多様と集中
今年は日本人のノーベル賞受賞がなかったので、その報道もあっさりしたものでした。こんな去年とえらく違う対応はどうかとは思いますが、なかなか優勝できなかった阪神が優勝すると国民的行事になるのと同じで、その心情は、悲しいかな、理解できてしまいます。今年の医学生理学賞は、MRIの開発に貢献した2人が、また化学賞は、生体膜のチャンネル蛋白の研究に対してやはり2人が、受賞しています。どうも医学生理学賞と化学賞の境界が曖昧になっている気がしますが、このMRI技術での受賞も、昨年の化学賞の質量分析技術での受賞も、現在の医学生物学・医用工学分野では欠くことのできない計測技術の開発、それも原理的なものよりも今日の主流の技術に直接関与した技術の開発に対して与えられているという共通点を見出すことができます。
MRI技術でのこの受賞に対して、アメリカの医師からクレームがついたという報道がありましたが、この技術開発には様々な領域の人々がかかわっているので、さもありなん、です。こういう、本当に役にたつ技術までにたどり着くには実に多様な分野の人々の努力があったわけですから、賞の選考委員会もそれらの人々から2人ぐらいまでに集約(集中)するには相当丁寧に調べたことでしょう。
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「集中」の背後には、「多様さ」という基盤が存在する、そんなことを感じて話を進めるための導入として、上記のことに(強引でも)触れてみました。前回の雑記でも触れたことで、スケールフリーネットワークに基礎を置いた解析方法の様々な分野への応用を考えると、このネットワークが相当多くの「自然な」現象を捉える上で有用であることが、分かってきましたが、これは要するに、「集中」は「自然な」現象であることを示していたわけです。日本の東京一極集中やグローバリズムの中での経済と軍事のアメリカ一極集中も、日本の大学の中での資金の東大一極集中なども、そのようなコンテクストで語られることもあり、地方自治のあり方や政策にも「一極集中や地域間格差をさけるような政策は自然ではない」みたいな論調を張る人も見かけます。
半年ほど前、このスケールフリーネットワークの論文をいろいろ読んでみて、なるほどと思ったときは、そんな論調にも納得してしまっていたのですが、よく考えてみると、その集中のメカニズムを分析すると必ず多様さの土台の上に(というか犠牲の上にと言っても良いかも)、その集中ができあがっている、ということに気づくわけです。自然な形で生まれてきた「集中」は、そのままに任せておいて人間のシステムの今後の維持発展にとっていいことなのか、まずいことなのか?
生命の歴史を見ると、カンブリア紀の生物の多様性の爆発的増大があった後、ジュラ紀で恐竜という巨大な生命が生まれ、あたかも生命の「一極集中」のような現象が現れました。しかし、それは今から1億年ぐらい前の白亜紀の終わりごろ終焉を迎え、大量絶滅のような現象が起こりました。それは生命の一極集中が崩壊したかのように見えます。その後は、再び小さな生物である哺乳類や鳥類などの多様性がまた始まり、現在の人類の誕生にいたり現在の人間社会の繁栄に繋がってきています。これは、一つの見方では、多様化→集中→多様化→・・ というふうな流れにも見えます。またこの流れは、分散と集中の繰り返し、とも取れます。
世界史の中の様々な文明の勃興と衰退、ローマ帝国の繁栄と滅亡や、日本史の中での「驕れる平家、久しからず」の話に現れる諸行無常の思想など、社会的な歴史の中にも多様化と集中の変遷は見ることができます。このように、自由なネットワークの形成の過程からは自然とスケールフリーなネットワークの構造が生まれ、集中が生じるとしても、それはエネルギー分配が無尽蔵にあるわけではないこれまでの地球上では、集中した部分以外の多様な部分が衰退していけば、必ず集中した部分へのエネルギーの流れがうまくいかなくなり、結果としてトータルのシステムが滅亡へと向かう、と解釈することが可能です。集中した部分は、エネルギーとしても物質資源としても有限な世界では、それ以外の多様な部分の基盤の上に成り立ってきたのである、ということを忘れがちになると、とっても危うい状況になるでしょう。中枢神経は末梢神経あっての中枢なわけですし、末梢がなくなったら中枢だって存在しえなくなる、のは当然です。これが脳と体との関係なわけですから。
スケールフリーネットワークの考えでも、集中した部分(ハブという)への攻撃にはそのネットワークは脆弱になることを指摘していますが、ここでは外からの攻撃に対してだけ脆弱なわけではない、ことを指摘してみたい。ランダムな攻撃には強靭なスケールフリーなネットでも、集中したネットワークのなかのハブへのエネルギーや情報の流れは、ハブ以外のノードが脆弱になればその流れ自体が滞るようになり、ネットワーク自体が脆弱になります。これは、外部からの攻撃がなされなくても起こりえます。いわば自壊状態ということになります。
白亜紀にハブ的存在だった恐竜も、何らかの理由で死に絶えたあとは、より小さく多様な哺乳類などが生き延び繁栄するようになったのも、生命全体のシステムとしては、その中により独立した多様なシステムと小さなハブを内包しており、ある種の生命システムの1部分が死滅しても別の種の生命システムが生き延びるような仕掛けをもっていたことによる、と考えられます。
もし、組織のシステムに意志というものがあり、生き続けることを望むなら、おそらく大ハブへの「集中」という自然な流れはシステム全体の脆弱性を広げる警告であると、捉えてくるでしょう。そして、サブシステムと小ハブを作り分散を図り、独立な回路を作って、システム全体の危険性を減弱するように働くはずです。大学の中の小さなシステムであれ、日本という社会システムであれ、グローバルな政治経済システムであれ、そこには集中した「恐竜」を作ってしまうという自然現象は生まれがちですが、システムに智慧と意志があるなら、分散と多様化を進める別の流れも必要不可欠のものとしてシステムの内部に作っていくべきです。そうして初めてシステムは生命のように「生き延びて」いけると考えています。
(2003/10/14)