大学の社会貢献と学生の「質保証」

 3.11 以降、様々な大学人、学生たちがボランティアとして被災地に入り援助活動をしてきていることを、私たちは様々な報道を通して知っています。先日も当大学の 医学部を中心とした支援活動の報告会があって、ドクターヘリも送りながらの医療支援、DMAT(災害派遣医療チーム)活動などの経過が報告されました。こ れらは特に緊急を要する支援で、それなりの体制が出来ていたのでかなり活躍されて、非常に有効であったと思います。また、大学にはこれら緊急の社会貢献だ けではなく、平常時の社会貢献も期待され、それなりに活動されており、一番基本的な社会貢献である、「一定レベルの卒業生を社会に送り出す」ことでの貢献 があります。これは、教育面での貢献ということですが、さらに大学の研究活動を基盤にした貢献も一定、期待されていると思います。
 この研究面で の大学の社会貢献ということでは、今回の3.11の大震災と福島第一原発事故に関係したことでいうと、あまりに無力であったことだけを思い知らされて、残 念に思うことがたくさん目に付きます。まずは、想定災害マップの不十分さがありました。このようなマップは通常は行政機関と専門家、主に大学の研究者が中 心になっていると思いますが、彼らの協力のもとに作られますが、その想定が不十分で多くの人が逃げ遅れて津波に呑まれた。一方、災害マップを信じすぎては 良くない、ということで、自分で状況を判断しマップにとらわれることなくできるだけ速やかに一番高い方に移動すること、という訓練が功を奏して、たくさん の子供達の命を救ったという所もありました。このような状況を見ると、大学での防災研究を通した社会貢献はまだまだ不十分だと思わざるを得ません。災害 マップのような「情報」を作るだけになってしまって、住民一人ひとりの「智慧」のレベル、判断力と行動力のレベルの向上には十分には寄与出来ていなかった と思います。
 さらに、原発事故に関しては、言うまでもなく、東大などの一部の原発推進論者と電力会社、経済界、政府と一部政治家などが進めてき た「原発は安全、原発は必要」キャンペーンの中で、これまた「原発は危険」の主張を軽視・無視し対策を怠ってきたことが、その事故の原因の一つであると思 います。東大の一部の学科は長い間に渡る原子力産業へ卒業生を送り出し、一部は批判的な研究者も生み出しましたが、主流は原発推進、それも電力会社からの 金まみれの推進論者を輩出するという「社会貢献」を行って来ました。
 社会には、様々な問題があり、それらを解決する方策にも様々な主張があり、 様々な賛成意見、反対意見がある、ということを考えれば、大学の社会貢献としての「卒業生を送り出す」場合の卒業生の「質」とは、ある一つの方策や意見だ けに固めることではないはずです。様々な問題を解決するために、様々な意見を戦わせ、賛成意見も反対意見も、できるだけ相手をリスペクトしその意見を尊重 し真摯に対峙するという態度、気持ちを持ってもらうことがまず、必要なことでしょう。
 原発のための説明会などで、「やらせ」メール問題が 発覚しましたが、一見民主的に行われるこのような説明会や対話集会では、さくらを動員し、一方の意見を言わせるような動員が掛けられるというのは、もうず いぶん昔から行われているのではないでしょうか。今回に限ったことではありません。例えば、ある省庁がある政策に対していわゆるパブリックコメントを募集 する、というような場合、広く関係する法人や機関の従業員に対して「賛成意見」あるいは「反対意見」の一方的な意見を出すよう「要請」するということは、 ある種のやらせの要請ともとれます(パブコメなので軽いとは思いますが・・・)。ただ、今回の原発説明会での当事者たる電力会社が相手の意見を真摯に聞く 場で、当事者の意見を述べさせるさくらを動員する、というのは明確な道義違反でしょうし、原子力保安院が「やらせ」を依頼するというようなことも同様に道 義違反でしょう。こういうのは、大学での「技術者の倫理」の授業で使う格好の「悪い事例」になります。

 一方、大学の卒業生の「質保証」 ということが、ここ数年文科省などでも主張されています。そのせいか、大学の中でも学生の質保証をどうするか、という議論が長く続いています。学生の質、 というと普通は「学生の学力」というのが一番分かりやすい指標でしょうが、最近では、学力など知識面だけではなく、基盤的能力と称して、コミュニケーショ ン力だとか、問題解決力などまで見ようとしているようです。もちろん、専門的能力として、知識力や英語力などがあるのはわかりますが、どこまで学生の質保 証をすべきなのでしょうか?事細かに能力を分類し、すべてそれらが一定レベル以上になるように大学は教育せよ、ということであるなら、こんな息苦しい大学 は、もやは大学らしくはないような気がします。
 もし、学力にしても、教員が設定する、「一定のレベル」に達していなければ、落とすというのは、 ふつうのコトですからいいのですが、それを厳密にやるとなると、どんな試験をするのか、というのがまず問われます。そういう試験で学生のレベルを測ってい いのか、と評価を受けなければならなくなるでしょう。そして、ABCという評価基準の設定も、質保証を全面に出せば、場合によっては全員Bという結果にな る場合も、Aは10%、Bは80%、Cは5%、Dは5%などとなる場合も出てくるでしょう。大学としては、厳しく査定をする方向(Aは少なくCは多く)に なるはずです。
 ところが、一方で、偏差値の高い大学で優秀な学業成績を収め、就職面接などでも優れた能力を示して面接官に高く評価をされた、いわゆる就活エリートも、会社に入ってしまうと意外と能力を伸ばせずドロップアウトするケースが多い、とも謂われています(例えば、豊田義博著「就活エリートの迷走」)。 ということは、大学でその質を保証して卒業させた優秀者の中にも、社会に出て要請に応えきれていないものも多い、ということを意味します。ですから、大学 ではあまり厳密に成績を評価し、ごく一部の優秀者を送り出しBやC評価のものを増やして厳密さをアピールする(そうするとC評価が多い学生は就職には不利 になる)、というのは、あまり意味の有ることではないのかも知れません。
 さらに、外国の大学でも成績評価の実態をみますと、驚くことがあります。ABCD-letter-grade in USA
 右図は、アメリカの大学(私学も含む)でのABCDとF評価の割合の年次推移を示しています。元の文書は、ここに あります。日本では、ABC評価が多いと思いますが、アメリカではABCD評価で、EがなくてFが不合格評価になります。1970年ごろまでは、A評価 は、25%以下でした。この辺りは私自身が学生でしたし、このような割合の評価は私自身現在行っている評価割合と似ています。ところが、このA評価は、物 価のインフレと似て経済状況の悪化の傾向とは反対に、どんどん右肩上がりで上昇を続け、2008年現在ではなんと45%近くまで来ています。不合格者Fの 割合は5%と殆ど変わりません。Cが下がって、Aが上がる、という図式ですが、実際はCからBになる人が増え、BからAになる人がさらに増えた、というこ とでしょう。
 このような成績評価の割合の変遷が、日本の大学ではどうなっているのか、のデータを知りませんし、自分いる大学の学部でどのように 評価しているのか、についてデータが公開されていません。ただ、「質評価」がやかましく言われているので、簡単にA評価がこんなには増えていないだろう、 という予想はたちます。
 学生が就職活動をするときには、企業側は学生の成績特にA(優)の数を評価に取り入れ、C(可)の数はネガティブな評価 に取り入れているように思いますから、Aの割合が多くなるのは就職には有利に働くに違いありません。ただ、この成績評価の変遷のデータから言えるのは、ア メリカではアカデミック社会への期待の喪失の反映だろう、とその文献で は述べられています。ですから、日本でも同様で、特に企業としては大学の卒業生(の学力など)への期待がかなり低下しているのは、だいぶ以前からのはずで すので、大学のほうが「質保証」などとやっきになっていても、企業の方は云うだけは言ってあまり期待はせず、クールに構えているように思えます。
  このようなことから、今後の私の授業の成績評価では、従来のA評価20%前後という割合を変えて、30~35%ぐらいにしようと思っています。その方が、 中の上ランクのもの(普通はB評価)のほうが社会的には活躍しそうな感じがするので、彼らをA評価にしてやったほうが良いようにも思いますので。成績評価 は、1回の期末テストだけではなく、頑張り具合とか数回の小テストの成績上昇の程度などいくつかの指標でしてやるのがいいと思うので、うまくやればA評価 の学生を掘り起こすのはさほど難しくは無いように思います。
 査定を厳しくするだけが学生や会社のためになるのではなく、社会のために頑張れるような学生がちゃんと就職活動に役に立てるようなことまで考慮して、成績を付けるべきなのかも知れません。でもA評価が45%とは、いくらなんでも多すぎるとは思いますが。。。


(2011.08.01)