・・・・・。あっというまに日本の臨床研究能力は低下するだろう。・・・・・間接的にも医療バイオ関係をすべて海外に独占されることは経済的に巨大な損失であることは明らかである。医学部は今存亡の危機に立たされているという認識をガン細胞研究で世界的に知られた九州大学医学部の教官が明確に抱いているのである。

このような認識がごく一部の医学部教官の妄想ではないことは、2006年の日本生化学会機関誌の79巻1号において44大学の51人の教授を対象に行われたアンケートで、9割近い回答者が学生の臨床志向、研究者減少、生化学講座の縮小などの危機感を抱いており、制度改革や基礎医学重視の政策など、トップダウンの改革が必要であると感じていることからも伺われる。LINK

地方大学に顕著な臨床医学研究の国際競争力の低下(論文出版数の相対的な減少)から、現在地方大学医学部を中心に進行しているのは「地域医療の崩壊と医学研究の国際競争力の低下の同時進行」だと結論する医学部出身の豊田長康三重大学学長の論考も同様の危機感に根ざしているといえよう。LINK 豊田学長も中山教授と同じく、医師研修制度を主犯にあげている。(医師不足が)表面化したきっかけは、04年に始まった新しい医師研修制度です。若い医師が全国どこの病院でも選べるようになって流動化が進んだために、一部の勝ち組の病院(多くは都会の大学や病院)に医師が集まるようになりました。それから、研修医がいろいろな診療科をローテーションするので、しんどい科と楽な科がよくわかるようになり、しんどい科を避ける傾向が出てきたのですね。しんどい科の医師がいったん減ると、残された医師はますますしんどくなり、病院を去って開業医になるという現象が加速しました。・・・・・。いずれにせよ、大学の医師が減ると、研究する人の数が減るので、あたりまえのことですが、論文数も減るわけです。(引用終わり)?ただ、豊田学長も注意深く書いているように、このような危機は医学部において長年にわたり醸成されてきたものであり、医師研修制度により一気に表面化したということで、原因は医学部に積極的に危機を予見・探知し適切な手段を講じることができていなかったことを自覚する必要がある。では、なぜそのような自己改革ができなかったのか・・・・このような議論は必要かもしれないが本論ではこれ以上踏み込まない。

インターロイキン6の発見者として知られる基礎医学研究者の平野俊夫大阪大学医学系研究科長は、「平成21年元旦:医学系研究科・医学部の皆様方へ」と題された挨拶文で、話題になっている医療崩壊、医師不足にふれた後?医学部出身の基礎医学研究者が激減しつつあるという現状も見過ごす事は出来ません。基礎医学の衰退は、臨床医学の衰退を招き、将来的には医学の崩壊に至ります。阪大医学部においてこのような事が将来おこれば、我々世代の責任であります。?と、やはり医学研究の衰退の兆しを感じている。LINK

2008年8月の読売新聞の記事を参考に、統計的な事実を最後に確認しておきたい。LINK 「臨床医学論文数、日本18位に転落」の見出しの記事によると、?臨床医学分野の日本の研究論文数は、ここ5年間は18位まで落ち込み、中国にも追い抜かれていることが、日本製薬工業協会医薬産業政策研究所の高鳥登志郎・主任研究員の調査で明らかになった。英国の「ランセット」など著名な臨床医学誌3誌に掲載された論文数を国別に調べた結果、1993〜97年と98〜2002年の日本の論文数は、いずれも12位につけていた。しかし、03〜07年では74本と18位に落ち込み、中国(15位)などにも追い抜かれた。一方、米国の「ネイチャー・メディシン」など基礎医学分野の主要3誌の論文数は、日本は98〜02年、03〜07年とも、米国、ドイツに次いで3位を維持している。 ということで、以下の表1をご覧頂きたい。

基礎研究の論文数の総計をNature medicine、Cell、Journal of Experimental Medicine3誌の合計で見るという手法は、NatureおよびScience誌から生命科学関係の論文を抽出する労を省いたとしか思えず、またNature Medicineを基礎医学論文に入れるならNature Geneticsも当然入れるべきであり、JEMが含まれるならより内容に偏りのない(JEMは明らかに免疫学重視である)Journal of Clinical Investigation も入れるべきでは、等々やや整合性に欠ける分析ではあるが、臨床論文が中心の高インパクトジャーナルが最初に影響を受けているのは、医師研修制度により一気に顕在化した臨床教室の人材不足やその影響で能力の高い教官の研究時間が不足していることを反映している可能生が高い。なぜここでいう基礎研究論文には影響が現れていないかについては、そもそも圧倒的に一位の米国の数が一貫して減少しているこの分析そのものが信用できないと考える向きもあろう。2000年以降NatureとCellが競い合うように姉妹紙を発行し、インパクトの高い論文の出版先が分散したという特別な事情も関係すると考えられるが、このような基礎系の高インパクト誌に論文を掲載できる我が国の医学部にはそれでも各所から人材を引きつける力があり、なんとか踏みとどまっていると推理することもできる。また、ここでサンプリングされている基礎研究誌(特にCell)には医学部以外からの投稿も多いことも考慮する必要がある。いずれにせよ、ここでいう臨床研究論文の急激な落ち込み(アメリカでも1998?2002の3695報から2677報へと28%の減少であるのに対し、日本は183から74と60%近くも激減しており、もはやブラジル、ニュージーランド、南アフリカと同数!)は統計の取り方のせいにすることは不可能である。この報道の見出しのように単に順位が下がったのが問題なのではなく、論文数が三分の一近くにまで減少したことが問題なのである。日本以外の上位十国の論文数は安定しており、18位から23位まで下降した小国オーストリアでさえ88報から57報へ35%減少しているだけである。2003年以降に始まった高インパクトジャーナル掲載論文数の顕著な低下をもって、それは日本の医学研究の崩壊の確かな前兆であったと後に回顧されるであろう。これまで引用した各氏も予想しているように、基礎研究論文の激減に見舞われるのはそう遠くない将来と考えられる?私の推測では2014,5年には、医学部からの基礎系の高インパクトジャーナルへの投稿は半減するに違いない。

論文の総数は減少していないし、国内の医学関係の学会は以前と同様に盛況で研究は確実に行われている、心配しすぎでは?出すのにコツみたいなものが必要な高インパクトジャーナルになぜこだわるのか、という方には、日本独自の医学というようなものの存在が許される正当性がない以上、世界レベルの研究が行われているか否かは一定以上の経済規模を持つ国の医療の将来を予測する判断基準であり、それが急速に低下する国では将来必ず医療の水準が低下すると予想されることを指摘しておきたい。


岐阜大学医学部の臨床分野における現状分析の試み

実際に岐阜大学医学部の現状はどうであろうか。申し訳ないが,評価対象は臨床分野に限定したい。理由はここでは特に述べないが,個人が片手間に分析するには対象を限定せざるを得ず,たまたま岐阜大学医学部の臨床系分野を選択したとご理解いただきたい。評価には医学部の総力を挙げて編纂されてきた「岐阜大学大学院医学系研究科・医学部・付属病院の現状と課題」の業績の部分を利用した。本誌は単なる論文業績集ではなく、学会発表、診療活動や社会貢献報道に至るまで各分野の活動報告集であり、自己評価欄には率直な各分野の現状も記されている。今回、本誌に記された研究成果の発表の項目から、原著(欧文)に注目して当該分野の相対的な研究能力を、期間を限定して可能な限り数値化して評価することを試みた。総説、学会発表や特許等も研究活動や研究能力の指標であることは間違いないが、全ての研究状況は、現在の職業化された科学者集団では、最終的に査読を受けた原著論文として出版されることに鑑み、原著論文のみを評価の対照にした。原著論文は滅多に書かないが国際誌へ総説が多いとか、影響力のある学会発表は多いが全く論文は出版しないとか、そういう例はあるにしてもごく希であり、原著論文のみで医学研究を評価することは十分合理的と考えられる。

まず、論文数の推移を見てみよう。2003年から2004年、2007年から2008年までのそれぞれ二年間にわたり、臨床系各分野で出版された原著論文を集計した。年間論文数が10報以下の分野もあることなどから、分野単位で2年間の論文数を比較することにした。詳細は別紙の資料1の論文数の欄を見ていただくとして、2003年から2004年の岐阜大学医学部臨床系分野の全原著論文数は463であり、2007年から2008年までのそれは424であった(岐阜大学大学院医学系研究科・医学部・付属病院の現状と課題第6号及び7号)。確かに、論文数は最近少なくなってはいるが、8.4%程度の減少であり、様々な逆風ともいえる条件の中健闘していることは間違いない。ただ、論文数の欠点はどの論文の重み(重要性)も同一として計量されている点である。今回、各分野の総体としての研究能力(価値があると社会に認められる研究を遂行できる能力)の経年的な変動を測定し、岐阜大学の研究の現状を評価するのが目的であるから、研究能力が高ければ論文数も多いであろうということは正しいにしても、研究の量に重みをつけた論文数の総計では安心できる研究能力の指標とは言えない。

次に、あの忌まわしいインパクトファクター(IF)が登場するにあたって、もう一度最近の業績評価の指標にあるいは雑誌の宣伝にと使われるIFに関して基本的なことを確認しておきたい。以下はハーバード大学医学部準教授の島岡要博士が発表されたものからの引用(一部改変)である。LINK

1)インパクトファクターは次のように計算されています(Wikipediaより): インパクトファクターはWeb of Scienceの収録雑誌の3年分のデータを用いて計算される。たとえばある雑誌の2004年のインパクトファクターは2002年と2003年の論文数、2004年のその雑誌の被引用回数から次のように求める。

A = 対象の雑誌が2002に掲載した論文数
B = 対象の雑誌が2003年に掲載した論文数
C = 対象の雑誌が2002年・2003年に掲載した論文が、2004年に引用された延べ回数
C÷(A+B) = 2004年のインパクトファクター。

2)分子(C)はすべての種類の論文を含みますが、分母(A+B)はarticles(原著論文)とreview articles(総説)のみを含めfront matter(例:Nature の"News and Views" など)は含まない。

3)インパクトファクターは平均値であるので著しく高頻度で引用される一部の論文による影響が大きい。例えばNatureでは2005年の総引用数の89%は上位25%の論文からきている(Editorial. 2005. Not-so-deep impact. Research assessment rests too heavily on the inflated status of the impact factor. Nature. 435:1003?1004)

このように、IFは問題を抱えてはいるが、少し離れた分野の研究者の能力を原著論文と向き合わず、インタビューもせずに手早く評価したいという(大変ムシの良い)目的には、最も簡単で有効な指標であろう。1)の定義からわかるようにIFは良く引用される論文は取りあえず良い論文だという信念に基づいた数値である。出版後60年間近く引用すらされなかったメンデルの論文こそがIFの無意味さを物語るというのは確かに正論であり、そんなものでは研究者に最も必要な“真の研究力”の片鱗すら知ることはできない、それも確かに真実の一断面とはいえる。ただ、現在のように研究が職業として、税金を使い納税者への説明責任を背負いながら行われる時代、たった数百ワードしか使えない要旨の後三分の一を使って論文の意義深さと波及効果を宣言し、またそうすべしと論文書きの指南書が力説する時代において、この時代なりの学術誌の評価が過去2年間に引用された数で決まるというのは必然でもあろう。優れた研究能力を持つ研究者が重要な研究をした場合このようなIF値の高いジャーナルへ投稿するのが合理的な選択であり、実際ほとんどの研究者がそのように行動していることは事実である。そこで、2003年から2004年、2007年から2008年までのそれぞれ二年間にわたり、臨床系各分野で出版された原著論文のIFを集計した(別紙資料1の合計IFの欄を参照)。2003年から2004年にかけての臨床各分野のIFの合計は1206.795、2007年から2008年までのそれは968.127となり、残念なことに19.8%の減少になっている。論文数の落ち込みはわずかではあるが、個々の論文の引用度に基づいた価値(IF)の総計ではかなりの落ち込みが見られた。この落ち込みは岐阜大学医学部の臨床分野の研究能力の減衰と考えて良いのであろうか。たとえば、2007年から2008年は臨床研修制度と大学病院経営の強化方針の影響が顕著に現れた年であり、研究に割く人材が極端に不足し、多少の質の低下には目をつぶって論文の出版を第一に考えたのではないか。過程を修めた大学院生の学位のため、論文の出版を見合わせるわけにはいかなかったが、質に関しては必ずしも万全の体制で実験を遂行することができなかったので、IFの低いジャーナルへの投稿が目立ったが、これは一時的なものであり研究能力は全く反映されていない、というような反論もあろう。

この点をさらに調べるため、まず、IFで研究能力を測定する合理的な根拠を示す必要がある。何の定義もなく使ってきた“研究能力”という単語に関しては、単に論文作製能力を意味するだけではないし、1日に何回大腸菌からプラスミドDNAが回収できるかを競うわけでもない。そういう面をも全て考慮に入れた上で、実際に後世に影響を与える、あるいはそれほどのものではないが多くの研究者の目標になり、教科書にその成果について記述されるような研究を行う能力のことで、実際そのような可能性を漂わせている個人を指して研究能力が高いと形容しているはずである。もちろんそんなことが正確に予測できるわけはないのだが、極端な話ノーベル医学生理学賞を獲得した研究室のその研究が行われていた当時の業績のIFは同業他者に比べて高いだろうし、例外はあるにせよ現時点で面白い研究、多くの人に仕事のタネを提供するような先駆的な研究を行った研究室のIFは同業他者よりも高いのが普通だろう。論文の数でも良いが、IFという重み付けを行ったほうが質の評価に関してはより良い指標になる。もちろん、全く論文を出さない優れた科学者もいるだろうが(転移性遺伝因子の研究でノーベル賞を受賞したバーバラ・マクリントックは論文を出さなかったわけではないが、ほとんど全ての研究を彼女の所属していたカーネギー研究所の紀要に投稿した。これは、出版時には読者はほとんどいなかったということを意味する。)、我々は最終的に科学者の集合体である本学医学部医学科の研究能力を評価する必要があるし、マクリントックのような研究者は現在では無視できるほど少ない。強調しておきたいのは、研究能力とは抽象的な概念で、様々なパラメーター、例えば“実に巧みに英語を操る”とか“学会で聞き耳を立て面白いことは帰ってすぐに追試する”といった、なくても良いがあれば研究能力は一般的に高くなると考えられるどのようなパラメーターも、研究能力と相関するということであり、IFもそのような具体的なパラメーターの一つであるという点である。もう少しマシなパラメーターとして、 “個々の実験データからその現象の全体像を正確に再構成できる”というようなものもあり、間違いなく研究能力と相関するが、“個々の実験データからその現象の全体像を正確に再構成できる”ことを研究者や研究室単位で測定する手間を想像するだけで、これは広範囲に研究能力を評価・比較するための実用的なパラメーターではないことがわかる。IFの利用が広まったのはパラメーターとして研究能力との相関が良好であり、かつ大変算出しやすく扱いやすいという特性によると考えられる。確かに、ある人の人格を一年間に何度お辞儀をしたかで測るような危うさはあるものの、それに代わる簡明な方法がない。 このようなIFの特性を考えると、IFに依拠した評価を個人や個々の研究室に対して断定的に用いるべきではないことも了解される。研究を開始したばかりで、十分な研究費も設備も不十分な状況で一年間のIFの合計が2であった場合と、研究環境が十分な状態で年間4のIFを出した場合と、単純に数値の大小で4の方が優秀であると判断するのは間違っているということになるが、IFは一人歩きして往々にして前提条件やその特性を無視した絶対的な指標として使われている傾向がある。厳然としてある研究環境の格差などの条件を考慮せずに絶対的な指標としてIFを用いることはしてはならないが、検証可能な実験と論理を基礎にした“研究の遂行能力”の相対的な評価にIFを使うことの合理性・必要性を了解していただきたい。同じ研究能力の人が人員と設備と研究体制が完璧に整った研究施設と、設備の不十分な自宅の地下室で研究を行えば、研究能力が同一であるにもかかわらずIFには大きな差異が現れると考えられるが、同じ境遇におかれた研究能力の低い人よりは常にIFは高い傾向が認められ、同じ境遇であればIFの差異は研究能力の大小を反映するという点も重要であろう。また、統計学的に標本数が多ければ多いほど、個別的な事情による偏りが自動的に補正され、IFと研究能力の相関があるとすればより確実にそのことが示されると考えられる。

以上の観点から、IFは実用的な研究能力の指標として少なくとも利用可能であることは了解されたであろう。次の問題は、単純に全IFを合計することの是非である。実際、研究の本質的な進展とは関わりなく、一定の数の論文をコンスタントに出版し続けることが現在の大学で行われている科学研究システムでは要求されており、いくつかの論文は研究の成熟とは無関係に出版される傾向がある。そのような論文のIFは通常低く、研究能力の測定に関してはノイズとして見かけのIFの合計を押し上げる。実際、臨床各分野では珍しくない年間30編以上の論文が全てその分野の研究能力を傾注したものとは考えにくい。そこで、IFの大きな雑誌への掲載が、その分野(教室)の研究能力の最大値を反映するという合理的な推論から、ある期間の原著論文からIFの高い順にいくつかの論文を抽出し、その平均をもって研究能力の指標にすることを考えた。期間は論文数の時と同じ理由で2年とし、各分野で5報の論文を選んだ。別紙資料2からもわかるように、高インパクトの論文は岐阜大学医学部の場合2年間で5報に収まり、例えばインパクトの高い(通常IFが5あるいは6以上の)論文が上位5報から排除されることはなかった。また、全論文が5報以下の場合、それらの合計をもって最大の研究能力の反映と考えた。また、IFが研究条件を反映する相対的な数値である点を考慮し、このような比較はまず同一分野内で行った。同一分野内でも年ごとに研究条件は変転するが、これ以上比較単位を限定していくのは困難であろう。

もう一点、共著論文をどう取り扱うかが大変重要であり、今回は当該教室員がトップとラストオーサーであるもの、どちらかがラストあるいはトップの場合は当該教室が所属先として最も人数の多い場合に限り当該教室の論文と認定した。著者の中程に代表者一人が名前を連ねている論文や、留学先で教室員が行っている研究はこの条件をクリアしない場合が多く、IFが高くてもトップ5論文とは見なされない(尚、この判定はPubMedあるいはジャーナルのホームページから直接論文にアクセスし、全てのオーサーの所属を確認して行った)。研究活動全般の評価としてなら、影響力のある論文のコオーサーとして名を連ねることは、単に論文一報を発表するより価値があるかもしれないが、今回の目的が研究能力の測定であることから、研究の主導権を発揮したことが認められるような認定条件にした。単に材料や単一の技術のみを提供した可能性が高い論文はこの条件でほとんど排除されると考えられる。Pub Medで検索できない増刊号(Suppliment)の論文はIFが正確に判定できないので除外した。これらの前提を理解した上で、次の図1をご覧頂きたい。

図1

この図では、岐阜大学医学部の臨床系各分野に関して、2003年から2004年および2007年から2008年にかけて、それぞれ二年間のIFのある全業績(原著論文)から、IFの高い上位5位を抽出し、その平均値を分野別にグラフにした(灰色と黒のカラムのセットが各分野に相当する。一分野は新設のため比較できなかった。分野名は明記していない)。当該分野の論文との認定は、前述のような観点から、当該教室員がトップとラストオーサー(コレスポンディングオーサー)を占めているもの、ラストあるいはトップの場合は当該教室がオーサーの所属先として最も人数の多い場合に限った。

図1を見て、2003年から2004年にかけて高インパクトベスト5論文の平均が5以上のインパクトを持っていた5分野全てにおいて、2007年から2008年のインパクト平均が低下していることにまず注目されたい。これらの分野は内科、外科の旧ナンバー講座を多く含む。多数の研究者を抱え、IFの高い雑誌へ頻繁に掲載されていた分野の全てが、4、5年前の勢いを失っている。この図の元になったデータを詳しく見ていくと(典拠の分析はここでは発表しない)、各分野で分野の最高峰と認められているジャーナルへの掲載がないか、極端に少なくなっている。実際に岐阜大学大学院医学系研究科における博士(医学)の学位取扱細則に定められた各分野の優秀論文として認定されたジャーナルに臨床系分野合計で2003年から2004年にかけては39編掲載されていたが、2007年から2008年では27編へと30%近く減少している。このような傾向は、表1でも指摘されていた、日本からの臨床分野のトップジャーナルへの投稿の激減と通底するのかもしれない。ベスト5論文の平均IFが4前後の分野でも多くがこの間にIF平均を減少させている。ぎりぎりのところでインパクトのある研究を行っていた多くの分野が、2008年までにはともかく出版するという研究維持モードへ移行したのではと推測される。まとめると、ベスト5論文の平均IFが下降した分野が13、上昇した分野は9である。上昇した分野の多くは論文総数の少ない分野であった。

単純なIFの合計によって何かを語ることの危険性は既に指摘したが、岐阜大学医学部内での比較、しかも経年的な変化ということで、全分野の高インパクトベスト5の平均を合計することで、臨床系全体の研究能力を評価することが、ある程度は可能と考えると、それは2003年から2004年の78.77から2007年から2008年の64.231へと18.5%下降していた。“研究能力”の評価に絞って、可能な限りそれ以外のノイズを除去する操作を行った後にも、これほどの減少が確認されたのである。もし、人手不足で論文を多く出版できないという程度の逆境であれば、少なくとも本学医学科の研究者であれば、論文の数はともかく質だけは最低でも維持しようと対応するはずである。それなら、研究に力を入れることを好む分野においては2年間で5報の高インパクト論文というハードルは何とかクリアされたであろう。今回の分析の結果はそのような分野は存在しなかったことを示している。結論として、臨床各分野は、各分野のトップジャーナルへの掲載を各分野のメンバーを中心に行うのに十分な研究能力を失いつつあるという状況が浮かび上がってくる。さらに、臨床全分野にわたって、研究能力は低下傾向にある。近年、Cell,Natureなどの出版社による姉妹紙、総説誌の乱発、オンラインジャーナルの新刊ラッシュにより論文発表の場は増え続け、結果として各雑誌のIFは増加傾向にあるのに、である。この減少の割合が、臨床分野のIFの単純な合計の落ち込み(19.8%)と同じ割合であることは、落ち込んでいるのはIFの高い雑誌への掲載能力が中心であることを示唆する。前述のように、優秀論文として各分野に認定されるジャーナルへの投稿総数が2003年から2004年にかけての39編から、2007年から2008年では27編へと30%近く減少していることも、このことを強く示唆している。科研費の獲得総額とか、論文の総数とか、他の指標では2割も落ち込んではいないではないか、このような統計の取り方は異常ではないのか?確かに、研究の成果の評価という点では異常な分析かもしれない。ただ、重ねて述べるが、これまでの考察から、“研究能力”という事象の評価には今回のようにIFを用いた分析が有効であることは間違いない。研究主体となる人材を多く抱えている臨床分野こそが地方大学医学部における研究する組織の主体であるという常識からしても、多くの医学部(大学院医学系研究科)という研究する組織の最も重要な特性である“研究能力”が失われつつあるという現状をまず我々は認めなければならない。


雑誌のインタビューに答える形で東京大学医学部の渡邉俊樹教授は医学部における基礎研究の現状を語っている。LINK 何十年か前は、臨床で患者を実際に診ながらなおかつ研究をやっている人たちが、臨床研究だけでなく一部の基礎的領域の研究をリードしている時代がありました。フィジシャンサイエンティストと呼ばれるこうした人たちが、医学研究を支え、プリンシパルインベスティゲータにもなっていたのです。ただ、その後、分子生物学をはじめとする基礎研究そのものの知識や技術もどんどん進んだため、1人の人間が臨床と基礎の両方にまたがって活動するのが事実上、不可能になったというのが今の流れです。これは世界共通なのですが、日本の場合、それに日本固有の事情が重なって、欧米で議論されているよりさらに深刻な事態になっているということです。(引用終わり)?医師が研究することの困難は研究に要求される知識や技術の急速な進歩による世界共通の現象と言うことで、これは異論のある説ではあろうが、そのような観点からひいき目に見ても我が国の基礎医学の現状は突出して深刻であるという発言は、救いようのない無力感を漂わせている。今回の分析も、一部は渡邉教授の紹介する臨床における研究スタイルの世界的な変化の影響があるのかもしれないが、その影響は10年以上前に始まっており、ここ2、3年の急激な変化の主因とは考えられない。しかし、必ずしも医学部が原因ではない研究スタイルの急速な変化・高度化に対応するために多くの専門的なスタッフが要求されるようになり、この世界的な変化が大学院生や医師などの一時的な研究要員に依存している日本の医学部の弱点を容赦なく突いてきているのも事実である。医学部における研究環境は絶体絶命とも形容すべき危機的状況にある。

医学部をこのような状況に追い込んだ社会状況をも考慮に入れて根本的な解決策を示すことが一般的には妥当な手順であろう。ただ、もう時間がない。あと5年以内に有効な策を打たなければ10年後に、医学部の研究が崩壊するとしたら、原因の社会的考察とか、いくつかの案から慎重に議論を重ね、最適なものを選んでモデル的に一部試行する、といった猶予はないのではないか。このままでは、岐阜大学医学部医学科から10年後には医学部の教授候補者を出せなくなるのではないか、つまり本学は教員がインパクトのある学術論文を発表することが困難な臨床教育専門の大学院医学系研究科になるのではないか・・・。

注意したいのは,競争力のある研究体制を維持しているグループは臨床でも基礎でも多く存在する。Cell, Nature, Scienceなどのトップエンドのジャーナルには日本の医学部関係の研究者の論文が毎号掲載されている。岐阜大学の分析を含めて、 研究能力の低下が日本の医学部の総体的なトレンドになっているのではないかということである。このようなトレンドを持つ先進国はないのではないか。私個人はその原因に関しては推理する材料をあまり持たないが、 医師研修制度のみが原因ではなく、 従ってこの制度を“改正”すれば解決するとは思っていない。このような未来を断固拒否するという前提で、自力で医学部からインパクトの高い研究を出し続ける有効な方策についての論考は、 ここで公開はしないが、 何らかの対策が緊急に必要であることは間違いない。日本最優秀の人材を預かり、 かつてはそう自他共に認めていた教員により運営されている我々医学部がこのような危機を打開できないはずはないという私の楽観論を多少の冷や汗とともに結語としたい。

再生医療の将来(2005年2月15日)

最初のコラムから3年が経過しました。再生医療は依然として注目を集め期待されており、たとえば文科省の10年間230億円をつぎ込む「再生医療の実現化プロジェクト」などが立ち上がりました。理研の発生再生科学総合研究センターや産業技術総合研究所などが多額の資金を投入して再生医療の実用化を目指しており、主要な大学の医学部にも再生医療を看板に掲げた組織・教室が増えています。

にもかかわらず、再生医療の実用化への道は険しく、高分子のシートやチューブなどの工学的な手法を取り入れた治療が試験的に行われているのが現状です。ただ、上記のビッグプロジェクトをはじめ多くのプロジェクトが進行中であり、アメリカを中心にベンチャー企業の再生医療への進出も進んでおり、あと3年後には本格的な細胞療法(機能不全に落ち入っている組織・臓器を細胞の補填により再生させる再生治療)が、たとえばパーキンソン病などで始まるのではと期待しています。

心臓などの複雑な臓器を再生する方法論は、動物実験レベルでも依然としてありません。ただ、東京大学の浅島先生の研究グループは、カエルの受精卵の一部を切り取って張り合わせ適切な環境下に放置するとかなりの部分がカエルの眼でできている、まるでカエルの眼を穿り出してきたような構造物ができることを発見しました。それを眼を取り去っておいた幼生に移植すると、その眼は光を受容している、つまり目が見えていることが確認されました。

この論文はNatureのようないわゆる有名誌には出ませんでした。おそらく投稿されたと思うのですが、受精卵はそもそも個体へ発生してゆくのでたとえ早期にではあれその一部を切り取って眼になったとしても不思議ではない、などというレフェリーコメントとともに掲載を断られたと予想されます(私がレフェリーなら文句なく採択します)。日本の権威ある国際誌に出たので何も問題はありませんが、これをヒトに当てはめますと、受精卵に由来するES細胞からこのような構造物を誘導することも原理的には可能と主張することはできます。われわれの培養眼はもちろん浅島先生のカエルの眼とは程遠いものですが、ES細胞から一気に組織や器官を誘導するというわれわれの初志の方向性は間違ってないかもと勇気づけられる論文でした。

そうはいっても、単純な拡散で栄養を補給できる小動物や発生初期の器官と異なり、それなりのサイズを持つ臓器の形成には血管や神経を張り巡らせるなどの困難が待ち受けていますが、そのようなことが不可能と決まっているわけではありません。

かのシドニー・ブレンナー博士は、二重螺旋と遺伝暗号と基本的な遺伝子発現の調節機構が1960年代に明かにされて以降、分子生物学の進む先には小高いいくつもの丘があるだけだと言っておられます。生物学の重要な原理はすでに発見されており、いくら研究してもこれらの60年代の発見に相当する発見はありえないという意味で若い人の出鼻をくじく言説です。残念ですが、私もこの考えには基本的に合意します。生物進化や記憶・思考のメカニズムなど残された大問題はありますが、分子遺伝学、分子生物学を基礎にした生命科学の分野で歴史に名を残すような新発見はもうないというか必要ない気がします。

そこで気持ちを切り替え、不可能と決まっているわけではない再生医学へ目標を定めてはどうでしょうか。科学の原理としては理解されたかもしれない正常発生の基本的なメカニズムを部分的に試験管内で再現し、望む組織・臓器を作るというのが現時点で生物学者・医学者に課せられた一つの使命だと思うのです。多分に技術的で科学としての興味は多くないかもしれませんが、、その過程で例えば進化のメカニズムの解明につながるような新発見があるかもしれません(進化の問題の特殊性は別に考えててみたいと思います)。実験発生学の延長として認識されれば、再生医学は多くの才能ある人を引きつけるでしょう。

再生医療とクローン人間(2002年)

より安易な再生医療はクローン人間を作ることです。試験管内で組織・器官を誘導するのは、皮膚などの比較的簡単な構造のものを除いてはできるかどうかもわからないというのが現状ですが、クローン動物はカエル、マウス、ヒツジ、ウシで成功しているように既に実用化されている技術です。基本的に受精卵とオリジナルの核と子宮があればできます。必要なら胚の大脳を破壊しておき、出生後一定期間保育器で育成し、臓器を回収することが許されれば確実に再生医療が実用化できます。技術的な困難はほとんど無いのではないでしょうか。

一介の生物学・医学の教育・研究者である私がクローン人間の是非について論じるのは身をわきまえない行為でしょうが、その是非を決めるのは人間でありその基準になる価値観や尺度は状況に応じて変化します。実際、麻薬の違法売買で10億円の資産を手に入れた小さな犯罪集団が、妻と娘を人質にこの分野の研究者と専門医をひとりずつ取り込めばできるのです。

現在、実態として一部の日本人の腎臓病患者が移植腎を求めて規制の緩い国へ流れるように、クローン人間由来の臓器を求めて人が流れるのを止めることができるでしょうか。このようなことを現在の大多数の人は、結論へ至るまで5分しか考えない場合も何ヶ月も熟慮した場合もひっくるめて好ましくないと考えています。日本を含めた各国政府の公式見解もクローン人間の作成は好ましくないかあるいは禁止です。ならばなおのこと、体外で移植用の細胞・臓器・組織を作る技術の実用化が急務と考えられるのです。

移植とか、クローンとかそういう行為は一切禁止しようという主張は日本人の宗教観からは受け入れやすく、平等の観点から現実的な根拠があり、私見では医療費の抑制にもつながり、決して極端で後ろ向きな主張ではありません。ただ、左心低形成症候群で余命幾ばくもない子供とその親を前に移植医療禁止の正当性を訴えるのは勇気の要ることです。技術的に可能であるなら、なおさらにです。禁止すれば、技術の進歩も改良も法的整備も一切望めないのです。窮乏した国や組織にとって、対人地雷を作るのとほとんど同じ投資で済み、しかもそれ以下の倫理的呵責しか生じないならば、むしろ人助けという側面を強調すらできるのであれば、彼らはクローン人間作成を産業として育成しようと思わないでしょうか。

そのような理由でクローン人間を安易に作らせないための抑止力としても、正攻法で挑む再生医療への支援体制の充実が望まれます。

ただ、研究費稼ぎの口実に聞こえもしますね、こういう言い方は。(2005年2月一部改訂)