梅雨の合間

 台風の影響もあってか、暑さと酷い湿気で身体のほうが対応に苦労していますが、それでもたまにある梅雨の合間の清清しい朝には救われます。むしろ、このような鬱陶しい季節には、菖蒲とかアジサイとか蛍とか、何か清清しさを感じるものに普通以上に敏感になっているのかもしれません。これは、対象が発する情報は同じでも、受信する側が環境に刺激されて感度が上がっていると普段よりも強化された信号情報となって入ってくる、などという仕掛けがあるからなのかもしれません。

 先日、サラマンカホールでキャスリーン・バトルKathleen Battle)の歌を聴きました。あの15年以上前にテレビやCDで聴いた清清しい歌声は、それ以上に生のバトルを目の前で見ながらの歌だったので、変わっていないどころか圧倒的な感動を持って自分の身体に入ってきたのを感じました。この日は真夏日で蒸し暑く、夕方には日が翳っていくらかは良くなったのですが、コンサートの前に入ったレストランでは近くの席で赤ん坊連れの家族がいて、その赤ん坊が甲高い声でぎゃーぎゃーとわめいていて、鬱陶しさの極み、という感じだったので、その30分ぐらい後に聴いたバトルの歌声はより敏感になった聴覚系という受信機に捉えられ、より大きな感動をもたらしたのかも知れません。

 それにしても、あのバトルの歌声はなんという細やかさなのでしょうか!「細胞が歌っている」と感じてしまいました。普通は、声帯という器官を使って「器官が歌う」という印象なのですが、それにCDで聴く音では欠損してしまう細やかな歌の「襞」が「観えてしまう」という印象なのです。その細やかな襞は、まさに細胞一つ一つが歌うことによってできているという感じなのでした。彼女の魅力は、圧倒的な声量による迫力よりも、その歌の表現の細やかさにある、と感じてはいましたが、生で聴くとやはりその感じは正しいと感じました。この日は、満席の会場からの声援も大きく、アンコールを5曲も披露してくれて、大満足でした。2週間ほど前に東京で聴いたという人の話では、アンコールは4曲だったということですから、大サービスだったようです。

 Battleは、今年55歳。貫禄も出てきました。しかし、その愛くるしい愛嬌のある笑顔や表情は素敵でした。体つきはジェシー・ノーマンに近くなったかな、とは思いましたが、バトルはバトル。それにしても、何で名前が「戦い」のバトルなのかな?この人のご先祖様は「戦い」が好きだったのだろうか?最近、現生人類の祖先の頭蓋骨の15万年ぐらい前の化石が見つかったと報道されていましたが、その共通の祖先たる「イブ」様は、どんな歌声を持っていたのだろうか?今は、CDのような歌声の「化石」を残せるので、15万年後の地球上の「知的」生物はそれを再生して聴いたらどんな感じを持つだろうか?・・・などと、あらぬ想像をしてしまいました。



 今、サッカーでは、コンフェデ杯が真っ最中で、若干寝不足ぎみではありますが、昨年までのトルシェ指揮の下の戦い方と、ジーコ指揮の戦い方の違いを見ると、とっても面白いものがありますね。選手はそれでも昨年までのメンバーが大半は残っているので、もし、コンフェデでの成績が以前よりも落ちれば、指揮のやり方が合わなかったと監督が批判されるか、よそのチームが相対的に強くなった、と日本のレベルの低下を嘆くか、しかありませんね。(あ〜あ、落ちちゃったね・・・)
 それにしても、たかが(されど)サッカーというスポーツで、一人の選手に数十億円という金が動く市場は、理系の研究開発市場の目から見ると異常としか思えませんが、選手寿命は短いのでそれくらいがいいのかも。もし物作り分野での技術者の市場というのがあって数億円ぐらいで引き抜き競争があるような状態だったら、この技術者になりたいという子供が増えてくるのでしょうけどね。最近の新聞で、子供の将来なりたい職業として学者というのが
1位になったというような記事がありましたが、その夢が現実になるにはもっと研究者・技術者を尊敬を持ってみれる社会的基盤が無いといけませんね。哲学も何も無くて、ただ学者に金儲けをけしかける様な社会では、子供をがっかりさせるだけでしょう。

 

(2003/06/22)