他人の気持ち


 学生に向かって授業をしていると、いったいこの学生はどんな気持ちでこの授業を聞いているのだろうか、とか、さっき言った言い回しは理解してくれたのだろうか、とか学生の気持ちが分からなくて気になるときがあります。ちょっと難しそうなことを言ったのでたぶん大部分の学生は疑問に思っているだろう、と思って皆の前で「何か質問無いですか?」と聞くことがありますが、その時質問をしてくれる学生は、まあ、滅多にいませんね。(授業が終わってからおずおずと個人的に質問に来る学生はいますが・・・)

 全学共通教育ということで私も主に全学部の1年生を対象に「脳と化学〜こころと脳入門」という教養教育的授業を受け持っています。これとほぼ同じストーリーで、先日、放送大学の対面授業を土日の集中講義という形で授業をする機会を頂いて、ふれあい会館の岐阜学習センターで講義を行ってきました。この放送大学の対面授業では、20歳代から80歳代までの、様々な経歴を持つ老若男女に対して授業を行います。驚きと同時にうれしくなってしまったのは、大学の1年生とは違って、質問がやたら多い、ということです。それも40歳代以上と思しき受講生からの質問が圧倒的に多いのです。

質問は、もちろん、分からないことがあるから聞くわけで、1回の授業で話した内容が学生にほとんど理解された、などということは、絶対にありえないはず。だから、学生はどこが分かりにくかったか、何が理解できなかったか、に気づいたら、必ず質問があってもいいはず、と教官としては思うわけですね。ただ、大学1年生は、質問という表現方法をうまく身につけていないので、皆の前での質問という行為ができないだけと、気持ちでは庇ってみますが、実際は「自分には何が理解できなかったかがまだ分かっていない」のではないか、と疑っています。(最悪、そもそも話を聞いていないんじゃないか、というのは論外として…)つまり、自分で自分の気持ちが理解できていないのではないか。それと、自分が理解していないことを同じ世代の学生に知られるのが恥ずかしい、と思っているとも考えられます。確かに、今の若者は「自分が他人(特に同世代人)にどう思われているか」を大変気にするようです。しかし実際は、友達でもないんだから「誰もあんたのことなど気にしちゃいないよ」、と思うんですけどね。

こういう点で見ると、放送大学の対面授業での活発な質問は、結構社会的経験を積んだ人たちなので、自分の理解できないことを自覚できるようになっているし、他人の前での表現方法も身につけてきている、それで教官にも質問しやすいし、それに釣られて教官のほうも色んなことを気軽に話すので、また質問できる感じになる、ということも考えられます。ある程度社会経験を積まないと、本当に自分で自分の気持ちを理解し他人の気持ちも的確に把握して、自分をうまく表現することは難しいのかもしれません。

この授業の中で、「こころの理論」の話をするのですが、こころを持っている状態というのは他人のこころの動きを推察する能力を持っている状態、であって、この「こころの理論」をもてるようになるのは4〜6歳ぐらい以降である、というような話を紹介します。ですから、3歳以下ではまだ他人のこころ(気持ち)を推察できない、自閉症児では6歳ぐらいでもこころの理論をもてない、というような話をしています。しかし、6歳以降であれば、特に障害がなければ誰でも他人のこころを推察できるのか、というと、実際は色んなレベルがあるのだと思いますね。20歳代だってまだ的確には他人のこころを推察できないし、であるからこそ自分の気持ちも(客観的に)理解するのは容易ではない、ということになるのではないかな、と思います。

これは考えてみれば当たり前で、自分自身の気持ちを考えれば、それはそんなに単純ではないし相当複雑な気持ちの動きもあるわけだし、他人が自分の気持ちをそうやすやすと推察できるはずはないじゃないか、と思うわけですね。推察すべき自分自身の気持ちも、当然他人の気持ちも、時代によって変わるし様々あることが理解できるはずですから。だからこそ、面と向かって聞いてみたい気持ちになるわけですよ。そして、社会経験を積んだ人のほうが相手に直接聞いてみたい、という気持ちが強くなって、理解すべき点を確認しつつ自分を表現する方法も身につけているので、年配の方のほうが必然的に質問が多くなる、と考えられます。(もし私が隠居して俳句の文化教室などに通ったとしたら、たぶん教官を質問攻めにするだろうな…。)

と書いてきたところで、どうも話があの「バカの壁」(養老孟司・著)に近くなっているのにはたと気がつきました。こりゃいかん、いつのまにか私の脳も「養老先生の呪縛」に掛かっているわい。

この「壁」本にも、アメリカのイラク侵攻のことが出ていましたが、他人(他国)の気持ちを理解するのは本当に困難なんだと思いますね。この侵攻のあとは、ますますのっぴきならない状態(罠にはまった?)になって、勝者のはずの国が苦しんでいる。戦争状態というのは他人のことを理解できない(しようとしない)者同士が起こしている、といってもいいですね。これじゃ、いい大人が「こころの理論」について話して分かったようなことを言っても、信用してもらえないかもね。

つい先日あった、衆議院議員の総選挙では、大方予想の範囲内ではあったものの、出口調査と実際の票の結果とのギャップが話題になりました。ひとり一人の気持ちを考えてみたら、投票所の出口で正直にしゃべるだろうか、とか曖昧な答えからどう相手の気持ちを予想しただろうか、とか考えたら、もともと出口調査の正確度はだいぶ疑問に思います。また、総選挙の結果は、二大政党制への流れが明確になったと言われていますが、これは小選挙区制になった時から予想されていたことで、不思議じゃない。ただこの流れは二大政党とはいいながら実は、政治の一極集中が進んできた証拠であるという意見も新聞にでており、私としてはこちらのほうが心配ではあります。堂々とした批判と反批判、討論の訓練および敗者復活制度の土壌の未熟なこの日本の政治で、一極集中が進めばどうなるか…。ますます閉塞感が広がるのではないか、という不安です。

 不安といえば、この前の日曜日、東京国際マラソンのときの高橋尚子選手の失速には、本当にびっくりしました。小出監督の弁によると、食事の制限のし過ぎによるエネルギー不足だとか。う〜ん、こんなベテランでもそんな至極当然のような理屈が分からなかったのでしょうか?自分で自分の身体の状態が判らなくなったのでしょうかね。マスコミに現れてくるQちゃんの言葉だけでは、彼女の本当の気持ちがわかるわけではありませんが、全国のファンだけでなく彼女自身も、大変不安なのではないでしょうか。自信満々で臨んだ後の失敗。自分の状態が判らなくなっているのだろう、とその気持ちを推し量ってはみますが、でもあのあくまでも陽気な笑顔を見ると、大丈夫なんだろうなとも思います。意外と、これも戦略の一つだったりして。人々を心配させてイライラさせて、でも最後には劇的な逆転でアテネに行く、というような…。昔、怪我などで人々をやきもきさせて、しかしついにはオリンピックで優勝、という前例をつくっていますからね、彼女は。ま、期待半分でこれからを見守りましょう。
 と書いてから、しばらくしてあるサイトにプロスポーツの記者の方が書いた記事を見ました。すごいですね、私のようなズブの素人の見方・心の読みかたとは全然視点が違いました。この日のマラソンは、一般市民ランナーの完走率が40%だったとかで、異様に低い完走率なのだそうです。それだけ、厳しい気候だったようです。

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先日の放送大学の対面授業のレポートが返ってきました。ワクワクして読んでみると、さすが大変面白いですねぇ、実際私も勉強になります。なるほど、そういう気持ちで授業を聞いていたのか、と目から鱗、のレポートもありました。まったく人様々ですね。しっかりと自分の考えを持っていらっしゃる方が多いので、私が質問に答えた内容にも批判いただき、「先生はあの時こうおっしゃったけど、私はやっぱりこう思う」と書いてくる方もいらっしゃいます。当然、まちがいではありません、科学的にも明瞭になっていない事柄ですから。例えば、「胎教は(胎児の脳の発達に)効くと思いますか?」という質問があったのですが、私は本当に効くという証拠を知らなかったので(むしろ「モーツアルト効果」は信憑性はないというのは知っていましたが)、ちょっと否定的に(むしろ胎児によりもその母親の心理状態を改善することに効いているのでは?という考えを)述べましたが、あとのレポートでは「私は胎教はやっぱり効くと思います、私の経験に照らしても・・・。」という意見が述べられていました。いやー、経験からといわれると、もう何も言う事はありませんな、あなたのその場合は正しいのでしょうね。ただし、その質問されたのは男性だったのですがね・・・?!


ちょっとだらだらと何日もかけて書いているので長くなってしまいますが、もう一つ書きたかったこと。先日のNHKの人気番組「プロジェクトX」に大分・湯布院の「100年戦争」のことが取り上げられ、感動したこと。
 もう岐阜に来て3年半以上になり、だいぶ大分のことが忘れかけているこの頃なんですが、うちの子供達にとっては貴重な「ふるさと」なんでして、私たちも18年も住んだので、かなり隅々まで知り尽くしていると思っていました。特に、湯布院は裏庭のごとく、何か時間があると出かけては楽しんでいましたから、良く知っていると思っていました。ところが、そのプロジェクトXで取り上げられた湯布院は、まさに私の知らなかった湯布院の歴史でした。それも、湯布院の人たちの気持ちをほとんど理解していなかったんだなぁ、と申し訳ない気持ちが湧くのを抑えられませんでした。観光地の湯布院しか知らない我々にとって、その背景には100年戦争ともいうべき、長い、町の人々の「町と自然を守る」戦いの歴史があることを知って、改めて町の人々の気持ちに感謝せずにはおられません。離れてみると、その気持ちは強くなります。
 人の心(気持ち)を理解するとは、その歴史(履歴)を理解せずして正しい理解には至らない、ということを噛締めることができた番組でした。

11月20日はボジョレ・ヌーボーの解禁日。今日は、1978年以来の最高レベルと噂されるフレッシュワインの香りと味を楽しんで、ボジョレ村の人々の気持ちに思いを馳せようか。ワインは歴史そのものであり、大地と人々の気持ちと時間がぎゅっと詰まった、三位一体の飲み物。少し寝かせて落ち着かせて、飲んだ感想は、またそのうちに・・・。

2003.11.22