立場と視点

  先日、教養教育推進センターから連絡があり、「人生を変えた書物」を挙げて読書体験を書いてくれ、と要請がありました。何か、全教員に対してだいぶ前にア ンケートとしてその書物名を挙げた記憶がありましたが、今度は読書体験をまとめてパンフレットにして新入生などに配るんだ、という話になっているそうで す。今年度からそのセンターの仕事の一部をやることにはなっておりますが、この体験集を発行する話は昨年度に決まっていたようで、今度たぶん数十人の方が 参加されて体験集ができてくることでしょう。一応、僕も要請があったので、まとめてみました。気恥ずかしいですが、ここにもPDF化して置 いておきます。
 2 週間ほど前までは、その「人生を変えた書物」で挙げさせて頂いた「生命とは何か」(シュレディンガー著)は、もう手元にはなく、すぐ読み返せる状況ではな かったのですが、先日ある本屋に行ってぶらぶらしていたらたまたま、岩波文庫でその本が刊行されているのを見つけました。見ると、2008年5月16日第 1刷発行 とありました。出てほやほやのものです。1951年に日本でその翻訳本が岩波新書から出されましたが、そのあとは絶版になったものと思っていま したから、大学時代の恋人に出くわしたようなドキドキするような気持ちになって、その本を手に取ってみました。昔読んだのは、大学に入りたての頃のはずで したから、40年近く前のことになります。同じ訳本としてまた文庫本として刊行されたことは、ファンとしてはとてもうれしいことでした。この文庫本には、 訳者あとがきとして鎮目氏が「21世紀前半の読者にとっての本書の意義」としてまとめられた一文があり、これもまた、すごく面白い内容が書かれておりまし た。一読に値します。
 そのあとがきの註1として、書かれていたことの中に、福岡伸一さんの「生 物と無生物のあいだ」に書かれていたシュレディンガー批判(?)に対して、反批判を鎮目氏は展開されています。
  そこで展開されている、いわゆる「ネゲントロピー」「負のエントロピー」をめぐる捉え方は、かなりその人の立場、あるいはどのような学問的な履歴を持った 人かによって、結構議論の残る考え方のようです。鎮目氏は、福岡さんのその本を「通俗科学書のベストセラーものの一つに、この混同と過誤のまことに見事な 標本」と揶揄しておられます。
 この「生命とは何か」の文庫本を読み返してみて、シュレディンガーが書いている部分を抜き出してみると、以下のところがその対応するところでしょう。
後 ですぐわかるように、この負エントロピーというものは頗る実際的なものです。生物体が生きるために食べるのは負エントロピーなのです。このことをもう少し 逆説らしくなくいうならば、物質代謝の本質は、生物体が生きているときにはどうしても作り出さざるを得ないエントロピーを全部うまい具合に外へ棄てるとい うことにあります。 」(文庫本141頁)
 恐らく、福岡さんはこのあたりのことを捉えて、「シュレディンガーは誤りを犯した。実 は、生命は食物に含まれる有機高分子の秩序を負のエントロピーの源として取り入れているのではない。・・・・・・ことごとく分解し、そこに含まれる情報を むざむざ捨ててから吸収している。」と、指摘していました。このあたりを、鎮目氏は反批判しているのでありましょう。
 福岡さんは、シュレディン ガーが書いている「食べるのは負エントロピーなのです」という記述を、文字通り捉えて、食べ物を負エントロピーの源としてシュレディンガーは考えていた、 として批判しているように思えます。鎮目氏が言うように、「シュレディンガーは、タンパク質などの有機高分子の秩序を負のエントロピーの源だなんて言った のではない。」というのは、上の赤字の引用を読めば、理解できるかもしれません。つまり、シュレディンガーが、逆説的に言っていることを福岡さんは文字通 りに解釈してしまっている、ということなのかもしれませんが、シュレディンガーの言いたいことを要約すれば「代謝とは生命活動で生み出されるエントロピーの増大をうまく捨てることで ある」、ということで、このことを逆説的に「負のエントロピーを食べている」と表現している、と思われます(僕のとらえ方で は)。
  物理学者は、往々にして逆説的な表現をすることが好きですね。その立場からの、効果的な表現のために使う言葉が、やはり往々にして誤解を生むこともありま すが。生命にはエントロピーを下げる悪魔(マックスウェルの悪魔)が住んでいる、なんていうようなもんですな。(それに対して、分子生物学者がそんな小さ な生命体は存在しえない、なんて批判をしたとしたら、それはKY、なんちゃって)

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 そんなこんなで、いろんな立場や いろんな視点でものごとを見たり、批評したりできるのが世の中です。裁判員制度が問題になっていますが、いろんな視点を出させるために素人に裁判員になっ てもらって裁判に参加させよう、という趣旨なんでしょうけど、やっぱりこの制度はやっかいですね。殺人は有罪だが、死体損壊は心神喪失のため無罪、などと いう司法判断は、僕のような素人には大変違和感がありますもん。
 ただ、生命体は、長い進化の中で毒であったものもしっかり取りいれて組み込んでしまっているようなところもあります。毒的なものも取り込む、というの は、進化の戦略上、やむを得ないというか、必要だったのでしょう。
                    対立させたままで取り込んでおくという、生命システム。
 有毒ガスである一酸化窒素や一酸化炭素などが、生体の中でかなり重要な情報伝達の役割をしている、などいうことが分かっていますし、最近では、よく自殺 がらみの報道で出てきています、硫化水素も、低濃度でかなり重要な役割をしているというような報告もあります。それに、最 新のScience誌には、硫化水素が病気の治療にも使えるのではないか、といったことがでています。ここにも、毒は薬、にもしよう という生命体のしたたかなチャレンジが存在しています。
  先日、工学部で火事があったときに、化学物質の管理が問題になった時がありました。消防関係の方たちが、実験室に突然入ってきて、溶媒の空瓶を有効利用し ているのをみて、その数が多いと消防法違反になるといったことを強圧的に述べていく様は、消防という立場からの視点では理解できるものの、相当に違和感の 残る出来事でした。毒を薬に利用しようなどと一般の人を対象に臨床試験をするために倫理審査委員会に提案したら、日本では社会的にも相当に押さえつけられ るでしょうね。
 相当に時間がかかる、というのは、生命の進化がまさにそうだから。
 環境問題もいろんな視点があります。炭酸ガスを増や し続けるのは、地球という今の環境システムにはよくない、ということがあったとしても、地球の温度の上昇は太陽の活動の影響もあって、人間の力ではどうし ようもないようなところまで来ているのなら、地球という生命のようなシステムに素直に人間は従うしかないのでは。「ゆっくり行こうよ、信濃路は!」という 標語があったような記憶がありますが、「ゆっくりいこうよ、地球路は!」というのが、今の人間という生命体の立場であるべきなのかな、と思います。

(2008.05.30)