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 あと50年後の大学のことは今は予想できませんが、今から50数年前、新制国立大学が発足したときは、今のような、大学が変わりつつある様子を予想できたでしょうか?

 「国立大学法人」に向けた動きのことです。かなり矛盾を孕んだ内容で、高等教育の理想とは相当かけ離れているのでこれ自体どうなるか、予想できません。一方で独自性を言いながら規則上は中央によるコントロールの強化を目指しているし、非公務員化といっても大部分は国家予算による公務員並みの運用、等々。ともあれ、戦後高等教育の大改革とは謂いながら、 過渡的なものとしか思えません。ただ、その背景にあるのは、経済産業界や社会からの要請なわけです。実際、「新産業の創出 に大学は寄与せよ」などということが、文科省のサイトにある文章に良く出てきています。

 じゃあ、新産業って、どんなことを想定しているのでしょうか?産業というからには、規模としては数兆円をこえるような、かなり大規模な事業の展開のことなのでしょう。因みに、右の表に現代の様々な産業の分類を出してみましょう。化学産業などの「素材」系産業、食品産業、ヘルスケア産業、医薬品産業など、バイオが絡む産業のことを思い浮かべればよいわけです。これらは、我々の生活の隅々に行き渡り、確かに大規模な事業の展開の上に成り立っており、産業と呼ぶにふさわしいと思います。

 現在の日本でこれらの産業の状況が思わしくないんですね。リストラされ失業した人々の受け皿がない。それで21世紀の「新産業の創出を!」となるわけですが、これに非公務員化した国立大学法人に中期目標を立てさせて付け焼き刃的に貢献させられるのでしょうか?確かに、5〜6年で「商売になる」事業は日本でもかなり増えるかもしれません。しかし、ビジネスになる、ということと、新産業になる、ということは概念的にかなり違います。

 アメリカでもバイオビジネスは日本のレベルを遙かに超えて活発に展開されていますが、それはまだ「医薬品産業」や「健康産業」や「食品産業」などの従来の枠の中で行われているビジネスでしょうし、新産業とまではまだいっていないと思います。第一、日本ではまだ、「この食品には遺伝子組み換え大豆は使われていません」と表示しないと売れない、というような状況では、新しいバイオ技術に基づいたビジネスの隆盛を想像することは困難ですし、ましてやバイオの「新産業創出」などということは、人々の生活の隅々にまで行き渡らせることができない限り、不可能です。

 新しい優れた技術が開発されても、そして一時「商売」になることは可能でも、「新産業」になっていくには良い技術だけではだめなはずですね。大多数の人々がそれを受け入れるための良い感性や、哲学というか、人間生活の本性に訴えるものが必要な気がします。携帯電話の隆盛は、まだ現状「電気通信産業」の枠内のことではあるものの、人々の「いつでもどこでも」コミュニケートしたいという本性に結びついていると思います。そしてこれは放送と通信の融合の流れとも相まって、いろんなコミュニケーションのプロセスが個人レベルで統合され従来の産業の枠がかなり融合し新しい産業と呼べるものになっていく予感はあります。

 しかし、このようなことはバイオに限っていえばまだまだでしょうし、流行の再生医療にしてもまだビジネスになりうるかどうか、という段階であると思います。

 新産業に育っていくには、人々の生活の隅々に入り込んでいけるように、人々の気持ちの中に素直に入っていけるようなものが無いとだめでしょう。その意味で、技術の発展以上に「教育 」の浸透の方が重要なのではないでしょうか。だから、オカミの教育政策に希望が持てない昨今、新産業の育成にもかなりゼツボウせざるをえないわけで、またしても「こんな日本に誰がした」、とぼやくことになります。

 この教育政策の点では、最近教科書検定のことがマスコミに良く出てきますね。私も円周率πを 3.14ではなく3として扱え 注) 、だとか、 DNA の塩基成分のアデニンなどの名前は出すな、などといった検定の様子を聞くと、そんな馬鹿な、とつい口を出てしまいます。一方、文科省の担当者のコメントも新聞などに出ていますが、誤解がある、とか言って、生徒に合わせてしっかりと基礎を教えて欲しいということなんだ、と言おうとしているようです。( 基礎をしっかりと教えるということは、大事な概念なり知識なりを「指導要領と少し違うから」「削除」することではないんですけどね…!
 ところが、一方では「スーパーサイエンスハイスクール」構想では理科系に優れた高校を選んで高度な内容を教育する、というようなことも謂われているので、生徒の中の能力の差を広げるのが政策なのか、と疑ってしまいます。そして、優れた生徒・学生は、そんな日本の状況に嫌気がさして海外へ出て行って高等教育の「空洞化」に拍車がかかる、と危惧することになります。
 前近代的な、「一握りのエリートを作ればあとは他はどうなっても構わない」という意識(あるいは無意識)が、依然として底辺にあるのではないかな。(これが実は、産業社会の弱体化の根っこにあるというのは、歴史が教えてくれている事ではないでしょうか。)
もちろん、エリートを作ること自体には反対しませんが、残りへの十分な対策と叱咤激励による「底上げ」の努力が社会にとって大切だと言いたいのです。

 こんなのでは、「新産業」は、芽すらできないのでないでしょうか(種はいくらでもあるのに)?

 なにかこういう教育関係や大学の方策の「 できの悪さ」の象徴が、実は先日あった「大銀行の合併に伴うシステムの不具合」に現れている気がしてなりません。
 これは、産業界の「できの悪さ」の象徴でもあると思いますが、それまで「それなりにうまくいっていた管理システム」は、それぞれI○○や日○や富○○の独自の(いわば縦割りで)やり方で運用されていて、それが一旦合併となって各システム間の情報の疎通がうまくいかなくなる。独自のシステムは、もともと他のシステムからの侵入を阻むようなセキュリティを施していますから、ただゲートで繋げばいいという問題ではないわけです。「作ったシステムは、がちがちのセキュリティで守って永遠に存続させる」、という原理というか前提条件自体に問題が起こる芽があると思います。

 そのシステムが、もともと誰のためにあるのか 、を考えた上で、システムの根本自体が進化できる仕組みをシステム自体の中に包含できるようなものを、考えないとだめでしょう。自動車だって、最近は「如何に簡単に壊せるか」「壊して再利用する」のを前提に作られようとしている時代ですから、大学だって、会社だって、そのようなシステムに進化していくべきです。


注) 4月28日NHK朝の放送で、遠山大臣は、「円周率のことは誤解です」とおっしゃっていましたので、調べましたら、詳しい説明が次のところにありました。
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/newcurriculum.html#pi
結局、円周率としては、ちゃんと3.14として5年生の算数で教えるが、実際面積計算などで掛け算の中で使うときは、「1/10の位までの小数の計算を取り扱うもの」という「指導要領」の縛りがあり、「およそ3」で使う、せいぜい3.1として使う指導がなされ、3.14としては使わない、ことになるようです。そして、原則的には「3.14 (のような小数点以下第 2 位) を使って計算する場合は電卓を用いること」になったのだそうです。電卓ですって!計算力も基礎学力の重要な要素だろうに!!

(2002.4.26)