前項でも述べたように,地域社会に見られる自然保護活動には,しばしば特定生物の保護や回復に関する活動が見られる.この活動には,キャンペーンにおけるシンボル化の問題とは別に,その自然保護活動の基本理念に関わる重大な問題を生じさせているように思う.ひとつは自然環境の人為的回復の限界に関する誤解であり,もうひとつは自然保護活動の究極的目的に関する問題である.
まず自然環境の人為的回復の限界について考えてみよう.自然保護活動では,しばしば,ある生物種の自然界への回復作業が行なわれる.例えば,かつては身近な自然に普通に見かけることができたのに,現在では稀となってしまった動物(しばしば昆虫類や魚類)や植物(しばしば美しい花木)を,自然界に戻す(放流や植栽)活動が行なわれる場合がある.これらの活動の多くは,参加者達の脳裏に焼きついているかつての故郷(地元)の情景を取り戻そうとする素朴な気持ちから企画されている場合が多い.しかしこれらの素朴な気持ちではじめた自然保護活動は,逆に無意識のうちに地域の自然破壊を促進してしまう可能性を含んでいる.
実際の活動では,かつての生物を回復するとは言っても,その地域で失われてしまった生物個体は,新たに他の個体で補充・代用するしかない.だから,消滅してしまった動物や植物の代用を業者から買い求めたり,他の地域に生き残っていた多数の個体の一部を採集してきて,移住・移植(導入)することが行なわれる.これは何でもない当たり前のことのようだが,実は,ここに自然を無意識にせよさらに破壊してしまう可能性が潜んでいる.
生物学的(遺伝学的)には,生物は生息する地域地域で異なっていることが知られている.したがって,たとえ同種と考えられている生物個体でも,新たに導入した個体が,消滅してしまった個体と遺伝学的に同じである可能性はほとんどない.つまり代用として導入された個体は,その場所で新たな(未知の)自然環境を生みだすこととなる.多くの場合は目に見えるような自然環境の変化は見られないが,導入された個体が,かつての個体と著しく異なるような場合,付近の近縁種の集団の遺伝的構成を変化させたりして(例えば自然界には存在していなかった雑種の形成),既存の生態系に大幅な変化が起こる可能性がある.
残念ながら生物学的に言えば,一度失われた自然状態を完全に元に戻すこと(回復)はできない.これは亡くなった人が2度と戻らないというのに近い意味で言うことができる.したがって無理に自然の回復を試みる活動の裏には,逆に既存の自然を破壊し,その生態系のバランスを崩す危険性があると言えるのである.このような生物学的な視点からすれば,充分な科学的検討なしに特定の生物種を自然界へ戻していく活動の実際の有効性と危険性は,自然保護・保全を模索する際に必ず検討されるべき課題であると考えられるであろう.
特定生物種を自然界へ戻すような活動のもうひとつの問題点は,自然保護活動の基本理念に関わるより重大な問題点かも知れない.それは自然環境の「回復」に重点が置かれ活動がなされる点に関係する.前述のとおり,残念ながら一度失われた自然は完全には元に戻せない.この視点に立てば,自然環境の「回復」活動において重要な本来の目的は,自然の「回復」や自然環境の「修復」ではなく,それらの「回復・修復」をしなければならない程,無謀に自然環境を改変してきたことへの反省であり,今後2度と同じ過ちを繰り返さないように参加者同士が確認しあうことであろう.
特に子供達が自然保護・保全活動に参加することを考えた場合,これらの自然環境「回復」活動の問題性はさらに明らかになる.なぜなら,未来ある子供達に残すべきことは回復の仕方や修復の仕方ではなく,我々が自然を破壊してきた様子を詳細に説明し,それを2度と繰り返さないようにする手法であるべきだからである.その点を充分に理解しておかないで,回復や修復活動に子供達を参加させることは,まるで我々大人達の環境破壊のツケを子供達に払わせているようなものである.この種の活動では,私達大人の自然環境に対する考えが足りなかったという反省点を,まず子供達に理解させる努力が求められるのではないだろうか.自然環境「回復」活動は,自然環境の改変に慎重に振る舞わなければならないことと同時に,一度失った自然環境は容易には元通りにならないことが理解できる機会になるべきである.重要なのは回復や修復ではなく,今後,大切な自然環境を失わないことなのだから.
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