貢献への対価
1月30日、「発明への対価」ということで中村修二氏が訴訟を起こしていた東京地裁の判決が出まして、対価として604億円を認める、というどえらいものが発信されましたね。それで、ちょっとメモしておきたくなりました。
支払命令額自体は、請求のあった200億円だったわけですが、対価としてその発明がもたらした独占的な利益を約1200億円と見込み、その半分を発明者への対価として認めた、という判決で、アメリカにも例が無いくらいの巨額さに唖然としました。これは、裁判ですから、さらに控訴されもっと上に行った時どのように変化していくかは予断はできませんが、その司法の判断の影響は結構大きいだろうと思います。
一応、ここにその判決要旨(の要約)をまとめておきましょう。
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「青色LED発明対価訴訟判決要旨」2004年1月30日 東京地裁
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私は以前、ここの雑記で、技術者にもサッカー選手並みの移籍金のようなものが動くようになれば、科学技術に対する若者の意識も変わるだろう、ということを書きました。サッカーの世界は、世界的な市場ではありますが、あのジダンの移籍金ですら81億円で、世界最高と言われていましたから、その1/10ぐらいでもいいから、というような意識で書いていましたが、なんと今回はそれよりも桁が多い。
会社の方は、当然、そんなに払ったら経営が立ち行かなくなるとか、色々理由を付けて抵抗してくるでしょうが、この「発明への対価」というのは会社対発明者個人という関係を超えて、いろいろ考察してみるのは大変興味深いものです。
対価をどう評価するかですが、「独占の利益」の約半分を発明者に支払うべきだ、という今回の判断は、多くの技術畑の人は画期的と評価するでしょうが、利益分割をする場合のその割合についてはいろいろ意見は出てくるはずです。発明自体が極めて大きな影響を社会経済活動に与えるものならば、その利益総体は巨大なものになり、如何に発明者の貢献度が大きいとしても、その半分も発明者に与えるというのは適当なのか、また必要なのか?
島津の田中耕一さんの例も既にありますから、対価というのは、お金だけじゃなく、名誉や研究条件の改善であったりしてもいいわけで、今回の中村氏の「お金も大事だよ」という意見だけではないのは当然です。だから、今回の判決は、青色ダイオードの発明への対価としては「604億円の価値がある」と認めた、というものであり、むしろ、発明者はそれだけの価値があるものを生み出したということを今後どのように生かし、どういうふうに人類社会に還元するのか、を考えることを要求されている、と考えるべきなのではないか、と思うわけです。
世の中には、宝くじのような賭け事で巨大な富を得る場合も極めて稀にあります。それは、当然、たくさんの損をした人の土台の上に成り立っている仕組みの中でのことであり、全体では損は無いという程度のものです。しかし、発明による対価というのは、宝くじのような側面はあるが、それなりの特別な価値を認めるべきであり、巨額になればなるほど、ノブレス・オブリージェ(noblesse oblige)というか、倫理上の大きな義務が出てくるのではないか。企業がその経済活動によって得られた利益を、発明者という存在を通して、社会活動によって還元するようなものです。
中村氏とその弁護人があるテレビの番組に出演していて、そこで今回の裁判の目的は「子供達に夢を与えることだ」とおっしゃっていましたが、まさに対価が勝ち取られた場合の倫理上の義務について述べているのだと思います。しかし、それに対する私の素直なレスポンスは、発明で巨額の富が手に入る(ことがありうる)というのは子供でも知っていることで、それで夢を持ち理科系に進む生徒が増えるというのは甘いんじゃないの、ということでした。逆にお金や富のことだけを強調すると、自然の不思議に魅了されて理科系を志した子供の別の夢をしぼませることにならないか、という不安にも繋がります。子供によりも、むしろ、現在もの作りに励む技術者に夢を与える、というほうが適当でしょうし、この判決が発明者である技術者・研究者だけでなく、企業自体も経営への励みと教訓になるように、そのような裁判になっていって欲しいと願います。
また、この訴訟に関する今後の裁判が、発明者が会社や政府の政策立案者と対立する構図で話が進んでいき、発明者か会社経営か、という対立に持っていって欲しくない、と思います。その対立が先鋭化すれば、企業内の技術者の待遇にとって良い影響にはならないでしょう。
このような貢献への対価を考える場合、今回のは民間企業で行われた発明に関して対価の評価が争われたわけですが、これが国公立の機関で得られた発明の場合の対価の評価というのも、将来影響されるでしょう。例えば、これまで国立大学で行われた発明は、もともと国民の税金によってサポートされていたわけで、本来はパブリックドメインでの公開が原則であると考えますが、その発明を普及させる一つの手段として特許出願をおこなった場合、その発明による利益というのは商品開発をして売った企業活動によってしかもたらされないわけです。したがって、大学はその利益への対価をどのように企業に要求できるのか、というのが問題になってきます。今回の裁判の判例に基づけば、「独占の利益」の50%分の対価は要求できる理由はできた、ということです。これは、たとえ特許を実施する権利を100%1つの企業に渡したとしても、発明者への対価支払いという面では生きてきます。しかし、大学などの公共的な機関が持つ特許に対して、過去に遡ってそのような要求を企業に出していたら、かなり企業活動に悪い影響が出るかもしれません。
私は以前より、大学などの公共的な機関の持つ働きは、プロパテント(特許重視)の方針と、論文などパブリックドメインの公開技術の推進の、うまいバランスの中で発揮されるべきだという意見をもっています。国立大学が法人化するといっても、そのようなバランスが崩れないような方針で行かないと、世の中のためにならないでしょう。
(2004/02/03)