「切りバラ生産」 

岐阜県の切りバラ生産の歴史
【戦前から戦後の黎明期】
 昭和5年(1930年)頃に岐阜市長良の安藤庄市氏、岐阜市則武の高橋大仁氏らによって、露地栽培で一季咲き品種(富士、赤城)が作付されたのが最初である。昭和26年(1951年)頃に岐阜市黒野の松井謙雄氏が木造ガラスハウスで切りバラを生産し始め、続いて岐阜市黒野の村瀬茂氏(1954年)、岐阜市網代の村瀬賛一氏(1955年)らが温室での切りバラ生産を開始し、全国的にも珍しい大面積の産地となった。当時の栽培品種は、ハッピネス、チガーヌ、マリー・ハント、ゴールデン・ラプチャー、ピース、天津乙女などであった。
 しかし、根頭がんしゅ病の多発が原因となり、栽培開始から10〜15年で生産を断念せざるを得なくなり、他作物に転換することとなった。

【発展期】
 昭和42年(1967年)に各務原市の宇野幸洋氏が野菜生産のビニルハウスにバラを栽培したのが、岐阜県における現在の本格的な切りバラ生産の最初となった。当初は、スーパースターをビニルハウス500uで栽培し、1972年にはガラス温室1000uでメヌエット、ゾリーナ、アーリンフランシス、スーパースターを生産し始めた。その後、昭和45年(1970年)に4名が野菜生産から切りバラ生産に転換し、順次生産者数が増加した。
 昭和52年(1977年)には神戸町バラ生産組合が設立され、8400uの切りバラ団地が建設され、1978年には巣南町新月に10000uの切りバラ団地が建設された。
 昭和61年(1986年)に岐阜県内の切りバラ生産者が一堂に集まり、「岐阜バラ会」が設立され、「第17回全国ばら切花協会総会及び研究大会」が岐阜市で開催されたことを契機に、全国の切りバラ主要産地として認められるようになった。また、平成元年(1989年)には高山地区でも切りバラ生産が開始され始めた。

岐阜バラ会
 昭和53年(1978年) 8月設立

岐阜バラ会会員数の変化

年次 会員数 年次 会員数 年次 会員数 年次 会員数
1978 11名 1981 17名 1983 18名 1985 26名
1991 31名 1993 37名 1996 39名 1997 40名