今日は、「あまり」の日の、2.29。「あまり」といっても、それはどうでも良い余計な、という意味ではなくて、世界のシステムがうまく長期間にわたって運用されていくために、必要欠くべからざる措置としての、「アソビ」の措置。この29日があることで、2月は特別な月なんですが、大学においても一番忙しい月。入試はあるわ、卒研発表はあるわ、修士の発表はあるわ、色んな締め切りの迫った書類がたまってくるわ、、、。
でも、今回はそれが日曜日と重なったので、得した気分になるか、または損した気分になるか。サッカーファンにとっては、大体土曜か日曜に試合があるのだけれど、U-23五輪代表の試合が月曜日にあることになっているのが、ちょっと損した気分、かな?まあ、しかし、損か得かは別にして、ほぼ4年に一度の閏の日に、色んな「余計な」思考をめぐらしてみるのもいいかも知れません。
そもそも、閏という漢字は、「あまり」という意味ですが、なんで門の中に王がいるんでしょう?漢和辞典によると、その月(閏月)は王様は門の外に出ないで内に籠っていたのだそうで、たぶん、対外的なことをする暇がないくらい内部の仕事が多かったのかもしれませんね。今も同じかも…。
あと、意外なことに、「日本において閏年の算定は、西暦ではなく皇紀によって行なうことが法令により定められている」なんだそうですよ。知る人ぞ知る、でしょうか。考えたくもないですが、因みに今年は「皇紀2664年」。しかし、そんな法令がいつまで続くのかねぇ、この21世紀に。4年に一度はこのことを考えることになる、誰かの深謀遠慮か。
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このごろは、アメリカでのBSEの話題が盛んになったかと思ったら、こんどは鳥インフルエンザの話題でもち切り。それらはバイオの話題であり、いやがおうでも社会問題化したバイオ問題に直面せざるを得ない状況です。人間の都合とはいえ、BSEでは何万頭の牛が処分されたとか、鳥インフルエンザではこれも何万羽が処分され、袋に押しこめられる鶏の姿がテレビに映し出されています。経済的には、これらインフルエンザウィルスに感染した鶏の血液から抗体を取り出し医療用に何か使い道を考える、などと悠長なことを考えるより、一挙に埋めてしまって殺してしまうほうが、割に合うのでしょうし、お付き合いをしている獣医さんや関係者への感染の危険を考えれば、しょうがないのでしょう。私のところの近所のスーパーでは、Mの卵1ケースが25円や13円などで安売りされているのですが、これだけ安く売っているのはそれだけ大量に扱い機械化されている養鶏場から来ていると想像します。まさに、大きな生き物を飼っているという感じではなく、工場でバクテリアを大量に培養しているような感じなのかもしれません。
昔、私が幼い子供のころ、福島の田舎では私の家もそうでしたが、庭に鳥小屋をつくってあり、そこで5〜6羽の鶏を飼っていて毎日産んだばかりの温かい卵をとってきたものでした。そして、ある程度年をとった鶏は、近所の鶏屋さんに頼んで一匹ずつ丁寧に首を切ってもらい、血も回収し、肉や内臓もすべて使ってご馳走を作っていたものでした。さっきまで元気に生きていた鶏が、目の前で首を切られ、数時間後にはこんなご馳走になって再び目の前に出てきているのを見て、子供心にも、大事に食べなくっちゃ、と思った記憶があります。気持ち悪くて食べられない、というような感情は無かったように思います。別にバアちゃんに「拝んで食べろよ」と言われなくても、オレらのために死んだんだから大事に食べる、という感情はごく自然に湧いていたものと思います。動物愛護とか生命倫理を考える、とか、ちと高尚なことを考えるようになるずっと以前の、ごく原初的な感情が幼心にもあったのだろうと思います。
しかし、最近では、普通の家で食用の鶏を飼っているようなところは、相当の田舎に行かない限りみられないでしょうし、一部の小学校などでペットとして飼っている例はよく聞きますが、これはあくまで卵を産めるペットとしての存在なのでしょう。おそらくそこでは、人間が生きるために食用として犠牲になる動物の存在を、生から死(自然死ではなく肉を取るための屠殺)まで見せるようなことは無いでしょう。あくまで、ペットですから。
聞いた話ですが最近は、獣医さんになろうと獣医学科に入ってくる学生さんでも、動物実験でラットなどを処分するときすごく嫌がる人が出てきているようですね。動物を生かすために入学したのに、なぜ動物を殺すんだ、と。恐らく彼らは、皆が日頃食べている牛肉、豚肉、鶏肉、などがどういう風に動物個体が処分され食として供されるようになっているのか、想像できないのではないでしょうか。また、そういう食用の動物たちに対する原初的な感謝の気持ちが、湧くことがなくなっているのかもしれません。もしかしたら、お菓子工場でお菓子がどんどんできてくるように、ラップに包まれた食肉が工場でどんどん作られるというような感覚で対していて、生き物が屠殺されたあと食肉に加工されることを忘れてしまっているのかも。多くの生き物の死の上に人間の生があることも。
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ごく原初的なそれら食用動物に対する感謝の気持ちが、多くの人々の心にあり、決して「あまり」あるいは「付けたし」のような感覚でそれらの動物を見るのではなく、人間の生のシステムにとって欠くべからざる部分としての気持ちがあれば、それは人間の際限の無い食への欲望への歯止めにもなるし、こんなに原因と感染機構が分からない新興感染症に怯えることも無かったのかもしれません。
こんなことを「あまり」の日に感じました。
(2004.2.29)