初出:『岐阜大学地域科学部研究報告』第38号(2016)pp. 19–44. この論文のPDF版はこちら(岐阜大学機関リポジトリ)。


『シャーロット・サマーズの物語』——『トム・ジョーンズ』と『トリストラム・シャンディ』とをつなぐ忘れられた小説

内 田  勝


(2015年12月7日受理)

The History of Charlotte Summers: A Missing Link between Tom Jones and Tristram Shandy

Masaru UCHIDA


1.忘れられた小説『シャーロット・サマーズ』

 
 18世紀半ばのロンドンで匿名の作者によって自費出版された、『シャーロット・サマーズの物語、幸運な教区孤児』(The History of Charlotte Summers, the Fortunate Parish Girl, 1750; ESTC #: T66897)という小説がある。(1)タイトルページには刊行年が記されていないが、同時代の書評誌『マンスリー・レヴュー』1750年2月号で「今月の新刊」として紹介されているため、刊行年が特定できる(Monthly 352)。(2)本稿の目的は、現在ではほとんど忘れ去られているこの小説が、18世紀イギリス小説を代表する二つの名作、すなわちヘンリー・フィールディング(Henry Fielding, 1707–54)の『トム・ジョーンズ』(The History of Tom Jones, a Foundling, 1749)と、ローレンス・スターン(Laurence Sterne, 1713–68)の『トリストラム・シャンディ』(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman, 1759–67)とをつなぐ文学史上の位置にあると示すことである。それは決して、『シャーロット・サマーズ』が『トム・ジョーンズ』や『トリストラム・シャンディ』に匹敵する重要な文学史的意義を持っているという意味ではない。2つの古典が持つ特徴を合わせ持つ『シャーロット・サマーズ』は、『トム・ジョーンズ』の強い影響を受けながらも、のちの『トリストラム・シャンディ』につながるメタフィクション的な新しい語り方の技法を示し始めた、当時の標準的な小説の姿を典型的に表わす格好のサンプルであると言いたいのだ。
 刊行当初の『シャーロット・サマーズ』がかなりの人気小説であったことは、さまざまな証拠からうかがえる。たとえば同時代のイギリスの劇作家ジョージ・コールマン(George Colman, 1732–94)は、小説マニアの若い娘を主人公とする喜劇『ポリー・ハニコウム』(Polly Honeycombe, 1760)の序文の末尾に、ある貸本屋の蔵書カタログから抜粋したという設定で当時の流行小説181作品のタイトルを羅列しているのだが(Scott 465)、そのリストには、18世紀イギリス小説の古典とされるサミュエル・リチャードソン(Samuel Richardson, 1689–1761)の『パミラ』(Pamela; or, Virtue Rewarded, 1740)および『クラリッサ』Clarissa; or, The History of a Young Lady, 1747–48)、そしてフィールディングの『トム・ジョーンズ』といった名作や、作者不詳の『黒外套の冒険』(The Adventures of a Black Coat, 1760)といった忘れられた流行小説と並んで、『シャーロット・サマーズ』も含まれている(Brewer 65)。
 15–18世紀に主としてイギリス諸島および北アメリカで出版された刊行物の総合目録である The English Short Title Catalogue(ESTC)には、『シャーロット・サマーズ』の5つの版が掲載されている。1750年にロンドンで出た初版に加え、同じ年に出たと思われる第2版(ESTC #: N33064)、1753年のダブリン版(ESTC #: N32712)、ロンドンの別の出版者が1758年ごろに出した第4版(ESTC #: T126294)、さらに別の出版者が1770年に出した版(ESTC #: N17437)の5つである。
 ESTCにはこれらに加え、1750年代から80年代にかけて出た9種類のフランス語版(L’orpheline angloise, ou histoire de Charlotte Summers)も掲載されている。この小説は特に革命前のフランスで人気があったのだ。1740年から1760年にかけてのフランスの個人蔵書カタログを調査したダニエル・モルネ(Daniel Mornet)の研究に基づいて英文学研究者のメアリー・ヘレン・マクマラン(Mary Helen Mcmurran)が書いた論文によれば、フランス語版『シャーロット・サマーズ』は、リチャードソンの『パミラ』、フィールディングの『トム・ジョーンズ』、そしてリチャードソンの『クラリッサ』に次いで4番目に人気のあった仏訳イギリス小説である(Mcmurran, “National” 53; Mornet 461)。1763年にフランス語版から重訳されたロシア語版『シャーロット・サマーズ』(Сирота аглинская, или История о Шарлотте Суммерс)が、同時代のロシア人作家に多大な影響を及ぼしたことを論じた研究もある(Garn)。世界の主要図書館蔵書目録の統合検索サイトWorldCatによれば、1751年と1790年に刊行されたオランダ語版Historie van het verlatene en gelukkige weeskind, Charlotte Summers)も存在している。
 これほどまでに18世紀のヨーロッパ諸国で愛された物語は、いったいどのような内容なのだろうか。次節では『シャーロット・サマーズ』の物語の概要をたどってみよう。

2.『シャーロット・サマーズ』の概要

 
 この小説は物理的には2巻本だが、内容面では各巻が2つの部(book)から成る4部構成であり、各部のあらすじは以下のとおりである。

 第1巻(Vol. I)

第1部(Book I)]ウェールズの裕福な准男爵の妻レディ・バウンティフル(Lady Bountiful)は、夫の死後もさまざまな慈善活動を行なっていた。彼女はロンドン滞在時に、7歳の教区孤児(教区の慈善事業として養育される身寄りのない孤児)であるシャーロット・サマーズ(Charlotte Summers)と出会い、境遇に似合わぬその上品な物腰に感銘を受ける。(シャーロットが暮らしていたのは、ラムズ・コンデュイット・フィールド[Lamb’s Conduit Field]にあった、劣悪な環境で悪名高いロンドン孤児養育院[The Foundling Hospital]である。)レディ・バウンティフルは侍女のマージャリー(Mrs. Margery)に命じてシャーロットを悲惨な境遇から救い出し、養育することにする。レディ・バウンティフルの友人の女性たちの前に現れたシャーロットは、女性たちの一人から、心優しい農夫に引き取られた孤児の少女が、数々の試練を経て生き別れの裕福な父と再会し、相思相愛だった農夫の息子と結婚するという「慈悲深い農夫の物語」(“The History of the Charitable Farmer”)を聞く。ウェールズの大邸宅で暮らすことになったシャーロットは、レディ・バウンティフルの息子のサー・トマス(Sir Thomas)と一緒に、お付きの医師や牧師に優しく見守られて成長する。一方、シャーロットの亡き母のメイドだった女性を通して、シャーロットの素性が明らかになる。シャーロットの母は主教の娘だったが、家が没落した後、アイルランドの子爵家の次男で陸軍大尉のロバート・サマーズ(Robert Summers)と恋に落ちて結婚、シャーロットを産んだ。放蕩者のロバートは自分および妻の財産を使い果たして借金を抱えた末に、妻と娘を捨て、既婚者であることを隠して裕福な商人の娘と結婚しようとするが失敗、その後は行方知れずとなる。シャーロットの母は貧困のうちに世を去り、天涯孤独のシャーロットは教区孤児になったのだった。

第2部(Book II)]シャーロットは17歳の美しい娘に成長し、あまりに魅力的な容姿のせいで、その姿を目にした男性を夢中にさせずにはおかない。彼女はレディ・バウンティフルの息子のサー・トマスと相思相愛の仲になるが、血筋と家柄に人一倍こだわるレディ・バウンティフルが二人の結婚を認めるはずもなく、二人は交際を秘密にしている。ある時、レディ・バウンティフルの親戚の裕福な青年クロフツ(Mr. Crofts)が屋敷に滞在し、シャーロットに恋をする。彼女が教区孤児であったことを知ったクロフツは、彼女を結婚の対象ではなく性欲を満たす対象として捉え、メイドの手引きで彼女をレイプしようとする。間一髪で難を逃れたシャーロットだったが、彼女がレイプされたと思い込んで激怒したサー・トマスは、クロフツをピストルで撃ち大怪我をさせる。屋敷に留まって傷を癒やしたクロフツは、シャーロットへの恋情を抑えられず、彼女との結婚を考えるようになる。彼はレディ・バウンティフルに気持ちを伝えるとともに、サー・トマスがシャーロットと恋仲にあることをほのめかす。レディ・バウンティフルは、息子がシャーロットに恋することなどありえないと言い、クロフツへの協力を約束する。

 第2巻(Vol. II)

第3部(Book III)]レディ・バウンティフルは息子のサー・トマスとシャーロットが二人きりで親しく話しているのを偶然見つけて激怒する。彼女は息子が卑しい身分のシャーロットと結婚することなど決して認めようとせず、サー・トマスと母との関係は急激に悪化する。レディ・バウンティフルはシャーロットを追い払うためにクロフツとの結婚を強く勧めるが、シャーロットとしては自分をレイプしようとした男と結婚することなど考えられず、一方で恩義のあるレディ・バウンティフルに逆らってサー・トマスと駆け落ちすることも考えられない。切羽詰まった彼女は、深夜に一人で屋敷を抜け出す。たちまち強盗たちにレイプされそうになるが、親切な農夫に救われ、しばらく農夫の家で暮らすことになる。シャーロットは身元を隠すためにサリー・ディケンズ(Sally Dickens)という偽名を使うことにする。農夫の息子がシャーロットに恋をし、農夫の妻や娘は彼らを結婚させようとする。サー・トマスを忘れられないシャーロットが結婚を拒むと、農夫の妻と娘はその腹いせに、身分にそぐわぬ大金や豪華な品物を持っているシャーロットが泥棒に違いないとして彼女を告発する。シャーロットは逮捕され、治安判事の屋敷で裁かれることになるが、彼女に好意を持っていた近所の若い男が、農夫一家が逮捕騒ぎのどさくさに紛れてシャーロットの金品を盗んだことを知り、別の治安判事に訴えを起こす。この治安判事の妻ワージー夫人(Mrs. Worthy)は、逮捕されたサリー・ディケンズがレディ・バウンティフルの屋敷を出奔したシャーロットであることを見抜き、夫と協力して彼女を救い出すと、身元を伏せたまま自分の屋敷に住まわせる。ワージー夫人はシャーロットの希望通り、ロンドンで貴婦人の屋敷に奉公できるよう紹介状を書いてやる。

第4部(Book IV)]サリー・ディケンズを名乗ったまま単身でロンドンにやって来たシャーロットだったが、手違いがあり、奉公する予定だった貴婦人は外国に行っていて不在だった。彼女はしばらくロンドンの下宿に部屋を借りて住むことになるが、同じ下宿に滞在する年収2000ポンドの裕福なプライス大尉(Captain Price)にしつこく求愛され、応じずにいるとついには夜中にレイプされそうになる。実はこの下宿の女将は売春の仲介者で、下宿人の女たちを娼婦として客に紹介していたのだ。危うく難を逃れたシャーロットは別の下宿に移り、女将の知り合いの服地商の女性の店で働き始める。シャーロットはこの店で、宮廷に出入りする高齢の政治家を紹介され、この老人の屋敷に奉公させてもらうことになるが、老人はシャーロットと二人きりになると彼女の体に触り、妾になれと言い出す。老政治家の申し出を断ったシャーロットは、周囲から冷遇されるようになり、さらに下宿のメイドに全財産を持ち逃げされてしまう。生きるために服地屋の女性や下宿の女将に借金を重ねたシャーロットは、ついに金を返せなくなって逮捕され、債務者監獄に入れられることになる。女性たちは老政治家とグルになり、シャーロットを経済的に追い詰めて老政治家の言いなりにさせようとしていたのだ。メイドがシャーロットの財産を盗んだのも彼女たちの指示だった。しかし投獄の前に入れられた留置所に、ワージー夫人の姉が遣わした家政婦長が現われてシャーロットを救う。ワージー夫人の姉の屋敷で雇われて数年を過ごした彼女は、そこで偶然、父のロバート・サマーズ大尉と再会を果たす。シャーロットの父ロバートは、妻と娘を捨てて姿を消した後、偽名を使って東インド会社の軍人となり、インドで大儲けしていた。帰国したロバートはすっかり悔い改めて妻と娘を探すが、妻が死んだことを知り、せめて娘のシャーロットに償いをしようと彼女を探していたのだ。シャーロットは裕福な紳士の娘という地位を手に入れただけではない。ロバートの兄の子爵が亡くなれば、子爵の称号と領地はロバートが継ぎ、さらに彼の死後は娘のシャーロットが継ぐことになる。彼女が名家の娘であると明らかになった今、レディ・バウンティフルが息子のサー・トマスとシャーロットとの結婚に反対する理由はない。シャーロットは晴れて愛しいサー・トマスと結婚し、ウェールズの屋敷で一生幸福に暮らしたのだった。

 以上の梗概から分かるように、決して独創的ではないが波乱万丈の筋立てを持ち、個性的なキャラクターが豊富なこの小説は、BBCあたりで映像化すれば良質なコスチューム・ドラマになりそうである。実際私にとって、日々の通勤電車でスマートフォン用のPDFファイル閲覧アプリに入れた『シャーロット・サマーズ』を少しずつ読み進めるのは、まるで出来の良い連続ドラマを見ているような楽しい経験だった。18世紀の文筆家メアリー・ワートリー・モンタギュー(Lady Mary Wortley Montagu, 1689–1762)が、娘への手紙でこう評価したのもうなずける。「次に私が手を伸ばした本は『教区孤児』ですが、これはなかなか面白くて、一気に読み終えるまで止められませんでした」(Montagu 363)。(3)『シャーロット・サマーズ』は、娯楽作品としては非常に優秀な小説なのだ。
 もちろん、この小説全体に漂う二番煎じ感は否めない。男性の身勝手な欲望と暴力に翻弄されつつも自らの尊厳を守ろうとして闘う若い女性を主人公に据えたのは、当時の大作家サミュエル・リチャードソンの『パミラ』や『クラリッサ』を真似たのだろう。主人公が騙されて一時的に娼家で暮らすことになるという設定も『クラリッサ』からの借り物だ。そこにフィールディングの『トム・ジョーンズ』を思わせる貴種流離譚の要素を組み合わせ、やはり『トム・ジョーンズ』から主人公が投獄されるエピソードを混ぜ込んでいる。小説の構成もフィールディング作品を真似たもので、各部(book)の最初の章は『トム・ジョーンズ』と同様に、作者が読者に直接語りかけて創作論をぶつ随筆的な文章になっている。
 『シャーロット・サマーズ』の匿名作者は、自分の小説がフィールディング作品の二番煎じであることを、隠すどころか積極的に認めている。彼または彼女は、この小説の序文でこう語る。「読者のみなさんにぜひ知っておいていただきたいのですが、私はジョーゼフ・アンドルーズやトム・ジョーンズの伝記を書いたあの有名なお方の、詩的な意味での第一子です。正嫡の子だとは申しません。私はあの愉快な紳士の私生児だという栄誉に満足すべきでしょう」(History 1: 3)。『ジョーゼフ・アンドルーズ』(The History of the Adventures of Joseph Andrews and of His Friend Mr. Abraham Adams, 1742)というのはヘンリー・フィールディングのもう一つの代表作である。この作者は、自分がフィールディングの文学上の私生児だと言い張るのだ。実は「シャーロット・サマーズ」という名前も、フィールディングの妻の名に『トム・ジョーンズ』の主人公トム(Tom)の実の父の姓を組み合わせたものである(Moore 759)。それゆえ『シャーロット・サマーズ』は、もっぱら『トム・ジョーンズ』の人気に当て込んだ出来の悪い模倣作の一つして扱われてきた。ペンギン版『トム・ジョーンズ』の序文では、英文学研究者のトマス・キーマー(Thomas Keymer)が、『シャーロット・サマーズ』の作者が自分のことをフィールディングの文学的な生き写しの子どもだと主張するのは、「自らの文体が示す証拠に驚くほど無頓着」だと述べている(Fielding)。
 確かに『シャーロット・サマーズ』の時に冗長で散漫な文章は、フィールディングの文章には遠く及ばない。しかしこの小説には、もともとフィールディングの『トム・ジョーンズ』にあった要素を引き継ぎながらも、『トム・ジョーンズ』以上に実験的で、むしろスターンの『トリストラム・シャンディ』を先取りしている特色がある。それはすなわち、物語があたかも現実であるかのように振る舞う慣習を破って、作者や語り手が自分の物語は虚構の作り物にすぎず、読者に読んでもらって初めて存在できることに自ら言及し、物語の内側の虚構内世界と、物語を読む読者が暮らす外部の現実との境目を意図的に混乱させる、メタフィクション的な自己言及性である。

3.『シャーロット・サマーズ』の自己言及性

 
 メタフィクション的な自己言及性を顕著に示す18世紀イギリス小説といえば『トリストラム・シャンディ』(1759–67)が有名であり、研究者がよく引用するのは、この小説の語り手である紳士トリストラム・シャンディ(Tristram Shandy)が読者と直接言葉を交わす、次のような場面だ。
――どうしてまあ奥さま、あなたはすぐ前の章をそんなにうわの空で読んでいらしたのです? 私の母はカトリック教徒ではなかったと、申上げたではありませんか。――カトリック教徒ですって! そんなことはおっしゃらなかったわ!――失礼ですが奥様、もう一度はっきり申上げます。私はそのことを、すくなくともそこの言葉から直接推定できる程度にははっきりと、申上げておいたはずです。――それじゃ私、一ページほど抜かして読んだのか知ら?――いいえ奥さま、一語だって抜かしてなんかいらっしゃいません。――じゃ眠っていたんだわ、きっと。――そんな逃げ口上は奥さま、私の自尊心がゆるせません。――それじゃ、そんなことは、一言だって記憶がなくってよ、本当のところ。――だからそれを、奥さま、奥さまの責任だと申すのです。そこでその罰として、今すぐ、ということはこの次の文章の切れ目のところに辿り着き次第、もう一度前の章にもどって、十九章全体を読み返していただきます。(スターン[上]; Sterne; vol. 1, ch. 20
文章の語り手が読者に、うっかりして読み飛ばした箇所をもう一度読み直せと命じることは、普通はない。この本は物語の中の世界を描くだけでは飽き足らず、自らが読まれている現場まで描き出し、時には自分の読まれ方に注文をつけるのだ。
 どんな本でも、著者が苦心して書き、出版されて流通し、読者に読んでもらって初めて話の中身が立ち現れるのだが、普通の本はそうした事実に自ら言及したりはしない。読者に今読まれていることなど知らないかのように、本来語るべきことだけを語り続ける。自分が著者によって書かれ、書籍販売業界を通じて流通し、この瞬間に読者に読まれているという事実は、本にとっては「余計なこと」である。虚構の物語が書かれた本の場合、書かれている内容はもちろん嘘なのだが、作者も読者もそれがあたかも本当であるかのような振りをして書き、読んでいる。そうした事実もまた「余計なこと」だ。
 しかしそうした「余計なこと」まで自ら語ってしまう本がある。それが虚構作品であれば、現代の批評用語では「メタフィクション」(metafiction)と呼ばれる。「メタフィクション」という用語が使われる以前の1952年に文学研究者のウェイン・C・ブース(Wayne C. Booth)が指摘したように、こうした「余計なこと」まで語ってしまう本は、『トリストラム・シャンディ』よりずっと以前から存在していた(Booth, “Self-Conscious”)。文芸批評家の佐々木敦も「メタフィクションと呼ばれ得るようなフィクションは[…]フィクションの誕生と同時期にまで遡って見出されることになるだろう」と述べている(佐々木 30)。
 ブースは「余計なこと」まで語ってしまう語り手のことを「自意識的な語り手」(self-conscious narrators)と呼び、語り手が自らの語る物語が書かれたり読まれたりしている現場まで描いてしまう行為のことを「介入」(intrusion)と呼んでいる。彼はこうした介入を行なう自意識的な語り手の系譜を、ミゲル・デ・セルバンテス(Miguel de Cervantes Saavedra)の『ドン・キホーテ』(El ingenioso hidalgo Don Quijote de la Mancha, 1605–15)から、ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift, 1667–1745)の『桶物語』(A Tale of a Tub, 1704)やフィールディングの『トム・ジョーンズ』を経て『トリストラム・シャンディ』までたどって行く。その過程で彼は、時代的には『トム・ジョーンズ』と『トリストラム・シャンディ』の間を埋める『シャーロット・サマーズ』などの1750年代小説を取り上げているのだ。
 まずはブースや他の研究者たちが指摘している、『トム・ジョーンズ』のメタフィクション性について整理しておこう。この小説は18の部(book)から構成されているが、各部の最初の章は作者が読者に直接語りかけるエッセイ風の文章になっており、そこで作者は小説を書くこと一般について語ったり、主人公のトムをめぐる物語にコメントを加えたりする。現代の一般的な小説や映画であれば、作家や監督が自作について語るエッセイやインタビュー記事として別の場所に発表されるものが、この小説ではあらかじめ作品内部に書き込まれているわけだ。本来なら小説の外部にあるべき「余計なこと」が、小説の内部に組み込まれているのである。各部の最初の章に限らず、必要とあらば作者はいつでも物語の途中で前面にしゃしゃり出て、こんなふうに語り始める。
ところで読者諸君、これ以上ごいっしょに話を進める前におことわりしておくのがよいと思うが、余はこの物語の途中で、必要と思うごとに何度でも脱線するつもりである。いつそれが必要かということは、情ない批評家諸賢などより余自身の判断のほうが正しいのだ。だからこの際そういう批評家諸氏に、よけいなおせっかいはするな、君らになんの関係もない問題に口出しはするな、と希望しておかねばならない。彼らが裁判官を持って任ずるだけの権威というものを提示せぬかぎり、余は彼らの裁判権に対して申し開きなどはせぬつもりである。(フィールディング 1: 18; Fielding; bk. 1, ch. 2
 作者フィールディングは、『トム・ジョーンズ』各章のタイトルにもメタフィクション的な冗談を仕込んでおり、物語の内容ではなく物語の外側に言及した章タイトルをしばしば付けている。たとえばこんな具合だ。「本章の内容はあるいは読者の予想さるるところならんか」(bk. 1, ch. 12)、「収めるところはほとんどあるいは全くゼロ」(bk. 3, ch. 1)、「本章には作者自身舞台に登場する」(bk. 3, ch. 7)、「本巻最短の章」(bk. 4, ch. 7)。英文学研究者のマーク・ブラックウェル(Mark Blackwell)は、『トム・ジョーンズ』におけるこうした章タイトルの遊びについてこう述べる。「今自分が両手で持っている物語本の物質的な基盤、すなわち物語が印刷された紙を思い出させることで、フィールディングは読者を物語から引き離し、本がその中に含んでいる出来事つまり想像上の時間ではなく、本自体を見ることを促しているのだ」(Blackwell 236)。 
 物語の本題から脱線して、物語の文章が書かれたり読まれたりする場に関する「余計なこと」を語る自己言及性が与える効果の一つは、そうすることでまるで、文章を書いている作者が目の前に立ち現われたかのような錯覚を読者に与え、あたかも作者と読者との間に双方向的なコミュニケーションが成り立っているかのような幻想を醸し出せるということだ。
 たとえば仮に私がここで「私がこの箇所を書いているのは締切前日の2015年12月6日(日曜)です。果たして私は、期限までにこの原稿を仕上げることができるのでしょうか?(汗)」と書き込んだとする。この文章を読んでいるあなたは、呆れてこれ以上読み進める気をなくしてしまうかもしれないし、パソコンの前で脂汗を流して苦闘する大学教員を思い浮かべて苦笑してくれるかもしれない。もしもあなたが苦笑してくれるなら、あなたは筆者である私に対してほんの少し親密さを感じてくれたことになる。「余計なこと」を語る自己言及性には、そういう効果があるのだ。
 『トム・ジョーンズ』の持つ自己言及性が、作者と読者との間に双方向コミュニケーションの幻想を作り出していることについて、ブースはこう述べている。「仮に、トムの物語を無視して、一見不必要に思える語り手の出現のすべてを通して読んで行くとするならば、われわれは語り手と読者との間の親密さが次第に深まって行くという連続した一つの話を発見する。それ自体一種のプロットを持ち、独立した結末を持つ一つの話を」(ブース 274; Booth, Rhetoric 216)」。
 スターンの『トリストラム・シャンディ』では、このように自己言及性を通じて双方向コミュニケーションの幻想を醸し出す作業が、いっそう頻繁かつ徹底的に行われている。この件については、私もすでに別の論文で指摘したことがある(内田,「トリストラム」)。語り手トリストラムは、もはや全編を通じてほとんど「余計なこと」しか語っていないと言っていいのだが、トリストラムのとめどない与太話に付き合っている読者は、次第にトリストラムが自分の親しい友人でもあるかのような気分になってしまうのだ。もちろん、語り手トリストラムも作者スターンもそのことを知っている。ある意味で『トリストラム・シャンディ』という作品を駆動させているメカニズムを明かしているとも言える箇所を引用しよう。
だんだん私といっしょに進んで下されば、今二人の間に芽ばえかけているかすかな相識の関係は、進んで親近感となり、そのまた親近感は、あなたか私がどちらかが失策でも犯さぬかぎりは、最後は友情にもなることでしょう。――ああ、そのすばらしき日!――そうなればこの私の身にすこしでもかかわりのあることは、もとより些細とは思われず、聞いて退屈とも思えぬでしょう。かるが故にわが親愛な伴侶なる友よ、[…]二人してソロリソロリとまいる間に、私とともに笑おうとも、あるいは私めを笑いのたねになさろうとも、要するに何をなされようとも一向にかまわぬが――ただ短気だけは起こさずにいていただきたいのです。(スターン[上]; Sterne; vol. 1, ch. 6
トリストラムの最大の弱点は、読者が飽きるなり怒るなりして読むのを止めてしまえば、彼の存在自体が消滅してしまうことである。だからこそ彼は読者に「短気だけは起こさずにいていただきたい」と懇願するのだ。
 上に述べたような自己言及性を備えた『トム・ジョーンズ』と『トリストラム・シャンディ』の間に出版された『シャーロット・サマーズ』など1750年代の小説でも、やはりさまざまなメタフィクション的実験が行われている。もちろんそこには『トム・ジョーンズ』の影響が色濃いのだが、「おのれがフィクションであることを自ら意識して戯れる点や、物語が本当であるかのような幻想にツッコミを入れる点で、『シャーロット・サマーズ』は『トム・ジョーンズ』の一つ先を行っている」(Blackwell 236)という見解もある。私も『シャーロット・サマーズ』の自己言及性は、『トム・ジョーンズ』より『トリストラム・シャンディ』にはるかに近いと思う。
 ブースは『シャーロット・サマーズ』などの1750年代小説が「余計なこと」を語りすぎている点を批判する。「たとえ、一七四九年から一七六〇年に小説家の誰かが、フィールディングが見せてくれた堂々たる喜劇的行動を描くことができたと仮定しても、彼らの多くは注意深く調節されたフィールディングの滑稽さを不注意にも多用し過ぎて、潜在的な喜劇的プロットを覆い隠してしまったことであろう。これを最も良く表している作品の一つは、『トム・ジョーンズ』から一年もたたないうちに匿名で出版された『シャーロット・サマーズ、または幸運な孤児』という作品である」(ブース 284; Booth, Rhetoric 224)。ブースによれば、『シャーロット・サマーズ』が失敗している理由は、「余計なこと」を語りすぎて肝心の本題がおろそかになっていることである。
この作者は、彼の「フィールディング父さん」の気紛れな面だけを故意に模倣しようとし、フィールディング自身は真剣に考えていない彼の次の「学説」を、まじめに取ったようだ。「作者は、すべての批評の権威者が何を言おうと、好きな時、好きな場所で脱線をする絶対的な権利があり、当座の話題に関係があろうがなかろうが、頭に真っ先に浮かんだことを何でも書いて、自分自身と読者を楽しませる権利がある」。その結果は言わずもがな、この学説を追求するために、トム・ジョーンズは決して忘れられることはなかったのに、この気の毒な孤児は、何十ページにも渡って忘れられることがしばしばある。喜劇小説であるはずのものが、作者のおどけた介入のために、切れ切れの断片になってしまったのである。(ブース 285; Booth, Rhetoric 226)
 ブースはそう書いているのだが、こうした物言いには、イギリス文学の正典として認められ強大なブランド力を持つ『トム・ジョーンズ』や『トリストラム・シャンディ』といった作品に対する過剰な信頼と、一部の好事家を除けば誰にも読まれなくなって忘れ去られた、『シャーロット・サマーズ』をはじめとするかつての流行小説への偏見がにじみ出ているように私には思われる。以下に『シャーロット・サマーズ』からいくつか典型的なメタフィクション的場面を取り上げてみるので、ブースの批判が当たっているかどうか、この文章を読んでいるあなたに判断していただきたい。
 『トム・ジョーンズ』と『トリストラム・シャンディ』に共通している、作者と読者が一緒に旅をしながら親交を深めているかのような語り方は、『シャーロット・サマーズ』でも頻繁に用いられている。小説の最初の章から引用してみよう。
読者のみなさんをシャーロット・サマーズ嬢にご紹介する前に、まずは彼女の友人たちの知遇を得ていただかねばなりません。決してあなた方の体面を傷つけたりしない、人品卑しからぬ人たちですからね。そこでみなさんに、はるばるウェールズのカーマーゼンシャーまで行っていただきたいのです。普通に旅行をすれば数日かかる長い距離ですけれど、われわれ作者にはつねに、軽々と空を駆ける馬車が与えられております。こいつを使えば読者のみなさんは、あっという間に、これよりずっと遠くにだってやすやすと移動できるというわけです。作者というもの、ある種の魔法の使い手なのですな。われわれが一言しゃべればあら不思議、みなさんは今いる位置に留まったまま、われわれがみなさんに来てほしい場所に運び去られているのです。ほらもう魔法の効き目が現れてきたでしょう? はい、着きました。われわれが降り立ったのは、古い立派なお屋敷の門の前です。(History 1: 12–13; bk. 1, ch. 1
 フィールディング作品には見られない『シャーロット・サマーズ』の特徴は、この小説が読者の何名かを小説の内部に登場させ、台詞まで与えていることだ。この技法はすでに見たように、9年後に刊行される『トリストラム・シャンディ』でも用いられることになる。『シャーロット・サマーズ』の作者が、主人公の庇護者レディ・バウンティフルの欠点として、家柄や血筋に過剰にこだわる性格を指摘する場面を見てみよう。
読者のみなさんにぜひ知っておいていただきたいのですが、レディ・バウンティフルは確かに優しくて立派な人格者ではあったのですけれど、欠点もあって、ちょっと困ったところがある人なのです。だからと言って、あら探し屋のセンソーリアス嬢[Miss Censorious]、変に気を回して意地悪な想像をしないでくださいね。彼女の欠点というのは、今あなたが想像しているようなものじゃありませんよ。彼女はお付きの牧師といい仲になったりしていませんし、――もちろんお付きの医師とも――世界中のどの男ともです。彼女は降ったばかりの雪のように純潔な人で、その胸にあふれる情熱は、世間一般の人々への愛情と、普遍的な慈愛から生じたものでしかないのです。「失礼ね! 私は彼女がくだらない男たちとできてるなんて思ってないわよ。あんたがあんまり大げさに言うから、よっぽどの欠点なんだろうなと思っただけじゃないの。でもどうしてこんなにじらせる必要があるの? いいかげんにその老いぼれヒロインのすごい欠点とやらを教えてよ。まったく想像もつかないけど、ここまで教えたがらないってことは、本当にひどい欠点なのよね」(History 1: 25–26; bk. 1, ch. 1(4)
『シャーロット・サマーズ』に登場する読者は、上の引用で作者に楯突いているセンソーリアス嬢だけではない。英文学研究者のロバート・フォークンフリックが言うように、「『シャーロット・サマーズ』は、読者として言葉を差し挟むためだけに存在するキャラクターであふれている」のだ(Folkenflik 54)。彼らのほとんどはただ1度きりしか登場しない。時には一度に何人もの読者が登場し、主人公の行動をめぐる議論が行われたりする。その様子は、まるで連続ドラマの放映直後にツイッターで喜々として感想を述べ合ったり今後の展開を予想し合ったりする視聴者たちを思わせる。現代のテレビドラマであれば、物語の内部であるドラマ本体と物語の外部であるツイッターでの反響に分かれているものが、『シャーロット・サマーズ』においてはどちらもテキストの内部に書き込まれているのだ。
 第1部第4章の最後では、作者が読者に直接こう話しかける。「私はもう、私の可憐な教区孤児が善良な侍女のマージャリーと一緒に馬車に乗り、レディ・バウンティフルの屋敷に向かったのを見届けたわけですから、このあたりで読者のみなさんは一眠りしたり、それぞれお好きな楽しみに興じていただいて結構です。ただし読むのを中断したのが第4章の終わりだということだけは、覚えておいてくださいね」(History 1: 66–67; bk. 1, ch. 4)。まるで佐々木敦が「パラフィクション」と呼ぶ種類の小説(佐々木 214; 222–23)、すなわち自らが「読まれているもの」であるという事実に気づいており、その事実を小説としてのあり方に組み入れているメタフィクション作品のように、『シャーロット・サマーズ』の作者は「あなたは今、この文章を、読んでいる」という事実を、たびたび読者に思い起こさせる。
 上で引用した第4章の末尾の直後、第5章の冒頭では、さらに過激な自己言及が行われる。なぜか突然場面が転換し、小説『シャーロット・サマーズ』を読んでいる途中の、アラベラ・ディンプル(Arabella Dimple)という若い女性読者が舞台の前面に登場するのである。
美しきアラベラ・ディンプル嬢は、たった今ベッドの中に入ったところです。――今夜はたいそう暑いので、花咲く乙女はその体を右に左に回してみても、どうにも眠れる気がしません。掛け布団をほとんどお腹のあたりまで跳ねのけると、横になったまま、たおやかな両腕や雪のような胸をあらわにしています。メイドのポリー[Polly]は、かくも美しい裸体が人目にさらされては大変と、燭台を持ち去ろうとしますが、お嬢様に呼び止められます。「ねえポリー、今夜は暑くてたまらないわ。このままじゃいつまで経っても眠れないから、お前が何か読んで寝かせてちょうだい。――下の客間に行って、私が午後に読んでいた『教区孤児』の第1巻を取ってきて。スピネットの上に置いたはずだから」――ポリーはその退屈な本を持って戻ってくると、お嬢様のベッドの脇に腰掛けます。「さてお嬢様、どこから読み始めましょう。ページの隅は折ってありますか?」「馬鹿ね、そんなことしないわ。本がいくつもの章に分かれているのは、ページを折って傷つけるような醜い慣習を防ぐためじゃないの。そうそう、作者が言ってたわ。確か――第6章の終わりまで読んだことを覚えといてくれって。第7章を開いて、最初のところを聞かせてちょうだい」。ポリーが読み始めます。「第7章――われらがレディ・ファンシフルのリスが死んだことで、屋敷の中はてんやわんやの大混乱。放っておけば深刻な結果を招きかねないところでした。しかし伊達男のケアレス君が機転を利かせて口にした的確な言葉が、この惨劇が巻き起こした大嵐を静めてくれたのです」――「待って、読み方が早口過ぎるわよ。一言も意味が分かんないし。伊達男だのリスだのレディ・ファンシフルだのって、いったい何。そんなの一度も出てこなかったじゃないの。まだそこまで読んでなかったのかしら。もうちょっと戻ってくれる? どこかの章の終わりで、間抜けな作者が読者に、ちょっと寝てていいから、どこまで読んだか覚えといてくれと言うところがあるんだけど」――「あ、お嬢様、ありました。ここですね」(History 1: 67–68; bk. 1, ch. 5
こうしてポリーは朗読を再開し、物語は本編に戻ることになる。面白いのは、後で実際に第7章の冒頭を読むと、そこにはこの場面でポリーが朗読したとおりの文章が書かれていることだ(History 1: 124; bk. 1, ch.7)。ちなみにペットのリスが死んだことで大騒ぎするレディ・ファンシフル(Lady Fanciful)や、彼女を慰める伊達男ケアレス(Beau Careless)は、その場面にしか登場しない端役キャラクターである。
 英文学研究者のクリスティーナ・ラプトン(Christina Lupton)は、「自らの成り立ちと読者に関する知識」(Lupton, Knowing x)を持っている本、すなわち自らが作者の金儲けのために書かれ、印刷した紙を束ねて綴じた商品として売られ、読者に軽い娯楽として読まれる過程を意識しているかのように語るこの時代の自己言及的な小説群を、「わけ知り顔の本」(knowing books)と呼んでいる。『シャーロット・サマーズ』は、もちろん「わけ知り顔の本」を代表する本の一つである(Lupton, Knowing 21–35)。ラプトンは上に引用したアラベラ・ディンプル嬢とメイドの場面について、こう語っている。「ある意味でこの場面は、『ドン・キホーテ』第1部の書物が第2部の虚構内世界に登場する際に使われた種類のユーモアを、単に引き継いでいるだけである。しかし同時にこの場面は、ジョークの及ぶ範囲をページの表面にまで広げている。アラベラは、自分が栞代わりにページの隅を折ったはずだと想像したメイドを叱る。この時読者には、自分が手に持っている『シャーロット・サマーズ』の本が、おのれの存在だけでなく、おのれの物理的な状態まで意識し始めるように思えるだろう」(Lupton, Knowing 33)。当時の読者の中には、すでに『シャーロット・サマーズ』のページを折ってしまっていた人もいたはずだ。そういう読者はアラベラがメイドのポリーを叱るところを読み、自分が本に叱られたようで軽い罪悪感を覚えたのではないだろうか。
 文芸批評家のスティーヴン・モア(Steven Moore)は、古代エジプトの時代から始まる長大な世界小説史のシリーズ『もう一つの小説史』(The Novel: An Alternative History)を書き続けているが、このシリーズの17–18世紀の小説を扱った巻において、5ページを割いて『シャーロット・サマーズ』を紹介している(Moore 758–62)。モアは『シャーロット・サマーズ』の作者の人物像を以下のように推測する。「『トム・ジョーンズ』の場合と同様、われわれは主役ではなく語り手こそがこの小説の真の主人公だと見なすよう促される。この語り手は理知的で文学に造詣の深い作家だが、アラベラ・ディンプルや彼女のメイドのような連中に向けて売れ筋の小説を粗製濫造することを余儀なくされており、愚かな読者たちに向けてたまに皮肉なコメントを吐かずにはいられないのだ」(Moore 762)。確かに『シャーロット・サマーズ』に登場する読者たちは、軽薄で単純で頑固な人々ばかりであり、当時の小説愛好家たちの最も愚かな側面を諷刺的に描いた戯画になっている。実際の読者は、自分の中にあるそうした愚かな部分を本に見透かされたような気分になるだろう。
 アラベラ・ディンプル嬢がメイドのポリーに朗読させた第5章の途中からは、心優しい農夫が孤児の女の子を引き取って育てる挿話「慈悲深い農夫の物語」が始まるが、センチメンタリズムに彩られた感動的な挿話が語られている途中で、突如としてディンプル嬢とポリーが再登場する。
農夫は妻の忠告に従いました。しかし読者のみなさんに思い出していただきたいのは、ディンプル嬢のメイドのポリーが、この間ずっと朗読していたことです。彼女がここまで来たところでお嬢様の方を見やると、すでにぐっすり寝てしまっているではありませんか。ポリーは小声でつぶやきます。「いったいお嬢様はどうして、こんなに素敵な本が読まれているのを聞いて眠ってしまえるのかしら? 私なら絶対寝ないのに。少なくとも、この情け深い農夫の清らかな物語が終わるところまではね。この農夫って、ほんとにいい人だもの。お嬢様を起こさないように、そっと自分のベッドに戻って、思う存分続きを読むことにするわ。でもちょっと待って。どこまで読んだか覚えておかなきゃ。ページの隅を折っちゃ駄目なのよね。ちょうど章の終わりだから覚えやすいけど。次は第6章ね。こうして袖にピンを6本留めておけば忘れないし、お嬢様に訊かれても思い出せるわ」。読者のみなさんもよろしければ、同じようにしていいのですよ。なぜならここで章が終わりますから。可憐なディンプル嬢は、今この時も熟睡しています。(History 1: 85–86; bk. 1, ch. 5
厳密に考えれば、ポリーが読んでいるテクストの内部にディンプル嬢やポリー自身は登場するのかという問題があるのだが、この作者はそういう細かい矛盾にはこだわらず、平然と物語を続けていく。
 現代の読者から見れば、メタフィクションにおける世界観の設定や作者の立ち位置の厳密さに関してあまりに無頓着なのが、この作者の特徴だ。どうやらこの作者は自分が作り出した登場人物と自由に会話ができる立場にあるらしいことが、何度かほのめかされる。たとえばシャーロットの子ども時代、レディ・バウンティフルがシャーロットに家庭教師をつけようとした時には、その女性が悪人であることを知っている作者が、レディ・バウンティフルに彼女を雇わないよう直接忠告したと語られている。「私は失礼を顧みず、レディ・バウンティを諌めようとしましたし、医師と牧師も応援してくれました」(History 1: 150; bk. 1, ch. 8)。この作者が現実世界においてレディ・バウンティフルの使用人や知人であったという記載は一切ない。この人物は作者として登場人物に語りかけているのだ。これは『トム・ジョーンズ』にも『トリストラム・シャンディ』にもない設定である。(『トリストラム・シャンディ』には語り手トリストラムが登場人物に呼びかける場面があるが、彼の言葉は登場人物たちに直接聞こえてはいない。)BBCのテレビドラマ版『トム・ジョーンズ』(1997)では、主人公トムの人生が語られる虚構内世界に作者フィールディング自身がたびたび出現し、視聴者に直接語りかけているが、彼の姿は登場人物たちには見えていない設定になっており、たとえ同一の画面に写っていても、彼が登場人物たちと会話をする場面は一度もない(Burke)。『シャーロット・サマーズ』の作者は、言わばテレビドラマ版『トム・ジョーンズ』で虚構内世界を歩き回る作者に、さらに作中人物に直接話しかける能力が加わったような存在である。
 とは言え『シャーロット・サマーズ』の作者も、作中人物と言葉を交わすのはごく稀な場合のみであり、基本的には登場人物に姿を見られずに彼らの行動を覗き見ているらしい。作者は自分が登場人物に気づかれずに彼らの行動をつぶさに観察できる理由を、「透明になる魔法の帽子を持っている」とだけ説明している。作者が着替え中のシャーロットの部屋に入り込む、ややポルノグラフィーめいた場面を引用しよう。胸の谷間をあらわにしたシャーロットの下着姿を見つめる自分に淫らな気持ちがあることを作者は必死に否定しているが、こうしたシーンがある種の読者サービスであったことは否めない。
[…]私はワージー氏[Mr. Worthy]の館まで散歩に行くことにしました。私は透明になる魔法の帽子をかぶり、ご婦人方の前に現われたのですが、彼女たちは自分たちから100ヤード以内に男性がいるとは夢にも思わないのです。[…]。私は彼女[シャーロット]の姿を眺めてうっとりしました。これほど愛らしい彼女を私は見たことがありません。こんな近くに誰かがいるとは思いもせず、コルセットを付けただけの姿で、雪のように白い胸をあらわにして、膝上の靴下留めを結んでいます。しかし魅惑的なポーズを取っている彼女を見て私が感じる喜びは、これほど有利な視点を与えられているにもかかわらず、劣情を掻き立てるところも、肉感的なところも、彼女の性別との関わりもまったくなかったのです。むしろそれは、美徳のみがもっとも野蛮な人間にも植え付けることのできる喜びであり、私たちが罪や感覚といった足枷から解き放たれ、永遠の天国を初めて訪れる時、平和な天国に住む霊的な人々に出会っておぼえる感情を思わせるものでした。(History 2: 155–56; bk. 4, ch. 2
 作者は登場人物たちを自由に観察できるだけでなく、彼らを操り人形のように自由に動かしたり止めたりできるらしい。シャーロットが庇護者レディ・バウンティフルの屋敷を深夜に抜け出す場面では、眠くなった作者が寝ている間、シャーロットの動きが一時停止される。
美徳と純潔を守るためのこの行動を寿ぐように、月は明るく輝き、庭園に出る裏の囲いのドアまで彼女を導いてくれました。彼女は鍵を持っていたので、ドアを開けて外に出ると、外から錠を閉め、鍵をドアの下に置きました。これで安心と思った彼女は、ドアから100ヤードほど離れた楢の老木の根元に腰掛けました。のどかで幸福だった昔、彼女はよくここに座って読書に浸っていたのです。落ち着きを取り戻した彼女は、これからどこに向かえばいいかを考え始めました。でもそろそろ朝になろうとしていますし、私はこの章を書くのに疲れましたから、お話を先に進める前に、読者のみなさんには失礼して、ベッドに戻って一眠りしようと思います。みなさんがそれは嫌だというなら、あの楢の木の根元に腰掛けているサマーズ嬢の姿をお楽しみください。私が暇になって彼女に旅を続けさせる余裕が出るまで、彼女はあのままです。なにしろ私は彼女に魔法をかけて、私の許可がなければ一歩も動けないようにしてありますからね。(History 2: 55–56; bk. 3, ch. 3
 読者との双方向的交流を感じさせる技法の一つとして、作者は時々物語の先の展開を読者に考えさせる。ラプトンの言うように「1750年代までには、プロットの一部を読者に委ねることは、かなり一般的な修辞技法になっていた」のだ(Lupton, “Giving” 293)。もちろんこれは『トリストラム・シャンディ』でも何度か使われる技法である。ただし『シャーロット・サマーズ』が独特なのは、章の終わりで次の章の展開を読者に考えさせておきながら、同じページにある次の章のタイトルが、先の展開を盛大に「ネタバレ」させているところである。どうやらスティーヴン・モアの見立て通り、この作者は読者たちの頭脳をあまり信頼していなかったようだ。
読者のみなさんはここまでの2、3ページをお読みになれば、私がサマーズ嬢にちょっとした試練を与える準備をしているのがお分かりでしょう。みなさんが想像力を働かせて、彼女の身に振りかかる不幸がどんなものなのかをしばらく考える機会を与えるために、ここでいったん章を終えることにします。とは言え、みなさんの中で一番空想が得意な方にもおそらく言い当てることはできないでしょうから、次の章のタイトルでヒントを与えておきます。章自体を読む気にさせるにはこれで十分でしょう。

第8章――サマーズ嬢を破滅させ正体を暴露せんとする女たちの悪意に満ちた策謀を収める
History 2: 108; bk. 3, chs. 7–8
 上の例では次章のタイトルが冗談の「落ち」になっているのだが、逆に以下の例のように、章のタイトルに読者がツッコミを入れる形で新しい章が始まることもある。
第1章――夢についての論考を収める

「夢についての論考! こいつ、何を言ってるんだ? 夢なんてわれわれに関係ないだろ?」ディック・ダパーウィット君[Dick Dapperwit]が怒っています。「ぐずぐずしてないで、あんたの『教区孤児の物語』を続けろよ。夢の話はまた今度でいいじゃないか」――善良なダパーウィットさん、夢というもの、あなたが思っている以上にわれわれにとって重要なのですよ。それにこの話題が私の頭に浮かんでしまったからには、みなさんは私の話をじっと我慢して聞かねばなりません。それが嫌ならページをめくって次の章に飛んでくださいな。ただし罰として、そこにも夢のことしか書いてありませんけどね。(History 2: 1–2; bk. 3, ch. 1
実際に次の章に飛んでみると、そこには主人公のシャーロットがおぞましい夢を見た話が書かれているという仕掛けである。一部の読者にページを飛ばして次の章に飛ぶことを勧める技法もまた、のちに『トリストラム・シャンディ』で使われ(vol. 1, ch. 4)、その実験性が多くの研究者によって賞賛されることになる。
 なお、この章で語られる夢の話は、『シャーロット・サマーズ』の作者が自らの創作の秘密を語ったエッセイとして興味深い。『トリストラム・シャンディ』の語り手トリストラムによる、以下の創作論と比較しても面白いだろう。「既知の世界のあらゆる地域を通じて現今用いられている、一巻の書物を書きはじめる際の数多くの方法の中で、私は私自身のやり方こそ最上なのだと確信しています――同時に最も宗教的なやり方であることも、疑いをいれません――私はまず最初の一文を書きます――そしてそれにつづく第二の文章は、全能の神におまかせするのです」(スターン[下]; Sterne; vol. 8, ch. 2)。
 トリストラムの執筆法が「成り行き任せ」だとするなら、『シャーロット・サマーズ』の作者の執筆法は「成り行き任せでブレインストーミングしたアイディアの山を、後から取捨選択して整理する」という、現代の論文執筆指南書にでも書いてありそうな方法である。『シャーロット・サマーズ』の作者は、まず文学作品が起きて見る夢にほかならないことを宣言する。「なにしろ、われわれ作者がやっていることは、自分の夢の話をすることだけですから。確かにわれわれが語るのは起きて見る夢ですけれど、それは寝て見る夢とたいして変わりはしないのです」(History 2: 2; bk. 3, ch. 1)。その上で作者は、文士は自分の小説の材料を、まるで夢を見るように幻視するが、それらは幻視したままの未整理な状態では、寝て見る夢と同じくらい意味不明だと言う。
もしもみなさんが私の尊敬すべき父[フィールディング]の雑記帳や『トム・ジョーンズ』の最初の草稿を読んで、あの無類の傑作の元になった未整理の混沌をご覧になったとしても、それはみなさんがこれまでに見た最も支離滅裂な夢と区別がつかないことでしょう。そこでみなさんが目にするのは、明確な姿かたちを持たないアイディアの胎児や、まだ自然界の何にも似ていない比喩の蕾です。登場人物たちの手足や体の部分のミニチュアも、雑然とばらまかれています。そこには何のつながりも一貫性もありませんし、つながりが見いだせたとしても不適切なものです。時には貞淑なウェスタン嬢[Miss Western]の作りかけの脚が、よこしまなトム・ジョーンズの一糸まとわぬ局部の隣にごろりと置かれていたりするので。(History 2: 2–3; bk. 3, ch. 1
ちょうど『トリストラム・シャンディ』の語り手トリストラムが序文の中で、人間には機智(wit)と思慮分別(judgment)の両方が必要だと語るように(vol. 3, ch. 20)、『シャーロット・サマーズ』の作者は、言わば機智によって大量に紡ぎ出したアイディアを、思慮分別によって取捨選択する方法を提唱する。
彼[文士]はどんどん湧いてくる空想の一つ一つを見つめ、それらのつながりに頭を悩ますことなく、雑然としたアイディアを書き留めていきます。支離滅裂な思いつきが山のようにたまったら、彼はじっくり座って、山のこちらからあるアイディアを取り上げ、別の場所からはある比喩を、ここから手足を、あちらから体の一部をという具合に選び出して、登場人物の姿を組み立てると、そこに思いつきの山から拾った描写や情感などのあれこれをまとわせて、彼が作ろうと意図したものに近づけていくのです。想像力が供給した材料の中から、取り入れるものと拒絶するものとを選り分けるために、ここで判断力と悟性を働かせるわけです。(History 2: 5–6; bk. 3, ch. 1
もしもこうした文章が『トリストラム・シャンディ』に書いてあれば、研究者たちはそこに同時代の哲学を絡めてさまざまな評釈を加え、その思想史的背景を真剣に探ろうとするだろう。『シャーロット・サマーズ』は消えていった遠い過去の流行小説の一つにすぎないが、それらの流行小説と、世界文学の名作とされていまだに読み継がれている『トム・ジョーンズ』や『トリストラム・シャンディ』との違いは、われわれが普段考えているほど大きくはないのかもしれない。
 あの手この手で読者をからかいながら物語を進めてきた作者は、最終章でもわざと読者をじらせてからかっている。シャーロットが生き別れの裕福な父親と再会したところで、作者はシャーロットの恋の行く末を語らないまま小説を終えようとするのだ。もちろん読者の代表は作者に猛烈な勢いで抗議し、ラストシーンはお決まりの求婚シーンを伴うハッピーエンディングへと書き換えられることになるのだが。
私の美しい教区孤児は、さまざまな困難や危機を乗り越えてようやく無事に父親の屋敷にたどり着き、裕福で豪華な生活を送れることになりました。私としては、このあたりが彼女に別れを告げる潮時ではないかと思います。彼女は今や、道理をわきまえた女性にとって望める限りの幸福を手にしたわけですから。「ちょっと、何言ってるの!」と言ったのはラキットの後家さん[Widow Lackit]です。「まさか、結婚させずに話を終わらせる気じゃないでしょうね? 彼女が夫なしで幸福になれるわけがないじゃないの。それに、この手の物語がヒーローとヒロインを結婚させずに終わるなんて、あらゆる規則に違反してるわ。結婚式の夜を描かないなら、誰がこんなもの読むもんですか!」いやはや、後家さん、すべての方にご満足いただくのは難しいものですな。それにかつての教区孤児も今や裕福な女相続人ですから、羽飾り、リボン、称号、被り物、髪粉を振った鬘といった手合いに取り巻かれております。感性も昔とは違っているでしょう。彼女の後ろに踊りながら付き従う賛美者たちから誰か一人を選べなんて、私はとても彼女に言えませんよ。数千ポンドやるから彼女に口を利いてくれという依頼もあるんですけどね。結婚周旋人の役目はまっぴらです。私も、書籍商のコーベット氏[Mr. Corbett, この小説の発売元]もすでに結婚していますし、かくなる上は、いっそ1年か2年彼女の好きにさせて、彼女が自分の気持ちをはっきりさせるまで待とうとも思ったんです。でも女性読者のみなさんは、サマーズ嬢をさっさと追い払って、彼女のお下がりの恋人たちをもらい受けようとお考えらしい。そういうことなら私はできる限りレディ・バウンティフルを説得して、その息子のサー・トマスとサマーズ嬢が結婚できるようにお願いするしかありません。そう言えばここ1〜2年、彼の噂はとんと聞きませんね。(History 2: 313–14; bk. 4, ch. 11
 ここまで見てきたように、『トリストラム・シャンディ』を有名にしているメタフィクション的な語りの技法の一つ一つは、その9年前の『シャーロット・サマーズ』刊行の時点ですでにあらかた開発されていると言ってよい。ただしそうしたメタフィクション的な場面は、『シャーロット・サマーズ』ではあくまで「余計なこと」としての節度を守っており、本題の物語を進める途中で時折り箸休め的に現れる冗談にすぎない。一方『トリストラム・シャンディ』ではメタフィクション的な遊びが作品の前面に出てきており、本題と「余計なこと」とが主従逆転している。『トリストラム・シャンディ』の読者は常に、自分が読んでいるこの文章に書いてあることは本当は嘘だけれど作者も読者も本当の振りをしていてでもやっぱり本当は嘘で……という、当たり前ではあるが本来は「余計なこと」を意識し続けざるを得ない。その結果として、「スターンの文学世界では存在が根源的に不確定性を抱えており、存在と不在、現実とフィクション、生と死の判断を留保させられた者たちが、書物の世界といわゆる現実の世界とを往還する」(武田 91)という状態がめでたく達成されることになるのだ。

4.モノとして扱われることに抗う女性

 
 本稿の目的からすれば余計な脱線かもしれないが、『シャーロット・サマーズ』という小説が「余計なこと」以外に何を語っているかを振り返っておこう。読者たちを作品内に描き込むメタフィクション的な場面における実験的な語り口とは対照的に、教区孤児シャーロットをめぐる本題の物語は、きわめて型通りで先の予測が可能なお決まりの展開を示している。物語の大枠となる〈貧乏な孤児がさまざまな試練を経た末に、生き別れの裕福な父と再会して幸福になる〉という筋にしても、それ自体は「孤児」という設定から誰もが予測できるほど平凡なものだ。
 文学研究者のジェイムズ・R・フォスター(James R. Foster)は、フランスの作家ピエール・カルレ・ド・シャンブラン・ド・マリヴォー(Pierre Carlet de Chamblain de Marivaux, 1688–1763)による未完の孤児小説『マリヤンヌの生涯』(La vie de Marianne, 1731–41)が、『シャーロット・サマーズ』をはじめとするイギリス小説に多大な影響を与え、さらにフランス語版『シャーロット・サマーズ』が多くの模倣作を生んだことを指摘している。「『シャーロット・サマーズの物語』やそのフランス語版のような小説は、マリヴォーの影響を大いに拡散した。『マリヤンヌの生涯』は、18世紀のフランスおよびイギリスのほとんどすべての小説に何らかの影響を与えていると言われたこともある」(Foster 64)。フォスターによれば、『マリヤンヌの生涯』の影響下で書かれた、孤児の女性を主人公とする作品群には、次のような共通点があるという。「マリヤンヌ風なヒロインの多くは、直接『マリヤンヌの生涯』に影響されたにせよ、『シャーロット・サマーズの物語』や『農家の娘の出世』[Paysanne Parvenue, 1735, 『マリヤンヌの生涯』の模倣作]から影響を受けたにせよ、自分より身分が高い男性からの好待遇だが不道徳な求愛をはねつけ、庇護者の女性の息子や縁者と恋に落ち、そして私利私欲に左右されない高潔な人柄を示すべく、恩義や友情のために愛を(一時的には)犠牲にするのだった」(64)。注目すべきことに、『マリヤンヌの生涯』はウェイン・C・ブースの論文で「自意識的な語り手」が活躍する作品の一つとして取り上げられている(Booth, “Self-Conscious” 173–75)。主人公が文通相手に自分の生涯を語る形式で書かれたこの小説は、しばしば語り手が自らの物語に意見を加える形で話が脱線してゆく構成を持っており、孤児の遍歴というテーマだけでなく、「余計なこと」まで小説内部に書き加える語りの技法の上でも、『シャーロット・サマーズ』に影響を与えたのかもしれない。「ルネサンスから一八世紀にかけて、イギリスに限らず、ヨーロッパは翻訳の時代だった」(伊藤 iv)ことを考慮すれば、18世紀のフランス・イギリス小説間におけるテーマや語りの技法の双方向的な影響関係については、より深い研究が必要だろう。幸いこのテーマについてはメアリー・ヘレン・マクマランによる先駆的な研究書(Mcmurran, Spread)も出ており、今後さらに研究が進んでいくと予想される。
 英文学研究者のキャロライン・ゴンダ(Caroline Gonda)は、『シャーロット・サマーズ』の結末近くで描かれる感動的な父娘の対面が、ヘンリー・フィールディングの妹セアラ・フィールディング(Sarah Fielding, 1710–68)の小説『デイヴィッド・シンプル』(The Adventures of David Simple, 1744)で、ヒロインと父とが再会する場面にそっくりなことを指摘する。「かなり毛色の違う二つの小説だが、父と娘の再会の描き方は驚くほど似ている。性的な放埒さを反省して赦しを乞う父を、大喜びした娘は直ちに赦し、嬉しさのあまり気絶する」(Gonda 518)。しかもゴンダは『シャーロット・サマーズ』の父娘再会シーンが、小説の最初のほうに挿入される、心優しい農夫と孤児の物語で描かれた父娘再会シーンの繰り返しであることも指摘している(519)。実際、『シャーロット・サマーズ』第1部の第5章〜第7章にかけて挿入される「慈悲深い農夫の物語」(“The History of the Charitable Farmer”)は、主人公が幼い孤児の女の子であること、彼女が幼なじみである庇護者の息子と恋をすること、彼女がさまざまな試練を経て、最後は生き別れの実の父と再会して裕福になり、恋する男と結婚することなど、あらゆる点で『シャーロット・サマーズ』の物語のミニチュアになっている。作者はどうやら、あらかじめ読者に作品全体の「あらすじ」もしくは「予告編」にあたる挿話を提供して、物語の大筋をばらす代わりに、細部の展開に期待を持たせようとしているようなのだ。この作者は各章のタイトルでも、その章で語られる内容をあらかた明かしており、各巻の冒頭の目次に並んだ章タイトルをざっと眺めれば、『シャーロット・サマーズ』の今後の展開がほぼつかめてしまうほどだ。
 もちろん当時の読者の中にもこうした「ネタバレ」を嫌う者はいた。勃興期のイギリス近代リアリズム小説を論じた同時代の文献の一つとして有名な匿名パンフレット『フィールディング氏が打ち立てた新種の文芸についての論考』(An Essay on the New Species of Writing Founded by Mr. Fielding, 1751)の著者は、何度も「ネタバレ」を繰り返す『シャーロット・サマーズ』の作者を執拗に攻撃している。(5)この著者にとっては、そもそも『シャーロット・サマーズの物語、幸運な教区孤児』というタイトルが、「幸運な」(fortunate)という語を含むことであらかじめハッピーエンディングを予想させるのが気に食わない(Essay 24–25)。章タイトルが内容を明かしすぎなのも興ざめだ。ある章のタイトルは「サマーズ嬢に対する政治家の悪巧みの第2部を収める。彼女は債務者留置所に送られるが、幸運にも政治家の企ては頓挫し、彼の手先は狼狽する」(History 2: 257; bk. 4, ch. 8)となっており、パンフレットの著者はこうした「ネタバレ」に怒りを隠せない。
第4部第8章はおそらく物語全体の中で最も興味深い章の一つであり、多くの読者の涙を誘ったはずだ。私自身も「人間性のミルク」を豊富に持ち合わせていることを認めて恥じない人間なので、本来なら不幸なサマーズ嬢が巻き込まれる試練を、はらはらしながら見守っていたことだろう。しかし残念なことに作者は、私がこれらの辛い場面を読む前から、一時的な苦しみを与えられる彼女が、ページを3枚もめくらないうちに確実に救われることを請け合ってしまっているのだ。白状するが、私は作者に対して猛烈に腹が立った。彼が私からこうした甘美な悲しみを奪ったからだ。(Essay 25–26
なにやら『シャーロット・サマーズ』のテキストにあらかじめ書き込まれた、素直で愛すべき読者たちを思わせる意見である。おそらくこのパンフレットの著者は、作者がいくつかの章タイトルに込めた皮肉に気づきはしないだろう。たとえば最終章のタイトルはこうなっている。「ほとんど誰にも予想し得ない内容を収める。すなわちサマーズ嬢がいかにして、美徳を守るための数々の奮闘の果てに、ついに大っぴらに男とベッドを共にするに至ったかの描写である」(History 2: 313; bk. 4, ch. 11)。この作品は、作者も読者も先が読める展開に安心して乗っかって進みながら、予定調和から時おり逸脱する語りのいたずらやリアルな心理描写を楽しむための小説なのだ。
 紋切型の展開に陥ることを物ともしないこの小説にふさわしく、シャーロットが出奔して以降の挿話の内容は、基本的に以下のようなプロットが何度もループしているだけだ。
〈放浪するシャーロットが一群の人々に出会う〉→〈圧倒的に美しい容姿を持つシャーロットにグループ内の女性も男性も魅了され、彼女を歓迎する〉→〈グループ内の男性の一人がシャーロットとの性交を望む〉→〈シャーロットがそれを拒絶する〉→〈グループ内の女性たちがシャーロットを虐待する〉→〈シャーロットは逃亡するか救出されてグループを離れる〉
 シャーロットの出奔のきっかけとなるレディ・バウンティフルの屋敷での三角関係の挿話も、実はこの繰り返される基本プロットの変奏にほかならない。他の挿話との違いは、サー・トマスに対してはシャーロット自身が結婚を望んでいることである。シャーロットがサー・トマスとの結婚を承諾すればそこで物語が終わってしまうため、ループするプロットを駆動させるためには、シャーロットがサー・トマスと結婚できない理由と、望まれない求婚者であるクロフツを登場させることが必要になるのだ。
 同じプロットが何度も繰り返される展開にもかかわらず読者を飽きさせないのは、近代リアリズム小説の面目躍如たる、映画的と言ってもいいほど真に迫った場面描写や心理描写のおかげでもある。一例として、クロフツがメイドの手引きでシャーロットの寝室に忍び込み、彼女をレイプしようとする場面を見てみよう。
愛に取り憑かれたクロフツは、獲物の全身を見て取ることができました。ベッドの脇の方に顔を向けて横たわる彼女は、片手の上に頭をもたせかけ、胸をはだけて、掛け布団をお腹のあたりまで降ろしています。彼が目にした魔法のように美しい姿態は、隠者の胸にすら欲望の火をともすのに十分だったでしょう。屋敷の中は静まり返り、あたり一面を沈黙が覆っていました。自分の血が脈打つごとに、今こそ絶好の機会だと思い知らされます。しかし美徳と無垢を体現した彼女の姿には、何か近寄りがたい威厳があって、彼の気力は萎え始めるのでした。しかもこの企てのおぞましさがあまりに鮮明に頭に浮かぶので、彼はしばらく何もできないまま、目論見を実行せずにこのまま引き下がろうかと思いました。ところが、まだ掛け布団に覆われている美しい体を見てみたいという愚かな好奇心に駆られた彼は、その程度なら美女を目覚めさせはしないだろうと判断しました。彼はベッドの脇に近づき、雪のように白い乳房にキスをしました。すると裏切り者の手が、さらにけしからぬ振る舞いを始めたのです。うっとりするほど美しい体に触れた途端、彼の中の燃えやすい部分が一気に燃え上がり、わずかに残っていた彼の美徳も、彼女の無垢さへの畏れも、この行為を卑しく思う気持ちも消え去ってしまいました。彼はそっとベッドの上に乗ると、片手を彼女の頭の下に滑り込ませ、彼女がもがいた時に押さえつけやすい体勢を取りました。その時、眠っていた無垢な娘が目を覚ましたのです。彼女は凄まじい悲鳴を上げると、強姦魔の腕を素早く振りほどき、ベッドの反対側へ飛びのきました。「何てこと! ああ神様、お守りください! いったい誰です、こんな無礼なことをするのは!」(History 1: 249–50; bk. 2, ch. 3
 この場面のリアルな描写は、『トム・ジョーンズ』において主人公トムの恋人ソフィア・ウェスタン(Sophia Western)が貴族の青年にレイプされかける場面さえドタバタ喜劇になってしまうのとは大違いだ(フィールディング 4: 23–24; Fielding; bk. 15, ch. 5)。『シャーロット・サマーズ』に何度か現れるポルノグラフィーまがいのレイプ未遂場面は、むしろリチャードソンの『パミラ』を思わせる。比較のために『パミラ』から、主人公である若い召使いの娘パミラ(Pamela)が、家政婦長のジャーヴィス(Mrs. Jervis)と共同の寝室で眠ろうとしている時、クローゼットに忍び込んでいた屋敷の若主人にレイプされそうになる場面を引用してみる。
「しっ! ジャーヴィスさん、クローゼットの中で何か音がしませんでしたか」ジャーヴィスさんは、「いいや、ヘンな子だね! いつもビクビクしたりして!」「いえ、でも、何かカサカサという音が聞こえました!――」と私。「ネコでもいるんじゃないかい、私には聞こえないよ」とジャーヴィスさん。
 私は口をつぐみましたが、ジャーヴィスさんは、「もう早く寝ましょう。ドアが閉まっているかどうか見ておくれ」とおっしゃるので、私は戸締まりを確認し、クローゼットの中も見てみようと思いましたが、それ以上何も音は聞こえないし、必要ないかと思って寝床に戻り、その端に腰掛けて服を脱ぎ始めました。[…]。コルセットをはずし、ストッキングとガウンを脱ぎ、下着だけになってみると、またカサカサとクローゼットで音がする。私は、「神様、お守りください! でもお祈りする前にクローゼットの中を見てみなくては」と言ってはだしのままそこへ行ってみると、ああおぞましいこと! 銀糸の刺繍をほどこした豪勢な絹の化粧着姿のご主人様が中から飛び出してきたのです。
 私は悲鳴を上げて寝床のほうへ。ジャーヴィスさんも悲鳴を上げると、あの人は、騒がなければ何もしない、だが騒いだら、どうなっても知らないぞ、ですって。[…]。気づくと、彼の手が私の胸をまさぐっている。怯えながらもそれに気づくと、もう私は死にそうになり、ため息をついて叫び声をあげ、そうして気を失いました。(リチャードソン; Richardson 62–63)
 パミラの若主人が服を脱ぐ彼女をクローゼットの中からじっと見つめているように、『シャーロット・サマーズ』ではクロフツ青年が、さらにその背後では透明になる帽子をかぶった作者が、シャーロットの寝姿を凝視しているのだ。
 『シャーロット・サマーズ』の近代リアリズム小説的な心理描写を、もう少し追ってみよう。クロフツ青年はレイプ未遂事件後もシャーロットの住む屋敷に滞在し続け、サー・トマスとクロフツの二人から同時に欲望されるシャーロットは悪夢にうなされる。彼女の悪夢の描写は、現代の読者にフロイト的な解釈を促さずにはおかない。
彼女は自分が恐ろしい岩だらけの崖のふちにいるのに気づきました。崖以外の周囲は茨に取り巻かれています。崖の下には、千尋の谷の底に不気味な湖が見えます。彼女は凄まじい断崖絶壁の先端に立ち、ハリケーンのように吹き荒ぶ風にあおられているので、いつ真っ逆さまに転げ落ちてもおかしくありません。足元の地面は崩れかかっています。つかまれそうな物は、とげだらけの茨しかありません。茨をつかもうとするたびに、とげが手のひらを引き裂きます。その耐え難い苦しみも、恐ろしい崖から落ちるよりはましなので、彼女は茨をしっかりつかもうとします。そんな悲惨な状況で数分間格闘を続けていると、さらに悪いことに、クロフツ氏とサー・トマスが彼女のほうに駆け寄ってくるのが見えました。二人とも抜き身の剣を振りかざしており、二人の表情や動きから察するに、その剣を彼女の胸にぐさりと突き刺すつもりのようです。彼女はいつ刺し殺されるかも知れず、避けようとすれば、崖下の深淵に転落せざるを得ません。その時、誰かが叫ぶ声が聞こえました。逃げろ、逃げろ、サマーズ嬢、でないとお前は終わりだ。(History 2: 34–35; bk. 3, ch. 3
シャーロットの悲鳴を聞いて駆けつけ、彼女から悪夢の話を聞いた侍女のマージャリーは、現代読者によるフロイト的解釈の妥当さを支持するかのように、振りかざされた剣はペニスの象徴だとほのめかす。「なんだ、そんなことですか。私はてっきりお二人のどちらかが、剣だか他の何だかでお嬢様を突き刺しにきたかと思いましたよ」(History 2: 36; bk. 3, ch. 3
 作品全体を通じて、主人公シャーロットは男性たちの支配欲や女性たちの私利私欲に翻弄される弱い存在である。事態を打開するために自ら行動する自由は、基本的に与えられていない。自らの意志で屋敷を出奔する場面を除けば、彼女は不幸になる時も幸福になる時も、他人の意志に従わされるばかりである。
 英文学研究者のサイモン・ディッキー(Simon Dickie)は、この時代のイギリスで流行した、放浪する悪党が経験する滑稽な出来事を下品かつ陽気に語る小説のサブジャンルを「ランブル・ノヴェル」(ramble novels)と呼び、女性を主人公としたランブル・ノヴェルの例として、娼婦や女優の伝記という設定で書かれた小説群とともに、なんと『シャーロット・サマーズ』の名を挙げている(Dickie 104–05)。しかし、もっぱら他人の意志に翻弄される『シャーロット・サマーズ』の主人公には、ディッキーが紹介している他の女性版ランブル・ノヴェルのような、馬車の御者と喧嘩した娼婦が、御者の鬘を奪うとその中に放尿し、その鬘を御者の顔に叩きつける――といった下品で陽気なヴァイタリティは微塵も感じられない。主人公が自らの意志で行動できる可能性をほぼ奪われているこの小説を、ランブル・ノヴェルとして捉えるのには無理があるだろう。
 むしろ『シャーロット・サマーズ』は、やはりこの時代に流行していた「モノ語り」(it-narratives)と呼ばれる小説のサブジャンルを思わせる。これは人間以外の動物や衣服・文房具・金銭・乗り物などを主人公として、モノの視点から眺めた都市の人間たちの生活を諷刺的に描く小説群である。私は以前、モノ語りについての先行研究の議論を以下のように要約したことがある。「18世紀イギリスのモノ語りの中では、(1)モノの力によって階層を超えて流動するヒト、(2)高級品から廃棄物へと徐々に価値を下落させながら流動するモノ、(3)ヒトとモノに流動性を与えるために流動するカネ、という三者が動き回っている。ヒトはみな、社会階層の一員であることによってのみ存在意義を規定される、無個性な存在である。モノやカネは都市の内部を嬉々としてさまよい、その過程で、ヒトどうしの関係の裏に働く搾取・暴力・破壊といった、都市のメカニズムの暗部を目撃する」(内田,「モノが語る」22)。
 高級品だった外套がさまざまな男たちに着られるうちに老朽化して最後はゴミになる『黒外套の冒険』(1760)において、外套の生涯と娼婦の生涯が並行して語られるように、モノ語りの主人公である老朽化していく商品たちは、人間でありながらあたかも商品であるかのように取引され、誰かの所有物としての地位に甘んじる運命にあった当時の女性たちの象徴として使われることもある。
 そうした事情を踏まえて『シャーロット・サマーズ』を読むと、この小説が、倒錯した表現だが「人間を主人公としたモノ語り」のように思えてしまうのだ。圧倒的な美貌によってさまざまな人々から可愛がられたり欲望されたりしながらウェールズからロンドンへと遍歴するシャーロットの物語には、可愛い愛玩犬がロンドンのさまざまな階層の人々の間で取引されて遍歴しながら、時には虐待されたり食べられそうになったりといった試練を経験する『チビ犬ポンピー物語』(The History of Pompey the Little: or, the Life and Adventures of a Lap-Dog, 1751)に近いものがある。特にロンドンに出てきたシャーロットを待ち受ける、彼女を騙して搾取しようとする悪人たちは、モノ語りに頻出する典型的な都会の悪人に近い描かれ方をしている。
 しかしシャーロットが外套や愛玩犬と決定的に違うのは、たとえ行動の自由を与えられていなくても、自分の思いを発言する自由は与えられているところだ。庇護者レディ・バウンティフルから、自分をレイプしようとしたクロフツと結婚するよう迫られたシャーロットは、自らの尊厳を守るために、敢えて庇護者に口答えするだけの勇気を持っている。
サマーズ嬢は少し気色ばんで言い返しました。「それではもし悪人が私の尊厳を奪おうとしたら、私は悪意に満ちた詮索好きな世間の気まぐれを満足させるために、将来の安らかな暮らしを犠牲として凌辱者に捧げ、彼の邪悪な目論見への褒美として、私自身を与えなければならないのですね。レディ・バウンティフル、私には、美徳や名声を保つためにそんな屈辱が必要だなんて思えません。私がまるで卑しい身分の娼婦であるかのように馴れ馴れしく近づいてくる男性のことなど、軽蔑すべきだと思っています。自分の心を満足させたいという気持ちだけではありません。宗教も常識も、私が嘘偽りのない本物の愛情を感じることのできない男性と結婚することを禁じています」(History 1: 292–93; bk. 2, ch. 6
 生活を安定させるために愛していない相手と結婚すべきか否かというテーマは、出奔後に身元を隠してロンドンで暮らし始めたシャーロットが、年収2000ポンドの裕福な青年プライス大尉にしつこく求愛される場面で再び取り上げられる。果たしてシャーロットがプライス大尉と結婚すべきかどうか、作者は読者たちと論争を始め(History 2: 211–12; bk. 4, ch. 4)、サー・トマスへの愛とプライス大尉の約束する経済的安定との間で迷うシャーロット自身は、以下のように独白する。
「あの方[サー・トマス]が私を真剣に思ってくれているかどうかなんて、もうどうでもいい。あの方を愛するわけにはいかないんだもの。でも駄目。駄目。軽率なあの方の情熱が、私をこんな危険にさらすことになったのだけれど、私の心はあの方の愛しい思い出でいっぱいで、他の男性のことなんて考えられない。でももう、あの方を望んでも無駄。あの方の愛を受け入れるようなことは決してしないと約束したんだから。義務と美徳が、あの約束を堅く守れと命じている。それならなぜ、他の男性からの道理にかなった求婚に応じてはいけないの? もしも大尉が私のことをそんな風にお考えになっているなら、彼の求愛に応じないなんて頭がおかしいと、世間の人は思うだろう。相談できる人は誰もいない。誰かに相談してみたところで、こんな有り難い申し出を受けるのをためらうなんておかしいと言うだろう。でも私には大尉を愛せない。愛していない人と結婚すべきだろうか? 世間を満足させるために、あるいはくだらない派手な暮らしを手に入れるために、自分を惨めにすべきなんだろうか? いいえ、それは駄目。そんなのは合法的な売春にすぎない」(History 2: 219–20; bk. 4, ch. 5
結局この迷いは、プライス大尉によるシャーロットのレイプ未遂事件によって解消することになる。
 別の下宿に移り、上品な服地屋の女性の店で仕事を手伝うようになったシャーロットは、彼女から宮廷にも出入りしている高齢の政治家を紹介され、この老人の屋敷に奉公させてもらうことになる。もちろんここまで何度もループするプロットに付き合ってきた読者にとって、この政治家が若く美しいサリー・ディケンズ(シャーロットのロンドンでの偽名)に対して何を求めているかは明らかだ。たいていの読者の予想通り、老政治家の屋敷を訪れたシャーロットが部屋で彼と二人きりになると、高貴な老人の態度は一変する。
「お前は男たちを十分に遠ざけておかなければいけないよ。ありのままのお前は、奴らよりずっと優れた人間なんだからね。男に体を触らせたりキスさせたりするんじゃないぞ。そんなことを自由にさせれば、男はお前に敬意を払わなくなって、お前の威信は崩れてしまうし、お前の美徳もいつの間にか損なわれてしまうんだ」老人は自分の椅子を彼女の近くに引き寄せました。「サリーや、お前がこの可愛らしい手を男に握らせたなんてことを聞いたら、私は悲しくなるだろうよ。お前の手は私だけのものにしてくれ」彼は皺だらけの両手で彼女の手を握りました。彼女はこれから何が起きるのか分からず、ただ老人を見つめていました。「私の愛しい、愛しいサリー・ディケンズ……。この可愛い瞳が見つめていいのは私だけだ。それに(乳房のあたりを指で軽くつつきながら)ドキドキ鳴っているこの可愛らしい胸も、お前の父さん以外に触らせちゃだめだよ。それからこの、可愛いあんよも(屈みこんで彼女の片足に触れながら)、みんな私の家財道具だ。他の誰のものでもない。そうだね? 私の可愛いディケンズ。まったくその通りなんだ。それから足の上のこのあたりも(淫らな両手をペチコートの中に滑り込ませ)、私がすべてを触り、見て、そして――」老人はあまりに素早くしゃべり、動いたので、頭の中が真っ白になった美しい娘は何もできません。老人が猿のように卑しい行為を続け、膝の奥の靴下留めにまで手を伸ばした時、ようやく彼女は衝撃から我に返りました。彼女は椅子から立ち上がると、老いた好色漢を突き飛ばします。老人は仰向けに倒れ、暖炉の炉格子に激しく頭をぶつけました。(History 2: 249–50; bk. 4, ch. 7
父親のように尊敬していた老政治家から、かくも露骨なセクシャル・ハラスメントを受けたシャーロットは、衝撃を受けて老政治家の屋敷を飛び出すと、下宿の部屋に引きこもり、自分が男たちにとって魅力的な女であるがゆえに男たちから受け続けなければならない暴力の理不尽さを嘆く。
ドアを開けたメイド以外は一家の誰にも会わず、彼女はそのまま上の階にある自分の部屋にこもると、こらえきれない悲しみに打ち崩れ、滂沱の涙を流しつつ、張り裂けそうな胸を振り絞ってこう嘆くのでした。「ああ神様、どうして私の容姿は、見る人々すべてにこれほど下劣な欲望を掻き立ててしまうのでしょう? 私の何気ない身のこなしが、地位も年齢も気質も関係なくあらゆる男性をそそのかして、卑劣な行動に向かわせるのでしょうか? これほどまでに殿方の厭うべき情熱に苦しめられるのが、もしも私のせいなら、どうか私を憐れんでくれる天使を遣わして、私が少しでも安らぎを得られるように、のどかで純潔な生活を送れるように、私の悪いところを直してください。そうでなければいっそ私を、どこか人里離れた荒地に連れていってください。そうすれば私は、人を騙して陥れる偽の友人たちの罠にかかることもなく、人間の姿をした怪物たちの暴力に屈することもなく、これほどの悪に染まっていない蛮人たちの間で、清らかな生活を送れることでしょう」(History 2: 253–54; bk. 4, ch. 7
 政治家の妾になることを断り、奉公の当てもないまま貧窮して借金が払えなくなったシャーロットに対し、優しかった下宿の女将や服地屋の女は態度を一変させる。ついに債務者留置所に入れられたシャーロットの前に服地屋の女が現われ、老政治家からの手紙を渡す。シャーロットが自分の妾になるならすぐに釈放してやろうという内容だった。自己の尊厳を商品のように取引することを迫られたシャーロットは、自らの弱い立場を顧みず、猛烈に反撃する。
この手紙を読み、サマーズ嬢の瞳は怒りでぎらりと光りました。これまで夢にも思わなかった事実に、たった今気づいたのです。服地屋の女とマッシー夫人[Mrs. Massey, 下宿の女将]は、この手紙を書いた邪悪な老人の手先なのでした。彼女たちがあれほど気前よく親しく交際してくれた理由も、今なぜこれほどひどく迫害するのかも、これで明らかです。彼女は手紙を怒りに任せて――夫人[服地屋の女]に投げつけました。「これがあなたの仲介の結果ですか! これが私が釈放される条件だと言うのですね。あなたは女性の恥、慎み深さへの面汚しです! 恥ずかしくないですか、この何年も邪悪な行為を仲介して、美徳と無垢を破滅させてきたなんて! あなたを雇った老いた化け物のところへ行って伝えなさい。私は彼の卑しい申し出を、心の底から軽蔑します。私の美徳は、彼のような卑劣漢に誘惑されたくらいではぐらつきません。私がなぜ辛い目に遭わなければならないのか、理由が分かったのはいいことです。あなたのような性根の腐った女性には、たとえあなたを雇った悪魔の呪いの力を借りたところで、到底私を苦しめることなどできません。あなたが与える試練など、私は陽気に耐えてみせましょう。それは私の無垢を守ることになり、喜びを与えてくれるのですから。逆にあなたのように神を畏れぬ哀れな人間こそが、終わりのない苦悩と後悔にさらされるのです」(History 2: 276–77; bk. 4, ch. 8
老政治家の手先となった女性たちによる陰湿ないじめの描写を長々と読んできた当時の読者は、ここで大いに溜飲を下げたことだろう。幸いシャーロットにとってこの対決が最後の闘いとなり、投獄寸前に救われた彼女は、あとはあらかじめ用意されたハッピーエンディングに向かって一直線に突き進むことになる。
 経済力に物を言わせて彼女を自分の所有物にしようと目論む男性たちの理不尽な支配欲に徹底的に抗い、本当に愛することのできる相手と結婚するシャーロットは、当時の女性読者にとって憧れのヒロインになり得たのではないだろうか。この小説が国境をまたいでヨーロッパ諸国で人気を得た秘密は、そこにあるのかもしれない。
 『シャーロット・サマーズ』を含めた、マリヴォーの『マリヤンヌの生涯』の影響下にある孤児小説というサブジャンルは、18世紀後半のイギリスでは、フランシス・バーニー(Frances Burney, 1752–1840)の『イヴリーナ』(Evelina; or The History of a Young Lady’s Entrance into the World, 1778)などの作品群に受け継がれていくことになるだろう。本稿では主にメタフィクション的な語りの技法に着目して、『シャーロット・サマーズ』を『トム・ジョーンズ』と『トリストラム・シャンディ』をつなぐ小説として捉えているが、語られた物語のテーマに着目すれば、『シャーロット・サマーズ』を『パミラ』と『イヴリーナ』をつなぐ小説として捉えることもできるかもしれない。

5.『シャーロット・サマーズ』は『トリストラム・シャンディ』の先行作品か

 
 今世紀に入ってからのスターン研究は、その代表作『トリストラム・シャンディ』の出現を、同時代の流行小説の文脈に位置づける傾向が強い。英文学研究者のアレックス・ウェットモア(Alex Wetmore)が簡潔に要約しているように(Wetmore 4–6)、2002年のトマス・キーマーによるスターン論(Keymer)がきっかけとなり、『シャーロット・サマーズ』をはじめとする1750年代小説が備えていた『トリストラム・シャンディ』に通じるメタフィクション性が見直されるようになった。先述したクリスティーナ・ラプトンによる「わけ知り顔の本」(knowing books)という概念も、こうした動きの一環として提唱されたものである。
 英文学研究者のスコット・ブラック(Scott Black)は、昨今のスターン研究者が『トリストラム・シャンディ』への同時代小説の影響を重視しすぎる傾向を批判している。「もしもスターンが、セルバンテスから18世紀人が学んだのと同じことをしていたとするなら、スターン自身のセルバンテス的な遊びを説明するのに、スターンの隣人たちの実験を持ち出す必要はない。源泉から直接吸収できるものを、わざわざ時代精神から吸収する必要はないのだから」(Black 871)。ブラックによれば、そもそも「『トリストラム・シャンディ』は小説[novel]ではない」(869)という。小説ではないのだから、この作品を同時代の小説史の中に位置づける必要はないという趣旨である。世界文学史の中でも重要な小説の一つに数えられることの多い『トリストラム・シャンディ』が、小説でないとはいったいどういうことなのだろうか。
 英語圏における小説論は、「ノヴェル」(novel)という英単語が、広い意味では「散文による虚構作品としての小説全般」(prose fiction)を指し、狭い意味では「かつて18世紀にイギリスで勃興したとされていた近代リアリズム小説」を指してしまうために、英語圏以外の人間から見れば無駄としか思えない混乱をきたしている。場合によっては同じ文章の中で「ノヴェル」という単語が広い意味で使われたり狭い意味で使われたりするので、小説論の著者が「ノヴェル」という単語を使うたび、読者の側は、『トリストラム・シャンディ』における「鼻」という単語の曖昧な定義(vol. 3, ch. 31)を思わせる意味の迷宮に囚われてしまうのだ。
 同時代の市民社会に生きる個人の経験をリアルに描き出す小説という、狭い意味での「ノヴェル」の用法を定着させたのは、ダニエル・デフォー(Daniel Defoe, 1660?–1731)、サミュエル・リチャードソン、ヘンリー・フィールディングという3人の大作家の作品を通じてイギリスに「ノヴェル」が勃興したと主張する、イアン・ワット(Ian Watt)の著書『小説の勃興』(The Rise of the Novel, 1957)だった。刊行後半世紀以上を経た現在、ワットの狭苦しくて窮屈な「ノヴェル」観に対してはさまざまな批判がある。たとえば英文学研究者の伊藤誓は、ワットの説を「一九世紀以降に定型化した一部の小説から抽出された小説概念を鵺[ぬえ]のごとき一八世紀小説に押しつけるアナクロニズム」と一刀両断する(伊藤 9, 角括弧内は原文のルビ)。さらに伊藤は『小説の勃興』についてこう書いている。「もしこの本のタイトルが『イギリス近代リアリズム小説の勃興』であれば、筆者にとくに異論はない。ワットの小説の定義があまりにも狭いのが不満なのである。小説[ノヴェル]を、世界に先駆けて近代化したイギリスに固有のものとして考える姿勢に国粋的な匂いさえする」(伊藤 14, 角括弧内は原文のルビ)。
 語り手のトリストラム・シャンディという男が自分の半生を語ると宣言しつつ、「余計なこと」を語る脱線ばかりして一向に話が先に進まない『トリストラム・シャンディ』という作品は、明らかに「小説」ではあるが、市民社会をリアリズムの手法で描いた狭い意味での「ノヴェル」であるかどうかは議論の分かれるところである。英文学研究者のジャック・リンチ(Jack Lynch)は、英語圏の研究者たちが『トリストラム・シャンディ』を文学史にどう位置づけるかに苦労してきた歴史を語っているが、彼によればそうした困難の淵源は、クレアラ・リーヴ(Clara Reeve, 1729–1807)の小説論『ロマンスの進歩』(Progress of Romance, 1785)以来、従来の小説である「ロマンス」と、18世紀に普及した現代の市民の生活をリアルに描く小説である「ノヴェル」とが別のジャンルとして考えられるようになったことである(Lynch 372)。リンチによれば、「ロマンス」と「ノヴェル」を区別しない英語以外のヨーロッパ諸語を使う研究者にとっては、『トリストラム・シャンディ』の文学史的位置づけも英語圏ほど困難ではない(372)。そのせいか、スターンを研究した文献は他の18世紀イギリスの作家に比べて国際性が高く、近年のスターン研究文献のうち、日本語や韓国語も含めて英語以外の言語で書かれたものが4分の1から3分の1を占めるという(374)。
 『トリストラム・シャンディ』がノヴェルではないと言うスコット・ブラックが、この作品をどうジャンル分けしているかと言えば、セルバンテスに由来する喜劇的ロマンス(comic romance)に、18世紀イギリスの新しいジャンルである、架空のキャラクターが書いたという設定で発表されるエッセイを融合させたものということになる(Black 871)。当時の定期刊行物に掲載されたエッセイでは、筆者が実名ではなく架空のキャラクターを設定し、そのキャラクターが語るという形で文章を発表することが多い。『トリストラム・シャンディ』という作品を、作者スターンが演じる「トリストラム」というキャラクターが書いたエッセイと捉えるのは、確かに興味深い説である。ただしここで思い出すべきなのは、そもそも英語圏以外の人々が考える「小説」というジャンルは、セルバンテスの『ドン・キホーテ』のような喜劇的ロマンスも、架空キャラクターによるエッセイも、すべて取り込んでしまえるほど制約の少ないジャンルだということだ。「鵺のごとき一八世紀小説」(伊藤 9)とは言い得て妙である。喜劇的ロマンスと架空キャラクターによるエッセイを融合させた作品は、英語圏以外では躊躇なく「小説」として扱われるだろう。
 ブラック自身も、英語圏における「ノヴェル」という言葉の意味が狭すぎることに不満をもらしている。「もうそろそろノヴェルの物語を、近代や国境やリアリズムという制約を外して整理し直してもいいころだ」(Black 869)。『トリストラム・シャンディ』がノヴェルではないという主張から始まった、この作品の文学史的位置づけに関する彼の議論の結論は、ノヴェルが「近代リアリズム小説」という意味ならその流れと並行して、「小説全体」という意味ならその内部に、セルバンテスを引き継ぎ『トリストラム・シャンディ』に至る自己言及的なジャンルの文章が存在したことを認識すべきだというものだ(890)。
 その点はもっともな議論だが、一方で『トリストラム・シャンディ』に1750年代流行小説が影響した可能性を排除しようとするブラックの議論には、一つ大きな欠陥がある。『トリストラム・シャンディ』がノヴェルではないから同時代のノヴェルの影響など考慮しなくて良いとする主張は、『トリストラム・シャンディ』以外の当時の小説が狭い意味でのノヴェルでしかなかったという、誤った認識を前提にしているのだ。実際には、『トリストラム・シャンディ』が「近代リアリズム小説」という意味での純粋なノヴェルではないように、『シャーロット・サマーズ』をはじめとする1750年代の流行小説も、単純にノヴェルの要素だけで出来ているわけではない。『シャーロット・サマーズ』の語り手が読者と交流しながら「余計なこと」を語る部分には、『トリストラム・シャンディ』の場合と同じように、架空キャラクターによるエッセイの要素が少なからず混入しているだろう。
 確かに『トリストラム・シャンディ』の作品中では、『ドン・キホーテ』が何度も言及される一方で、同時代の流行小説への言及は一度もない。作者スターン自身は、下手に作中で安っぽい流行小説に言及して、自分の作品をそれらと同列に置きたくはなかっただろう。しかし『トリストラム・シャンディ』は、浮世を離れて感性のおもむくまま自由に創作を行なう作家によって制作された芸術作品などではなかった。有名になりたくて仕方がない田舎の無名作家によって書かれ、流行に左右されるロンドンの小説愛好家を主なターゲットとして売り出された商品だったのだ。作者スターンが、尊敬すべき手本としてではなく、取り入れられそうな要素を掠め取る材料として、当時の流行小説を参考にした可能性は否定できない。
 小説史の文脈で考えれば、フィールディングや1750年代流行小説を通じて、近代リアリズム小説としての狭い意味の「ノヴェル」に徐々に入り込んできた、セルバンテスなどの喜劇的ロマンス、『桶物語』などの諷刺作品、同時代の架空キャラクターによるエッセイといったジャンルの散文に由来する自己言及的な語り口を、小説作品の中に時折り混ぜ込むといった補助的な使い方ではなく、敢えて作品の中心に据え、〈語られるべき物語〉と〈物語が読者に語られる場〉との主従を逆転させたことこそが、『トリストラム・シャンディ』の革新性だったのだろう。語り手が語る話の中身ではなく、語り手と読者が語り合う現場の描写こそが面白いという感覚は、ちょっとしたゴシップをネタにしたツイッターでのやり取りで盛り上がれる、現代のわれわれの面白がり方の感覚に近いとも言える。そういう面白がり方を発見したことによって、『トリストラム・シャンディ』という小説は現代にも通用する古典となっているのだ。
 英文学研究者の武田将明は、その秀逸な『トリストラム・シャンディ』論の中でこう書いている。「文学史という物語の上で『トリストラム・シャンディ』は偶発的な現象であり、従って孤独である。ラブレーやバートン、スウィフトなど、遠くからスターンに作用する力はあったが、彼自身は直系の親も子も持たない」(武田 110)。現代の批評家に重要な作品として認定された正典だけを対象とする文学史の物語の中では、確かにその通りだろう。しかし同時に、現代の正典からこぼれ落ちた、当時のポップ・カルチャーである流行小説の分野では、自己言及的な語りの技法がすでに着々と醸成されていた。『トリストラム・シャンディ』の出現が文学史上の突然変異的な大事件であることに変わりはないが、直系の親を持たないその誕生を準備した生命スープとして、『シャーロット・サマーズ』をはじめとする自己言及的な小説群は作用していたのではないだろうか。武田によれば「十八世紀のキング・オヴ・ポップ」(79)であったスターンは、メタフィクション的な語り方を面白がるポップ・カルチャーの新たな趨勢に、敏感に反応したはずなのだ。
 『シャーロット・サマーズ』の文学的価値をあまり高く評価しないウェイン・C・ブースも、『トリストラム・シャンディ』と『シャーロット・サマーズ』、および同様にメタフィクション的な小説『グリーンランド大尉の冒険』(The Adventures of Captain Greenland, 1752)との関係についてはこう書いていた。
スターン自身が『グリーンランド大尉』を読んでいようといまいと、1750年代の滑稽小説において「介入する作者」が登場する作品が激増したことが、彼に影響を与えたのは疑いようもない。フィールディング以降のこうした作品群のうち、スターンが実際に知っていて参考にしたものがどれであるかを見極めるのはもはや不可能だが、少なくとも彼はこれらの作品のいくつかに遭遇しているはずだ。フィールディングから『シャーロット・サマーズ』や『グリーンランド大尉』(およびその他の多数の作品)を経て『トリストラム・シャンディ』に至る一連の流れは、偶然と言うにはあまりに継続性が高い。(Booth, “Self-Conscious” 184)
 ここまで述べてきたような事情を考慮すれば、私としてはスティーヴン・モアの次の言葉に大いに賛同せざるを得ない。「フィールディングの模倣者たちの中に紛れて忘れ去られてしまっているが、『シャーロット・サマーズ』には再発見されるだけの価値があるのだ」(Moore 762)。


(1) 本文中で “ESTC #” と記したのは、The English Short Title Catalogue Citation Number のことである。本稿執筆時(2015年11月)においては、The English Short Title Catalogue (ESTC) ウェブサイトのURL <http://estc.bl.uk/> にこの Citation Number を付加することで、その版の詳細な書誌情報を得ることができる。たとえば『シャーロット・サマーズ』初版(ESTC #: T66897)の書誌情報を得るためのURLは <http://estc.bl.uk/T66897> である。なお本稿では、包括的な18世紀英語・英国刊行物の有料データベースEighteenth Century Collections Online (ECCO) の無料トライアル期間中にダウンロードした初版のPDF版を用いたが、初版と同じ1750年に出たとされる第2版(ESTC #: N33064)については、Googleブックスで無料閲覧できる(第1巻:<http://books.google.com/books?id=0vRLAAAAcAAJ>, 第2巻:<http://books.google.com/books?id=7PRLAAAAcAAJ>)。なお、『シャーロット・サマーズ』が作者によって自費出版されたことは、タイトルページに“Printed for the AUTHOR; Sold by CORBETT, the Publisher [. . .]”と記載されていることから分かる。文献によっては書籍商のチャールズ・コーベット(Charles Corbett)を出版者としているものもあるが、タイトルページの記載を信じる限り、コーベットは版権を保持して出版経費を負担した出版者ではなく、販売のみを請け負った発売元である。
(2) 『シャーロット・サマーズ』初版の刊行年については1749年説と1750年説がある。The New Cambridge Bibliography of English Literature (NCBEL) では1749年に初版、1750年に第2版が刊行されたとしているが(Watson col. 996)、本稿では書評誌『マンスリー・レヴュー』1750年2月号が「今月の新刊」として紹介していることを考慮し、1750年刊行説を採る。なおNCBELはヘンリー・フィールディングの妹セアラ・フィールディング(Sarah Fielding, 1710–68)を『シャーロット・サマーズ』の作者としているが(Watson col. 147)、それを裏付ける証拠がないため、現在ほとんどの研究者は本作を「作者不詳」としている。
(3) 「参考資料」として日本語の訳書を挙げた文献を除き、英語文献からの引用はすべて私(内田)が翻訳したものであり、引用文の角括弧内は私による補足である。
(4) 『シャーロット・サマーズ』の原文では、登場人物や読者たちの台詞を表わす場合も引用符(“ ”)が使われないが、本稿では読みやすさを考え、台詞は原則としてすべて鍵括弧(「 」)に入れて訳している。
(5) この論考の著者は、同時代の小説『チビ犬ポンピー物語』(The History of Pompey the Little: or, the Life and Adventures of a Lap-Dog, 1751)の作者であったフランシス・コヴェントリー(Francis Coventry, 1725–54)とされることがある。しかし「小説と論考との質の差を考えると、この作者特定は疑わしい」(Battestin 53)という見解もあり、私にも『チビ犬ポンピー物語』のような傑作小説を書いたコヴェントリーが、このような稚拙な論考を書いたとは信じられない。なお『チビ犬ポンピー物語』の文学史的位置づけについては、拙論を参照のこと(内田,「愛玩犬」)。

参考資料



内田勝「『シャーロット・サマーズの物語』——『トム・ジョーンズ』と『トリストラム・シャンディ』とをつなぐ忘れられた小説」(2016)
〈https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/uchida/charlotte16.html〉
(c) Masaru Uchida 2016
ファイル公開日: 2016-2-4

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