初出:平成24年度岐阜大学公開講座/地域科学部企画「戦争と平和を考えるIV」講義テキスト(2012年9月)pp. 1-15
*本文で言及した資料のうち、インターネット上で閲覧が可能なものにはリンクを張りました。また言及した映画についての関連情報が得られるサイトにも一部リンクを張ってあります。主なリンク先は「青空文庫」「国立公文書館アジア歴史資料センター」「東京国立近代美術館フィルムセンター」「KINENOTE」、およびNHK戦争証言アーカイブスです。なお講義中で言及した、ナチ娯楽映画の一例としての Hab' Mich Lieb!(Marika Rökk主演、昭和17年[1942]) については、仮にYouTube上の動画にリンクを張っておきます。またナチ娯楽映画の代表例については、Die Frau meiner Träume(Marika Rökk主演、昭和19年[1944]) が Internet Archive で公開されています。

9月15日(土) 13:00〜14:30

明るい銃後のミュージカル映画――マキノ正博『ハナ子さん』について

内田 勝


*引用文中の[…]は省略箇所、[]内は原文のルビ、【】内は私(内田)による補足です。

1.『ハナ子さん』はどんな映画か

 マキノ正博監督の映画『ハナ子さん』(東宝映画、昭和18年[1943])とはいったいどういう映画なのかと尋ねられれば、たとえば次のような二通りの答え方ができると思います。
(1)雑誌『主婦之友』に連載された杉浦幸雄の漫画『銃後のハナ子さん』を原作とし、銃後の一般市民に「ぜいたくは敵だ」とか「空襲の際には避難せず消火活動にあたらねばならない」といった戦争協力的な考え方を植え付けるために作られた、戦時プロパガンダ映画である。
(2)1930年代アメリカのミュージカル映画、特にバズビー・バークレー振付によるレヴュー場面の影響を濃厚に受けた、明るく楽しいミュージカル映画である。
 主演の轟夕起子(とどろき・ゆきこ)が歌って流行した『ハナ子さん』の主題歌「お使いは自転車に乗って」(上山雅輔作詞・鈴木静一作曲)は、毎日自転車で買い物に出かける活発な若い女性を歌った、戦時中とは思えないほど明るく楽しい曲調の歌でした。この歌について、作家の五木寛之はこう語っています。「当時の歌好きな人びとは、口では『非国民! こんな歌を歌うとはけしからん』なんて言いながら、一人になるとこんな歌をこっそり歌っていたに違いないと思いますね」(五木『わが人生の歌がたり』p.87)。
 また、作家の片岡義男は『ハナ子さん』についてこう語っています。
「みなさん! この映画の気分で! 明朗、健全、唄って張り切りませう!」というのが、この映画『ハナ子さん』の宣伝コピーだったそうだ。この映画の気分で、明朗に健全に張り切って歌で元気をつけ、戦争の遂行を全面的に支持しましょう、ということだ。毒にも薬にもならない、という言いかたがある。『ハナ子さん』という作品だけをいま検討するなら、それはまさに毒にも薬にもならない。しかし、この映画を見て元気づけられ、張り切った人は多かったのではないか。結果として、かなりの毒として作用したのではないか。(片岡『映画を書く』pp.155–6)
 映画『ハナ子さん』のあらすじは、ほぼ次のようなものです。
ハナ子さん(轟夕起子)はのんきな父・しっかり者の母・慎ましい兄嫁・兄夫婦の可愛い坊やと暮らす陽気な娘である。兄は出征して荒鷲隊(陸軍または海軍の戦闘機部隊)の一員となっている。ハナ子さんは近所に住む五郎さん(灰田勝彦)と交際していたが、ハナ子さんの父は二人の結婚を許す。喜んだ五郎さんとハナ子さんは、二人がいつも会っているススキの生い茂る原っぱ(世田谷区にある「馬事公苑」の脇のススキが原)で愛の二重唱をする。二人は晴れて夫婦となり、新居を構える。五郎さんの会社から賞与が支給される日、ハナ子さんは実家の人たちを外食に誘うが、「二人だけで行っておいで」と断られる。一人で丸の内の会社に着いたハナ子さんは、五郎さんから「賞与が国債で支給されたので食事に行けなくなった」と言われるが、「そうね、やっぱり無駄遣いしないようにね」と明るく答える。やがてハナ子さんは妊娠する。二人は無駄遣いをしないよう、金のかかるあらゆる娯楽の代わりに、近所の子どもたちとかくれんぼをして過ごす。さらに五郎さんの妹チヨ子さん(高峰秀子)の忠告に従って、節約のために新居を引き払い、ハナ子さんの実家で暮らすことにする。チヨ子さんは隣組の人たちと参加した「歩るけ歩るけの道」での遠足で傷痍軍人の勇さんと親しくなり、隣組全員を仲人として結婚する。隣組で防空訓練が行われた日の夜、本当に空襲があるが、ハナ子さんの近所に被害はない。明け方、空襲警報が解除されたころ、ハナ子さんは無事に男児を出産し、隣組の人たちから祝福される。五郎さんは召集され、戦地に赴くことになる。出征を控えた五郎さんとハナ子さんは、坊やを連れて思い出の馬事公苑を訪れる。五郎さんはハナ子さんに「お前だと思って持って行くんだ」とオカメの面を見せる。ハナ子さんは五郎さんを明るく送り出すため、ススキの生い茂る原っぱの脇で、オカメの面を頭の後ろにかぶって陽気に踊りはしゃぐのだった。
 戦時プロパガンダ映画としての『ハナ子さん』が、銃後の一般市民に浸透させようとするメッセージは明白です。あらすじから読み取れる限りで列挙すると、「隣組の住民たちは互いに助け合うべきである」「高価な外食などのぜいたくをしてはならない」「国債を通じて戦費調達に協力すべきである」「運動をして身体を鍛えるべきである」「若い女性は進んで傷痍軍人の妻になるべきである」「空襲の際には隣組で団結して、焼夷弾による火災の消火活動にあたらねばならない」「出征兵士の家族は兵士を明るく送り出すべきである」といったものです。
 しかしこうしたメッセージは、説教臭い調子で押し付けがましく伝えられるのではありません。『ハナ子さん』においてそれらは、戦後の『サザエさん』を思わせる無邪気な笑いに満ちたのどかな物語を通して、一貫して明るく楽しい調子で伝えられるのです。暗い時代の中で、この映画にひととき励まされた観客は、それと同時に、戦争協力を呼びかけるメッセージをしっかりと受け取ってしまったはずです。このことを指して片岡義男は、『ハナ子さん』が「かなりの毒として作用したのではないか」と書いたのでしょう。
 ここで『ハナ子さん』公開前後の日本の社会情勢を振りかえっておきましょう。『ハナ子さん』は昭和18年(1943)2月25日に封切られました。岩波書店の『近代日本総合年表』によれば、前年の昭和17年(1942)年4月に「米陸軍機16機,東京・名古屋・神戸などを初空襲」とあります。6月のミッドウェー海戦以降戦局が悪化し、「欲しがりません勝つまでは」の標語が流行しています。昭和18年(1943)のページを見ると、1月には「内務省・情報局, ジャズなど米英楽曲約1000種の演奏(レコード演奏を含む)を禁止し, その一覧表を配布」とあり、2月には「日本軍, ガダルカナル島撤退開始[…](地上戦闘の戦死者・餓死者2万5000人)」とあります。4月に連合艦隊司令長官山本五十六が戦死し、5月にアッツ島の日本軍守備隊が玉砕しています。9月には上野動物園で空襲時の混乱にそなえライオンなどの猛獣が薬殺され、12月には学徒出陣が行われています。『ハナ子さん』はそういう社会情勢の中で公開された映画でした。
 『近代日本総合年表』によれば、『ハナ子さん』公開直前の2月23日には、陸軍省が決戦標語「撃ちてし止まむ」のポスター5万枚を配布しています。「撃ちてし止まむ」とは「撃たずば止まじ」、つまり敵を殲滅するまでは攻撃の手を緩めないという意味だそうです。当時の内閣情報局の広報誌『週報』にはこう書かれています。「『撃ちてし止まむ』の精神は、単に前線だけではなく銃後の生産戦に、総力戦に、一億国民の悉くに、今こそ『撃ちてし止まむ』の烈々たる気魄[きはく]が要請されるのであります」(「撃ちてし止まむ」p.23)。
 政府をあげての「撃ちてし止まむ」キャンペーンを受け、『ハナ子さん』でも映画の冒頭には画面いっぱいに「撃ちてし止まむ」の文字が映し出されます。しかしその文字が消えた瞬間、軍事標語の悲壮な雰囲気は画面から一掃され、戦時中であることを忘れさせるような華やかな歌と踊りが始まるのです。

2.『ハナ子さん』のレヴュー場面とバズビー・バークレーの影響

 映画冒頭のレヴュー場面は、振付および撮影スタイルの点で、同時代のアメリカ映画の振付師・監督であったバズビー・バークレー(Busby Berkeley, 1895–1976)の影響を濃厚に受けています。バズビー・バークレーが関わった映画は、彼がダンス場面の振付を務めた昭和8年(1933)の『四十二番街』42nd Street)や、同じ年の『ゴールドディガーズ』Gold Diggers of 1933)をはじめ、代表作のほとんどが日本公開されていました。一方マキノ正博は以前から『弥次喜多道中記』(昭和13年[1938])や『鴛鴦歌合戦』(昭和14年[1939])でミュージカル的な演出を行っており、このジャンルへの造詣が深い監督でした。
 『ハナ子さん』冒頭のレヴュー場面を、映画研究者の加藤幹郎はこう評しています。
マキノ正博監督の『ハナ子さん』は、同時代のほとんどすべての映画同様、まず「撃ちてし止まむ」の軍事標語からはじまる。ついで、クレディット・シークェンスでバズビー・バークリー振りつけのハリウッド・ミュージカル映画の目もあやなる場面がはじまる。すなわち、トップ・ショット(天井から真下を見下ろすようにセットされたカメラ)による「人間万華鏡」とも呼ぶべき踊り子たちの花弁の開閉を思わせる華やかな運動である。[…]。バズビー・バークリー映画の模倣は終盤でもくりかえされる(おもちゃの兵隊の格好をした女性たちのドリル)。すでにアメリカ映画の国内公開が禁止されている時期に、アメリカ映画と見紛わんばかりの眩暈をおぼえそうな豪華絢爛たるシーンである。(加藤「戦意昂揚にならない銃後映画」p.96)
 バークレーが振り付けたダンス場面は、ダンサーの集団が整然と一つの図形を形作り、その図形が次々に変化していく様子が美しく、見ていてとても楽しいのですけれど、その一方で人間を機械部品のように扱っているため、どこかファシズム的な不気味さも持っています。
「人間の身体は統御可能なものである」というのが、典型的なバークレー映画が雄弁に物語るメッセージである。整然たる群舞をとらえるキャメラは、そこで運動しているのが多数の人間であるにもかかわらず、むしろその事実を忘れさせて、全体が一個の幾何学的動きをみせる生命体であるかのごとく捉えてやまない。誤解をおそれずに言えば、それは奇妙に「ファシズム的」な体験といってもよかろう。たとえばレニ・リーフェンシュタール『意志の勝利』(34)におけるナチスの大パレードを俯瞰するキャメラや、マスゲーム好きで名高い北朝鮮の領袖を皮肉にとらえたドキュメンタリー『金日成のパレード』(88)などにもつながる、この「感動」は、得も言われず「ファシズム的」と感じるところの何物かである。(内藤「ニッポンのバズビー・バークレー映画!」pp.69–70)
 みんなが仲良くまとまって一つの作業に取り組む様子を見るのは、楽しいけれど、同時にどこか不気味でもある――バズビー・バークレー振付のダンス場面が持っているそうした特徴は、そのまま『ハナ子さん』という映画の特徴でもあります。

3.平和でのんきな防空訓練

 『ハナ子さん』が持っている楽しさと不気味さがもっとも顕著に現れているのが、隣組の防空訓練を扱った場面です。この場面のBGMには戦時歌謡「なんだ空襲」(大木惇夫作詞・山田耕筰作曲、昭和16年[1941])が使われており、映像自体も「なんだ空襲」の歌詞を分かりやすく映像化したものになっています。日本放送協会のラジオでも放送された「なんだ空襲」によれば、焼夷弾による火災は、隣組が心を一つにして団結し、発火後直ちに濡れ筵(むしろ)をかぶせて砂をかければ簡単に消火できるはずでした。『ハナ子さん』の映像では、隣組の人たちがニコニコしながら地面に濡れ筵をかぶせて砂をかけ、バケツリレーで屋根の火災を消化する訓練をしています。「なんだ空襲」の曲調は、どことなく戦後のクレージーキャッツやザ・ドリフターズのコミック・ソングを思わせる陽気なもので、楽しい歌に合わせて笑顔で消火訓練にいそしむ人たちの映像を見ていると、なんだか空襲なんて大したことではないかのように思えてきてしまうのです。
 もちろんこの映像は、空襲の実態とはかけ離れたものでした。日本本土への空襲が激化するのは『ハナ子さん』公開翌年の昭和19年(1944)以降ですが、実際の空襲では、住民が避難せず消火活動にあたろうとしたために被害が拡大することになります。児童文学作家の山中恒は「なんだ空襲」をこう批判しています。
いまうたい返してみると、よくもまあ、こんなでたらめな歌で、景気をつけてくれたものだと、腹立たしい思いがするが、軍部は空襲の本当の恐ろしさを国民に知らせないようにしていたとしか思えない。[…]。空襲は決して茶化せるようなものではなかった。事実これらの歌【「なんだ空襲」や「空襲なんぞ恐るべき」】は空襲が頻繁になるとうたわれなくなってしまった。『空襲なんぞ恐るべき』どころではなく、人々は雨か雪のように落下してくる焼夷弾の下を逃げまどい、防衛司令部の参謀たちは、安全な防空壕で息を殺していたのである。人々はいやというほど、空襲の恐ろしさを思い知らされたのである。(山中『ボクラ少国民と戦争応援歌』pp.164–6)
 山中は同じ本の別の箇所で、「軍歌や戦時歌謡は、戦争を悲壮感で美化し、歌詞のイデオロギーをメロディーとともに情念にまで植え付けた、いわば聖戦遂行のためのマインド・コントロールのアイテムだったのである」とも書いています(『ボクラ少国民と戦争応援歌』p.337)。「なんだ空襲」の場合は戦争を悲壮感で美化するのではなく陽気に茶化す歌でしたが、「聖戦遂行のためのマインド・コントロール」に寄与したことは悲壮な軍歌と変わらなかったはずです。そして「なんだ空襲」を映像化したシーンを含む『ハナ子さん』という映画にもまた、そうした側面があることは否定できません。
 ところで、当時の同盟国だったドイツでは、宣伝相ゲッベルスが「国民をよい気分にさせておくこと」を重視したため、ミュージカルを含む無害な娯楽映画が盛んに作られていました。そしてこれらの無害な娯楽映画の条件は、「大人向けの映画であっても子供が観てもかまわないような『安全さ』」を持っていることでした(瀬川『ナチ娯楽映画の世界』p.225)。
 少なくとも表面的にはどこから見ても健全そのものの『ハナ子さん』は、大人向けの映画でありながら子どもが見てもかまわない「安全さ」を持っています。ナチスの基準からすれば、きわめて優秀な戦時映画という評価を受けていたかもしれません。
 しかしなぜか日本の検閲担当者たちは、『ハナ子さん』をそのままの形で公開することを許しませんでした。『ハナ子さん』は、日本映画史上まれに見る大幅なカットを命じられてしまうのです。

4.検閲官による異例の大幅カット

 この時代の日本の官庁で映画の検閲を担当していた部署は、「内務省警保局検閲課」と「内閣情報局第四部」の二つですが、両者のメンバーはほぼ同じ顔ぶれで、実態としては同一の組織と言っていいものでした(牧野『復刻版 映画検閲時報 解説』pp.40–1)。
 さて、その「内務省警保局」の内部資料だった『映画検閲時報』が復刻されており、その資料には『ハナ子さん』がどのような検閲を受けたかも記載されています。その記載によれば、『ハナ子さん』のフィルムに対して検閲官が下した判断は「切除五三四米」でした(内務省警保局編『映画検閲時報』制限ノ部[昭和18年]p.4)。
 フィルムが534mカットされるというのは、上映時間に直すとどのくらいの規模の削除なのでしょうか。映画用35mmフィルムは1フィート(0.3048m)が16コマから成り、1秒あたり24コマが映写されます。従ってフィルム1mあたりの上映時間は約0.03645分であり、逆から言えば、上映時間1分あたりのフィルムの長さは約27.43484mということになります。
 以上の事実に基いて計算すると、『ハナ子さん』から切除された534mのフィルムは、上映時間に直せば約19分28秒となります。現在残っている『ハナ子さん』の上映時間は71分ですが、削除された19分を足せばちょうど90分となり、検閲を受ける前は標準的な長編映画の長さであったことが分かります。作品全体の4分の1近くがカットされてしまったわけで、ここまで大幅な削除は前例のないことでした。同時代の人気喜劇役者で、主演作品『音楽大進軍』の検閲を間近に控えていた古川ロッパは、昭和18年2月28日の日記にこう書いています。
東宝映画最近封切済の「ハナ子さん」は、ズタ/″\にカットされた由。それも検閲官のめちゃ/\な意見で、やれ灰田の顔が間が抜けてるからとか、ジェスチュアが米英的だとか言って切ったのださうだ。次に「音楽大進軍」を検閲に出すわけだが、これも此のあん梅では、思ひやられる。えゝイ、小役人に任せて置いていゝのか! 実際!(古川『古川ロッパ昭和日記』p.372)
 検閲の際にどんな場面がカットされるかについて、明確な基準があるわけではありませんでした。何を切るかは実際に検閲を担当する役人の裁量に任されていたのです。
[…]肝心の映画検閲の際の基準であるが、【昭和14年(1939)に制定された】映画法においては、それはなきに等しい。「命令の定むる所に依り行政官庁の検閲を受け合格したものに非ざれば公衆の観覧に供する為之を上映することを得ず」とするのみである(同法一四条)。検閲基準を命令レベルに下げたことにより、検閲当局によって恣意的に基準を作れるような仕組みにしてあるのだ。かくて、映画検閲は検閲官の胸先三寸に流れることとなる[…]。(内藤「ニッポンのバズビー・バークレー映画!」p.68)
 『ハナ子さん』の場合、具体的にどんな場面がカットされたのでしょうか。切除箇所のリストから一部を抜粋したものを以下に引用します。引用の中にある「記声」という用語は「録音された台詞」を指すと思われます。また(公安)(風俗)というカッコ書きは切除理由を示しています。映画検閲における切除理由は、大きく分けて「公安を害する」および「風俗を乱す」の二つでした。ただし何をもって「公安を害する」あるいは「風俗を乱す」と見なすかは、検閲担当者の判断に委ねられているのでした。
制限事項
一 切除五三四米【フィルム534mは上映時間に直すと約19分28秒。】[…]。
 一 同巻【第五巻】 チヨ子ガ軽薄ナル態度デ歌ヲ唱ヒナガラ犬ヲ連レテ歩ク箇所ハ記声五十四、五十五ト共ニ切除三三米(風俗)【33mは約1分12秒。】
 一 第六巻 草原ニ於ケル少女達ノ舞踏ノ画面中縦隊ニテ一人宛【ずつ】正面向トナリ著シク大腿部ヲ露出シテ飛ビ上リ乍ラ前進スル大写箇所切除九米(風俗)【9mは約20秒。】[…]。
 一 第八巻 オモチヤノ楽隊ノ舞台画面ハ自記声一至記声十四マデト共ニ切除(但シ楽隊ノ行進箇所残存)七一米(風俗)【71mは約2分35秒。】[…]。
 一 第九巻 芒【すすき】原ニ於ケル五郎トハナ子トノ合唱ノ画面中、自記声二十一至記声四十一マデ及ビ自記声四十三至記声四十五マデハ之ニ伴フ画面ト共ニ切除一七三米(公安)【173mは約6分18秒。】(内務省警保局編『映画検閲時報』制限ノ部[昭和18年]pp.4–5)
 短いスカートをはいた東宝舞踊隊(日劇ダンシング・チームの当時の呼称)のダンサーたちが「正面向トナリ著シク大腿部ヲ露出シテ飛ビ上リ乍ラ前進スル大写箇所」が検閲官のお気に召さなかったのは当然かもしれません。衣装や仕草が色っぽすぎたり「米英的」であると見なされた場面は、ばっさばっさと切られていきました。「チヨ子ガ軽薄ナル態度デ歌ヲ唱ヒナガラ犬ヲ連レテ歩ク箇所」が1分12秒削られたというのは、高峰秀子が歌った曲がまるまる1つ削られてしまったということでしょう。ダンサーたちがおもちゃの楽隊に扮して行進する場面の直後に2分35秒削られているのも、おそらく歌と踊りの場面だと思われます。マキノ監督は後年「私は、『ハナ子さん』で、階段をピアノの鍵盤に仕立てて、そこで轟夕起子に踊らせてみた。『あれはほんとにすばらしかったわ』と彼女は心から喜んでくれた」と語っています(『マキノ雅弘自伝』p.110)。現存する『ハナ子さん』にこの場面はありません。おもちゃの楽隊の行進場面に階段が登場するところから見て、おそらくここで削られた2分35秒に含まれていたのでしょう。
 しかし切除箇所のリストでひときわ目立つのは、映画の最後の最後、ラストシーン直前に6分18秒もの大幅な切除箇所があることです。切除理由は「公安を害する」、言い換えれば何らかの意味で「不謹慎」であったということなのですが、これはいったいどういう場面だったのでしょうか。

5.消されたハナ子さんの涙

 映画の結末では、出征を控えた五郎さんが、ハナ子さんと坊やを連れて思い出の馬事公苑を訪れます。五郎さんはハナ子さんに「お前だと思って持って行くんだ」とオカメの面を見せ、ハナ子さんは五郎さんを明るく送り出すために、ススキの生い茂る原っぱの脇で、オカメの面を頭の後ろにかぶって陽気に踊りはしゃぎます。しかし検閲前のフィルムには、この後にハナ子さんが泣く場面が映っていたらしいのです。
 ハナ子さんが泣く場面は、もともと杉浦幸雄の原作漫画に描かれていました。杉浦はこう語っています。
これは戦後になってマキノ監督から伺ったのですが、映画を作るきっかけは、私が漫画にかいた出征の決まった夫の五郎さんを送り出す際、見せてはいけない涙を隠すため、ハナ子さんがおかめの面を付ける絵だったそうです。
 悲しくない訳がないのに、涙は恥とされた当時の風潮への精いっぱいの「抵抗」に、マキノ監督も共感。最後のクライマックスとして、轟さんにお面を付けてもらい、野原に出て涙を見せないようにして踊るシーンを撮影したということですが、上映段階でその部分はばっさりカットとなりました。(杉浦「わが漫画人生」p.109)
 現存する『ハナ子さん』のラストシーンでは、オカメの面を頭の後ろにかぶった笑顔のハナ子さんがススキが原に駆け込んで地面に倒れこみ、五郎さんが心配げに「ハナ子?」と声をかけるところで、音声も映像もガクッとつんのめるように突然切り替わります。映像にはオカメの面を外して微笑むハナ子さんが大写しされ、音声には映画前半で五郎さんとハナ子さんが二重唱をしていた「丘の青い鳥」(佐伯孝夫作詞・鈴木静一作曲)という叙情的な曲の最後の部分だけが流れます。映像はススキが原にたたずむ二人に切り替わり、二人がゆっくりと向こうへ去っていくのに合わせて「終」の文字が表示され、映画は終わるのです。誰が見ても何かが削られたことは明白です。ハナ子さんが笑顔でおどけてはしゃぎ回ったまま、一種の躁状態で突然映画が終わってしまう異様さに、当時の観客は呆気に取られたのではないでしょうか。
 『ハナ子さん』に対する大幅カットの指示に対して、マキノ監督は激怒しました。彼は検閲担当者たちとの会議の模様を次のように回想しています。
内務省情報局【内務省警保局検閲課と内閣情報局第四部(ほぼ同一組織)をごっちゃにした言い方】には熊埜御堂[くまのみどう]というボスがいて、その下のお役人が、『ハナ子さん』という映画は「米英的」である、「敗戦思想」だ、絶対に許すわけにはいかん、と云う。どこが「米英的」かというと、たとえばデコちゃん(高峰秀子)がペットの狆[ちん]を抱いて歩いたとか、肩を振って歌ったとか、灰田勝彦は二世だから「日本的男性」ではないとか――そんなようなことばかりだった。当時は二世というのは皆、封じ込めだった。
 「あんな奴は日本の兵隊に採らんのだぞ」
 とまで、そのお役人は灰田勝彦のことを云ったものだ。へェ、そうかいな。そうとは知らなんだ。『ハナ子さん』では、灰田勝彦はハナ子さんの夫の役をやった。
 内務省情報局に呼び出されて、私は、この映画のプロデューサー星野武雄と一緒に出かけて行ったのだが、星野はお役人に何も云ってくれない。仕方がないので、私一人で談判した。午後一時から真夜中の十二時まで! その間、お役人は、ただ「フィルムを切れ」の一と言を繰り返すだけ。
 何故この映画が「敗戦思想」なのかと問い詰めたところ、しまいには、困ってしまって、ラストシーンの野原のすすきのことを持ち出して、
 「すすきは枯れすすきに通じる」
 などという始末、馬鹿なお役人だった。蓮華、たんぽぽでもいけないらしい。日本の国花の桜なら、散ってもいいというのだ。腹の立てようもなくなった私だったが、云うだけは云ってやろうと思った。
 「お役人さん、あなた方の御意見はよくわかりました。が、どうでしょう、そんな話は、映画が出来上ってからおっしゃったりせずに、最初から、各社の映画製作者に話をしてやったら――。蓮華だって、たんぽぽだって、お百姓には大変必要なものです。すすきだって、枯れるもんだと思われて咲いているわけじゃない。あなた方はすすきが敗戦思想に通じるとおっしゃられるが、私はすすきが日本の風景にふさわしいものなので、思わず撮影したのです。あなた方がおっしゃられる通り、日本が敗けては困る。日本が敗けて困るのは日本人全部であって、あなた方だけではないでしょう。それなら、敗戦につながるすすきを日本の国土には咲かないようにして下さい。[…]。私は、この映画に関して云えば、会社が、いやお客さえ納得してくれれば、あなた方の思うように切って下さってけっこうです。『ハナ子さん』は、そもそも、国民の皆さんが一刻でも楽しんでくれて、明日へのお国のための仕事に励む力を少しでも回復してくれればという願いをこめてつくられた映画です。割当てがどんどん少くなってゆくフィルムをあなた方に切られるなどと思ったら、わざわざ映画を撮りはしません。日本にいて国賊呼ばわりされたら、いったいどこへ行けばいいのでしょう。それとも、死ねとおっしゃるのでしょうか――」[…]。
 「馬鹿者! 帰れ!」
 とお役人に一喝されて、幕は下りた。[…]何故私がこんなことまで云わなければならないのかと思って、阿呆らしくなった。相手のお役人もお役人なら、会社も会社だ。あんな理屈は、誰れにだって解るはずだ。私がわざわざこんなことを云わなくても、もっと偉いと自認している会社の首脳部の連中がきちんと云ってくれる方がずっと効果的なのだ。それが、何んや。いざとなったら、皆逃げてしまった。(マキノ『マキノ雅弘自伝』pp.107–10)
 日本映画史研究者の牧野守は『日本映画検閲史』の中で、戦争末期の検閲室で庶務係を務めた鳥羽幸信が、戦後の1961年に『キネマ旬報』の特別号に発表した手記「検閲時代」を引用しています。鳥羽の証言が興味深いのは、検閲官たちの判断の背後に軍部の意向が働いていたことを示唆している点です。
[…]太平洋戦争に突入して、完全に軍部の独裁政治になってしまうと[…]、もう映画検閲も自主性が失われてきて、検閲官よりも憲兵司令部から検閲に立合う軍曹、曹長たちに主導権が移ったと見ていい。
 検閲は出来上った映画以外に、製作前の脚本の検閲もやっていた。これを事前脚本審査と称したが、私の知る限り、戦時下でパスした脚本は三本に一本の率で、戦争が厳しさを加える末期ともなれば、芸術作品は不急不要品として却下されていた。この中で唯一本の芸術作「無法松の一生」が生れているのは、思えば実に奇跡に近い。しかし完成された映画は約四百メートル以上の大カット【『映画検閲時報』の情報では294m(約10分42秒)のカット】を受けるに至った。この時の検閲室長K事務官は、巻中阪妻の松五郎が園井の未亡人宅を深夜訪ねる場面に及んで「これは夜這いではないか、車引きが軍人の未亡人に恋とは言語道断である。このような非国民映画は絶対通さんぞ!」と、検閲合同会議の席上で激怒したという。この映画の脚本をOKした担当官は叱責を受け、この映画の芸術性を大いに主張した検閲官も、K事務官の怒りの前に押し切られてしまった。思うにこの映画が検閲におけるガダルカナル【=敗戦を決定的にした転機】であったかも知れない。(牧野『日本映画検閲史』p.507)
 牧野守によれば、鳥羽の証言に登場する「K事務官」とは、内務省事務官だった熊埜御堂定(くまのみどう・さだむ)という人物です(牧野『日本映画検閲史』p.507)。当時の検閲室のボスとして、さきほど引用したマキノ監督の回想にも登場していました。
 昭和18年に『ハナ子さん』および『無法松の一生』に対して大幅なカットを要求した熊埜御堂が、翌19年(1944)に語っている言葉は、おそらく本人が意図していないであろう皮肉に満ちています。映画関係者と検閲担当者による座談会「検閲の面から観た決戦下の映画」(『日本映画』昭和19年2月号)から引用します。
熊埜御堂 極く大雑把な話ですけれども、検閲をして居りまして[…]非常にジレツたいと思ふのは戦争に役に立つ映画といふものと映画としての立派なものといふことを作られる方【かた】が区別して考へて居られるんぢやないかといふ気がする。[…]結局の所そういふ気持ではこれはどの方面から行きましても良い映画は出来ないと思ふ、今の時代に一番要求されるのは戦力増強に役に立つ、大東亜建設といふものに役に立つといふ映画が日本では一番芸術的な映画だといふことになるべきものだと思ふのです。[…]。一面から言ふと【製作者は】少し自信を無くし過ぎてゐるのじやないか、斯うもやつていけないしあゝやつてもやかましいことを言はれる、それが寧ろ非常にいけないぢやないかと思ふ、何と言ふか、一番いけないのはテーマの問題でなくて十分自信を以て自分の主張を最上のものだといふ気魄が出てゐない、これが一番大きな欠陥ぢやないか[…]。映画のもつ主張は国民に良いものであるほど結構ですけれども真実はそう大して、影響力を与へて居ないぢやないか、寧ろ実際の影響力は俳優なり或は演出家なりの生活態度が曖昧で芸術家らしく良心的でない、誰かの顔色を見て仕事をするといふ態度が存するのです。これの影響は非常に大きいのぢやないか[…]。何と言ふか、寧ろわれ/\の方に食つて掛る位なものを持つて来て戴ければわれ/\も全力を挙げてそれと取組んでいくんで、その誠意が始めて真の日本映画を創造する道を探して呉れるのだと思ふ。(牧野監修『資料・〈戦時下〉のメディア「日本映画」』pp.426–31)
 熊埜御堂によれば、良質な映画ができない原因は、映画製作者たちが検閲を過剰に恐れて「誰かの顔色を見て仕事をする」せいで、態度の曖昧さが作品に表れてしまい、そのために作品の質が低下してしまうことだというのです。熊埜御堂は、もっと自信を持って検閲担当者と真剣勝負してみろと製作者たちを叱咤していますが、口ではそう言っていながら、実際に自信を持って「われ/\の方に食つて掛る位なもの」を持ってきたマキノ監督に対しては「全力を挙げて」大幅カットを要求したわけです。
 しかしだからと言って、内務省官僚の熊埜御堂定(くまのみどう・さだむ)を、『ハナ子さん』や『無法松の一生』をはじめとする当時の日本映画が理不尽な大量切除を受け、完全版が二度と復元できなくなってしまった事態に関する諸悪の根源とは断定できません。彼自身「誰かの顔色を見て仕事をする」人物であったのかもしれないからです。鳥羽幸信の言葉によれば当時の検閲室は「検閲官よりも憲兵司令部から検閲に立合う軍曹、曹長たちに主導権が移ったと見ていい」状態にありました(牧野『日本映画検閲史』p.507)。熊埜御堂はそうした軍曹・曹長たちの顔色を見て行動していた可能性も高いのではないでしょうか。
 ラストシーンから削除された6分18秒でハナ子さんがどんなふうに泣いたのかは、マキノ監督へのインタビューで明かされていいます。
マキノ […]あの芒っ原で轟が喜んで笑ってパッとひっくり返るでしょう。あの後、泣いてくんですよ。歌の中で泣いていくんです。明るい生活をしなきゃならん、けど、自分の亭主を喜んで戦場に送る馬鹿はいませんよねぇ。だから泣かしたんですよ。でも泣いちゃ悪いというので、後ろにつけていたお面をクリッと前にまわすんです。で、「ハイ」と言って轟が立つ、灰田がそばへ寄っていく、と、そのお面がピリッと震えるんです。これが狙いだったんです。
 ――いかにも監督らしい、いい場面ですね。
マキノ 面がピリピリっと震えてると泣いたように見えるんです。べつに役者が泣いてるわけじゃなくて、こっちは「面、震わせろ」と言ってるだけですけど。それで、灰田が来て「泣くな、泣いちゃいけないだろう」と言うんですよ。それで轟が面をとって、涙がピカリと光って、振りかえってニコッと笑った時に「海ゆかば……」と音楽が出たんですよ。どうせ兵隊に行くんだから「海ゆかば」流さんと兵隊に行けんでしょう。女の笑った顔からそれをいれて、二人がズーッと芒っ原を消えていくという風にやったんです。
 ――いいですね、実に。
マキノ それが、いけないんです。これは検閲官と切る切らさんで夜半までかかったんですよ。[…]。この時の相手は検閲官よりもずっと偉い事務官……そいつが絶対のボスで……熊埜御堂[くまのみどう](戦後は日本住宅公団理事)、これはちょっと忘れられん名前ですね。(岩本・佐伯『聞書き キネマの青春』pp.229–30)
 このインタビューを読む限り、検閲官たちは当時の基準で考えても切除する場所を間違えていたと言わざるをえません。切除されたフィルムでは、これまで懸命に明るく振舞ってきたハナ子さんが、ついにこらえ切れずに泣き崩れるのですが、出征兵士の妻として泣くわけにはいかないからオカメの面で顔を隠して泣く、それを五郎さんがやさしく慰め、そこに「海ゆかば」が流れるのです。そこから現存するラストシーンにつながり、映像にはオカメの面を外して微笑むハナ子さんが大写しされ、音声には映画前半で五郎さんとハナ子さんが二重唱をしていた「丘の青い鳥」が流れます。映像はススキが原にたたずむ二人に切り替わり、二人がゆっくりと向こうへ去っていくのに合わせて「終」の文字が表示され、映画は終わります。同じラストシーンも、直前に「海ゆかば」が流れることでまったく違った意味合いになり、観客たちはうっすらと涙を浮かべて映画館を出ることになったかもしれません。こうして観客たちにハナ子さんにどっぷりと感情移入させることで、この映画は戦時プロパガンダ映画として、より高い効果を上げることになっていたでしょう。片岡義男はこの映画が観客に対して「かなりの毒として作用したのではないか」と書きましたが、その「毒」の作用は、最後にハナ子さんが顔をオカメの面に隠して泣くことで、はるかに強力になっていたはずです。
 内務省事務官の熊埜御堂定(くまのみどう・さだむ)をボスとする検閲担当者たち(あるいはその周囲の軍人たち)は、効果的なプロパガンダ映画とは何かという本質を考えないまま、「米英的な仕草はいかん」とか「女々しい仕草はいかん」といった表面的な基準にこだわったあげく、観客の共感を誘う場面を大幅に切除し、『ハナ子さん』のプロパガンダ映画としての価値を著しく損なってしまったのです。
 その結果として『ハナ子さん』は、どこから見ても矛盾に満ちた、言わば徹底的に中途半端な映画として後世に残ることになりました。斬新な振付や撮影法を取り入れたモダンなミュージカル映画としては、歌や踊りの多くが切除されてしまったために物足らないものになっています。戦時プロパガンダ映画としても、観客を感情的に揺り動かすはずの場面が削除されているので、尻切れトンボで詰めの甘いものになっています。フィルムが大幅に切除されていることによって、戦時中の検閲の暴力性を象徴的に記録した映画だという言い方はできるかもしれません。しかしそれとて切られた場面が特に反戦的というわけではなく、どちらかと言えば戦争協力的な場面が切られているわけですから、そこには反戦思想を弾圧する検閲の理不尽さが記録されていると言うより、官僚主義的な気配りのせいでもともと戦争協力的な映画をみすみす台無しにする検閲の不条理さが記録されているのです。むしろそうした締まりのない不条理さを記録に留めたことが、文化史資料としての『ハナ子さん』の最大の価値かもしれません。

6.『ハナ子さん』が問いかけるもの

 『ハナ子さん』という奇妙な映画の存在、および『ハナ子さん』が受けた検閲は、現在のわれわれにどんな疑問を投げかけているのでしょうか。
 先回りして答えてしまえばそれは、ここで浮かび上がった「実質的な効果を上げるためでなく表面的な体裁を取り繕うために政策が進められる」とか「みんなが時流に合わせようと率先して愚策の片棒を担ぐので、愚策の責任が誰にあるのかが分からない」といった問題が、現在に至っても解決していないのではないかという疑問です。
 映画監督の伊丹万作は、ナチス・ドイツと日本の合作映画『新しき土』(昭和12年[1937])で共同監督を務め、検閲で大幅に切除された『無法松の一生』(昭和18年[1943])の脚本を書いた人物です。終戦後に「自由映画人連盟」という団体から戦争責任を追求された伊丹は、戦争責任者とは誰かを論じた昭和21年(1946)の文章の中で、次のように書いています。
 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。[…]。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。(伊丹「戦争責任者の問題」
 上の引用中の「すでに別のうそによつてだまされ始めている」というフレーズについて、映画研究者のピーター B. ハーイは、戦時中の日本映画を論じた『帝国の銀幕』の中でこう語っています。
この本を書き進めていくうちに次第に明らかになって来たことは、伊丹のこの指摘の正しさである。その「うそ」の中でも一番大きいものは、戦前、戦後という言葉が歴史上に実在する断絶を表わしているという考えである。それは錯覚にすぎない。実際には断絶したものより、持続して来たものの方がはるかに多い。その代表的なものの一つとして、「官僚」がある。自分たちを、国民と国民によって選ばれた政治家を超越する存在と考えている官僚たちによって、支配され操られ続けている日本の現状は、戦前と何ら変わるところがない。その意味において、私がこの本で追求した十五年の歴史は、今日の日本社会の序章とも言うべきものであると思う。(ハーイ『帝国の銀幕』p.472)
 ハーイは官僚支配の構造が戦前・戦後を通じて変わっていないと指摘しているのですが、そうした官僚支配の一例としての『ハナ子さん』検閲問題は、「実質的な効果を上げるためでなく表面的な体裁を取り繕うために政策が進められる」という状況の不条理さを如実に示しています。また、コミック・ソングめいた「なんだ空襲」が流れる『ハナ子さん』の防空訓練シーンは、焼夷弾の空襲を受けた住民に対して避難ではなく消火活動を要求するという明らかな愚策が、「みんなが時流に合わせようと率先して愚策の片棒を担ぐので、愚策の責任が誰にあるのかが分からない」といった状況の中で、官僚たちの世界を超えて、音楽製作者や放送局、映画製作者といったマスメディア関係者、さらに地域の住民へと、あたかも当然のことのように浸透していく過程を見事に記録に留めています。
 同じようなことは、今なお何度も繰り返されているのではないか――それこそ『ハナ子さん』という作品が、現在のわれわれに問いかけている疑問ではないでしょうか。

参考資料(講義中に引用する音源・映像の出典を含みます。)


内田勝「明るい銃後のミュージカル映画――マキノ正博『ハナ子さん』について」(2012)
〈https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/uchida/hanako12.html〉
(c) Masaru Uchida 2012
ファイル公開日: 2012-9-19
ファイル修正日: 2023-1-14(リンク切れ箇所のリンク先を修正)

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