梅雨時のゆううつ

 6月の半ばになると、教室に配属になった卒研生もおおかた進路が決まってきて、さあ卒業研究、となる時期である。新入生にとっても、新しい学年の授業を 受け始めた学生にとっても、15回の授業のうち、おおよそ半分くらいを消化して、山登りの如く、来し方を振り返りまだまだの頂上を仰ぎ見るために腰を伸ば す 時期である。
 今受け持っている2年生や3年生に対しても、30分の小テストなどを施し理解の程度を確認する作業を行う時期でもある。その小テスト、今年は今までと 違って、プリントや教科書や何を見ても良い、ということで行ってみたのだが、「この逆行列を求めよ」といった直接的に解かせるような問題はよく出来るの に、ちょっと考えさせる問題だと、できないなぁ。ほんの初歩的な問題でも2〜3割の学生には、まだ理解が困難と見える。あの授業中、学生はよく静かに 聞いていたように思ったのだが、いったい何を観ていたのか、何を聴いていたのか、心は遠くに行ってしまっていたのではないか?例年そうなのだが、授業する ほうが憂うつになる時期でもある。(「ゆううつ」と平仮名のほうがよ り憂鬱度があがるように思えるのは、なぜだろうか。)
 先日、楽団員の誘いで、大学管弦楽団のサマーコンサートがサラマン カホールで催されたので、聴きに行ってきた。楽団員には1年生も多くいて、まったくの初 心者も多いに違いない。そういう楽団員をまとめ上げる指揮者や指導者は大変だろうなぁ、と聴きながら思いを馳せる。ある意味、楽団員にとっては小テストな んだろうなぁ。今までサラマンカでは、ベルリン放送管 弦楽団とか新日本フィルなど一流どころを聴かせてもらってきたせいか、どこが一流と未熟な楽団と違うかは、一目瞭然というか一聴瞭然であったが、それは しょうがない。音が揃っていなくて、聴くものを不安にさせる、というのも、しょうがない。教育的配慮をすれば、未熟なものを大勢の人前に晒す、というの は、未熟なものをさらにレベルアップさせるために演奏者と聴衆が一緒になって協力する教 育の場であると、捉えたい。ただ、レベルアップさせるための方法と しては、本来はもっと、良い特徴を引き出し自信を持たせるための演奏曲目を選ぶべきじゃないか、と思ったが、粗の目立ちやすいものになってしまったよう で、 残念。サマーコンサートにしても、小テストにしても、チャレンジャブルな課題を出すのか、自信を持たせやすい課題を出すのか、悩むところではあろうが、蒸 し暑い梅雨時のゆううつと同じである。解の無い、繰り返される悩みである。

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 教育にしても、コンサートに向けた練習にしても、全体としてある一定のレベルに達するには、ほぼ全員が「腑に落ちる」瞬間を経験する必要があると思って いる。教わっている自分自身が「変わった」と分かる瞬間である。その瞬間を得るための時間は、人によって様々であろう。その瞬間とは、課題が、というか、 対象が、己自身に「働きかけた」ことを実感する瞬間でもある。普通は、自分自身が課題に取り組み、対象に働きかけるのであるが、逆に自分自 身が課題に よって「引っ張られ」変化することで、わかったという感覚、出来たという感覚にたどり着く。
 これと似たような感覚は、実験研究にもある。ある意外な実験結果が、ある「概念を語りかけてくる」ことがある。意外だがそうとしか思えない、という実験 結果が出てくることがある。そういう実験結果を得ることが、実験者冥利に尽きるところではある。昔の先生はそれを称して、「データをして語らしめよ」と 言ったものである。余計な先入観は、実験の邪魔になることがある。

 また、さらに領域は違うが似たようなことが、俳句にもあるようである。「寄物陳思」 という考え方である。俳句には「物に語らせる」という思想がある。そし て、それを17文字に凝縮する。

   光堂よりひとすぢの雪解水  (有馬朗人)
   五月雨の降りのこしてや光堂 (芭蕉)

 この有名な句では、作者の思いは直接には語られていない。しかし、その思いは、対象である「光堂」という物に託して、語られているのである。今のNHK 大河ドラマにも出てきたが、奥州藤原家の波乱の歴史に思いを寄せている作者と、光堂を表現した17文字と、それを詠んでいる(観ている)読者が、三位一体 となり、その思いが読者に深く入ってくることができる。作者の思いは直接語る必要は無いのである。物が語ってくれているではないか!
   芋の露連山影を正しうす (飯田蛇笏)
 これも小さな露が、作者の心情と宇宙とを語ってくれている、と思える、好きな句である。

 梅雨時ではあるが、まだ長雨の少ない、らしくない梅雨時ある。ただ、蒸し暑い。梅雨は、何を語ってくれるのか? 
    カツコツと 解きながら聞く 梅雨の音 ( 早斗)

(2005.06.19)