市場

2003年1月になって、例年のごとく様々な年度末の用事を次々とこなしていかないといけない時期がやってきます。学生は、定期試験や卒業研究発表に向かう緊張感を漂わせ(あるのかな?)、教官職員は、様々な入試業務、会議、資料作りなどに目を回しています。こんななか、国会では今度いよいよ国立大学「独法化」の議論が行われる時期になり、大学を「市場の荒波に放り込む荒療治」を巡って、また色んな動きがあることでしょう。

 今年から来年にかけては、またこの周りでは医学部・病院のこのご近所への移転と工学部の新棟作りにむかって新たな慌ただしさが生まれてきます。その中でも、大学と地元、特に県や市との繋がり方の議論もたくさん起こってきそうです。それも、新しい「事業の開拓に大学がどうかかわるか」などという観点で。

 このような新しい事業に関する提案を考えると、すぐに「市場性はあるか」といった市場からの評価を問うようなことが言われる習慣ができてしまっているようです。

笑い地蔵(谷汲・華厳寺)  「市場(Market)」を「しじょう」と発音する場合の意味と、「いちば」と発音する場合の意味は、それこそ雲泥の差がありますね。「いちば」は、「函館海鮮市場」などにみられるように「美味しそうなものをたくさん安く(でもないけど!)買える」ようなところ、という感じがあり、その賑わいはうきうきわくわくするような楽しさがあります。昨年、函館に行ったときその市場に寄ってイクラなど家に送ったときは家族にだいぶ喜ばれましたが、あとでインターネットの「楽天市場」を使って岐阜にいても同じものを買う事ができたりすると、喜びもあと一歩なり、などという感想が出てしまいますが。

お疲れの「こしもみ地蔵」

 ところが、「しじょう」と発音する市場では、冷酷で絶対・弱肉強食・勝ち組負け組・“ビッグブラザー”というような、いやーな響きがあります。特に日本の市場では、そんな感じが強く、米国では一発当ててやれ、だめでもどこか別のところでやり直せる、というようなベンチャーがわくわくできるような環境がまだあるように思えますが、日本では倒れたら「負け組」、ハイさようなら、というような雰囲気を感じます。そんななかで米国と同じような感覚ですぐ「市場性を!」などといっても、何か土台(というか文化?)が違うんじゃないの、という気がするわけです。

 今の大学の制度では、何か技術を開発しようと思っても大きな投資を得るためには、「何たら事業」のための提案を省庁等にして審査を受け、「市場に要求されているかどうか」などを判断するお偉い先生方によって選別され、ようやく選ばれたら、あと3年で何件の特許を出せやら何件のベンチャーを起業せよとか、5年で何億円の事業を行え、とか「上から」言われてくるようですね。もしうまくいかなかったら、散々に言われるでしょう。その時、たぶん審査をして判断した先生方の「判断基準が変だった」という後の評価は普通、されないのがこの手の事業提案のような気がします。それを選んだ判断自体はどうだったの?と聞きたいわけです。

 最近この手の議論に参加する機会があり、審査基準などを見ると、哲学が違うというか賛成しかねるような審査が為されている気がしてなりません。例えばある技術を開発して事業化する場合、市場の対象として、@規模は小さいがプロフェッショナルな集団が主体の市場、Aユビキタスで規模は大きいが個人一人一人或いは各家庭といった素人集団を目指した市場、の2つに大きく分かれるような気がします。

日本を支える巨大企業として一応現在成功していると考えられているソニーやトヨタなどは個人向けエンターテインメント産業や家庭向け自動車産業を主体として上のAの市場(主としてということですが)で成功しています。また一方、医療分野での内視鏡等ではかなり大きいシェアを占めるオリンパスなどは@のプロ向けの市場で成功しています。でもこの後者は殆ど1〜数社で占めることができるのに対し、前者は大中小の多くの企業が参加できる市場になっています。この辺は素人でも判断できます。しかし、大学が絡んで医療産業や教育産業に関係する技術を開発し事業化する場合、その@かAかどちらを主として対象にすべきでしょう?もちろん、技術の内容にもよりけりなのは分かっていますが、医療と教育と両方に関係する産業として考えた場合は、結構悩むところでしょう。ところがある審査では、@が良い、と断言していたのです。それでAを目指した事業計画は止めろ、ということになってしまったようです。もうちょっと悩みに悩んで、落としどころをもっと考えて欲しかったな、と思いますが、審判が偉いので(サッカーと同じで…)どうしようもない。できることならそんな判断をするところには出場しない方がいいのかもしれません。でも今の日本のように、脆弱で規制の多い投資方法のもとでは新しいユビキタスな技術の開発を援助してもらうのはとっても困難なので、そういうところに出場せざるを得ない面もあるというわけで、悩ましいところです。

最近読んだ本で大変面白かったものに、「武術の新・人間学―温故知新の身体論    PHP文庫 甲野 善紀 ()」というのがあります。この甲野さんという方と養老孟司さんとの対談の本なども面白い。その中で、江戸時代の鎖国政策の中でも一部東南アジアなどとの交易を維持していたのはなぜか、という話が出ていて、武士が使う刀の取っ手のところで使われる鮫皮(実はエイの皮)の良いものは日本近海では採れないので東南アジアで採れたものを使いたいという需要があったからだ、ということだそうです。刀という武士の必需品にとって鮫皮が重要であったなどというのも面白いですが、それにも増して、大部分の市場を対外的に閉ざしていた時代でも本当に必要だと思ったら開かざるを得ない、ということが大変教訓的です。本当に必要とする市場に供給するという事業はちゃんと成り立つ、という、ごくシンプルな教訓というか原則です。

医療+バイオ+教育産業の点でも、事業化を目指し投資を得ようとするなら、もっと多様に市場分析をしたほうがいいんじゃないかな。

(2003.01.27)