2つの桜の色

〜微妙な色の差について、小さくても大きいこと〜

 あれこれしている間に連休に突入してしまいました。単身生活から、久しぶりに「家族生活」に戻ると、生活スタイルや思考スタイル(?)の微調整が必要になる気が…。 連休は、この微調整を再考していくのに役に立つかも…。

 4月15日、根尾の淡墨桜(うすずみざくら)を見にいって来ました。岐阜で是非見るべきものの一つ、という評判のものなので、朝5時起きで出かけました。6時過ぎに着きましたが、もう数十台の車が停まっており、観光バスも数台いて、さすが名所!という感じでした。実は、その一週間前にも見に行ったのですが、その時は全然咲いていなくて、つぼみがほころびかけて薄いピンクの点をちりばめたようでした。それから暖かい日が続いたせいか、それが、たった一週間程度で満開を過ぎ一部はちりはじめた、という情報が流れたので、とにもかくにも早朝ドライブとあいなったわけです。

 着いて最初に目を引かれたのは、まだ朝日が当たっていませんでしたが、その淡墨桜の全体としての色合いが、白やピンクというより、薄緑色に染まった感じの花でした。その巨大さは見事なものですが、その色合いは、確かに今まで見たことが無い色合いで、気品を感じさせました。ただ、それは、その淡墨桜だけを見ていたのでは分からないものです。その隣に、普通の、というかよく見るソメイヨシノ(?)の桜の木があって、それも満開で、白から薄いピンクがかっているのですが、その色と見比べて、はじめてその淡墨桜の、薄緑色に見える色合いの、気品を感じとることができます。
 

左写真)朝日が上る前の淡墨桜の全体。(ディスプレイによっては薄緑には見えないこともあります) 右写真)左が淡墨桜、右が「普通の」桜の一部。その間には小さな「淡墨桜二世」が見える。

 ある紹介書には、「散り際になると薄い墨を流したような色になるので、淡墨桜と謂われている」と書いてありましたが、その「薄い墨を流したような」と謂う色は、どんな色なのか、気になっていましたが、それが「この色」なのか、と思いました。背景の森の色が反映しているのか、私には、薄緑色に見えました。このような、ごく薄い色合いの表現というのは難しいですね。ほとんど白に近いのですが、その白自体が、他に比較するものが無いと「白」としか目には認識されません。ジッと見ていると目は順応して、ますます白にしか見えなくなるものです。その意味で、上の絵(右図)には、比較のために右隣に「普通の」白っぽい色をした桜を出していますが、現場で見るほどには再現は困難です。朝日が若干射した時の色合いの差は、薄明かりの中での色合いの差より大きいとは思いますが、その気品は失われなかったようです。日が上ってくると、あでやかな気品、とでもいうような、とても素敵な色合いになりました。人間の手で援助しながらも、これが、千何百年と続いているのですね。深く感動。
 このように、ごく僅かな色の差は、絶対的な数値で出さない限り、表現することは困難ですが、しかしながら、その全体としてもたらす印象の違いは、大きいものがあります。「普通の」桜は、華やいだ感じですが、この淡墨桜は気高く、気品を持って落ち着いて咲いている、という感じです。ほんの微妙な白の色合いの違いが、大きな印象の違いとなって、人々を引き付けるのですね。いつか、測色計でL*a*b値を出してみたいものです。

 さて、話は変わりますが、この間、「微妙な色の差が大きな印象の差を生む」、ことに関して似たような印象をもたらした「社会的出来事」がありました。岐阜大学の学長選挙と、首相選でした。ま、どなたも同じようなものだろうと思っても、与える印象は大きく違っていたようです。岐阜大学では、30年ぶりに学外の候補者を学長に選出しました。総裁選や首相選も、何か大きな動きの中にあることを、改めて感じさせるものですね。(あと10年後、「あの時歴史が動いた」の番組で取り上げられるような事なのかも…)
 しかし、国の政治経済は、短期間で結果を出さないといけないもの、大学の教育研究は、短期的な目だけで見てはいけないものなので、同レベルでは比べられませんが、この世のシステムでは連動せざるを得ません。今は、微妙な色合いの差にしか見えないものでも、あと数年たつと全然違う色になるのかもしれません。淡墨桜の千数百年と違って、人間の世のシステムは数十年ですらもたないものが多いですからね。(溜息)

 また話は変わって、先日、森博嗣氏の近著「森助教授VS理系学生 臨機応答・変問自在」(集英社新書)を読みました(拾い読みですが)。彼の推理小説は好きで、良く読んでいましたが、近ごろのはちょっと奇を衒い過ぎているというか、若干私のような理系の人間としては「飽き」が来ている感じがしていましたが、このような企画は実に面白い。このような形で彼も某国立大学教官として「教育」に発言しはじめたのかな、と思いましたが、このような問答のスタイルは、自分と似た所を多く発見して新鮮です。あの「すべてがFになる」の時のような新鮮さを感じました。ニュアンスの違いを巧みに表現する手法は、絶品です。白を「淡墨」といいくるめるようなものです。(う、表現が森的になってしまった!)

(2001.4.29)