そして希望だけが残った

 2011年を振り返ってみますと、「パンドラの箱」の神話を思い出さずにはおれません。
地 球というパンドラが、ある箱を開けると「邪悪な自然」が地震と津波と放射能となって飛び散り、愚かな人間どもの安全神話も粉々になって飛び散り、人間たち は未 曾有の苦難に遭遇したが、残ったものがあった。それは、希望。そしてその希望が残っていたからこそ、人間たちは再び歩んでいけることになる。
 その希望 はニーチェに云わせれば苦しみを長引かせるものにすぎない、という解釈もあり得ますが、希望があるからこそ苦難と一緒に歩んでいけるのでしょう。人類は未 曾有の危機にこれまで何度もさらされて、それでもなお、希望の灯のもとに集まり歩んできたわけですから、これからもまた、何度でもも起こるでしょう。

  2011年という年は、「アラブの春」に象徴されるように様々な独裁的な権力が崩壊した年であり、一人ひとりがもつ小さな希望の炎がインターネットという 手段を使って繋がり合い、巨大な炎になって権力を打倒していった年となりました。これらは序章にすぎないでしょう。これからまた、新しい物語が始まりま す。
 同時に、世界経済はユーロ圏の危機によって危うい所まで来ています。ユーロ圏はそれこそ統一という希望の灯りを頼りに、長年にわたり進んで きました。たとえ、強欲資本主義によってユーロ圏が瓦解という危機にさらされても、ヨーロッパの人々は再び進んでいくはずです。理想には人一倍こだわるの がヨーロッパの人たち(特にラテン系の人たち)だと思っています。
 
 さて、年末も寒い日が続いていますが、28日ごろから風邪を引いてしまいまして、熱も出て寝こむ時間が長くなりました。それもあっ て、溜まっていたビデオを寝ながら見たり、NHKの原発関係の特集番組を欠かさず見るようにしていました。27日には、事故調査委員会の中間報告がでまし た。分厚いので読む気力はありませんが、28日夜の報道ステーションの原発報道は見応えがありました。ベント処理が水素爆発を引き起こしたのは、ヨーロッ パなどでは考えられないベントの配管になっていたからだ、というのを見事に推理していました。それに、地震によっても配管に一部亀裂が入ったり壊れていた 可能性が高いという推理もなされていました。一方、東電は原子炉は古くなったが耐久性には問題はない、との発表を性懲りも無く出しています。地震で壊れた のだから(一部でも)耐久性に問題が出てきているという認識が普通でしょう。
 今回の東日本大震災の巨大地震と巨大津波の発生は、日本列島周辺で大きな 地殻変動の時期に入ったことを示唆していると思います。ということは、これから10年~20年の間に首都直下型大地震が起こり、さらに東海・東南海・南海 の超巨大な連動地震が起こることが予想されていますし、北海道から九州まで日本海側も含め地震の巣窟が巨大な地震と津波をもたらすだろう、というのは実に もっともらしい推論だと思います。だからこそ、根拠の薄弱な神話はすっぱりと捨て、超巨大な津波が起こりうる(証拠が四国に残っているというのは、NHK の特集でやっていたことです)ことに正当に対処するという科学的態度が大事になると思います。
  原子力発電所の安全神話は、脆くも崩れ去りましたが、この神話は、企業と政府、そして専門家と云われる人たちによって作られてきたものです。それにしてもこの「安全神話」ほど酷いものはないでしょうね、「来るはずのない大きさの地震や津波に対しては対策を立てる必要はない」という精神構造は、神話そのものです。本来は、建物も配管も全て壊れ、電源もすべてだめになり、すべての構造物が完全に水没してしまったらどうなるか、というのが安全対策の前提になるはずです。本来の「初期コスト」です。
  この「○○神 話」などどいうものは、いたるところにありますが(たまたま数週間前に教養の授業で「脳トレ神話」などの話題について触れたことがあります)、科学技術と 政治経済の「界面」付近で起こりやすいように思います。科学技術の世界ではそれまで信じられてきた理論が完全に覆るなどということは、よくあることで、珍 しくもありません。科学の本来持っている「性格」のようなものであり、それは科学の研究が「常識を疑え」というところから始まるからです。
 間 違った科学技術理論が「神話」と呼ばれることがあるのは、金や権力や政治と強く結びついていたから、ではないかと思います。特に、技術の分野で、その技術 の安全性を審査をする人は、その技術を持っている企業や機関から完全に独立であるべきである、というのは重要なことです。
 医学医療の世界では、 人々の生命と直接関係があるだけに、利益相反の問題が強く意識されていますが、この電力分野においても強く意識されるべきだろうと思います。ただ、これは 研究を進めるためには産業分野からの資金の援助を得てはならない、ということでありません。研究成果としての技術や商品を世に出す前の審査に関わる人は、 その産業分野から独立しているべきだ、ということです。ですから、ある大学の原子力工学の研究者に電力会社から研究資金が入っているということは、公開さ れていればとやかくいうことはありませんが、その研究者が発電システムの国の安全審査に関わるようなことはすべきではない、ということです。むしろその研 究者は、「審査を受ける企業側」として判断されるかもしれません。

(2011.12.31)